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2013年2月19日 (火)

「アイヌの歌人《違星北斗》――その青春と死をめぐって」(2)

2 コタン巡礼

 大正15年7月5日、24歳のアイヌの青年違星北斗(いぼし・ほくと、本名・滝次郎)は、東京での生活に終止符を打ち、郷里北海道へと戻ります。
 北斗はこの1年半の東京生活が「極楽」であったと記しています。
 生まれ育った北海道の余市では、和人からの差別に苦んできた北斗でしたが、東京ではその差別からも解放され、一青年として東京府市場協会の事務員として働き、経済的にも精神的にも安定した生活を送ることができた時期でした。
 多くの文化人と出会い、知識と思想を高めていったのもこの頃のことでした。金田一京助の導きで、学会に参加し、民俗学者の柳田国夫や中山太郎、考現学の 今和次郎、沖縄学の伊波普猷らと出会いました。また、作家の山中峯太郎とも親しく交わり、のちに山中は北斗をモデルにした小説を書いています。
 思想的には修養思想を説いた西川光次郎や希望社の後藤静香などに傾倒し、その活動を手伝い、また日蓮系の仏教団体、国柱会にも出入りしていました。
 あまりにも順調で、幸福な東京での生活でした。しかし、その幸福な生活がやがて北斗の心に新たな不安を芽生えさせることになります。

 これまで、ただ「アイヌである」ことを理由に、和人から差別されてきた自分が、今度は、ただ自分が「アイヌである」というだけの理由で、知名の士の会合に呼ばれてチヤホヤされ、演説したり銀の食器でご馳走になったりしている。これは結局、同じことではないのか。
 そう思い至った時、北斗は愕然とします。
 自分がこうして浮かれている間にも、北海道の各所では同族たちが差別に苦しみ、貧困に喘ぎ、病で命を落とそうとしているのではないか。それなのに自分は 一体何をしているのか。こうしている間にも、この地上から消し去られようとしているアイヌ民族の文化や先祖伝来の信仰、伝承に言語、そして何よりもアイヌ 民族自身の存在を、このまま永遠に滅びさせてはならない。その仕事は他ならぬアイヌ自身の手でやらなければならない。
 そう決意すると、北斗は「極楽」であった東京での生活をなげうち、北海道へ戻る決意を固めます。
 その青春のすべてを同胞の地位向上ために捧げる覚悟の帰郷でした。

          ※

 大正15年7月7日。北斗は幌別(現・登別)のバチラー八重子の教会で旅装を解きます。
 バチラー八重子は英国聖公会の宣教師ジョン・バチラーの養女となったアイヌの女性で、養父ともに伝道を通じてのアイヌ救済事業を展開していました。
 北斗はしばらく幌別の八重子のところに滞在し、その後日高の平取コタンに入るつもりだったようです。
 北斗はこの滞在中に、印象的な体験をします。教会の日曜礼拝に参列し、八重子のアイヌ語混じりのお祈りや、同族の信徒たちによるアイヌ語の讃美歌を聴い て、大いに感動し、以後この18歳年上の同族の女性のことを非常に敬愛するようになりました。日記や手紙には「ヤエ姉様」「お母様のよう」とあり、敬慕の 情が伺えます。
 しかし、北斗は当然あり得た、バチラー父娘の元で同族のために働くという選択肢を、なぜか選びませんでした。
 そこには、埋めがたい考え方の相違があったのだと思います。北斗は八重子と意見を交換するうちに、違和感を感じはじめます。バチラー教会の伝道を通じて のアイヌ施策は、北斗には遅々としてもどかしく思えました。また「布教」というが見え隠れしているのも気になったのかもしれません。北斗は、
 

   《五十年伝道されし此のコタン 見るべきものの無きを悲しむ》

 と、バチラーへの批判めいた短歌を詠み、後には「キリスト教ではアイヌは救えない」とも語っています。適度に距離を保ちながら、自分の信念に適う方法でアイヌ復権の運動を実行してゆくことになります。
 この他、北斗は幌別滞在中には知里幸恵の生家を訪ねて、その両親や、弟の知里真志保とも会ったり、幌別の同族と親交を温めたり、白老へ出かけてコタンの病院や小学校を訪ねたりと、精力的に動き回って、北海道における活動のスタートを切ります。

         ※

 約1週間の幌別滞在のあと、北斗は日高の平取のコタンに入ります。大正15年7月中旬のことです。
 北斗は、平取は「本当にあこがれの地」だったと書いています。おそらく金田一京助あたりから、平取は「アイヌの旧都」であり、アイヌ文化の中心地であ る、というように聞き、憧れを抱いて意気揚々とやってきたのだと思います。そこに知里幸恵が『アイヌ神謡集』に描いた失われた楽園の姿を重ね合わせていた のかもしれません。
 北斗が平取に入ってすぐの頃は、見るもの聞くもの全てが美しく、輝いて見えていました。日記や短歌にも平取の月や川にアイヌの神話や伝説を重ね合わせて感動し、興奮気味に伝える記述が見られます。
 平取に入ると、バチラーの平取教会の手伝いをしたり、土木や林業の肉体労働をしながら、平取を拠点に日高のコタンを巡り、コタンの指導者と意見交換をしたり、小学校に教材を配本したり、伝承を聞いたりと、活発に活動を始めます。
 
 しかし、北斗にとってあこがれの地であった平取コタンは、北斗を温かく迎えてくれませんでした。熱っぽく語る言葉は黙殺され、馬鹿にされ、あるいは皮肉 で返されました。さすがに落ち込んだりもしたようですが、北斗の覚悟はそこで引き下がるような生半可なものではありませんでした。
 北斗はその後も断続的に日高や胆振のコタンを巡り、多くの同胞に自覚を呼びかけ続けます。
 その運動はわずかずつにですが、確実に拡がって行き、やがて北斗と、同じようにコタン巡礼の旅を始めるようになる同族の若者たちとの出会いへ、さらに《アイヌ一貫同志会》と呼ばれた小さな結社の誕生へと繋がってゆくことになります。 

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※初出 「【本】のメルマガ」 2009年1月25日号(Vol.346)

【(3)に続く】

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