北斗と平取
北斗が平取に居たのは、大正14年の7月14日ごろから。 平取教会の近くのバチラー八重子が管理する家に寄宿。(某忠郎氏のところに寄宿という記述もあり)。二風谷、長知内、荷負、上貫別などにかよっている。 8月末には札幌バチラー宅へ、その足で余市に帰郷し、9月中頃までに再び平取に戻っている。その後、日高のコタンを旅している。 翌昭和2年の2月に、兄の子が死んだため、余市へ戻っている。 この後、2月に余市に戻り、鰊漁を終えて、5月中頃に戻る予定が、病気になり、余市に留まります。 病気は7月には完治したようですが、この期間、北斗は余市の遺跡を巡って郷土研究を行い、また中里篤治と同人誌「コタン」をつくります。 この後、記録がないので、北斗は二風谷に戻っていないのではないかと思っていました。 しかし、このコタンが出た8月から、9月10月にかけて、すっぽりと空白の期間があります。 |
この間に、平取に戻っている可能性はないとは言えません。(すぐ戻るつもりで、着の身着のまま出てきたのですから、すくなくとも挨拶なり、後片づけは必要でしょう)。 また、バチラー八重子と吉田ハナとともに平取教会にあったことは確かなようですが、「バチラー八重子抄」では、その期間が2ヶ月程度だったとしています。(大正15年のことであれば、二ヶ月ではすみませんから、これは昭和2年のことかもしれません)。 大正15年に、北斗が平取に来たとき、平取には八重子は幌別にいて、平取には岡村神父がいました。八重子が平取に移るのは昭和2年です。 となると、やはり、昭和2年にも平取に北斗は来ていると思います。平取で八重子とともに林檎を育てようとして失敗したり、蚕を育てたりしています。 だとしたら、やはり北斗は昭和2年に平取に来て、八重子や吉田ハナとともにあったのかもしれません。 年表の空白ということでいえば、昭和3年にも空白があります。売薬行商で2月末に白老、幌別などを訪れるのですが、そのあとの足跡はとぎれています。その後は余市に戻って鰊漁をしているのですが、幌別までくれば、日高、平取に行ったということは考えられないだろうか、とも思います。 いずれにしても、北斗が平取の義経神社の下の、ミスブライアンとから八重子に譲られ、吉田ハナが管理する家に寄宿していたという記述と、忠郎氏なる人物の、茅葺き屋根の家に寄宿していたというのは、違う時期の話なのではないか、と思います。 |
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