「アイヌの歌人《違星北斗》――その青春と死をめぐって」(3)
3 違星北斗の青春と死
昭和2年2月、違星北斗は平取をあとにし、その拠点を余市に移します。
春先には家業のニシン漁を手伝うのですが、生来病弱な北斗は、病を得て寝込んでしまいます。その療養中に幼なじみの中里凸天とともに作ったのが、のちに『違星北斗遺稿 コタン』にも収録された『コタン』という小冊子です。
巻頭には知里幸恵の『アイヌ神謡集』の「序文」が掲げられ、幸恵への敬意を表明しています。また、この中には思想の神髄というべき「アイヌの姿」という文章が掲載されており、この同人誌の内容は、違星北斗の思想の一つの到達点を示すものだといえると思います。
この同人誌の編集を終えた夏ごろ、北斗は病気から回復し、その活動はさらに活発になっていきます。北斗にとっての「コタン」、余市に戻ってきて、ようやく地に足の着いた活動ができるようになったのかもしれません。
この夏、北斗は余市の遺跡の調査や、余市の古老への聞き取り調査などを行い、これはのちに「疑ふべきフゴツペの遺跡」という新聞連載となって結実します。
秋頃には歌人として頭角を現し始めます。小樽の歌人並木凡平に認められ「歌壇の彗星」「同族の救世主」などという仰々しい二つ名を付けられて、口語短歌誌『新短歌時代』や『小樽新聞』で活躍しはじめます。
《私の歌はいつも論説の二三句を並べた様にゴツゴツしたもの許りである。(中略)歌に現はれた所は全くアイヌの宣伝と弁明とに他ならない。それには幾多の情実もあるが、結局現代社会の欠陥が然らしめるのだ。そして住み心地よい北海道、争闘のない世界たらしめたい念願が迸り出るからである。殊更に作る心算で個性を無視した虚偽なものは歌ひたくないのだ。》
北斗は自選歌集「北斗帖」の冒頭で自らの短歌をこのように解説しています。
《アイヌと云ふ新しくよい概念を 内地の人に与へたく思ふ》
《滅び行くアイヌの為めに起つアイヌ 違星北斗の瞳輝く》
《滅亡に瀕するアイヌ民族に せめては生きよ俺の此の歌》
確かに、文学的にみれば上手いとはいえないかもしれません。
ただ、「滅び行く民族アイヌ」というイメージが蔓延している和人社会に対して、北斗は短歌という表現手段を使って「アイヌはここにいる」と宣言し、「アイヌはほろびない」と同族を励ましたことに、大きな意味があると思います。
北斗は積極的に新聞、雑誌といったメディアを利用しました。北斗は若い頃新聞に掲載されたアイヌ蔑視の短歌を読み、怒りを燃え上がらせた経験があり、それが「短歌」で和人に復讐しようという決意の原点になったのだといいます。
東京時代には多くの出版人と交わり、自分も雑誌によって独修を重ねていた北斗は、メディアの力というもの知り、意識的にアイヌの「宣伝」をしたのです。
一方で北斗は、「口コミ」の力も重要であることを知っていました。
昭和2年の年末、北斗はコタンをめぐる旅に出ます。ガッチャキ(痔)の薬を行商しながらの旅でした。蓑や笠を身につけ、脚絆を巻き、大きな行李を背負い、冬の胆振・日高地方を歩き回りました。
同じ頃、北斗に共鳴した同族十勝の吉田菊太郎と鵡川の辺泥和郎が、同じように各地のコタンを巡り、自分たちのことを「アイヌ一貫同志会」と呼んでいたといいます。各地の同族の間にネットワークをつくることが目的でした。
《ガッチャキの薬を売ったその金で 十一州を視察する俺》
《仕方なくあきらめるんだと云ふ心 哀れアイヌを亡ぼした心》
《山中のどんな淋しいコタンにも 酒の空瓶たんと見出した》
行く先々のコタンでは諦めに支配され、酒におぼれる無気力な同族の姿を見て、北斗は失望することも少なくありませんでしたが、一方でこの道中で出会った同族の中から、未来の指導者が生まれているのですから、意義のある旅だったといえると思います。
1928(昭和3)年4月25日の夜、故里の余市に戻っていた違星北斗は、外出中に吐血します。
《咯血のその鮮紅色を見つめては 気を取り直す「死んぢゃならない」》
《あばら家に風吹き入りてごみほこり 立つ其の中に病みて寝るなり》
《続けては咳する事の苦しさに 坐って居れば縄の寄り来る》
当初、北斗は今回の発病も、すぐに直るだろうという希望を持っていたようですが、この年の病は、前年のよりもひどいようで、悪化する一方でした。
《希望もて微笑みし去年も夢に似て 若さの誇り我を去り行く》
《永いこと病んで臥たので意気失せて 心小さな私となった》
《血を吐いた後の眩暈に今度こそ 死ぬぢゃないかと胸の轟き》
闘病生活が長引くにつれ、北斗の希望に満ちた溌剌とした若さは影をひそめ、気が小さくなり、弱気な短歌が多くなります。この頃には東京時代の恩人に、ネガティブな手紙を書き送ってもいます。
下記の3首は友人の山上草人がこの頃の北斗の姿や発言を詠んだ短歌です。
《夕陽さす小窓の下に病む北斗 ほゝえみもせずじつと見つめる》
《この胸にコロポツクルが躍つてる 其奴が肺をけとばすのだ畜生!》
《忘恩で目さきの欲ばかりアイヌなんか 滅びてしまへと言つてはせきこむ》
冬になると、北斗の容態は悪化し、危篤のまま昭和4年の正月を迎えます。1月5日に危篤から回復したあと、翌日3首の短歌を日記に書き残しています。
《青春の希望に燃ゆる此の我に あゝ誰か此の悩みを与へし》
《いかにして「我世に勝てり」と叫びたる キリストの如安きに居らむ》
《世の中は何が何やら知らねども 死ぬ事だけは確かなりけり》
これが、北斗の絶筆となりました。その後、再び危篤状態となり、1月26日に絶命します。
青春の全てを同族の復興にかけた違星北斗は、苦悩の中にその生涯を閉じました。27歳でした。彼にその青春の「悩み」を与えた者が誰だったのか、彼がなぜその「悩み」と戦わねばならなかったのか。その問いかけに対して、そろそろ私たちは答えを出さなければならない時ではないでしょうか。
※違星北斗に興味を持たれた方は研究サイト「違星北斗.com」にお越しくださ
い。 http://iboshihokuto.com
◎山本由樹(やまもと・よしき):1972年兵庫県生まれ。違星北斗.com管理人
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※初出 「【本】のメルマガ」 2009年2月25日号(Vol.349)
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