違星北斗の生涯(その2 小学校編 編)
《違星北斗の生涯 まとめ》
(その2 小学校編)
※これは管理人がやっているツイッター「違星北斗bot」(@kotan_bot)をまとめたものです。
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アイヌの歌人・違星北斗Botを作ってみました。違星北斗27年の生涯を、ツイートで追体験してみたいと思います。
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【小学校時代】
明治41年、北斗は小学校に入りますが、教育の重要性を知る母の強いすすめにより、4年制で科目も限定されていたアイヌ子弟のための「土人学校」ではなく、和人が通う6年制の大川尋常小学校に入学します。子の将来を想う親心でしたが、北斗にとっては熾烈な日々の始まりでした。
北斗が小学校時代について語った言葉を引いてみます。
「母は夙(つと)に学問の必要を感じて、家が貧乏であつたにも拘らず、私を和人(シャモ)の小学校に入れました。
この時全校の児童中にアイヌの子供は三四名しか居ませんでしたので、アイヌ、アイヌといつて非常に侮蔑され、 時偶(ときたま)なぐられることなどもありました。
学校にいかないうちは、餓鬼大将であって、和人の子供などをいぢめて得意になっていた私は、学校へいってから急にいくぢなしになってしまいました。
この迫害に堪え兼ねて、幾度か学校を止めようとしましたが、母の奨励によって、六ケ年間の苦しい学校生活に堪えることが出来ました。もう高等科へ入る勇気などはとてもありませんでした。」
(伊波普猷「目覚めつつあるアイヌ種族」 )
…北斗は、差別と貧困の中で小学校時代を過ごすことになります。
別の文からも少し引いてみます。
「私の学校時代は泣かない日が無いと云う様な惨めな逆境にあった」
「鉛筆一本も石筆一本も皆、ほかの学生の様に楽々と求められない家庭なのでした。
読本などはたいてい古いので間に合せました」
(違星北斗「ウタリ・クスの先覚者中里徳太郎氏を偲びて」 )
「生まれて八つまで、家庭ではアイヌであることも何も知らずに育った」
「小学校にあがって、他の子供から『やいアイヌ、アイヌのくせになんだい』といわれて、泣いて家へ帰って、両親へわけをたずねて、はじめて自分たちがそういうものだということを知った」
「それまで、何の曇りもなく無邪気に育ったものが、こゝに至って急に穴の中へさかさに突き落とされたよう、『どうしてアイヌなんどに生まれたんだろう』と、魂を削られるように悩みつづけて成長しました。」
(金田一京助「あいぬの話」 )
【奈良直弥先生】
違星北斗(瀧次郎)は、小学校の時点から、和人社会の真っ只中に単身で入っていくことになりました。
それは辛い経験ではありましたが、一方で、その後の彼の人生に大きな影響を与えることになります。担任の奈良直弥先生と出会ったことも、その一つでした。
担任の奈良直弥先生は、北斗を非常に可愛がり、小学校卒業後もその交流は続きました。後に北斗は「短歌」で社会に訴えかけることになりましたが、北斗を余市の「俳句」同人に誘い、文筆の道へと導いたのが奈良先生です。
後に北斗が上京する際にも力添えをしています。
【父・甚作の負傷】
北斗が低学年の頃、父の甚作が熊狩りを行いました。
これは、狩猟文化を若者に伝承するためのものでしたが、ここで甚作は羆と一対一の形で格闘し、大怪我をします。のちに、北斗はこの事を講演会で話しています。
(違星北斗「熊の話」 )
【2年生・病気になる】
2年生の時には、北斗は病気で57日間も学校を欠席しています。
以後、北斗は数年ごとに大病を患うようになります。
(北斗の成績表 )
【5年生・母の死】
5年生の時、母ハルが亡くなってしまいます。
差別の中で小学校に通い続ける北斗を励ましつづけたハルでしたが、ハルの死後、5、6年生になると「病気」ではなく「事故」扱いの欠席が増え、成績も下がってしまいます。
北斗の母は、1911(大正元)年、11月11日に帰らぬ人となりました。
1871(明治4)年生まれだから、満40歳。
もちろん、小学生5年の瀧次郎は、大きなショックを受け、すっかり学校にも行かなくなってしまい、成績はガタ落ち。5年生では、全教科「乙」、ABCDでいえばBです。
後年、北斗が母・ハルについて読んだ短歌。
「正直が一番ン偉いと教へた母がなくなって十五年になる」
……北斗の真面目さ、正直さは、母親からの教えでした。
教育を重要視し、北斗に少しでも高い教育を受けさせようとした母。
そして真っ直ぐな性格も母の教えからでした。
もう一首。
「洋服の姿になるも悲しけれ あの世の母に見せられもせで」
北斗は、背広を作った時の歌です。
せっかくの晴れ姿なのに、それを見て最も喜んでくれたであろう母はもうこの世にはいないのが、かえって悲しい、ということだと思います。
【母とカッコウ】
北斗が母の思い出を詠んだ歌を何首か。
「カッコウと まねればそれをやめさせた亡き母恋しい閑古鳥なく」
……北斗がカッコウの鳴き真似をしたら、母親が止めさせたのでしょう。
それはどういうことなのか。それは次の短歌に答えがあります。
なぜ母はカッコウの鳴き真似を止めさせたのか……
「迷児をカッコウカッコウと呼びながら メノコの一念鳥になったと」
母は、北斗に言いました。
ある母親が、迷い子になったわが子を「カッコウ、カッコウ」と呼ばわりながら探し歩き、ついにはその一念から鳥に姿を変えた。
北斗は
「『親おもふ心にまさる親心』とカッコウ聞いて母は云ってた」
とも短歌に残しています。
子が親を思う心とは、比べ物にならないほど、親心とは大きく、深く有りたいものなのだと。
旅先でカッコウの声を聞いた北斗は、そこに亡き母の言葉と、その姿を想ったのでしょう。
北斗にはそのカッコウを見たとき、二重の思いがあったと思います。
一つは、母の思い出を呼び起こす鳥であり、同時に、その伝説では、カッコウは子を思う親心の一念が鳥となったものですから、すなわち母親の愛の姿そのものでもあった。
そんなふうに思うと、感慨深い歌に思えます。
この、カッコウになった母親の話ですが、やはり余市アイヌの伝説なのでしょうか。
勉強不足でわかりません。
あるいは、母ハルは和人の家に長く奉公していたので、日本の民話かもしれませんね。
たとえば、これとか。
(参考サイト『鳥小屋』「カッコウ」 )
【小学校卒業】
1914(大正3)年3月24日、違星瀧次郎は大川尋常小学校を卒業します。
卒業時の成績は算術が「甲」の他は、修身、国語、日本歴史、地理、理科、図画、唱歌、体操、手工、操行の全てが「乙」。
欠席23日(事故)、身長135cm、体重28kg。体格は当時の平均程度。
北斗の卒業アルバムは、現在も余市の大川小学校に保存されています。
12歳の北斗は、シュッと引き締まった顔で、絣の着物を着ていました。
小さいながらも、北斗だと一目でわかりました。
もし北斗の本を出す時には、掲載の許可をもらいに行きたいと思っています。
「迫害に堪へ兼ねて、幾度か学校を止めようとしましたが、母の奨励によつて、六ケ年間の苦しい学校生活に堪へることが出来ました。
もう高等科へ入る勇気などはとてもありませんでした」
(伊波普猷「目覚めつつあるアイヌ種族」)
「とても高等科に入る勇気はありませんでした」とありますが、「高等科」がどういうものなのかというと、尋常小学校6年を終えると高等小学校2年、そこから旧制中学校等に進学できるようですが、戦前の教育制度はややこしいです。
(参考 wikipedia[高等小学校] )
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