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2013年2月

2013年2月23日 (土)

道新記事についての所感

 Tさんより、北海道新聞12日道東版夕刊に、北斗関連記事が掲載されているとのことを教えていただきました。

 「【ピヤラ アイヌ民族の今】釧東高・山本教諭 アイヌ民族三大歌人を調査 (2013/02/12)」

 (WEB上にもUPされていますので、こちらを御覧ください)。

 

 「釧路東高で国語を教える山本悦也教諭(57)が三大歌人の作った歌を調べたところ、アイヌ民族ならではの視点で、自分たちの思いをうたった短歌が多数発見された。」

 とのこと。

 

 あらら。呆然。

 

 「発見」っていわれても……。

 違星北斗、バチラー八重子、森竹竹市の三人の短歌を「発見」とな。

 講談社文芸文庫に入っている短歌を「発見」しちゃうんだ。

 そりゃ、この先生にしてみれば「調査」して「発見」かもしれないけど……新聞で「発見」っていうのは違うんでないかな。

 

 知ってる人はみんな知ってることですよね。

 こういうのは、「調査」「発見」はなくて、「読書」っていうんじゃないのかな。

 というか、「読書」による研究成果の「発表」ですよ。

 まあ……。
 
 この先生じゃなくて、記者の方に問題があるのかもしれないと思います。

 文面から「ニワカ」臭がぷんぷんしたので、とりあえず間違い探しをしてみます。

 まず、

 【あまり知られていないが、明治期から昭和にかけ「アイヌ民族三大歌人」と呼ばれる人たちがいた】

 明治は、さかのぼりすぎでしょう。「大正から昭和」というべき。

 三人とも明治生まれだとしても、歌人として知られるようになったのは昭和五年以降です。北斗と竹市は明治が終わる頃にはまだ子供だし、八重子にしても明治期に歌を作っていたという記録はない。
 

 そもそも、「アイヌ民族三大歌人」って括り方というのは、湯本喜作『アイヌの歌人』が出た1963年(昭和38年)以降じゃないかと思います。

 それまではバチラー八重子と違星北斗の二人が突出していて、森竹竹市はそんなに知られているわけではなかったと思います。

【釧路東高で国語を教える山本悦也教諭(57)が三大歌人の作った歌を調べたところ、アイヌ民族ならではの視点で、自分たちの思いをうたった短歌が多数発見された。日本文化の象徴でもある短歌に当時のアイヌ民族はどんな思いを託したのか。探った。(荻野貴生)】 

 

 もちろん、「発見」っていうような、未知の歌ありません。全部、講談社文芸文庫の「現代アイヌ文学作品選」を一冊に入っているわけですし、この本の存在をしらなかったにせよ、図書館や古本屋でそれぞれの本を見つけて、それを読めばわかることでしょう。

 それを「発見」って、どういうことなのか。ぬるすぎる。

 なんていうか……これはこの先生よりも、記者が薄すぎたのかもしれないな。私が記者だったら、「あまり知られていない【アイヌ民族三大歌人】を紹介した」と書くでしょうね。

 日本文化の象徴云々というのも、アレですよね。こういうい取り方をする人は昔から多くて、昭和5年に出た八重子の「若きウタリに」の序文で新島出が「女史が、祖先以来受け継いだところのアイヌの民族感情と、バチェラー老師の慈恩に導かれたキリスト教精神とを、敷島のやまと言葉に表現して」と書いているんです。
 でも、あったりまえじゃないかと。

 伝えるためには、伝えるという役目を果たせる道具を使わなきゃいけない。アイヌ語で伝える環境が「失われて」いて、日々日本語で生活しているのに、日本語で詠まなければ何語で詠むのか。

 なのに言葉を奪った側の和人サイドが「アイヌなのに我らが古来の和歌を読んでいる!すごい!」みたいなのはどうなのかなあ、と。

 他にも、こういう反応って結構あるんですよね。

 まあ、「和歌」という呼称は、ないでしょう。「短歌」です。
 それも、「敷島の大和言葉」を使いたかったわけでは決してなく、北斗は当時の最大のメディアであった「新聞」の中で、「ほぼ唯一、読者が自由に情報を発信できるコーナー」である「短歌欄」を使ったわけです。

 自分の思いを、短文として発表したんです。ツイッターのように。

 思い出したのですが、

「宮沢賢治が入っていた国柱会に違星北斗も入っていたことを発見した」という記事を書かれた学者さんがいて、その方が「アイヌの青年が仏教と関わりを持っていたとは興味深い」みたいなこと書いてるんですが、その時に思ったのは「あったりまえだろ! 北斗の家は祖父の代から禅宗だぞ!」と思ったのでした。
 「アンタ、大正に生きるアイヌ・違星北斗をまるで妖精の国か、イーハトーブの住人かと思っとるのかと」。

 新島出のような大学者もそうだし、今回の道新の記者も「日本文化の象徴」とか、そういう書き方をする。 

 なんだかなあ、といった感じです。

 で、肝心の北斗のことですが、

1_3

【違星北斗は「『アイヌ研究したら金になるか』と聞く人に『金になるよ』とよく云(い)ってやった」など、直接的な表現で社会を批判する作品も多いが、病に思い悩む啄木的な切なさを感じさせる歌もある。

 「病む故に、母が薪(まき)割るその音を、二階にて聞く淋(さび)しい俺だ」

 

 「世の中は何が何やら知らぬども死ぬ事だけは確かなりけり」】  

 

 え? 「病む故に」の歌って、これは……

 母が薪割る? 

 違星北斗の母って、小学生の時に死んでるんですけど……甚作さん、再婚したの?

 それとも、ファンタジー? メルヘン? 

 奇跡?魔法?でお母さんが蘇って薪を割ってくれてるの?

 ……あのさあ。どうしてこうなるのかな。

 これ、北斗の幼馴染の「中里篤治(凸天)」の短歌じゃないか。

 どこを見て北斗の短歌だと思ったのかしらないけど、「違星北斗遺稿 コタン」は、1930年版、1984年版、1995年版、すべて「凸天」って署名があるよね。

 だから、この「病む故に」の歌は、北斗のものではありません。

 ……

 こういう適当な記事を見ると、なんていうか、言葉がなくなりますね。

 道新の方にも訂正の依頼をしておきました。訂正するそうです。

(2013/02/23現在で、WEBはまだ変わっていないけど、道新の方には訂正文載ったのかな?)

 興味深いのが、違星北斗の間違いが掲載されている記事のその隣の記事が、「アイヌ民族の教科書記述」に「整合性不足や事実誤認も」っていう記事なことなんですね。
 ブーメランが横の記事に刺さっちゃった感じ。
 いろいろ深いというか、ほろ苦いなあ。 

 で、まとめなんですが、

 

【山本教諭は調査の過程で3人に交友関係のあることを知った。例えば違星北斗は教会でバチラー八重子の講話を聞いて、感銘を受け、手紙のやりとりもしていた。

 また、森竹竹市の遺稿集には次のような短歌が掲載されている。


 「北斗です出した名刺に『瀧次郎(本名)』逢いたかったと堅く手握る」


 これらの作品について山本教諭は「日本語を母国語としないアイヌ民族が1300年の伝統を持つ短歌を作ったことに大きな意義がある」と指摘。「作品は差別されてきたアイヌ民族の苦しみが実感できるもの。日本の植民地にされた台湾の人たちが『台湾万葉集』を出したのと同じで、『アイヌ万葉集』として評価されるべきものだ」と話している。 】

 

 これがまとめですって。

 3人に交流があったことは、いろんな本にも、北斗のウィキペディアにも書いてあることだし、ちょっと勉強すればわかることでしょう。

 というか、「交流があった」んじゃないんです。
 北斗が「交流があるようにした」んです。

 違星北斗なき後、全道のアイヌは団結しようと動き始めます。それが北海道アイヌ協会という組織になっていくわけですよね。

 北斗は、生前、主要人物たちに会って、団結をよびかけているんです。
 まるで、北斗は「縫い針」のような存在です。
 北斗は、道内のアイヌコタンをめぐり、糸のついた針のように、主要人物の心に穴をあけて、そこに糸を通して行きました。
 彼の死後、針は無くなったけど、糸は残った。
 吉田菊太郎、浦川太郎吉、八重子の弟である向井山雄、兄・違星梅太郎、知里幸恵の弟・知里真志保……北斗に影響された人々が、その残された糸を引っ張って、たぐっていったんですよ。そしたら、みんなつながっていった。

 北斗がみんなをつなぎとめたんです。交流があったんじゃなく、北斗の存在があっての「交流」だったんだと思うんです。
 

 ちょっとオーバーかもしれないんですが、私はそう思ってるんです。

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 で、結局のところ結論は「日本語を母国語としないアイヌ民族が1300年の伝統を持つ短歌を作ったことに大きな意義がある」

 って、そんなもんですか?

 短歌は北斗にとっては道具であり、武器でしたが、それは、17歳の時に、自らを傷つけた敵方の凶器でもあったんですよ。

 べつに1300年の伝統を持つ短歌をヨイショするんなら他でやればいいでしょう。かくいう私も大学で国文を勉強してましたから、和歌には和歌のすばらしさがあることは分かります。本棚には愛用のMY万葉集も、MY古事記もMY風土記もMY日本書紀もあります。自分のルーツにつながるものとして大好きです。僕にとっては日本語もルーツを示すものだから。

 だけど、台湾人やアイヌがその和歌のすばらしさ、大和言葉の美しさのために短歌を使ったわけではないと思うんですよね。

 それが日常使う「国語」だったから。

 いわばツールなんだ。最も効率よく心象を表せる言語だったから。

 そして、北斗の場合は「日本語しか使えなかった」から。

 自分の言葉を表すには、それしかなかったから。

 そして、短歌は、当時の最大のメディア「新聞」に数少ない読者発信のコーナー「投書欄」「短歌欄」「俳句欄」の中で、投書欄よりも載りやすく、俳句欄より情報量が多く、制約のない短歌を使うことになったのだと思います。

 釧路の山本悦也先生、これが違星北斗研究会の山本由樹の意見です。反論あるならコメントいただければ。

 そして、北海道新聞の荻野貴生さん。

 北斗はね、新聞(北海タイムズ)のアイヌ侮蔑の短歌2首によって、心を深く傷つけられ、人生観すら変えられたんですよ。

 上京中には、まだ無名だった北斗の東京での活躍をつたえ、差別体験を紹介する記事が、新聞(釧路新聞)に掲載されたりもしています。

 そして、大きく成長した北斗は、こんどはその新聞(小樽新聞)に短歌を掲載することによって、アイヌ復興の狼煙を上げ、北斗のフォロアーとなった森竹竹市は、北斗の短歌をその小樽新聞で読んだんですよ。

 北海タイムズ、釧路新聞、小樽新聞、全部、あなたの北海道新聞の前身でしょうが。

 新聞は、北斗の、そして森竹竹市の「戦場」だったんだと思います。

 道新の「ピヤラ」というのは、アイヌ文化を紹介するコーナーですよね。

 こんなシキシマのヤマト文化バンザイな、しょっぱい結論でいいんですか? 戦前の新島出の「アイヌなのにわれわれの敷島の大和言葉で和歌を」っていう結論でいいんですか? 自分なら書き直してもらいますよ。

 80年も「先祖返り」しないでほしいもんです。

2013年2月19日 (火)

「アイヌの歌人《違星北斗》――その青春と死をめぐって」(3)

3 違星北斗の青春と死

 昭和2年2月、違星北斗は平取をあとにし、その拠点を余市に移します。
 春先には家業のニシン漁を手伝うのですが、生来病弱な北斗は、病を得て寝込んでしまいます。その療養中に幼なじみの中里凸天とともに作ったのが、のちに『違星北斗遺稿 コタン』にも収録された『コタン』という小冊子です。
 巻頭には知里幸恵の『アイヌ神謡集』の「序文」が掲げられ、幸恵への敬意を表明しています。また、この中には思想の神髄というべき「アイヌの姿」という文章が掲載されており、この同人誌の内容は、違星北斗の思想の一つの到達点を示すものだといえると思います。
 この同人誌の編集を終えた夏ごろ、北斗は病気から回復し、その活動はさらに活発になっていきます。北斗にとっての「コタン」、余市に戻ってきて、ようやく地に足の着いた活動ができるようになったのかもしれません。
 この夏、北斗は余市の遺跡の調査や、余市の古老への聞き取り調査などを行い、これはのちに「疑ふべきフゴツペの遺跡」という新聞連載となって結実します。
 秋頃には歌人として頭角を現し始めます。小樽の歌人並木凡平に認められ「歌壇の彗星」「同族の救世主」などという仰々しい二つ名を付けられて、口語短歌誌『新短歌時代』や『小樽新聞』で活躍しはじめます。

  《私の歌はいつも論説の二三句を並べた様にゴツゴツしたもの許りである。(中略)歌に現はれた所は全くアイヌの宣伝と弁明とに他ならない。それには幾多の情実もあるが、結局現代社会の欠陥が然らしめるのだ。そして住み心地よい北海道、争闘のない世界たらしめたい念願が迸り出るからである。殊更に作る心算で個性を無視した虚偽なものは歌ひたくないのだ。》

 北斗は自選歌集「北斗帖」の冒頭で自らの短歌をこのように解説しています。

 《アイヌと云ふ新しくよい概念を 内地の人に与へたく思ふ》
 《滅び行くアイヌの為めに起つアイヌ 違星北斗の瞳輝く》
 《滅亡に瀕するアイヌ民族に せめては生きよ俺の此の歌》

 確かに、文学的にみれば上手いとはいえないかもしれません。
 ただ、「滅び行く民族アイヌ」というイメージが蔓延している和人社会に対して、北斗は短歌という表現手段を使って「アイヌはここにいる」と宣言し、「アイヌはほろびない」と同族を励ましたことに、大きな意味があると思います。

 北斗は積極的に新聞、雑誌といったメディアを利用しました。北斗は若い頃新聞に掲載されたアイヌ蔑視の短歌を読み、怒りを燃え上がらせた経験があり、それが「短歌」で和人に復讐しようという決意の原点になったのだといいます。
 東京時代には多くの出版人と交わり、自分も雑誌によって独修を重ねていた北斗は、メディアの力というもの知り、意識的にアイヌの「宣伝」をしたのです。
 一方で北斗は、「口コミ」の力も重要であることを知っていました。
 昭和2年の年末、北斗はコタンをめぐる旅に出ます。ガッチャキ(痔)の薬を行商しながらの旅でした。蓑や笠を身につけ、脚絆を巻き、大きな行李を背負い、冬の胆振・日高地方を歩き回りました。
 同じ頃、北斗に共鳴した同族十勝の吉田菊太郎と鵡川の辺泥和郎が、同じように各地のコタンを巡り、自分たちのことを「アイヌ一貫同志会」と呼んでいたといいます。各地の同族の間にネットワークをつくることが目的でした。

 《ガッチャキの薬を売ったその金で 十一州を視察する俺》
 《仕方なくあきらめるんだと云ふ心 哀れアイヌを亡ぼした心》
 《山中のどんな淋しいコタンにも 酒の空瓶たんと見出した》

 行く先々のコタンでは諦めに支配され、酒におぼれる無気力な同族の姿を見て、北斗は失望することも少なくありませんでしたが、一方でこの道中で出会った同族の中から、未来の指導者が生まれているのですから、意義のある旅だったといえると思います。
 1928(昭和3)年4月25日の夜、故里の余市に戻っていた違星北斗は、外出中に吐血します。

 《咯血のその鮮紅色を見つめては 気を取り直す「死んぢゃならない」》
 《あばら家に風吹き入りてごみほこり 立つ其の中に病みて寝るなり》
 《続けては咳する事の苦しさに 坐って居れば縄の寄り来る》

 当初、北斗は今回の発病も、すぐに直るだろうという希望を持っていたようですが、この年の病は、前年のよりもひどいようで、悪化する一方でした。

 《希望もて微笑みし去年も夢に似て 若さの誇り我を去り行く》
 《永いこと病んで臥たので意気失せて 心小さな私となった》
 《血を吐いた後の眩暈に今度こそ 死ぬぢゃないかと胸の轟き》

 闘病生活が長引くにつれ、北斗の希望に満ちた溌剌とした若さは影をひそめ、気が小さくなり、弱気な短歌が多くなります。この頃には東京時代の恩人に、ネガティブな手紙を書き送ってもいます。
 下記の3首は友人の山上草人がこの頃の北斗の姿や発言を詠んだ短歌です。

 《夕陽さす小窓の下に病む北斗 ほゝえみもせずじつと見つめる》
 《この胸にコロポツクルが躍つてる 其奴が肺をけとばすのだ畜生!》
 《忘恩で目さきの欲ばかりアイヌなんか 滅びてしまへと言つてはせきこむ》

 冬になると、北斗の容態は悪化し、危篤のまま昭和4年の正月を迎えます。1月5日に危篤から回復したあと、翌日3首の短歌を日記に書き残しています。

 《青春の希望に燃ゆる此の我に あゝ誰か此の悩みを与へし》 
 《いかにして「我世に勝てり」と叫びたる キリストの如安きに居らむ》
 《世の中は何が何やら知らねども 死ぬ事だけは確かなりけり》

 これが、北斗の絶筆となりました。その後、再び危篤状態となり、1月26日に絶命します。

 青春の全てを同族の復興にかけた違星北斗は、苦悩の中にその生涯を閉じました。27歳でした。彼にその青春の「悩み」を与えた者が誰だったのか、彼がなぜその「悩み」と戦わねばならなかったのか。その問いかけに対して、そろそろ私たちは答えを出さなければならない時ではないでしょうか。

※違星北斗に興味を持たれた方は研究サイト「違星北斗.com」にお越しくださ
い。 
http://iboshihokuto.com

◎山本由樹(やまもと・よしき):1972年兵庫県生まれ。違星北斗.com管理人

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※初出 「【本】のメルマガ」 2009年2月25日号(Vol.349)

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「アイヌの歌人《違星北斗》――その青春と死をめぐって」(2)

2 コタン巡礼

 大正15年7月5日、24歳のアイヌの青年違星北斗(いぼし・ほくと、本名・滝次郎)は、東京での生活に終止符を打ち、郷里北海道へと戻ります。
 北斗はこの1年半の東京生活が「極楽」であったと記しています。
 生まれ育った北海道の余市では、和人からの差別に苦んできた北斗でしたが、東京ではその差別からも解放され、一青年として東京府市場協会の事務員として働き、経済的にも精神的にも安定した生活を送ることができた時期でした。
 多くの文化人と出会い、知識と思想を高めていったのもこの頃のことでした。金田一京助の導きで、学会に参加し、民俗学者の柳田国夫や中山太郎、考現学の 今和次郎、沖縄学の伊波普猷らと出会いました。また、作家の山中峯太郎とも親しく交わり、のちに山中は北斗をモデルにした小説を書いています。
 思想的には修養思想を説いた西川光次郎や希望社の後藤静香などに傾倒し、その活動を手伝い、また日蓮系の仏教団体、国柱会にも出入りしていました。
 あまりにも順調で、幸福な東京での生活でした。しかし、その幸福な生活がやがて北斗の心に新たな不安を芽生えさせることになります。

 これまで、ただ「アイヌである」ことを理由に、和人から差別されてきた自分が、今度は、ただ自分が「アイヌである」というだけの理由で、知名の士の会合に呼ばれてチヤホヤされ、演説したり銀の食器でご馳走になったりしている。これは結局、同じことではないのか。
 そう思い至った時、北斗は愕然とします。
 自分がこうして浮かれている間にも、北海道の各所では同族たちが差別に苦しみ、貧困に喘ぎ、病で命を落とそうとしているのではないか。それなのに自分は 一体何をしているのか。こうしている間にも、この地上から消し去られようとしているアイヌ民族の文化や先祖伝来の信仰、伝承に言語、そして何よりもアイヌ 民族自身の存在を、このまま永遠に滅びさせてはならない。その仕事は他ならぬアイヌ自身の手でやらなければならない。
 そう決意すると、北斗は「極楽」であった東京での生活をなげうち、北海道へ戻る決意を固めます。
 その青春のすべてを同胞の地位向上ために捧げる覚悟の帰郷でした。

          ※

 大正15年7月7日。北斗は幌別(現・登別)のバチラー八重子の教会で旅装を解きます。
 バチラー八重子は英国聖公会の宣教師ジョン・バチラーの養女となったアイヌの女性で、養父ともに伝道を通じてのアイヌ救済事業を展開していました。
 北斗はしばらく幌別の八重子のところに滞在し、その後日高の平取コタンに入るつもりだったようです。
 北斗はこの滞在中に、印象的な体験をします。教会の日曜礼拝に参列し、八重子のアイヌ語混じりのお祈りや、同族の信徒たちによるアイヌ語の讃美歌を聴い て、大いに感動し、以後この18歳年上の同族の女性のことを非常に敬愛するようになりました。日記や手紙には「ヤエ姉様」「お母様のよう」とあり、敬慕の 情が伺えます。
 しかし、北斗は当然あり得た、バチラー父娘の元で同族のために働くという選択肢を、なぜか選びませんでした。
 そこには、埋めがたい考え方の相違があったのだと思います。北斗は八重子と意見を交換するうちに、違和感を感じはじめます。バチラー教会の伝道を通じて のアイヌ施策は、北斗には遅々としてもどかしく思えました。また「布教」というが見え隠れしているのも気になったのかもしれません。北斗は、
 

   《五十年伝道されし此のコタン 見るべきものの無きを悲しむ》

 と、バチラーへの批判めいた短歌を詠み、後には「キリスト教ではアイヌは救えない」とも語っています。適度に距離を保ちながら、自分の信念に適う方法でアイヌ復権の運動を実行してゆくことになります。
 この他、北斗は幌別滞在中には知里幸恵の生家を訪ねて、その両親や、弟の知里真志保とも会ったり、幌別の同族と親交を温めたり、白老へ出かけてコタンの病院や小学校を訪ねたりと、精力的に動き回って、北海道における活動のスタートを切ります。

         ※

 約1週間の幌別滞在のあと、北斗は日高の平取のコタンに入ります。大正15年7月中旬のことです。
 北斗は、平取は「本当にあこがれの地」だったと書いています。おそらく金田一京助あたりから、平取は「アイヌの旧都」であり、アイヌ文化の中心地であ る、というように聞き、憧れを抱いて意気揚々とやってきたのだと思います。そこに知里幸恵が『アイヌ神謡集』に描いた失われた楽園の姿を重ね合わせていた のかもしれません。
 北斗が平取に入ってすぐの頃は、見るもの聞くもの全てが美しく、輝いて見えていました。日記や短歌にも平取の月や川にアイヌの神話や伝説を重ね合わせて感動し、興奮気味に伝える記述が見られます。
 平取に入ると、バチラーの平取教会の手伝いをしたり、土木や林業の肉体労働をしながら、平取を拠点に日高のコタンを巡り、コタンの指導者と意見交換をしたり、小学校に教材を配本したり、伝承を聞いたりと、活発に活動を始めます。
 
 しかし、北斗にとってあこがれの地であった平取コタンは、北斗を温かく迎えてくれませんでした。熱っぽく語る言葉は黙殺され、馬鹿にされ、あるいは皮肉 で返されました。さすがに落ち込んだりもしたようですが、北斗の覚悟はそこで引き下がるような生半可なものではありませんでした。
 北斗はその後も断続的に日高や胆振のコタンを巡り、多くの同胞に自覚を呼びかけ続けます。
 その運動はわずかずつにですが、確実に拡がって行き、やがて北斗と、同じようにコタン巡礼の旅を始めるようになる同族の若者たちとの出会いへ、さらに《アイヌ一貫同志会》と呼ばれた小さな結社の誕生へと繋がってゆくことになります。 

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※初出 「【本】のメルマガ」 2009年1月25日号(Vol.346)

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「アイヌの歌人《違星北斗》――その青春と死をめぐって」(1)

※この文章は 「【本】のメルマガ」 
2008年12月25日号(Vol.343)、
2009年1月25日号(Vol.346)、2月25日号(Vol.349)に掲載されたものです。
多少、今日の見解と異なる部分もありますが、そのまま転載します。

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■「アイヌの歌人《違星北斗》――その青春と死をめぐって」   山本由樹


はじめに

 これから3回に渡って、違星北斗(いぼし・ほくと)というアイヌの歌人のことを紹介したいと思います。

 北斗は号で、本名を滝次郎といい、1901(明治34)年に北海道の余市町で生まれました。
 彼が生きた時代、アイヌの人々は、過酷な生活を強いられていました。かつて北海道の地の主であった彼らは、後から入ってきた和人たちが作り上げた社会の中で、マイノリティとして差別と貧困の中での生活を余儀なくされていました。アイヌ語の使用も、伝統的な狩猟生活も禁じられ、伝染病によって命を落とす者や、酒によって身を持ち崩す者も少なくありませんでした。いつしか「滅び行く民族」などという一方的な烙印を押され、国家の推進する「同化政策」によって、その存在をも、歴史の中に葬り去られようとしていたのです。
 そんな時でした。一人のアイヌ青年が一人立ち上がりました。

 「アイヌが滅びてなるものか。違星北斗はアイヌだ」

 違星北斗は、アイヌの青年の肉声を、「短歌」の形にして、北海道内の新聞や短歌雑誌に発表し、「俺はアイヌだ、俺はここにいる」とその存在を「逆宣伝」的に示したのです。

  
 《アイヌと云ふ新しくよい概念を 内地の人に与へたく思ふ》

 《滅び行くアイヌの為めに起つアイヌ 違星北斗の瞳輝く》

 《俺はただアイヌであると自覚して 正しい道を踏めばよいのだ》

                                     (「違星北斗遺稿『コタン』」草風館)

  
 北斗は、アイヌは和人と同化して消えてなくなるのではない、アイヌとしての自覚を持った上で、社会に貢献できるように修養しなければならないと考えていました。
 彼は短歌を発表すると同時に、自らの足で北海道各地のアイヌコタンを巡り歩き、差別や貧困の中に喘ぐ同族に語りかけ、自覚と団結を説いて回りました。
 しかし、生来病弱であった彼は結核に冒され、昭和4年、27歳の若さで生涯を閉じました。そのため歌人としての活動期間は約2年と極めて短く、北海道のメディアを主な発表の場としていたため、全国的には全く知られていません。
 しかしながら、彼が短歌に込めたメッセージは、多くの同族に影響を与え、その後のアイヌの進むべき方向をさししめしました。北海道の歴史、特にアイヌ民族の思想史を語る上では欠かすことの出来ない人物だと思います。
 来る平成20年1月26日、違星北斗は没後80年を迎えます。地元余市町でも、違星北斗に対して関する催しはないようですが、その青春のすべてを同族の地位向上の為に捧げた情熱の歌人・違星北斗の生涯は、もっと多くの人に知られてもよいと思います。


1 成宗の一夜

 大正14年2月15日。違星北斗滝次郎は、東京府市場協会の事務員という職を得て上京します。
 彼の祖父・万次郎は、明治の初めに政府が行ったアイヌの留学生の一人として東京の地で学びました。ほろ酔いになると孫たちに東京の思い出話を語ったといい、その影響から、北斗には、東京に対する憧れがありました。
 祖父の時代から50年を経た大正末の東京で、23歳の北斗は多くの出会いに恵まれます。学者、作家、出版人、思想家と、そうそうたる名士の知遇を得るのですが、その中でも、特に大きな影響を与え、後の人生の方向性を定めたのがアイヌ語学者・金田一京助との出会いでした。
 上京直後のある日、北斗は昼の3時に杉並町成宗の駅を降りて5時間(!)、迷いに迷って成宗中を尋ね回った末、ようやく夜の8時に金田一の家に辿り着いたといいます。おまけに田んぼに落ちたのか、足もとは泥だらけ。金田一はとにかく上がれと勧めるのですが、     北斗は汚いので遠慮しますという。この純朴で不器用、その一方で、ねばり強く、目的を達成するまでは諦めない情熱と忍耐力。北斗の性格がよくあらわれた出来事です。
 その夜、北斗と金田一は、アイヌの現状や未来について、夜が更けるまで熱烈に語り合いました。
 子どもの頃から和人の同級生に侮蔑され、社会に出れば出たで差別的待遇が待ち受けていました。貧困や病気に苦しむ同族の現実を見ながら成長した北斗は、やがて和人を憎悪し、国家を恨むようになります。しかしある時、一人の和人の教師にやさしい言葉をかけてもらったことにより、そのような反逆精神に凝り固まっているのは間違いだったと改心し、自修して社会に役に立つ人間にならなければならない、と考えるようになっていきました。
 北斗が語る言葉を金田一は真剣に聞き、質問にも真摯に答え、アイヌであることに誇りや自信を持つように励ましましましたが、長らく虐げられてきた北斗には、そういわれても、あまり実感が湧かなかったかもしれません。アイヌ語もほとんど話せず、アイヌ文化も習得していない北斗にとっては、誇りや自信を持つということ以前に、自らがアイヌであるということに対して、どう考えどう向き合えばよいのかという「迷い」があったのではないかと思います。
 そんな北斗に、金田一は一冊の本の存在を教えました。『アイヌ神謡集』という本です。作者の知里幸恵はこの一冊を遺して19歳で亡くなったアイヌの少女です。彼女は先祖が代々伝えてきた神謡(ユーカラ)をアイヌ語と美しい日本語で書き記し、その中でかつてのアイヌの自由の天地であった北海道の姿、大自然の神々と先祖の自由で天真爛漫な生活をうたいあげていました。また「亡びゆく弱き者」の烙印を押された同族の現在を嘆き、アイヌの中から「強き者」が出てくることを願いました。
 北斗はこの本を読み、大きな衝撃と感銘を受けます。
 知里幸恵の示したアイヌの失われた楽園のヴィジョンを、北斗は「コタン(村、郷里)」と名付けました。そのイメージは彼の心の「迷い」を振り払い、民族の誇りを取り戻すための精神的支柱として、その心にしっかりと刻み込まれたのです。
 この成宗の一夜から1年半後、北斗は自ら東京生活に終止符を打ち、北海道に戻って民族復興のために青春のすべてを費やすことになるのですが、それは知里幸恵の遺した願いに対する、北斗なりの「答え」だったのかも知れません。

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※初出 「【本】のメルマガ」 2008年12月25日号(Vol.343)

【(2)に続く】

【INDEX】

2013年2月12日 (火)

違星北斗の生涯(その11 余市編)

《違星北斗の生涯》 

(その11 余市編) 

 ※これは管理人がやっているツイッター「違星北斗bot」(@kotan_bot)をまとめたものです。

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 アイヌの歌人・違星北斗Botを作ってみました。違星北斗27年の生涯を、ツイートで追体験してみたいと思います。

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【余市帰郷】
 

 大正15年8月、東京から幌別に直行し、そのまま日高の平取に腰をおちつけた違星北斗は、労働しながら日高のコタンを巡り、同族の啓蒙に励み、年の瀬に大正天皇の崩御の報を聞きます。
 あくる昭和2年2月、北斗は実家から訃報を受け取ります。
 兄・梅太郎の子が病死したのです。

 兄の子ですから、北斗の甥か姪にあたりますが、名前・性別は不明です。 
 前年の9月に余市に帰った時

     叔父さんが帰って来たと喜べる
     子供等の中にて土産解くわれ

 (『日記』)と読んでいますが、この時北斗の帰郷を喜んだ「子供等」の一人が亡くなったのでしょう。悲しい帰郷です。


【鰊漁】

 昭和2年2月に兄の子の葬儀のために余市に帰郷した北斗は、そのまま余市に留まります。
 実家の稼業でもあるニシン漁を手伝い、活動・生活資金を稼いでいこうと考えたのでした。
 以下西川光次郎への手紙です。

《先月小生は平取を急に出立しました。
 宅の方で兄の子供が病死したのでした。
 それ以来余市に居ります。
 鯡を漁してからまたあちらの方に参ります考です。
 何しろ家は貧いので年から年中不幸ばかりしてはゐられないから、春の三ヶ月間は一寸でも手伝しやうと思ます。
 五月中頃からまた日高方面に入り込みます。
 大漁でもして少しお金が出来たら手塩方面にも視察してみたい考へです
 ですが未定です。
 余市はまだ雪が五尺以上もあります。
 昨日ウタグスの漁場に雪堀に行きました、山のふもとは丈余浜の方で七尺五尺四尺位もあります。
 こんな雪の中でもやっぱり金魚やが昨日から見えました。
 先は一寸御礼旁御伺申上ます(三月十四日北海道)》

(自働道話昭和2年5月号)

 ウタグスという漁場は、余市の浜の左手に横たわるシリパ岬の裏側で、ここにバラックを建てていました。
 このころの金田一京助から違星北斗の手紙(昭和2年4月26日消印)の宛先には「北海道余市町沖村ウタグス 違星漁場 違星滝次郎様」とあります。

【鰊漁の俳句】

   浮氷鴎が乗って流れけり

   大漁の旗そのまゝに春の夜

   春浅き鰊の浦や雪五尺

   鰊舟の囲ほぐしや春浅し

 
 基本的に、北斗の短歌で鰊を詠んだものは、死後の「コタン」にしか掲載されておらず、製作時期がわかりません。
 ただ、先の手紙には「余市はまだ雪が五尺以上もあります」とあり、俳句ににも「雪五尺」が出てきていますので、このへんの鰊の短歌は、この時期の俳句かもしれません。

【不漁】

 その一ヶ月後。同じく西川光次郎への手紙では、北斗は落胆しています。

《お手紙ありがとう存ます。
 目下ウタグスと云ふ断崖の下の磯に漁舎を■てそこに起居してニシンの漁にいそしんでゐます。
 今年は例年にない不漁です。
 先日奈良ノブヤ先生がいらしてこのウタグスのバラックで一夜を明しました。
 先生からお土産をいたゞきました。
 それは曽て東京で西川先生からいたゞいた焼のりをわざ/\ノブヤ先生が私に持って来て下さいました。
 ナンダカ堅苦しい様な気分の中でもとに角く西川先生からのと思ふたとき何ともたとへかたなき嬉しさが湧きました。
 厚く/\く感謝いたします。
 
本年の鯡は余市始まって以来の最大不漁にて殆んど閉口仕り候、就ては再度の上京も遺憾ながら見合せる可く候(北海道、余市)》

 

 奈良ノブヤ先生は、長知内の奈良農夫也先生です。

 前回の手紙を出した昭和2年3月14日の手紙の時点で漁場の「雪掘」をしていた北斗は、鰊の到来に期待をしていたようですが、その1ヶ月後の手紙では「最大不漁」ですっかり意気消沈しています。

 北斗には「鰊漁」に関する短歌もありますが、これらは発表時期から見て、おそらく翌昭和3年の鰊漁の時期に詠まれたものだと思います。 

【金田一からのハガキ】
 昭和2年3月23日と4月26日付の、金田一京助から違星北斗に当てたハガキが残っています。3月23日のハガキ「いろいろなことを体験された出せう。過日北海タイムスの一文は私も向井山雄君から送られて一読しました。札幌郡(略)今野(略)といふ青年です。→→「どういづ人かよく分からないが、アイヌ問題が太平洋学術会議などできまってしまひでもするかのやうに期待して聞いてよこしますから、百年千年の懸案で、さう/\会議などできまってしまふやうな簡単な事では無いのみ成らず、→→「よそから来た人々は、オーストラリヤ人へ関係つけて考へてゐるやうですから、あんな激烈な返事を出したのでした。何かアイヌの歴史をしらべてゐるそうです。それはこれから調べるべきだと云ってやったら、それでは自分も村へはいって、そのしらべにかからうかと云ってるのです。」→※これは、おそらく北海タイムスに掲載された今野青年のアイヌに関する文章が「困った」内容だったのでしょう。文中に金田一とのやりとりがあり、それを北斗が問い合わせたのかもしれません。彼はアイヌに対して好意的で、理想に燃えている一方、あまりアイヌの現実を知らない人なのかもしれません→※→現代でもよく見られるタイプの、アイヌに過剰な幻想をいだき、現実はよく知らないけれども激しい正義感を持った「親アイヌ的」和人なのかもしれません。新聞に当初したり、金田一に手紙を送ったりしているようです。


【金田一からのハガキ】

 昭和2年4月26日消印。

《いつもお元気で結構、鰊があまりよくない由心配して居ります。
 体の無理をなさらぬやう祈ります。こちらはやっとよい時候になりました。
 あの後一度アイヌ学界を開きました。
 向井山雄君の上京を期として、ウメ子さんも同伴してウメ子さんも同伴して大いにこんどは知識階級の人を東京人に紹介したわけです。
 一同の人々が驚異したのも愉快でした。
 但し向井君があのとほりのものだから、それに当夜のお客さんの中には、知らぬお客さんもよんだものだから、その人との間に向井君が激論をやり出し、会が白けて残念な幕をとぢました。
 議論半ばに時間が切れ、それに大雨に祟られて帰ったものでさんざんに皆が濡れとほって。
 本年一月号(十二月の内に出版)の新青年に「太古の国の遍路から」を書きました。
 民族の五月号には知里真志保さんの研究があらはれます。》

 金田一は、バチラー八重子の弟で、聖公会の神父である向井山雄をアイヌ学会に招きます。
 しかし、山雄は弁論の立つ一方で、気が荒く、怒ると手がつけられないところがあり、参加者のうち、よくわかっていない人の質問に対して激昂してしまったということでしょう。
 一緒に出たウメ子さんとは、上京したいといっていたウタリの女性で、北斗の思想に同調する聡明な人だったので、北斗が自分の後に続く同志として、金田一に頼んで、上京の世話をしてもらった人でした。
 (しかし、この北斗の思いは、結局かなうことはありませんでした。
 その期待は裏切られてしまいますが、それは後の話です)。 
 文中の「太古の国の遍路から」は、金田一が紫雲古津の盲伝承者ワカルパのこと等を書いた文。
 知里真志保の研究とは、「山の刀禰・浜の刀禰物語」のことで、これは室蘭中学(旧制)在学中にアイヌの昔話を和訳した、真志保の処女作。
 北斗も当時、昔話づいていたことを考えると興味深いですね。


【不漁】

 昭和2年の鰊漁は不漁に終わりました。資金を稼いで再び上京したいと考えていた北斗の計画も見合わせることになります。
 そのショックなのか、無理がたたってか、北斗は4月下旬ごろ、再び病気になり、余市の実家で療養することになります。

 病気になったといっても、北斗はただでは起きません。
 この4月末~6月ごろの余市での療養中に、北斗は多くのことを成し遂げ、大きく成長します。
 執筆活動、幼馴染の中里篤治(凸天)と二人で同人誌「コタン」の制作など。北斗は、東京や平取での経験を故郷で活かします。
 北斗は、東京という大きな差異のある異郷を知り、そして郷里である北海道の中でも、胆振や日高といった別のコタンを巡ることによって、いわば小さな「異郷」を知り、自分の故郷・余市に、真剣に向き合うことになります。
 自分の「コタン」は、ほかでもない「余市コタン」でしかないのだということに気づいたのだと思います。

【充実した休養期間】

 この夏の北斗の病気は、金田一京助への手紙には「腐敗性キカン」と記していますが、 腐敗性気管支炎ではないかと思います。
 ただ、今回は3ヶ月ほどで治っており、闘病というよりは、休養期間と言ったほうがよいかもしれません。その休養中も、活発に動き続けます。

 療養を始めた4月28日、北斗はこのころよく書いていた童話を一つ書き上げました。
 「郷土の伝説 死んでからの魂の生活」です。
 「郷土の伝説」はタイトルからもわかるように、余市の伝説を北斗が書き起こしたもので、『子供の道話』に掲載されます。これは、余市のシリパ岬にあったという「あの世」への入口「オマンルパラ」の伝説を記したもの。
 日本神話のイザナキの黄泉下りにも似た「オマンルパラ」の話ですが、この黄泉への穴は、「オマンルパロ」Oman-ru-paro (奥へ. 行く・道・の口)ともいい、黄泉の国でも、地上と同じような生活をしているそうで、同じような伝説は道内各地にあるようです。

 これまでに北斗は、バチラー八重子や、平取でウタリから伝説を聞き、それを書き残しました。
 今度は、それを自分の生まれ育った故郷でやろうとしたわけです。
 北斗は、東京という異郷を知り、同じアイヌコタンでもそれぞれ文化の差異やアイデンティティの持ちように違いのある幌別や白老、平取、日高各地の数多くのコタンを回って見て、より立体的にアイヌの現実を実感したんだと思います。
 そして、北斗は病を得て、故郷余市コタンで同族の機関誌たる「コタン」を創ります。


【同人誌「コタン」】

 「コタン」は、北斗と幼馴染の中里篤治が、彼らが以前創っていた余市青年アイヌの修養サークル「茶話笑楽会」の機関誌「茶話誌」の後身として2年ぶり創ったものです。
 かつての同人は樺太に出稼ぎに行き、病気の北斗と篤治のみでの制作でしたが、その意義や内容は大きく変容していました。
 「茶話誌」は和人の教職員である奈良や古田の指導の元に創られた、サークル誌のようなものでしたが、東京時代に西川光二郎の自働道話社を手伝い、社会現象を起こしていた希望社の後藤の「やり方」を見ていた北斗は、「コタン」の読者対象を村内の回覧同人誌ではなく、全道アイヌに設定したのです。
 もちろん、全道のアイヌを読者想定するといってもそれは「志」として、ということですが、それがまんざら夢ということでもありませんでした。
 北斗にはすでに、踏破した後志・胆振・日高のコタンの同志とのネットワークがあり、そこから派生した他のコタンとの連携もありました。
 いきなり全道のアイヌに配布できるわけもありませんが、すでに執筆者には余市以外の浦河の浦川太郎吉もはいっており、これまでに関わりを持ったコタンには送ったものと思われます。


【病臥一ヶ月】

 昭和2年春の病気は、ほどなく快方に向かいます。
 病気療養に入って一ヶ月後、北斗は、東京の西川光次郎に手紙を書いています。

《北海道へお出でなさる由指折数へてお待してゐます。
 当地では九日十日十一日は余市神社祭であります。
 お祭りにゐらっしゃる事になります。
 さて、十日の東京出発なのでせうか? 十日の余市着になるのでせうか。
 いづれ奈良先生にお伺したら分るでせうが………………私は病臥一ヶ月でやう/\快方に赴きました
 お多用の奈良先生から連日の御見舞状でしたので病床への修養が出来たのか全快に力あった様に嬉しい。
 とに角全快の嬉しさに先生をお迎へ申事の出来るのも限なく喜ばしう存ます(北海道)》

『自働道話』昭和2年7月号。

 自働道話の場合、掲載まで1~2ヶ月の時差がありますので、5~6月ごろの手紙でしょうか。
 病床にありながら、北斗は前向きです。
 恩師奈良直弥先生の連日のお見舞いもあって、体力も気力も回復し、修養もできて、いい充電期間になったようです。
 文中の余市神社は、シリパの山麓にある余市第一の神社。
 余市の運上屋の差配だった林家の氏神であった伏見稲荷を祭ったのが最初で、明治の終わりに皇祖神と出雲系の大国主・少彦名等を祀る余市神社となります。
 北斗らアイヌも地域の住民として、普通に神社を敬い、お祭りにも参加していました。
 違星家は仏教(禅宗)でしたが、当時の大方の日本人と同様に、神社や皇室への敬意もあり、それにプラスして、北斗は消滅の危機にあったアイヌの信仰を掘り起こそうとしていました。
 キリスト教には北斗は距離をおいていました。

【西川との再開】
 先の手紙で言っていた、西川の余市訪問は昭和2年6月13日で、残念ながら、6月9~11日の余市神社の祭りは終わってしまっていましたが、北斗は思想上の恩師の一人であり、上京中に世話になった恩人である西川光次郎を駅まで迎えに行きます。
 以下、西川の手記を引用。

《△六月十三日(曇、時々雨)
  (略)午前〇時四十五分の汽車にて余市に向う。
  (略)午後七時五十分余市着。
  奈良老先生、違星、菅原の両君と共に出迎へられ、奈良先生お宅に厄介となる。
  違星君は意外にも早く全快して、元のまゝの違星君で、うれしかった。

△十四日(晴)午前十一時より大川小学校にて講話、午後〇時半より余市実科女学校にて講話、午後六時半の汽車にて小樽に向ふ。
 奈良先生違星君と共に、御見送り下さった。
 (略)奈良先生は明治十六年より今日まで、小学校の先生を勤続さるゝの人》


 西川は、北斗が全快したと印象を持ったようですので、本当に回復していたのでしょう。

【郷土研究】

 西川が北斗にすっかり回復したと印象を持った、その1週間後の6月21日には、北斗は突如、島泊に姿を現します。
 余市近辺のアイヌ文化に関する聞き取りおよび遺跡のフィールドワークを始めたのでした。
 しかし、島泊でいきなり大きなショックを受けます。

《島泊村のアイヌは影もない。どこへ行ったか?(6月21日) 

   アヌタリ(同族)の墓地であったと云う山も 
   とむらふ人ない熊笹のやぶ 

   その土地のアイヌは皆死に絶えて
   アイヌのことをシャモにきくのか》 
(「志づく」) 

 北斗が訪ねて、アイヌコタンがなくなっていたため落胆した「島泊」は現・余市町潮見町島泊。
 同じ余市町といっても、余市大川町から5~6キロぐらい、ワッカケ岬の近くですが、地形的には岬に近いだけあって、険しいところで、海に近いのに山籠もった感じです。
 北斗も初めて訪ねたのでしょう。

【古平】

 島泊よりさらに積丹半島の奥、古平を訪ねる北斗。

《古平町にはもう同族はゐない、只沿革史の幾頁にか名残を止めてゐるにすぎない。
 なんと云ふ悲しいことであらう。(六月二十二日)

     ウタリーの絶えて久しくふるびらの
     コタンの遺蹟(あと)に心ひかれる》(志づく)
 

 古平の歌は同人誌「コタン」にも。

 《古平村にて 

    ウタリーの消滅(たえ)てひさしく古平(ふるびら)の
    コタンの遺跡(あと)に心ひかるゝ

     アヌタリー(同族)の墓地でありしと云ふ山も 
    とむらふ人なき熊笹の藪
 

    海や山そのどっかに何かありて
    知らぬ昔が恋しいコタン》 
(同人誌『コタン』)

 「アヌタリの墓地」の短歌は、『志づく』では島泊、『コタン吟』では古平で詠んだとなっていますが、どちらが正しいかは不明です。
 墓地については、古来、アイヌは墓地は不吉なものとして忌避し、あまり墓参りをしなかったといいます。
 ですが、昭和の始めころには、その感覚も薄れているのかもしれません。
 余市生まれの北斗の場合にはすでにそういう感覚は薄いのか、北斗は普通に墓参して、ウタリの故人をしのぶ歌を詠んでいます。

      永劫の象に君は帰りしか
       アシニを撫でて偲ぶ一昨年
(友人の豊年健治を偲んで)

  また、バチラー八重子も北斗の死後の墓に参り、北斗を偲んでいます。

   墓に来て 友になにをか 語りなむ
   言の葉もなき 秋の夕暮れ  /逝きし違星北斗氏(バチラー八重子)
 

 昭和初期、余市ではまだアイヌ式の弔いを行い、木の墓標(アシニ)を立てることはあったようで、北斗自身の墓標もアイヌ伝統の木の墓標だったという証言があります。
 その余市アイヌの木の墓標は、他の平取などのアイヌ墓標とは形式がけっこう違うようで、むしろ海を隔てた樺太アイヌの形式に近いのだとか。
 しかし、戦後に亡くなった兄の梅太郎は、違星家のイカシシロシ(家紋)が入った、石の墓石に入っています。
  また、先の豊年健治も「アシニ」(「立つ木」=墓標)という言葉から、木の墓標であった可能性があります。


【昭和2年6月】

 「子供の道話」に北斗が闘病中に書いた「郷土の伝説 死んでからの魂の生活」と北斗の手紙が掲載されています。

《お手紙いたゞきまして、うれしく拝見いたしました。
 『子供の道話』は早速、私共の少年部に二たわけにして、廻覧さしてゐます。
 大そう成績がよいやうですから、これを永続さしたいと念願してます。

 

    伝説のベンケイナツボの磯のへに 
    かもめないてた なつかしいかな

 

 (北海道 余市)》

※ベンケイナツボは不明ですが、ナツボは鰊を入れるため地中に埋める壺だとか。
 弁慶の「ナツボ」とされる湾か入江の伝説があったのかも。
 有名な「弁慶岬」ではなく、古平の近く美国に「ベンケイ湾」があるのでそこかもしれませんが……。
 北海道には義経北行伝説から連想した義経・弁慶の伝説が沢山あり、地名としてもたくさん残っています。
 アイヌの英雄神オキクルミと同一視する考えがありますが、もちろんこれは和人が持ち込んだもの。
 古代から他集団を支配するには、彼らが信仰する「神」を身内するために、神の「家系図」を無理やりつないでいけばいいわけで、「古事記」なんてのはその集大成かと思います。
 弁慶の地名にかんしては「ペンケ(上の~)」「ペレケイ(破れた~)」といったアイヌ語地名に引っ掛けたものが多いようで、それに義経北行伝説を引っ掛けたわけですね。


【昭和2年7月6日】

 西川が6月に余市を訪れて、半月ほど経った頃、北斗は西川光次郎に手紙を書きます。
 この手紙によって、北斗が東京を出発した時のことが詳細にわかります。

《大正十五年七月五日でした。
 上野駅より出発しましたのは……もういつのまにか、記念すべき一周年が来たのです。
 ちゃうど、明日七月の七日が北海道のホロベツに、東京から持って来た思想の腰をおろしたもんでした。
 其の後はどんな収かくがあったでせう、かへりみる時に、うんざりします。
 或る時はもういやになって/\いたまらなくなりましたことも度々ありました。
 本当に考へてみると東京の生活が極楽てした。
 好きこのんでやってゐる私の最初の一歩は全く危ふいものでした。
 私が一番苦しめられた事は、親不孝だったことです。
 私を案じてゐる父の身を考えた時金にも名にもならない事をしてゐる自分……そして何の反響もない自分の不甲斐なさに幾度か涙しました。》

 

 北斗が東京・上野を発ったのが、一年前の大正15年7月5日であることや、7月7日にホロベツに着いたことなどがこれによってはっきりします。
 また、東京の生活が楽しかったこと、その後の北海道の生活については、苦しく、危ういものであったこと。
 そして、金にならないことをして、反響のない、親不孝な自分。
 北斗の活動中の苦悩が描かれています。

《今もやっぱりそうです。
 けれども私はバチラー博士のあの偉大な御態度に接する時に無限の教訓が味はゝれます。
 私はだまってしまひます。
 去年の八月号だったと思ます。
 道話に出てた「師表に立ツ人バ博士」は本当でした。
 反響があらうがなからうが決して実行に手かげんはしなかった。
 黙々として進んでゆく博士には社会のおもわくも反響も、宛にしてやってゐるのではなかったことを思ふと自分と云ふ意気地無しは穴があったら入りたい様な気持になります。
 皆様が色々と私に云って下さった、高見沢様の言葉が今でも泌々と感じてゐます。
 私はやっぱりだまって歩くより外に道はない。
 否でもおうでも行かねばならぬと、力こぶを入れてゐます。
 どうぞご鞭韃下さい。
 先生には御無事にお帰りになられた由お祝申し上げます。
 本日は御鄭重な御手紙及御菓子を下さいまして誠に有難う御座います。
 何とも御礼の申上げやうもありません。
 どうぞ先生からも御目にかゝれた節どうぞ宜しくと厚く高見沢様に御礼申し上げて下さい。
 お願申し上ます。》

 高見沢は北斗が働いていた東京府市場協会の役員で、公私共に世話になった大恩人です。

《『子供の道話のお菓子』で皆子供と一所にパクツキました。
 父からも兄からも亦子供からも宜敷くと……皆になりかはって厚く御礼申し上げます。
 原稿用紙も沢山頂きまして誠に有難う御座います。
 こんどから一増勉強します。
 私は第二年目に入るのです。
 出陣を祝ふ如く甘とうの旗頭が武者ぶるいしてお菓子を食べました。
 先は不取敢御礼申上ます。
 だん/\暑くなります。
 今日霧がかゝって涼しいが昨日あたりの暑は格別でした サヨウナラ(北海道余市)》

 「自働道話」昭和2年8月号掲載の手紙。文中の「子供の道話」は姉妹誌で、西川光次郎の妻文子が編集にあたっていました。

 この手紙は、北斗の文章の「軽妙なセンス」が面目躍如という気がします。
 内容的には実はハードなのですが、西川への親しみの感じられる砕けた文体で、時折ユーモアを交えつつ、少し前の冗談に洒落を重ねていく感じとか、本当に良い感じでいい感じだと思います。
 休養から明けて、研究もはじめた北斗の余裕が感じられます。
 「東京からの、おいしいお菓子を送って下さいましたので、子供等は申すまでもなく大供までもよろこんでたべました」「子供と一所にパクツキました」「出陣を祝ふ如く甘党の旗頭が武者ぶるいしてお菓子を食べました。」
党を自認する北斗にたくさん甘いお菓子を送った高見沢の妻、雪子の気遣い。
 ちなみに、文中に出て来る「師表に立つ人バ博士」はジョン・バチラーのことを書いた文章なのでしょうが、自働道話・子供の道話を調べましたが、掲載を確認できませんでした。
 北斗の書きかたからすると、困難があっても、反響がなくても黙々と突き進んだバチラーのことを書いた文でしょうね。
 バチラーは金田一と後藤静香のラインの人脈かと思ったら、西川ともつながっていたんですね。

烏と翁

 自働道話7月号に道話「烏と翁」(パシクルとイカシ)が掲載されています。
 パシクルがカラス、イカシが翁(おじいさん)です。
 通常、「エカシ」と表記することが多いですが、余市方言では「イカシ」と発音したようで、北斗もそう表記します。
 ただし、北斗の作品の中にも「エカシ」表記があり、不統一です。
 北斗が書いた「フゴッペ論文」なども、初出の小樽新聞掲載時は「イカシ」だったのが、遺稿集「コタン」では「エカシ」に変更されており、何らかの校閲がなされたのだと思います。
 北斗が古老から「イカシ」と聞き、「イカシ」と表記しているのに、わざわざ他の地方の発音に直すのはどうかとも思われます。
 昔話「烏と翁」は、海辺で鮭を見つけたお爺さんが、そこにいたカラスに鮭をわけてあげたら、カラスが恩返しに来て、海に鯨が漂着するので、村人総出でいきなさいと教えてくれる、という話。
 北斗らしい、やさしい語り口の心温まる昔話です。


熊と熊取の話

 昭和2年6月22日、北斗はさらに一編の民話を書き上げます。
 「熊と熊取の話」は神話時代の話ではなく、数世代前の江戸時代の石狩・浜増の話で、鬼熊与兵衛と呼ばれたアイヌの豪傑の悪熊退治の話です。
 すでに鰊漁は産業として隆盛を極め、アイヌもその社会の中で働いています。
 一読して思うのは、鰊場という巨大産業がある地域では、イメージされがちな「アイヌVS和人」の対立構造ではなく、巨大産業にいやおうなく融和と共生、適応(いい意味でも悪い意味ではなく)を強いられる時代のアイヌの姿があるのではないかと思います。
 鰊漁で賑わった余市のような土地では、もちろん差別はあったが、現経済的恩恵もあり、巨大産業とともにやってきた和人文化の波に、抗うことを考える暇もなくさらされ続けた。
 誤解を覚悟で書けば、日本企業の工場がやってきた外国の町のようであり、原発が来た村のように、それに依存してしまう。

「熊と熊取の話」の最後は北斗の語りになっています。

(人々は)《与兵衛の剛胆と智謀に敬服した。……その後も数頭の荒熊を獲ったので、誰れ云ふとなく、鬼熊与兵衛と云はれる様になった。
 (与兵衛の妻は鬼神とも歌はれた女傑で夫婦そろつて巨熊を退治したと云ふ珍談も豊富だがいづれ機会をみてお話し申しますが今でも上場所で六十才以上の人にはたいてい知られてゐる。
 それは単に強いばかりでなく、弱いアイヌの中に珍らしくも男子気があったのだから)。
 偖て、与兵衛の話、それは去年やおどゞしの話ではない。
 実に今(昭和2年)を去ること七十年も昔のことである。
 ならば今は我北海道に熊はいったいどれ位居るであらうか?。
 永劫この通り変るまいと思はせた千古の密林も、熊笹茂る山野も、はまなしの咲き競ふ砂丘も、皆んな原始の衣をぬいでしまった。
 
山は畑地に野は水田に、神秘の渓谷は発電所に化けて、二十世紀の文明は開拓の地図を彩色してしまった。
 熊、熊! 野生の熊!! その熊を見たことのある現代人は果して幾程かあるであらうか?。
 ――本道人は千人に一人も熊をみたことがあるだらうか?。
 内地の人に聞かせたい。
 私の父は熊と闘かった為めに、全身に傷跡が一ぱいある。
 熊とりが家業だったのだ。
 弓もある、槍もある、タシロ(刄)もある。
 又鉄砲もある。まだある、熊の頭骨がヌサ(神様を祭る幣帛を立てる場所)にイナホ(木幣)と共に朽ちてゐる。
 それはもはや昔しをかたる記念なんだ。
 熊がゐなくなったから……。
 「人跡未到の地なし」と迄に開拓されたので安住地と食物とに窮した熊は二三の深山幽邃の地を名残に残したきり殆んど獲り尽くされたのである。
 ―熊が居なくなった。
 本場であるべき吾北海道だのに「熊は珍らしい」と云ったら、内地の人は本当にするか?》

 

 この文は知里幸恵の有名なアイヌ神謡集の序文や北斗の「アイヌの姿」につながるものだと思います。
 
昭和2年の時点で、熊は過去のものだったという北斗。
 しかし、北斗の近くにはその名残が色濃く残ってもいる。
 熊取名人である父の生々しい傷跡、朽ちかけた祭壇にある熊の頭骨。熊取の道具。老人たちの語る熊取名人の伝承。北斗は自分たちの代で消えてしまう伝統と伝承を、少しでも残そうとしました。

【アイヌの姿】

 昭和2年7月2日、違星北斗は希望社の後藤静香にあてて、手紙を書きます。
 それは手紙というよりも、一つの宣言でした。
 昭和2年夏の時点での、違星北斗の思想の結晶であり、そこには北斗が思い描くアイヌ民族のビジョンが描かれています。
 長くなりますが、全文引用していきます。

《「アイヌの姿」 北斗星

 

後藤先生

 

 どういふ風に書いたら今のアイヌに歓迎されるかと云ふことは朧げながら私は知ってゐます。
 にもかゝはらず本文は悉くアイヌを不快がらせてゐます。
 私は心ひそかにこれを痛快がってゐると同時に、悲痛な事に感じて居ります。
 これは今のアイヌの痛いところを可成り露骨にやっつけてゐるからであります。
 若しアイヌの精神生活を御存じない御仁が之を御覧になられたら、違星は不思議なことを言ふものかなと思召されることでせう。
 殊にコタン吟の「同化への過渡期」なぞに至っては益々この感を深うすることでせう。
 アイヌを愛して下さる先生にかやうなことを明るみであばくことは本当に恥しいことであります。
 けれどもアイヌの良いところも(もしあったとしたら)亦悪いところも皆んな知って頂きたい願から拙文をもってアイヌの姿(のつもりで)を正直に書きました。
 なるべくよそ様へは見せたくはありません。
 それは歓迎されないからではありません。
 ナゼ私は私さへも不快な事実を表白せねばならないか。
 その「ねばならぬ」ことを悲しむからです。
 只々私の目のつけどころ(ねらひどころ)だけを御汲みわけ下さい。


 
永劫かくやと思わせた千古の大森林、熊笹茂る山野、はまなしの花さき競ふ砂丘も、原始の衣を脱いで百年。
 見よ、山は畑地に野は水田に神秘の渓流は発電所に化して、鉄路は伸びる。
 巨船はふえる、大厦高楼は櫛の歯のやうに並ぶ。
 

 かうして二十世期の文明は北海道開拓の地図を彩色し尽した。
 嗚呼、皇国の隆盛を誰か讃仰せぬ者あらう。
 長足の進歩! その足跡の如何に雄々しき事よ。

 

 されど北海の宝庫ひらかれて以来、悲しき歩みを続けて来た亡びる民族の姿を見たか……野原がコタン(村)になり、コタンがシャモの村になり、村が町になった時、そこに居られなくなった…………、保護と云ふ美名に拘束され、自由の天地を失って忠実な奴隷を余儀なくされたアイヌ…………、腑果斐なきアイヌの姿を見たとき我ながら痛ましき悲劇である。
 ひいては皇国の恥辱である。

 

 アイヌ! あゝなんと云ふ冷かな言葉であらう。
 誰がこの概念を与へたであらう。
 言葉本来の意義は遠くに忘れられて、只残る何かの代名詞になってゐるのはシャモの悪戯であらうか。
 アイヌ自身には負ふべき責は少しもなかったであらうか? 
 内省せねばならぬことを痛切に感ずるのである。

 

 私は小学生時代同級の誰彼に、さかんに蔑視されて毎日肩身せまい学生々活をしたと云ふ理由は、簡単明瞭「アイヌなるが故に」であった。
 現在でもアイヌは社会的まゝ子であって不自然な雰囲気に包まれてゐるのは遺憾である。
 然るにアイヌの多くは自覚してゐないで、ただの擯斥や差別からのがれようとしていてのがれ得ないでゐる。
 即ち悪人が善人になるには悔あらためればよいのであるが、アイヌがシャモになるには血の問題であり時間の問題であるだけ容易でないのである。
 こゝに於て前科者よりも悪人よりも不幸であるかの様に嘆ずるものもある。
 近頃のアイヌはシャモへシャモへと模倣追従を事としてゐる徒輩がまた続出して、某はアイヌでありながらアイヌを秘すべく北海道を飛び出し某方面でシャモ化して活躍してゐたり、某は○○○○学校で教鞭をとってゐながら、シャモに扮してゐる等々憫むべきか悲しむべきかの成功者がある。
 これらの贋シャモ共は果して幸福に陶酔してゐるであらうか? 
 否ニセモノの正体は決して羨むべきものではない。
 先ず己がアイヌをかくしてることを自責する。
 世間から疑はれるか、化けの皮をはがれる。
 其の度毎に矛盾と悲哀のどん底に落つるか、世をはかなみ人を恨む。
 此の道をたどった人の到達の点如何に悲惨であるかは説明するまでもないことである。
 吾人は自覚して同化することが理想であって模倣することが目的でない。いわんやニセモノにおいてをやである。

 

 けれども悲しむべし。
 アイヌは己が安住の社会をシャモに求めつゝ優秀な者から先をあらそうてシャモ化してしまふ。
 その抜け殻が今の「アイヌ」の称を独占しているのだ! 
 今後益々この現象が甚しくなるのではあるまいか? 
 
優生学的に社会に立遅れた劣敗者がアイヌの標本として残るのではあるまいか? 
 昔のアイヌは強かった。然るに目前のアイヌは弱い。
 現代の社会及び学会では此の劣等アイヌを「原始的」だと前提して太古のアイヌを評価しようとしてゐる。
 けれども今のアイヌは既に古代のアイヌにさかのぼりうる梯子の用を達し得ないことを諸君と共に悲しまねばならぬ。
 
アイヌはシャモの優越感に圧倒されがちである。弱いからだと云ってしまへばそれまでであるが、可成り神経過敏になってゐる。
 耳朶を破って心臓に高鳴る言葉が「アイヌ」である。
 言語どころか「アイヌ」と書かれた文字にさへハッと驚いて見とがめるであらう。
 吾人はこの態度の可否は別問題として、かゝる気づかひを起こさしめた(無意識的に平素から神経を鋭くさしてゐる程重大な根本的欲求の)その第一義は何であらう? 
 ―――アイヌでありたくない―――と云ふのではない。―――シャモになりたい―――と云ふのでもない。
 然らば何か「平等を求むる心」だ、「平和を願う心」だ。適切に云ふならば「日本臣民として生きたい願望」であるのである。

 
此の欲求をはき違へたり、燃ゆる願をアイヌ卑下の立場にさらしたことを憫れむのである。
 
同化の過渡期にあるアイヌは嘲笑侮蔑も忍び、冷酷に外人扱ひにされてもシャモを憎めないでゐる。
 恨とするよりも尚一層シャモへ憧憬してゐるとは悲痛ではないか。
 併しながら吾人はその表現がたとひ誤多しとしても、彼等が衷心の大要求までを無視しようとするのでは毛頭ない。
 アイヌには乃木将軍も居なかった。
 大西郷もアイヌにはなかった。
 一人の偉人をも出してゐないことは限りなく残念である。
 されど吾人は失望しない。
 せめてもの誇りは不逞アイヌの一人もなかった事だ。
 今にアイヌは衷心の欲求にめざめる時期をほゝ笑んで待つものである。
 

「水の貴きは水なるが為めであり、火の貴きは火なるが為めである」(権威)

 

 そこに存在の意義がある。
 鮮人が鮮人で貴い。
 アイヌはアイヌで自覚する。
 シャモはシャモで覚醒する様に、民族が各々個性に向って伸びて行く為に尊敬するならば、宇宙人類はまさに壮観を呈するであろう。
 嗚呼我等の理想はまだ遠きか。

 シャモに隠れて姑息な安逸をむさぼるより、人類生活の正しい発展に寄与せねばならぬ。民族をあげて奮起すべき秋は来た。今こそ正々堂々「吾れアイヌ也」と呼べよ。 

 たとい祖先は恥しきものであってもなくっても、割が悪いとか都合がよいとか云ふ問題ではない。必然表白せないでは居られないからだ。

 

 吾アイヌ! そこに何の気遅れがあらう。
 奮起して叫んだこの声の底には先住民族の誇まで潜んでゐるのである。
 この誇をなげうつの愚を敢てしてはいかぬ。
 不合理なる侮蔑の社会的概念を一蹴して、民族としての純真を発揮せよ。
 公正偉大なる大日本の国本に生きんとする白熱の至情が爆発して「吾れアイヌ也」と絶叫するのだ。
 
見よ、またゝく星と月かげに幾千年の変遷や原始の姿が映ってゐる。
 山の名、川の名、村の名を静かに朗咏するときに、そこにはアイヌの声が残った。
 然り、人間の誇は消えない。
 アイヌは亡びてなくなるものか、違星北斗はアイヌだ。
 今こそはっきり斯く言ひ得るが…………反省し瞑想し、来るべきアイヌの姿を凝視みつめるのである。
(二五八七・七・二)



【小樽新聞】

 昭和2年10月3日、はじめて北斗の短歌4首が、小樽新聞に掲載されます。
 以後、小樽新聞は北斗の主な活躍の舞台となります。
 北斗は小樽歌壇にかつてないアイヌの歌人として、衝撃をもって迎えられ、並木凡平らに認められて、小樽の歌人たちと親交を結び、じょじょに活動の場を広げていくことになります。

【10/3掲載『小樽新聞』】

 アイヌッ! とただ一言が
  何よりの侮辱となって燃える憤怒だ

  獰猛な面魂をよそにして
  弱く淋しいアイヌのこゝろ

  ホロベツの浜のはまなす咲き匂ひ
  エサンの山は遠くかすんで 

  伝説のベンケイナッポの磯の上に
  かもめないてた秋晴れの朝



【フゴッペ壁画】

 昭和2年10月8日、蘭島駅の保線工夫がフゴッペという小山に壁画と、人の顔のように見える石偶を発見し話題となります。
 当時、余市近辺の遺跡の調査を行なっていた北斗も、壁画に関心を寄せ、後に論文を書くことになります。

 このフゴッペ壁画は、戦後に発見され、現在は保存処理をされている「フゴッペ洞窟」とは厳密にいえば異なるものですが、近接した場所にあるため、無関係とも考えにくいようです。(戦前の発見記事


【10/25掲載『小樽新聞』】

   シリバ山もすそにからむ波だけは
   昔も今にかはりはしない

   暦なくとも鮭くる時を秋とした
   コタンの昔慕はしくなる

   握り飯腰にぶらさげ出る朝の
   コタンの空でなく鳶の声

   シャモといふ小さなカラで化石した
   優越感でアイヌ見にくる

    シャモといふ優越感でアイヌをば
   感傷的に歌をよむ、やから

   人間の誇は何も怖れない
   今ぞアイヌのこの声を聞け


   俺はただ「アイヌである」と自覚して
   正しき道をふめばいゝのだ

【10/28 掲載『小樽新聞』】

   「何ッ! 糞でも喰へ!」と剛放に
   どなった後の無気味な沈黙 

   いとせめて酒に親しむ同族に
   この上ともに酒のませたい

   単純な民族性を深刻に
   マキリで刻むアイヌの細工

   たち悪くなれとのことが今の世に
   生きよといへることに似てゐる

   開拓の功労者てふ名のかげに
   脅威のアイヌおのゝいてゐる

   同族の絶えて久しく古平の
   コタンのあとに心ひかれる

   アヌタリの墓地であったといふ山も
   とむらふものない熊笹の藪


【余市短歌会】

 小樽新聞での掲載が続く北斗は、余市短歌会の集会に出席。
 そこではじめて並木凡平、稲畑笑児らと知り合います。
 口語自由短歌を標榜する並木は、北斗の短歌の持つ威力に驚愕し、惚れ込んで自らの仲間に引き入れます。
 また、稲畑笑児は同世代の歌人ですが、北斗に心酔していた節があります。

 この歌会で、北斗は

    痛快に『俺はアイヌだ』と宣言し
    正義の前に立った確信


 という歌を読み、稲畑笑治と余市名産の林檎(北斗のお土産でしょう)をかじりながら語り合ったといいます。
 笑治とは特に親交があつく、北斗は自宅に招いたりもしているようです。

 この北斗の登場は並木凡平にとっては衝撃だったようです。
 北斗の堂々とした物腰や態度、理知的な話しぶり、そして爆発力のある短歌に恐れいり、またアイヌに対する偏見を恥じ入り、過去に詠んだアイヌを上から目線で憐憫した短歌を詠んだことを反省しました。
 以後、北斗の短歌の最大の理解者・紹介者となっていきます。


【昭和2年11月29日】

 北斗はこの日小樽の郷土史家である橋本暁尚宛にハガキを送ります。
 が、肝心の内容についてはわかっていません。
 というのも実は古書のカタログに掲載されていたもので、惜しくも購入できませんでした。
 一緒に出品されてたのは、なんと幻のガリ版同人誌「コタン」の現物! もはや存在しないと思われていたものが、古書として流通し、買った方がいらっしゃるのですから、いつか見ることもできるだろうと思います。


【新短歌時代】

 昭和2年冬、いよいよ、北斗の歌人としての本格的な活躍がはじまります。
 余市短歌会で北斗と出会った並木凡平が、新創刊の口語短歌誌「新短歌時代」の予告号で北斗を紹介し、北斗の短歌4首が掲載されます。

   暦なくとも鮭来る時を秋とした
   コタンの昔 思ひ出される

   幽谷に風うそぶいて黄もみぢが
   ―――苔踏んでゆく肩にふりくる

   ニギリメシ腰にぶらさげ出る朝の
   コタンの空でなく鳶の声

   桂の葉のない梢 天を突き
   日高の山に冬がせまった》



【11/7『小樽新聞』】

   痛快に「俺はアイヌだ」と宣言し
   正義の前に立った確信 


   小樽新聞への掲載も続きます。

【フゴッペ論争】

 11月14日の小樽新聞に、「フゴッペ壁画」の発見記事が掲載さました。
 その解説を行ったのが、小樽高商の西田彰三教授です。
 そして、翌11月15日からは、西田の連載「フゴッペの古代文字並にマスクについて」が7回にわたって掲載されています。
 北斗は、この連載を読み、「間違っている」と感じます。

 西田教授は、「フゴッペ壁画はアイヌの手によるものである」という結論づけていましたが、北斗はそうではないと考えました。
 そして、アイヌである自身の立場から反論をしたいと、自らの考えを論文にまとめ、同じ小樽新聞で連載することになります。
 それが「疑うべきフゴッペの遺跡」です。

 北斗は、壁画がアイヌの手によるものとは考えられないと主張します。
 北斗の反論に対して、西田教授は「遺跡はアイヌの手によるものだ」とその後、長期間にわたって反論を繰り返します。
 ついには北斗に「反論のための反論はみっともないだけだ」と呆れられることになります。
 この時のフゴッペ遺跡は、適切な保存処理も行われず、ついに摩耗してなくなってしまいました。
 ただ、戦後、壁画の近くで洞窟がみつかり、そこでも壁画が見つかっており、続縄文時代の遺跡とされています。
 
 


【11/21『小樽新聞』】

   余市川その源は清いものを
   こゝろにもなく濁る川下

   岸は埋立川には橋がかゝるのに
   アイヌの家がまた消えてゆく

   ひら/\と散ったひと葉に
   冷やかな秋が生きてたアコロコタン



【売薬行商へ】

 小樽新聞を主な活躍の場として、アイヌの歌人、そして郷土研究者として、注目されるようになった北斗ですが、昭和2年の年末から、また新しいことを始めます。
 それが、売薬行商でした。薬を売り歩きながら、北海道各地のコタンをめぐり、全道にわたるネットワークをつくろう考えたのでした。 

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>>その12に続く

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《違星北斗の生涯》INDEX

2013年2月11日 (月)

違星北斗の生涯(その10 平取編)

《違星北斗の生涯》 

(その10 平取編) 

 ※これは管理人がやっているツイッター「違星北斗bot」(@kotan_bot)をまとめたものです。

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 アイヌの歌人・違星北斗Botを作ってみました。違星北斗27年の生涯を、ツイートで追体験してみたいと思います。

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【平取へ】

 北斗の日記は大正15年7月11日から、7月14日に飛びます。
 普通に読んでいては気づきませんが、ここで舞台が幌別から平取に移っています。
 北斗は7月12~13日で、幌別から平取に移動しているわけです。

 大正15年7月14日、それまで幌別(登別)にいた違星北斗は、平取に姿を現します。
 よく誤解・混同されていますが、北斗が平取で滞在していたのはマスメディアに「アイヌの聖地」と呼ばれて取り上げられる「二風谷」ではありません。北斗が住んだのはいわゆる「平取本町」です。
 北斗が滞在した平取本町(役場がある)から二風谷は山道を7キロぐらいで、徒歩だと1時間半はかかります。
 歩くと、結構離れています。
 北斗が来た当時は、平取までは軽便鉄道がありましたが、そこから二風谷までは山道を歩かねばなりませんでした。

 北斗は「平取」に住み、「二風谷」へは、平取から足を伸ばしていたようです。
 このあたり「北斗は二風谷に住んだ」と非常によく誤解されており、その「誤解」のおかげで、北斗の歌碑があんまり縁のない「二風谷」に建ってしまっています。
 二風谷小学校にある北斗の歌碑は、昭和30年ごろに計画され、完成したのは昭和46年。
 地元の人の「違星? 誰だそれ」という反対があったそうです。
 そりゃそうかもしれません。
 違星北斗は平取本町に住み、7キロ離れた二風谷にはたまに訪れる形です。
 しかし、北斗に二風谷を詠んだ歌があるので、実状をよく知らない人たちによって、よりアイヌのイメージの強い「二風谷」に歌碑建設が計画されることとなり、その「ねじれ」によって、地元の反対があり、建設が15年間ストップし、それを動かしたのが萱野茂さんでした。

 さて、大正15年7月14日(水)、北斗は平取教会にあらわれます。
 これはアイヌ伝道に尽力したジョン・バチラーの英国聖公会の教会で、当時はバチラー八重子は幌別教会におり、平取には岡村国夫神父がいました。
 岡村神父の妻千代子は八重子の妹でしたので、いわばバチラーファミリーです。
 北斗が平取に入った目的は、アイヌの信仰を持つ家庭にホームステイすることでした。
 北斗はバチラー八重子にそういう家庭を紹介してほしいと依頼し、平取に入って岡村神父夫妻から、「忠郎」氏を紹介してもらって寄宿したようです。
 この「忠郎」氏については、はっきりしたことがわかりません。
 北斗が寄宿した「忠郎」氏宅は、アイヌ式の家「チセ」でも、東北風の藁葺き屋根の家でもなく、「内地の木引きが手引きした板材を全部使用していた」というしっかりした近代的な板張りの家だったようです。
 そのあたりの経緯は、「違星君の平取入村当時の思い出」という資料に出ています。
 また、北斗は義経神社の下にあった八重子所有の借家に住んでいたという話もあります。
 当時、ジョン・バチラーを希望社の後藤静香が援助するかたちで、平取幼稚園の開設予定でした。公式の記録では昭和2年となっていますが、資料によっては大正9年開設というものもあり、はっきりしません。
 北斗が教会を手伝っていた記録は、北斗の日記にあります。
 バチラー八重子(幼名?向井フチ)は、有珠アイヌの長、向井富蔵(モロッチャロ)の次女。ジョン・バチラーの養女となり、コタン伝道に尽くしました。
 明治17年生まれなので北斗より17歳年上。
 知里幸恵の母、知里ナミや、伯母金成マツも、バチラーの伝道女でした。

【「日記」大正15年7月14日】
 

《教会の壁を張替する。
 下張りしたりするのにかなり手間取る。
 全く今日の仕事は捗らなかった。
 欄間と正面の扉の立派な所だけ張る。
 それで手許が暗くなったので一先休止。
 晩飯を食ってから応接室の天井と壁の古い紙を剥いで五分の二位下張りをやる。
 残りは明日やる事にした
 今日は岡村先生と色々お話をしながら仕事をした。
 此の村の青年の事、一般の思想に就いて、ヤヱ姉様の目下の運動に対する意見の交換、此の村で欲しいもの――浴場と図書館の事、施薬の事も考へて見た。
 浴場は一寸お金がかゝるらしい。
 維持費も要る問題だ。
 けれども欲しいものである。
 なんとかならないものだらうか。
 岡村先生自転車を欲しいとある。
 どうもそれは一寸難しい。
 一個人の便利の為に私は心配する気がない。
 せめて浴場ならばと考へて見る。


   五十年伝道されし此のコタン
   見るべきものの無きを悲しむ

   平取に浴場一つ欲しいもの
   
金があったら建てたいものを》


【「日記」大正15年7月15日】

《向井山雄氏当地に来る。
 バチラー博士も来られるとの事で、大至急張り替へをやる。
 岡村さんのお宅の応接室もどん/\やって了ってから博士が来られた。
 今日はお祈りをすると云って使を出されたので、七時半から教会に人が集ったが少数であった。
 鐘はかん/\と鳴る。
 それが此の小さなコタンの澄み切った夜半の空に響く。
 沙流川の流を挿んだ沢の様な土地に教会の鐘の音の鳴り渡った時、西の山の端には月が浮んで蛙は声清らかに此の聖なる響きに和して歌ふ。
 お祈りの終った頃は月も落ちて、北斗星がギラギラと銀河を睥睨して居た。》

 

 違星北斗の平取滞在には、大きく分けて2つの時期があります。
 大正15年7月から昭和2年の2月まで。
 その後、春に余市で家業の鰊漁の手伝いをし、病気をして夏まで余市滞在。
 ここで同人誌「コタン」をつくり、その後、再び夏に平取へ。
 昭和2年にも秋まで数カ月滞在し、その後、余市に戻ります。


【コタンを巡る】

 違星北斗は、平取に腰をおちつけると、労働の合間を使って、近隣のコタンを巡り、西川光次郎に送ってもらった児童向け雑誌「子供の道話」をコタンの子供たちに配ります。
 その頃のことを書いた手紙が「子供の道話」に掲載されています。原文は読みにくいので口語訳します。

 小生はおかげ様で無事に労働しておりますのでご休心ください。
 さて、先般は「子供の道話」を20冊おくっていただきありがたく感謝しています。
 内訳としては15冊は白老土人学校(校長山本儀三郎氏)にお送りし、学生に回覧させるようお送りしましたところ、昨日山本先生よりお礼状が来ました。
 西川先生に何卒よろしくお願い申しあげますと伝言があります。
 残り5冊は長知内学校に3冊、荷負小学校1冊、当地平村秀雄氏1、同キノ子氏1冊に配本しました。
 どなたも感謝しています。
 長知内も荷負も白老もみな「土人学校」で、この有益な雑誌をこの様にお分けできることは誠に嬉しいことです。
 8月号も20冊お送りいただけないでしょうか。
 月遅れでも可ですので。
 ただ1ヶ月だけでは、本当の宣伝にはならないと思いますので、よろしくお願いします。
 例のアイヌの道話は目下多忙につき、原稿にする暇がありません。
 小生は最初の予定の通りいかず、生活のために労働している次第で、朝早くより夜遅くまで働き、その余暇は雨の日といえどもコタン訪問をし、多忙は東京にいた時以上で、とても原稿は間に合わないと考えております。
 長知内の校長、奈良農夫也(のぶや)先生は、有名な奇人か偉人か変人として知られています。
 この程お目にかかり驚きました。
 長知内の学校は、公立で普通の学校ですが、実質は和人3人以外はすべてアイヌで、約60人います。
 この校長はどうみても現代離れした奇人で、この人だからこそ、「土人学校」に16年も勤続できるのでしょう。
 この先生はアイヌ語はいうに及ばず、アイヌの神詩〈カムイユウカラ〉などは金田一先生以上、は言い過ぎかもしれませんが、アイヌ通として、アイヌからも和人からも尊敬されております。
 この先生はアイヌの道話はたくさん知っているのですが、奇人めいた先生はそれを発表、ことに自分の名を記してなどは滅多にしない人です。
 先日無理にお願いしてお話をお聞かせくださいと言ったのですが、話してくれませんでした。
 ですから、原稿をお願いしたところ、「ローマ字で書いても良いか」とのことでした。
 学会からも注目を集めているこの先生が書いてくださることなら、更に面白いと考えて「それでも結構です」と言いましたところ、「まあ、そうでなくてもよいかしら」とおっしゃられました。
 8月から9月頃には匿名で西川先生のお手許に届くことと思いますので、その際はよろしくお願いします。
 少し変り方がひどい方で、他から物をただ貰う事が大嫌いなのです。
 もし、その原稿がお手許に届いたら、その代わりとして雑誌を送ったりしては、奈良先生の御機嫌を損ねるので、その点をことにご注意ください。
 「子供の道話」は毎月3部ずつ回覧文庫に寄付したいと思っております。
 アイヌの生徒は、それは可愛いものです。
 ただただ、経済的に伸ばしていかねばならないことを痛感しています。
 アイヌの道話「半分白く半分黒いおばけさん」を書きます。
 少し短いのですがかえって短編の方が雑誌にはよいかもしれません。
 近日中に書きます。
 今度の雑誌の配本予定は、白老土人学校に5、長知内学校3、荷負(土)小学校3、平取アイヌ幼稚園1、上貫別(土)学校2、二風谷(土)小学校3、他小生用に3、月遅れのものでも構いません。
 お願いを申し上げるのもまことに恐れ入りますが、何卒よろしくおねがいします。白老小学校より。


 以上、「子供の道話」の手紙(口語訳)です。
 手紙は、北海道に戻って数週間の、7月の後半のものかと推測します。
 文中に出てくる奈良農夫也と北斗の童話は、のちに同誌に掲載されます。


【平取での生活】

 先の北斗の手紙からすると、日々生活のための朝早くから夜遅くまで労働に明け暮れ、さらに余暇には雨であっても、近隣のコタンを回って、「自働道話」や「子供の道話」といった、修養書を配り歩いていたようです。
 仕事の内容は木こりや土木などの肉体労働が主でした。

【奈良農夫也】

 文中に出てきた長知内の先生・奈良農夫也は、秋田県角鹿郡生まれ、若き日には森鴎外や徳富蘆花とも接点があった人物。
 鴎外の日記によると、明治43年4月10日に鴎外を訪ねています。
 その時は髪の毛が肩より伸びていたといい、その頃から奇人だったようです。
 獣医の資格を持ち、24,5歳の時、上京して千住の木賃宿に一年程、労働をしたり子供に英語を教えたりして暮らしていた際、徳富蘆花と知り合っています。
 岩波書店とも縁が深く、販売協力をしたり、震災時には援助をしたりしています。
 のちに岩波書店から「蘆花全集」を出す時には上京して編集に協力しています。

 北斗が関わった「奈良先生」は二人います。一人が余市の大川小学校で教わった高齢の恩師「奈良直弥」(なおや)先生でもうひとりがこの長知内の「奈良農夫也」(のぶや)先生、北斗より14歳年上。
 どちらもアイヌ教育に従事する小学校の先生で、変わり者で、名前も似ているのでややこしいです。


【違星君の平取入村当時の思い出】

 筆者不明の文書ですが、当時を知る平取在住のアイヌ系住民と思しき人が平取長役場の便箋に書いたものです。
 書かれたのは昭和30年代、違星北斗を顕彰した「違星北斗の会」の代表の木呂子敏彦氏に宛てたものかと思われます。

《バチラー氏と希望社の後藤氏と平取幼稚園開設の予定されていた当時で、違星君は平取聖公会の牧師岡村国夫氏と夫人、千代子さんを訪れ、夫妻のお世話で、故人になられた忠郎氏宅に寄宿される様夫妻が尽力された。
 牧師はバチラー博士のキリスト教によるアイヌ伝道教化の先鋭として伝道され、違星君にも、アイヌ教化について随分論議されたと聞いている。
 違星君が、和人からの圧迫を随分うけた様にかゝれてあるが、事実少し彼は激情的にアイヌの純血をよくといて議論していた。
 然し彼等の余市人の純血さを問われ尚、民族の純血の意義より重大なこと、民族としての誇りの問題について話題を提供していた。
 私が軍隊から除隊した昭和三年十二月から翌春まで牧師宅でよく逢い、伯父忠郎宅で又よく会ふことが多かった。
 彼が意気込んで、アイヌのメッカ平取に来た時、既に平取では、彼の悩みと同じ悩みを三十年位前から青年達が悩み、明治四十年に青年図書館が出来、各種の修養会が発足し、病院も大正八年六千円で地元のアイヌと道の補助で土人病院が建ち、活発な青年の動き、又、女子教育には豪州婦人ミス・ブライアンドが私塾を開いて伝道と手芸の教育、育児、衛生などの事業に献身していた時代でむしろ教えられることが多かったと述懐して平取を去った。
 沙流アイヌと、余市では二十年余市が遅れていたと彼は*を苦悩*た。
 この苦悩の叫びにいろ/\よい歌も作った。
 この当時の牧師に、実は違星が訪れて*て牧師の紹介で故忠郎氏の宅に泊る様になった。
 牧師の奥さんが、希望社の経営(バチラー*団)する幼稚園の教師となることに決っていた。
 後藤氏の話からよくこのことを承知の上、岡村牧師夫妻を訪れてこられたのが真相です。》
 


 おそらく、これは木呂子氏がこの平取在住の方に、阿部忍氏の小説「泣血」(違星北斗の生涯を描いたもの)を送り、その正誤を問うたものかと思います。
 「泣血」は意外とよく調べられてはいるのですが、アイヌ文化に対する基本的な誤りが多く、ちょっと出来が良いとは言い難い小説です。
 この証言により、希望社とバチラーの共同経営の幼稚園の実体がおぼろげながらわかります。
 おそらく、大正15年、最初に行った時期はまだ幼稚園は準備中で、バチラー八重子も幌別にいました。
 この文の中で、この人物と北斗が「昭和三年十二月から翌春まで牧師宅でよく逢」ったとありますが、これは疑問です。
 この時期、北斗は余市で闘病中ですので、会えるわけがないのです。


【北斗の住んだ家】

 同じ人物の証言として

《建坪三十坪前後の屋根は茅の本葺が*葺の純東北風の家、明治三十年~三十九年来までに建てられたもので現在もこれは住んでいるが、この家の一軒にも小松宮がお泊りになった家もある。
 昔風の「チセ」はその当時でも珍しく相当奥地でなければ見あたらなかった。
 違星が二年ばかり宿泊させた、故忠郎氏の家は現在でもしっかりした建物で、その偉容を見ることが出来る。
 内地の木引きが手引きした板材を全部使用していた。
 現存するのは、十余棟、むしろ、余市の大川町の和人の家より外観も屋内も立派に出来ている。
 当時か冬はストーブを使用していた》


 という、証言があります。
 北斗が寄宿したという忠郎氏がどのような人物であったかはわかっていません。
 


【違星君の尺八】

 同じ人物の証言として、

《彼は琴だか都山か知らないが、江差追分を得意としていた。
 六段、千鳥の曲なども吹奏したような記憶があるが余りそれは上手でなかった。
 彼の吹奏の情景は江差追分が柄に合っいる。》


 というのがあります。
 北斗の尺八については、こちらもご参照ください。


【林檎】

 同じ方の証言

《平取で林檎園をと云ふことで、バチラー八重子氏が土地を購入(五町余)して、甥の武夫と違星君に経営させることゝし、*機も購入して貸与したが、発動機の故障などで余りよく行かなかった。
 林檎の樹の植樹もしないでこの計画も終った》

 

 これは平取に八重子がいるので、大正15年ではなく、翌昭和2年のことかと思われます。


【ジョン・バチラー】

《大正15年7月15日(木)晴天 

 向井山雄氏当地に来る。バチラー博士も来られるとの事で、大至急張り替へをやる。
 岡村さんのお宅の応接室もどんどんやって了ってから博士が来られた。
 今日はお祈りをすると云って使を出されたので、七時半から教会に人が集ったが少数であった。
 鐘はかんかんと鳴る。
 それが此の小さなコタンの澄み切った夜半の空に響く。
 沙流川の流を挿んだ沢の様な土地に教会の鐘の音の鳴り渡った時、西の山の端には月が浮んで蛙は声清らかに此の聖なる響きに和して歌ふ。
 お祈りの終った頃は月も落ちて、北斗星がギラギラと銀河を睥睨して居た。》

 北斗とジョン・バチラーとの最初の対面がこの日です。
 そして、八重子の実弟で牧師の向井山雄とも初対面。
 山雄は、1890年生まれで北斗より11歳年上。
 八重子と同じく、有珠アイヌの指導者の家系に生まれ、バチラーの援助で立教大学神学部を出て牧師になり、アイヌ伝道の道に入ります。
 かなり荒っぽい人物で、東京アイヌ学会に呼ばれた際には、大暴れしています。

 東京から戻り、意気揚々と平取に入ったばかりの、このころの北斗の記述には、平取や沙流川の風景を叙情的・詩的に描いたものが多いのが特徴です。
 伝統あるアイヌコタンに訪れて感激し、センシティブになっているのだと思います。
 しかし、そんな北斗にも、次第に現実の厳しさが襲いかかります。


【中山先生からの手紙】

《7月18日 日曜日 雨天  

 中山先生のお手紙にあった歌

   ホロベツの花の匂へるヱサシ浜
   メノコの声音聞けば楽しも

   輝けよ北斗となりて輝けよ
   君はアイヌの違星なりけり 》



 この二首は北斗が手紙に書いた短歌への返歌か、もしくはその内容を受けてのものでしょう。

 この中山先生とは誰か。
 おそらく民俗学者の中山太郎(同名の政治家とは別人)だと思われます。

 東京時代にアイヌ学会で出会い、その後も手紙のやり取りをしていたようです。
 中山の「日本巫女史」には、北斗の語った話が引用されています。
 

【富谷先生】

 同じく8月7日の日記より

《富谷先生より

   神よりの使命と叫びけなげにも
   君わけ入るや人の道にと

   道の為踏み出し君に幸あれと
   祈る心は今も変らず

   文机の一輪挿しの花うばら
   君の心にたとへてしがな

 

 今又読み返して嬉し涙をこぼした。》

 
この富谷先生はだれだかわかりません。
 東京で出会った知識人だと思われ、キリスト教的な教養もある人なので、学者か、西川光次郎周辺の人かとも思いましたが、おそらく、希望社の後藤静香の関係者かと思います。
 遺稿集「コタン」が希望社から出たからか、日記の記述からは後藤静香関係者以外、たとえば西川の関係者などは除外されているような感じがあります。

【日記 大正15年7月25日水曜日】

《末世の人間の堕落を憤り人間の国土を見捨てオキクルミ神威は去ってしまった。
 けれども妹にあたる女神がアイヌの国土を懐ひ泣くと云ふ
 神にすてられたアイヌは限りなき悲しみ尽きせぬ悔恨である。
 今宵この沙流川辺に立って女神の自叙の神曲を想ひクンネチュップ(月)に無量の感慨が涌く。(大正十五年七月二十五日)


   
オキクルミ。TURESHIトレシマ悲し沙流川の
   昔をかたれクンネチュップよ


 北海道に戻って10日、平取入りして一週間の北斗には、全てが抒情的で美しく見えるかのようんです。

【大正15年8月】

 違星北斗が北海道に入って半月。
 おそらく、この頃に北斗はトラブルに見舞われます。
 北斗が身を寄せていた平取のバチラー教会への、幼稚園のための援助を、社会活動家・後藤静香(希望社)が打ち切ると言い出したのです。
 後年、後藤静香は木呂子敏彦への手紙(昭和29年4月21日消印
)でこう語っています。

 
《(前略)あの平取には、バチェラー氏経営の幼稚園があり、それが経営に困っているというので私が毎月百円づつ相当長い期間にわたって送りました。 
 氏の意見として、小学校になると、アイヌの部落の子と一般の子供との融合がむつかしい。
 幼稚園時代から親しませるに限る、というのです。
 それはもっともだと思い、前記の様な応援をしていたのです。
 その当時の百円は決して少額ではなかったと思います。
 (大正十年頃からと思います)。
 しかし、一つは伝道の方便でもあり、且つ何分にも外人を介しての事で、私の気持がどの程度通じているやも分からず、中止しました(後略)》。


 後藤静香は大正十年頃から行なっていたバチラーへの援助を、北斗が平取滞在中に打ち切ります。
 北斗としては、憧れのバチラー八重子がいて、かつ後藤と関係があるからこそ平取に行ったのです。
 木に登って梯子を外された格好です。


【疲労】

《八月二日 月曜 晴天 随分疲れた。
 こんなに今から疲れる様では自炊も出来まい。
 それなら一体俺はどうする、まさか余市にも帰れまい。
 自分の弱さが痛切に淋しい。
 レヌプル氏が当地では一番先に林檎を植ゑたさうだ。
 どうかして林檎をうんと植ゑて此の村を益したいものである。

    熟々と自己の弱さに泣かされて
    又読んで見る「力の泉」 》


 北斗は北海道に戻って半月で、体調を崩します。それが、後藤とバチラーの資金問題に関係するのか、厳しい労働のせいなのか、その両方なのかはわかりません。
 歌に出てくる「力の泉」とは、後藤静香の格言集の小冊子です。

《八月四日 水曜日 晴天 

 後藤静香先生からお手紙来る。

    先生の深きお情身に沁みて
    疲れも癒えぬ今日のお手紙》
 

 北斗と後藤静香(せいこう)との文通は、北斗が亡くなる直前まで続き、信頼関係は崩れませんでした。詳しくは http://bit.ly/HShtQp

【後藤静香と希望社】

 

 北斗が私淑した後藤静香は「希望社」という社会運動の結社を立ち上げ「希望社運動」という名で若い教員や行員に影響を与えました。その活動内容は「点字の普及」「ハンセン病患者救済」「エスペラント運動」「老人福祉」「アイヌ救済」「現代仮名遣いの普及」など。
 大正時代から昭和の始めにかけて、若者たちに影響を与え、政治家や経営者にも影響を与えていた希望社の後藤静香については、もっと知られて良い人物でしょう。
 善人なのですが、脇が甘かった人という印象です。

 

【希望社のアイヌ援助】

 後藤が違星北斗に出会う前に、こんな文を書いています。

《アイヌ民族の保護 

 大正十一年十二月から、この事業に着手いたしました。
 これはまだ発表したことがありませんから、不思議に思われるかも知れません。
 しかし、これは、国家がなすべき当然の仕事です。
 これをすておいては、人道の上に立った日本として世界にモノが言えません。
 国家がなすべくして、未だなし能わざるとき、これに代って国民を代表し、当然の責務を果たすのが、社会教育者の務めでございます。
 私はこんな見地から、この事業のために四十幾年間没頭していられるバチラー博士を助けています。
 いまは主として、幼稚園の経営につくしています。》


(後藤静香「希望社の事業とその信念」『希望』大正13年1月、『後藤静香選集』第十巻)

 北斗は東京で後藤静香と出会った時、すでに後藤はアイヌ援助をはじめていました。
 北斗と後藤が最初に出会ったきっかけはわかりません。
 同様の社会教育家の西川光次郎の「自働道話社」に出入りしていた関係や、職場が新宿だった関係から、当時新宿に巨大ビルを構え勢いのあった「希望社」を見つけたのかと思いましたが、意外と金田一京助を通じて知り合ったバチラー八重子からの線かもしれません。

【参考・後藤静香と希望社】
後藤静香」 
後藤静香の言葉集
後藤静香記念館
amazon「後藤静香」

【大正15年8月11日】

《水曜日 有馬氏帰札、曰く 
一、アイヌには指導者の適切なのが出なかった事 
二、当面の問題としては経済的発展が第一である事

 村医橋本氏に会ふ。曰く 
一、二十年間沙流川沿岸に居る。
二、年寄は仕方もないが若い者は自覚する事が第一である。


 後藤先生よりお手紙を頂く。
 幼稚園に就いての問合せであるが困った事だ。
 先生としては成程御尤であるが、何分にもバチラー先生の直営なのだから……。

 

 有馬氏は北海道帝国大学医学部の有馬博士。
 小樽新聞1926年7月27日に

《「有馬博士一行/アイヌ結核調査」〈8月1日から、日高地方で、北海道帝国大学医学部の有馬博士と助手2名が、「アイヌの結核調査」に当たる予定になっている》

 と記載あり。完全に一致。
 この事実は実は重要だと思います。というのは、続く「後藤先生よりお手紙を頂く。幼稚園に就いての問合せであるが困った事だ。先生としては成程御尤であるが、何分にもバチラー先生の直営なのだから……。」という、バチラーへの援助を後藤静香をどうしようかという金銭トラブルが、これが大正15年であるということが確定するからです。
 昭和2年として知られる日記はやはり、大正15年で間違いないことがここでもはっきりするわけです。

 後藤静香がバチラーへの援助を打ち切ったのは大正15年。
 やはり、北斗が後藤の命を受け、バチラーの懐に飛び込んで、すぐにそういうトラブルになったということになります。


【「日記」大正15年8月13日】


八月十三日 金曜日
 今夜教会に行って岡村さんが札幌に行かれたと聞く。
 聞けば幼稚園の事ださうだ。
 それなら前にお話してあるから同じ事だ。
 それとも後藤先生が他から何か聞いて、それを此方に訊きたくて呼ばれたのか知ら?
 何にしても此の幼稚園は此の村に無くてはならぬものの一つであるから、どうぞ岡村先生がよいお便りを齎して下さる様に祈って止まない。》

 後藤静香は平取のバチラー幼稚園の援助が打ち切りたいという。
 平取教会の岡村神父は、札幌のバチラーのもとに相談にいきます。
 北斗としては気が気でないでしょう。
 後藤静香の命を受けてバチラーの平取教会にやってきたは、まことに立つ瀬がない。
 これはスポンサーと非援助者という関係だけでない。後藤静香は思想上の恩師であり、バチラー八重子や平取の人々とはアイヌの同族としての絆がある。
 北斗は二つの「情」に引き裂かれそうになるわけです。

【日記大正15年8月14日】

《土曜日 岡村先生お帰り。
 幼稚園の問題だったと。
 後藤先生が万一送金を止められてもバチラー先生は園を永く続けるとの事。
 又此の家(家賃二十円)の問題もあり教会の方を提供して、色々の設備もするとの事であった。》


 ジョン・バチラーとの打合せを終えた岡村が札幌から戻ります。
 幼稚園の継続もそうですが、「此の家(家賃20円)」というのが気になります。
 幼稚園として使っている家なのかもしれません。
 維持できなくなったら、平取教会を使おうと。
 切実です。
 当時、公務員初任給75円、銀行員初任給50~70円、下宿料(東京)20~25円です。

【大正15年8月16日月曜】

《8月16日月曜 晴れ、夜雨

 土方の出面に行く。
 岡村先生と例の話をする。
 嬉しい。
 若しも此の村に此の先生が居られなかったらどんなに淋しい事だらう。
 今日は栄吉さんの皮肉な話を聞いて、一層淋しく、此の様な村はいやになると思うたが、岡村先生に慰められて又さうでもないと思ひ直す。
 勉強も出来ず研究もしないで居る自分は苦しい。
 まあ気永にやるの他はない。
 それにしても余市に行って林檎も研究せねばならぬ。
 その方面のアイヌ事情も知りたいと思ふ。
 後藤先生に手紙を書く。

 一、一箇年五十円の薬価――施薬
 二、正月と中元に三十円父に送金
 三、二風谷に希望園を作る 林檎三百本
 四、コタンに浴場を建てたい
 五、札幌に勤労中学校
 六、土人学校所在地に幼稚園設置
 七、アイヌ青年聯盟雑誌出版》


 「土方の出面」ではじまるこの日の日記は、痛切です。
 お金のため、生活のために病身をおしての労働。
 さらには村人の皮肉に心を痛め、それでも、岡村神父の存在によって癒される。
 理想を掲げてはいても、思い通りに行かない現実。
 北斗の思い描く同族を救うための7か条には、施薬、衛生、教育、殖産、団結と、重要な条項が多く含まれています。
 心配をかけ通しの父への援助が入っているのが一層痛切です。

 優遇された東京の幸せな日々から一転、厳しいコタンの現実。
 理想を語る北斗に、同族からは余所者扱いの冷たい目と言葉が投げかけられます。
 追い打ちをかけるバチラー幼稚園の金銭問題。
 北斗は疲弊していきます。


【大正15年8月26日 木曜日】

《札幌バチラー先生宅にて一泊。後藤先生本日来札》

 札幌で、平取幼稚園援助に関するスポンサー後藤静香とジョン・バチラーとの会談に、北斗も参加することになります。

 恩師と恩師のお金の問題。
 想像するだけで胃が痛くなりそうなシチュエーションです。
 


【大正15年8月27日】

《金曜日 雨天
 午後、後藤先生バチラー先生方へ御来宅。
 金をどうするかと訊かれる。
 よう御座いますと答へる。
 蒲団は送る様に話して来たと仰しゃった。
 お急ぎの様子なので碌にお話ししない。》


 これでバチラーへの後藤静香からの援助はなくなります。
 唐突に「蒲団」についての記述がありますが、これは一見意味不明なのですが、どうも平取で蒲団が足りず、後藤静香に頼んだということなのかもしれません。

【大正15年8月28日】

《土曜日、雨、時々晴
 小樽で後藤先生の御講演を聴く。
 「帰結」の五箇条。
 駅で先生より二十円也を頂く。
 やれ有り難や。
 やっとハイカラ饅頭十個お土産に買ふ。
 余市に着いたのは夕方。

    叔父さんが帰って来たと喜べる 
    子供等の中にて土産解くわれ 》


 2年ぶりに余市に帰郷。
 バチラー幼稚園への援助打ち切りが決まった翌日、北斗は小樽で行われた後藤静香の講演を聴講し、そのまま駅まで送った際に、後藤から20円援助してもらいます。東京での給料が40円でしたので、結構な額です。
 北斗はその夕方、故郷余市へ。
 甘党の北斗は子供らとは兄梅太郎の子どもたち。
 お土産に小樽のハイカラ饅頭を買っていきます。
 北斗が二年ぶりの帰郷に際して買ったお土産は小樽の「ハイカラ饅頭」。これは北海道の食物番付にも載るような有名なお土産だったようです。  

【大正15年8月31日】

 《火曜日
 午後11時32分上り急行で後藤先生通過になる筈。
 中里君と啓氏と三人で停車場に行く支度をする。
 併し先生は居られなかった。
 林檎は送るより他に仕方がなくなった。》


 余市で北斗は、汽車で通過する後藤静香に会うために、幼馴染の中里篤治らとともに駅へ。
 余市駅での停車時間を利用して、後藤静香に名物のリンゴを渡すつもりだったのですが、後藤には会えませんでした。
 その理由は、翌日に日記にあります。

【9月1日】

《水曜日 晴れ、未明大雨 
 今朝日程表で見ると後藤先生は30日夜に通過されたのであった。》


 北斗は本当に汽車の時間にはルーズです。
 分かっているだけでも3回電車に遅れています。高尾登山、東京を後にする際、そして今回です。
 「汽車に遅れる」というのも北斗のキャラの一つですね。
 

 後藤静香側の記録を見ると、
 8月27日札幌(バチラー相談)
 8月28日小樽(講演)
 8月29日小樽
 8月30日夕張
 8月31日「アイヌ部落」(これがどこのコタンをさすのか不明)

 となっています。

【帰郷】

 久々に余市に戻ってきた北斗。
 友人の古田謙二が証言を残しています。
 以下は古田の証言。

《私は独身時代に、大正十五年秋から昭和二年の春頃まで、奈良先生の家に二階に下宿したことがあった。
 丁度、その時のことである。
 (略)北斗が東京から帰って来た頃のことである。
 道でバッタリ北斗と逢った。
 「やあ、どうした」
 「今、東京から帰って来たたところで、奈良先生をお訪ねするところです」
 「それは丁度よい。私は奈良先生の家に下宿しているので、話をしていき給え…」
 と、いうわけで、同行して帰宅。
 奈良先生に、東京から帰ってきた挨拶をした後、二階の私の部屋にやつてきて、それから長時間の話しあいをしました。
 東京の話、例によって「アイヌに対する和人の優越感に対する慣慨…」とうとう夜中の一時、二時頃になってしまい、私のところに泊まってしまいました。
 その時の話題は、皆忘れてしまったが、唯一、覚えているのは、西田幾太郎の「善の研究」という本の話をしたことです。
 「善の研究」を当時私は購読。
 その第三章に宗教のところがあります。
 私はキリスト教なので、西田幾太郎のように神を理解することができなかったのです。
 即ち、「神は宇宙の上に超越している」と理解したいのですが、「善の研究」には「宇宙の中の働き、そのものの中に神の存在を見る」ようにと説かれているのです。
 そのことを、長時間話しあいをしたのですが、北斗は「私も善の研究のように神を理解したい」といい、私は「超越してある神」をとり、遂に意見が一致しませんでした。
 ほんとうにあれから、もう四十年もたってしまいました。》


 違星北斗がこの会談の際に西田幾太郎の『善の研究』を読んでいたのか、それとも古田に概要を聞いたのかは不明ですが、当時の旧制中学生の必読書といわれていた本とのこと。北斗の宗教観がわかりますね。

【平取に戻る】

 大正15年8月末後藤静香とバチラーの札幌での会談に同席した北斗。
 後藤のバチラー幼稚園援助は打ち切りが決定しますが、北斗と後藤、北斗とバチラーの関係は特に変化は観られません。
 余市に一時帰郷した北斗は、父や兄の家族と会い、友人の古田謙二とかたらって、9月10日ごろ、平取に戻ります。

 北斗が余市に一時帰郷していたこのころ、西川光次郎に手紙を書いています。

《家事上の都合により昨日当地に参りました。
 ついでに少々研究もあります故九月十日まで当地に居ります。
 それからやはり沙流郡平取村の我が家に帰ります。
 余市は涼しい。デモ平取村よりも少し暑い気分です。
 来年から平取村にリンゴの苗木を少し植附けます。
 この地方(余市)に研究的に林檎園を経営してみたいものです。
 それらの事も余市でなければ出来ない相談です。
 兎に角く、一生けんめいであります。》

 (自働道話大正15年10月号)

 北斗はリンゴ農園の経営で経済的自立を考えていました。

【「日記」大正15年9月19日】

《九月十九日 日曜日
 後藤先生から絵葉書が来た。
 『あせってはいけない……』と。
 本当に感謝に堪へない。
 コクワを先生に送って上げたいものだが。》


 この葉書はおそらく平取で受け取ったものでしょう。
北斗には他にもコクワに関する記述があります。

《コクワ取り

 たった独で山奥に入る。
 淋しいが独は気持がよい。
 私は常に他人に相槌を打つ癖がある。
 厭なのだがしかたない、性分なのだから。
 けれども独になった時は相槌を打つ様な厭な気苦労から逃れて気楽になる。
 だから淋しい中にも一人になった時は嬉しい。
 コクワなんてどうでもよいのだ。》

 なんだか北斗の人間性がよくわかる文章です。
 コクワに関しては、こういう歌もあります。
 


    上京しようと一生懸命コクワ取る
    売ったお金がどうも溜まらぬ


いずれも『コタン』より。
コクワは猿梨(サルナシ)、最近ではミニキウィとも呼ばれているようです。キウィの近縁種なんですね。

【コタンの夜話】

 谷口正氏の著書に「コタンの夜話」というものがあり、そこに北斗のことが出ているそうです。
 現物は未確認、湯本喜作氏の「アイヌの歌人」からの孫引きです。

《谷口氏は二風谷の酋長故二谷国松さんから、初めて北斗のことを聞いたのである。

 それは、何時だったか忘れたが、とうきびのおいしい季節であった。
 一人のアイヌ青年が訪ねて来た。
 彼は違星滝次郎と名乗り、自分はアイヌの研究は同族の手でやらねばならぬとの信念で研究する傍ら、アイヌ民族の解放運動に情熱をそそぎ、全道のコタン部落をくまなく歩き、同志を求めていると自己紹介した。
 彼はしばらく平取のバチェラー園で働いていたが、惜しいことに平取を去り、郷里の余市で短かい生涯を終えたので、秋の一夜を、とうきびを囓りながら語りあかしたのが最後となった。
 彼は、また違星北斗と名乗り歌を作っていた。》


 この話をきっかけに谷口氏は北斗の研究に入ります。
 谷口正氏は鉄道員の仕事の傍ら、北斗の証言を集めました。
 それを『アイヌの歌人』で紹介したのが湯本喜作です。
 この二谷国松氏は伝承者としても有名な方で、萱野茂さんの父・貝沢清太郎氏と、二谷一太郎氏と同世代(明治20年代生まれ)。
 北斗より10歳以上年上です。

 以下、ちょっと違星北斗からそれますが、萱野茂さんの著書「アイヌの碑」より引用します。

《この三人は、二風谷ではアイヌ語を上手にしゃべれる最後の人たちでした。
 三人が話していたのは次のようなことでした。
 「三人のうちで、一番先に死んだ者が最も幸せだ。
 あとの二人がアイヌの儀式とアイヌの言葉で、ちゃんとイヨイタッコテ(引導渡し)をしてくれるから、その人は確実にアイヌの神の国へ帰って行ける。
 先に死ねたほうが幸せだ」
 聞いていて、わたしはとても悲しかった。
 「先に死んだほうが幸せだ」。
 わたしは何度もこの言葉を心の中で繰り返しました。
 この言葉の意味は、民族の文化や言葉を根こそぎ奪われた者でなければ、おそらく理解することは絶対に不可能でしょう。
 人間は年をとると、死ぬということにあまり恐れをいだかなくなるといいます。
 しかし、死んだときには、自分が納得できるやり方で、野辺の送りをしてもらいたいと願う気持ちには変わりがありません。
 その納得できる葬式をしてもらいたい、ただそれだけのために早く死にたいと願うほど、わたしたちアイヌ民族にとってアイヌ文化、アイヌ語は大切なものなのです。
 そして、その三人のうち、“最も幸せ”になったのは、わたしの父でした。》

 萱野茂「アイヌの碑」より。

 この時、北斗が二谷国松と具体的にどのような話をしたかはわかりません。国松は、北斗が平取を去った後のことも知っているようなので、北斗と文通などはしていたのかもしれません。
 このエピソードは北斗がどのような形で全道の同胞に会って話をしていたかがわかる貴重な資料です。

 また、似たような話に、北斗の余市の句友、古田謙二の言葉があります。

《日高の二風谷における北斗のことは直接は知らない。
 しかし、二風谷を初めて訪れ、酋長の宅でアイヌ民族向上について談じこんだ事実は、北海道のある雑誌にのった誰かの北斗に関する記事で見た記憶がある。
 ―その家の娘が北斗に恋をしたが、北斗はこれを受入れず二風谷を去った―というようにその記事に書かれてあったようにも記憶している。
 事実かどうか話があまり巧みにいっているので、作り話ではないかと思う。》


 その記事を確認できていませんが、なかなか興味深い記述です。
 

【医文学9月号】

 北斗は東京の「医文学」に8首の短歌を投稿し、同9月号に掲載されています。

《△北海道日高国沙流郡平取村のアイヌ族違星北斗氏から左のやうな短歌を寄せられた。

  沙流川のせゝらぎつゝむあつ霰
  夏なほ寒し平取コタン。

  今朝などは涼しどころか寒いなり
  自炊の味噌汁あつくして吸ふ

 

  お手紙を出さねばならぬと気にしつゝ
  豆の畑で草取してゐる。

  たち悪くなれとの事が今の世に
  生きよと云ふ事に似てゐる

  卑屈にもならされてゐると哀なる
  あきらめに似た楽を持つ人々 

  東京から手紙が来るとあの頃が
  思出すなりなつかしさよ

  酒故か無智故かはしらねども
  見せ物のアイヌ連れて行かるゝ

  利用されるアイヌもあり利用する
  シャモもあるなり哀れ世の中

 
 

  本号に掲載の違星氏の書面と此歌を読む我読者諸君は果して如何の感があらうか。
 一視同仁の意義は吾等は努めて之れを実現せねばならぬ。(後略)》

 

 9月号掲載ということは、北斗が北海道に戻り、平取に入った7月後半以降、8月前半ぐらい(まだいろいろ疲れてしまう前?)に投函されたものでしょう。
 同じ号には、北斗が東京を発つ直前に書いた手紙「アイヌの一青年から」も掲載されています。 

【二風谷より】

 「医文学」の翌10月号には、北斗からの葉書が紹介されています。

《△北海道のアイヌ違星北斗氏から葉書来る。
 北海道全道を盛に旅行して居るそうだ。
 二風谷村から投函されたものだ。
 書中俳句二つ。

   川止めになってコタン(村)に永居かな

   またしても熊の話しやキビ果入る》

 

 素直に読めば「二風谷村」で川止めになってしまったと取れますが、俳句にはコタンとだけあり、地名は入っていないので、もしかしたら別のコタンかもしれません。
 「またしても熊の話しやキビ果入る」の句は、「キビ果入る」の意味がよくわかりません。誤字?どなたか判じていただけると助かります。

【童話】

 「子供の道話」大正15年10月号に、北斗の童話が掲載されています。
 バチラー八重子伝承、北斗筆記の童話です。
 面白いです。
 「アイヌのお噺(ウエベケレ) 半分白く半分黒いおばけ」           

【大正15年9月】

 北海道に来て2~3ヶ月目の北斗は、胆振・日高のコタンを巡っていたのですが、その際に西川光次郎の出版していた雑誌「自働道話」や「子供の道話」を配っていたようです。
 これは「修養雑誌」為になるいい話、啓蒙や修身、道徳、今風に言えば「意識の高い」話が掲載されている雑誌です。
 9月頃の配本予定は、「白老土人学校五、長知内学校三、荷負(土)小学校三、平取アイヌ幼チ院一、上貫別(土)小学校二、二風谷(土)小学校三、外小生三」と、白老および日高各地のコタンの学校に配本していました。意識改革は子供のうちから、という思いがあったのでしょう。

【奈良農夫也先生】

 北斗は、このコタン巡りの際に、長知内の奈良農夫也(のぶや)という先生に出会います。
 余市の恩師奈良直弥先生と同姓ですが、偶然です。
 この奈良農夫也先生は「有名な奇人か偉人か変人」として知られ、北斗によればアイヌ語が金田一京助以上に達者な「アイヌ通」ということ。
 北斗は、なんとかアイヌ語・アイヌ文化に精通し、「学会よりも注目を集めてゐる」奈良農夫也にアイヌの道話を書かせようとします。
 奇人・変人として知られる人物だけに、苦心しますが、匿名・無報酬を条件になんとか書かせることに成功します。
 奈良農夫也は若いころ、鴎外と出会っています。
 鴎外の「明治四十三年日記」四月十日に「秋田県角鹿郡花輪町袋丁の人 獣医奈良農夫也といふもの大塚寿助の紹介書を持ちて来訪す」とあります。 
 その時の風貌は髪の毛が肩を越えて長かったとのこと。
 奈良農夫也は明治四十一年三月、三本木の青森県立畜産学校畜産科を卒業し、獣医師免許を取得。
 二十四、五歳の頃、上京して千住の木賃宿に一年ほど暮らし、労働生活を送り、その頃、徳冨蘆花と知り合います。その後、北海道に渡り、日高国沙流郡長知内教習所でアイヌ教育に従事しました。
 奈良農夫也は、蘆花との親交は深く、昭和2年には状況して岩波の蘆花全集の編集を手伝っています。
 岩波書店の岩波茂雄との親交があり、関東大震災の時には岩波書店に援助をしています。
 木賃宿時代は子供に英語を教えたりといったこともしていたようです。

 違星北斗が、奈良農夫也に書くことを薦めた昔話は、「子供の道話」昭和2年2月号に「北海道秘話 魂藻物語」として、掲載。
 ペンネームは「沙流仙人」。
 筆者が古老に「玉藻」について聞きに行くと「貧しい老夫婦を助けるために大冒険を繰り広げる犬と猫の話」を聞きます。

 「北海秘話 魂藻物語 その1
 「北海秘話 魂藻物語 その2
 
 

 童話は、貧乏なシサムのお爺さんお婆さんのために犬と猫が大冒険する話で、一見メルヘンやファンタジーなんですが、その中の猫に退治される「鼠の王」のセリフで、なんともいえない気持ちになりました。

 ネタバレしないようにしますが、このお話はもっと重層的な構造を持っている気がします。

 「お前は……お前は俺の子供達を悉皆(すっかり)噛殺(かみころ)してしまひ、俺の妻(マチヒ)も喰殺し、親類(ウタリ)も悉(みんな)亡くしてしまつた。それで遂到自分が出て来たのだが、なんで斯様(このよう)に迄 噛殺してしまつたのか?
 ……この、「ウタリ」を悉く失った鼠の王の言葉が悲しすぎます。

 「お前は先刻(さっき)、鼠が穀物(アマム)を盗食ひするといつて怒つたが、鼠が人間の穀物を喰ふことは俺達の初め発生(でき)た時から神さまに許されてゐることなのだ。さう許されていることを邪魔して、その上、鼠を食殺すといふことは止めて呉れなければならない」
 
……この台詞も悲しい。

 語り手の想いが、猫と犬以上に、鼠の王に投影されている気がするのは、穿ちすぎなのでしょうか。
 ちなみに、鼠の王が言う、人間の食物を食べるのを神様に許されているという話は、北斗が平取で聞き取りしたこちら「世界の創造とねずみ」を参照。話は繋がっています。
   

【自働道話12月号】

 違星北斗からの手紙で10月ごろに投函されたものが掲載されています。

《来月から新冠の方面に参りたいと存ます。
 労働はとても疲労します。
 従って皆様に御無沙汰勝になりまして、申わけもありません。
 どうも郵便局が四里も遠くなので、切手を求むるのが骨です。
 

   幽谷に風嘯いて黄もみじが、
   
苔ふんでゆく我に降りくる

   むしろ戸にもみじ散りくる風ありて
   杣家一っぱい煙まわりけり

    秋雨の静な沢を炭釜の
   白いけむりがふんわり昇る

    干瓢を贈ってくれた東京の
   友に文かく雨のつれゞゝ 》


 林業や土木などの肉体労働をしながら、生活費や活動資金を稼ぎ、コタンを巡って啓蒙活動を続ける北斗。
 今回の4首は、北斗には珍しく抒情的ですが、あるいは山奥での「炭焼」の歌ではないかと思うと、リアルにも見えてきます。
 北斗は炭焼の仕事もしたのかもしれません。
 労働に追われ、思うように進まない研究や活動。
 しだいに疲労感が隠せなくなってきます。


【秋の短歌】

 北斗の平取時代に詠まれたと思われる「秋」の短歌。

   面影は秋の夜寒に啼く虫の
   声にも似てるヤイサマネイナ

   暦なくとも鮭来るときを秋とした
   コタンの昔したはしいなあ

   一雨は淋しさを呼び一雨は
   寒さ招くか蝦夷の九月は

   秋の夜の雨もる音に目をさまし
   寝床片寄せ樽を置きけり

   ひらひらと散った一葉に冷めたい
   秋が生きてたコタンの夕

   桂木の葉のない梢天を衝き
   日高の山に冬は迫れる

   土方した肩のいたみをさすりつゝ
   また寝なほした今朝の雨ふり 


   最後のは特に秋ではないですが、平取時代のものですね。


【大正天皇崩御】

 年も押し迫った大正15年12月25日、大正天皇が崩御。
 北斗は二日後に、山中のコタンでその報せを聞きます。

    崩御の報二日も経ってやっと聞く
    此の山中のコタンの驚き


 このコタンがどこかは不明ですが、平取か、もしくは日高のどこかのコタンかと思われます。

【昭和2年】

 山中で崩御を聞いた北斗は、正月を迎えます。

    諒闇の正月なれば喪旗を吹く
    風も力のなき如く見ゆ

    勅題も今は悲しき極みなれ
    昭和二年の淋しき正月


 大正天皇は大正15年12月25日崩御。
 翌日より昭和元年がはじまり、7日後、昭和2年の正月を迎えます。

 当時の雑誌を見ると、昭和2年1月発売の雑誌には「大正16年」という表記のまま出版されています。まあ、そりゃそうですね。

 これまで、病弱だった大正天皇に代わり、摂政として公務を行なっていた裕仁親王が天皇となります。
 昭和天皇は1901年生まれ。北斗の誕生年は自称の1901年と戸籍上の1902年1月1日との二通りがありますが、昭和天皇と同じだから、1901年の方を好んで使ったという可能性もあるかもしれません。
 

 北斗は、アイヌ民族を鼓舞し、アイヌの地位を向上させ、当時の日本社会に欠かすべからざる、役割を果たす人々となるよう修養しよう、と同族を啓蒙していた北斗。天皇については、当時の「日本人」の大多数と同様に、崇敬の念を持っていました。
 このあたりの皇室への敬慕というのは時代的には自然なのだと思います。
 ちなみに、北斗が余市時代に結成した「茶話笑楽会」の結成日時は4月29日、当時・皇太子(摂政宮)であった昭和天皇の誕生日からとられています。
 


【日高巡回】

 大正天皇の崩御により、諒闇の中はじまった昭和2年。
 違星北斗は、平取周辺のアイヌコタンだけでなく、日高各地を巡るようになります。
 西川光次郎への手紙によると、

《旅行してより今日で十日にもなります。
 日高のアイヌ部落はたいてい廻ることが得られるのが嬉しい。
 平取の我が本陣に戻るのはそうですネ今日は十四日だから十八日頃でせう。
 北海道は雪と申します。
 けれども十一州その所によりけりです
 日高は尤も雪の少ない処です この辺は一寸位です。
 余市は三尺以上もあるでせうに
 高田屋嘉兵衛氏の末孫がこゝの村を開きました。
 今は貧しい旅館を営んでゐます。(今日の宿北海道、日高三ツ石)》
(自働道話昭和2年3月)》


 日高三石は現在の新ひだか町三石地区、日高の海岸沿いですね。
 近隣にはシャクシャインで有名な静内があります。
 北斗に共鳴していた同志・浦川太郎吉がいた浦川も近くです。
 奥さんの浦川タレさんは伝承者として有名ですね。
 

 北斗の同志・浦川太郎吉といえば、数年前、管理人が大阪のデパートの「北海道展」に行って、彫刻に見入っていると、話しかけてきた方が偶然、浦川太郎吉のお孫さんで「爺さんが違星北斗がうちに来てたってよく言ってたよ」というのを直接お聞きしました。
 奇縁を感じました。

【童話】

 「世界の創造とねづみ」(子供の道話昭和2年1月号)北斗が採録した道話です。
 話者は「清川猪七」翁となっていますがこれは「清川戌七」でしょう。
 バチラーの元で学び、聖公会の伝道師になったアイヌの方の口述です。世界が出来たばかりの頃、神と悪魔の戦いで、神を助けたネズミの話。これも面白い話。 

【最後の平取】

 昭和2年夏、自らの思想の結晶ともいうべき「アイヌの姿」を同人誌「コタン」を創ったあと、おそらく平取で二度目に夏をすごします。北斗は、バチラー八重子とともに幼稚園を手伝い、吉田ハナととも、蚕を飼ったり、林檎園をつくろうとしたりとコタンの殖産に努めました。

【吉田ハナ】北斗が平取で一緒に過ごしたという吉田ハナについては、複数の異なる証言があります。北斗の筆による吉田ハナへの手紙が残っており、藤本英夫氏は北斗と同世代の女性と見ていますが、別の証言では、バチラー八重子より年上の宣教婦だというものもあります。私は同名の別人かと思います。


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>>その11に続く

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《違星北斗の生涯》INDEX

違星北斗の生涯(その9 ホロベツ編)

《違星北斗の生涯》 

(その9 ホロベツ編) 

 

 ※これは管理人がやっているツイッター「違星北斗bot」(@kotan_bot)をまとめたものです。

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 アイヌの歌人・違星北斗Botを作ってみました。違星北斗27年の生涯を、ツイートで追体験してみたいと思います。

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【大正15年7月】

 違星北斗は東京を後にします。
 6月いっぱいで東京府市場協会を辞職し、7月5日に東京を後にします。

 この時のことを書いた西川光次郎への手紙が「自働道話」大正15年8月号に掲載されています。

《先日は誠に有がとう存じました。
 私は感謝いたし乍(なが)ら、今日の出立ちとなりましたことを悦びます。
 もう少しの違いでこの列車に遅るゝところでした。
 間一髪の処で車中の人となりました。
 私は本当に嬉しかったことを申上ます。
 それは高見沢様と同奥様がわざ/\駅に御見送りして下したことです。
 何と云ふ幸なことでせう。
 私の主人はこうして手厚い御事をなされて下さいました。
 涙がひとりでポロ/\飛出しました。
 私は東京の方を遙かに合掌し三拝いたします。
 なんと幸な男でせう。  
 逆境より起きた私は、すべての人に理解されました。
 第一に父が……兄が、友人が、東京では先ず第一に西川先生が、高見沢様が、額田様が、又その他の人々及び私しのこの仕事に声援して下さる諸先生が……ことごとく私しの前途を拓いて下したのであります。
 
 うれしくてうれしくて万年筆が、列車のゆれるよりも嬉しさに踊り出します。
 本日額田君外杉沼様が御見送下さいました。
 ではサヨウナラ皆様御機嫌克く(七月五日午後十時半)》


 北斗は列車に遅れそうになりながらも、多くの人々に見送られて、夜汽車に乗り込みます。

【北海道へ】

 大正15年7月5日に上野から北へ向かう列車に乗り込んだ違星北斗。
 その行き先は、故郷余市ではなく、幌別(登別)でした。

 多くの書物では、北斗は東京から日高の平取に直接行ったかのように書かれていますが、これは間違いです。
 北斗は、当時聖公会の幌別教会にいたバチラー八重子に会うために、北斗はある人物に会うために、一旦幌別に立ち寄っているのです。

 目的は、バチラー八重子に、アイヌ文化・信仰を守っている平取の家庭を紹介してもらうためでした。和人文化との混淆が進み、多くのアイヌ文化が失われてしまった郷里・余市とは違い、まだアイヌ文化が残されている平取で、アイヌの文化を学ぶためでした。
 また、幌別は、北斗が心を動かされた『アイヌ神謡集』を残して19歳でこの世を去った、知里幸恵の家族が住む地でもありました。
 
 

 違星北斗は、大正15年7月7日に幌別(登別)のバチラー八重子の教会に着きます。その翌日7月8日に北斗が金田一京助へと送った手紙がありますので、紹介します。

《拝啓 東京に居りました一年と六ヶ月 その間先生におそはることの多かったことを忘れがたい事と感謝してゐます。
 自分は何かなにやら もう 煩から悶への苦しみでしたが 先生にこの自分を さらけだして 自分の求めるものを得やうとしたのでした。
 今考いてみても、本当に先生の御勉強をどんなにか、さまだけた事か、又は、おいそがしい所を、自分勝手からどんなにか先生のご迷惑をおかけしたことでせう。
 私しは、又とない機会なのでしたからどんなにか、愉快に、どんなにか、おたよりしたことでありました。
 さて あの日はもう五分で、あの汽車に遅る所でありました程、時間も かっきり 上野に参りました。  
 額田君と二人で飛ぶ様に三等に飛び込みました。
 その時、私しはびっくりしましたのは、杉沼さんと申しお方がいらしたことです》

 北斗は例によって列車に遅れそうになります。

《杉沼さんばかりでなく高見沢様の奥様も。
 奥様をみつけたら高見沢様もそこに居られました。
 うれしくて/\涙が、ヲヤ/\僕の道楽なんでしから 手紙にまで泣いたことを報告します。
 他にも涌井さんが、若しくや来てゐなかったかしらと思ひました》


 泣き上戸、感動屋の北斗らしいです。

《私はあんまり時間をなくしてゐたので、その近所の人の顔はわからなかった。僕を送って下した方が外(ほか)にもあったとしたら、大そう済まないことをしたと思ってゐます。青森もぶらついたり、室蘭も初めてみたり、また幌別にも寄った事は、嬉しいことです。》

 北斗は列車で青森まで行き、そこで青函連絡船に乗りますが、乗り換えに時間があったのでしょう。青森をぶらつき、また室蘭でも町を散策したりしています。「幌別にも寄った」という書き方からすると、やはり幌別は最終目的地ではないようです。
 

《ここは三百戸ばかり そしてウタリは三十戸ばかりあります。
 ウタリの店もありました。
 知里幸枝さんの弟さんの直志保さんにも会ました 。
 豊年君もよい青年でした。 
 まだどの家にも入っていません。
 だいたい入ったって話も出来ないから、入る気も自然に億劫になるのです。
 八重様は、どう思ってゐるかは不明です。
 けれどもあの手紙 の心もちと、ちっとも変わってゐない様です。
 とにかく、私しを、アイヌの信仰の、持ってゐる家に、お世話して下さるとの事です》


 北斗は、バチラー八重子にアイヌの信仰を持つ家の紹介を頼みます。
 文中の「幸枝」は「幸恵」、「直志保」は真志保のこと。

《私しは面白くてたまりません。
 八重様は、まだ僕の心根は、わかって下さらない様です。
 けれども僕を愛して下さることは、まるでお母様の様です。
 私しはこのお母様の様な八重様をどうかして嬉しがらせたいと存ます。
 あまり失望もさしたくないと思ってゐます。
 それはあんまり罪深いと思ひますから。
 然しだいたいにをいて、私しの意思は誰にもさまげられませんから愉快です。
 私しの注文通の所に住み込めそうですから、先生もどうぞ御喜びください。
 私しのからだが弱ければいかないことを痛切に感じてゐます。
 私しはこの信仰は決して病気を直さないかもしれないが、然し、信仰以外の信念はきっと衛生と相待って強くなる事を確信してゐます。
 神は私しを救ほふが殺そうが、私しは神なんか(助けるタノマレル神)は問題でない、との信仰は、只、私の良心を本尊として進みます。
 私しの信仰は、やがてヤエ様にも放される信仰であるかもしれない。
 若しやそんなことがあったって、神をもタノマナイ私しは人間を、どの程度までタノンでよいでせう。
 若し私しは孤立することがあったって、私しは、驚くまい、と思ってゐます。》


 北斗と、クリスチャンの八重子には信仰や考え方の違いがありました。

 《僕のぢ病もどうも都合の悪るいものだ。
 これでは家に立寄って、そして適当な療治するのが本当だと思ったが、なあーに、まかりまちがったって、死程のこともあるまい。
 然し、大事にはするよ、私しの理想は遠いのですもの。
 また父も兄もゐるのだし、私しは父よりも兄よりも、亡き母や、それからそれから 私しを愛して下した、石亀石五郎爺やの霊をなぐさめ、姉の霊をなぐさめるうへに於ても 私しは私しを鞭撻して私しの良心に進まなければなりません、と思ってゐます。》


 この石亀さんについては、どなたかわかりません。
 余市の方でしょうか。
 北斗の信仰は、キリスト教のような救う神、頼まれる神ではなく、己れの『良心』を本尊にして進む事だと。この考えが原因で、クリスチャンであるバチラー八重子と袂を分かっても仕方がないということかと思います。
 夢想家で同時にリアリストである北斗は、クリスチャンのアイヌ支援を認めつつも、生ぬるさを感じ、『キリスト教ではアイヌは救えない』と公言します。
 弱者として受動的な救いを受けるのではなく、まず積極的に行動して強き者にならねばならない。
 手紙からは北斗の理想と志が伝わってきます。

《波の音が、のんきそうに、また痛快に、ひゞいて来ます。
 裏の鉄道の信号がガチャンと、ひゞくと程なくして汽車がドヾ……とやって来ます。
 浜には浜なしの花が香よく咲いてゐます。
 この家にゐても波の音が涼そうに聞いて来ます。
 この波の音だって太平洋のかなたより送られて来るんだと思と音の一つ一つが、自然の造り出だされた約束なんでせう。
 この浪の音で思ひ出しました。
 私し共は常にこの浪の音だけ聞いてゐます。
 或は見てゐます。
 けれども音は結果であって初めではない。
 結果だけで満足して来てなれてゐます。
 この結果になれてゐることが、どうもわからないことです。
 私しはアイヌに生れました。これは、どこからか約束されて来た結果です。
 この結果が運命と云ふものだらうと今思ってゐます。
 結果は私しのあずかり知ることのない勝手な運命であって、生れ乍らにして約束の責任のない責任を負ふてゐます。
 それは幸不幸の問題ではなく「動いて行く」と云ふ運命を負されてゐます。
 罪なくして罪を負されてゐる人間が世の中に沢山あることです。
 と 又、同時に誉なくして誉を負はされてゐる人間もありますと思ます。
 その人の努力なくして負ふてゐる結果だけ、見つめてみると問題はないんです。
 然し運命を(私しは運命は凡て私し共の感じてゐるのは結果だけのことを名さしてゐるのではないかと思ます)少し深く考えてみて、初めて人間をつかんだやうな気がいたします。
 こんな考はこの文だけでは不完全でせう。
 どうせ私しの考は正しくないのかも知れません。》

《けれども私しは、この考は自分を卑下するところから思索をめぐらしたに外なりません。
 私のすべての出発は自己差別なんです。
 私しはアイヌをより克く見やうと負け惜みから進めて行くことが自分乍ら哀れです。
 小さな者相手の小さな仕事です。
 やっぱり私しは先生達のお小使いが一番私としての尊いことであることを思ます。
 今日も昨夜も八重様と色々な思想的な問題を語り、私しはとても愉快でした。
 この二三日中に平取に参ることになることでせう。
 どんな家に入られるかヾ今からそこの家を想象してゐます。
 やっぱり私しは先生達のお小使いが一番私としての尊いことであることを思ます。
 何せよ第一番にアイヌ語を習らふことが先ですからこゝ二年くらいは何んにも出来ないのではないかしら。
 今この聖公会(バチラー氏宅)に○○(精神病)の女と(十六七歳)その父母(五十前後の人)が居ります。
 気の毒な人をお世話するのがこの八重様の持ってゐる性分なんでせう。
 その外、茶畑さんと云ふ青年(二十五六)が居ります。
 これは少し変りやの様で、元ウシ(有珠)の土人学校の先生をしたとかて、八重様が申してゐました。
 なか/\面白い青年で話せます。
 その青年とまるで議論の様に話してゐるので、この教会にゐるのも愉快です。
 金田一先生にお会したら、さぞお話が面白いことだらうと口くせに話してゐます。
 梅子さんのことも大そうよろこんでゐます。
 先生からのお手紙を何べんも何べんも読んではくり返してニコ/\してゐます。
 デハ、これで失礼いたします 金田一先生 御許 大正十五年七月八日 草々北斗生》
 

 長々と引用しましたが、これが大正15年7月8日の、北海道に戻ってすぐの北斗の心境です。
 
 バチラー八重子を頼って幌別(登別)入りし、幌別教会に寄宿します。
 知里幸恵の弟・真志保とも会っています。
 北斗は、八重子に平取でアイヌの信仰をもつ家を紹介してもらうために数日滞在し、平取へ向かうことになります。


【西川光次郎への手紙】

 北斗は、金田一京助への手紙を書いた同日、「自働道話社」の西川光次郎宛にもう一通手紙を書いています。
 短いものですが、西川の発行していた「子供の道話」誌大正15年9月号に掲載されたものですので、個人的なところはカットされているかもしれません。

 

《色々お世話様になりました厚く御礼申上げます。
 昨日バチラー八重子様の家に着きました、この村は三百戸ばかりの小さな村です。
 アイヌは三十戸ばかりもありませうと思はれましたが漁家と農家と二三戸の商店とです。
 平和な村と申しますより淋しい程静な村です。
 汽車の音が、たまにするだけで海の浪の音が今日はきこえませんが、昨日はゴー/\/\とそこひゞきのあるすごい浪音でした、野には名の知れぬ草花が雲雀のお家となつてゐます、近々中、平取方面へ参りたいと思ますそれにしても当家を根拠にしてと存ます、いづれまたお便りします。》



【白老へ】

 違星北斗は大正15年7月7日に幌別(登別)のバチラー八重子の教会に一時的に腰を落ち着け、そこを拠点に、大きなコタンのあった白老に出かけています。
 白老の小学校は、北斗の小学校の恩師、奈良先生が初代校長を務めたところでした。
 これについても、西川への手紙に記述があります。

《謹啓 色々お世話様になりまして誠にお有り難う御座いました。
 この附近をぐる/\視察して近々中に日高国平取方面に参りたいと存じてゐますので遂い失礼してゐました。
 昨日白老村に参りました。
 こゝには二十三年前に、奈良如翁先生が土人学校を初めて開校された当時の校長であつたと聞かされたゐた、なつかしい学校がこゝにあるのです。
 先づこの学校に立寄り今の校長先生にお会いたしました、奈良先生以来五代目の山本儀三郎先生はきはめて立派な性格の持主です。
 この人格者にして初めて土人教育も成功するもの也と思ました。
 この学校に来る前にも虻田方面の臼村にも居たそうで、とに角、土人教育二十年余も続けて来たお方です。
 私しは全アイヌ族にかはりて厚く御礼申し上げました。
 アイヌの教育の実際も初めてみました。
 そして先生が児童の頭脳から通じて将来の観察は、私し共の本当にうれしい報告でありました。
 子供になにかお話しをして下さいと先生よりの御注文なので一寸と困りました。
 その時すぐ子供の道話を思ひ出しました。
 あひにくその時は持って行く事を忘れて残念なことをいたしました。
 こんどはこの道話を一つ教科書にして、子供の為になる様なことを宣伝したいと考へてゐます。
 まだ/\楽観すべきではありませんけれど、然し大部私し共の喜ぶべきものがあります。
 こんどあの土人学校のなにか参考になるらしい様なものをお送りしたいと存ます。
 私しは今アイヌの児童に美しい心を植へて行くには、先づ己が一番近い趣味から入れたいと存じます。
 アイヌの道話的お話しは沢山あります。
 この間も面白いのをきゝました。
 まだ原稿には綴りませんが、これなども発表される機会があつて、それを更に逆輸入的にアイヌの方に宣伝したら、きつと皆がよろこんでくれはしまいかと存ます。
 それはそうとしても、あのコタンの学生は七十人程も居ります。
 それで私しは、この学童の半数でなくとも二十冊ぐらいの子供童話をお送り下さいますことが出来たら、どんなにか嬉しいのです。
 ナーニ、月おくれでもかまひません。
 古くてもどうでもよいからこの可愛アイヌの子供に寄贈して下さいますならば、本当に有りがたい事です。
 どうぞお願です。
 お送本下さい。
 白老土人学校は奈良先生と縁拠も深く、そして二十三年も歴史を持つてゐます。
 こんどまた校舎を増築して開講記念会を催して奈良先生をご招待したいと申してゐます(日時は未だ未定)。
 私しの今居るところヤヱ、バチラー様のお家は大日本聖公会教会です。
 本日日曜でしたので子供が少数参りました。
 何より驚いたのは婦人の数多が来たことです。
 不完全な日本語を使つてゐるメノコ(女)達が神の愛に救はれてゐるのです。
 文字もよめない人々はいつの間にかアイヌ語訳の讃美歌を覚えて、そして今日お祈はアイヌ語でやるのです、シヤモ(和人)もまじつてゐますけれどもアイヌのメノコのこの健気な祈をきゝまた見て、只私しは驚きの外ありませんでした。今日はまあこれくらいにして筆ををきます。

 

     ホロベツのはまのはまなし咲き匂ひ 
     イサンの山(向に突出してゐる岬の)の遠くかすめる

     アイヌ小屋あちこちに並びゐて 
     屋根草青く海の風吹く

     白老の土人学校訪ぬれば
  かあい子供がニコ/\してる

  奈良先生が土人学校ひらきてより
  二十三年の今もなほある

 

  コタンに来てアイヌの事をきゝたれば 
  はにかみながらメノコ答へり》


 これで、西川への手紙は終わりです。
 北斗はよく自分のことを「私し」と書きます。これは「わたくし」。「わたし」ではなく、「わたくし」と明示したいとき、昔はこう書くことがあったようです。
 金田一の手紙では「僕」ともいっています。
 最後の教会でのお祈りの描写は、北斗の日記(7月11日)にも出てきています。
 遺稿集「コタン」では「昭和2年」となっていますが、この手紙からそれが誤りであり、大正15年であることは明らかです。。昭和5年の編集の時点で編集者が間違った年を入れたことが、現在まで引き継がれてしまっています。
 


【日記】

 では、その日記の「大正15年」を紹介します。

《七月十一日 日曜日 晴天
 今日は日曜日だから此の教会に生徒が集まる。
 メノコが七人来る。
 此の人達はアイヌ語で讃美歌を歌ふ。
 其の清聴な声音は魂の奥底までも浸み込む様な気がして、一種の深い感慨に打たれた。
 バチラー博士五十年の伝道は今此の無学なメノコの清い信仰で窺はれる。
 今更の様に妙音に聞き入って救はれた人達の仕合せを痛切に感じる。
 ヤヱ・バチラー氏のアイヌ語交りの伝道ぶり、その講話の様子は神の様に尊かった。
 信仰の違ふ私も此の時だけは平素の主義を離れて祈りを捧げた。
 アイヌ語の讃美歌……あの時の声音は今も尚耳に残って居る。》

 
 

《知里幸恵様の御両親とお宅とを始めて知った。
 花のお家、樹のお家、池のお家として印象深いものだった。
 幸恵さんのお母様はローマ字も書けば英語も出来ると云ふ感心なお方。
 お父様は日露の役に出征された中々の偉いお方。
 此の人達の子供さんだから賢いのも当たり前だと思った。
 景色のよい所に住んで居られる此のお家の人達は羨しい。
 ウタリーに此の人達のある事は心強いと思ふ。》


 この知里幸恵の家を訪問したのは7月10日。この時に弟で後に文学博士となる知里真志保と出会っています。
 この「花のお家、樹のお家、池のお池」は、現在も「知里森舎」として現存しており、往時を忍ぶことができます。

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>>その10に続く

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《違星北斗の生涯》INDEX

「柳田先生の思い出」沢田四郎作

 「柳田先生の思い出」沢田四郎作

(前略)

 この年の五月二十七日もお誘いをうけて、北方文明研究会に行ったが、当日は台湾帝大総長幣原坦博士、フィンランド大使のラムステッド博士も出席され、金田一京助、中道等、樋畑雪湖、松本信広、今和次郎、三淵忠彦、有賀喜左右衛門、岡村千秋、谷川磐雄の諸氏に御紹介して下さった。この日は鈴木・中道・今氏など東北出身の方々を囲んで男子のみによってなされる職業やオシラ様の話が中心であった。この日金田一先生はアイヌ人の違星という青年を連れて来られた。この人は間もなく二十七才の若さで亡くなったが、この青年について、金田一先生がお書きになった昭和四年四月十五日の東京日日新聞の切抜きを保存している。

(後略)

違星北斗の生涯(その8 上京編3 国柱会/決意) 

《違星北斗の生涯 まとめ》 

(その8 上京編3 国柱会/決意) 

 ※これは管理人がやっているツイッター「違星北斗bot」(@kotan_bot)をまとめたものです。

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 アイヌの歌人・違星北斗Botを作ってみました。違星北斗27年の生涯を、ツイートで追体験してみたいと思います。

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【国柱会】

 大正14年2月に上京してから約半年。
 その年の後半から大正15年の春ぐらいまでの違星北斗の足跡は、突然ぷっつりと途絶えます。

 もちろん、行方不明になっていたわけではなく、記録が残っていないだけで、その間に、東京府市場協会の事務員として働いていたことは間違いありません。
 ただ、西川光次郎の「自働道話」には北斗の名前が載らなくなります。

 その間、違星北斗はある宗教団体に出入りするようになったと思われます。
 それが『国柱会』です。
 国柱会は元日蓮宗の僧侶・田中智学が興した仏教団体。
 石原莞爾宮沢賢治が帰依していた宗教団体として有名です。

 アイヌである北斗がナゼ日蓮宗系の宗教に?という疑問があるかもしれませんが、 北斗の宗教観は、後に北斗が金田一に送った書簡で明らかになりますが、基本的には「アイヌ復興に役に立つなら信じる」というリアリスティックなものでした。
 知里幸恵をはじめ、多くの同族がキリスト教に帰依しつつも一向に救われなかったと見た北斗は、早々にキリスト教に見切りをつけます。
 余市の違星家の宗派は日蓮宗だったこともあり、そんなに違和感なく入っていったのかもしれません。
 北斗は寺の友人の墓に線香を供え、余市神社の祭りに参加し、村の盆踊りにも参加し、さらに古老のユーカラを聞き、アイヌプリの儀式にも、キリスト教のお祈りにも参加しています。

 かといって、北斗は無神論者ではありません。
 後に友人の古田謙二と『善の研究』(西田幾多郎)について語り合った時、北斗は『善の研究』と同じく「宇宙の中の働き、そのものの中に神の存在を見る」と語り、クリスチャンである古田の「神は宇宙の上に超越する」という意見と一致しませんでした。
 そういう意味で、北斗はクレバーすぎて、何か大きな救い主に盲信的に頼るような宗教は、合わなかったのかもしれません。
 キリスト教にすがっても救われずに苦しむ同族を見て来た彼には、当時イケイケドンドンで、社会に影響力を及ぼしていた国柱会や希望社の方が魅力的に映ったのでしょう。

 失われた楽園・理想郷的アイヌ世界「コタン」を心に描き、それを追い求めながら、「弱い自分」に力を与えてくれる実効的な学問、思想、宗教を求め続けたのが、北斗の生涯だといえるかもしれません。


【美保の講習会】

 東京で『国柱会』に出会った北斗は、その勉強会に熱心に通いつめ、合宿講習会にまで参加しています。
 静岡県三保の施設「最勝閣」で開かれた講習会は、北斗の東京滞在中には2度開かれています。
 大正14年8月3日~12日と、同年14年12月27日~翌1月5日。

 夏・冬どちらに出たかはわかっていません。どうして、北斗が国柱会の教義にはまったのかは、彼自身の言葉が残っていないのでわかりません。
 ただ、国柱会の教義が、北斗の目標に対して、即効性があると感じたからなのかもしれません。彼の目標とはいうまでもなく「アイヌの復権」でした。

 北斗が国柱会に足しげく通い、研修合宿に出ていたというのは、国柱会の代表・田中智学の娘の田中蓮代氏の「違星青年を悼む」という文により、明らかにされています。
 蓮代氏は、北斗のことを知りませんでしたが、あるとき彼女の恩師である金田一京助を訪ね、その際に金田一より北斗が、彼女の父の主宰した国柱会に傾倒していたと聞かされます。
 北斗が傾倒した田中智学の娘・蓮代はかつて金田一京助より言語学を習った教え子で、阿佐ヶ谷に住む恩師を訪ねたのでした。
 金田一は「この青年は貴女のお父様を崇拝していまして、三保の講習会へも伺わせて頂いたとか、色々の感銘をよく語り、「お父様はきっとこういうアイヌ青年のいた事を御存知かもしれませんから、この遺作集をお目にかけて頂けましたら、亡き違星君も満足する事で御座いましょう」と『コタン』を蓮代に手渡したということです。
 詳細は不明ですが、これも北斗の東京時代の「空白」を埋める一片はあります。

 北斗は、大正14年の夏か冬に、国柱会の研修合宿に参加しています。
 場所は静岡県三保にあった、国柱会の「最勝閣」という施設。ちなみに、この静岡県三保が記録に残っているうちで、違星北斗が訪れた最も西になります。国柱会の記録によると合宿の内容は次の通り。

 夏だと第31回大正14年8月3日~、田中智学の講義は「妙行正軌」。
 冬だと第32回大正14年12月27日~、講義は「法国冥合と本門本尊」、いずれも10日間。
 ほかに討論会、幻燈講話、少年講話、婦人講話、演説会、運動競技会、修学旅行、茶談会、宗曲・雅楽の演奏など。

 「男性は必ず羽織と袴を着用、居眠りをしようものなら、遠慮会釈なくチョークが飛んだ。『合掌以敬心欲聞具足道』の実践である。しかし茶談会や納涼談話、スポーツや遠足など、童心に帰ってみな愉しく語りかつ遊びもした」

 ということです。北斗が、どこまでやっていたのかは不明です。

 これほどまでに、はまっていながら、東京から北海道に帰った北斗の言動や日記・手紙などの記述には、その名残りはまるで見られません。
 国柱会の信仰への傾倒は、東京時代の、それも一時的なものであったと見たほうがよいのかもしれません。

【大正15年】

 前年と違い、大正15年の前半の記録はほとんど見つかっていません。東京府市場協会の仕事をしながら、あちこちに顔を出し、学問や思想の勉強に励んでいたと考えられます。

 北斗の生涯は昭和4年1月29日までですから、あとは大正15、昭和2、昭和3年のわずか3年間しかありません。ですが、その3年間で、北斗は大きな仕事をいくつも成し遂げます。
 恵まれた東京での生活を捨て、北海道に戻って、コタンを巡って多くの同族に語りかける一方、新聞雑誌に短歌を発表し始めます。やがて、病を得て闘病生活に入ります。いよいよ精力的で濃密な3年間に入って行きます。


【東京生活】

 北斗は東京では東京府市場協会の事務員として働き、その役員であった高見沢清の淀橋区角筈(現在の西新宿)の家で生活を始め、高見沢家の人々に愛されました。
 東京について詠んだ短歌もいくつかありますので、紹介してみます。


   砂糖湯を呑んで不図(ふと)思ふ東京の 
   美好野のあの汁粉と栗餅


   甘党の私は今はたまに食ふ 
   お菓子につけて思ふ東京

 …美好野とは正しくは「三好野」で、当時の甘味処のチェーン店の名前。
 北斗は下戸の甘党で、帰道後も高見沢の妻からお菓子を贈られて喜んだりしています。


   支那蕎麦の立食をした東京の 
   去年の今頃楽しかったね



 …大正15年に北海道に戻った北斗は、東京の立ち食いのラーメンの味を懐かしんでいます。
 支那そばは当時でも、札幌や函館では食べられたようですが、平取や余市では望むべくもなく、ラーメンは楽しかった東京を象徴する料理だったのでしょう。

【釧路新聞】

 違星北斗が上京中の大正15年3月5日、釧路新聞に北斗についての記事が掲載されました。

《札幌より 三日 支局記者 
◎余市の大川青年団に違星瀧次郎と云ふアイヌの団員が居た
 この青年は小学校時代の数年間アイヌなるが故に全校の生徒から非常な迫害と侮蔑を受けた
◎事毎にアイヌだ旧土人だと罵られるので瀧次郎は自分のこの世に於ける仇敵はシヤモ(和人)である
 自分は一生をシヤモ退治に捧げやうと決した
◎今に見ろ俺が大きくなつたら必ず此の仇討をするぞ
 シヤモの奴等ヒドイ目に会はしてやるぞとは彼が寝ても覚ても忘れられない心境であつた
◎或る時は不逞鮮人云々の新聞記事などを見て
 俺も鮮人と提携して此の怨みを晴さうかと考へたことも一度や二度ではなかつた
◎其後学校を卒へて青年団に入ると此所は全然学校とは様子が変つて迫害どころか返つて非常な優遇を受る
 少くとも差別待遇がない普通の団員として幹部や仲間の取扱に何事の等差がない
◎団員となつて初めて自分は人間愛に接することが出来
 斯うして数年間団員生活は自分の思想を一変させ小学校時代のシヤモに対する復讐心は何時の間にか雲散霧消して今では当時を追憶することさへも罪悪の様な気がする
◎是は此の青年の告白で復讐心に燃えて居た時代にノートに書き付けた歌と此の頃の感想を陳べた歌とを相添て
 道庁の知人の許に寄せて来たが
 是等は学校の先生、青年指導の任にある人々には何よりの参考資料だ
 瀧次郎氏は今は東京に出て西川光次郎氏の下に在つて社会事業に従事して居る(後略)》



 まだ無名の青年だった違星滝次郎の名が釧路新聞に掲載されたのは、道庁に北斗のノートが送られてきたからでした。
 経緯は不明ですが、東京アイヌ学会で知遇を得た人の誰かが送ったのかもしれません。
 このノートの存在は、北斗が短歌を上京以前から詠んでいるという証拠でもあるのですが、現物はみつかっていません。
 いまでも道庁の片隅にあったりしないのでしょうか……。

【北方文明研究会】

 北斗が再び記録に姿を表すのは大正15年5月27日。
 この日、北斗は金田一につれられて、柳田國男主催の「北方文明研究会」に出席しています。

 柳田国男は郷土研究会、郷土会、南方談話会、民間伝承会など、テーマごとに細分化した研究会を開き、北方文明研究会は、東北文化の研究に絞ったもので、前年の大正14年8月に結成されたものでした。

 沢田四郎作の「柳田先生の思い出」という文章に北斗の事が出てきます。

《(略)この年の5月27日もお誘いをうけて、北方文明研究会に行ったが、当日は台湾帝大総長幣原坦博士、フィンランド大使のラムステッド博士も出席され、金田一京助、中道等樋畑雪湖松本信広今和次郎三淵忠彦有賀喜左右衛門、岡村千秋、谷川磐雄の諸氏に御紹介して下さった。
 この日は鈴木・中道・今氏など東北出身の方々を囲んで男子のみによってなされる職業やオシラ様の話が中心であった。
 この日金田一先生はアイヌ人の違星という青年を連れて来られた。
 この人は間もなく27才の若さで亡くなったがこの青年について金田一先生がお書きになった昭和四年四月十五日の東京日日新聞の切抜きを保存している。(後略)》


 この沢田四郎作は医者・民俗学者。
 前年に参加した東京アイヌ学会同様、北方文明研究会の参加者もすごいメンバーです。
 違星北斗は日本民俗学の父・柳田国男や考現学の今和次郎ら、錚々たる民俗学者とも出会っていました。


【北斗が東京で出会った文化人】

 上京中、金田一京助との出会いをきっかけに、民俗学関係の人々と出会います。
 「沖縄学」の伊波普猷。「日本巫女史」の中山太郎。
 「民俗学の父」柳田國男。「考現学」の今和次郎。

 学者から、出版人へ。
 知里幸恵の「アイヌ神謡集」を出版した「炉端文庫」の岡千秋
 「世界神話文庫」の松宮春一郎。 この松宮春一郎は北斗に自分の名刺を持たせ、いろんな人を紹介します。 

 作家で、もと革命家の山中峯太郎。彼は違星北斗をモデルにした『民族』『コタンの娘』という小説を書きます。
 「医文学」の長尾折三。

 金田一以外の人脈としては、余市時代から読者だった句誌「にひはり」の勝峰晋三や、「自働道話」西川光次郎。
 そして、思想遍歴の中で出会った「希望社」の後藤静香、「国柱会」田中智学。
 北斗は彼らと関わり、常に学びつづけました。

【苦悩】

 大正15年初夏。
 東京で働きながら、アイヌの未来のために勉強を続けていた違星北斗は、ある決心をします。
 この時の心境については、金田一京助の「違星青年」に記述があります。

《私は労働服の違星青年の姿を、学会に、講演会に、ありとある所に見受ける様になつた。
 かうした一年有余の時の流れは、偶々違星生を、虐げられた半生の苦酸から引つこ抜き、執拗に追い廻す差別待遇の笞から解放して、世界を一変さした。
 逢ふ人あふ人に愛され、行く処行く処に好遇されて、生活が安定し、思想が落ち著いて、何一つ不足なくなつて来た時に、丁度その時に、 「真実な生活に徹したい違星生の真摯さは、また自分の生活の矛盾をどうすることも出来ない苦悶にみづからを追ひ込んだ。
 私ほどの者なら、東京には有り余る程ゐる。
 そして失業の失職の生活難のといつてゐる時に、半人前も仕事の出来ぬ私が、一人前の俸給をもらつて納まつてをれるのは、たゞ私がアイヌだからである。
 私の様な者が、学者の会合へ交れたり、大きな会館で銀の匙やフオークで御馳走になつたりする。
 この幸福も、やつぱりたゞ私がアイヌだからである。
 私が若し和人であつたら、協会のあの仲間並に、あゝいふ手合と、あゝして暮すだけの事、誰がこんな殊遇を与へられよう。
 アイヌであつたからこそだ。
 待て、待て、「アイヌだから」といふ差別待遇を抗拒し、悲憤して来た自分ぢゃなかつたか?》

 これはあくまで金田一京助の筆によるものです。
 金田一は結構ドラマチックに、お涙頂戴に内容を「盛る」ので、その辺は考慮が必要ですが、この内容については、北斗が悩みを語ったことだと思います。
 北斗の同僚を「ああいう手合い」とか書いてしまうあたりも基本的には「いい人」だが、どこか配慮の足りない金田一京助らしい残念さがあります。


【決意】

 上京から1年が経ったころから、北斗は自分の置かれている立場に疑問を抱きはじめます。
 東京では、学者や文化人からチヤホヤされ、アイヌであるがゆえに優遇される。
 一方で、郷里では、差別や貧困に苦しむ同胞たちがいる。この矛盾に苦悩しはじめます。
 北斗は、安定した東京での生活を捨て、世話になった恩人や友人たちに別れを告げ、差別や貧困の待つ北海道に戻る決意をします。
 彼は、アイヌ民族の地位向上を自らの使命として定め、そのために一生を捧げることを決意したのでした。


【辞職】

 大正15年6月末をもって、北斗は東京府市場協会を辞します。
 1年と5ヶ月でした。
 辞職にともなって、協会の人々が北斗の送別会を行なっています。
 市場協会に縁が深い「自働道話」誌に、その時のことが書かれています。
 北斗は、市場協会の人々にも、辞職の理由を話していたようです。

《△アイヌ族の青年違星北斗君が、アイヌ族の根本的研究を思ひ立ち、市場協会を辞して、北海道に帰へらるゝことになったので、六月末日、一夕、違星君を招き、高田、額田、佐々木、高山の諸君と共に、四谷の三河屋で会食いたしました。》

 四谷の三河屋は老舗の牛鍋店です。
 参加メンバーの内、「額田」は額田真一。
 市場協会に北斗と同時に採用された大阪出身の青年で、北斗とは生涯の親友となりますが、彼も西川光次郎の「自働道話」の愛読者。
 送別会の主催が西川光次郎だとすると、市場協会の送別会ではなく、ではなく自働道話社の送別会の可能性もあります。


【「医文学」送別会】

 他にも送別会が開かれています。
 北斗が出入りしていた「医文学」誌にも別の送別会の記録があります。(後述)。
 「医文学」関係者が開いた送別会で、「アイヌ学会の人士やその他の人々」が出席とありますので、「医文学」の雑誌が開いたというより、金田一人脈の人々が開いたというべきかもしれません。
 「琉球の某文学士」も出席とありますが、これは伊波普猷です。
 アイヌ学会の人士というと、金田一京助の周辺の人々でしょう。
 中山太郎、岡村千秋、松宮春一郎あたりが出ていたのかもしれません。
 その他の人々がどのような人々だったのかは今となっては知りようがありませんが、北斗は自らの決意を宣言し、多くの人々の応援を受けて、北海道にもどるのでした。

【アイヌの一青年から】
 「医文学」大正15年9月号に、北斗からの手紙が掲載されています。
 手紙が書かれた日付は大正15年6月30日。
 まさに、西川光次郎が四谷の送別会を行ったその日です。
 少し長くなりますが、北斗が東京を去る直前の心境が綴られているので、全文を引きます。

 まずは医文学編集者、長尾折三(藻城)による紹介文

《アイヌの一青年から 藻城生

 アイヌに有為の一青年があり、違星滝次郎と呼び北斗と号する。
 私は松宮春一郎君を介して之を知り、曾て医文学社の小会にも招いたことがある。
 一昨年来東京に住してゐたが事に感じて帰国することゝなつた。
 この帰国には大なる意味があつて、喜ばしくもあるが、亦た悲しくもある。
 アイヌ学会の人士や其他の人々と共に心ばかりの祖道の宴を開いて帰道を送つた。
 此会には琉球の某文学士抔も参加されてゐた。
 其後左の如き手紙が届いたのでこゝに掲載する。
 その心事一斑を知ることが出来るであらう。》

 続いて北斗の手紙

《謹んで申し上げます。
 私しは一年と五ケ月を、東京に暮しました。誠に幸福でありました。これもみんな皆様の御同情と御祈の賜と感謝してゐます。
 私しは今度突然北海道に帰ることになりました。
 折角かげとなりひなたとなつて御鞭撻下さった皆様の御期待に叛くやうでありますが、どうぞ御許し下さいまして相不変(あいかわらず)御愛導をお願申します。
 申し上るまでもありませんが人類の奇蹟の如く、日本は二千五百八十六年の古より光は流れ輝いてゐます。
 建国の理想も着々として実現し、吾が北海道も二十世紀の文明を茲(ここ)に移し、アイヌは統一され、そして文化に浴し日本化して行く。
 それはたとへ建国の二千五年後で少く遅かったにしても、「彌や栄ゆる皇国」として皆様とこの光栄をともにいたしますことを悦びます。
 乍然この国に生れこの光栄を有してゐても過渡期にあるアイヌ同族(ウタリ)は、果して楽観すべき境遇にあるでせうか?
  昔の面影もどこへやら、精神は萎縮する、民族自身は(或は他からも)卑下する、誇るべき何物をも持ってゐない、そしてあの冷たい統計を凝視る、至る処に聴く「アイヌ」と云ふ言葉、それは「亡び行く者」「無智無気力」の代名詞の感があります、本当に残念なこと、お恥しいことであります。
 これも単に同族の不名誉であるばかりでなく我大日本の恥辱であることを思ふと真に大和民族に対し面目次第もないことであります。
 自然淘汰や運命と云ふ大きな力であるからどうすることも出来ませんが、私共は閑却されてゐた古習俗の中よりアイヌの誇を掘り出さねばなりません。
 今にアイヌは強き者の名となるの日を期してよい日本人の手本となることに努力せねばなりません。
 只だ古俗の研究はとうてい不可能也とされてゐる今日、誰かアイヌの中から己が自身を研究する者が出なければならないのであります。
 今の民族の弱さを悲しむ時は恩恵的や同情的ことにどうして愉快を感ぜられやう。
 アイヌを恥て外形的シャモになる者……又は逃げ隠れる者は祖先を侮辱する者である。
 不取敢(とりあえず)・今の最も大なる問題は「老人の死亡と古俗の消滅と密接な関係がある」から年寄の多い中に研究の歩を進めなければなりません。
 私しは伝説や瞑想の世界に憧憬てアイヌの私し共は最善を尽して出来るだけ大勢に調和することであります。
 それにはアイヌからすべての人材を送り出し、民族的にも国家的にも大いに貢献し幸福を増進せねばなりません。
 その為に昔のアイヌ、所謂、純粋が無くなるから無くなっても一向差しつかへないのであります。
 吾々は同化して行く事が大切の中の最も大切なものであると存じます。

 かふして同化はアイヌの存在も見分が付かなくなるであらう、それで何の不都合もない、けれど、過去の事実を永遠に葬てはいけない。
 吾ら祖先の持ってゐた、元始思想、其の説話、美しき瞑想、その祈り等、自分のもの己が誇を永い間わすれられてゐた、とこしへに消去らうとしたのを、金田一京助先生の手に依而(よって)危くも救はれた、私し共は衷心から感謝するものであります。
 十年の後には純然たるコタンに参ります、喜び勇んで参ります。
 それにしても何等の経験も予備知識もない貧弱な自分を省るとき、心細さを感ぜずには居られません、けれども私は信じます。
 東京の幸福より尊く。金もうけより愉快なことであります、そしてこれが私の唯一の使命であることを
 どうぞ皆様
 私しはかふして東京を去ります宜敷く御教導の程偏に御願申し上げる次第であります。
  大正十五年六月三十日             違星瀧次郎》


 壮絶な決意。
 「亡び行く」と言われるアイヌを救わねばならない。
 そのためにはまず、アイヌであることを恥じてシャモに化け、逃げ隠れしてはいけない。
 民族の誇りを取り戻すために、古俗の研究をアイヌ自身で行わなければならない。
 たとえ同化したとしても過去の事実、民族の誇りは葬ってはいけない。

 そして、美しくミステリアスな響きもある、北斗のこの宣言。

「十年の後には純然たるコタンに参ります、喜び勇んで参ります」。

 ああ、なんという決意でしょうか……24歳の「アイヌの一青年」でしかない違星滝次郎北斗は、この瞬間、アイヌという民族の未来を、たった一人で背負う覚悟をしたわけです。まるで基督の如くに。

「十年の後には、純然たるコタンに参ります。喜び勇んで参ります」というのは、穿ち過ぎかもしれないが、あるいは、この時、北斗は、自分が長生き出来ないことを覚悟していたのかもしれないとも思えます。
 10年。純然たるコタンとは……そういうことなのかもしれません。

 大正15年、東京を後にしようとしている違星北斗は、まだ「《亡び行くアイヌ》を救う」という志を立てたばかりです。

 和人たちは「アイヌは滅びる」という。
 しかし、北斗にはそれを受け容れ難かった。
 そして、北斗は、彼の言葉を借りると「北海道の中でも最も和人化の進んだ」余市のアイヌの現状しか知らない。
 余市のコタンは確かに和人との混淆が進んでいるが、他のコタンはのことは知らない。
 余市しか知らない自分は、自分は、アイヌ全体を代表し得ない、という部分があったのではないかと想像します。
 だからこそ、北斗はまず他のコタンの現状を見てみたい、アイヌの文化を学び直してみたいと思ったのだと思うのです。

 北斗が東京時代に、「同化止むなし」と考え、和人の前で発言しているのには、一つは和人の前でのポーズでもあり、もう一つはそういった、余市アイヌの状況しか知らず、北海道全体の状況が見えいなかったがために、余市の状況を北海道アイヌ全体の状況として捉えてしまっている部分があると思います。
 若いころの北斗は、たとえ同化がこのまますすんでも仕方ない、でもアイヌの文化や記録は遺さねばならないと考えました。しかし、彼の郷里・余市の状況が前提でしょう。たとえば、船が沈むとか、家が燃えているいった状況の時、何をあきらめ、何を残すか。
 若い頃の北斗には、同化してでも文化は残さなければいけないと思えたわけでしょう。
 しかし、東京で暮らし、アイヌの現状を遠くから客観的に見直してみて、その考えが変わったのだと推測します。
 その後、幌別や平取、白老など、各地のコタンを巡り、若いウタリと意見を交換した北斗は、狭い余市アイヌの現状のイメージではなく、全道のアイヌの現状をイメージできるようになって、「同化やむなし」の考え方は変化していきます。
 それは、ほぼ一年に書かれた「アイヌの姿」を読むとよくわかります。

【東京での北斗の働き】

 違星北斗はアイヌのために東京で何をしたか。
 北斗は労働しながら、勉強に励みましたが、一方的に学ぶだけでなく、東京の一流の知識人、文化人のほうも、北斗に会い、アイヌの現状を聞くことで、心を動かされ、感化・啓蒙されていることがわかります。
 こうして、北斗は世論にはたらきかけ、実際に小規模ではあるが、人と資本を動かすことに成功しています。この
 本人が自覚していたか、否かは別にして、北斗は東京でアイヌのスポークスマンとなり、キーパーソンにロビー活動(根回し)をする「ロビイスト」の役割を担っていたような 気がします。
 こういう、東京での働きは、本当はもっと検証され、評価されるべきだと思いますが、アイヌの運動史の中でも正当に評価されていない気がします。
 

 北斗は戦前、ただアイヌのために、当時の社会の中にアイヌの居場所を作ろうとし、民族の名誉を回復しようとして、そのために命までなげうちました。
 しかし、現代の価値観から見ると、違星北斗の言動は、当時の体制に迎合しすぎた、右寄りの発言があるようにも見えるかもしれません。
 それゆえに、恣意的にその若い発言を取り出して、それに快哉を叫ぶ者も出るし、その対極にいる人々には、その発言は地雷として機能し、さらに研究が遅れたのではないかと思います。
 これまで、ちゃんと研究がされてこなかったために、成長しつづける北斗の思想の流れも、把握することなく、ただ自分達の都合のいい言葉を取り出して利用されてしまうということがありました。
 そういう使われ方をされないためにも、時系列を追った北斗の言動の精細な検証が必要だと思います。

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《違星北斗の生涯》INDEX

違星北斗の生涯(その7 上京編2 にひはり/後藤静香)

《違星北斗の生涯》 

(その7 上京編2 にひはり/後藤静香) 

 

※これは管理人がやっているツイッター「違星北斗bot」(@kotan_bot)をまとめたものです。

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 アイヌの歌人・違星北斗Botを作ってみました。違星北斗27年の生涯を、ツイートで追体験してみたいと思います。

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【にひはり大正14年4月号】

  畑打やキャベツの根から出し若葉
 
  これは大正14年1月の「余市にひはり句会一月例会」で詠まれたもの。
 ただし、この句は、草風館版『コタン』では「にひはり昭和2年4月号掲載」となっているのですが、これは間違いです。
 掲載誌を確認したところ、大正14年の4月号に掲載されていました。現行『コタン』には、こういったケアレスミスが結構ありますので、要注意です。


【句誌「にひはり」】

 北斗は、東京では、市場協会で労働しながら、自働道話社や希望社に出入りしたり、金田一の集まりに参加したりするだけでなく、短歌・俳句の活動も続けていました。
 北海道時代から盛んに投稿していた句誌「にひはり」(東京市牛込区中里、主宰・勝峰晋三)の句会に、上京後は直接参加するようになります。

 「にひはり」大正14年5月号に

《東京アイヌ学会講演した時、知名の士から「よき書を」してもらった記念の「まくり」を持って来訪された。書がうまいのに驚いた。これから「にひはり」句会に月々出席するといってゐた》

との記述があります。

 北斗の俳句が同誌に掲載されるの同年9月号までで、その後は短歌一本になり、俳句をほとんど詠まなくなってきます。

【熊の話】

 「にひはり」大正14年7月号には、6月8日の句会に北斗が参加し、そこで講演した内容が「熊の話」として掲載されています。

 北斗は「にひはり句会」に参加し、そこで「熊の話」をします。アイヌにとって、熊は神様であること、父甚作が熊取りの名人だったこと、15、6年前の熊取で、父が熊と取っ組み合いになった話などをします。かなり面白いです。

 この「熊の話」は、北斗が喋ったのを、「にひはり」関係者が速記したもの。ですが、お話として、よくできています。
 北斗には、アイヌの美徳の一つである「雄弁」が備わっていたのでしょう。
 地元の頃から演説で人に感銘をあたえ、「アイヌ学会」などでは学者たちをうならせる講演をします。

 《熊の話をせよといふことであります。
 一体アイヌと申しますと、いかにも野蛮人の様に聞えます。アイヌの宗教は多神教であります。万物が凡て神様であります。そこには絶対平等――無差別で、階級といったものがありません。
 
私の父は鰊をとったり、熊をとったりして居ります。この熊をとるといふことは、アイヌ族に非常によろこばれます。といふわけは、熊が大切な宗教であるからであります。熊は人間にとられ、人間に祭られてこそ真の神様になることが出来るのであります。従って、熊をとるといふことが、大変功徳になるのであります。その人は死んでからも天国で手柄になるのであります。さういふわけでありますから、アイヌは熊をそんなに恐れません。
 私の父、違星甚作は、余市に於ける熊とりの名人です。何でも十五六年も前のことでした。
 
こんな時代になると、熊取りなんどといふ痛快なことも段々出来なくなるので、同じ余市の桜井弥助と相談して、若い人達に熊取りの実際を見せるために、十四五人で一緒に出掛けて行きました。
 三日間も山の中を歩き廻りましたが、一頭も出会ひませんでした。
 今年父は五十幾つになって居ります。当時は四十代でありましたから、なかく足が達者でした。弥助も足が達者でした。木の下をくじるとか、雪の上をカンジキはいてあるかしては、とても二人にならんで歩く様な人はありませんでした。
 いつでも二人に遅れ勝ちで、二人は一行を待ちながら歩くといった具合でした。シカリベツといふ山にさしかゝりました。弥助は西の方から、父は青年をつれて南の方からのぼりました。例によって父は一行にはぐれて歩いて居りました。所が父の猟犬が父の前に来て盛んに吠え立てます。
 
父はすっかり立腹して了って、金剛杖(クワ)で犬をたゝきつけました。犬はなきながら遠ざかって行きました。程経て父の前にやって来て、また盛んに吠え立てます。狂犬になったのではないかと心配しながら又たゝきつけますが一寸後へ下るばかり、盛んに吠え立てます。
 犬はなきながら遠ざかって行きました。程経て父の前にやって来て、また盛んに吠え立てます。狂犬になったのではないかと心配しながら又たゝきつけますが一寸後へ下るばかり、盛んに吠え立てます。
 今まですっかり気の附かなかった父の頭に、熊でも来たのではないかしらといふ考へが、 ふいと浮んだので、ふりかへって見ると、馬の様な熊がやって来て居りました。
 それはもう鉄砲も打てない近い所に、じり/\と足もとをねらって居るのです。
 咄瑳に父はクワを雪の上へ突立てました。熊は驚いて横の方へまわって、尚も足元をうかゞって居ります。
 この間、鉄砲に弾を込める暇がありませんでした。(三日間も山を歩いたが熊に出会はなかったので、鉄砲には弾を込めてなかったのです。弾を込めたまゝ持って歩くといふことは可成り危険ですから)
 父は鉄砲で熊をなぐりました。たゝきました。
 その勢で熊は二回雪の上をとんばりがへりしました。父は一旦後じさりして、鉄砲に弾を込め様としましたが、先刻熊をたゝきつけた際に故障が出来て了って弾が入りません。
 熊は今度は立って来ました。大きな熊でした。父は頭から肩先をたゝかれました。(この時父は太刀(タシロ)を抜くことをすっかり忘れて居たと申して居ります)ねぢ伏せられて父は抵抗しました。格闘しました。後からやって来た十二三人の連中は、これをどうすることも出来ませんでした。
 もし手出しをしやうものなら却って自分達を襲って来はしないかといふ懸念がありました。たゞ茫然として、遠巻きにこれを見てゐるより外仕方がありませんでした。弥助のやって来るのを待ちましたが、弥助はなか/\やって来ませんでした。
 父の防寒用の衣類も此の際余り役に立たず、頭、顔、胸をしたゝかかみつかれました。父は熊の犬歯の歯の無い所を手でつかまへて尚も抵抗を続けて居りました。この時、山中熊太郎といふ青年が、熊に向って鉄砲を撃つ者はないかと一同にはかりましたが、誰も撃たうとはしませんでした。
 熊に向って撃った鉄砲が却って格闘してゐる人間に当りはしないかといふ心配がありましたから。と見ると、父は最早、雪の中へ頭をつっ込んで、防寒用の犬の皮によってのみ、熊の牙からのがれて居りました。一同は思ひ切って後の方から一斉に鯨波(とき)の声を挙げて進んで行きました。
 熊はびっくりして後ろをふりかへりました。そして人間の上を飛び越えて逃げて行って了ひました。実際、弥助のやって来るのは遅くありました。皆んなの介抱で山を下りました。それから大分長い間医者にかゝって居りました。    
 所で、それ程の大傷が存外早く癒ったことを特に申し上げなければなりません。それはアイヌの信仰から来て居るのでありまして、つまり熊は神様だ、決して人間に害を加へるものではない――といふ信仰が傷の全治を早からしめるのであります。
 かうした場合、アイヌの宗教上、アイヌは熊をのろひます。そして、熊をのろふ儀式が行はれるのであります。其の後、父は熊狩りに懲りたかと申しますのに決してさうではありません。大正七年の「ナヨシ村」の熊征伐を初めとして、その他にも屡々(しばしば)出掛けて行きました。  先程も申しました様に、熊は人間にとられ、人間に祭られてこそ、初めて真の熊になるからであります。皆さん、お忙しい中をお聞き下さいまして有難う御座いました。その他色々と面白い話もありますが、今晩は大分遅くなりましたので、これだけにして置きます。有難う御座いました。》

 これで「熊の話」は終わりです。
 非常にドラマチックで生々しく、面白い話だと思います。
 北斗の父、甚作の顔や体には、壮絶な傷跡が残っていたと、北斗は言っており、私も余市の古老の方に聞きました。
 北斗は「お話」「童話」も上手く、けっこう数もありますので、本にできたらいいですね。

 最後のナヨシ村は樺太の名好かと思われます。
 現ロシア連邦サハリン州レソゴルスクだそうです。
 余市アイヌは樺太アイヌと関係が深く、北斗も樺太に出稼ぎに行ったりしていますし、北斗の妻も樺太アイヌのピリカメノコだったという話もあります。

【にひはり大正14年7月号】

   シャボン箱置いて団扇に親しめり

   寒月やとんがった氷柱きっらきら

 
【にひはり大正14年8月号】

   夏の野となりてコタンの静かゝな

   熊の胆の煤けからびて榾あかり

 

【筑波登山】

 大正14年6月14日(日)、北斗は3月の高尾山に続いて、筑波山の登山に参加します。
 前回同様、西川光次郎の自働道話社が催した愛読者イベント。
 以下は自働道話大正14年8月号の西川のレポートです。

《「筑波登山」私共の登山団では、六月十四日紫の筑波山へ登りました。
 当日は終日雨天でしたけれども、幸に降らず、無事に面白く、目的を達しました。
 西川の上野着がおくれし為め、一汽車おくれ其の為帰りが後くれて御気の毒でした。
 一行は今村、沼田、鈴木、岩瀬、違星、西川の六人と、愛国少年団員六人と都合十二人でした。
 この写真は筑波の絶頂、男体山の連歌嶽でとったものです。
 岩瀬、違星の両君は既に女体山の方へ向いし後でしたので、両君はこの写真の中へ、はいって居りません》

 と、北斗はなかなか元気そうです。北斗は、他にも遠足や登山に行ったかもしれませんが、記録は残っていません。

【永井叔】

 大正14年8月16日発行の『緑光土』(永井叔・発行、オオゾラと読ませるらしい)という本に、北斗の詩「大空」が掲載されています。
 この本がよくわからない本で、「大空詩人」永井叔(ながい・よし)という人の、よくわからない詩歌を集めた本。
 永井叔の言動はかなり突拍子、エキセントリック。
 その著書「緑光土」にはポエムのようなことが書いてありますが、はっきり言って、何を書いてあるかよくわかりません。
 今でいえば「電波系」といえるかもしれません。

 この大空詩人・永井叔という人は、軍隊で上官を殴って軍獄に入り、その後は街頭でマンドリンを持って自作の歌を歌ったり、詩集を売ったりという、大正の「ヒッピー」とか「路上詩人」みたいな人です。
 北斗との関係は不明ですが、東京のどこかで出会ったのかもしれません。
 永井叔は、当時、街角の変人として名物だったらしく、有名なところでは、詩人の中原中也に恋人の長谷川泰子を紹介した人物として知られています。  
 永井は大正10年放浪中に出会った女優志望の長谷川泰子を連れて広島から上京。
 大震災に遭い、二人は京都へ移り、松山で演劇興行をし、再び京都へ。
 そこで泰子は中原中也と出会い、東京の高円寺で同棲。
 さらに泰子は小林秀雄と出会い、泰子は中也の元を離れて小林の元へ。
 しかしこれは北斗とは別の話。
 永井叔はクリスチャンで、当時流行した世界共通言語エスペラント語の信奉者でもあり、街角の有名人でもありました。
 有名な変人だったらしく、いろいろな方の日記に登場しています。
 

《「大空」  北海のアイヌ 違星北斗

 シュウカントコロカムイ

 永遠の蒼穹に輝く。

 人力で地球は三角になるとも

 大天は人工をゆるさぬ。

 おほひなるかな、そら

 アイヌモシリ、大空の央(なか)

 二千五百八十五年七月六日》 

 永井叔の「緑光土」に掲載された「大空」は、北斗には珍しい散文詩です。  
 冒頭のアイヌ語「シュウカントコロカムイ」は「カントコロカムイ」が「天空の神」、「シュウ」は手持ちの辞書にはなく、余市方言なのか、古語なのか、勉強不足です。
 「シ」なら「大いなる」「本当の」でしょうが……
 二千五百八十五年は皇紀ですから、西暦だと1925年、和暦だと大正14年です。
 北斗は東京のどこかで永井叔という風変わりな街頭詩人に会い、詩を書くことになったのかもしれません。
 

【北斗と中也】

 永井叔を共通の知人とする北斗と中原中也は、同じ時代に東京の同じ中央線沿線をうろうろしていたのですが、残念ながら直接出会ったという記録はありません。
 中也は大正14年3月10日上京。北斗は大正14年2月ごろです。
 北斗は西川光次郎のいた阿佐ヶ谷に足しげくかよっていました。
 一方の中也は高円寺で長谷川泰子と同棲しており、阿佐ヶ谷に友人の永井龍男の兄がやっていた中華料理屋「ピノチオ」があり、中也はそこで(タダ飯を食いながら)小林秀雄ら、仲間たちと芸術論を語り、よく酔っ払っては年上の文士たちに絡んだそうです。
 それが北斗がぶらぶらしていた頃の東京、中央線沿線。
 このあたり後に「阿佐ヶ谷文士村」と呼ばれ多くの文人を輩出します。

 「アイヌ復興」の使命のために、労働の傍ら有識者から知識や思想を吸収することで精一杯、一滴の酒も飲まない北斗と、芸術論文学論で飲み明かす中也たちと。
 残念ながら北斗が彼らと交わったという記録はありません。

 

【にひはり(大正14年9月号】

   大熊に毒矢(ぶし)を向けて忍びけり

   新酒のオテナの神話(ゆうかり)きく夜かな

 
 熊狩りの句は、北斗が実際にみたものかどうか不明です。
 北斗は熊狩りの経験の有無については語っていませんが、おそらくないでしょう。
 「ユーカリ」の句も実体験かどうかわかりませんが、もし実景なら北斗が生きた時代の余市に、まだ古老の口承神話を聞くようなことがあったということになります。
 「オテナ」は「オッテナ」ともいい、乙名、大人と書きます。村の長のことですが、日本語由来であり、古来の村の長である「コタンコロクル」ではなく、松前藩が任命した村の取りまとめ役的なニュアンスがあるようです。
 「ゆうかり」はいわゆる「ユーカラ」ですが、余市方言なのか北斗はよく「ユーカリ」と書いています。


【後藤静香の希望社】

 北斗が出入りしていた修養団体は、自働道話社だけではなく、他にも顔を出していた団体があります。
 それが社会運動団体の「希望社」。
 後藤静香(せいこう)が設立した団体で、当時、非常に大きな影響力を持っていました。
 希望社は、後藤静香が大正7年に設立した組織で、修養雑誌「希望」を発行していました。北斗はすでに西川光次郎の修養雑誌「自働道話」を購読していましたが、当時「希望社運動」といわれる社会活動を行なっていた希望社にも、盛んに出入りするようになります。

 北斗は、東京時代に希望社の後藤静香に傾倒し、後藤もまた北斗を評価し、信頼していました。
 後藤は北斗のアイヌ民族復興を希望社の運動の一つとして、精神的にも資金的にも北斗を支えつづけました。
 北斗が最初に希望社を訪ねた時期はわかりませんが希望社の宗近真澄がこう書き残しています。

《後藤先生と初対面の時の話
 君は例に依り熱をこめて
 アイヌ民族の衰退を嘆き
 自分の抱負を述べた。
 
 すると先生は感謝された。
 『有り難う……』
 先生の此のお言葉は
 電気の様に違星君を打った。
 此の一語は永久に君を
 先生に結びつけたのだ。(後略)》
(「故人の霊に」宗近真澄

 希望社は「希望」のほかに「のぞみ」「光の声」「泉の花」などを出版しており、いずれも修養主義的・啓蒙的な内容でした。

 後藤静香はもともと女子教育の専門家だけに女性からの支持も多く、男女問わず教員などのインテリ層や、学習したい若い労働者などからも支持を受けていました。
 
 当時、希望社は新宿の大久保にあり、北斗の仕事場があった四谷三光町(現・新宿5丁目、花園神社新宿ゴールデン街の界隈)にもほど近く、非常に通いやすい環境にありました。

 後藤静香の希望社は出版だけでなく、実際に「希望社運動」という社会運動を行い、それがまじめな若者たちを惹きつけました。
 「点字の普及」「エスペラント運動」「ハンセン病患者救済」「老人福祉」「現代仮名遣いの普及」などがそれで、そこに後藤が北斗と出会ったことにより、「アイヌ救済」が加わりました。
 希望社の活動は当時、真面目な若者たちにムーブメントを巻き起こしており、否が応でも北斗の知るところとなったのでしょう。 

 宗近真澄の文章にもあったように、北斗は初対面の後藤静香にアイヌの窮状を熱く語り、彼を動かします。

 後藤は北斗のことを「アイヌ民族に対しての私の計画を遂行させてくれる殆ど唯一の中心人物」「アイヌの将来に対し、私の頼りに頼つて居る友」と評しています。

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《違星北斗の生涯》INDEX

 

2013年2月10日 (日)

違星北斗の生涯(その6 上京編1 金田一京助と西川光次郎)

《違星北斗の生涯》 

(その6 上京編1 金田一京助と西川光次郎) 

 ※これは管理人がやっているツイッター「違星北斗bot」(@kotan_bot)をまとめたものです。

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 アイヌの歌人・違星北斗Botを作ってみました。違星北斗27年の生涯を、ツイートで追体験してみたいと思います。

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【大正14年】

 この年は、北斗の転機となる年です。
 2月に東京府市場協会に就職のため上京し、働きながら、当時の一流の知識人・文化人と多く出会って、その思想は刻々と変化していくことになります。

 また、文筆活動としては「にひはり」への俳句の投稿が主たるものになります。

 1月。
 上京が決まった北斗は上京前としては最後の「余市にひはり句会」に出席しています。
 その時に詠んだのが次の俳句。

   畑打ちや キャベツの根から出し若葉

 この畑打ちの句などは、畑仕事の実体験がなければ、詠めない句ではないかと思います。
 北斗は本業の漁業だけでなく、日常的に畑仕事もしていたんでしょうね。

 

【上京】

 大正14年2月、違星北斗は上京します。
 東京府市場協会の高見沢清が西川光次郎に「真面目な青年はいないか」と相談したことを受け、北斗を紹介しました。
 市場協会の役員・高見沢は、西川の修養思想に傾倒しており、協会に西川を呼んで講演をさせたりと、高見沢の市場協会と西川の自動道話社は深いつながりがありました。
 この時、北斗と一緒に紹介された同期が大阪の額田真一という青年で、この額田と北斗は上京中に親友というべき存在となります。

 北斗が事務員として就職することになった「東京府市場協会」とは、「米騒動」をきっかけに、流通の組織化と物価の安定を図る目的で設置された、「公設市場」を統括する組織です。東京府の管轄するものは、東京府下に39ヶ所(大正15年)ありました。
 一つの建物の中にさまざまな店が入っており、当時としては新しい業態でした。 
 この「公設市場」は、30代以上の人なら、よく知っている店舗の業態だと思います。スーパーマーケットやコンビニなどの影響で最近はあまり見られなくなりましたが、大正時代の「公設市場」は、最新の店舗形態だったんですね。
 また、今でも沖縄の公設市場は有名ですね。

 「東京府」とは、いまの東京都のことで、当時は東京・京都・大阪の三府がありました。昭和18年に東京府から「東京都」になりました。

 また、「東京市」とは、明治22年に15区でスタート、その後、東京の都市部が拡大するにしたがって、郊外を合併して、昭和22年に特別区22区になり、のちに23区となりました。 


【上京】

 北斗の上京は2月の半ばのことです。
 まず、まっすぐ向かったのは就職の世話をしてくれた西川光次郎のいる阿佐ヶ谷。
 その時の模様を、西川の妻・文子が書いています。

 「違星さんは(中略)北海道の余市から阿佐ヶ谷まで来るのに牛乳一合買うたきりで弁当は一度も買わずに来たほどの人です」

 北海道の余市から、東京の阿佐ヶ谷まで。

 現代でも鉄道で移動するとなると、相当の長旅ですが、当時は現在の比ではありません。
 丸2日はかかります。
 (現代でも、新幹線をつかわないと18時間、全部鈍行で来ると30時間以上かかります)。
 その間、一度も弁当を買わずに牛乳一本飲んだだけというのは、よっぽどです。弁当を買う金も節約したかったのだと思います。

 また、筆者が東京の中央線沿線に住むようになってわかりましたが、「東京」ではなく、「阿佐ヶ谷」と書いてあるのがミソだと思います。
 列車が東京の上野についても、そこからまず新宿に向かい、さらに西へ向かわなければならない。当時の阿佐ヶ谷は東京市外で、郊外の農村地帯といってもいい場所です。そこには「郊外の阿佐ヶ谷まで」というニュアンスもあると思います。

 北斗から金田一京助への手紙によると、上京が大正14年2月15日となっていますが、これが余市を出た日なのか、東京に着いた日なのかは不明です。
 上京後、数日は阿佐ヶ谷の西川光次郎宅で、同時採用の大阪の青年・額田真一とともに「自働道話」誌の編集を手伝っています。

 どうして、「自働道話」の編集を手伝うことになったのか。
 おそらく初出勤日まで日があったのと、この時、西川光次郎は不在で、文子が一人で編集していたのですが、子供の一人が神保院に入院していて、文子はそちらにも通わねばならないという大変な状況で、そこで愛読者でもある北斗と額田真一の手を借りたのだと思います。


【西川光次郎】

 北斗が出会った思想家のうち、最も早く接触したのが、西川光次郎。
 西川の出版する雑誌『自働道話』を北斗の恩師・奈良直弥が愛読いたのが縁で、西川が北海道へ行った際に、奈良先生を訪ね、その際に、北斗を紹介されたのでした。
 その後、北斗の上京するきっかけを作ることになります。

 西川光二郎は元は幸徳秋水片山潜らとともに日本最初の社会主義政党「日本社会党」を結成した活動した社会主義者でしたが、獄中で転向し、北斗と出会った頃にはおとなしい修養主義者となっていました。
 修養主義者というのも聞きなれない言葉ですが、社会のシステムを変革するよりも、個人が修養(勉強し、精神を向上させる)することにより、社会全体を変えていくべきだという考え、といえると思います。
  西川光次郎(光ニ郎)については、田中英夫「西川光二郎小伝」 が詳しいです。
 また、妻の西川文子も平民社出身で、婦人運動家として著名で、「平民社の女」 という自伝があります。

 西川は、北斗に就職の世話をし、東京における北斗の最初の身元引受人となりました。

【自働道話】

 北斗は、上京のきっかけを作ってくれた西川光次郎の「自働道話社」にさかんに出入りし、雑誌の編集なども手伝っていたようです。
 このあたりの経験は、後に北斗が雑誌を作ったり、文筆家として活動するようになるのに役立ったと思われます。

 「自働道話」はA5サイズの雑誌で、80ページぐらいの薄いもの。もちろん当時の雑誌なので、粗い印刷でカラーではありません。
 この雑誌は、いわゆる「修養」的な記事、たとえば海外名作の翻案、偉人伝、道徳といったものを、学のない人でもわかるように、噛み砕いて面白く読ませ、教養と人格の向上を促進させるというような雑誌でした。
 自働「童話」ではなく「道話」なのはこのためです。

 この変わった誌名はもともと「自働販売機」で販売しようと思ったためですが、結局自販機での発売は無しになりました。
 大正末にも自販機はありましたが、もちろん現在のような電気式ではなく、機械式のもので、コインを入れて、レバーか何かをヨイショと力入れて動かすと、ガシャンと商品が出るような、いわば、今のガチャガチャとか、トイレの紙の自販機みたいな半自動の物ででした。

 この雑誌の特徴は、誌面に読者の投稿が多数登場すること。一方的な雑誌ではなく、ある意味で今日のソーシャルメディア的な読者との交流が、誌面を創るようなアットホームな雑誌でもあり、西川も常連読者を足がかりに全国(樺太、朝鮮、台湾など含む)に講演旅行をしていました。

 北斗と出会ったのも、こういう巡講の途中です。北海道に訪れた西川光二郎は、北斗の恩師奈良先生を通じてすでに読者であった北斗と出会い、北斗や余市アイヌの勉強会「茶話笑楽会」、その会報「茶話誌」が記事にも登場します。

 この旅で西川の印象に強く残った北斗は、その縁で上京し就職することになったのです。


【額田真一】

 北斗とともに東京府市場協会に雇われた青年が額田真一です。大阪出身の青年で、彼も自働道話の熱心な読者。誌面にもよく登場していました。

 同期ということで北斗とは親しい友人となります。

 この額田真一は、死の間際まで文通を続けた、北斗の生涯の親友。
 北斗の死後も自働道話誌にたびたび登場していますが、詳細は不明です。
 北斗の同世代なので明治30年代生まれ、大阪出身。
 全国の額田さん、祖父様、曽祖父様にに真一さんはいらっしゃいませんでしょうか? 


【新宿界隈】

 北斗が東京で生活していたのは今の新宿近辺です。
 勤務先「東京府市場協会」の場所は四谷区三光町。
 現在の地名だと新宿5丁目、新宿ゴールデン街や花園神社のあるあたりです。公設市場を運営する組織ですが、北斗はそこで事務員として働くことになります。

 北斗は当初、市場協会の高見沢清の元に寄宿していたようで、上京後すぐの3月12日に金田一に送った手紙では、住所は「東京府豊多摩郡淀橋町字角筈316番地高見沢清様方」となっています。
 現在の西新宿4丁目、都庁や新宿中央公園よりちょっと西あたりです。 

 
 また、よく出入りしていた後藤静香の希望社のあったのが大久保です。
 当時は新宿も東京市外、いわば東京の「外」でした。
 関東大震災で東京市内が甚大な被害をうけ、人々は郊外へと移り住み、新宿や池袋のような郊外がターミナル駅として爆発的に発展した時代でした。

金田一京助

 北斗は、大正14年の2月半ばに上京していますが、その2月末か3月の初め頃に金田一京助を訪ねています。
 この日付は、北斗自身が金田一宛の手紙に書いているものです。
 北斗はアイヌ民族のことを勉強するには、まずアイヌ語研究の第一人者であった金田一を訪ねることだと考えました。
 北斗は金田一京助に会うことを、上京の目的の一つとしていたようです。当時、金田一は東京府下杉並町成宗に住んでいました。成宗は現在の杉並区成田周辺。西川光次郎のいた阿佐ヶ谷のすぐ南です。北斗が金田一を訪ねた時のことを、金田一が「違星青年」という随筆で書いています。

《五年前のある夕、日がとっぷり暮れてから、成宗の田圃をぐるぐるめぐって、私の門前へたどりついた未知の青年があった。
 出て逢うと、ああうれしい、やっとわかった。ではこれで失礼します。》

 北斗が金田一宅に着いたのは夜のことでした。

 《「誰です」と問うたら、「余市町から出て来たアイヌの青年、違星瀧次郎というものです」と答えて、午後三時頃、成宗の停留所へ降りてから、五時間ぶっ通しに成宗を一戸一戸あたって尋ね廻って、足が余りよごれて上れない、というのであったが、とにかく上ってもらった。》

 北斗は、午後3時に成宗の停車場で降り、5時間金田一宅を訪ねて歩きました。その際に田んぼに落ちて足がドロドロになってしまったそうです。当時の杉並町成宗は田園地帯でした。この不器用すぎる探し方や、その根気、金田一に遠慮するところなど、北斗の性格がにじみ出ていると思います。

 《これが、私の違星青年を見た最初である。
 西川光次郎氏の北遊の途次に知られ、その引で、市場協会の高見沢氏をたよって上京し、協会へ務めて四十余円を給せられながら真面目に働いている青年であったが、》

 当時の銀行員初任給が50~70円ですから40円は決して悪くありません。

 《アイヌに関する疑問を山ほど持って来て、何もかも私から合点しようとする真剣な熱烈な会談が、それから夜中まで続いたことであった。》

 
北斗は金田一京助にありったけの疑問をぶつけ、金田一はそれに丁寧に答えたのでしょう。以後、北斗は度々金田一を訪ねるようになります。

 北斗は北海道にいた時には知らなかったさまざまなことを、この東京府下・成宗での金田一との一晩の会談で知ることになります。
 特に大きかったのが、金田一が研究を通じて出会った知里幸恵や弟の真志保、バチラー八重子といった、先覚的な同族のことを聞くことができたことです。

知里幸恵

 北斗は、金田一に聞くまで、知里幸恵のことは知りませんでした。
 知里幸恵は、北斗と同世代のアイヌの女性で、金田一京助のアイヌ語研究を手伝い、彼の研究に多大な影響をあたえた才媛でした。
 『アイヌ神謡集』という美しい一冊の本を残し、19歳で亡くなりました。

 北斗は、知里幸恵の『アイヌ神謡集』に、衝撃を受け、後の北斗の思想自体も、この本の描き出したアイヌの世界に大きな影響をうけています。
 北斗の思想と幸恵の『アイヌ神謡集』についてはとても書ききれませんので、こちらを参考にして下さい。

【金田一再訪】

 北斗は最初の訪問のあと、3月12日に金田一に葉書を出し、また3月15日(日)に訪ねたいと書いています。
 本人の金田一への別の葉書によると、その後、頻繁に金田一宅を訪ねたようです。
 金田一には、アイヌ研究のことだけでなく、幼なじみの石川啄木のこともよく聞いたようだと余市の古田謙二が証言しています。

《北斗は、常軌を逸した啄木の行動に耐え、暖かく遇した金田一の人柄を敬っており、また「啄木の短歌は率直で好きだ」と語っていた》

とのこと。

【バチラー八重子】

 違星北斗は、上京してすぐに金田一京助を訪ね、そこで北海道に居ては知ることがなかった、「先覚者」であるアイヌの女性の話を聞きます。
 一人は、『アイヌ神謡集』を残して19歳で没した知里幸恵。
 もう一人が、英国人宣教師ジョン・バチラーの養女、バチラー八重子でした。

 (今日では「バチェラー」という表記が一般的ですが、北斗や八重子自身も使っていた「バチラー」と表記しています)。

 バチラー八重子は、明治17年生まれですから、北斗より17歳年上。
 有珠アイヌの有力者の娘として生まれ、英国聖公会のジョン・バチラーの養女となり、北海道で伝道師として活動していました。
 アイヌ語・日本語・英語を話す才媛です。
 北斗はすぐにバチラー八重子に、自分のことや、アイヌ学会のこと、アイヌに対して同情的な人々のことなどを手紙に書いて送りました。
 すると八重子から「どうかウタリグス(同族)のために自重して欲しい」という熱烈な返事が来ます。
 北斗のアイヌ復興の活動が「点」から「線」になった瞬間です。
 それまで、地元の余市で北斗が中心となり、同族たちと細々とやっていた活動が、皮肉なことに、東京に来てはじめて、別の地方のアイヌとの繋がりを生みました。
 金田一からは、北斗が心を動かされた『アイヌ神謡集』の知里幸恵の弟、知里真志保のことも聞き、帰道後に会っています。
 バチラー八重子との文通は、その後も続きます。
 翌大正15年の7月に北海道に戻った際には、一番に八重子の居た幌別教会に向かうことになります。


【バチラー八重子と短歌】

 バチラー八重子は昭和6年に『若きウタリに』という歌集を出しており、違星北斗、森竹竹市と並び、アイヌ三大歌人といわれています。
 それまで俳句を詠んでいた違星北斗が、バチラー八重子の影響で短歌を読み始めたという説があるようですが、これは間違いです。
 北斗は、上京前から短歌を詠んでいたことは、上京時の事を書いた伊波普猷や西川文子の記述からうかがえます。上京前の短歌は、反逆的な歌が多かったようです。
 上京前の北斗が短歌を創っていたという確証としては、もう一つ、北斗が上京中の大正15年3月5日の釧路新聞に、まだ有名になる前の北斗のことが紹介されています。北斗のノートが、道庁の役人に送られてきて、そこには「青年の告白で復讐心に燃えて居た時代にノートに書き付けた歌」が 「此の頃の感想を陳べた歌とを相添て道庁の知人の許に寄せて来たが是等は学校の先生、青年指導の任にある人々には何よりの参考資料だ」とあります。和人の復讐心に燃えていたのは、もちろん上京前のことですから、その短歌は上京前のものだと思われます。 」
 どういう経緯で北斗のノートが道庁の役人に渡ったかはわかりませんが、もしかしたら、前述の「東京アイヌ学会」での博文館の岡村千秋の「北海道の内務部長に自分の友人がいるが、この絵に皆で賛を書いたり署名をしたりして、奴におくってやろうじゃないか」発言と関係あるかもしれません。

【ウタリグス】

 金田一に呼ばれて「東京アイヌ学会」に出席した北斗は、そこで多くの人と出会い、親交を結びます。伊波普猷のところにもたびたび訪れ、その際には余市で作っていた同人誌「茶話誌」や金田一から、もしくは八重子からもらったであろう「ウタリグス」を持参しています。
 この「ウタリグス」とはは、英国聖公会のジョン・バチラーの伝道団の機関紙。
 ジョン・バチラーはアイヌへのキリスト教布教に力を尽くし、日・英・アイヌ語辞書を創ったことでも知られています。
 ウタリグスには、バチラー八重子の他、信者の若いアイヌたちが寄稿していました。
 北斗は、上京してからバチラー八重子の存在を知ったぐらいですので「ウタリグス」誌には馴染みはありませんでした。
 おそらく金田一か、あるいは八重子から入手したものでしょう。
 狭い余市コタンで小さな同人誌をやっていた北斗からは「ウタリグス」の活動はずいぶんと大規模なものに見えたでしょう。
 北斗は「ウタリグス」誌に大きな影響を受けました。ただし、同族の間に浸透していくキリスト教については、北斗は複雑な思いを抱いていたようで、彼は後に、「キリスト教ではアイヌは救えない」とクリスチャンのアイヌ女性に言い、生涯キリスト教とは微妙な距離を持ち続けました。

【にひはり2月号】

 上京した2月にも「にひはり」に短歌が掲載されています。

    魚洗ふ手真赤なり冬の水

【第2回東京アイヌ学会】

 北斗が2度目に金田一京助を訪れた大正14年3月15日(土)のわずか4日後、3月19日(木)、東京永楽町(現:大手町)の永楽倶楽部で「第二回東京アイヌ学会」が開かれました。

 金田一に誘われて、北斗も顔をだすことになるのですが、それが彼の運命 を変えていきます。

 この「アイヌ学会」は、金田一が中心となってやっているもので、其のメンバーは、アイヌ語やアイヌ文化の専門家は、ほとんど金田一のみといえると思います。
 その他のメンバーは、今日でいうところの民俗学者や言語学者です。
 もちろん、北斗以外には、アイヌは一人もいません。

 この「第2回アイヌ学会」の模様は「沖縄学」の第一人者である伊波普猷が詳細に書き残しています。

 《今回、金田一京助氏の
 「アイヌ研究」が出版されましたのを機会に久しぶりで本会を開催し金田一氏をお祝いすると同時に、本会の経過をお話致したいと存じます。御出席をお待ちします」
 というアイヌ学会からの通知を受取って、三月十九日の晩、永楽クラブにいって見ますと、アイヌ研究に熱心な二十名近くの会員が集っていました。
 晩餐は済んで、いよいよ講演が始まりました。
 博文館の中山太郎氏の挨拶があって、金田一君の「アイヌの現状」についての講演がありましたが、ほんとに花も実もある講演でした。
 同君は単にアイヌの言語や土俗の研究者であるばかりでなく、その内的生活・文化学的方面の研究に指を染めて居らるる篤学者で(中略)アイヌに対して多大な同情をもっている人です。
 今その話をかいつまんで見るとこうです》。

 ここから、金田一が出席者に語ったアイヌの現状を伊波普猷がまとめたものになります。
 曰く、アイヌが虐げられた民族であるがゆえに、疑心暗鬼にもなり、お互いに争いをして、民族としての団結を得られなかった、そこに食い詰めた商人や無法者など、我利我利の和人が入ってきて、漁場や土地を奪われ、疫病にやられ、酒害などによって自縄自縛に陥って、衰退していったのだ、と。
 さらに金田一は語ります。

 《ところが明治になってから、彼等の間に中里徳太郎という偉大な一人のアイヌが生れた。
 (中略)彼は率先して新時代の教育を受けアイヌの頽勢を挽回すべく奮闘した。
 ほかにアイヌの恩人と呼ぱれるバッチェラー師の感化を受けたクリスチャン・アイヌの一団があつて、『ウタリ・クス』という機関雑誌を発行してアイヌの為に気焔を吐いているが、これにはいくらかアンティジャパニーズの思想がほの見えている。
 それから近頃中里氏の部落の余市のアイヌの中から自覚した青年アイヌの一団が産声を挙げた。
 彼等はアイヌを恥とせず、アイヌから出発してよい日本人になろうとする連中で、『茶話誌』という機関雑誌を発行して、熱烈にアイヌ道を絶呼している。
 このグループの一人が先日突然自分を訪問して来た。
 二十五歳の青年で、違星滝次郎といって、『アイヌ神謡集』の著者知里幸恵女史を男にしたような自覚した青年である。
 今晩実は違星君に何か話して貰おうと思って、御同道を願ったのである。》

 ここで金田一の発表は終わり、伊波普猷の主観で見た記述に戻ります。

《この時、一同の視線は、この青年アイヌを物色しようとして、盛んに交叉されました。
 やがて金田一君の招きに応じて、自席を立ったアイヌは、晩餐の時、私の向いに座って、上品にホークとナイフとを動かしていた眉根が高く隆起し、眼が深く落ち込んでいて、私に奄美大島の人ではないかと思わせた青年でした。
 彼れは流暢な日本語で、しかも論理的な言表し方で、一時間ばかりウタリ・クス―吾等の同胞―について語り、少からぬ感動を一同に与えました。
 彼の演説の一半は「ウタリ・グスの先覚者中里徳太郎を偲びて」の題で彼自身の筆で発表させることにしましたから、ここには、ただその要領だけを紹介することにしましょう》。

 ここから、北斗の発表になります。

《「私は違星といふアイヌです。
 私が生れた所は札幌に近い余市といふアイヌの村落ですが、この村落は早く和人に接触したのと、そこから中里徳太郎といふ、アイヌきつての豪傑を出したのとで、アイヌの村落中で一番よく日本化した所です。
 (中略)私の母は若い時分に和人の家で下女奉公をしていましたので日本語が非常に上手でした。
 母はつとに学間の必要を感じて、家が貧乏であったにも拘らず、私を和人の小学校に入れました。
 この時、全校の児童中にアイヌの子供は三、四名しか居ませんでしたので、アイヌ、アイヌといって非常に侮蔑され、時偶なぐられることなどもありました。
 学校にいかないうちは、餓鬼大将であって、和人の子供などをいぢめて得意になっていた私は、学校へいってから急にいくぢなしになってしまいました。
 この迫害に堪え兼ねて、幾度か学校をやめようとしましたが、母の奨励によって、六ケ年間の苦しい学校生活に堪えることが出来ました。
 もう高等科へ入る勇気などはとてもありませんでした。
 私は地引網と鰊とを米櫃としていた父の手伝いをして、母がいつも教訓していた正直なアイヌとして一生をおくる決心をしました。
 けれどもいい漁場は大方和人のものになっていたので、生活の安定はとても得られませんでした。
 一方同族の状態を顧みますと、汗水を流してやっと開拓して得たと思う頃に、折角の野山は、もう和人に払い下げられて、路頭に迷っているアイヌも大勢いました。
 そこで私は北海道はもともとアイヌの故郷であるのに、この状態は何だといって、和人を怨み、遂に日本の国家を呪うようになりました。
 私はこれをどうにかしなければならないと思って、兎に角もっと学問をして偉くならなければならないと決心しました。
 それから私は漁猟のひまひまに、雑誌や書籍を読んで、自修することにしました。
 ある時、私は医学博士永井潜氏の論文の中に……一民族と他民族とが接触する時、恐ろしいのは鎗や刀や弾丸ではない、実に恐るべきは微生物の贈物である》

  北斗はこの永井潜の論文の中で、1803年に英人がタスマニヤ島に殖民した当時、6000人いた先住民が、73年後の1876年には最後の純タスマニヤ人が地球から一人残らず死滅してしまったこと、これが結核菌とアルコールの為であり、和人と接触したアイヌが同じ運命をたどりつつある、というのを読んで驚愕しました。

 
 《そして私は残っている一万五千のウタリ・クスの為に、一生を捧げる決心をしました。
 爾来私は言語風俗習慣の点に於て、和人と寸分も違はないやうになるのが気がきいてゐると考えて、事毎に模倣をこれ事としました。
 内地から来る観光団が余市にやって来て、その日本化しているのを見て、何だ、ちっとも違わないじゃないかと失望して帰るのを見て、幾度腹を立てたか知れません。
 こういう調子で、私はアイヌといわれるのを嫌い、アイヌ語をあやつるのを恥じたので、かんじんな母語を大方忘れてしまいました。
 ある晩、札幌の夜学校の終業式に列席していますと、ある先生が演説を始める前に、私の名を呼んで「違星君! 私の演説中に和人に対して便宜上あなた方をアイヌという名称で呼ばなければならない場合があるが、アイヌといった方がいいか、土人といった方がいいか、どちらがいい気持がするか」と、きかれたので、実はどちらも面白くないとは思いましたが「ええどちらでも差し支えありません」と答えましたものの、心中ひそかに自分が意気地のないのを恥じて、家に帰った後でさめざめと泣きました。
 アイヌにはもと「人間」とか「いい人間」とか「紳士」とかいう意味があるのに、何故自分はそういわれるのを嫌うだろう、五百年間にアイヌの本義が忘れられて、侮蔑の意味に使われているとしたら、殊更にアイヌという名称を避けずに、そのまま使いながら、自分が偉くなり、ウタリ・クスの位地を高めてアイヌの本来の意味を取り返すように努力したがいいではないか》

 この体験は、この伊波普猷の手によるものと、金田一京助の手によって書き残されたものがありますが、金田一版と伊波版の印象はかなり違います。
 伊波版は、このように帰宅後、さめざめと泣きますが、金田一版は、和人教師の気遣いに感謝し、反逆思想を改め、その場で演説まで始めます。
 どちらが正しいのか。どっちもあったことかもしれないですが、金田一の筆はやはりオーバーです。

 この「アイヌ学会」で北斗が行ったスピーチを、金田一京助と伊波普猷は、それぞれ違う受け取り方をして、違う文脈を作り上げています。
 岩手出身の金田一は《屈服と転向の物語》として。
 沖縄出身の伊波は《民族のアイデンティティの再定義の決意表明》として聞き取っているわけです。
 違星北斗の思想の流れは、《自ら「蝦夷の末裔」と自任しつつ自嘲する「金田一的なるもの」への接近》と、《そこからいかに脱却するかの模索》という二つの時期があったのではないかと思います。
 金田一は最後まで「師」ではありましたが、後者のために、さらに多くの師を求め続けることになります。
 

 《私はこの頃天下の耳目を聳動させている水平運動を尊敬していますが、私にはこの人達がヱタといふ名称を嫌う心理がよくわかります。
 けれどもこの人達がヱタという名称をそのまま使用されたら、もっと勇しいことであると思います。
 
 
 私は最初アイヌとして自覚した時、アイヌの恩人のバッチェラー先生の所に走ろうかと思いましたが、外国人にたよるのは日本人として面白くないような気がして、なるべくなら、ウタリ・クスに同情を寄せて下さる和人の所にいって教えを受けたいものと思って、ひかえることにしました。

  そういうところへ、金田一先生が、アイヌの内的生活の研究者で、アイヌに多大な同情を有って居られるということを聞いて、着京早々先生を訪問したが縁となり、今晩ここで皆様に御目にかかることが出来て、嬉しく存じている次第です。
 実は北海道にいた時分、 日本人の中にはアイヌに同情を寄せる人があるということを聞きましたので、土着心のない北海道移住民が日本人の代表者でないということに気がついて、私の過激思想は全くなくなり、今ではよい日本人となって、アイヌのため日本のために、何かやって見たいという気になっているのです》 
 

 これで、北斗のスピーチは終わりです。聴衆が金田一京助やアイヌ学会に出席している学者たちですので、北斗もそれを意識して喋っており、多少のリップサービスはあると思います。

 《一同は少からず感動しました。アイヌは五以上の数は数えることが出来ないなどと聞かされていた私たちの知識は、見事に粉砕されました。》

 あまりにひどい言い様ですが、伊波普猷のような帝大を出て言語学や民俗学をやる学者すら、このような誤った認識を持っていたわけですね。 

《これからこの青年アイヌを取囲んで座談が始まり、彼等の機関雑誌が机上に陳列されました。
 私は違星君に握手をして、私は君の郷里と反対の方向の琉球から来た伊波というものだが、君の気持は誰よりも私には能くわかる、といったら、非常に喜びました。
 中山氏が伊波君を除くの外、ここに居られる人々の血管の中には、違星君と同じ血液が流れている、といわれたので、否、私の血管の中にはかえって余計に流れているかも知れない、私の『古琉球』を見て御覧なさい、ベルツ博士デーデルライン博士や、その他二、三の学者は奄美群島や沖縄諸島の人民の血管の中に、アイヌの血液が流れているといっている」といったら、一同はくすくす笑いました。
 そして違星君は満足そうに笑っていました。
 あとで金田一君が「違星君は画も中々上手である」といって、アイヌの風俗をかいた墨絵を二枚程出しましたが、なるほどよく出来ていました。
 博文館の岡村千秋氏が「北海道の内務部長に自分の友人がいるが、この絵に皆で賛を書いたり署名をしたりして、奴におくってやろうじゃないか。
 そうしたら、アイヌに対する教育方針を一変するかも知れないから」といったので、中山氏が真っ先に筆を走らして「大正十四年三月十九日第二回東京アイヌ学会を開催し違星氏の講話を聴き遙かに在道一万五千のアイヌ同胞に敬意を表す」と書き一同の署名が終りました。》

 ここに出て来る中山氏は民俗学者の中山太郎です。(もちろん同名の政治家とは無関係)。
 中山の「日本巫女史」には北斗からの聞き取りも含まれています。

《私(伊波普猷)は「所見異所聞違此心同此理同」という文句を書添えました。
 適当な文句だと感心した人もありました。
 後で違星君が私の前にやって来て、その意味をききましたので、それは支那の国子監で琉球の学生の為に設けてあった特別教室の入口の両側に掲けてあった聯で、人種が異なり、言語が異なり風俗習慣が異っていても、人情や道理が異なる筈はない、それさえ同じければ、何処の人間でも同じ様に教えることが出来る、ということだと、説明してやりましたら、これは我々アイヌの為に特にいってくれたような文句だ、といって喜びました。》

 その時の寄せ書きが、これです。
 
 柳田国男の名前も見えます。
 日本の民俗学の黎明期の貴重な寄せ書きですね。
 このあと、中山太郎のように柳田と袂を分かつ人々が出てきますので、 北斗は、民俗学の古き良き、貴重な時代を体験したわけです。

 《会は十一時頃済みました。
 私はこの青年アイヌと話しながら帰りましたが、いい知己を得たといって喜んでいました。
 彼はその後二度私を訪問して、自分等の同族についてくわしく話してくれました。
 そしてその機関雑誌の『茶話誌』や『ウタリ・クス』を全部揃えて来て、見せてくれました。
 尋常小学の教育しか受けない者が、あんな文章を書くとはただ驚くの外ありません。
 この二誌に現われている青年アイヌの思想を調べて見ますと、時代が時代だからでもありましょうが、「沖縄青年雑誌」に現われている明治二十三年頃の東京沖縄青年の思想よりは遙に進んでいるようです。
 『茶話誌』創刊号に載っている違星君の宣言「アィヌとして」は実に堂々たる大文字です。
 それから『ウタリ・クス』の第三号に出ている向井山雄というアイヌの「彼と我と」という論説は、最も進んだアイヌの叫び声で、何処に出しても恥かしくない新しい思想だと思います。
 違星君の話によると、向井氏は基督教の神学校を出たアイヌであるとのことです。
 それから婦人の間にも中々偉い人が出ています。
 どこかのアイヌの酋長の娘で、バッチェラー博士の養女になっている八重子といふ人がありますが、この人はかつて米国にも渡ったことがあるので、英語が達者で日本語はそれ以上に達者だということです。
 この人は美術を解し、文芸を語り、中々趣味の多い人だそうですが、近頃同族の為に中等学校設立の必要を感じて、資金調達の運動に取りかかっているとのことです。
 彼女の「ウタリー姉妹の方々に」という檄文は、実に条理のたった立派な文章です。
 それから『ウタリ・クス』の姉妹雑誌に『小さき群』という文芸雑誌のあることも見逃してはなりません。
 こういうような雑誌は探したら、方々にあるかも知れない、と違星君はいっています。
 二年前郷土研究杜から炉辺叢書の一として『アイヌ神謡集』が出たことは御承知でしょう。
 この本の著者は、知里幸恵というアイヌのメノコで、旭川の女子職業学校を優等で卒業した才媛でしたが、大正十一年の九月に二十一歳を一期として空しく白玉楼中の人となりました。
 先達て違星君にあった時、この人のことを話しますと、実は東京に出て来るまで、アイヌの女性にこんな偉い人があったということを知りませんでした、実に借しいことをしました、といって涙ぐんでいました。
 そして違星君は此の人の墓が雑司ケ谷にあると聞いて、二三日中に墓参にいかなければならないといっていました。
 今日の青年アイヌは男女共、実に維新当時の志士のようなものです。
 互いに連絡を取りつつ、(中略)頽勢を挽回すべく誓っているようです。
 違星君はこないだ始めてバッチェラー八重子女史に手紙を出して、自分のことやアイヌ学会のことや、アイヌに対する同情者のことなどを書いて知らせたら、どうかウタリ・クスの為に自重してくれ、との熱烈な返事を貰ったといって、感激していました。
 私は彼に、雑誌を出して思想を宣伝するのもいい、著書をして、アイヌを紹介するのもいい、中等程度の学校を設立する運動をするのもいい、けれども君等の同族にとっての目下の急務は、同胞の間に這入り込んで、通俗講演をやることである。
 こういう啓蒙運動は、いわば鍬をもって士地を耕すようなもので、こうして一種の気分が出来た暁でなければ、君等が蒔く思想の種子は芽を出すものではないといいましたら、そういふことは始めて聞くが、是非そうしなければならないと思つている、けれども自分はアイヌ語を全く忘れてゐるので、さういふ肝腎な場合には、とても間に合はない、どうしたらいゝか、といつて、ひどく悲しみました。
 私は彼に『古琉球』を一部やりました。
 そして我々の同胞も、アイヌと同じく、虐げられたものだが、日支両国の間に介在したお蔭で、両文化を消化して、自家の個性を発揮させることが出来、その上幾多のよい指導者が輩出した為めに、漸く日本国民の仲問入りをして参政権まで獲得したが、三百年間の奴隷的生活に馴致された彼等は、その為に甚しくその性情を傷けられてヒステリックとなり、アイヌと同じように、外に対しては疑い深いと共に、内に対してはとにかく反目嫉視して、党争に日もこれ足らず、とうとう共倒れの状態となり、今やその経済生活も行き詰つて、国家の手で救済されなければならない羽目に陥っている、とにかくあの広土地にいながら、一万五千のアイヌが減少する傾向があるに対して、六十万の琉球人があの狭い土地でいやが上に繁殖していくのは、いい対照である、と話したら、彼は目を丸くして驚いていました。
 彼等の祖先は、私達の祖先がオモロをのこしたように、ユーカリという美しい詩をのこしています。
 そして今日のアイヌの村落も美わしい民謡が盛んにうたはれているとのことです。面白いことには、今日のアイヌが私たちと同じやうに和歌を作つてゐることです。
 バツチェラー八重子女史も和歌を詠じています。
 (中略) 私は青年アイヌの運動に多大な同情を有するものです。けれど世界の民族運動がその終焉に近いた頃に彼等がおくればせに雄々しくも最初から出発しようとするのを見て、一滴の涙なきを得ません。
 北斗君は『北海タィムス』が、アイヌの天国は酒に酔ってくたばる所にある、といったというので、怒っていましたが、私は一日も早く北海道が彼等の為に住み心地のいい楽土になって、彼等がその個性を十二分に発輝することが出来ることを祈ってやみません。立派な環境さえ与えたら、彼等の中から、詩人も学者も政治家も踵を接して出て来るだろうと思います。(後略)》

 
これは大正14年5月1日、伊波普猷が書いた『目覚めつつあるアイヌ種族』という文です。
 
伊波は 『奄美大島民族誌』の跋文に北斗の印象を書いています。

 「東京アイヌ学会」とは、アイヌの集まりではなく、金田一を始めとする、民俗学者・言語学者の集まりです。
 ただ、伊波普猷のみ、「沖縄」出身であり、彼のみ、他の学者と違って、自らの「民族」を背負っていたといえます。
 北斗が、アイヌ学会でこの伊波普猷に出会えたことは幸運といえると思います。そこに、民族を背負って自らの文化・言語を研究し、民族の地位向上に務める「先輩」がいたわけです。

 伊波普猷は、北斗の話を聞き、自らの故郷・琉球の人々に重ねます。
 同じような虐げられた歴史を持つ伊波のアドバイスは的確で、後に北斗が行う運動そのものといってもいいかもしれません。

 この大正14年3月19日に行われた「第二回東京アイヌ学会」での北斗の演説「ウタリ・クスの先覚者中里徳太郎氏を偲びて」は、彼自身の手によって書き残され、伊波の文と同じ「沖縄教育」(大正14年6月号)に掲載されています。
 この文は長らく幻の文章でしたが、所蔵されている沖縄県立博物館美術館の学芸員の方に見つけて頂き、見ることができました。長いので、こちらを参照してください。「ウタリ・クスの先覚者中里徳太郎氏を偲びて

【名士たちとの出会い】

 違星北斗は、東京アイヌ学会で、上のような演説をし、名士たちから拍手を受けます。
 ここで出会った名士で、特に交流の記録が残っているのが、伊波普猷、中山太郎(民俗学者)、岡村千秋(郷土研究社)、松宮春一郎(世界文庫刊行会主催)らでした。

 岡村千秋は知里幸恵の『アイヌ神謡集』を出版した会社の社主です。
 また、世界文庫刊行会の松宮春一郎は、ほとんど知られていない人物ですが、北斗にとっては重要な人物です。
 松宮は、北斗に自分の名刺を持たせて、いろんな人に紹介しています。
 その中の一人が、小説家の山中峯太郎。彼は後に北斗をモデルにした小説も書いています。
 山中峯太郎といえば「アジアの曙」「敵中横断三百里」他、戦争小説、冒険小説、探偵小説で知られる小説家ですが、彼は実は中国の革命に参加した経験がある、なかなか癖のある人物です。
 山中は北斗がした話をもとにヰボシという青年が登場する『民族』という小説を執筆しています。
 山中峯太郎の『民族』に出てくるヰボシ青年は、実際の違星北斗とは少し違うキャラクターです。
 成績優秀なアイヌ青年で、上京して東京の中学に留学しますが、最後には同族の気質から絶望して自殺します。
 昭和15年に陸軍の将校向け雑誌に書かれた小説ですが、あんまりすぎます。
 ところが、戦後、山中峯太郎は『民族』を書きなおして『コタンの娘』という小説を発表します。
 この中ではヰボシは死なず、同族たちに未来に希望をもつよう語って終わります。(参考)
 どちらも北斗をモデルに書かれた作品ですが、戦後の『コタンの娘』のほうが北斗が語りそうなことを語っています。
 この『コタンの娘』の前書で、山中峯太郎は次のように書いています。

《「世界聖典全集」を出版した松宮春一郎さんの名刺を持って、顔の黒い精悍な感じのする青年が、私をたづねて来た。
 松宮さんの名刺に、「アイヌの秀才青年ヰボシ君を紹介します。よろしくお話し下さい。」と、書かれてゐた。
 
ヰボシ君と私は、その後かなり親しくなった。
 アイヌ民族の事情についてさまざまな話をヰボシ君が聞かせてくれた。
 その話を材料にして私は「民族」を書いた。
 しかし出版すると発売禁止になった。
 今度それを書き改め、前には書けなかつたことを思うとおりに書きたしたので名前も改めたのである。》


 現在、『民族』『コタンの娘』とも入手困難です。図書館で古い本を借りるしかありません。
 著作権が切れてパブリックドメインになる2016年になれば、手軽に読めるようになるかもしれません。

 山中峯太郎以外にも、松宮春一郎の紹介で北斗と出会ったという人物がいます。
 『医文学』という雑誌を編集していた長尾折三(藻城)です。

《アイヌに有為の一青年があり、違星滝次郎と呼び北斗と号する。私は松宮春一郎君を介して之を知り、曾て医文学社の小会にも招いたことがある》

 『医文学』とは医学関係者による文学誌。
 北斗の文章も掲載されています。
 このように、北斗は金田一京助との出会いから、柳田国男を中心とした民俗学関係のそうそうたる学者や、出版関係者と知り合い、そこからさらに多くの知識人と出会い、さらに北斗は多くの宗教家・思想家・運動家とも出会います。


【高尾登山】

 北斗が出入りしていた自働道話社は、よくレクリエーションの読者との交流イベントを開催していました。
 大正14年3月21日、自働道話社は高尾山への遠足を実施し、上京1ヶ月の北斗も参加しています。以下、実際の記事です。

《「自働道話社遠足会 高尾登山」額田真一 〈自働道話大正十四年五月一三三号〉

 三月二十一日春季霊祭の日、自働道話社春の遠足会あり、高尾山に登りました。
 その日は風のなく、暖いほんとに選ばれたる晴天でした。
 集合地新宿駅には既に西川先生、島田氏、大久保氏が見えて居ました。
 それから日本排酒会の永田氏や今村氏も見えました。
 また見える筈の違星北斗君が、七時になっても見えず、どうした事かと案じて居ますと、 七時十二分発車のベルはケタタマシク鳴響いて止んでしまいました。
 もう駄目だと、諦めて、プラットホームに返す途端、違星氏が見えて大急ぎにて汽車に飛び込みました。
 石沢氏は吉祥寺駅から加わり、一行は氏のほかに中島氏と妹さんの礼子さんと十人でした。
 ことに礼子さんはまだ11歳と云う小さい方なのに足も大へん達者にて、始終一番で登られました。
 みんなは色々の木や、草を見て研究しました。
 又大木を見ては驚き顔にて仰ぐのでした。
 中には四人でもかかえ切れない程の太い杉もありました。
 頂上は大へん広い見晴で、俗に関八州他三州十一州の見下と云ひます。
 一行はその雄大な眺めに酔はされました。
 みんななんと云ふよい天気でせう、こんな暖い日はと云って大喜びでした。
 頂上の茶屋にて弁当を食べて、記念の写真を撮りました。

 (中略)

 また御出席下さる為に駅まで御越下さった方が他に御在りかと案じて居ます。
 実は目標に『高尾登山自働道話社』と前夜書いて置いたのですいたのですが、違星君に託して置いた為に、同君は発車間際に来られたので折角の準備も役に立たず、ことに先生からのご案内にて御越しになって、 先生の御顔を御存じない為に引返された方には何とも申訳有りません。
 次回から充分に用意もして皆様の御越を期待申して居ます。》

 と、早速北斗は大ポカをやらかします。
 この「電車に遅れる」というのは北斗のキャラクターのようなもので、一年半後に東京を後にする際も遅れそうになり、また余市に後藤静香の列車が通り過ぎる時にも、一日間違えて結局会えなかったということもあります。
 遠足の電車に遅れそうになるとか、金田一訪問の際に田んぼに落ちるとか、そういうドン臭いエピソードが、北斗のもう一つの側面です。
 ドジで、愚直で、不器用で、汗みどろドロだらけ、傷だらけになっても、目的のためには止まらない。
 吹雪の中、空腹でも歩き続ける。それが違星北斗です。

 この遠足は、北斗にとってはどれだけ楽しかったか。
 北斗は差別と貧困の中で、苦しく辛い小学生時代をすごし、卒業後は漁師、出稼ぎとして働きづめ。
 そんな北斗にとって、東京はまるで別世界でした。
 あれほど苦しんだアイヌ差別はなくなり、名士善男善女に一人の人間として同等に扱われる。
 小学校時代に遠足があったとしても、北海道では和人の差別の中で、過酷な遠足だったでしょう。
 しかし、この遠足では、教養ある上品な人々とともに、和気あいあいと楽しく過ごしました。
 北斗はこの遠足で別世界を実感し、どれほど解放され、救われ、喜びを感じたことでしょう。
 北斗は別天地・東京で戸惑いながらも、金田一や西川といった恩人から紹介を受けたさまざまな名士・著名人を訪ね歩き、その知識や見識、思想を吸収していきます。
 ただ彼には絶対にブレない一つのテーマがあり、すべての勉強はそのためでした。
 ただ「アイヌの未来」を明るいものにするために。

------------------------------
>>その7に続く

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《違星北斗の生涯》INDEX

2013年2月 9日 (土)

『伊波普猷全集』

『伊波普猷全集』 第十巻に、北斗の記述あり。

『奄美大島民族誌』「跋」

 奄美大島を訪れたことのある人は、其の住民(中略)を見て、アイヌを聯想したであらう。
(中略)
 一昨年の秋頃であつたか、アイヌ学会のあつた時、(中略)晩餐の時、私の向ひに眼のへこんだ毛深い青年が坐つてゐたのを見て、大島の人とばかり思つてゐたところが、あとでこの青年が違星[北斗]といふアイヌであると聞いて吃驚した。そして其の演説を聴くに及んで、其の発音や語調が大島の人のそれにそつくりだつたので、二度吃驚した。私がまのあたりアイヌを見て、其の話を聞いたのは、此が初めてだつた。違星君には其の後も屡〃会つて、其の発音や語調を観察したが、彼がアイヌの部落中で、最も日本化した余市のアイヌで、しかもその母語を全く話すことが出来ないと聞いたので、其の発音や語調は、ことによると、近所にゐる和人の影響を受けたものか、さもなければ、彼の個人的の特徴ではないかと思つて、他のアイヌのそれを聞く機会を待つてゐた。昨年の秋、アイヌ向井山雄を歓迎する為に、アイヌ学会が開かれた時、私は半ば好奇心に駆られて、出席して見た。向井氏は胆振の有珠の酋長の子で、バッチラー師の下で働いてゐる宗教家であるが、その顔附が大島の上流社会の紳士そつくりだつた。しかも其の発音や語調が、違星君のより一層大島的であるのを聴いて、面白いと思つた。これは恐らく今日まで何人も気づかなかつたことであらう。かくもかけ離れた所に居る両民族の間に、かくも著しい類似の存するのは、たゞ不思議といふの外はない。これは果して偶然の一致だらうか。(後略)

 これは、内容的には「目覚めつつあるアイヌ種族」と一致しますね。
http://www.geocities.jp/bzy14554/mezame.htm

 ただ、伊波普猷と北斗が初めて出会ったアイヌ学会は3月19日、「一昨年の秋頃」というのは間違いではないかと思います。
 その次に書いてある、向井山雄の出たアイヌ学会のことは、金田一から北斗への手紙(昭和2年4月26日)にも書いてあります。
 向井山雄は大暴れしてしまいます。
 http://www.geocities.jp/bzy14554/tegamikindaichi.htm


※08/10/30のブログから、サルベージ。

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