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2010年8月15日 (日)

違星北斗「ウタリ・クスの先覚者中里徳太郎氏を偲びて」

 本当に、久しぶりの更新です。すみません。

 「沖縄教育」1925(大正14)年6月号に掲載された伊波普猷の論文「目覚めつゝあるアイヌ種族」は、東京時代の違星北斗の姿を描いたものとして有名ですが、それと同じ号に、違星北斗による「ウタリ・クスの先覚者中里徳太郎氏を偲びて」という文章が掲載されていましたが、希少な雑誌のため、確認できていませんでした。

 伊波普猷の論文の方は、その後伊波普猷全集に収録されたましたので、容易に目にすることができたのですが、北斗の文章は雑誌掲載後、どこにも転載されませんでしたので、幻の文章になっていました。

 昨年4月、沖縄県の学芸員の方に「沖縄教育」の記事を見せていただくことができましたので、本文が確認できました。

 だいぶ間があいてしまいましたが。

 1925年2月に上京した北斗は、金田一京助との出会いをきっかけにいろんな学会に顔を出すようになり、この3月19日に金田一が開いた「東京アイヌ学会」に出席し、そこで演説することとなります。それを文章化したものが、この論文です。

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ウタリ・クスの先覚者中里徳太郎氏を偲びて

                            アイヌ 違星北斗

 文明に逆比例して亡び行くアイヌ、無智無気力な土人として目されてゐることは、アイヌの為めに誠に残念なことであります。
 アイヌには欠点も多かつたから今日の悲運に陥入つたのは事実ではありましたが、然し乍ら往古のアイヌにはそれ相応の特徴もあつたのであります。今日のアイヌの様な腰抜け民族ではなかつたのでありましたが、適者生存の冷酷な淘汰に遭遇した故に廃残のアイヌは成程どシヤモには嘲笑侮蔑にふさはしいものでありましたらう。
 かくてアイヌは北海道開拓の道具となり、その風俗は内地人の好奇心に満足をあたふる珍となつたのであります。
 謀計の下手な撲直なアイヌは経済の実権はシヤモに把握されて、衣食足らない土人となり、下級な労働者間にも鼻下されて虐げられても泣寝入りするより外はありませんでした。
 余市大川町一七四に中里徳太郎と云ふアイヌの団長がゐます。我々は此の人ありと誇りとする程正義の男、熱血の快男児であります。
 此の人の全生は奮闘に彩らて(ママ)居ります。どうしてこの奮起したか?。何かを語る挿話がある。
 それは……父の遺訓、五十年前の昔話である。
『徳太郎よ。お前は子供でくわしい事はわかるまい 然しよつくきけ。この父は今シヤモのため殺されるところであつた。残念で残念でたまらない。俺は余市川の洪水で杣夫(ヤマゴ)の木材の流出をふせいでやつた そして俺のために何萬石の損を助かつたのである。それでヤマゴ連中が俺にお礼のために、損失をまのがれたお祝として御馳走してくれたそこまではよかつたが。思ひば残念である。俺は帰らうとした お礼を云ふてふと立て下駄をはかうとしたら下駄がない どうしたらうとさがしてゐたら『おやんじナニしてゐる』下駄がない。『ナニ下駄がない生まいきなことを云ふなアイヌは下駄なんかはいてゐるか』と不法な罵倒をあびせられた、その時並居る一同はこのアイヌ生いきだやつてしまい、と打たかれた、俺も酒に酔ふてゐるし何しろ多勢に無勢でかなはない、シヤモの奴等は俺を殺すとて手に兇器を持つて『殺せ殺せアイヌ一人ぐらひなんだ、やつてしまひ』と総立になつてさん/゛\な目に会された。
 やつと逃げて役場の小使様に助けてもらつたからよかつたが、小使様でも居なかつたら。二度とお前の顔も見ることも出来なかつたであらう。シヤモと云ふ奴は全く悪い者が多い。徳太郎お前は大きく成つたらこの恨みを晴らしてくれ。この敵きをとつてくれ。然し乍らこの恨みを晴らせと云ふ事はシヤモに腕づくで敵きとれと云ふのではない。是れからの世の中はなんと言ふても学問がなくては偉い者に成られない。お前は一生けんめい勉強してそして偉い者になつてこんなにいぢめたシヤモ共を学問の上で征服してやつてくれ。それが何よりのかたきうちであるのだ。わすれるなよ。」
 と申されて血みどろな父は抱いてゐた徳太郎の顔に熱い涙がはら/\とこぼされた。
 徳太郎氏五才の時であつた。子供心にも残念だ、よし!!俺が大く(ママ)なつてかたきをとらねばならぬ。何んのことはない、父のひざで父と一所に一夜泣き明かした。氏の父はそれが元で胸に異常を起してまもなく非業な最後をとげた。その後は悲惨な生活を続けなければならなかつた、色々事情があつて親類からもロク/\お世話にもなれず、七ツか八ツの時からもう外の子供と違つて生活の心配をせなければならなかつた。漁師のなげた鱈の頭を拾つて来てめしの代りに食べて冬ごもりしたのは一年や二年ではなかつた。九ツの時にようやく学校に行くことが出来た 然し学校もホンノ一二ヶ月間であつて、春は鰊の漁場にはたらいて学校は休み、秋は鮭でまた休校の止むなかつたのであります。然し父の遺訓『学問を以つてかたきをとれ偉い者になれよ』が寸時も忘れなかつた。その精神は実に尊いものであつた。学校も優等で卒業することが出来た殊に玉算の親玉と賞されたと云ふのも只だ真剣な勉強にあつたのであります。
 中里氏は実に余市アイヌの先覚者であります。
 アイヌの最大欠点は団結心が乏しいことであります。そして同族は出来ることなら競争をさける。同族間から少し偉い者が出ると寄つて集つて引きたほして偉い者を無くしてしまふ。猜疑心が強いので、一寸とも発展は出来ない。中里徳太郎氏は此の欠点を第一に気附いたのであつて、ねたまれたのが氏の半生であります。
 十六歳の時既に余市アイヌの(ママ)代表してさかんに活動したのであつたが、惜しいかな氏を心よしとする者が少なかつた。外にはシャモと競争し内には叛逆されて折角アイヌが生んだ偉人も名をなすことが出来なかった。
献身的にアイヌの為めにはたらいても中里は理解されずかへつて恨みをかふことさい(ママ)あつたのである。それでも氏は嗚呼気の毒な人達だ、自分が『そんなら勝手にせい』と手を引いてはとてもアイヌの発展にならぬ、仕方がない犠牲になる、そして経済的に大いに発展せなくてはならない。とアイヌ増資組合を設立して協同財産の芽ぐみを助けたのであります。氏の熱誠は実に無駄ではなかつた。今では余市アイヌばかりではなくすべてのアイヌからも、またシヤモからも認められ余市アイヌの神様として敬慕される様になりました。
 アイヌの偉人中里徳太郎は必ず残し(ママ)べきであると思ひます。先年アイヌ研究の大家金田一京助氏余市にゆき中里氏に会してその熱血悲壮な奮闘談をきき金田一氏はさめ/゛\と泣いたと云ふ逸話もあります。
 我々は此の中里氏あるがために生活にも心強くまた余りに卑屈にならなく学問もシヤモと同様に受け得る様に幾分か幸せであつた。(学校制度は他のアイヌ部落は特殊であつたが氏のお蔭で普通教育を受ける様になつた)。
 今より五十年前は『ナアーニアイヌ一人ぐらいやつてしまい』の気風があつたのであります。私が小学校時代の十二三年でさい。(ママ)アイヌなんか問題にならなかつた。私しの学校時代は泣かない日が無いと云ふ様な惨めな逆境にあつたのであります。
 それは内地人には信られないかも知らないが、決して私しはアイヌを売名するでもなくまた高潮するのでもないのである。
 私はお母様に励まされてゐた間はシヤモに虐げられてもさほど苦痛を感せずに居りましたが、母は僕が二年生の時にあの世の人となつたのでした。私に取つては大打撃でした。私をかばひてくれる母、なぐさめてくれる只一の味方がなくなつたのでした。今思ふとぞつとする様な告白をせねばなりません。
 母は私に正直なれと常に訓へてくれました。正直でさい(ママ)あれば神様もきつと幸せになして下さることとかたく信じてゐました。子供心に私は正直である決して悪人ではない。母の言ふ事さい(ママ)実行すればきつと運よくなるだろう。僕は偉い者になるんだ。と大へん想像に喜んでゐました。然るにそれは皆なうらぎられました。誰よりも正直な父は常に割合悪い仕事にばかりあたります。家は大そう貧棒(ママ)になり母には死にわかれ学校は余り嫌いな方ではなかつたから多くの和人(シヤモ)の中に混りて勉強しましたが鉛筆一本も石筆一本も皆外の学生の様に楽々と求められない家庭なのでした。読本などはたいてい古いので間に合せました。或る時などはお米否麦さい(ママ)も腹一つぱい喰べられない様な事があつたのです。私はもう六ヶ年は虐(ママ)境の中に終つたがもう尋常高等科の方にはとても入校する勇気は無かつたのです。そして父と共に地引あみと鰊を米びつとする漁夫になつたのであります。
 だんだん魚は少なくなつて昔の様な大漁は出来なくなつたばかりではなく漁業法はやかましくなりまして、鱒は禁漁となり鮎は種子川の名に禁漁となり鰛も鯖もすべて許可なければ漁具は取り上げられ外に罪人として罰金を納めなければならない。父はまた猟師なのでありましたが、それも官札なければ猟に行けない。そこで私は考い(ママ)ました。税金々々で何んでも税金でなければ夜も明けない様なものだ。我我は夜となく昼となく面白くもない暮らしをしてゐるのだがどうも日本て云ふ国家は無理だ。我々の生活の安定をうばいをいてそしてアイヌアイヌと馬鹿にする。正直者でも神様はみて下さらない『日本は偉い大和魂い(ママ)の国民』と信し(ママ)てゐたのは虚偽である 人類愛の欠けた野蛮なのはシヤモの正体ではなからうか。私は日本人の総てが北海道に居るシヤモと同じものゝ様に思ひました。土着心のない北海道移住民が日本人の代表と思つたのであります。
 新聞や雑誌はアイヌの事を知りもせで知つたふり記事を書きならべイヤが上にもアイヌを精神的に収縮さしてしまつた。これではいかぬ大いに覚醒してこの恥辱を雪がねばならぬ。にくむ可きシヤモ今に見てゐれ!と日夜考い(ママ)に更けてゐた。
 が。だん/\考い(ママ)てみると考い(ママ)る程自分の浅間敷かつたことがわかる様に成つた。シヤモの仲でも同情の人もある亦た必ずしも我等の敵ではなかつた。我等の自覚が足りなかつたのである。アイヌは神代から天孫人種に優待されてをつた。我等の祖先は思想を異にするために懐柔索(ママ)に屈せず鎖国的に流れて日本建国の大理想を自らさけた。それが千載に恨みを残す由因となつたのである。
 虐げられたと思ふまへに先つ反省しなければならなかつたことを忘れて、むしろ当然と云ふべき差別を恨みとした。北海道と云ふ少(ママ)さな所で内地人のすべてを推察するはアイヌを知らないで書きたてる愚かなる新聞と異ならない。
 殊に明治先帝陛下は亡び行くアイヌを御哀み給ひて旧土人保護法を発せられたる御事や数多の同情者が明治以前から救済法を考い(ママ)てゐたり、又た実際に運動したり、疫病の流行時等は救済費を出したりしてゐたことが私は知らなかった、私ことの不遇から有難いことは目に附かず只だ侮辱されたことばかり血まなくになつて怒つたとは誠に申しわけもないことであつた。
 こゝに於て心から日本好きとなつた。徒らに不平を云ふより努力に依つて水平線に達しなければならぬ。
 今日の腰抜け民族でゐては我が祖先のアイヌに申訳がない。早く覚醒して立派な民族であることを立証せねばならぬ。旧弊を固守してゐては鳴き声を高くするばかりであることを悟らないアイヌはたゞの一人もないことはひそかに悦んでゐる次第である。アイヌが日本化することを無上の光栄とするは誠に美しい人情であつて真にそうある可きでありますがそれがためにアイヌ自身を卑下するに至つては遺憾千万である。アイヌを卑下しては永遠にアイヌ民族の名を挙げることは出来ない。アイヌ自身が自重して進むことである。所謂る強くなることであると思ふ。
  はしたなきアイヌなれどもたくひなき
     くにに生まれし幸思ふかな
 光輝ある皇国の一員と侍る光栄を欣喜すると共に皇恩無窮をかしこみて大和魂を発揮す苔むしまでも美風を伝へんために何か尽すところありたいを願ふ者であります。
 終りにあたつて一言したい。かやうなことを申しては甚だ僭越乍ら真に国を思ふ赤誠から言はざるを得ない。今やアイヌは模倣の域を越えて個性の発揮に向かいつゝあつて何んのひがみを(ママ)何んの恨みもないのであるが然乍日本は精神的にも物質的にも楽観すべきではないこと、すなはち『日本に自惚れてはいけない』事を切に痛感するのである。お互に日本国家の為め建国以来の大理想を尊重して神の国を建設し博愛仁慈の平和の神境に一歩もあやまたず進みたいものであります。

(沖縄教育第146号 大正14年6月号)

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