違星北斗の生涯(その4 恩師・思想の転機 編)
《違星北斗の生涯 まとめ》
(その4 恩師・思想の転機 編)
※これは管理人がやっているツイッター「違星北斗bot」(@kotan_bot)をまとめたものです。
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アイヌの歌人・違星北斗Botを作ってみました。違星北斗27年の生涯を、ツイートで追体験してみたいと思います。
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【大正9年】
18歳。
北斗は余市で畑を借りて、ナスを作るのですが、病気が再発します。
この病気が何月ごろからで、何月ごろまで悪かったのかはわかりませんが、北斗の手による年譜では「畑を借り茄子作、中途病気」とあるので、再発したのは夏に茄子が収穫を迎える前のどこかのタイミングでしょう。
【山岸礼三医師】
この年、8月には北斗は余市川で漁をしています。
病気が治っていたのかどうかはわかりません。
この漁の話は、なかなか面白いです。
北斗が余市川で投網をしていたら、魚と一緒に西瓜大の「土器」が網にかかります。
北斗はこれを家に持って帰ります。
この年の秋、余市に一人の医師が移住します。
元軍医で日露戦争に出征した山岸礼三医師です。
この山岸医師は、北斗らのコタンの近くに医院を構え、貧しい者にはお金を取らなかったという「コタンの赤ひげ」のような人でしたが、この山岸医師が特にかわいがったのが北斗でした。
山岸医師は、地元では郷土研究家としても知られていた人物ですが、その郷土研究のきっかけを作ったのが、他ならぬ北斗でした。
北斗は、山岸の移住当時から山岸医院をよく訪ねて、彼の話し相手になっていました。
最初は患者として訪れたのかもしれません。
山岸医師は、次のように北斗を語っています。
「違星竹二郎(号北斗、後に上京し金田一学士などの名士に参じたことのある、かつ、すこぶる気骨があり、また文雅の道にも趣味を有し、思索もするという面白い男であったが、惜しいことには、3年前に肺患で病没した)なる青年がいて、
時々余の宅を訪れて、私が移住当時の無聊を慰めてくれ、時にはアイヌ口碑や「カムイユーカラ」の伝説、現時における実生活状態など聞かしてくれたりして、ずいぶん私の新居地の東道役(案内役)になってくれた男であった。
しかるに、大正12年の春、彼が急性肺炎に罹り、かなり重患であったのを、私がいっさい引き受けて、入院せしめ、世話してやったのを、彼は喜んで、全快祝だと称して、彼が年来秘蔵したる西瓜大の土器一個を携帯し、寄贈してくれた。
これが私が土器を得たそもそもの初めである。
この品は彼が大正9年の秋、私がこの地に移居のわずか2、3ヶ月前のある日、余市川に投網して獲得したるもので、話に聞く土器であったから、『お授かり』の気持ちで、誰人の所望にも応じず保有していたものであると語った」
北斗は、治療のお礼に宝物の「土器」を山岸医師に贈ります。
山岸医師は
「この得難き一品を手に入れて、欣喜置く能はず(喜びを抑えられず)、心を尽くして彼をねぎらい、祝宴まで開いた」
といいます。
このプレゼントにより、山岸は考古学に興味を持つようになり、のちに余市中の遺跡を訪ねたり、発掘調査をして、医院の一角に展示コーナーまで設けます。
これを改めて読むと、北斗は18、9歳から考古学、民俗学、民族学あたりに興味があった模様ですね。
そのきっかけになったのが、このスイカ大の土器である可能性はあります。
山岸医師はこれを大事にし、いわば年若い北斗から引き継いて、郷土研究者となりました。
この土器がまだどこかにあるのかどうかは不明。余市大火事で失われたのかもしれません。
山岸医師は本州出身の元海軍中佐。いわばエリートで、おまけにコタンの赤ひげと呼ばれる、アイヌに同情を寄せる和人。
北斗の幸運は、余市時代から、奈良先生やら山岸医師やらに出会えたこと、そして彼らを楽しませるインテリジェンスを持っていたことかもしれません。
知性と茶目っ気、それにサービス精神。北斗はオヤジ受けするタイプかもしれませんが、悪くいえは、いい子すぎて、相手に気を遣うから、リップ・サービス気味の発言をすることもあり、それが後世の思想の偏った人々に利用されてしまうという側面もあります。
北斗は、その後、亡くなるまでこの山岸医師の治療を受けます。
(引用は山岸玄津(礼三)『北海道余市貝塚に於ける土石器の考察』 、多少、現代の言葉に変えてあります)
この文章の中には北斗の、その土器への考えも述べられていて、非常に興味深いです。
ちょっと脱線しますが、次に引用してみます。
「彼(北斗)がいうには、私ども民族の中では、従来土器の保有者は一名もなく、祖先から口碑にも聞いておらず、ただ伝えられているのは、余市アイヌがこの地に来た時、先住民族がいた。それはアイヌよりも小さく、弱い人種で、わけなく追っ払った。
この人種はアイヌ語では「クルブルクル」(石の家の人)で「ストーンサークル」(環状石籬)を作り、立て籠もった民族である。
ただし「コロボツクル」(蕗の下の人)人種の事を聞いているが、それかもしれぬ。
ただ先住民族がおったというから、あるいはその遺物であろうと思う」
北斗はこの土器を作ったのはアイヌではなく、アイヌよりも前にこの地にいた先住民族であると考えていました。
その考えは北斗の論文(「疑ふべきフゴツペの遺跡」)にも出てきます。
いわゆるコロポックル伝説ですが、余市では「クルブルクル」「クルプンウンクル」といい、少し違うようです。
余市の「コロポックル」はよく知られている伝説と同様、先住者の小人ではあるのですが、「蕗の下」ではなく「クルブルクル」石の家に住む者、「クルプンウンクル」石の下に住む者などと呼ばれました。
同じように語られがちなアイヌ文化ですが、地域によって違うということだと思います。
北斗が最後まで世話になった山岸医師は、新潟生まれ、陸軍軍医として日露戦争に従軍後、札幌陸軍病院長。陸軍中佐というので超エリートですね。風流人で、漢詩や書をよくし、玄津と号す。また、北斗の影響でアイヌ文化や考古学に興味を持ち、余市郷土研究会の初代会長となります。
【奈良直弥先生】
北斗の恩師といえば、小学校時代の担任だった奈良直弥先生。
慶応元年秋田生まれで、廃藩とともに渡道、函館支庁に勤務後、教員として白老に赴任、アイヌ子弟の教育に携わることとなります。
後に余市に転任し、北斗の担任となる。奈良は北斗を可愛がり、北斗は奈良から多大な影響を受けました。
北斗は小学校を卒業した後も、暇を見つけては奈良先生のところに行っていたようです。
この奈良先生の影響で北斗が始めたものはたくさんありますが、その一つが「俳句」。
北斗は短歌をつくりはじめる前に俳句を始めたていました。
奈良が属していた余市の句会に参加しはじめたのです。
【北斗の俳句の師】
北斗の俳句の師は古田謙二(冬草)と言われていますが、これは違うようです。
古田が北斗と出会ったのは大正13年1月のこと。その頃には、北斗はすでに俳句を作っています。
それに、古田と北斗は年齢が3歳しか違いません。俳句を始めたのは奈良の影響と思われます。
古田は余市小学校の訓導(先生)で、年も近いので、大川小学校の北斗とは師弟関係はありません。むしろ年の近い友人です。しかし、古田先生と呼ばれるうちに、誰かが、俳句の師といい出したのでしょう。
【北斗と社会主義】
大正10年、北斗は轟鉱山に出稼ぎします。
轟鉱山は余市にあった鉱山です。
「この頃北斗は轟鉱山に潜伏中の一青年に社会主義の手ほどきを受けた」
と『アイヌの歌人』の著者・湯本喜作はいいますが、間違いでしょう。
この人は実業家で、自分やらず人に調べさせ、自著として出していますが、残念ながら彼の本は間違いがたくさんあります。
今だに北斗が社会主義者だという人がいますが、これはありえないでしょう。
青春時代の一時期に齧った可能性はありますが、彼の言論からはそれを伺うことはできません。
おそらく、これは、のちに影響をうける西川光二郎が元平民社で社会主義者だったので、そこから出た説かもしれません。
西川光二郎は、平民社の設立メンバーの一人。
しかし、幸徳秋水事件等で何度も投獄され、転向しました。
北斗が会った大正から昭和初期の西川光二郎は、「自働道話」誌を発行し、精神修養主義を掲げた、政治的には大人しく体制に従順な文筆家となっていました。
この西川光二郎(光次郎とも書く)は、啄木に影響を与えた社会主義者としても有名。啄木と面識もあります。
北斗をアイヌの啄木と呼ぶ風潮の中には、こういう偶然の一致もあるのかもしれません。
でも、啄木が会ったゴリゴリの若い社会主義者と、北斗の会った頃の好々爺の西川はまるで別人です。
脱線しますが、北斗と啄木の類似点を挙げると、短歌、金田一京助との親交、西川光二郎からの影響をうけたこと、小樽との縁、27才で早逝など。
ですが、いずれも関わり方が違います。やはり、「アイヌの啄木」というのはどうかと思います。北斗は北斗です。
【奈良先生】
北斗の小学校の恩師奈良先生は、古田謙二によると次のような人。
「奈良先生は、非常に明るい人で、お酒が好き、俳句が好き、書道の達人-私がはじめて氏を知ったころは、白髭をながくあごにのばしていた」。
古田が奈良先生に出会ったのは、大正13年頃。
「ちょっと普通の先生の型にはまらぬところが、町民からまで『奈良先生、奈良先生』と愛されていた。北海道がまだ、北海道庁のおかれていない以前、即ち、三県時代といって、函館県、札幌県、根室県とに分かれていたころの、函館県の師範学校(たしか簡易科)の卒業生である」
明治初期は、北海道は三つの県に分けられていたんですね。
「氏の子息では、帯広市在住の能勢眞美氏(洋画家として北海道では有名)など知られている。
昔、松竹の映画俳優として知られた奈良眞養(マサヨ、シンヨウ)という人は、奈良先生の甥にあたる。」
以上、古田の語る奈良先生。
新米教師である古田からすると、奈良先生は大先輩です。
【小学校】
北斗の出た小学校は「大川小学校」ですが、古田はこう書いています。
「北斗たちは、余市の黒川分教場(大川小学校の分校で奈良先生一人で教えており、単級学校であった)にあがった」。
しかし、私が余市大川小学校で見た大正3年大川小学校の卒業アルバムでは、1クラス30人はいました。卒業アルバムだけ合同で撮ったのかもしれません。
【青年団】
北斗が、いつ頃から余市の青年団に参加したかは不明。
当時の青年団は、夜間勉強会なども行われ、充分な教育を受けられなかった青年たちの修養の場として機能していました。
別の見方をすれば、地域の青年団は地方の、そして全国の青年団につながる、思想教育のネットワークだったといえます。
だからといって、このような青年団の活動を否定するわけではありません。
小学校しか出ていない北斗ですが、その知性や思想の礎は、青年団活動や、その教育の担い手であった奈良先生らの影響下で育まれたものだと思います。
時代が違星北斗をつくった。北斗の言葉尻を捉えて現代の価値観であげつらう人がいますが、それは違うと思います。
ここでのキーワードが「修養」です。
正しい心と行ないを心掛け、常に勉学に励み、立派な人間になりなさい。
社会の役に立つ人間になりなさい……。
この考えは、現代にも通じる普遍的なもので、もちろんそれが間違っているというわけではありませんが、価値観が違うんですね。
当時は、この「社会」というのが、当時は「お国」だったわけです。
社会の役に立つ人=お国の役に立つ人、ということです。
当時の青年団の思想に大きな影響を与えていたのが、修養団。
蓮沼門三が明治39年に始めた社会運動団体で、その名の通り、国民に「修養」することを説いた。
学び、自制し、正しく生きよ。そうすれば、社会に役立つ立派な人間になれる。
この考えは貧しく真面目な青年たちの心を捉えていました。
【思想上の一大転機】
違星北斗の思想に大きな変化を及ぼしたのは、たった一言の優しい言葉でした。
少年期の北斗は、和人社会におけるアイヌへの差別的待遇に怒り、和人といえば、血も涙もない鬼のような者ばかりだと思い込んでいました。
病的なほど和人とその社会への恨みに凝り固まっていたのです。
この北斗の「思想の一大転機」について考えてみることにします。
繰り返しになりますが、少年期の北斗は、和人に対して反抗心を持っていました。
その頃の北斗は
「どうもシャモ(和人)に侮辱されるのが憤慨に堪えなかった」
といいます。
「今から十年程前の事、北海タイムス紙上に出た
《いさゝかの酒のことよりアイヌ等が/喧嘩してあり萩の夜辻に》
《わずか得し金もて酒を買ってのむ/刹那々々に活きるアイヌ等》
の歌をみて一層反逆思想に油をかけて燃えたものです。」
北斗は和人がアイヌについて詠んだ短歌を読み、激怒します。
「私の目にはシャモと云ふものは残忍な野蛮人である、とのみ思う様になりました」。
このように、北斗は和人に対して敵愾心を持ち、和人社会や日本という国を呪っていました。
しかし、その猛烈な、反逆思想を一変させるある出来事が起こります。
それは、和人のたった一言の言葉でした。
ある学校の会合に参加した北斗は、校長先生に呼ばれます。
「我々はアイヌとは言いたくはない言葉ではあるが、ある場合はアイヌと言った方が大そう便利な場合がある。また、言わねばならぬ事もある。その際アイヌと云った方がよいかそれとも土人と云った方が君達にやさしく響くか」
「……私はびっくりした、私は今まで和人は皆同情もない者ばかりだと考へていたのをこんなに遠慮して下さる人、しかもシャモにこの様な方のあるのは驚異であった」
「自分にはどちらも嫌な言葉であったものを――こんなに考へて下さる人があるとは思はなかったものを」
「私はその夜、自分の呪ったことの間違いであった事をやっと悟り、自分のあさましさにまた、不甲斐なさに泣きました」
(違星北斗「淋しい元気」)
和人を血も涙もない野蛮人ばかりだと思っていたのに、この一言によって、世界が変ったのです。
それはたった一言の、優しい言葉でした。その思いやりの言葉が、北斗の和人への反逆心、敵愾心を拭い去りました。
以後、社会に反逆し、和人への怨みを晴らすのではなく、アイヌとして立派な人になり、社会においてアイヌの地位を向上させなければならないと考えます。
この北斗に思想の転機をもたらした人は、余市の登村小学校の校長、島田弥三郎先生です。
この思想の転機については、この北斗自身のものの他、北斗が東京で語ったのを書き起こした金田一京助、伊波普猷によるテキストがありますが、微妙なニュアンスが違います。
同じ「思想上の一大転機」を描いたテキスト
(1)違星北斗「淋しい元気」
(2)伊波普猷「目覚めつつあるアイヌ種族」(後半にあり)
(3)金田一京助「慰めなき悲み」
(4)金田一京助「あいぬの話」
(5)「事件」の前後を描いたもの? 古田謙二「落葉」
思想の転機を描いたこれらのテキストは、それぞれ違い、矛盾点があります。
同じ金田一が書いた2編の間にも違いあり。
信憑性でいえば北斗>伊波>>金田一という感じでしょうか。
金田一京助は若い頃に詩人を目指しただけあって、どうもドラマチックに脚色したがるくせがあります。書いていて酔っちゃうんですね。
この北斗の「転機」については、余程気をつけて読まねばならないと思います。
文脈を読み、余白を読み、時代を考え、北斗の性格と、彼が想定したオーディエンスを考慮することが必要です。
これは、ただの「いい話」ではありません。
なんとも名状しがたい違和感を、決して見逃すべきではないと思います。
【徴兵検査】
大正11年、北斗は徴兵検査を受け、「甲種合格」します。病気がちな北斗が、甲種ということは、健康上も、精神的にも問題なしと判断されたわけです。
この頃は平和な、軍隊が軽んじられる風潮すらある時代でしたから、審査も甘かったのかもしれません。
この徴兵検査の頃の北斗が、和人への反逆思想を持っていたのか、「思想上の一大転機」を迎えていたかは、不明です。
この転機については、後で詳細に考えてみたいと思います。この転機は大正11年から大正12年頃だと思いますが、北斗の日記がないので様々な資料から推測するよりほかはありません。
【大正12年】
北斗は21歳のこの年も出稼ぎをしています。
「朝里等に落葉松伐採に従事、病気になる」
と『コタン』年譜にあります。
この時の病気は「急性肺炎」、重患だったのですが、3年前に近所に越してきた山岸医師の治療を受けて平癒し、お礼に川で拾った土器の壺を贈り、以後親しくなります。
【兵役】
同じ年の7月、北斗は兵役を務めますが、翌8月には除隊しています。
どうして一ヶ月で除隊になったのか、わからなかったのですが、北斗の友人・鍛冶照三氏によると「病気除隊」だそうです。
前述の「急性肺炎」のことかもしれません。
この時も、北斗がどのような気持ちで兵役に望んだのかは、記録がありませんので推測するしかありません。
例の「思想上の転機」を迎えていて、誇らしく思いながら行ったのか。あるいはイヤイヤ行ったのか。
兵役の一ヶ月にどのような出来事があり、何を思ったのかもわかりません。
北斗が配属されたのは陸軍旭川第七師団で、輜重(しちょう)兵卒としてでした。
輜重兵とは、輸送などの後方支援を任務とする兵士です。
北斗は一ヶ月で除隊していますが、気になるのは年譜の同年に
「上京の計画-震災中止」
とあること。
除隊後、上京の計画を立てていたようです。
【関東大震災】
この大正12年9月1日に関東大震災が起こり、北斗は上京の計画を中止します。
この時の「上京」がどのような目的だったのか、また「計画」がどれほど進んでいたかはわかりません。
8月に病気で除隊して、上京したいと思っていたが、震災で計画さえできなくなったということかもしれません。
このあたりの北斗の思想の変化については、資料が足りません。
例の思想の「一大転機」をいつ頃迎えたかがキーなのですが、この大正12年あたりだと考えるのが、今のところ一番自然かと思います。
翌大正13年の初頭にはおなじみの「いい子」の北斗の姿が記録に表れます。
大正期の、特に震災前までは、世界的な「軍縮」の時代で、兵隊が無用の長物として軽んじられた時代でした。
その中でも後方支援の輜重兵は「輜重兵が兵ならば蝶々もトンボも鳥のうち」と揶揄されていたそうです。
ところが大震災で軍隊や国家権力が活躍し、その流れが軍国化へと向かいます。
まるで現代の話みたいですが、北斗の生きたのは、そういう動いている時代の中でした。北斗の反逆心が、いつしか牙を抜かれ、丸められ、模範的な「いい子」となっていく。
北斗の心の動きは、変わっていく時代の雰囲気や風潮とシンクロしています。
大正12年は日本にも北斗にも転換点でした。
違星北斗が大震災の報を聞いたのは、余市でだろうとおもいます。
この時、外国人による犯罪、「井戸に毒を入れた」等のデマが流れました。
後に北斗は和人の前で「日本人の一員としてのアイヌ」を目指し、和人の前で朴烈などの「不逞外人」を糾弾するようになります。
震災は社会の空気や人の心を一変させます。
非常事態に軍部の力は復活し、兵隊が石を投げられるデモクラシーの時代は終わり、社会そのものが右傾化していく。
もちろん、関東大震災が北斗に与えた影響は上京中止以外は、今となってはわかりません。
ただ、社会に大きな影響を与えた事は間違いなく、北斗もその空気を吸って生きていたことは間違いがありません。
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>>その5に続く
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