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2008年10月11日 (土)

北斗からの手紙(2)大正15年7月8日

さて、2通目の手紙です。

 宛先は「東京市外阿佐ヶ谷町大字成宗三三二
金田一京助先生」、封筒に書かれた日付は大正15年7月8日、差出人は「北海道室蘭線ホロベツ バチラー方 違星滝次郎」とあります。
 
 北斗は大正15年7月5日夜に東京を発ち、7月7日に北海道の幌別に到着しています。その翌日に書かれた手紙です。
 
 これを見ると、北斗は帰道直後、バチラー八重子のいる幌別(現・登別)の聖公会の教会に寄宿したことがわかります。
ちょっと本文を引用してみます。

 拝啓 東京に居りました一年と六ヶ月 その間先生におそはることの多かったことを忘れがたい事と感謝してゐます。自分は何かなにやら もう 煩から悶への苦しみでしたが 先生にこの自分を さらけだして 自分の求めるものを得やうとしたのでした。今考いてみても 本当に先生の御勉強をどんなにか さまだけた事か 又は おいそがしい所を、自分勝手からどんなにか先生のご迷惑をおかけしたことでせう。 私しは 又とない機会なのでしたからどんなにか 愉快に どんなにか おたよりしたことでありました。
 

 北斗は金田一京助のもとに足しげくかよい、また頻繁に手紙を出していたことがわかります。

 さて あの日はもう五分で、あの汽車に遅る所でありました程、時間も かっきり 上野に参りました。  額田君と二人で飛ぶ様に三等に飛び込みました。

 北斗が、上野からの汽車に乗り遅れそうになったというのは、「自動道話」に掲載された北斗の手紙にもありますね。
 額田君と二人で客車に飛び込んだというのは、どういうことかわかりませんが、額田が北斗と一緒に来たということかもしれませんね。「自動道話」には額田は見送りとして名前が出ているので、北斗の荷物を持って入り、そのままホームで見送ったのでしょうか。

 (略)高見沢様の奥様と、奥様をみつけたら高見沢様もそこに居られました。うれしくて/\涙が、ヲヤヲヤ僕の道楽なんでしから 手紙にまで泣いたことを報告します。

 高見沢夫妻が見送りに来てくれたことに感動して、泣きます。
 北斗は本当に感動屋で、小さな出来事にも感動して涙を流します。北斗自身は、その性分を「道楽」と呼んでいるんですね。
 感動屋で、涙を流すことが「道楽」という横顔が見えてきました。なかなか、興味深いというか……親しみ深く、愛おしく感じます。

 青森もぶらついたり 室蘭も初めてみたり、また幌別にも寄った事は、嬉しいことです。ここは三百戸ばかり そしてウタリは三十戸ばかりあります。

 北斗が青森をぶらついたというのは、初見ですね。
 まあ、そうでしょうね。津軽海峡は青函連絡船に乗ることになるので、それを待つ時間が何時間かできるわけです。
 室蘭は「見た」といっているので、通っただけかもしれません。北斗は胆振方面に来たのは初めてだと思いますので、室蘭の工業地帯を車窓から見て驚いたのかもしれません。
 幌別の戸数やウタリの戸数については、自動道話にも同様の記述があります。

 (略)知里幸枝さんの弟さんの直志保さんにも会ました 。豊年君もよい青年でした。 

 この知里幸枝さんはもちろん「知里幸恵」のこと。直志保は真志保のことです。
 北斗は、幌別に着いた次の日には、知里家を訪ねているんですね。
 興味深いのは「豊年君」です。日記に出てくる「豊年健治」のことで間違いないでしょう。
 北斗は昭和3年2月末に幌別を訪れますが、「親しい友」が死んでいることにショックを受けます。彼は豊年健治の墓に参り、2年前の夏のことを偲んで短歌を詠みます。
 この豊年君とは、どういう人物でいつごろで会ったのかが、はっきりとはわかっていませんでしたが、幌別に着いた直後に会ったのだということが判明しました。

八重様は どう思ってゐるかは不明です。けれどもあの手紙 の心もちと ちっとも変わってゐない様です。とにかく 私しを アイヌの信仰の 持ってゐる家に お世話して下さる との事です


 「あの手紙」とあるように、東京時代に北斗はバチラー八重子とは、何度かの文通をしていました。
 北斗は、実際に八重子に会ってみて、また話してみて、意見があわなかったのかもしれません。
 北斗は、八重子にアイヌの信仰を持っている家庭を紹介してくれるよう(これは「平取で」ということでしょう)に頼みます。

 八重様は まだ僕の心根は わかって下さらない様です。けれども僕を愛して下さることは まるでお母様の様です 。私しはこのお母様の様な八重様を どうかして 嬉しがらせたいと 存ます。あまり 失望も さしたくないと思ってゐます。それはあんまり罪深いと思ひますから。

 まず、ちょっと驚きました。北斗が「僕」という一人称を使っていること。まあ、当たり前ですが、これまでのものが「私」と「俺」しかなかったので。

 もうひとつ、そして八重子のことを「お母様」に譬えていうことです。北斗は早くに母を亡くしていますので、18歳年上の八重子の中に母を見てしまうのはいかにもありそうなことだと思います。日記の中では「ヤエ姉様」となっていましたが、北斗の中ではお母様のように思い、思慕しているということだと思います。

 北斗が漠然と感じている八重子との微妙な距離感。
 八重子から慈愛を感じ、北斗も八重子を母のように敬愛していますが、その二人の間には、思想上の大きな隔たりがあります。
 その信条の違いは、二人のこれまでの生い立ちからくるものだと思います。二人ともアイヌの将来を憂い、なんとかしなければならない考えていますが、そn二人の間にも見えない溝があります。
 それは世代や性別、性格、生い立ち、受けた教育など、大小さまざまな違いからくる考え方の違いがあり、それが彼らの間にあるのだと思います。それが北斗の八重子に対する不安の原因なのでしょう。
 お互いに慈しみあい、尊敬しあう二人ではあるけれども、その溝は、その後の平取での活動を通じて、より大きなものとなり、決して越えることのできない決定的なものとなってゆきます。

 その思想、信条の違いについて、北斗は次のように語ります。

 (略)神は私しを救ほふが殺そうが、私しは神なんか(助けるタノマレル神)は問題でない、との信仰は、只、私の良心を本尊として進みます。 私しの信仰は やがて ヤエ様にも 放される信仰であるかもしれない 若しやそんなことがあったって 神をもタノマナイ私しは人間を どの程度までタノンでよいでせう。若し私しは孤立することがあったって、私しは、驚くまい、と思ってゐます (略)私しは私しを鞭撻して私しの良心に進まなければなりません、と思ってゐます。 

 クリスチャンである八重子と、神をも頼まないと宣言する北斗。
 北斗は決して無神論者というわけではないし、宗教も否定しません。東京では日蓮系の新宗教である国柱会に通ったりしていたのですが、それと影響しているのかしていないのかわかりませんが、北斗のクリスチャンに対する視線は冷徹なところがあります。

 北斗は神の存在は否定はしないけれども、ただ羊のように神に頼り、すがりつくのを良しとせず、自らの信念を「本尊」にして進まなければならないと考えています。
 のちに北斗は吉田はな子に「キリスト教では同族は救えない」と言い放ちますが、すでにこのころから、そういう考えを抱いていることがわかります。

僕のぢ病 も どうも 都合の悪るいものだ これでは 家に立ち寄って そして適当な療治するのが本当だと思ったが、なあーに まかりまちがったて、死程のこともあるまい(中略)然し、大事にはするよ、私しの理想は遠いのですもの
 
 ここでいう「ぢ病」は「持病」ですね。ガッチャキ(痔)ではありません。東京の生活は経済的に安定していたため、活力に満ちているような気もしますが、かといって、完治したわけではないようです。東京時代も北斗は「持病」の発病に悩まされていたのかもしれません。山中峯太郎に会った時、顔が黒いと表現されていますが、もしかしたら、それも病気のせいなのかもしれませんね。

 北斗が、なぜ郷里に余市に帰らず、「いの一番」に幌別に向かったのか不思議に思いましたが、明確な意図があったことが、これでわかります。

また 父も兄も ゐるのだし 私しは父よりも兄よりも 亡き母や それから 私しを愛して下した、石亀石五郎爺や の霊をなぐさめ、姉 の霊をなぐさめるうへに於ても 私しは私しを鞭撻して私しの良心に進まなければなりません、と思ってゐます。

 この石亀さんについては誰かわかりません。
 姉については、北斗の八つ年上の長姉と、北斗の生まれる六年前に生まれ、三歳で死んだ次姉がいますが、ここでいう姉は長姉のことだと思います。この姉は、十五歳の時にはまだ生きているので、亡くなったのはそれ以降でしょう。

 あんまり引用ばかりすると、よくないとは思いますが……この手紙自体が、北斗の思想の塊だと思うので、引用をせざるを得ないですね。
 次はこの当時の北斗の思想そのもの、ともいうべき文です。ちょっと長いですが引用します。(適宜改行を入れています)。


波の音が、のんきそうに また痛快に ひゞいて来ます。
 裏の鉄道の信号が ガチャンと ひゞくと程なくして汽車がドヾ……とやって来ます。浜には浜なしの花が香よく咲いてゐます  
 この家にゐても 波の音が涼そうに 聞いて来ます。この波の音だって太平洋のかなたより送られて来るんだと思と音の一つ一つが 自然の造り出だされた約束なんでせう。
 この浪の音で思ひ出しました 私し共は常にこの浪の音だけ聞いてゐます (略)けれども音は結果であって初めではない。結果だけで まんぞくして来て なれてゐます。この結果になれてゐることが どうも わからないことです。
 私しはアイヌに生れました。これは どこからか約束されて来た結果です。この結果が運命と云ふもだらうと今思ってゐます。結果は私しのあずかり知ることのない勝手な運命であって 生れ乍らにして、約束の責任のない責任を負ふてゐます。
 それは幸不幸の問題ではなく「動いて行く」と云ふ運命を負されてゐます。罪なくして罪を負されてゐる人間が世の中に沢山あることです。と 又、同時に誉なくして誉を負はされてゐる人間もありますと思ます。
 その人の努力なくして負ふてゐる結果だけ、見つめてみると問題はないんです。然し運命を(私しは運命は凡て私し共の感すてゐるのは結果だけのことを名さしてゐるのではないかと思ます)少し深く考いてみて初めて人間とつかんだやうな気がいたします。
 こんな考はこの文だけでは不完全でせう どうせ私しの考は正しくないのかも 知れません。けれども 私しは この考は 自分を卑下するところから思索をめぐらしたに外なりません。私のすべての出発は自己差別なんです。私しはアイヌをより克く見やうと負け惜みから進めて行くことが自分乍ら哀れです。
 小さな者相手の小さな仕事です。と気が附いてゐながら骨のずいまで浸み込んでゐる私しのうらみは これだけの理性をも きくことが出来ないでゐるらしいと 自分を解ボーしてみます
 そこでアイヌを礼賛も正しくないであらう。よしんば礼賛するべきなにものがあったって 負け惜しみて 云ふ感情を入れては正しいものが見えないであらう。卑下もやめました 礼讃もやめました。やっぱり私しは先生達のお小使いが一番私としての尊いことであることを思ます


 さて。これをどう読むべきなのか。まだ読み足りません。しばらく時間をください。

とりあえず、先に進みます。

今日も昨夜も八重様と色々な思想的な問題を語り 私しはとても愉快でした。この二三日中に平取りに参ることになることでせう。 どんな家に入られるかヾ今からそこの家を想象してゐます 何せよ第一番にアイヌ語を習らふことが先ですからこゝ二年くらいは何んにも出来ないのではないかしら。

 北斗は数日中に平取入りし、バチラー八重子が紹介してくれたアイヌ文化を保持している家庭に入るということでしょう。これが、「違星君の平取入村時代の思い出」(筆者不明)に出てくる、「忠郎」氏の家なのかもしれません。(忠郎氏の自宅は茅葺の大きな家だったとあります)。
 北斗はこの家でアイヌ語を習うつもりだったようですが、はたしてどの程度腰をおちつけて習うことができたのかわかりません。
 後述の北斗の昭和3年の手紙や、日記などの記述では、平取は北斗にとっては居心地のいい場所ではなかったようです。

今この聖公会(バチラー宅)に***の娘と(十六七才)その父母(五十前後の人が)居ります 気の毒な人をお世話するのが この八重様の持ってゐる性分なんでせう。その外 茶畑さんと云ふ青年(二十五六)が居ります これは 少し替りやの様で 元 ウシ の土人学校の先生をしたとか て 八重様が申してゐました。なか/\面白い青年で話せます その青年とまるで議論の様に話してゐるので この教会にゐるのも 愉快です。八重様はこの青年客人と僕と外に気の毒な人々のお世話で多忙をきはめてゐます。何か ひま/\に書いてゐる様子です
 金田一先生にお会したら さぞお話が 面白いことだらうと口くせに話してゐます。梅子さん のことも大そうよろこんでゐます。先生からのお手紙を何べんも何べんも読んではくり返してニコ/\してゐます。
デハ これで失礼いたします


 ということで、この手紙は終りです。
 ***と伏字にしたのは病名です。
 茶畑さんの部分は、当時の幌別聖公会の現状、雰囲気がよく出ていると思います。
 梅子さんとは、北斗が東京時代に上京の世話をしたウタリの女性だということです。(次の手紙で明らかになります)。

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