« 北斗帖について | トップページ | 日本巫女史 »

2009年5月 1日 (金)

北斗の墓について

北斗の墓について、Tさんからメールをいただき、ご教示いただきました。
以下、その概要です。

 ・清文堂発行の『北海道の研究7』という本に、
  北斗の墓標を見たという人の話がある。

 ・見事な彫刻が施された股木の墓標とあるので、
  北斗はアイヌプリで土葬されたのではなないか。

 ・土葬されたのであれば、現在もそのままである
  可能性は低いので、改葬時に無縁仏になったのかも
  しれない。

ということでした。
Tさん、ありがとうございます。

なるほど、「アイヌプリ」で土葬されたということは、これまで考えたことがなかったのですが、
あれだけ民族の文化に誇りを持っていた北斗ですから、
彼自身、そういう希望を持っていたかもしれないですね。

それに、北斗の父の甚作や、兄梅太郎はアイヌの文化や
儀式によく通じていたようで、北斗の死後にも彼らが行った儀式の記録が残っています。
ですから、実際アイヌプリで北斗を送ることは可能だったのではないかと推測します。

十分ありえますね。
 

「北海道の研究7」を確認したところ、「アイヌの送葬習俗」(原田喜世子)という論文の中に、各地のアイヌの墓標に関する記述があり、「樺太西海岸地域」の墓標の特徴について述べたところに、次のような記述がありました。

「加えて、その他道内では、余市の違星北斗氏の墓標に×印がつけられているが、股木に見事な彫刻が施されていることから、これもこの系統に属してよいと考える。」
 

 文脈をだいたい説明しますと、樺太西海岸地域の真岡・多蘭泊・大泊のアイヌの墓標は、北海道では余市町や紋別市渚滑に類似の墓標の分布が認められ、道内の他の地域には見られないといったことが書いてあります。
 
 なるほど、この文面通り、北斗の墓がこのようなものであったとすると、北斗が余市の違星家の墓に葬られていなかった理由もわかる気がします。
 余市の墓は1943年に亡くなった甚作から入っています。おそらく甚作の死後に梅太郎が「本家」の墓として建てられたものでしょう。墓碑銘にアイヌプリで葬られた北斗が入っていなくてもおかしくはないと思います。

 ただ、その墓が本当に違星北斗の墓なのか、それとも違星家の墓なのか。別ルートでの確認が必要だとも思います。 

 「北海道の研究7」は昭和60(1985)年の発行。

 原田氏は「北斗の墓」を自分の目で見たのか、それとも史料で見ただけなのかはわかりませんが、もし実物を見たのであれば、すくなくとも1980年代ぐらいまで、北斗の墓標は存在していたということになります。
 
 あるいは、地元の郷土史家の方に聞いてみたら何か知っているかもしれない。
 それから……もしかしたら、違星北斗のものかどうかは別として、単なる「余市アイヌの墓標」として、資料が残っている可能性もなきにしもあらずですね。
 こんど行った時に聞いてみよう。

« 北斗帖について | トップページ | 日本巫女史 »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 北斗帖について | トップページ | 日本巫女史 »

フォト

違星北斗bot(kotan_bot)

  • 違星北斗bot(kotan_bot)
2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
無料ブログはココログ