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2008年10月21日 (火)

永劫の象とは

 昭和3年2月29日、違星北斗は幌別で友人の死を知ります。

 二月廿九日 水曜日

 豊年健治君のお墓に参る。堅雪に立てた線香は小雪降る日にもの淋しく匂ふ。帰り道ふり向いて見ると未だ蝋燭の火が二つ明滅して居た。何とはなしに無常の感に打たれる。  
 豊年君は死んで了ったのだ。私達もいつか死ぬんだ。
 一昨年の夏寄せ書した時に君が歌った

    永劫の象に於ける生命の
    迸り出る時の嬉しさ  

 あの歌を思い出す。    

    永劫の象に君は帰りしか
    アシニを撫でて偲ぶ一昨年


 この「永劫の象」とは何か。
 「象」はエレファントの象ではないだろう。かたち、イメージ、イデアの「象」だろう。
 じゃあ、永遠の象とはなんだろう?

 長らく考えてきました。
 永劫とは?

 キリスト教だろうか、それとも、北斗が東京時代に帰依した国柱会。その経典である法華経だろうか。
 それとも……

 哲学か。

 かもしれない。
 北斗は西田幾多郎の『善の研究』を読み込んでいました。
 哲学で「永劫」……「永劫回帰」。

 ニーチェか。
 そうかもしれない。
 というか、よくわからない。

 永劫。永劫の象。

 本当に「象」でいいのだろうか。
 北斗にはよく誤字、同音異字の間違いがある。

 永劫の「ぞう」か?
 
 永劫の「像」? そういう像があったのか?
 「蔵」? 
 もっと、哲学的な概念的な言葉。
 「相」か?

 「永劫の相」……なんかありそう。
 検索してみると、あった。

「永劫の相」スピノザ。

 スピノザか。スピノザなのか?
 北斗はスピノザを読んでいたのか?

 本当かどうかはわからないけれども、本当だったら、これはちょっと驚き。
 スピノザ、読んでみるか。


ウィキペディアを流し読みしただけだけど、スピノザの「神」の考え方は、北斗に近いようだ。

《スピノザにおいては、いっさいの完全性を自らの中に含む神は、自己の完全性の力によってのみ作用因であるものである(自己原因)。いいかえれば、神は超越的な原因ではなく、万物の内在的な原因なのである。神とはすなわち自然である。これを一元論・汎神論と呼ぶ。》 ウィキペディア「スピノザ」より

 次に、北斗と親交が深かった古田謙二の言葉。

 北斗が東京から帰って来た頃のことである。
 道でバッタリ北斗と逢った。
「やあ、どうした」
「今、東京から帰って来たたところで、奈良先生をお訪ねするところです」
「それは丁度よい。私は奈良先生の家に下宿しているので、話をしていき給え…」
 と、いうわけで、同行して帰宅。奈良先生に、東京から帰ってきた挨拶をした後、二階の私の部屋にやつてきて、それから長時間の話しあいをしました。
(中略) 
 その時の話題は、皆忘れてしまったが、唯一、覚えているのは、西田幾太郎の「善の研究」という本の話をしたことです。「善の研究」を当時私は購読。その第三章に宗教のところがあります。私はキリスト教なので、西田幾太郎のように神を理解することができなかったのです。
 即ち、「神は宇宙の上に超越している」と理解したいのですが、「善の研究」には「宇宙の中の働き、そのものの中に神の存在を見る」ようにと説かれているのです
 そのことを、長時間話しあいをしたのですが、北斗は「私も善の研究のように神を理解したいといい、私は「超越してある神」をとり、遂に意見が一致しませんでした。
 ほんとうにあれから、もう四十年もたってしまいました。(古田謙二「『アイヌの歌人』について」)


 やっぱり似てる。
 北斗=西田幾多郎≒スピノザ?

 勉強勉強。

 やっぱりそうだ。
 西田幾多郎の『善の研究』の中では、「スピノーザ」が多く言及されている。
 『善の研究』を読んだ北斗であれば、「スピノーザ」に手を伸ばしたというのは想像に難くない。
 「永劫の象」は「永劫の相」の書き間違いなのか、あるいは、北斗の手にした古い訳では「永劫の象」となっていたのかもしれない。
 北斗が入手したであろう「スピノーザ」の本を調べてみよう。

これかな。

岩波文庫 スピノーザ 『哲学体系』

昭和2年12月15日初版発行

http://page18.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/w24448735

昭和2年末の発行だと、ちょっと時期的に微妙かもしれないけど、とりあえず入札してみた。


(2008/10/26追記)


「永劫の相」よりも「永遠の相」の方が、よく使われているみたいだ。
 永遠の相で検索するとめちゃくちゃ引っ掛かります。

「永遠の相のもとに」というような使われ方をしていることが多く、そういう題名の本もあるようだ。

 「時と永遠の相における生」
 
http://pubweb.cc.u-tokai.ac.jp/mhayashi/Psalm90.htm

 この使われ方は、件の豊年健治君の短歌

「永劫の象に於ける生命の
 迸り出る時の嬉しさ」

 での使われ方に似ている。

 ウィキペディアにも、

 「われわれの精神は、それ自らおよび身体を、永遠の相の下に(sub aeternitatis specie)認識するかぎり、必然的に神の認識を有し、みずからが 神の中にあり(in Deo esse)、神を通して考えられる(per Deum concipi)ことを知る」

 手元に届いたスピノーザ(小尾範治訳)の「哲学体系」(エチカ)では、「理性の性質には、物を永遠の形式の下で知覚することが有る」となっている。永遠の形式。永遠のかたち。永劫の象。

 なんとなくわかるけど、まだうまく説明はできない。

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