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2009年1月

2009年1月29日 (木)

3日目 冬の二風谷。

違星北斗の命日。

 予定を変更して、札幌から長距離バスに乗り込み、日高へ。

 

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2009年1月27日 (火)

2日目 墓参と余市調査

 本日、1月26日は、北斗の命日です。
 今年は没後80年でした。

 参加者がゼロでしたので、お墓参りは私だけで行いました。

 25日、午後2時。
 
 だんだんと雪がつよくなってくる中、余市の違星家のお墓へ。
 
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 私の考えが甘かった。北海道をなめていました。

 ……この時期にお墓参り、無理でした。

 お墓は観音像の、ちょうどまっすぐ後ろあたりですが、山の斜面のお墓には、「雪原」を超えていかねばならないのでした。

 とても、そこまではいけないので、観音様にお花を捧げ、はるか彼方のお墓を拝んできました。
 

 墓に来て 友になにをか 語りなむ. 言の葉もなき 秋の夕暮れ

            ――バチラー八重子が北斗の墓で詠んだ歌
 

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2009年1月24日 (土)

北海道墓参/調査1日目

午前中に飛行機で札幌入り。

午後から、道立図書館にて、資料調べ。

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新発見資料

道立図書館にて、資料調べ。

新発見あり。

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2009年1月23日 (金)

いってきます。

というわけで 

冬の北海道に行ってきます。

1/24~27の3泊4日です。

お墓参りのは1/25、26とも参加者が「ゼロ」ということで、自分一人で行ってきます。

まあ、マイペースな「調査」がメインになり、ちょっと気は楽です。

また報告します。

間違い発見

旅に出てアイヌ北斗の歌思ふ こヽがコタンかしみ/゛\と見る

この短歌はずっと並木凡平のものかと思っていましたが、小樽新聞の紙面をみたら、間違っていることに気づきました。
 これは石狩の齋藤輝子の作品でした。

 この歌の後ろに並木凡平の名前があったのですが、凡平はその次の短歌の作者でした。
 修正しておきます。

平取での在所

    
北斗の平取での住所については、情報がいろいろありますが、おおよそ次の二カ所に絞られます。

(1)「忠郎」氏宅。

 大正15年7月。北斗が北海道に戻り、幌別のバチラー八重子に、アイヌの信仰を持っている家庭を紹介して欲しいと頼んだ。(金田一宛・違星北斗書簡)
 平取で、平取教会の岡村神父夫妻に「忠郎」氏を紹介してもらった。(「違星君の平取入村時の思い出」)

 
(2)義経神社下のバチラー八重子が管理する借家。

 もともとブライアント女史の家だったところで、八重子が譲り受け、吉田ハナが管理していた。
  
 で、これは(1)が1926(大正15)年、(2)がおそらく翌年の1927(昭和2)年の住所ではないかとと思います。
 
 北斗は昭和2年に約3ヶ月の空白期間がある。(8月中旬~10月下旬)

 バチラー八重子が平取に異動するのが昭和2年。
 吉田ハナは北斗のことを確かに知っており、「北斗はキリスト教ではアイヌは救えない」と語っているので、確かにいっしょに過ごしたようだが、そうすればやはり昭和2年も北斗は平取に来ている。

有馬氏

「アイヌ史新聞年表『小樽新聞』(大正期II・昭和期I)編」より。

《1926.07.27 「有馬博士一行/アイヌ結核調査」〈8月1日から、日高地方で、北海道帝国大学医学部の有馬博士と助手2名が、「アイヌの結核調査」に当たる予定になっていることが、『小樽新聞』で報じられた。》

 これは、北斗の日記のこの記述と関係しますね。

八月十一日 水曜日

有馬氏帰札、曰く
一、アイヌには指導者の適切なのが出なかった事
二、当面の問題としては経済的発展が第一である事

 これでしょうね。

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