« 注解アイヌ神謡集 | トップページ | 『伊波普猷全集』 »

2012年11月12日 (月)

「違星北斗君を悼む」

新短歌時代 第3巻第3号 昭和4年3月1日発行

『違星北斗君を悼む』      村上如月

 握飯腰にぶらさげ出る朝のコタンの空でなく鳶の声

 同族への悲壮な叫びも報ひられぬのみか、異端者として白眼視された時、焰と燃えた情熱は、何時しかあきらめを透して呪詛と変じて了はねばならなかつた。真剣に戦を戦うた君に、カムイ(神)は無上安楽の境地を、死に依つて与へたと謂ふことは、ハムベやハポに優る哀しみを、万に余る君の同族に均しく強く与へた結果となつた。歎かずにはをられない。
 一月廿六日―それは群星もあの天空にそのまゝ凍てついたかと思はれる程寒さの強い夕、私は、なにも知らずに、懐しい詩友の温容を瞳に拾うて、札幌の旅から帰つたのであつたが、君の霊魂は、この時すでに、コタンのつちを離れて、九品の浄域いや西方の九天にと昇るべく、ひたすらの旅立ちをしてゐた事であつたらう。
 病めば心は萎へるといへば、或は臨終の前には、神に凡てを委ねきつた君の姿であつたかも知らぬが、少くも私には、魂の奥底に石の如うにひそむ情熱がつゝむ「無念」の相の君ではなかつたかと想はれてならない。

 だうもうなつら魂をよそにして、弱いさびしいアイヌの心

 君の死を知つては俳壇の耆宿もない。私は早速にも短冊掛に、これを入換へねば済まなかつた。湧然として、君の姿が声が、私の書斎に現れれた。
 それだから私は今、君に喚びかける。
 人が称ぶ「凡平庵」に、君と初めて会うたのは、君も忘れはしまい、昭和二年も暮の十二月二日であつた。見ぬ恋が達せられたいつた形の私の前に、容赦もなく放げ与へられたのは、君のシヤモ(和人)に対する満々たる不平の怒号であつか。飽く迄濃い君の眉毛、朱を帯びた君の頬。

 アイヌッとただひと言が何よりの侮蔑となりて憤怒に燃江る

 そのかみ、徳冨芦花を殺めんとしたと謂ふ情熱はこれであつたか。然し昨年の春寒い三月十三日―君が雪にまみれた姿を、日高胆振の旅の帰りと謂うて、私の高原の家に現はした時、情熱はいや冴えに冴えたといふ想ひはしたが、唯シヤモに対しての空しい闘争のみではなく、同族の為に、国史の為に、アイヌ民族文化の跡を、アイヌの手に依つの研鑽したいと謂ふ、涙ぐましい態度を示したものであつた。かの西田教授との学理的抗争も、恒に考証に悩みつゝ、一歩も後へは退かじとした君の意気には、学徒ならざるが故のみではなく何かしら叱咤激励を続ければならない原因がある如うな、重苦しい想ひさへしたものである。
 メノコ可愛やシベチヤリ河で、誰に見せヨと髪をすく
 日高の話に花が咲いた。曇天のシベチヤリ河の、朝に泛ぶ丸木舟も哀しければ、馬歌山の伝説は、更にいたましい。
 日高名産栗毛の馬にメノコ乗せれば、あレ、月が出る。
殊にもウセナイの濱の秋風に、点在する草家の影。
 ニシパ(主人)ゐねとてセカチ(若者)がしのぶ草家ホイ/\月ばかり。
 こんな私の戯れを、君はどんなに嬉しがつたか。あゝ然し、私に懐かしかつた日高の旅も、君には、また白眼視する「日高アイヌ」の心情をにくむ心が絡はつて、つらく、哀しい日高の旅であるらしかつた。
 虎の仔の如うに大事に持つて来た「高杯」に首飾玉の一つを加へて、君は欣んでコタンへ帰つて行つたが、間もなくの病臥を旅疲れとのみ信じた事は、如何にも哀しすぎる憶測ではあつた。
 五月五日、浜風の寒い日、小樽から帰りをかねての約束に依つて、私は余市大川町の君を訪ねやうとしたのであつた。
訪ねる家は判らない。ハチヤコ(赤児)を背にしたバツコ(老婦)がきゝつけてわざ/゛\案内してくれたのだが、何故かしら、君の同族に親しみを得たいとする心には嬉しい記憶として残つてゐる。
 君よ、この日の君の言葉、些か窶れた頬などを、聴納め見納めと思ふて、私は余市のあの茅ぶきの嬉しい林檎の枝々を、車窓に送つてゐたのではなかつたか。凡ては尽きぬ怨みである。
 あはれ挽歌。
 然し歌ひ得ぬ私である。詠はれぬ今の私である。
 マキヤブといふひと言ゆゑに火と燃えた北斗星の血潮は セカチの血潮だ
                   ×
 雪よ降れ降つて夜となれあゝ一人こゝにも死れぬ男のまなざし
                   ×
 エカシらがコタンに泣く日セカチらが神に祈る日北斗が死んだ日

 註。イキャップ(アイヌ語。最モ忌マレル侮辱ノ言葉) エカシ(同。老爺)
   コタン((同。所又は村落)

 在りし日の君の生活を写す追憶記、君の業績を讃へる追憶言が、君をめぐるアナバ(親戚)や、イカテオマングル(朋友)に依つて為されるであらう事を信じてゐる。故あつて一年有余樽新文芸欄と断つた私が、まずしくもさびしい、君の追悼記の片鱗をももして蘇生らうとする事は、多少のシヨツクを感じられぬものでもない。 
 ともあれ君よ。
 君の霊位よ。
 永くコタンの空に君臨せよ。
 嗚呼、ラムコログル(葬儀に泣く人)も歎け。イコンヌグル(魔法使)も呪へ。
 月なき今宵、ただリコブさつそうと北にとぶ。
                                          ―(完)―

------------------------------
「歌壇戦線」

(略)

本道が産む唯一のアイヌ歌人違星北斗君、昨秋来の肺炎に虐まれあたら民族再興の覇気も空しく、痛ましくも青春と永別す。高商西田教授を向ふに廻して、樽新紙上に論陣を敷いた「フゴツペの研究」も半ばに夭折したことは、真に痛惜の限りである。村上如月、稲畑笑治両君の彼の死を悼む一文は、けだし彼の面目を写し得て余蘊あるまい。彼の遺稿は友人吉田伊勢両君の手に蒐められ、樽新又は本誌に順次採録することになつてゐる。吾等は二世違星北斗君の出現をまちたい。

(略)
------------------------------
「編集後記」

(略)最後に同人日出彦氏の養母、かつての加盟者違星北斗氏、高松利雄氏の死去に対して、茲に心から哀悼の意を表して置く【凡平】

------------------------------

 村上如月という人物に関しては、これまで知りませんでしたが、並木凡平周辺の歌人なのだと思います。

(新短歌時代、小樽新聞あたりを調べると掲載されているのでしょう)。

 北斗が「徳冨蘆花を殺めんとした」というのは初めて聞いた話です。

 もちろん、実行に移したわけではないでしょうが……話の流れから察するに、北斗が東京時代に徳冨蘆花に会ったことがあり、その際に北斗がアイヌであるということに対して侮蔑的なことを言ったのかもしれませんし、あるいは会ったことはなく、蘆花の書いたものを読んで北斗が激怒したのかもしれません。

 北斗には、情に厚い感激屋である一方で、そういう沸点の低いところがあって、吉田巌日記にも、北斗が金田一京助に対して、鉄腕を振るってやろうかと激昂したという記述があります。
 大文学者であれ、恩師であれ、許せないものは許せないということなのでしょう。

 

 中盤の短歌「メノコ可愛や~」「日高名産~」「ニシパ~」は北斗の作ではなく村上の作ですね。村上が日高を旅した際の短歌ですが、北斗はそれらを喜びつつも、《白眼視する「日高アイヌ」の心情をにくむ心》とあるように、平取時代には、同じアイヌの中で「よそ者」として差別された経験があり、あまりいい思い出がありません。

 「馬歌山の伝説は、更にいたましい」は、おそらく「真歌山」でしょう。シャクシャインの伝説かと思います。

 

 「歌壇戦線」には、「彼の遺稿は友人吉田伊勢両君の手に蒐められ、樽新又は本誌に順次採録することになつてゐる。」とあります。吉田は古田のことかもしれませんが……樽新(小樽新聞)や新短歌時代には、遺稿はあまり収録されず、東京の希望社から出ることになりました。

 希望社版の「コタン」は、多くの人に読まれましたが、東京の北斗のことも、アイヌのこともよく知らない人によって編まれたので、いろいろと難があると思います。
 もし、小樽の並木凡平周囲の人間の編集によって、遺稿が編まれたなら、また違ったものになったでしょう。

 

 

 

« 注解アイヌ神謡集 | トップページ | 『伊波普猷全集』 »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 注解アイヌ神謡集 | トップページ | 『伊波普猷全集』 »

フォト

違星北斗bot(kotan_bot)

  • 違星北斗bot(kotan_bot)
2023年5月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ