違星北斗の生涯(その1 誕生・家族・故郷編)
《違星北斗の生涯》
(その1 誕生・家族・故郷編 2011年2月7日~2月12日ツイート分)
※これは管理人がやっているツイッター「違星北斗bot」(@kotan_bot)をまとめたものです。
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アイヌの歌人・違星北斗Botを作ってみました。
違星北斗27年の生涯を、ツイートで追体験してみたいと思います。
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【誕生】
違星北斗は本名を瀧次郎(たきじろう)といいます。
戸籍上の誕生日は1902(明治35)年の1月1日になっています。
しかし、本人は1901(明治34年)年生まれだと言っています。
【誕生日】
彼をよく知る親戚の女性が言うには、北斗は「12月の暮れも明けた頃」に生まれたといいます。なんのこっちゃ。
まあ、事実としては1901年の12月末頃に生まれたのでしょう。
でも、1902年の元旦生まれで届けを出したのでしょう。
【名前】
北斗の本名は違星瀧次郎(たきじろう)。
でも本当は、「竹次郎」とつけられるはずでした。
役所に届ける時に、代書屋を頼んだのですが、口頭で「たけじろう」と言ったのが、代書屋には「たきじろう」と聞こえ、そのまま「瀧次郎」で届けられてしまいました。
「竹次郎」が「瀧次郎」に。今はそれほどではないが、余市では「イ」音と「エ」音の混同があったようで、それは筆者が古老の方と話していても感じました。
北斗自身もよくイ音とエ音の書き違えています。
彼は和人社会では「瀧次郎」、コタンでは「竹次郎」「タケ」と呼ばれていました。
彼の父の時代には、和人名とアイヌ名の両方を持っていましたが、さすがに北斗の世代の余市ではそういうことも少なかったようです。
しかし、図らずしも北斗の中では戸籍名「瀧次郎」と、アイヌ社会での「タケ」が同居することになりました。
後年、「北斗」と号するので彼には3つの名前があるということになります。
彼は二つの名前により、日本人としての戸籍名瀧次郎と、アイヌとしてのタケの二つの顔を持たざるをえませんでした。
その引き裂かれた名前を統合したのが、3番目の名前である「北斗」なのだとおもいます。
彼は、自ら北斗と名付けることで、新たな自分を定義しようとしたわけです。
北斗はまた、言葉の意味は時代によって変わっていき、また人為的に変えられる事を知っていました。
彼は当時蔑称的に使われていた「アイヌ」という民族の名前について、それを恥じるのではなく、逆に「アイヌ」という言葉を誇らしい意味を持つ、新しい概念にしなければならないと考えました。
その為には「吾アイヌ」と胸をはって、社会に役立つ人間にならねばならないと考えました。言葉によって人間は変わる。また言葉によって世界は変わる。北斗が後に言葉を武器に戦っていくようになるのは、彼の三つの名前とは無関係ではないとおもいます。
【祖父・万次郎】
違星という珍しい苗字は、祖父・万次郎の時につけたものです。
万次郎は、明治5年、アイヌ初の留学生の一人として、東京に留学させられましたが、成績優秀で、後に北海道庁に雇われました。
明治6年、他の同族より少し早く苗字を名乗ることになりましたが、それが「違星」姓です。
【違星姓】
元々は「チガイボシ」と読ませるつもりだったようです。
万次郎の父方の紋(イカシシロシ)が「※」(の右左の点のないもの)だったのですが、ここからチガイボシと名づけました。
家紋の用語で「×」をチガイ、点をホシといいます。
それがイボシと読み慣らされてしまったのです。
ちなみにイカシシロシは「翁」の「印」ということです。
他の地方では「エカシ」といいますが、北斗は「イカシ」と表記します。
やはり、イ音がエ音に転訛しています。
文書によっては違星に「エボシ」とルビを振っているものもあり、自分の名前も「エ」に近い発音をしていたようです。
【家紋】
これが、違星家のイカシシロシ。
イカシシロシは男系に伝わる紋で、女系にはフチシロシ(媼・印)という紋が別にあったそうです。(参照「我が家名」)
違星北斗が生まれたのは、北海道後志支庁の余市町、積丹半島の付け根です。
余市川と登川が交わるところに彼が生まれ育ったコタンがありました。
余市はもともとはイヨチ・コタン。
「それ(蛇)が多い所」の意味だそうです。
古くからあったポロコタン(大きな村)だったようです。
【伝説】
余市アイヌの名前は、太平洋側の日高のユーカラにも出てきます。
逆に、余市にも日高の沙流アイヌの名前が出てきますが、余市に夜襲をかけてきた「敵」として登場します。
あわやというところを、フクロウのカムイに救われます。
北斗は後に沙流地方に住むことになりますので、奇縁を感じます。
北斗の祖先はオタルナイ(小樽)にいたそうですが、海の神(シャチ)の怒りをかい、海で漂流して、イヨチコタン(余市)についたそうです。
また余市コタンには、昔、海の魔物を倒したという、伝説の「ワタナベのヤリ」が神宝としてあり、それはつい最近まであったそうです。(参照)
違星家の祖先が海で漁をしていると、突然恍惚として神通自在の霊域に入り、江戸も樺太も見透せたといいます。
これを「ヌプル」といい、決して他言してはいけなかったのですが、禁を破って悪霊の祟りを受けてしまいます。
以来違星家の男児は病弱となり、養子をとるようになったそうです。(参照)
【祖母】
北斗の祖母は「てい」といいます。
ていがいつ亡くなったかはわかりませんが、北斗の記述には一切出てきません。
ていの父は「伊曽於久(イソヲク)」といい、違星家はこの祖母側の家系です。
祖父の万次郎は婿養子でした。
家系自体は祖母側から、家名は祖父の家紋からきているわけです。
【余市】
余市の漁場を差配した林家の記録に、北斗の曽祖父、曾祖母の名前が見えます。
曽祖父イコンリキは「脇乙名」という役職で、これは副村長格といったところでしょうか。
余市は和人社会との接触が比較的早かったと北斗はいいます。
鰊漁という巨大産業に、彼らは和人とともに従事しました。
鰊漁でアイヌと和人と肩を並べて働く環境があったので、和人とアイヌとの関係は他の地方より比較的良好だったといいますが、もちろん差別はありました。
北斗も幼い頃から、差別に苦しむことになります。
社会で共生する中での差別という事では、今日的な構造に比較的近いのかもしれません。
【父親】
違星北斗の父親は甚作(じんさく)。
漁を生業としていました。
余市は鰊(ニシン)漁で賑わった所ですが、北斗が生まれ育った頃には、その漁獲量は激減し、またアイヌが割り当てられる漁場は和人よりも不利な所だったそうで、一家の生活は決して楽ではありませんでした。
甚作は正直で穏やかな人でしたが、一方で熊狩りの名人の勇敢なアイヌとして知られていました。
暴れ熊が出たとなると、遠方まで出かけていって、熊を仕留めました。
甚作の体にはたくさんの傷があり、顔にも大きな傷があったそうです。
父甚作(セネツクル)は実は祖父万次郎(ヤリへ)と10歳しか歳が離れていません。
親戚筋からの養子だったようです。
温和で正直、いつもニコニコしている一方、狩猟では勇猛な、「アイヌらしいアイヌ」だったそうです。
北斗は先進的な祖父と、アイヌらしい父に可愛がれれて育ちました。
【憧れ】
祖父万次郎は、酒に酔う度にモシノシキ(国の真ん中)即ち東京の思い出を語りました。
幼い北斗はまだ見ぬ文明の地、東京への憧れを抱き、同時に、熊狩りの名人であった父万次郎の熊との格闘の話に胸を躍らせました。
和人とアイヌの二つの文化への憧れを区別することなく同時に抱きました。
【家宝】
北斗の家には、神々を祀る祭壇があり、そこにはイナウ(幣、北斗は「イナホ」と表記)や弓矢、鉄砲、槍、刀などとともに、熊の頭骨が神聖なものとして飾られていましたが、北斗の頃にはその祭壇も朽ち果てて、昔を語るだけのものになっていたそうです。
【余市と熊】
大正14年の余市の地図を見ると、余市コタンの中には「熊の碑」というものがあったと書いてあります。もっと大昔には、そこで子熊を飼っていたともいいますが、詳しいことはわかりません。北斗の時代には、熊送り(イオマンテ)もほとんど行われていなかったようです。
【母親】
北斗の母親はハルといい、若い頃に和人の家で働いていたため、学問の必要性を感じていました。北斗を4年制で科目も少ない「土人学校」ではなく、和人の通う6年制の小学校に通わせました。そのおかげか、北斗は読書を好む勉強家となり、言葉を武器に戦うことのできる文章力を得ました。
【兄弟】
違星北斗(瀧次郎)は、父甚作と母ハルの間の三男として生まれました。
長男梅太郎は10歳年上。翌年生まれた次男は生まれて1か月で死んでいます。
姉が二人いますが、次姉も3歳で無くなっています。
弟が3人、妹が1人いますが、弟は3人とも死んでいます。
違星家の男児は短命というのは、昔話ではなかのかもしれません。
北斗は3男ですが、事実上は次男のようなものでした。
10歳年上の兄の梅太郎に対して北斗はある種の苦手意識を持っていたようで、分かり合えたのは大人になってから。
そこには複雑な理由がある気がしますが、よくわかりません。
多くの兄弟が死に、最終的には兄、姉、北斗、妹が残りました。
【幼馴染み】
北斗には、幼なじみに2歳年下の中里篤治がいました。
生涯にわたる親友であり、共に活動した同志でした。
篤治の父・徳太郎は余市コタンで一番の傑物として知られるアイヌの先覚者でした。
また、北斗の父も中里家の出身で違星家に養子に来たので、篤治とはいとこ同士でもありました。
【中里徳太郎】
この中里篤治の父親であり、北斗の叔父にあたるのが、余市アイヌの先覚者・中里徳太郎でした。
徳太郎は、余市アイヌの豪傑として知られ、役所との交渉や互助組合設立など、コタンの生活向上に尽くした人です。
この中里と違星が、当時の余市コタンの指導者的立場にあったそうです。
北斗も徳太郎の影響を大きく受けています。
彼は北斗より26歳年上ですが、コタンの青年を自宅に集めて指導しました。
金田一京助は彼を高く評価しています。
(金田一京助「あいぬの話」)
北斗も彼について書き残しています。
(違星北斗「ウタリ・クスの先覚者中里徳太郎氏を偲びて」)
【中里と違星】
地元の和人からするとこの中里家が「顔役」という認識だったようで、アイヌのことで何かあればこの中里家に話が行きました。
違星家はそれに次ぐ家格でした。この二家は当時の余市コタンの他のアイヌよりも大きな家に住んでいました。
和人の中級労働者ぐらいの家だそうです。
【余市の伝説】
北斗に関係する余市の伝説です。
・余市の伝説 余市アイヌの来歴、北斗の祖先の漂着、祭りでの惨事など。
・怨霊の祟り 違星家が悪霊に呪われた経緯など。
・死後の世界 シリパ岬にある死後の世界への入口について。北斗筆記。
・熊と熊取の話 熊取の名人鬼熊与兵衛の伝説。北斗筆記。
・蝋燭岩の由来 神の剣と兜の話。余市沖のローソク岩の由来。北斗筆記。
・烏と翁 やさしいおじいさんと烏の話。北斗筆記。
・林檎の花の精 リンゴの花の精に魅入られた話。北斗筆記。
【余市以外の伝説】
半分白く半分黒いおばけ 人喰いお化けの話(バチラー八重子伝承、北斗筆記)
世界の創造とねずみ 神々の戦いとネズミの話。(清川猪七翁談 北斗筆記)
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とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。
投稿: 履歴書の職歴 | 2012年5月 4日 (金) 15時34分
学校で習う歴史に違和感がずっとありました。
北海道の人たちは、こっちの歴史うを知るほうが大事なのではないでしょうか?
郷土歴史の教科書があればいいのにねぇ
とても楽しく拝読しました。
また観に来ます!
投稿: 板林 | 2016年2月11日 (木) 14時13分