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2008年11月

2008年11月28日 (金)

北斗の姿

 「アイヌ史新聞年表『小樽新聞』(大正期II・昭和期I)編」という本を入手。
 これは、國學院短期大学コミュニティカレッジセンターが刊行しているもので、明治時代からの小樽新聞の中で、アイヌに関する記述を集めた目録の3冊目にあたる本です。
「大正期II・昭和期I編」は、大正11年から昭和5年を収録しています。
 ちょうど、北斗が活躍した頃のものになるので、北斗に関する記載はないかと探してみたら、大変な発見がありました。

1929年(昭和4)年1月30日に、余市の歌人・山上草人の短歌が掲載されています。

  夕陽さす小窓の下に病む北斗ほゝえみもせずじつと見つめる
 
  やせきつた腕よ伸びたひげ面よアイヌになつて死んでくか北斗

  この胸にコロポツクルが躍つてる其奴が肺をけとばすのだ畜生!

  忘恩で目さきの欲ばかりアイヌなんか滅びてしまへと言つてはせきこむ
 

 北斗の闘病末期の姿を映した短歌です。
 
 また、北斗の死後の2月17日には、札幌の上元芳男による短歌が掲載されています。

  風寒い余市の海の浪音に連れて行かれた違星北斗よ

  アイヌだけがもつあの意気と弱さとを胸に抱いて違星は死んだ
 

 3月2日にも、山上草人の北斗に関する短歌が掲載されています。

  遺稿集あんでやらうと来て座せば畳にみる染むだ北斗の体臭

  クレグールくさい日記にのぞかれる彼の想ひはみな歪んでる

  「このシヤモめ」と憤つた後の淋しさを記す日記は読むに耐へない

  金田一京助さんの恩恵に咽ぶ日もあり、いぢらしい男よ

 さらに、3月8日にも余市の山上草人による短歌があります。

  「神なんかいないいない」と頑張った去年の彼の日記がイエスの言葉で閉ぢられてゐる

  凡平の曾ての歌を口ずさみ言ひ寄つた去年の彼を忘れぬ

  シヤモの嬶貰つた奴を罵倒したその日の日記に「淋しい」とある

  ウタリーの叫びをあげた彼の歌碑どこへ建てやうどの歌彫らう

 さらに、幾春別の木芽伸一による「違星北斗君の死をいたむ」と題された短歌

  亡んでくアイヌのひとりの彼もまたさびしく病んで死んでいつたか

  泣きくれる北斗の妻子のおもはれてさびしくきいてる今宵の吹雪よ

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2008年11月23日 (日)

覚え書き

●朝日新聞CD-ROMより

・松宮春一郎、1933(昭和8)6月18年没。59歳。
 肩書きは中央大学事務部長となっている。

逆算すれば明治7年ぐらいの生まれか。
北斗より27歳ぐらい年上。
北斗が出会った松宮は、出版人だったけど、ここでは大学の役員のようになっている。本当に北斗の出会った松宮と同一人物だろうか。

・高見沢清、1932(昭和7)年3月9日没。56歳。

東京府市場協会(府営市場を経営する団体)の役員で、北斗の上京を世話し、公私ともに面倒を見た人も、意外と早く亡くなっている。

 北斗が暮らした、大正~昭和初期の自由な東京は、北斗の没後、だんだんと変ってゆく。

 希望社の後藤静香の没落とほぼ同時期に、高見沢や松宮の死があるのは偶然だとしても、なにか運命的なことを感じてしまう。

 一つの時代が終わる時とはそういうものなのだろうか。

●『北海道文学散歩II』によれば、

「山音」48号に早川勝美の「違星北斗の歌」という文章があるらしい。読みたい。(「山音」は道立図書館にありますね)。

2008年11月 4日 (火)

北斗はいつ短歌をはじめたか

 北斗がいつから、短歌を詠み始めたかは、はっきりわかっていません。

 ただ「北斗はバチラー八重子の影響で短歌を詠み始めた」と書いてある本がありますが、それは間違いだと思います。

 草風館の95年版「コタン」で現在確認できる一番古い短歌は自働道話大正十三年十一月号に掲載された次の一首。
 
  外つ国の花に酔ふ人多きこそ
  菊や桜に申しわけなき

 上京前の短歌としてはこの一首のみです。
 では、本格的に短歌を作り始めたのは、東京から北海道に戻って来てバチラー八重子に会って影響を受けたからなのかというと、そうでもないようです。

 大正14年5月1日、伊波普猷は「目覚めつつあるアイヌ種族」で北斗のことを書いていますが、その時すでに北斗は短歌を詠んでいました。

 違星君はあまり上手ではないが和歌でも俳句でも川柳でも持つて来いの方です。

 と、書いています。もちろん、この時点で北斗はバチラー八重子とは会ったことがなく、一度手紙をやりとりしたのみです。

 もちろん、その手紙で八重子から短歌を勧められた可能性があるではないか、という考えもできなくもないですが、これも違うと思います。

 大正15年3月5日の釧路新聞に、北斗のことが紹介されています。北斗がまだ東京にいる頃、歌人として有名になる前で、一人のアイヌ青年として紹介されています。
 北斗の人となりを紹介し、昔は和人への敵愾心に燃えていたが、青年団に入ったことによって、人間愛を知り、今は東京の西川光次郎の元で社会事業に従事している、というような内容です。
 この記事の中に、次のような記述があります。

 是は此の青年の告白で復讐心に燃えて居た時代にノートに書き付けた歌と此の頃の感想を陳べた歌とを相添て道庁の知人の許に寄せて来たが是等は学校の先生、青年指導の任にある人々には何よりの参考資料だ

 つまり、道庁の役人に送られてきたノートには、青年団に入る前の、「復讐心」に燃えていた頃の短歌と、青年団に入り、「人間愛」を知ってからの短歌が書かれているということです。是等とあるので2冊あるのかもしれません。
 この通りだとすると、東京に来る前の余市時代、青年団に入る前からけっこうな短歌を作っていたということになります。

 もちろん、バチラー八重子の影響もあったでしょうし、それ以上に実は、金田一から若き日にともにあった啄木の話をよく聞いたそうですから、その生々しい話の刺激もあって、上京後に本格的に短歌を作り始めたのだと思います。
 
 ところで、その道庁の役人に送った北斗のノートとやらは、どこにいってしまったのでしょうね。
 実はまだ道庁のどこかにあったりして。
 
 

 

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2008年11月 1日 (土)

希望社の没落

図書館で、あることについての調べ物のついでに、戦前の朝日新聞のCD-ROMを見てきました。

 北斗が傾倒した希望社について、こんな記事がありました。
 

 教化団「希望社」に皮肉にも争議 全社員結集して立つ」

「希望」の巧な言葉と、パンフレットとで、全国の地方男女に呼びかけ、向上欲に燃える二十萬の社友を擁し一大王国を形造つてゐる市外西大久保の希望社理事長後藤静香氏に対し、社友結束して後藤氏の不徳行為と、その待遇改善その他を掲げて今ストライキに移らんとの、穏やかならぬ形勢を示してゐる

 社主を非難する三つの理由
 古傷洗ひ立てらる

 この3つの理由とは、

1、希望社の小間使いである17歳の少女と関係を持ち、少女が嫁いだあとも関係を続けていたという不倫行為があり、その行為を恐喝していた暴力団が検挙されたために発覚した。

2 棒給の減額したにもかかわらず、本人は豪奢な生活を送っているとして、会計の公開を迫られた

3 上記2点に対しての謝罪と引退、待遇改善をもとめたが、後藤は「この種の罪は誰人にもあることで……」云々と言い訳し、今まで偶像崇拝をしていた社員の激怒を買ったということです。

 この記事の後半には「人間味があつていゝ」の標題とともに、後藤静香の談話があります。曰く、人間にありがちな過ちであり、辞職しようとも思ったが、翻って考えると、過ちを反省して向上してゆくことに人間味もあるものだ、社員たちが自分を偶像視したのは間違いで、このような人間味があるところがわかれば一層尊敬する気にもなるだろう、
 などと空気の読めない発言をしてしまいます。

 こういうわけで、神のごとく若者たちに慕われた後藤静香の没落のカウントダウンがはじまったわけですね。

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