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2012年5月 5日 (土)

違星北斗の生涯(その3 労働・「反逆思想」 編)

《違星北斗の生涯 まとめ》 

(その3 労働・「反逆思想」 編) 

 ※これは管理人がやっているツイッター「違星北斗bot」(@kotan_bot)をまとめたものです。

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 アイヌの歌人・違星北斗Botを作ってみました。違星北斗27年の生涯を、ツイートで追体験してみたいと思います。

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【小学校卒業後】

 「尋常高等科の方にはとても入校する勇気は無かったのです。
 そして父と共に地引あみと鰊を米びつとする漁夫になつたのであります」

(違星北斗「ウタリ・クスの先覚者中里徳太郎氏を偲びて」)

 
 当時満12歳、身長135㎝、体重29kgの少年が、大人に混じって北海で漁師をしていました。

 「私は地引網と鰊とを米櫃としていた父の手伝いをして、母がいつも教訓していた、正直なアイヌとして一生をおくる決心をしました。
 けれどもいい漁場は大方和人のものになっていたので、生活の安定はとても得られませんでした」

 (伊波普猷「目覚めつつあるアイヌ種族」)

 
 「鰊場でのカミサマを始め石狩のヤンシュ等で働いた」
 (違星北斗「淋しい元気」)
 

 カミサマ、ヤンシュ(ヤン衆)とも一時雇いの漁夫のこと。
 鰊の時期になると本州から大挙押し寄せたそうです。
 (参考サイト『余市町公式サイト』「神様とヤンシュ」)

 北斗は父の稼業である漁を手伝いました。
 後の手紙の宛先を見ると「余市町ウタグス 違星漁場」という宛名があります。
 ウタグスはシリパ岬の裏にあり、地元の人に聞くと漁場としてはあまりよくないそうです。
 そこにバラックを建てていました。
 (違星北斗から金田一京助への葉書S2/4/26付 )

【出稼ぎ】

 北斗は漁業のかたわら、生活のために出稼ぎをします。
 大正6年15歳、夕張線登川付近に木材人夫として出稼ぎ。


【造林出稼】

 北斗は15歳ごろ、「夕張線登川で木材人夫」とありますが、年表のこの部分を読むと、アイヌ初の国会議員となった萱野茂さんのエッセイを思い出します。
 萱野さんは北斗よりも20年以上後の人ですが、北斗同様、小学校卒業直後の14歳の時に造林人夫として、出稼をしていたそうです。

 以下は萱野茂さんの記述
「それは昭和14年4月、かぞえ14歳の時で、二風谷小学校を卒業してわずか2週間目のことであった(略)苗木の根踏み、植え付け下刈り。朝の5時半から夕方5時半までの大変な重労働で、働きに行っていた多くのアイヌは、栄養失調による肺結核で次々と倒れていった。
 それが恐ろしくなって、造林人夫はひと夏でやめてしまった」

(萱野茂『二風谷に生きて』)

 この、萱野さんの体験は1939年、北斗は1917年ですから、22年の隔たりがあるのですが、まったく引き写しのように同じような境遇です。
 小学校を出たばかりのアイヌ少年が、最初の出稼として山で過酷な労働をする。
 余市と日高という違う地方に生き、20年も生年が違うアイヌの少年二人が、全く同じような出稼の体験しているわけです。
 萱野少年は、わずかな金を得るために和人に酷使され、肺結核にかかって倒れていく同族を見ました。
 北斗は自分が出稼で病気にかかってしまいます。


【大正7年】

 16歳、網走線大誉地(現・足寄町大誉地)に出稼ぎ。
 同じ年、父の甚作は樺太の「ナヨシ村の熊征伐」に参加。
 同年の夏、金田一京助は近文の金成マツのところで15歳の知里幸恵と出会います。
 そしてこの年、北斗は重病を患います。
 足寄の大誉地は余市から遠く離れた道東の山の中ですから、まず林業の出稼ということになるでしょう。
 そこで北斗は無理がたたってか、病気になってしまいます。
 この時の病名は不明。
 北斗は「重病」と言っています。

 ちなみに足寄の大誉地(オヨチ)は、アイヌ語で「それ(蛇)の多い所」の意味という説が有力で、北斗の故郷の余市(イヨチ)と同じ意味です。
 奇縁を感じます。
 でも、最初この地名を見たときは字面から、何か御料牧場かなにかがある土地かと思ってしまいましたが。

【闘病の人生】

 北斗の人生は病気との闘いでした。
 記録に残っているだけでも、7歳、16歳、18歳、21歳、25歳、26歳と、数年ごとに大病をしています。
 死因になったのは「結核」だといわれていますが、25歳の時は「腐敗性気管支炎」と手紙に記述があります思われます。
 その他の時期の病名はわかりません。


【反逆思想】

 この16歳の時の病気をきっかけに、北斗は「思想方面に興味を持つ様に」なり、病床で本を読み、和人に対しての「反逆心」を燃やすようになります。

 「重病して少しづつ思想方面に趣味をもって来た」。

 

 病床で北斗は北海道における、自分たちアイヌ民族のおかれている状況について考えをめぐらしました。

 「大和魂を誇る日本人のくせに常にアイヌを侮辱する事の多いことに不満でした」


 ある時、北斗は北海タイムス(新聞)を読み、怒りに打ち震えます。

「いささかの酒のことよりアイヌ等が喧嘩してあり萩の夜辻に」
「わずか得し金もて酒を買ってのむ刹那々々に活きるアイヌ等」

 和人が、アイヌのことを詠んだ2首です。
 これを読んだことで、和人に対する「反逆思想」を燃やすようになります。

 北斗は
 「この歌をみて一層反逆思想に油をかけて燃えたものです。私の目にはシャモと云うものは惨忍な野蛮人である、とのみ思う様になりました」
 
と言います。

 「どうもシャモに侮辱されるのが憤慨に堪へなかった」
 苦しい学校時代を終えて社会に出ても和人による差別は続きました。
 (違星北斗「淋しい元気」)

 「どうも日本て云う国家は無理だ。
 我々の生活の安定をうばいおいて、そしてアイヌアイヌと馬鹿にする。
 正直者でも神様はみて下さらない
 『日本は偉い大和魂の国民』と信じていたのは虚偽である。
 人類愛の欠けた野蛮なのはシヤモの正体ではなからうか」

(違星北斗「ウタリ・クスの先覚者中里徳太郎氏を偲びて」) 

 17歳の違星北斗は、貧困と差別に苦しめられ、過酷な労働に追われる日々の生活の中で、和人への抵抗感を強めていきます。
 病床に倒れた北斗は、アイヌについて書かれている記事を読み、和人が支配する当時の社会への反逆心を燃やしていきました。

 「新聞や雑誌はアイヌの事を知りもせで、知ったふり記事を書き並べ、いやが上にもアイヌを精神的に収縮さしてしまった。これではいかぬ。大いに覚醒してこの恥辱を雪がねばならぬ。にくむべきシヤモ、今に見ておれ!と日夜考えに更けっていた」
(違星北斗「ウタリ・クスの先覚者中里徳太郎氏を偲びて」)

 ……北斗は、病床で和人社会を呪います。

 北斗の偉いところは、和人社会への怒りが

「大いに覚醒してこの恥辱を雪がねばならぬ」

 和人に対して今に見ておれ!とそれを上昇思考へと変換するところです。
 自分が偉くなって、アイヌを差別する社会を変えてやろうという考えが、このころからあったわけです。

 
【世を呪う】

「自分が通るのをみると路傍の子供などまで「アイヌ、アイヌ」というものだから生意気ざかりの年頃には「アイヌがどうした」と立ち戻って、殴りとばしたこともあった。
 子供が意外な顔をして、打たれてびっくりして泣いた様子が、後まで目について、打たれたよりも苦痛だった。

 

 腹立たしく町を通ると、自分を目送りして「アイヌ、アイヌ」と囁いたのが、こっそり囁くのも早鐘のように耳をうち、口を閉じて言わないものでも眼がそういって見送ったように思え、行きも帰りも昨日も今日も、毎日毎日のことだから目も心も暗くなって、陰鬱な青年になり、ついには病身になり血を吐き、世を呪い人を呪い、手当たり次第に物を叩き割って暴れ死にたくなった。

 

 
 村の人の話では当時の違星青年は、よく尺八を吹いて月夜の浜を行きつ戻りつ、夜もすがらそうしていたこともあり、真っ暗な嵐の晩に磯の岩の上にすわって一晩尺八を吹いていたこともあった。」

(金田一京助「あいぬの話」)

「私は地引網と鰊とを米櫃としていた父の手伝いをして、母がいつも教訓していた、正直なアイヌとして一生をおくる決心をしました。
 けれどもいい漁場は大方和人のものになっていたので、生活の安定はとても得られませんでした。

 

 一方同族の状態を顧みますと、汗水を流してやっと開拓して得たと思う頃に、折角の野山は、もう和人に払下げられて、路頭に迷っているアイヌも大勢いました。
 そこで私は「北海道はもともとアイヌの故郷であるのに、この状態は何だ」といって、和人を怨み、遂に日本の国家を呪うようになりました。

 

 私はこれをどうにかしなければならないと思って、とにかくもっと学問をして偉くならなければならないと決心しました。
 それから私は漁猟のひまひまに、雑誌や書籍を読んで、自修することにしました。
 

 

 ある時、私は医学博士永井潜氏の論文の中に……一民族と他民族とが接触する時、恐ろしいのは鎗や刀や弾丸ではない、実に恐るべきは微生物の贈物である。
 1803年に英人が初めてタスマニヤ島に殖民した当時、先住民は六千人ばかりいたが、25年経過すると、2、300人となり44年目に40人となり、73年即ち1876年には最後の純タスマニヤ人が地球から一人残らず死滅してしまった。

 

 これ全く結核菌とアルコールの為である。和人と接触したアイヌが亡びつつあるのも、これが為である、云々、ということがあるのを見て、今更のように驚きました。
 そして私は残っている一万五千のウタリ・クスの為に、一生を捧げる決心をしました。

 

 爾来私は言語風俗習慣の点に於いて、和人と寸分も違わないようになるのが気がきいていると考えて、事毎に模倣をしました。
 内地から来る観光団が余市にやって来て、その日本化しているのを見て、何だ、ちっとも違わないじゃゃないか、と失望して帰るのを見て、幾度腹を立てたか知れません。

 

 こういう調子で、私はアイヌといわれるのを嫌い、アイヌ語を操るのを恥じたので、かんじんな母語を大方忘れてしまいました」 
 (伊波普猷「目覚めつつあるアイヌ種族」 )

【憤慨居士】

 北斗に俳句を教えたとされる古田謙二(冬草)の言葉。

《彼はよく私の所に遊びに来た。
 小学校も尋常科きりの学歴だったが、読書が好きで、いろいろな知識をもっており、殊にみずからがアイヌであるとの自覚は、彼を一種の憤慨居士にしていた。

 

 彼はよく「和人の優越感」という言葉を口の端にのせては憤慨した。

 

「何だ、和人の奴等は! 四海同胞なんか言い乍ら、我々同族をいつも蔑視しているじゃないか。
 小学校に於ける差別待遇はどうだ。
 漁場に於ける我々への酷使ぶりはどうだ。

 

 第一、我々を見る眸の中にあるさげすんだ表情は何としても許されない。
 憎むべきは和人の優越感である」
 
こういっては、憤懣の情を激しい言葉で叩きつけた。

 

 

 「そんなにおこらなくてもよいじゃないか」というと、「先生は和人だから気がつかないのだ。アイヌである自分にはシャクに障って障って」と若い頬を紅く染めては憤慨を続けるのだった。》
(古田謙二「落葉」 )


【余市コタン】

 余市のアイヌコタンは、昔は北海道でも有数の大きなコタンだったといいます。
 江戸時代の古地図には、現在の余市町のかなり広い範囲に集落が点在しています。
 しかし、大正時代にはわずかに余市川と登川の合流するところに十数世帯。
 のこりは、すべて和人が住むようになっていました。

 貧富の差はありましたが、コタンの人々は孤立していたわけではありません。
 余市には鰊漁という一つの巨大産業がありました。
 余市では、アイヌも和人も、その地域産業で生計を立てていましたから、漁業従事者として、和人の社会に適応せざるを得ません。


 北斗も地域のコミュニティの一員として、「青年団」に入っていました。
 余市の街のはずれにある、大家族のようなコタンで身を寄せ合って暮らしていて、漁場では和人と協力し、また競いあう日々。

【まま子】

 北斗は、当時の「雰囲気」について、こう語っています。

「私は小学生時代同級の誰彼に、さかんに蔑視されて毎日肩身せまい学生生活をしたと云う理由は、簡単明瞭『アイヌなるが故に』であった。
 現在でもアイヌは社会的まま子であって不自然な雰囲気に包まれてゐるのは遺憾である」

(違星北斗「アイヌの姿」)

 

 「まま子」とは義母、「まま母(継母)」に対しての「まま子」です。
 「社会的まま子」。なんという真に迫る言葉でしょうか。
 「まま子」は、好きで「まま子」になったわけではなく、父や母の、家庭環境の問題であるわけで、その「まま子」が家庭に感じるような不自然さを、北斗は社会に感じていました。

 まま子にとっては、母に甘えたくてもすでに母おらず、代わりに新しい「まま母」がいる。
 「まま母」と「まま子」の不自然さが漂う家庭の居づらさ。
 それが当時の社会とアイヌとの関係だったと。
 もちろん、北斗が感じた不自然さは、幼くして母を亡くした北斗だからこその的確な表現だと思います。
 

 この「アイヌの姿」は、違星北斗を知る上では必ず読むべき文だと思います。

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>>その4に続く

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