« 2012年4月 | トップページ | 2012年6月 »

2012年5月

2012年5月 5日 (土)

違星北斗の生涯(その5 修養運動・俳句 編)

《違星北斗の生涯》 

(その5 修養・句会 編) 

 ※これは管理人がやっているツイッター「違星北斗bot」(@kotan_bot)をまとめたものです。

------------------------------

 アイヌの歌人・違星北斗Botを作ってみました。違星北斗27年の生涯を、ツイートで追体験してみたいと思います。

------------------------------

【大正13年】

 満22歳。
 謎の多い大正12年までと比べて、大正13年からの北斗の動きは非常に明瞭になります。
 思想の転機を迎えて、その思考はポジティブになり、視野が広がっています。
 年頭から、それこそ人が変わったように外に向かっての活動を始めて行きます。
 その活動が記録に残っています。

 大正13年の主な出来事ですが、年の初めから、北斗は別人のようにぶっ飛ばしていきます。
 1月の中旬には青年合同宿泊講習会への参加、1月26日に余市アイヌ青年の修養会である「茶話笑楽会」の設立し、その機関誌『茶話誌』の編集に着手、さらに俳句雑誌にも作品が掲載されています。

 この年には、他にも沿海州への出稼ぎや、祖父の死や、恩師の一人である西川光二郎との出会いなどがあります。
 またプライベートでは娘の誕生も此頃のことと推測されます。
 翌年の上京に向けて、北斗の人生が劇的に変わりつつある大正13年の出来事を、一つずつ見ていきましょう。

【青年合同宿泊講習会】

《大正十三年一月、余市小学校の裁縫室を会場として、「青年合同宿泊講習会」というのが、北海道庁主催で開催された。
 道庁の役人、中等学校の先生等を講師として、いわゆる精神修養を行なうためである。
 三日目の最後の日、その夜は講習の感想発表会である。

 

 約四十名位の青年が一堂に集まって感想発表となり、中々熱心であった。
 その終わり頃に壇にたったのが、違星瀧次郎という青年であった。


 「皆さん、私はアイヌの青年であります…」


 冒頭のこの一言が皆の注目をひいた。
 それから違星は大体次の様な話を、満場の注目を浴びつつしたのである。

 

 「世の中でアイヌ人は蔑視されております。
 学校ではアイヌの児童をのけ者にします。
 世間ではアイヌ人を酷使します。
 すべてアイヌ人は人間並みに扱われておりません。
 憲法の下に日本人は平等であるべきに、これはどうした事でしょうか。

 (略)たしかにアイヌ自身に蔑視される原因はあると思います。
 然し、和人の方々にもその原因はないでしょうか。
 学校にあがると、我々をアイヌ、アイヌと馬鹿にする。
 社会に出ると同じ仕事をしながら別扱いをして低賃金しかくれない。

 

 こうした境遇におき乍ら、アイヌ人が素直になれの、おとなしくしていろのと、いつでも無理であります。
 一体アイヌ人は劣等民族ではありません。
 アーリヤン民族の一派だといわれております」

 ※この「アイヌ=白人説」は現在では否定されています。 

 

 「アイヌが現在のような状態におかれているのは、実は人為的にそのようにしているのであって、結局は愛の欠乏がひきおこした悲劇であります」

 かくて和人の愛の心を呼び起こす絶叫をして約二十分程で壇を下りたが、満場粛然として声がなく壇を下りた時は、拍手がしばし止まらなかった。

 

 私はしっかりした青年がいるものだとの印象をうけ、この時から違星北斗に注目したのである」》

 (古田謙二「湯本喜作『アイヌの歌人』について」)

 この「私」が、余市小学校の古田謙二訓導(先生)。
 「先生」ということで、一部では北斗の恩師という書かれ方をしていますが、あくまで青年時代に出会った、同世代の友人です。

 大正13年の年頭には、北斗はこのような修養会に参加しています。
 ただ、この古田の記述は、同時代のものではなく、古田が老齢になってからの追想なので、注意が必要です。
 演説の内容も古田の思想や、後の北斗の思想が入り込んでいる可能性がありますし、事実関係も要注意。

 この修養会が行われたのが大正13年の1月のことですから、大正12年には北斗はすでに「思想上の転機」を迎えていたことになります。

【茶話笑楽会】

 北斗は同じ1月の26日に、余市アイヌの修養団体である「茶話笑楽会」(さわしょうがくかい)を結成します。
 この会は、小学校からの恩師・奈良直也先生の指導のもとに結成されたもので、顧問として参加していた古田によると「笑い楽しみながら話をする会」という意味。
 「コタン」には「笑学会」と書かれているのですが、「笑楽会」が正しく、また同書の「昭和2年設立」も正しくありません。

 この会のモットーは「よき日本人に」。
 当時の北斗らの思想がうかがえますが、これは指導者である奈良直也の影響も強いのでしょう。
 奈良は北海道で教育に就事すること40年、という老教師で、そのうち十数年はアイヌ教育に尽力していたようです。

 茶話笑楽会は中里篤治の家の2階で行われていました。
 篤治の父・中里徳太郎は、余市アイヌの指導者。
 傑物として知られる人物で、この中里と違星が当時の余市コタンの指導的立場にあったようで、古田によれば家も普通の和人の労働者位の大きさで、決してみすぼらしい家ではなかったようです。

 茶話笑楽会の模様を古田が語っています。

 「笑楽会は、中里篤太郎の家の二階で行なわれた。
 四間位もあり、フスマを皆はずして広々とし、輪になって語り合った。真中にテーブルをおき、それで一人ずつ出てしゃべることもあった」


 そして奈良らの指導のもと「茶話誌」という機関誌を作ります。

【茶話誌】

 北斗らの結成した茶話笑楽会の機関誌「茶話誌」については、おそらく現物は残っていないと思われます。
 大正13年初頭から北斗が上京する大正14年の初頭で、おそらく3誌は出ています。
 一年半後、東京から戻ってきた時には中断しており、そこで中里と二人で作ったのが同人誌「コタン」でした。

 この「茶話誌」は現物は残っていませんが、一部が遺稿集『コタン』に入っています。
 また、他にも童話などが他の書物に転載されて残っています。
 創刊号には北斗の手による「アイヌとして」という論文が載っているらしく、それを伊波普猷が激奨していますが、残念ながら散逸しています。

 このように、北斗は恩師・奈良直也の影響を受け、修養運動にのめりこんでいきます。
 また、奈良に薦められて修養雑誌『自働道話』の購読を初め、熱心な読者になっていきます。その結果、奈良から北海道に来た西川光次郎を紹介され、西川の誘いを受け、大正14年の上京・就職に繋がっていくのです。

 「茶話誌」については、奈良が私淑し、のちに北斗が世話になる西川光次郎の雑誌「自働道話」に紹介記事も載っています。

《「茶話誌」
 北海道の余市町に、アイヌ青年の一団あり、この団体では、
 第一に、貯蓄心の乏しきは我等同族間の旧弊であるとて、勤倹を奨励し、
 第二に、衛生思想の乏しきは、我等同族間の弱点であるとて、衛生思想を宣伝し、
 第三に、第一と第二の理由から酒の排斥に努力して居る。
 茶話誌は此の団体の謄写版づり機関雑誌である。
 この団体の顧問奈良翁と、茶話誌の編輯人違星北斗氏とは、私の知人である。
 私はコウした団体の起ったことを、アイヌ族の為めに、又日本の為めに、よろこばしいことであると思ふ。
 諸君の健闘を祈る。
 因に誌す、奈良直弥翁は、北海道にありて教育に就事すること四〇年、中十三年間は専らアイヌ教育に当たられし方である》

 

(「自働道話 大正14年2月」)

 「茶話笑楽会」の設立はいくつかの資料から、大正13年1月26日と思われます。
 これは摂政宮(皇太子、のちの昭和天皇)の成婚記念日に合わせおり、
 このあたりにも、当時の奈良直也や北斗たちの思想や感覚があらわれていると思います。

【沿海州への出稼ぎ】

 この大正13年には、北斗は「沿海州」へ出稼ぎに行っています。
 沿海州とは、ロシアの日本海側の地域。
 日露戦争の勝利で南樺太の領有権とともに、沿海州の漁業権を得ました。
 余市アイヌは樺太アイヌとの交流があり、よく熊取りや出稼ぎに行っていたようで、余市コタンにも樺太アイヌが多くいました。

【余市句会】

 北斗は、奈良直也の影響でか、余市の俳句グループに参加するようになります。
 正式に参加した時期は不明ですが、大正13年2月の句誌「にひはり」誌に次の俳句が掲載されています。

 「塞翁が馬にもあはで年暮れぬ」

 これは年末の句ですから、前年末には俳句を始めていたようです。
 

※現在見つかっている中で、最も古い北斗の俳句。
 「塞翁が馬」のような事にも遭わないで、今年も年が暮れていくなあ、といった意味でしょうか。

 
 余市の句会は、小保内桂泉が中心人物。
 会場は小保内氏の経営する旅館で開かれていたようです。
 北斗が掲載された「にひはり」は東京の「にひはり発行所」が発行する句誌で、勝峰晋三が発行人・編集人です。
 「にひはり」は漢字で書けば新治、新発、新墾で「新耕地」「新たな開墾地」の意。

 この余市句会は、積極的に「にひはり」誌に参加していました。
 北斗は恩師である奈良直也(号・如泉)に誘われて参加したと思われます。
 初掲載の大正13年2月号で、すでに「北斗」の号で掲載されています。
 以後、上京中の大正14年までの二年間、毎月のように掲載されています。

 
 電燈が消えても春の夜なりけり (「にひはり」大正13年3月号)

 日永さや 背削り鰊の風かはき  (「にひはり」大正13年4月号)

 

【祖父・万次郎の死】

 この大正13年、祖父万次郎が72歳で亡くなります。
 若い頃に東京に「留学」し、成績優秀で道庁に雇われたという万次郎。
 北斗はこの祖父に、東京の話をよく聞きました。
 祖父の死の翌年、北斗は東京に行くことになります。
 

【自働道話と修養思想】

 同じ年、奈良直也の薦めで、北斗は「自働道話」誌を購読しはじめます。
 この「自働道話」はB5ぐらいの小冊子で、精神の修養を目的としたものです。
 中にはいわゆる道徳的な「いい話」がたくさん掲載されています。
 発行者は西川光次郎。
 日本最初の社会主義政党、社会民主党の設立に関わった人物です。

 かつては、石川啄木に社会主義のすばらしさを説いた西川ですが、北斗が出会った頃の西川光次郎はすっかり別人です。
 西川光次郎は、幾度かの投獄の末、「転向」しました。
 「社会の変革を行うには、まず個人の心の中から」という考え方に変わったのです。
 北斗について社会主義云々と云う人がいますが、これは西川光次郎の転向、変節を知らないからだと思います。
 若き日の啄木に社会主義を教えたエピソードは有名ですので。

 この変節、こそが、実は重要なんだと思います。
 西川光次郎の思想「個人が修養して、社会の役に立つ」は、奈良直也を通じて、そのまま北斗に引き継がれます。
 上京後、北斗は同じ修養主義でも、より社会への働きかけ、運動の力のつよい後藤静香(せいこう)の「希望社運動」に傾倒することになります。

 「よりよい人になって、社会に有用な存在になろう」という考え方は、非常に受け入れやすいものです。
 この頃、日本全国の津々浦々の「青年団」は、古来からの村の若衆の集まりといったものではなくなり、体系化され、義務教育後の青年たちの思想教育の役目を持つ全国組織になっていきます。

 その全国の青年団の思想こそが、「修養思想」であるといえます。
 これは特定の宗教に依存するものではなく、古今の偉人の思想や故事などに学びます。
 真面目で長上を敬い、社会のために尽くす。
 そういった若者が、やがて己の属す社会のために全てをかけてゆくことになります。

 西川光次郎や後藤静香はかつてクリスチャンでしたが、このころには表向きはそうは見えません。
 単に思想遍歴の一つだったのか、時代的にクリスチャンを表明するのが得策でなかったのか。あるいはその両方かもしれません。

 修養思想は、国家や軍部にとっては、非常に便利なものだったといえるかもしれません。より良き人、社会に役立つ人。
 つまりはお国のためにいかに尽くせるかが、最大の美徳なのですから。
 北斗が青年期を迎えた頃、とりわけ大正12年の関東大震災を境にして、そのような思想が流行し始めていました。

 大正13年5月には、西川光次郎の「自働道話」誌に「違星竹二郎」からの手紙が掲載されています。
 手紙の内容は、自働道話誌を送ってもらった礼状ですね。
 奈良先生から聞いていたとか、鰊漁で多忙とか、会費は鰊場が終わってから払うとか。
 鰊漁中なら、自働道話を読み始めたのは春先でしょうね。

【西川光次郎との出会い】

 大正13年の8月、その西川光次郎が、北海道を巡講することになります。
 「いい話」をする全国ツアーをやっていたわけです。
 当時、西川の「自働道話」には多くの読者がいましたから、その読者が西川を呼び、そこに人を知人を集めてエエ話をして、新たな読者、いわば信者を集めるわけです。
(西川光次郎の北海道ツアー記録 )

 8月17日、余市を訪れた西川光次郎は、奈良先生の家に泊まります。
 その翌日、大川小学校で講演をし、もう一泊します。おそらくその間に奈良は言ったのでしょう。
 「私の教え子に、西川先生の愛読者のアイヌ青年がいるのですが」というわけで、翌日、西川光次郎が、北斗の家にやってきます。

 「自働道話」大正13年8月19日に

 「(晴) 朝、奈良翁、郡田氏と共に、アイヌ青年違星氏宅を訪問し、種々の宝物を見せて貰ふ。」

 
とあります。
 ここで、違星北斗が、西川光次郎と対面を果たすわけです。
 その際の印象が、非常によかったのでしょう。
 半年後、北斗を東京に呼び寄せます。

 西川が見た「宝物」はこれでしょうか。

弓もある、槍もある、タシロ(刄)もある。
 又鉄砲もある。
 まだある、熊の頭骨がヌサ(神様を祭る幣帛を立てる場所)にイナホ(木幣)と共に朽ちてゐる。
 それはもはや昔をかたる記念なんだ。
 熊がいなくなったから

 (違星北斗「熊と熊取の話」)
 

【余市にひはり句会】

 「にひはり」大正13年9月号に北斗の俳句が二句掲載されています。

  夜長さや電燈下る蜘の糸

  コスモスヤ恋ありし人の歌思ふ


 その9月の21日、句誌「にひはり」の主筆、勝峰晋風を余市に迎えて、「余市にひはり句会」が行われます。句会が開かれたのが小保内氏の旅館。
 そこに奈良先生とともに、北斗も参加。
 18時から始まり、夜中の2時まで続いたようです。
 北斗の詠んだ句。

  落林檎 石の音してころげけり

 
 「自働道話」や「にひはり」といった全国誌に縁ができたのは、奈良との縁によるところが大きいと思います。
 北斗はこのように年長者に愛され、導かれてステップアップしていくことが多いと思います。

【いとし子の存在】

 大正13年の秋には「余市にひはり句会」に出席し「足袋」のテーマに次の二句を読んでいます。

 ぬかる道 足袋うらめしう見て過ぎぬ

 いとし子の 成長足袋に見ゆる哉

 「いとし子の成長」という言葉が出てきました。
 これは誰のことでしょうか。もしかしたら、北斗の子供のことを詠んだ俳句かもしれません。
 北斗の子供については、これまであまり語られてきませんでした。
 しかし、妻と子供がいたという証言は、けっこうありますので、確かにいたようです。

 北斗の奥さんは樺太アイヌの出身で、けっこうな美人だったという証言があります。
 また、生まれたのは娘で、トモヨという名前だったという証言もあります。
 ただ、結婚生活は長く続かなかったとも、籍を入れていなかったとかいうことも聞きます。

 もし、生まれた子供がトモヨという娘なら、その名前は後の昭和3年に日記に出てくる人名と一致します。
 そこには、トモヨが死んでしまって今日は初七日だということが書いてあるのですが、それなら、その娘トモヨはわずか4つで亡くなってしまうことになります。

【自働道話への手紙】

 「自働道話」大正13年11月号に、発行者である西川光次郎宛の、北斗からの手紙が掲載されています。

「拝啓 愈々秋次の候、益々社会善導のため御奮闘の役、誠に皇国のため慶賀に存じ奉候、就ては、先般はわざわざ吾が北海のはて迄もお厭いなく、御来駕を給い正義を高唱せられ候いしは御勇しき事に御座候、小生は貧乏暇なき身とて、御礼状も差し上げぬ中に、早、先生より御玉翰を戴き、御礼の申し上げ様もこれ無く候。
 色々御親切に御教導下さり有がたく厚く御礼申し上げ候。
 先は御礼までちょっと御願い申し上げ候 敬白」

 と長い御礼があり、次に北斗初の短歌が一首。

  外つ国の花に酔ふ人多きこそ/菊や桜に申しわけなき

 

 ……と。これは北斗の短歌の初出なのですが、右寄りとも取れる短歌の始まりでもあります。
 これはこれで、北斗の思想の変遷を示すものであり、尊重すべきものだと思います。

 この短歌を読んだのが、大正13年。
 そして14年15年の上京時代の後に、昭和2年3年の全道を巡る時代があり、昭和4年に死を迎えますが、北斗の思想その間中揺れ動き、次第に「右寄り」の発言は少なくなります。

 それは、もちろんある時期の北斗の思想の一部ではあるのですが、思想遍歴の中での、ある時点での表れでしかありません。

 西川光次郎の修養思想を入り口として後藤静香の希望社運動、キリスト教、国柱会、哲学、民族学と北斗は貪欲に学び続け、思想は変化していきます。

【上京へ】

 大正13年の年末、一通の手紙が、恩師・奈良先生の元に届きます。
 西川光次郎からの手紙です。
 西川が「東京府市場協会」の高見沢清氏から「真面目な青年はいないか」と、求人の相談があり、北斗を紹介したい、と奈良に伝えてきたのでした。
 奈良はこれを北斗に伝えます。

 奈良先生から西川への手紙です。

「明日は違星生 来宅の事になっていますが 御手紙の趣を申し聞かせたなら どれほど喜ぶか知れません
 前夜も来て 一月総会の事などを打ち合して行きました
 どうぞ茶話誌に対しては 今後とも 後援をたまわる様 老生よりも御願いして置きます」

 奈良の書き振りからすると、やはり北斗には上京したいという願望が強かったようです。
 前年にも上京の計画を企てており、それが震災によって中止になっていますので、それもあって願望が大きくなっていたのかもしれません。
 西川は、夏に北斗と会い、その時の印象が良かったので推薦したのでしょう。 

------------------------------
>>その6に続く

<<その4に戻る

《違星北斗の生涯》INDEX

違星北斗の生涯(その4 恩師・思想の転機 編)

《違星北斗の生涯 まとめ》 

(その4 恩師・思想の転機 編) 

 ※これは管理人がやっているツイッター「違星北斗bot」(@kotan_bot)をまとめたものです。

------------------------------

 アイヌの歌人・違星北斗Botを作ってみました。違星北斗27年の生涯を、ツイートで追体験してみたいと思います。

------------------------------


【大正9年】

 18歳。
 北斗は余市で畑を借りて、ナスを作るのですが、病気が再発します。
 この病気が何月ごろからで、何月ごろまで悪かったのかはわかりませんが、北斗の手による年譜では「畑を借り茄子作、中途病気」とあるので、再発したのは夏に茄子が収穫を迎える前のどこかのタイミングでしょう。

【山岸礼三医師】
 この年、8月には北斗は余市川で漁をしています。
 病気が治っていたのかどうかはわかりません。
 この漁の話は、なかなか面白いです。
 北斗が余市川で投網をしていたら、魚と一緒に西瓜大の「土器」が網にかかります。
 北斗はこれを家に持って帰ります。

 

 この年の秋、余市に一人の医師が移住します。
 元軍医で日露戦争に出征した山岸礼三医師です。
 この山岸医師は、北斗らのコタンの近くに医院を構え、貧しい者にはお金を取らなかったという「コタンの赤ひげ」のような人でしたが、この山岸医師が特にかわいがったのが北斗でした。

 山岸医師は、地元では郷土研究家としても知られていた人物ですが、その郷土研究のきっかけを作ったのが、他ならぬ北斗でした。
 北斗は、山岸の移住当時から山岸医院をよく訪ねて、彼の話し相手になっていました。
 最初は患者として訪れたのかもしれません。

 山岸医師は、次のように北斗を語っています。
違星竹二郎(号北斗、後に上京し金田一学士などの名士に参じたことのある、かつ、すこぶる気骨があり、また文雅の道にも趣味を有し、思索もするという面白い男であったが、惜しいことには、3年前に肺患で病没した)なる青年がいて、

 

 時々余の宅を訪れて、私が移住当時の無聊を慰めてくれ、時にはアイヌ口碑や「カムイユーカラ」の伝説、現時における実生活状態など聞かしてくれたりして、ずいぶん私の新居地の東道役(案内役)になってくれた男であった。

 

 しかるに、大正12年の春、彼が急性肺炎に罹り、かなり重患であったのを、私がいっさい引き受けて、入院せしめ、世話してやったのを、彼は喜んで、全快祝だと称して、彼が年来秘蔵したる西瓜大の土器一個を携帯し、寄贈してくれた。
 これが私が土器を得たそもそもの初めである。

 

 この品は彼が大正9年の秋、私がこの地に移居のわずか2、3ヶ月前のある日、余市川に投網して獲得したるもので、話に聞く土器であったから、『お授かり』の気持ちで、誰人の所望にも応じず保有していたものであると語った」

 北斗は、治療のお礼に宝物の「土器」を山岸医師に贈ります。

 山岸医師は

「この得難き一品を手に入れて、欣喜置く能はず(喜びを抑えられず)、心を尽くして彼をねぎらい、祝宴まで開いた」

 といいます。
 このプレゼントにより、山岸は考古学に興味を持つようになり、のちに余市中の遺跡を訪ねたり、発掘調査をして、医院の一角に展示コーナーまで設けます。

 これを改めて読むと、北斗は18、9歳から考古学、民俗学、民族学あたりに興味があった模様ですね。
 そのきっかけになったのが、このスイカ大の土器である可能性はあります。
 山岸医師はこれを大事にし、いわば年若い北斗から引き継いて、郷土研究者となりました。
 この土器がまだどこかにあるのかどうかは不明。余市大火事で失われたのかもしれません。

 山岸医師は本州出身の元海軍中佐。いわばエリートで、おまけにコタンの赤ひげと呼ばれる、アイヌに同情を寄せる和人。
 北斗の幸運は、余市時代から、奈良先生やら山岸医師やらに出会えたこと、そして彼らを楽しませるインテリジェンスを持っていたことかもしれません。

 知性と茶目っ気、それにサービス精神。北斗はオヤジ受けするタイプかもしれませんが、悪くいえは、いい子すぎて、相手に気を遣うから、リップ・サービス気味の発言をすることもあり、それが後世の思想の偏った人々に利用されてしまうという側面もあります。

 北斗は、その後、亡くなるまでこの山岸医師の治療を受けます。
 (引用は山岸玄津(礼三)『北海道余市貝塚に於ける土石器の考察』 、多少、現代の言葉に変えてあります)
 この文章の中には北斗の、その土器への考えも述べられていて、非常に興味深いです。
 ちょっと脱線しますが、次に引用してみます。

 「彼(北斗)がいうには、私ども民族の中では、従来土器の保有者は一名もなく、祖先から口碑にも聞いておらず、ただ伝えられているのは、余市アイヌがこの地に来た時、先住民族がいた。それはアイヌよりも小さく、弱い人種で、わけなく追っ払った。

 

 この人種はアイヌ語では「クルブルクル」(石の家の人)で「ストーンサークル」(環状石籬)を作り、立て籠もった民族である。
 ただし「コロボツクル」(蕗の下の人)人種の事を聞いているが、それかもしれぬ。
 ただ先住民族がおったというから、あるいはその遺物であろうと思う」

 

 北斗はこの土器を作ったのはアイヌではなく、アイヌよりも前にこの地にいた先住民族であると考えていました。
 その考えは北斗の論文(「疑ふべきフゴツペの遺跡」)にも出てきます。
 いわゆるコロポックル伝説ですが、余市では「クルブルクル」「クルプンウンクル」といい、少し違うようです。

 余市の「コロポックル」はよく知られている伝説と同様、先住者の小人ではあるのですが、「蕗の下」ではなく「クルブルクル」石の家に住む者、「クルプンウンクル」石の下に住む者などと呼ばれました。
 同じように語られがちなアイヌ文化ですが、地域によって違うということだと思います。

 北斗が最後まで世話になった山岸医師は、新潟生まれ、陸軍軍医として日露戦争に従軍後、札幌陸軍病院長。陸軍中佐というので超エリートですね。風流人で、漢詩や書をよくし、玄津と号す。また、北斗の影響でアイヌ文化や考古学に興味を持ち、余市郷土研究会の初代会長となります。

【奈良直弥先生】

 北斗の恩師といえば、小学校時代の担任だった奈良直弥先生。
 慶応元年秋田生まれで、廃藩とともに渡道、函館支庁に勤務後、教員として白老に赴任、アイヌ子弟の教育に携わることとなります。
 後に余市に転任し、北斗の担任となる。奈良は北斗を可愛がり、北斗は奈良から多大な影響を受けました。

 北斗は小学校を卒業した後も、暇を見つけては奈良先生のところに行っていたようです。
 この奈良先生の影響で北斗が始めたものはたくさんありますが、その一つが「俳句」。
 北斗は短歌をつくりはじめる前に俳句を始めたていました。
 奈良が属していた余市の句会に参加しはじめたのです。 

【北斗の俳句の師】

 北斗の俳句の師は古田謙二(冬草)と言われていますが、これは違うようです。
 古田が北斗と出会ったのは大正13年1月のこと。その頃には、北斗はすでに俳句を作っています。
 それに、古田と北斗は年齢が3歳しか違いません。俳句を始めたのは奈良の影響と思われます。

 古田は余市小学校の訓導(先生)で、年も近いので、大川小学校の北斗とは師弟関係はありません。むしろ年の近い友人です。しかし、古田先生と呼ばれるうちに、誰かが、俳句の師といい出したのでしょう。

【北斗と社会主義】

 大正10年、北斗は轟鉱山に出稼ぎします。
 轟鉱山は余市にあった鉱山です。

 「この頃北斗は轟鉱山に潜伏中の一青年に社会主義の手ほどきを受けた

 と『アイヌの歌人』の著者・湯本喜作はいいますが、間違いでしょう。
 
 この人は実業家で、自分やらず人に調べさせ、自著として出していますが、残念ながら彼の本は間違いがたくさんあります。

 今だに北斗が社会主義者だという人がいますが、これはありえないでしょう。
 青春時代の一時期に齧った可能性はありますが、彼の言論からはそれを伺うことはできません。
 おそらく、これは、のちに影響をうける西川光二郎が元平民社で社会主義者だったので、そこから出た説かもしれません。

 西川光二郎は、平民社の設立メンバーの一人。
 しかし、幸徳秋水事件等で何度も投獄され、転向しました。
 北斗が会った大正から昭和初期の西川光二郎は、「自働道話」誌を発行し、精神修養主義を掲げた、政治的には大人しく体制に従順な文筆家となっていました。

 この西川光二郎(光次郎とも書く)は、啄木に影響を与えた社会主義者としても有名。啄木と面識もあります。
 北斗をアイヌの啄木と呼ぶ風潮の中には、こういう偶然の一致もあるのかもしれません。
 でも、啄木が会ったゴリゴリの若い社会主義者と、北斗の会った頃の好々爺の西川はまるで別人です。

 脱線しますが、北斗と啄木の類似点を挙げると、短歌、金田一京助との親交、西川光二郎からの影響をうけたこと、小樽との縁、27才で早逝など。
 ですが、いずれも関わり方が違います。やはり、「アイヌの啄木」というのはどうかと思います。北斗は北斗です。

【奈良先生】

 北斗の小学校の恩師奈良先生は、古田謙二によると次のような人。

 「奈良先生は、非常に明るい人で、お酒が好き、俳句が好き、書道の達人-私がはじめて氏を知ったころは、白髭をながくあごにのばしていた」。

 
古田が奈良先生に出会ったのは、大正13年頃。

 「ちょっと普通の先生の型にはまらぬところが、町民からまで『奈良先生、奈良先生』と愛されていた。北海道がまだ、北海道庁のおかれていない以前、即ち、三県時代といって、函館県、札幌県、根室県とに分かれていたころの、函館県の師範学校(たしか簡易科)の卒業生である」

 明治初期は、北海道は三つの県に分けられていたんですね。


「氏の子息では、帯広市在住の能勢眞美氏(洋画家として北海道では有名)など知られている。
 昔、松竹の映画俳優として知られた奈良眞養(マサヨ、シンヨウ)という人は、奈良先生の甥にあたる。」


 以上、古田の語る奈良先生。
 新米教師である古田からすると、奈良先生は大先輩です。

【小学校】

 北斗の出た小学校は「大川小学校」ですが、古田はこう書いています。
 「北斗たちは、余市の黒川分教場(大川小学校の分校で奈良先生一人で教えており、単級学校であった)にあがった」。
 しかし、私が余市大川小学校で見た大正3年大川小学校の卒業アルバムでは、1クラス30人はいました。卒業アルバムだけ合同で撮ったのかもしれません。

【青年団】

 北斗が、いつ頃から余市の青年団に参加したかは不明。
 当時の青年団は、夜間勉強会なども行われ、充分な教育を受けられなかった青年たちの修養の場として機能していました。
 別の見方をすれば、地域の青年団は地方の、そして全国の青年団につながる、思想教育のネットワークだったといえます。

 だからといって、このような青年団の活動を否定するわけではありません。
 小学校しか出ていない北斗ですが、その知性や思想の礎は、青年団活動や、その教育の担い手であった奈良先生らの影響下で育まれたものだと思います。
 時代が違星北斗をつくった。北斗の言葉尻を捉えて現代の価値観であげつらう人がいますが、それは違うと思います。

 ここでのキーワードが「修養」です。
 正しい心と行ないを心掛け、常に勉学に励み、立派な人間になりなさい。
 社会の役に立つ人間になりなさい……。
 この考えは、現代にも通じる普遍的なもので、もちろんそれが間違っているというわけではありませんが、価値観が違うんですね。

 当時は、この「社会」というのが、当時は「お国」だったわけです。
 社会の役に立つ人=お国の役に立つ人、ということです。
 当時の青年団の思想に大きな影響を与えていたのが、修養団。
 蓮沼門三が明治39年に始めた社会運動団体で、その名の通り、国民に「修養」することを説いた。
 学び、自制し、正しく生きよ。そうすれば、社会に役立つ立派な人間になれる。
 この考えは貧しく真面目な青年たちの心を捉えていました。

【思想上の一大転機】

 違星北斗の思想に大きな変化を及ぼしたのは、たった一言の優しい言葉でした。
 少年期の北斗は、和人社会におけるアイヌへの差別的待遇に怒り、和人といえば、血も涙もない鬼のような者ばかりだと思い込んでいました。
 病的なほど和人とその社会への恨みに凝り固まっていたのです。
 
 
 この北斗の「思想の一大転機」について考えてみることにします。
 繰り返しになりますが、少年期の北斗は、和人に対して反抗心を持っていました。
 その頃の北斗は

「どうもシャモ(和人)に侮辱されるのが憤慨に堪えなかった」

といいます。

 「今から十年程前の事、北海タイムス紙上に出た
 《いさゝかの酒のことよりアイヌ等が/喧嘩してあり萩の夜辻に》
 《わずか得し金もて酒を買ってのむ/刹那々々に活きるアイヌ等》
 の歌をみて一層反逆思想に油をかけて燃えたものです。」


 北斗は和人がアイヌについて詠んだ短歌を読み、激怒します。

 「私の目にはシャモと云ふものは残忍な野蛮人である、とのみ思う様になりました」。

 このように、北斗は和人に対して敵愾心を持ち、和人社会や日本という国を呪っていました。
 しかし、その猛烈な、反逆思想を一変させるある出来事が起こります。
 それは、和人のたった一言の言葉でした。 

 ある学校の会合に参加した北斗は、校長先生に呼ばれます。

 「我々はアイヌとは言いたくはない言葉ではあるが、ある場合はアイヌと言った方が大そう便利な場合がある。また、言わねばならぬ事もある。その際アイヌと云った方がよいかそれとも土人と云った方が君達にやさしく響くか」
 

 

 
 「……私はびっくりした、私は今まで和人は皆同情もない者ばかりだと考へていたのをこんなに遠慮して下さる人、しかもシャモにこの様な方のあるのは驚異であった」

 「自分にはどちらも嫌な言葉であったものを――こんなに考へて下さる人があるとは思はなかったものを」

 

 「私はその夜、自分の呪ったことの間違いであった事をやっと悟り、自分のあさましさにまた、不甲斐なさに泣きました」
 (違星北斗「淋しい元気」)

 和人を血も涙もない野蛮人ばかりだと思っていたのに、この一言によって、世界が変ったのです。

 それはたった一言の、優しい言葉でした。その思いやりの言葉が、北斗の和人への反逆心、敵愾心を拭い去りました。
 以後、社会に反逆し、和人への怨みを晴らすのではなく、アイヌとして立派な人になり、社会においてアイヌの地位を向上させなければならないと考えます。

 この北斗に思想の転機をもたらした人は、余市の登村小学校の校長、島田弥三郎先生です。
 この思想の転機については、この北斗自身のものの他、北斗が東京で語ったのを書き起こした金田一京助、伊波普猷によるテキストがありますが、微妙なニュアンスが違います。

 同じ「思想上の一大転機」を描いたテキスト
 (1)違星北斗「淋しい元気
 (2)伊波普猷「目覚めつつあるアイヌ種族」(後半にあり)
 (3)金田一京助「慰めなき悲み
 (4)金田一京助「あいぬの話
 (5)「事件」の前後を描いたもの? 古田謙二「落葉

 
 思想の転機を描いたこれらのテキストは、それぞれ違い、矛盾点があります。
 同じ金田一が書いた2編の間にも違いあり。
 信憑性でいえば北斗>伊波>>金田一という感じでしょうか。
 金田一京助は若い頃に詩人を目指しただけあって、どうもドラマチックに脚色したがるくせがあります。書いていて酔っちゃうんですね。

 この北斗の「転機」については、余程気をつけて読まねばならないと思います。
 文脈を読み、余白を読み、時代を考え、北斗の性格と、彼が想定したオーディエンスを考慮することが必要です。
 これは、ただの「いい話」ではありません。
 なんとも名状しがたい違和感を、決して見逃すべきではないと思います。

【徴兵検査】

 大正11年、北斗は徴兵検査を受け、「甲種合格」します。病気がちな北斗が、甲種ということは、健康上も、精神的にも問題なしと判断されたわけです。
 この頃は平和な、軍隊が軽んじられる風潮すらある時代でしたから、審査も甘かったのかもしれません。 

 この徴兵検査の頃の北斗が、和人への反逆思想を持っていたのか、「思想上の一大転機」を迎えていたかは、不明です。
 この転機については、後で詳細に考えてみたいと思います。この転機は大正11年から大正12年頃だと思いますが、北斗の日記がないので様々な資料から推測するよりほかはありません。

【大正12年】

 北斗は21歳のこの年も出稼ぎをしています。
 「朝里等に落葉松伐採に従事、病気になる」
 
と『コタン』年譜にあります。
 この時の病気は「急性肺炎」、重患だったのですが、3年前に近所に越してきた山岸医師の治療を受けて平癒し、お礼に川で拾った土器の壺を贈り、以後親しくなります。

【兵役】

 同じ年の7月、北斗は兵役を務めますが、翌8月には除隊しています。
 どうして一ヶ月で除隊になったのか、わからなかったのですが、北斗の友人・鍛冶照三氏によると「病気除隊」だそうです。
 前述の「急性肺炎」のことかもしれません。

 この時も、北斗がどのような気持ちで兵役に望んだのかは、記録がありませんので推測するしかありません。
 例の「思想上の転機」を迎えていて、誇らしく思いながら行ったのか。あるいはイヤイヤ行ったのか。
 兵役の一ヶ月にどのような出来事があり、何を思ったのかもわかりません。

 北斗が配属されたのは陸軍旭川第七師団で、輜重(しちょう)兵卒としてでした。
 輜重兵とは、輸送などの後方支援を任務とする兵士です。
 北斗は一ヶ月で除隊していますが、気になるのは年譜の同年に
「上京の計画-震災中止」
 とあること。
 除隊後、上京の計画を立てていたようです。

【関東大震災】

 この大正12年9月1日に関東大震災が起こり、北斗は上京の計画を中止します。
 この時の「上京」がどのような目的だったのか、また「計画」がどれほど進んでいたかはわかりません。
 8月に病気で除隊して、上京したいと思っていたが、震災で計画さえできなくなったということかもしれません。

 このあたりの北斗の思想の変化については、資料が足りません。
 例の思想の「一大転機」をいつ頃迎えたかがキーなのですが、この大正12年あたりだと考えるのが、今のところ一番自然かと思います。
 翌大正13年の初頭にはおなじみの「いい子」の北斗の姿が記録に表れます。

 大正期の、特に震災前までは、世界的な「軍縮」の時代で、兵隊が無用の長物として軽んじられた時代でした。
 その中でも後方支援の輜重兵は「輜重兵が兵ならば蝶々もトンボも鳥のうち」と揶揄されていたそうです。
 ところが大震災で軍隊や国家権力が活躍し、その流れが軍国化へと向かいます。

 まるで現代の話みたいですが、北斗の生きたのは、そういう動いている時代の中でした。北斗の反逆心が、いつしか牙を抜かれ、丸められ、模範的な「いい子」となっていく。
 北斗の心の動きは、変わっていく時代の雰囲気や風潮とシンクロしています。
 大正12年は日本にも北斗にも転換点でした。

 違星北斗が大震災の報を聞いたのは、余市でだろうとおもいます。
 この時、外国人による犯罪、「井戸に毒を入れた」等のデマが流れました。
 後に北斗は和人の前で「日本人の一員としてのアイヌ」を目指し、和人の前で朴烈などの「不逞外人」を糾弾するようになります。
 震災は社会の空気や人の心を一変させます。
 非常事態に軍部の力は復活し、兵隊が石を投げられるデモクラシーの時代は終わり、社会そのものが右傾化していく。

 もちろん、関東大震災が北斗に与えた影響は上京中止以外は、今となってはわかりません。
 ただ、社会に大きな影響を与えた事は間違いなく、北斗もその空気を吸って生きていたことは間違いがありません。

 
------------------------------

>>その5に続く

<<その3に戻る

《違星北斗の生涯》INDEX

違星北斗の生涯(その3 労働・「反逆思想」 編)

《違星北斗の生涯 まとめ》 

(その3 労働・「反逆思想」 編) 

 ※これは管理人がやっているツイッター「違星北斗bot」(@kotan_bot)をまとめたものです。

------------------------------

 アイヌの歌人・違星北斗Botを作ってみました。違星北斗27年の生涯を、ツイートで追体験してみたいと思います。

------------------------------

【小学校卒業後】

 「尋常高等科の方にはとても入校する勇気は無かったのです。
 そして父と共に地引あみと鰊を米びつとする漁夫になつたのであります」

(違星北斗「ウタリ・クスの先覚者中里徳太郎氏を偲びて」)

 
 当時満12歳、身長135㎝、体重29kgの少年が、大人に混じって北海で漁師をしていました。

 「私は地引網と鰊とを米櫃としていた父の手伝いをして、母がいつも教訓していた、正直なアイヌとして一生をおくる決心をしました。
 けれどもいい漁場は大方和人のものになっていたので、生活の安定はとても得られませんでした」

 (伊波普猷「目覚めつつあるアイヌ種族」)

 
 「鰊場でのカミサマを始め石狩のヤンシュ等で働いた」
 (違星北斗「淋しい元気」)
 

 カミサマ、ヤンシュ(ヤン衆)とも一時雇いの漁夫のこと。
 鰊の時期になると本州から大挙押し寄せたそうです。
 (参考サイト『余市町公式サイト』「神様とヤンシュ」)

 北斗は父の稼業である漁を手伝いました。
 後の手紙の宛先を見ると「余市町ウタグス 違星漁場」という宛名があります。
 ウタグスはシリパ岬の裏にあり、地元の人に聞くと漁場としてはあまりよくないそうです。
 そこにバラックを建てていました。
 (違星北斗から金田一京助への葉書S2/4/26付 )

【出稼ぎ】

 北斗は漁業のかたわら、生活のために出稼ぎをします。
 大正6年15歳、夕張線登川付近に木材人夫として出稼ぎ。


【造林出稼】

 北斗は15歳ごろ、「夕張線登川で木材人夫」とありますが、年表のこの部分を読むと、アイヌ初の国会議員となった萱野茂さんのエッセイを思い出します。
 萱野さんは北斗よりも20年以上後の人ですが、北斗同様、小学校卒業直後の14歳の時に造林人夫として、出稼をしていたそうです。

 以下は萱野茂さんの記述
「それは昭和14年4月、かぞえ14歳の時で、二風谷小学校を卒業してわずか2週間目のことであった(略)苗木の根踏み、植え付け下刈り。朝の5時半から夕方5時半までの大変な重労働で、働きに行っていた多くのアイヌは、栄養失調による肺結核で次々と倒れていった。
 それが恐ろしくなって、造林人夫はひと夏でやめてしまった」

(萱野茂『二風谷に生きて』)

 この、萱野さんの体験は1939年、北斗は1917年ですから、22年の隔たりがあるのですが、まったく引き写しのように同じような境遇です。
 小学校を出たばかりのアイヌ少年が、最初の出稼として山で過酷な労働をする。
 余市と日高という違う地方に生き、20年も生年が違うアイヌの少年二人が、全く同じような出稼の体験しているわけです。
 萱野少年は、わずかな金を得るために和人に酷使され、肺結核にかかって倒れていく同族を見ました。
 北斗は自分が出稼で病気にかかってしまいます。


【大正7年】

 16歳、網走線大誉地(現・足寄町大誉地)に出稼ぎ。
 同じ年、父の甚作は樺太の「ナヨシ村の熊征伐」に参加。
 同年の夏、金田一京助は近文の金成マツのところで15歳の知里幸恵と出会います。
 そしてこの年、北斗は重病を患います。
 足寄の大誉地は余市から遠く離れた道東の山の中ですから、まず林業の出稼ということになるでしょう。
 そこで北斗は無理がたたってか、病気になってしまいます。
 この時の病名は不明。
 北斗は「重病」と言っています。

 ちなみに足寄の大誉地(オヨチ)は、アイヌ語で「それ(蛇)の多い所」の意味という説が有力で、北斗の故郷の余市(イヨチ)と同じ意味です。
 奇縁を感じます。
 でも、最初この地名を見たときは字面から、何か御料牧場かなにかがある土地かと思ってしまいましたが。

【闘病の人生】

 北斗の人生は病気との闘いでした。
 記録に残っているだけでも、7歳、16歳、18歳、21歳、25歳、26歳と、数年ごとに大病をしています。
 死因になったのは「結核」だといわれていますが、25歳の時は「腐敗性気管支炎」と手紙に記述があります思われます。
 その他の時期の病名はわかりません。


【反逆思想】

 この16歳の時の病気をきっかけに、北斗は「思想方面に興味を持つ様に」なり、病床で本を読み、和人に対しての「反逆心」を燃やすようになります。

 「重病して少しづつ思想方面に趣味をもって来た」。

 

 病床で北斗は北海道における、自分たちアイヌ民族のおかれている状況について考えをめぐらしました。

 「大和魂を誇る日本人のくせに常にアイヌを侮辱する事の多いことに不満でした」


 ある時、北斗は北海タイムス(新聞)を読み、怒りに打ち震えます。

「いささかの酒のことよりアイヌ等が喧嘩してあり萩の夜辻に」
「わずか得し金もて酒を買ってのむ刹那々々に活きるアイヌ等」

 和人が、アイヌのことを詠んだ2首です。
 これを読んだことで、和人に対する「反逆思想」を燃やすようになります。

 北斗は
 「この歌をみて一層反逆思想に油をかけて燃えたものです。私の目にはシャモと云うものは惨忍な野蛮人である、とのみ思う様になりました」
 
と言います。

 「どうもシャモに侮辱されるのが憤慨に堪へなかった」
 苦しい学校時代を終えて社会に出ても和人による差別は続きました。
 (違星北斗「淋しい元気」)

 「どうも日本て云う国家は無理だ。
 我々の生活の安定をうばいおいて、そしてアイヌアイヌと馬鹿にする。
 正直者でも神様はみて下さらない
 『日本は偉い大和魂の国民』と信じていたのは虚偽である。
 人類愛の欠けた野蛮なのはシヤモの正体ではなからうか」

(違星北斗「ウタリ・クスの先覚者中里徳太郎氏を偲びて」) 

 17歳の違星北斗は、貧困と差別に苦しめられ、過酷な労働に追われる日々の生活の中で、和人への抵抗感を強めていきます。
 病床に倒れた北斗は、アイヌについて書かれている記事を読み、和人が支配する当時の社会への反逆心を燃やしていきました。

 「新聞や雑誌はアイヌの事を知りもせで、知ったふり記事を書き並べ、いやが上にもアイヌを精神的に収縮さしてしまった。これではいかぬ。大いに覚醒してこの恥辱を雪がねばならぬ。にくむべきシヤモ、今に見ておれ!と日夜考えに更けっていた」
(違星北斗「ウタリ・クスの先覚者中里徳太郎氏を偲びて」)

 ……北斗は、病床で和人社会を呪います。

 北斗の偉いところは、和人社会への怒りが

「大いに覚醒してこの恥辱を雪がねばならぬ」

 和人に対して今に見ておれ!とそれを上昇思考へと変換するところです。
 自分が偉くなって、アイヌを差別する社会を変えてやろうという考えが、このころからあったわけです。

 
【世を呪う】

「自分が通るのをみると路傍の子供などまで「アイヌ、アイヌ」というものだから生意気ざかりの年頃には「アイヌがどうした」と立ち戻って、殴りとばしたこともあった。
 子供が意外な顔をして、打たれてびっくりして泣いた様子が、後まで目について、打たれたよりも苦痛だった。

 

 腹立たしく町を通ると、自分を目送りして「アイヌ、アイヌ」と囁いたのが、こっそり囁くのも早鐘のように耳をうち、口を閉じて言わないものでも眼がそういって見送ったように思え、行きも帰りも昨日も今日も、毎日毎日のことだから目も心も暗くなって、陰鬱な青年になり、ついには病身になり血を吐き、世を呪い人を呪い、手当たり次第に物を叩き割って暴れ死にたくなった。

 

 
 村の人の話では当時の違星青年は、よく尺八を吹いて月夜の浜を行きつ戻りつ、夜もすがらそうしていたこともあり、真っ暗な嵐の晩に磯の岩の上にすわって一晩尺八を吹いていたこともあった。」

(金田一京助「あいぬの話」)

「私は地引網と鰊とを米櫃としていた父の手伝いをして、母がいつも教訓していた、正直なアイヌとして一生をおくる決心をしました。
 けれどもいい漁場は大方和人のものになっていたので、生活の安定はとても得られませんでした。

 

 一方同族の状態を顧みますと、汗水を流してやっと開拓して得たと思う頃に、折角の野山は、もう和人に払下げられて、路頭に迷っているアイヌも大勢いました。
 そこで私は「北海道はもともとアイヌの故郷であるのに、この状態は何だ」といって、和人を怨み、遂に日本の国家を呪うようになりました。

 

 私はこれをどうにかしなければならないと思って、とにかくもっと学問をして偉くならなければならないと決心しました。
 それから私は漁猟のひまひまに、雑誌や書籍を読んで、自修することにしました。
 

 

 ある時、私は医学博士永井潜氏の論文の中に……一民族と他民族とが接触する時、恐ろしいのは鎗や刀や弾丸ではない、実に恐るべきは微生物の贈物である。
 1803年に英人が初めてタスマニヤ島に殖民した当時、先住民は六千人ばかりいたが、25年経過すると、2、300人となり44年目に40人となり、73年即ち1876年には最後の純タスマニヤ人が地球から一人残らず死滅してしまった。

 

 これ全く結核菌とアルコールの為である。和人と接触したアイヌが亡びつつあるのも、これが為である、云々、ということがあるのを見て、今更のように驚きました。
 そして私は残っている一万五千のウタリ・クスの為に、一生を捧げる決心をしました。

 

 爾来私は言語風俗習慣の点に於いて、和人と寸分も違わないようになるのが気がきいていると考えて、事毎に模倣をしました。
 内地から来る観光団が余市にやって来て、その日本化しているのを見て、何だ、ちっとも違わないじゃゃないか、と失望して帰るのを見て、幾度腹を立てたか知れません。

 

 こういう調子で、私はアイヌといわれるのを嫌い、アイヌ語を操るのを恥じたので、かんじんな母語を大方忘れてしまいました」 
 (伊波普猷「目覚めつつあるアイヌ種族」 )

【憤慨居士】

 北斗に俳句を教えたとされる古田謙二(冬草)の言葉。

《彼はよく私の所に遊びに来た。
 小学校も尋常科きりの学歴だったが、読書が好きで、いろいろな知識をもっており、殊にみずからがアイヌであるとの自覚は、彼を一種の憤慨居士にしていた。

 

 彼はよく「和人の優越感」という言葉を口の端にのせては憤慨した。

 

「何だ、和人の奴等は! 四海同胞なんか言い乍ら、我々同族をいつも蔑視しているじゃないか。
 小学校に於ける差別待遇はどうだ。
 漁場に於ける我々への酷使ぶりはどうだ。

 

 第一、我々を見る眸の中にあるさげすんだ表情は何としても許されない。
 憎むべきは和人の優越感である」
 
こういっては、憤懣の情を激しい言葉で叩きつけた。

 

 

 「そんなにおこらなくてもよいじゃないか」というと、「先生は和人だから気がつかないのだ。アイヌである自分にはシャクに障って障って」と若い頬を紅く染めては憤慨を続けるのだった。》
(古田謙二「落葉」 )


【余市コタン】

 余市のアイヌコタンは、昔は北海道でも有数の大きなコタンだったといいます。
 江戸時代の古地図には、現在の余市町のかなり広い範囲に集落が点在しています。
 しかし、大正時代にはわずかに余市川と登川の合流するところに十数世帯。
 のこりは、すべて和人が住むようになっていました。

 貧富の差はありましたが、コタンの人々は孤立していたわけではありません。
 余市には鰊漁という一つの巨大産業がありました。
 余市では、アイヌも和人も、その地域産業で生計を立てていましたから、漁業従事者として、和人の社会に適応せざるを得ません。


 北斗も地域のコミュニティの一員として、「青年団」に入っていました。
 余市の街のはずれにある、大家族のようなコタンで身を寄せ合って暮らしていて、漁場では和人と協力し、また競いあう日々。

【まま子】

 北斗は、当時の「雰囲気」について、こう語っています。

「私は小学生時代同級の誰彼に、さかんに蔑視されて毎日肩身せまい学生生活をしたと云う理由は、簡単明瞭『アイヌなるが故に』であった。
 現在でもアイヌは社会的まま子であって不自然な雰囲気に包まれてゐるのは遺憾である」

(違星北斗「アイヌの姿」)

 

 「まま子」とは義母、「まま母(継母)」に対しての「まま子」です。
 「社会的まま子」。なんという真に迫る言葉でしょうか。
 「まま子」は、好きで「まま子」になったわけではなく、父や母の、家庭環境の問題であるわけで、その「まま子」が家庭に感じるような不自然さを、北斗は社会に感じていました。

 まま子にとっては、母に甘えたくてもすでに母おらず、代わりに新しい「まま母」がいる。
 「まま母」と「まま子」の不自然さが漂う家庭の居づらさ。
 それが当時の社会とアイヌとの関係だったと。
 もちろん、北斗が感じた不自然さは、幼くして母を亡くした北斗だからこその的確な表現だと思います。
 

 この「アイヌの姿」は、違星北斗を知る上では必ず読むべき文だと思います。

------------------------------

>>その4に続く

<<その2に戻る

《違星北斗の生涯》INDEX

2012年5月 4日 (金)

違星北斗の生涯(その2 小学校編 編)

《違星北斗の生涯 まとめ》 

(その2 小学校編)

 ※これは管理人がやっているツイッター「違星北斗bot」(@kotan_bot)をまとめたものです。

------------------------------

 アイヌの歌人・違星北斗Botを作ってみました。違星北斗27年の生涯を、ツイートで追体験してみたいと思います。

------------------------------


【小学校時代】

 明治41年、北斗は小学校に入りますが、教育の重要性を知る母の強いすすめにより、4年制で科目も限定されていたアイヌ子弟のための「土人学校」ではなく、和人が通う6年制の大川尋常小学校に入学します。子の将来を想う親心でしたが、北斗にとっては熾烈な日々の始まりでした。


 北斗が小学校時代について語った言葉を引いてみます。

 「母は夙(つと)に学問の必要を感じて、家が貧乏であつたにも拘らず、私を和人(シャモ)の小学校に入れました。
 この時全校の児童中にアイヌの子供は三四名しか居ませんでしたので、アイヌ、アイヌといつて非常に侮蔑され、
 時偶(ときたま)なぐられることなどもありました。


 学校にいかないうちは、餓鬼大将であって、和人の子供などをいぢめて得意になっていた私は、学校へいってから急にいくぢなしになってしまいました。
 この迫害に堪え兼ねて、幾度か学校を止めようとしましたが、
母の奨励によって、六ケ年間の苦しい学校生活に堪えることが出来ました。もう高等科へ入る勇気などはとてもありませんでした。」

 (伊波普猷「目覚めつつあるアイヌ種族」 )


 …北斗は、差別と貧困の中で小学校時代を過ごすことになります。
 別の文からも少し引いてみます。

 「私の学校時代は泣かない日が無いと云う様な惨めな逆境にあった」
 「鉛筆一本も石筆一本も皆、ほかの学生の様に楽々と求められない家庭なのでした。
 読本などはたいてい古いので間に合せました」

 
(違星北斗「ウタリ・クスの先覚者中里徳太郎氏を偲びて」 )


 「生まれて八つまで、家庭ではアイヌであることも何も知らずに育った」
 「小学校にあがって、他の子供から『やいアイヌ、アイヌのくせになんだい』といわれて、泣いて家へ帰って、両親へわけをたずねて、はじめて自分たちがそういうものだということを知った」

 

 「それまで、何の曇りもなく無邪気に育ったものが、こゝに至って急に穴の中へさかさに突き落とされたよう、『どうしてアイヌなんどに生まれたんだろう』と、魂を削られるように悩みつづけて成長しました。」
 
(金田一京助「あいぬの話」 )


【奈良直弥先生】

 違星北斗(瀧次郎)は、小学校の時点から、和人社会の真っ只中に単身で入っていくことになりました。
 それは辛い経験ではありましたが、一方で、その後の彼の人生に大きな影響を与えることになります。担任の奈良直弥先生と出会ったことも、その一つでした。

 担任の奈良直弥先生は、北斗を非常に可愛がり、小学校卒業後もその交流は続きました。後に北斗は「短歌」で社会に訴えかけることになりましたが、北斗を余市の「俳句」同人に誘い、文筆の道へと導いたのが奈良先生です。
 後に北斗が上京する際にも力添えをしています。


【父・甚作の負傷】
 

 北斗が低学年の頃、父の甚作が熊狩りを行いました。
 これは、狩猟文化を若者に伝承するためのものでしたが、ここで甚作は羆と一対一の形で格闘し、大怪我をします。のちに、北斗はこの事を講演会で話しています。
 (違星北斗「熊の話」 )


【2年生・病気になる】

 2年生の時には、北斗は病気で57日間も学校を欠席しています。
 以後、北斗は数年ごとに大病を患うようになります。
 (北斗の成績表 )


【5年生・母の死】

 5年生の時、母ハルが亡くなってしまいます。
 差別の中で小学校に通い続ける北斗を励ましつづけたハルでしたが、ハルの死後、5、6年生になると「病気」ではなく「事故」扱いの欠席が増え、成績も下がってしまいます。


 北斗の母は、1911(大正元)年、11月11日に帰らぬ人となりました。
 1871(明治4)年生まれだから、満40歳。
 もちろん、小学生5年の瀧次郎は、大きなショックを受け、すっかり学校にも行かなくなってしまい、成績はガタ落ち。5年生では、全教科「乙」、ABCDでいえばBです。
 

 後年、北斗が母・ハルについて読んだ短歌。

 「正直が一番ン偉いと教へた母がなくなって十五年になる

 ……北斗の真面目さ、正直さは、母親からの教えでした。
 教育を重要視し、北斗に少しでも高い教育を受けさせようとした母。
 そして真っ直ぐな性格も母の教えからでした。


 もう一首。

 洋服の姿になるも悲しけれ あの世の母に見せられもせで

 北斗は、背広を作った時の歌です。
 せっかくの晴れ姿なのに、それを見て最も喜んでくれたであろう母はもうこの世にはいないのが、かえって悲しい、ということだと思います。

 

【母とカッコウ】

 北斗が母の思い出を詠んだ歌を何首か。

 「カッコウと まねればそれをやめさせた亡き母恋しい閑古鳥なく

 ……北斗がカッコウの鳴き真似をしたら、母親が止めさせたのでしょう。
 それはどういうことなのか。それは次の短歌に答えがあります。


 なぜ母はカッコウの鳴き真似を止めさせたのか……

 迷児をカッコウカッコウと呼びながら メノコの一念鳥になったと

 母は、北斗に言いました。
 ある母親が、迷い子になったわが子を「カッコウ、カッコウ」と呼ばわりながら探し歩き、ついにはその一念から鳥に姿を変えた。


 
 北斗は

 「『親おもふ心にまさる親心』とカッコウ聞いて母は云ってた」

 とも短歌に残しています。
 子が親を思う心とは、比べ物にならないほど、親心とは大きく、深く有りたいものなのだと。
 旅先でカッコウの声を聞いた北斗は、そこに亡き母の言葉と、その姿を想ったのでしょう。


 北斗にはそのカッコウを見たとき、二重の思いがあったと思います。
 一つは、母の思い出を呼び起こす鳥であり、同時に、その伝説では、カッコウは子を思う親心の一念が鳥となったものですから、すなわち母親の愛の姿そのものでもあった。
 そんなふうに思うと、感慨深い歌に思えます。


 この、カッコウになった母親の話ですが、やはり余市アイヌの伝説なのでしょうか。
 勉強不足でわかりません。
 あるいは、母ハルは和人の家に長く奉公していたので、日本の民話かもしれませんね。
 たとえば、これとか。
 (参考サイト『鳥小屋』「カッコウ」 )

【小学校卒業】

 1914(大正3)年3月24日、違星瀧次郎は大川尋常小学校を卒業します。
 卒業時の成績は算術が「甲」の他は、修身、国語、日本歴史、地理、理科、図画、唱歌、体操、手工、操行の全てが「乙」。
 欠席23日(事故)、身長135cm、体重28kg。体格は当時の平均程度。

 北斗の卒業アルバムは、現在も余市の大川小学校に保存されています。
 12歳の北斗は、シュッと引き締まった顔で、絣の着物を着ていました。
 小さいながらも、北斗だと一目でわかりました。
 もし北斗の本を出す時には、掲載の許可をもらいに行きたいと思っています。


 「迫害に堪へ兼ねて、幾度か学校を止めようとしましたが、母の奨励によつて、六ケ年間の苦しい学校生活に堪へることが出来ました。
 もう高等科へ入る勇気などはとてもありませんでした」

 (伊波普猷「目覚めつつあるアイヌ種族」)


 「とても高等科に入る勇気はありませんでした」とありますが、「高等科」がどういうものなのかというと、尋常小学校6年を終えると高等小学校2年、そこから旧制中学校等に進学できるようですが、戦前の教育制度はややこしいです。
(参考 wikipedia[高等小学校] )

------------------------------

>>その3に続く

<<その1に戻る

《違星北斗の生涯》INDEX

  
 

 

 
 

 

 

 

 

 

 

 
  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

違星北斗の生涯(その1 誕生・家族・故郷編)

《違星北斗の生涯》 

(その1 誕生・家族・故郷編 2011年2月7日~2月12日ツイート分

 ※これは管理人がやっているツイッター「違星北斗bot」(@kotan_bot)をまとめたものです。
   

----------------------------------

 アイヌの歌人・違星北斗Botを作ってみました。
 違星北斗27年の生涯を、ツイートで追体験してみたいと思います。

----------------------------------

【誕生】

 違星北斗は本名を瀧次郎(たきじろう)といいます。
 戸籍上の誕生日は1902(明治35)年の1月1日になっています。
 しかし、本人は1901(明治34年)年生まれだと言っています。


【誕生日】

 彼をよく知る親戚の女性が言うには、北斗は「12月の暮れも明けた頃」に生まれたといいます。なんのこっちゃ。
 まあ、事実としては1901年の12月末頃に生まれたのでしょう。
 でも、1902年の元旦生まれで届けを出したのでしょう。


【名前】

 北斗の本名は違星瀧次郎(たきじろう)。
 でも本当は、「竹次郎」とつけられるはずでした。
 役所に届ける時に、代書屋を頼んだのですが、口頭で「たけじろう」と言ったのが、代書屋には「たきじろう」と聞こえ、そのまま「瀧次郎」で届けられてしまいました。


 「竹次郎」が「瀧次郎」に。今はそれほどではないが、余市では「イ」音と「エ」音の混同があったようで、それは筆者が古老の方と話していても感じました。
 北斗自身もよくイ音とエ音の書き違えています。
 彼は和人社会では「瀧次郎」、コタンでは「竹次郎」「タケ」と呼ばれていました。


 彼の父の時代には、和人名とアイヌ名の両方を持っていましたが、さすがに北斗の世代の余市ではそういうことも少なかったようです。
 しかし、図らずしも北斗の中では戸籍名「瀧次郎」と、アイヌ社会での「タケ」が同居することになりました。
 後年、「北斗」と号するので彼には3つの名前があるということになります。


 彼は二つの名前により、日本人としての戸籍名瀧次郎と、アイヌとしてのタケの二つの顔を持たざるをえませんでした。
 その引き裂かれた名前を統合したのが、3番目の名前である「北斗」なのだとおもいます。
 彼は、自ら北斗と名付けることで、新たな自分を定義しようとしたわけです。


 北斗はまた、言葉の意味は時代によって変わっていき、また人為的に変えられる事を知っていました。
 彼は当時蔑称的に使われていた「アイヌ」という民族の名前について、それを恥じるのではなく、逆に「アイヌ」という言葉を誇らしい意味を持つ、新しい概念にしなければならないと考えました。


 その為には「吾アイヌ」と胸をはって、社会に役立つ人間にならねばならないと考えました。言葉によって人間は変わる。また言葉によって世界は変わる。北斗が後に言葉を武器に戦っていくようになるのは、彼の三つの名前とは無関係ではないとおもいます。


【祖父・万次郎】

 違星という珍しい苗字は、祖父・万次郎の時につけたものです。
 万次郎は、明治5年、アイヌ初の留学生の一人として、東京に留学させられましたが、成績優秀で、後に北海道庁に雇われました。
 明治6年、他の同族より少し早く苗字を名乗ることになりましたが、それが「違星」姓です。

【違星姓】

 元々は「チガイボシ」と読ませるつもりだったようです。
 万次郎の父方の紋(イカシシロシ)が「※」(の右左の点のないもの)だったのですが、ここからチガイボシと名づけました。
 家紋の用語で「×」をチガイ、点をホシといいます。
 それがイボシと読み慣らされてしまったのです。

 ちなみにイカシシロシは「翁」の「印」ということです。
 他の地方では「エカシ」といいますが、北斗は「イカシ」と表記します。
 やはり、イ音がエ音に転訛しています。
 文書によっては違星に「エボシ」とルビを振っているものもあり、自分の名前も「エ」に近い発音をしていたようです。

【家紋】

 これが、違星家のイカシシロシ。
 イカシシロシは男系に伝わる紋で、女系にはフチシロシ(媼・印)という紋が別にあったそうです。(参照「我が家名」) 

Ekashishiroshia_3

【余市コタン】

 違星北斗が生まれたのは、北海道後志支庁の余市町、積丹半島の付け根です。
 余市川と登川が交わるところに彼が生まれ育ったコタンがありました。
 余市はもともとはイヨチ・コタン。
 「それ(蛇)が多い所」の意味だそうです。
 古くからあったポロコタン(大きな村)だったようです。

【伝説】

 余市アイヌの名前は、太平洋側の日高のユーカラにも出てきます。
 逆に、余市にも日高の沙流アイヌの名前が出てきますが、余市に夜襲をかけてきた「敵」として登場します。
 あわやというところを、フクロウのカムイに救われます。
 北斗は後に沙流地方に住むことになりますので、奇縁を感じます。

 

 北斗の祖先はオタルナイ(小樽)にいたそうですが、海の神(シャチ)の怒りをかい、海で漂流して、イヨチコタン(余市)についたそうです。
 また余市コタンには、昔、海の魔物を倒したという、伝説の「ワタナベのヤリ」が神宝としてあり、それはつい最近まであったそうです。(参照)

 違星家の祖先が海で漁をしていると、突然恍惚として神通自在の霊域に入り、江戸も樺太も見透せたといいます。
 これを「ヌプル」といい、決して他言してはいけなかったのですが、禁を破って悪霊の祟りを受けてしまいます。
 以来違星家の男児は病弱となり、養子をとるようになったそうです。(参照)

【祖母】

 北斗の祖母は「てい」といいます。
 ていがいつ亡くなったかはわかりませんが、北斗の記述には一切出てきません。
 ていの父は「伊曽於久(イソヲク)」といい、違星家はこの祖母側の家系です。
 祖父の万次郎は婿養子でした。
 家系自体は祖母側から、家名は祖父の家紋からきているわけです。

【余市】

 余市の漁場を差配した林家の記録に、北斗の曽祖父、曾祖母の名前が見えます。
 曽祖父イコンリキは「脇乙名」という役職で、これは副村長格といったところでしょうか。
 余市は和人社会との接触が比較的早かったと北斗はいいます。
 鰊漁という巨大産業に、彼らは和人とともに従事しました。

 鰊漁でアイヌと和人と肩を並べて働く環境があったので、和人とアイヌとの関係は他の地方より比較的良好だったといいますが、もちろん差別はありました。
 北斗も幼い頃から、差別に苦しむことになります。
 社会で共生する中での差別という事では、今日的な構造に比較的近いのかもしれません。

【父親】

 違星北斗の父親は甚作(じんさく)。
 漁を生業としていました。
 余市は鰊(ニシン)漁で賑わった所ですが、北斗が生まれ育った頃には、その漁獲量は激減し、またアイヌが割り当てられる漁場は和人よりも不利な所だったそうで、一家の生活は決して楽ではありませんでした。
 甚作は正直で穏やかな人でしたが、一方で熊狩りの名人の勇敢なアイヌとして知られていました。
 暴れ熊が出たとなると、遠方まで出かけていって、熊を仕留めました。
 甚作の体にはたくさんの傷があり、顔にも大きな傷があったそうです。

 父甚作(セネツクル)は実は祖父万次郎(ヤリへ)と10歳しか歳が離れていません。
 親戚筋からの養子だったようです。
 温和で正直、いつもニコニコしている一方、狩猟では勇猛な、「アイヌらしいアイヌ」だったそうです。
 北斗は先進的な祖父と、アイヌらしい父に可愛がれれて育ちました。


【憧れ】

 祖父万次郎は、酒に酔う度にモシノシキ(国の真ん中)即ち東京の思い出を語りました。
 幼い北斗はまだ見ぬ文明の地、東京への憧れを抱き、同時に、熊狩りの名人であった父万次郎の熊との格闘の話に胸を躍らせました。
 和人とアイヌの二つの文化への憧れを区別することなく同時に抱きました。

【家宝】

 北斗の家には、神々を祀る祭壇があり、そこにはイナウ(幣、北斗は「イナホ」と表記)や弓矢、鉄砲、槍、刀などとともに、熊の頭骨が神聖なものとして飾られていましたが、北斗の頃にはその祭壇も朽ち果てて、昔を語るだけのものになっていたそうです。

【余市と熊】

 大正14年の余市の地図を見ると、余市コタンの中には「熊の碑」というものがあったと書いてあります。もっと大昔には、そこで子熊を飼っていたともいいますが、詳しいことはわかりません。北斗の時代には、熊送り(イオマンテ)もほとんど行われていなかったようです。

【母親】

 北斗の母親はハルといい、若い頃に和人の家で働いていたため、学問の必要性を感じていました。北斗を4年制で科目も少ない「土人学校」ではなく、和人の通う6年制の小学校に通わせました。そのおかげか、北斗は読書を好む勉強家となり、言葉を武器に戦うことのできる文章力を得ました。


【兄弟】

 違星北斗(瀧次郎)は、父甚作と母ハルの間の三男として生まれました。
 長男梅太郎は10歳年上。翌年生まれた次男は生まれて1か月で死んでいます。
 姉が二人いますが、次姉も3歳で無くなっています。
 弟が3人、妹が1人いますが、弟は3人とも死んでいます。
 違星家の男児は短命というのは、昔話ではなかのかもしれません。


 北斗は3男ですが、事実上は次男のようなものでした。
 10歳年上の兄の梅太郎に対して北斗はある種の苦手意識を持っていたようで、分かり合えたのは大人になってから。
 そこには複雑な理由がある気がしますが、よくわかりません。
 多くの兄弟が死に、最終的には兄、姉、北斗、妹が残りました。


【幼馴染み】

 北斗には、幼なじみに2歳年下の中里篤治がいました。
 生涯にわたる親友であり、共に活動した同志でした。
 篤治の父・徳太郎は余市コタンで一番の傑物として知られるアイヌの先覚者でした。
 また、北斗の父も中里家の出身で違星家に養子に来たので、篤治とはいとこ同士でもありました。


【中里徳太郎】

 この中里篤治の父親であり、北斗の叔父にあたるのが、余市アイヌの先覚者・中里徳太郎でした。
 徳太郎は、余市アイヌの豪傑として知られ、役所との交渉や互助組合設立など、コタンの生活向上に尽くした人です。
 この中里と違星が、当時の余市コタンの指導者的立場にあったそうです。

 北斗も徳太郎の影響を大きく受けています。
 彼は北斗より26歳年上ですが、コタンの青年を自宅に集めて指導しました。
 金田一京助は彼を高く評価しています。
 (金田一京助「あいぬの話」)
 北斗も彼について書き残しています。
 (違星北斗「ウタリ・クスの先覚者中里徳太郎氏を偲びて」)


【中里と違星】

 地元の和人からするとこの中里家が「顔役」という認識だったようで、アイヌのことで何かあればこの中里家に話が行きました。
 違星家はそれに次ぐ家格でした。この二家は当時の余市コタンの他のアイヌよりも大きな家に住んでいました。
 和人の中級労働者ぐらいの家だそうです。



【余市の伝説】

北斗に関係する余市の伝説です。

余市の伝説 余市アイヌの来歴、北斗の祖先の漂着、祭りでの惨事など。

怨霊の祟り 違星家が悪霊に呪われた経緯など。 

死後の世界 シリパ岬にある死後の世界への入口について。北斗筆記。

熊と熊取の話 熊取の名人鬼熊与兵衛の伝説。北斗筆記。

蝋燭岩の由来 神の剣と兜の話。余市沖のローソク岩の由来。北斗筆記。

烏と翁  やさしいおじいさんと烏の話。北斗筆記。

林檎の花の精 リンゴの花の精に魅入られた話。北斗筆記。


【余市以外の伝説】

半分白く半分黒いおばけ 人喰いお化けの話(バチラー八重子伝承、北斗筆記)  

世界の創造とねずみ   神々の戦いとネズミの話。(清川猪七翁談 北斗筆記)

------------------------------

>>その2に続く

《違星北斗の生涯》INDEX

 

« 2012年4月 | トップページ | 2012年6月 »

フォト

違星北斗bot(kotan_bot)

  • 違星北斗bot(kotan_bot)
2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
無料ブログはココログ