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2009年1月24日 (土)

北海道墓参/調査1日目

午前中に飛行機で札幌入り。

午後から、道立図書館にて、資料調べ。

(1)「汎北海道」創刊号(昭和29年12月1日発行、汎北海道社、東京)に北斗の記事あり

「アイヌ民族の二つの星 文博知里氏と歌人北斗」

 無記名記事。

(2)「山音」48号(昭和44年10月10日発行、山音文学会、虻田郡豊浦町)

 「違星北斗の歌と生涯」 早川勝美。

 北斗の評伝です。
 さすが早川勝美さんです。
 この方は余市でご遺族に詳細に調査していますので、何点か未見の情報がありました。 

・ガッチャキ行商の時、
《箕笠をかぶり、大きな行李を背負い、秋の雷電峠を歩いていた北斗の姿は、忘れようとしても忘れる事の出来ない思い出となった」と語るのは北斗を知る一老人の述懐であり彼の記憶の中にいまなお生きている北斗の姿である。》
 という証言。

・《酒のめばアイヌもシャモも同じだテ
    愛奴のメノコ嗤っています
 この短歌一首は、昭和三十九年八月二十六日、北斗の最後まで良く面倒をみた彼の遠縁にあたる海津トキ氏(余市町大川町番外地在住、八十七歳)所蔵のもので、ワラ半紙に、毛筆で書いたものであった。作歌月日は、昭和三年七月とあるだけで、日時は明瞭ではない。》

 海津氏は「梅津」氏の間違いです。
 この歌自体はコタンに収録されていますが、こういう
半紙が現存していた、ということですね。

・北斗をモデルにした創作として、
《「墓穴」大沼貞雄(昭27・7「瓶風」10号)》
 というのがあるらしい。

・北斗の生年月日について

《「コタン「違星北斗遺稿集」所載の年譜をみると「明治三十四年生れ」とあるだけで月日は明らかにされていない。「コタン」の年譜は北斗自ら記してあったものであるが、遠縁に当る毎津トキ氏は記憶によると「十二月の暮れも明けた頃」であったとしている。現在余市町役場に保存の「除籍原簿」によると「出生、明治三十五年一月一日」とある》

 とあります。
 トキさんの「十二月の暮れも明けた頃」というのはよくわかりませんが、まあ暮れは暮れということなんでしょうね。あと、「「コタン」の年譜が北斗自ら記してあったものである」というのは、なかなか魅力的な記述です。本当なら、昭和5年版のコタンの「年譜」もまた、北斗の「遺稿」であるということです。そういうことなら、もっと尊重する必要ありますね。

(3)小樽新聞

・大正13年9月27日

 勝峰晋風の「余市より」という記事。
 「にひはり」の勝峰晋風が余市の句会に参加し、北斗に出会ったことが書いてあります。

《(前略)出席者に北斗子を見たのはうれしかった、北斗子は旧土人であるが、アイヌ族の一人たるを恥るよりは寧ろ同族をして何人にもヒケを取らないまでに進歩させやうという気概家で、「にひはり」愛好者として如翁子から詳しく人物性格を紹介されて異常な感慨にうたれたのである、この句会にも
  落林檎 石の音して転けり   
                 北斗
の如き、既に月並みを脱した句を出して人々を驚かせたが、時間がなくてしたしく談話し得なかったのを遺憾とする(後略)》

 つまりは、上京前の大正13年の8月の時点で、すでに「アイヌ族の一人たるを恥るよりは寧ろ同族をして何人にもヒケを取らないまでに進歩させやう」という思想を持っていたということですね。
 文中の如翁は奈良直弥先生の俳号。

・昭和4年3月2日

 山上草人の短歌が載った同じ回に、次のような短歌がありました。

《幌武意 加藤未涯

 眼をとぢてコタンの歌を口にせば
 命ほろびたひとの尊とさ     》

 これも北斗のことでしょうね。

・昭和4年3月4日

《文芸消息

 ▲違星北斗遺稿集 本道が生んだ唯一のアイヌ歌人違星北斗は既報の如く病死したので友人余市小学校古田謙一君は近くその遺稿集を出すべく準備中  》

 なるほど、死の1ヶ月後の時点で、遺稿集の発行は紙面でアナウンスされていたんですね。
 古田謙一は謙二の間違い。

・昭和5年9月27日

「違星北斗遺稿『コタン』を読む」稲畑笑治

 『新短歌時代』では、北斗を高く評価していた(というより、北斗に心酔していたという感じさえする)稲畑笑治の、「コタン」の紹介ですね。
 後日、詳しく紹介しますが、新発見としては、以下のような記述があります。

《仆るゝまで彼の胸中は亡びゆく民族解放運動の熟火に燃えていた。同族と共に広くギリヤーク、オロッチョン族の解放運動へ奮起すべき念願を蔵して焦燥と悲憤の瞳を閉ぢたのである。》

 これは、ビックリですね。北斗は、アイヌ以外の北方少数民族とも連携を考えていたのです。
 北斗が生れた余市コタンは、樺太アイヌとの交流が深いコタンでしたし、樺太に出稼ぎにも行っていたので、自然に視野が広くなったのかもしれませんね。

《又、手宮洞窟の「古代文字」に就いても世評の妄夢を一掃すべくアイヌとしての土俗学的見地よりうん蓄を公開すべく研鑽を重ねて居た》

 これも……フゴッペだけでなく、手宮洞窟の古代文字についても書く気があったということですね。
  

・北斗ではない「北斗」さんの作品

 昭和4年1月17日 

「北海俳壇」に「札幌」の「北斗」さんより

《枯れ木の葉ポプラの枝の残りをり》の俳句。

 違星北斗ではないでしょう。おそらく……。当時、北斗は寝たきりでしたから、札幌に行けるわけはありません。
 しかし……妙にしっくりくる感じもありますね。シチュエーションとしては、O・ヘンリの「最後の一葉」みたいですが。古田謙二が北斗について書いた文章に「落葉」というのもありますし。
 
 もう一人。

 昭和4年1月1日

「新川柳」

 「帯広」の「北斗星」さんから。

 《寂しさの心にひとり火をいぢり》

 違星北斗っぽい気もしますので、もしかしたら……と思いましたが、これも違うでしょう。帯広ですし、北斗ならサビシイは「淋しい」と書くでしょうし。

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