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2012年5月 5日 (土)

違星北斗の生涯(その5 修養運動・俳句 編)

《違星北斗の生涯》 

(その5 修養・句会 編) 

 ※これは管理人がやっているツイッター「違星北斗bot」(@kotan_bot)をまとめたものです。

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 アイヌの歌人・違星北斗Botを作ってみました。違星北斗27年の生涯を、ツイートで追体験してみたいと思います。

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【大正13年】

 満22歳。
 謎の多い大正12年までと比べて、大正13年からの北斗の動きは非常に明瞭になります。
 思想の転機を迎えて、その思考はポジティブになり、視野が広がっています。
 年頭から、それこそ人が変わったように外に向かっての活動を始めて行きます。
 その活動が記録に残っています。

 大正13年の主な出来事ですが、年の初めから、北斗は別人のようにぶっ飛ばしていきます。
 1月の中旬には青年合同宿泊講習会への参加、1月26日に余市アイヌ青年の修養会である「茶話笑楽会」の設立し、その機関誌『茶話誌』の編集に着手、さらに俳句雑誌にも作品が掲載されています。

 この年には、他にも沿海州への出稼ぎや、祖父の死や、恩師の一人である西川光二郎との出会いなどがあります。
 またプライベートでは娘の誕生も此頃のことと推測されます。
 翌年の上京に向けて、北斗の人生が劇的に変わりつつある大正13年の出来事を、一つずつ見ていきましょう。

【青年合同宿泊講習会】

《大正十三年一月、余市小学校の裁縫室を会場として、「青年合同宿泊講習会」というのが、北海道庁主催で開催された。
 道庁の役人、中等学校の先生等を講師として、いわゆる精神修養を行なうためである。
 三日目の最後の日、その夜は講習の感想発表会である。

 

 約四十名位の青年が一堂に集まって感想発表となり、中々熱心であった。
 その終わり頃に壇にたったのが、違星瀧次郎という青年であった。


 「皆さん、私はアイヌの青年であります…」


 冒頭のこの一言が皆の注目をひいた。
 それから違星は大体次の様な話を、満場の注目を浴びつつしたのである。

 

 「世の中でアイヌ人は蔑視されております。
 学校ではアイヌの児童をのけ者にします。
 世間ではアイヌ人を酷使します。
 すべてアイヌ人は人間並みに扱われておりません。
 憲法の下に日本人は平等であるべきに、これはどうした事でしょうか。

 (略)たしかにアイヌ自身に蔑視される原因はあると思います。
 然し、和人の方々にもその原因はないでしょうか。
 学校にあがると、我々をアイヌ、アイヌと馬鹿にする。
 社会に出ると同じ仕事をしながら別扱いをして低賃金しかくれない。

 

 こうした境遇におき乍ら、アイヌ人が素直になれの、おとなしくしていろのと、いつでも無理であります。
 一体アイヌ人は劣等民族ではありません。
 アーリヤン民族の一派だといわれております」

 ※この「アイヌ=白人説」は現在では否定されています。 

 

 「アイヌが現在のような状態におかれているのは、実は人為的にそのようにしているのであって、結局は愛の欠乏がひきおこした悲劇であります」

 かくて和人の愛の心を呼び起こす絶叫をして約二十分程で壇を下りたが、満場粛然として声がなく壇を下りた時は、拍手がしばし止まらなかった。

 

 私はしっかりした青年がいるものだとの印象をうけ、この時から違星北斗に注目したのである」》

 (古田謙二「湯本喜作『アイヌの歌人』について」)

 この「私」が、余市小学校の古田謙二訓導(先生)。
 「先生」ということで、一部では北斗の恩師という書かれ方をしていますが、あくまで青年時代に出会った、同世代の友人です。

 大正13年の年頭には、北斗はこのような修養会に参加しています。
 ただ、この古田の記述は、同時代のものではなく、古田が老齢になってからの追想なので、注意が必要です。
 演説の内容も古田の思想や、後の北斗の思想が入り込んでいる可能性がありますし、事実関係も要注意。

 この修養会が行われたのが大正13年の1月のことですから、大正12年には北斗はすでに「思想上の転機」を迎えていたことになります。

【茶話笑楽会】

 北斗は同じ1月の26日に、余市アイヌの修養団体である「茶話笑楽会」(さわしょうがくかい)を結成します。
 この会は、小学校からの恩師・奈良直也先生の指導のもとに結成されたもので、顧問として参加していた古田によると「笑い楽しみながら話をする会」という意味。
 「コタン」には「笑学会」と書かれているのですが、「笑楽会」が正しく、また同書の「昭和2年設立」も正しくありません。

 この会のモットーは「よき日本人に」。
 当時の北斗らの思想がうかがえますが、これは指導者である奈良直也の影響も強いのでしょう。
 奈良は北海道で教育に就事すること40年、という老教師で、そのうち十数年はアイヌ教育に尽力していたようです。

 茶話笑楽会は中里篤治の家の2階で行われていました。
 篤治の父・中里徳太郎は、余市アイヌの指導者。
 傑物として知られる人物で、この中里と違星が当時の余市コタンの指導的立場にあったようで、古田によれば家も普通の和人の労働者位の大きさで、決してみすぼらしい家ではなかったようです。

 茶話笑楽会の模様を古田が語っています。

 「笑楽会は、中里篤太郎の家の二階で行なわれた。
 四間位もあり、フスマを皆はずして広々とし、輪になって語り合った。真中にテーブルをおき、それで一人ずつ出てしゃべることもあった」


 そして奈良らの指導のもと「茶話誌」という機関誌を作ります。

【茶話誌】

 北斗らの結成した茶話笑楽会の機関誌「茶話誌」については、おそらく現物は残っていないと思われます。
 大正13年初頭から北斗が上京する大正14年の初頭で、おそらく3誌は出ています。
 一年半後、東京から戻ってきた時には中断しており、そこで中里と二人で作ったのが同人誌「コタン」でした。

 この「茶話誌」は現物は残っていませんが、一部が遺稿集『コタン』に入っています。
 また、他にも童話などが他の書物に転載されて残っています。
 創刊号には北斗の手による「アイヌとして」という論文が載っているらしく、それを伊波普猷が激奨していますが、残念ながら散逸しています。

 このように、北斗は恩師・奈良直也の影響を受け、修養運動にのめりこんでいきます。
 また、奈良に薦められて修養雑誌『自働道話』の購読を初め、熱心な読者になっていきます。その結果、奈良から北海道に来た西川光次郎を紹介され、西川の誘いを受け、大正14年の上京・就職に繋がっていくのです。

 「茶話誌」については、奈良が私淑し、のちに北斗が世話になる西川光次郎の雑誌「自働道話」に紹介記事も載っています。

《「茶話誌」
 北海道の余市町に、アイヌ青年の一団あり、この団体では、
 第一に、貯蓄心の乏しきは我等同族間の旧弊であるとて、勤倹を奨励し、
 第二に、衛生思想の乏しきは、我等同族間の弱点であるとて、衛生思想を宣伝し、
 第三に、第一と第二の理由から酒の排斥に努力して居る。
 茶話誌は此の団体の謄写版づり機関雑誌である。
 この団体の顧問奈良翁と、茶話誌の編輯人違星北斗氏とは、私の知人である。
 私はコウした団体の起ったことを、アイヌ族の為めに、又日本の為めに、よろこばしいことであると思ふ。
 諸君の健闘を祈る。
 因に誌す、奈良直弥翁は、北海道にありて教育に就事すること四〇年、中十三年間は専らアイヌ教育に当たられし方である》

 

(「自働道話 大正14年2月」)

 「茶話笑楽会」の設立はいくつかの資料から、大正13年1月26日と思われます。
 これは摂政宮(皇太子、のちの昭和天皇)の成婚記念日に合わせおり、
 このあたりにも、当時の奈良直也や北斗たちの思想や感覚があらわれていると思います。

【沿海州への出稼ぎ】

 この大正13年には、北斗は「沿海州」へ出稼ぎに行っています。
 沿海州とは、ロシアの日本海側の地域。
 日露戦争の勝利で南樺太の領有権とともに、沿海州の漁業権を得ました。
 余市アイヌは樺太アイヌとの交流があり、よく熊取りや出稼ぎに行っていたようで、余市コタンにも樺太アイヌが多くいました。

【余市句会】

 北斗は、奈良直也の影響でか、余市の俳句グループに参加するようになります。
 正式に参加した時期は不明ですが、大正13年2月の句誌「にひはり」誌に次の俳句が掲載されています。

 「塞翁が馬にもあはで年暮れぬ」

 これは年末の句ですから、前年末には俳句を始めていたようです。
 

※現在見つかっている中で、最も古い北斗の俳句。
 「塞翁が馬」のような事にも遭わないで、今年も年が暮れていくなあ、といった意味でしょうか。

 
 余市の句会は、小保内桂泉が中心人物。
 会場は小保内氏の経営する旅館で開かれていたようです。
 北斗が掲載された「にひはり」は東京の「にひはり発行所」が発行する句誌で、勝峰晋三が発行人・編集人です。
 「にひはり」は漢字で書けば新治、新発、新墾で「新耕地」「新たな開墾地」の意。

 この余市句会は、積極的に「にひはり」誌に参加していました。
 北斗は恩師である奈良直也(号・如泉)に誘われて参加したと思われます。
 初掲載の大正13年2月号で、すでに「北斗」の号で掲載されています。
 以後、上京中の大正14年までの二年間、毎月のように掲載されています。

 
 電燈が消えても春の夜なりけり (「にひはり」大正13年3月号)

 日永さや 背削り鰊の風かはき  (「にひはり」大正13年4月号)

 

【祖父・万次郎の死】

 この大正13年、祖父万次郎が72歳で亡くなります。
 若い頃に東京に「留学」し、成績優秀で道庁に雇われたという万次郎。
 北斗はこの祖父に、東京の話をよく聞きました。
 祖父の死の翌年、北斗は東京に行くことになります。
 

【自働道話と修養思想】

 同じ年、奈良直也の薦めで、北斗は「自働道話」誌を購読しはじめます。
 この「自働道話」はB5ぐらいの小冊子で、精神の修養を目的としたものです。
 中にはいわゆる道徳的な「いい話」がたくさん掲載されています。
 発行者は西川光次郎。
 日本最初の社会主義政党、社会民主党の設立に関わった人物です。

 かつては、石川啄木に社会主義のすばらしさを説いた西川ですが、北斗が出会った頃の西川光次郎はすっかり別人です。
 西川光次郎は、幾度かの投獄の末、「転向」しました。
 「社会の変革を行うには、まず個人の心の中から」という考え方に変わったのです。
 北斗について社会主義云々と云う人がいますが、これは西川光次郎の転向、変節を知らないからだと思います。
 若き日の啄木に社会主義を教えたエピソードは有名ですので。

 この変節、こそが、実は重要なんだと思います。
 西川光次郎の思想「個人が修養して、社会の役に立つ」は、奈良直也を通じて、そのまま北斗に引き継がれます。
 上京後、北斗は同じ修養主義でも、より社会への働きかけ、運動の力のつよい後藤静香(せいこう)の「希望社運動」に傾倒することになります。

 「よりよい人になって、社会に有用な存在になろう」という考え方は、非常に受け入れやすいものです。
 この頃、日本全国の津々浦々の「青年団」は、古来からの村の若衆の集まりといったものではなくなり、体系化され、義務教育後の青年たちの思想教育の役目を持つ全国組織になっていきます。

 その全国の青年団の思想こそが、「修養思想」であるといえます。
 これは特定の宗教に依存するものではなく、古今の偉人の思想や故事などに学びます。
 真面目で長上を敬い、社会のために尽くす。
 そういった若者が、やがて己の属す社会のために全てをかけてゆくことになります。

 西川光次郎や後藤静香はかつてクリスチャンでしたが、このころには表向きはそうは見えません。
 単に思想遍歴の一つだったのか、時代的にクリスチャンを表明するのが得策でなかったのか。あるいはその両方かもしれません。

 修養思想は、国家や軍部にとっては、非常に便利なものだったといえるかもしれません。より良き人、社会に役立つ人。
 つまりはお国のためにいかに尽くせるかが、最大の美徳なのですから。
 北斗が青年期を迎えた頃、とりわけ大正12年の関東大震災を境にして、そのような思想が流行し始めていました。

 大正13年5月には、西川光次郎の「自働道話」誌に「違星竹二郎」からの手紙が掲載されています。
 手紙の内容は、自働道話誌を送ってもらった礼状ですね。
 奈良先生から聞いていたとか、鰊漁で多忙とか、会費は鰊場が終わってから払うとか。
 鰊漁中なら、自働道話を読み始めたのは春先でしょうね。

【西川光次郎との出会い】

 大正13年の8月、その西川光次郎が、北海道を巡講することになります。
 「いい話」をする全国ツアーをやっていたわけです。
 当時、西川の「自働道話」には多くの読者がいましたから、その読者が西川を呼び、そこに人を知人を集めてエエ話をして、新たな読者、いわば信者を集めるわけです。
(西川光次郎の北海道ツアー記録 )

 8月17日、余市を訪れた西川光次郎は、奈良先生の家に泊まります。
 その翌日、大川小学校で講演をし、もう一泊します。おそらくその間に奈良は言ったのでしょう。
 「私の教え子に、西川先生の愛読者のアイヌ青年がいるのですが」というわけで、翌日、西川光次郎が、北斗の家にやってきます。

 「自働道話」大正13年8月19日に

 「(晴) 朝、奈良翁、郡田氏と共に、アイヌ青年違星氏宅を訪問し、種々の宝物を見せて貰ふ。」

 
とあります。
 ここで、違星北斗が、西川光次郎と対面を果たすわけです。
 その際の印象が、非常によかったのでしょう。
 半年後、北斗を東京に呼び寄せます。

 西川が見た「宝物」はこれでしょうか。

弓もある、槍もある、タシロ(刄)もある。
 又鉄砲もある。
 まだある、熊の頭骨がヌサ(神様を祭る幣帛を立てる場所)にイナホ(木幣)と共に朽ちてゐる。
 それはもはや昔をかたる記念なんだ。
 熊がいなくなったから

 (違星北斗「熊と熊取の話」)
 

【余市にひはり句会】

 「にひはり」大正13年9月号に北斗の俳句が二句掲載されています。

  夜長さや電燈下る蜘の糸

  コスモスヤ恋ありし人の歌思ふ


 その9月の21日、句誌「にひはり」の主筆、勝峰晋風を余市に迎えて、「余市にひはり句会」が行われます。句会が開かれたのが小保内氏の旅館。
 そこに奈良先生とともに、北斗も参加。
 18時から始まり、夜中の2時まで続いたようです。
 北斗の詠んだ句。

  落林檎 石の音してころげけり

 
 「自働道話」や「にひはり」といった全国誌に縁ができたのは、奈良との縁によるところが大きいと思います。
 北斗はこのように年長者に愛され、導かれてステップアップしていくことが多いと思います。

【いとし子の存在】

 大正13年の秋には「余市にひはり句会」に出席し「足袋」のテーマに次の二句を読んでいます。

 ぬかる道 足袋うらめしう見て過ぎぬ

 いとし子の 成長足袋に見ゆる哉

 「いとし子の成長」という言葉が出てきました。
 これは誰のことでしょうか。もしかしたら、北斗の子供のことを詠んだ俳句かもしれません。
 北斗の子供については、これまであまり語られてきませんでした。
 しかし、妻と子供がいたという証言は、けっこうありますので、確かにいたようです。

 北斗の奥さんは樺太アイヌの出身で、けっこうな美人だったという証言があります。
 また、生まれたのは娘で、トモヨという名前だったという証言もあります。
 ただ、結婚生活は長く続かなかったとも、籍を入れていなかったとかいうことも聞きます。

 もし、生まれた子供がトモヨという娘なら、その名前は後の昭和3年に日記に出てくる人名と一致します。
 そこには、トモヨが死んでしまって今日は初七日だということが書いてあるのですが、それなら、その娘トモヨはわずか4つで亡くなってしまうことになります。

【自働道話への手紙】

 「自働道話」大正13年11月号に、発行者である西川光次郎宛の、北斗からの手紙が掲載されています。

「拝啓 愈々秋次の候、益々社会善導のため御奮闘の役、誠に皇国のため慶賀に存じ奉候、就ては、先般はわざわざ吾が北海のはて迄もお厭いなく、御来駕を給い正義を高唱せられ候いしは御勇しき事に御座候、小生は貧乏暇なき身とて、御礼状も差し上げぬ中に、早、先生より御玉翰を戴き、御礼の申し上げ様もこれ無く候。
 色々御親切に御教導下さり有がたく厚く御礼申し上げ候。
 先は御礼までちょっと御願い申し上げ候 敬白」

 と長い御礼があり、次に北斗初の短歌が一首。

  外つ国の花に酔ふ人多きこそ/菊や桜に申しわけなき

 

 ……と。これは北斗の短歌の初出なのですが、右寄りとも取れる短歌の始まりでもあります。
 これはこれで、北斗の思想の変遷を示すものであり、尊重すべきものだと思います。

 この短歌を読んだのが、大正13年。
 そして14年15年の上京時代の後に、昭和2年3年の全道を巡る時代があり、昭和4年に死を迎えますが、北斗の思想その間中揺れ動き、次第に「右寄り」の発言は少なくなります。

 それは、もちろんある時期の北斗の思想の一部ではあるのですが、思想遍歴の中での、ある時点での表れでしかありません。

 西川光次郎の修養思想を入り口として後藤静香の希望社運動、キリスト教、国柱会、哲学、民族学と北斗は貪欲に学び続け、思想は変化していきます。

【上京へ】

 大正13年の年末、一通の手紙が、恩師・奈良先生の元に届きます。
 西川光次郎からの手紙です。
 西川が「東京府市場協会」の高見沢清氏から「真面目な青年はいないか」と、求人の相談があり、北斗を紹介したい、と奈良に伝えてきたのでした。
 奈良はこれを北斗に伝えます。

 奈良先生から西川への手紙です。

「明日は違星生 来宅の事になっていますが 御手紙の趣を申し聞かせたなら どれほど喜ぶか知れません
 前夜も来て 一月総会の事などを打ち合して行きました
 どうぞ茶話誌に対しては 今後とも 後援をたまわる様 老生よりも御願いして置きます」

 奈良の書き振りからすると、やはり北斗には上京したいという願望が強かったようです。
 前年にも上京の計画を企てており、それが震災によって中止になっていますので、それもあって願望が大きくなっていたのかもしれません。
 西川は、夏に北斗と会い、その時の印象が良かったので推薦したのでしょう。 

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>>その6に続く

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