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2013年2月11日 (月)

違星北斗の生涯(その10 平取編)

《違星北斗の生涯》 

(その10 平取編) 

 ※これは管理人がやっているツイッター「違星北斗bot」(@kotan_bot)をまとめたものです。

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 アイヌの歌人・違星北斗Botを作ってみました。違星北斗27年の生涯を、ツイートで追体験してみたいと思います。

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【平取へ】

 北斗の日記は大正15年7月11日から、7月14日に飛びます。
 普通に読んでいては気づきませんが、ここで舞台が幌別から平取に移っています。
 北斗は7月12~13日で、幌別から平取に移動しているわけです。

 大正15年7月14日、それまで幌別(登別)にいた違星北斗は、平取に姿を現します。
 よく誤解・混同されていますが、北斗が平取で滞在していたのはマスメディアに「アイヌの聖地」と呼ばれて取り上げられる「二風谷」ではありません。北斗が住んだのはいわゆる「平取本町」です。
 北斗が滞在した平取本町(役場がある)から二風谷は山道を7キロぐらいで、徒歩だと1時間半はかかります。
 歩くと、結構離れています。
 北斗が来た当時は、平取までは軽便鉄道がありましたが、そこから二風谷までは山道を歩かねばなりませんでした。

 北斗は「平取」に住み、「二風谷」へは、平取から足を伸ばしていたようです。
 このあたり「北斗は二風谷に住んだ」と非常によく誤解されており、その「誤解」のおかげで、北斗の歌碑があんまり縁のない「二風谷」に建ってしまっています。
 二風谷小学校にある北斗の歌碑は、昭和30年ごろに計画され、完成したのは昭和46年。
 地元の人の「違星? 誰だそれ」という反対があったそうです。
 そりゃそうかもしれません。
 違星北斗は平取本町に住み、7キロ離れた二風谷にはたまに訪れる形です。
 しかし、北斗に二風谷を詠んだ歌があるので、実状をよく知らない人たちによって、よりアイヌのイメージの強い「二風谷」に歌碑建設が計画されることとなり、その「ねじれ」によって、地元の反対があり、建設が15年間ストップし、それを動かしたのが萱野茂さんでした。

 さて、大正15年7月14日(水)、北斗は平取教会にあらわれます。
 これはアイヌ伝道に尽力したジョン・バチラーの英国聖公会の教会で、当時はバチラー八重子は幌別教会におり、平取には岡村国夫神父がいました。
 岡村神父の妻千代子は八重子の妹でしたので、いわばバチラーファミリーです。
 北斗が平取に入った目的は、アイヌの信仰を持つ家庭にホームステイすることでした。
 北斗はバチラー八重子にそういう家庭を紹介してほしいと依頼し、平取に入って岡村神父夫妻から、「忠郎」氏を紹介してもらって寄宿したようです。
 この「忠郎」氏については、はっきりしたことがわかりません。
 北斗が寄宿した「忠郎」氏宅は、アイヌ式の家「チセ」でも、東北風の藁葺き屋根の家でもなく、「内地の木引きが手引きした板材を全部使用していた」というしっかりした近代的な板張りの家だったようです。
 そのあたりの経緯は、「違星君の平取入村当時の思い出」という資料に出ています。
 また、北斗は義経神社の下にあった八重子所有の借家に住んでいたという話もあります。
 当時、ジョン・バチラーを希望社の後藤静香が援助するかたちで、平取幼稚園の開設予定でした。公式の記録では昭和2年となっていますが、資料によっては大正9年開設というものもあり、はっきりしません。
 北斗が教会を手伝っていた記録は、北斗の日記にあります。
 バチラー八重子(幼名?向井フチ)は、有珠アイヌの長、向井富蔵(モロッチャロ)の次女。ジョン・バチラーの養女となり、コタン伝道に尽くしました。
 明治17年生まれなので北斗より17歳年上。
 知里幸恵の母、知里ナミや、伯母金成マツも、バチラーの伝道女でした。

【「日記」大正15年7月14日】
 

《教会の壁を張替する。
 下張りしたりするのにかなり手間取る。
 全く今日の仕事は捗らなかった。
 欄間と正面の扉の立派な所だけ張る。
 それで手許が暗くなったので一先休止。
 晩飯を食ってから応接室の天井と壁の古い紙を剥いで五分の二位下張りをやる。
 残りは明日やる事にした
 今日は岡村先生と色々お話をしながら仕事をした。
 此の村の青年の事、一般の思想に就いて、ヤヱ姉様の目下の運動に対する意見の交換、此の村で欲しいもの――浴場と図書館の事、施薬の事も考へて見た。
 浴場は一寸お金がかゝるらしい。
 維持費も要る問題だ。
 けれども欲しいものである。
 なんとかならないものだらうか。
 岡村先生自転車を欲しいとある。
 どうもそれは一寸難しい。
 一個人の便利の為に私は心配する気がない。
 せめて浴場ならばと考へて見る。


   五十年伝道されし此のコタン
   見るべきものの無きを悲しむ

   平取に浴場一つ欲しいもの
   
金があったら建てたいものを》


【「日記」大正15年7月15日】

《向井山雄氏当地に来る。
 バチラー博士も来られるとの事で、大至急張り替へをやる。
 岡村さんのお宅の応接室もどん/\やって了ってから博士が来られた。
 今日はお祈りをすると云って使を出されたので、七時半から教会に人が集ったが少数であった。
 鐘はかん/\と鳴る。
 それが此の小さなコタンの澄み切った夜半の空に響く。
 沙流川の流を挿んだ沢の様な土地に教会の鐘の音の鳴り渡った時、西の山の端には月が浮んで蛙は声清らかに此の聖なる響きに和して歌ふ。
 お祈りの終った頃は月も落ちて、北斗星がギラギラと銀河を睥睨して居た。》

 

 違星北斗の平取滞在には、大きく分けて2つの時期があります。
 大正15年7月から昭和2年の2月まで。
 その後、春に余市で家業の鰊漁の手伝いをし、病気をして夏まで余市滞在。
 ここで同人誌「コタン」をつくり、その後、再び夏に平取へ。
 昭和2年にも秋まで数カ月滞在し、その後、余市に戻ります。


【コタンを巡る】

 違星北斗は、平取に腰をおちつけると、労働の合間を使って、近隣のコタンを巡り、西川光次郎に送ってもらった児童向け雑誌「子供の道話」をコタンの子供たちに配ります。
 その頃のことを書いた手紙が「子供の道話」に掲載されています。原文は読みにくいので口語訳します。

 小生はおかげ様で無事に労働しておりますのでご休心ください。
 さて、先般は「子供の道話」を20冊おくっていただきありがたく感謝しています。
 内訳としては15冊は白老土人学校(校長山本儀三郎氏)にお送りし、学生に回覧させるようお送りしましたところ、昨日山本先生よりお礼状が来ました。
 西川先生に何卒よろしくお願い申しあげますと伝言があります。
 残り5冊は長知内学校に3冊、荷負小学校1冊、当地平村秀雄氏1、同キノ子氏1冊に配本しました。
 どなたも感謝しています。
 長知内も荷負も白老もみな「土人学校」で、この有益な雑誌をこの様にお分けできることは誠に嬉しいことです。
 8月号も20冊お送りいただけないでしょうか。
 月遅れでも可ですので。
 ただ1ヶ月だけでは、本当の宣伝にはならないと思いますので、よろしくお願いします。
 例のアイヌの道話は目下多忙につき、原稿にする暇がありません。
 小生は最初の予定の通りいかず、生活のために労働している次第で、朝早くより夜遅くまで働き、その余暇は雨の日といえどもコタン訪問をし、多忙は東京にいた時以上で、とても原稿は間に合わないと考えております。
 長知内の校長、奈良農夫也(のぶや)先生は、有名な奇人か偉人か変人として知られています。
 この程お目にかかり驚きました。
 長知内の学校は、公立で普通の学校ですが、実質は和人3人以外はすべてアイヌで、約60人います。
 この校長はどうみても現代離れした奇人で、この人だからこそ、「土人学校」に16年も勤続できるのでしょう。
 この先生はアイヌ語はいうに及ばず、アイヌの神詩〈カムイユウカラ〉などは金田一先生以上、は言い過ぎかもしれませんが、アイヌ通として、アイヌからも和人からも尊敬されております。
 この先生はアイヌの道話はたくさん知っているのですが、奇人めいた先生はそれを発表、ことに自分の名を記してなどは滅多にしない人です。
 先日無理にお願いしてお話をお聞かせくださいと言ったのですが、話してくれませんでした。
 ですから、原稿をお願いしたところ、「ローマ字で書いても良いか」とのことでした。
 学会からも注目を集めているこの先生が書いてくださることなら、更に面白いと考えて「それでも結構です」と言いましたところ、「まあ、そうでなくてもよいかしら」とおっしゃられました。
 8月から9月頃には匿名で西川先生のお手許に届くことと思いますので、その際はよろしくお願いします。
 少し変り方がひどい方で、他から物をただ貰う事が大嫌いなのです。
 もし、その原稿がお手許に届いたら、その代わりとして雑誌を送ったりしては、奈良先生の御機嫌を損ねるので、その点をことにご注意ください。
 「子供の道話」は毎月3部ずつ回覧文庫に寄付したいと思っております。
 アイヌの生徒は、それは可愛いものです。
 ただただ、経済的に伸ばしていかねばならないことを痛感しています。
 アイヌの道話「半分白く半分黒いおばけさん」を書きます。
 少し短いのですがかえって短編の方が雑誌にはよいかもしれません。
 近日中に書きます。
 今度の雑誌の配本予定は、白老土人学校に5、長知内学校3、荷負(土)小学校3、平取アイヌ幼稚園1、上貫別(土)学校2、二風谷(土)小学校3、他小生用に3、月遅れのものでも構いません。
 お願いを申し上げるのもまことに恐れ入りますが、何卒よろしくおねがいします。白老小学校より。


 以上、「子供の道話」の手紙(口語訳)です。
 手紙は、北海道に戻って数週間の、7月の後半のものかと推測します。
 文中に出てくる奈良農夫也と北斗の童話は、のちに同誌に掲載されます。


【平取での生活】

 先の北斗の手紙からすると、日々生活のための朝早くから夜遅くまで労働に明け暮れ、さらに余暇には雨であっても、近隣のコタンを回って、「自働道話」や「子供の道話」といった、修養書を配り歩いていたようです。
 仕事の内容は木こりや土木などの肉体労働が主でした。

【奈良農夫也】

 文中に出てきた長知内の先生・奈良農夫也は、秋田県角鹿郡生まれ、若き日には森鴎外や徳富蘆花とも接点があった人物。
 鴎外の日記によると、明治43年4月10日に鴎外を訪ねています。
 その時は髪の毛が肩より伸びていたといい、その頃から奇人だったようです。
 獣医の資格を持ち、24,5歳の時、上京して千住の木賃宿に一年程、労働をしたり子供に英語を教えたりして暮らしていた際、徳富蘆花と知り合っています。
 岩波書店とも縁が深く、販売協力をしたり、震災時には援助をしたりしています。
 のちに岩波書店から「蘆花全集」を出す時には上京して編集に協力しています。

 北斗が関わった「奈良先生」は二人います。一人が余市の大川小学校で教わった高齢の恩師「奈良直弥」(なおや)先生でもうひとりがこの長知内の「奈良農夫也」(のぶや)先生、北斗より14歳年上。
 どちらもアイヌ教育に従事する小学校の先生で、変わり者で、名前も似ているのでややこしいです。


【違星君の平取入村当時の思い出】

 筆者不明の文書ですが、当時を知る平取在住のアイヌ系住民と思しき人が平取長役場の便箋に書いたものです。
 書かれたのは昭和30年代、違星北斗を顕彰した「違星北斗の会」の代表の木呂子敏彦氏に宛てたものかと思われます。

《バチラー氏と希望社の後藤氏と平取幼稚園開設の予定されていた当時で、違星君は平取聖公会の牧師岡村国夫氏と夫人、千代子さんを訪れ、夫妻のお世話で、故人になられた忠郎氏宅に寄宿される様夫妻が尽力された。
 牧師はバチラー博士のキリスト教によるアイヌ伝道教化の先鋭として伝道され、違星君にも、アイヌ教化について随分論議されたと聞いている。
 違星君が、和人からの圧迫を随分うけた様にかゝれてあるが、事実少し彼は激情的にアイヌの純血をよくといて議論していた。
 然し彼等の余市人の純血さを問われ尚、民族の純血の意義より重大なこと、民族としての誇りの問題について話題を提供していた。
 私が軍隊から除隊した昭和三年十二月から翌春まで牧師宅でよく逢い、伯父忠郎宅で又よく会ふことが多かった。
 彼が意気込んで、アイヌのメッカ平取に来た時、既に平取では、彼の悩みと同じ悩みを三十年位前から青年達が悩み、明治四十年に青年図書館が出来、各種の修養会が発足し、病院も大正八年六千円で地元のアイヌと道の補助で土人病院が建ち、活発な青年の動き、又、女子教育には豪州婦人ミス・ブライアンドが私塾を開いて伝道と手芸の教育、育児、衛生などの事業に献身していた時代でむしろ教えられることが多かったと述懐して平取を去った。
 沙流アイヌと、余市では二十年余市が遅れていたと彼は*を苦悩*た。
 この苦悩の叫びにいろ/\よい歌も作った。
 この当時の牧師に、実は違星が訪れて*て牧師の紹介で故忠郎氏の宅に泊る様になった。
 牧師の奥さんが、希望社の経営(バチラー*団)する幼稚園の教師となることに決っていた。
 後藤氏の話からよくこのことを承知の上、岡村牧師夫妻を訪れてこられたのが真相です。》
 


 おそらく、これは木呂子氏がこの平取在住の方に、阿部忍氏の小説「泣血」(違星北斗の生涯を描いたもの)を送り、その正誤を問うたものかと思います。
 「泣血」は意外とよく調べられてはいるのですが、アイヌ文化に対する基本的な誤りが多く、ちょっと出来が良いとは言い難い小説です。
 この証言により、希望社とバチラーの共同経営の幼稚園の実体がおぼろげながらわかります。
 おそらく、大正15年、最初に行った時期はまだ幼稚園は準備中で、バチラー八重子も幌別にいました。
 この文の中で、この人物と北斗が「昭和三年十二月から翌春まで牧師宅でよく逢」ったとありますが、これは疑問です。
 この時期、北斗は余市で闘病中ですので、会えるわけがないのです。


【北斗の住んだ家】

 同じ人物の証言として

《建坪三十坪前後の屋根は茅の本葺が*葺の純東北風の家、明治三十年~三十九年来までに建てられたもので現在もこれは住んでいるが、この家の一軒にも小松宮がお泊りになった家もある。
 昔風の「チセ」はその当時でも珍しく相当奥地でなければ見あたらなかった。
 違星が二年ばかり宿泊させた、故忠郎氏の家は現在でもしっかりした建物で、その偉容を見ることが出来る。
 内地の木引きが手引きした板材を全部使用していた。
 現存するのは、十余棟、むしろ、余市の大川町の和人の家より外観も屋内も立派に出来ている。
 当時か冬はストーブを使用していた》


 という、証言があります。
 北斗が寄宿したという忠郎氏がどのような人物であったかはわかっていません。
 


【違星君の尺八】

 同じ人物の証言として、

《彼は琴だか都山か知らないが、江差追分を得意としていた。
 六段、千鳥の曲なども吹奏したような記憶があるが余りそれは上手でなかった。
 彼の吹奏の情景は江差追分が柄に合っいる。》


 というのがあります。
 北斗の尺八については、こちらもご参照ください。


【林檎】

 同じ方の証言

《平取で林檎園をと云ふことで、バチラー八重子氏が土地を購入(五町余)して、甥の武夫と違星君に経営させることゝし、*機も購入して貸与したが、発動機の故障などで余りよく行かなかった。
 林檎の樹の植樹もしないでこの計画も終った》

 

 これは平取に八重子がいるので、大正15年ではなく、翌昭和2年のことかと思われます。


【ジョン・バチラー】

《大正15年7月15日(木)晴天 

 向井山雄氏当地に来る。バチラー博士も来られるとの事で、大至急張り替へをやる。
 岡村さんのお宅の応接室もどんどんやって了ってから博士が来られた。
 今日はお祈りをすると云って使を出されたので、七時半から教会に人が集ったが少数であった。
 鐘はかんかんと鳴る。
 それが此の小さなコタンの澄み切った夜半の空に響く。
 沙流川の流を挿んだ沢の様な土地に教会の鐘の音の鳴り渡った時、西の山の端には月が浮んで蛙は声清らかに此の聖なる響きに和して歌ふ。
 お祈りの終った頃は月も落ちて、北斗星がギラギラと銀河を睥睨して居た。》

 北斗とジョン・バチラーとの最初の対面がこの日です。
 そして、八重子の実弟で牧師の向井山雄とも初対面。
 山雄は、1890年生まれで北斗より11歳年上。
 八重子と同じく、有珠アイヌの指導者の家系に生まれ、バチラーの援助で立教大学神学部を出て牧師になり、アイヌ伝道の道に入ります。
 かなり荒っぽい人物で、東京アイヌ学会に呼ばれた際には、大暴れしています。

 東京から戻り、意気揚々と平取に入ったばかりの、このころの北斗の記述には、平取や沙流川の風景を叙情的・詩的に描いたものが多いのが特徴です。
 伝統あるアイヌコタンに訪れて感激し、センシティブになっているのだと思います。
 しかし、そんな北斗にも、次第に現実の厳しさが襲いかかります。


【中山先生からの手紙】

《7月18日 日曜日 雨天  

 中山先生のお手紙にあった歌

   ホロベツの花の匂へるヱサシ浜
   メノコの声音聞けば楽しも

   輝けよ北斗となりて輝けよ
   君はアイヌの違星なりけり 》



 この二首は北斗が手紙に書いた短歌への返歌か、もしくはその内容を受けてのものでしょう。

 この中山先生とは誰か。
 おそらく民俗学者の中山太郎(同名の政治家とは別人)だと思われます。

 東京時代にアイヌ学会で出会い、その後も手紙のやり取りをしていたようです。
 中山の「日本巫女史」には、北斗の語った話が引用されています。
 

【富谷先生】

 同じく8月7日の日記より

《富谷先生より

   神よりの使命と叫びけなげにも
   君わけ入るや人の道にと

   道の為踏み出し君に幸あれと
   祈る心は今も変らず

   文机の一輪挿しの花うばら
   君の心にたとへてしがな

 

 今又読み返して嬉し涙をこぼした。》

 
この富谷先生はだれだかわかりません。
 東京で出会った知識人だと思われ、キリスト教的な教養もある人なので、学者か、西川光次郎周辺の人かとも思いましたが、おそらく、希望社の後藤静香の関係者かと思います。
 遺稿集「コタン」が希望社から出たからか、日記の記述からは後藤静香関係者以外、たとえば西川の関係者などは除外されているような感じがあります。

【日記 大正15年7月25日水曜日】

《末世の人間の堕落を憤り人間の国土を見捨てオキクルミ神威は去ってしまった。
 けれども妹にあたる女神がアイヌの国土を懐ひ泣くと云ふ
 神にすてられたアイヌは限りなき悲しみ尽きせぬ悔恨である。
 今宵この沙流川辺に立って女神の自叙の神曲を想ひクンネチュップ(月)に無量の感慨が涌く。(大正十五年七月二十五日)


   
オキクルミ。TURESHIトレシマ悲し沙流川の
   昔をかたれクンネチュップよ


 北海道に戻って10日、平取入りして一週間の北斗には、全てが抒情的で美しく見えるかのようんです。

【大正15年8月】

 違星北斗が北海道に入って半月。
 おそらく、この頃に北斗はトラブルに見舞われます。
 北斗が身を寄せていた平取のバチラー教会への、幼稚園のための援助を、社会活動家・後藤静香(希望社)が打ち切ると言い出したのです。
 後年、後藤静香は木呂子敏彦への手紙(昭和29年4月21日消印
)でこう語っています。

 
《(前略)あの平取には、バチェラー氏経営の幼稚園があり、それが経営に困っているというので私が毎月百円づつ相当長い期間にわたって送りました。 
 氏の意見として、小学校になると、アイヌの部落の子と一般の子供との融合がむつかしい。
 幼稚園時代から親しませるに限る、というのです。
 それはもっともだと思い、前記の様な応援をしていたのです。
 その当時の百円は決して少額ではなかったと思います。
 (大正十年頃からと思います)。
 しかし、一つは伝道の方便でもあり、且つ何分にも外人を介しての事で、私の気持がどの程度通じているやも分からず、中止しました(後略)》。


 後藤静香は大正十年頃から行なっていたバチラーへの援助を、北斗が平取滞在中に打ち切ります。
 北斗としては、憧れのバチラー八重子がいて、かつ後藤と関係があるからこそ平取に行ったのです。
 木に登って梯子を外された格好です。


【疲労】

《八月二日 月曜 晴天 随分疲れた。
 こんなに今から疲れる様では自炊も出来まい。
 それなら一体俺はどうする、まさか余市にも帰れまい。
 自分の弱さが痛切に淋しい。
 レヌプル氏が当地では一番先に林檎を植ゑたさうだ。
 どうかして林檎をうんと植ゑて此の村を益したいものである。

    熟々と自己の弱さに泣かされて
    又読んで見る「力の泉」 》


 北斗は北海道に戻って半月で、体調を崩します。それが、後藤とバチラーの資金問題に関係するのか、厳しい労働のせいなのか、その両方なのかはわかりません。
 歌に出てくる「力の泉」とは、後藤静香の格言集の小冊子です。

《八月四日 水曜日 晴天 

 後藤静香先生からお手紙来る。

    先生の深きお情身に沁みて
    疲れも癒えぬ今日のお手紙》
 

 北斗と後藤静香(せいこう)との文通は、北斗が亡くなる直前まで続き、信頼関係は崩れませんでした。詳しくは http://bit.ly/HShtQp

【後藤静香と希望社】

 

 北斗が私淑した後藤静香は「希望社」という社会運動の結社を立ち上げ「希望社運動」という名で若い教員や行員に影響を与えました。その活動内容は「点字の普及」「ハンセン病患者救済」「エスペラント運動」「老人福祉」「アイヌ救済」「現代仮名遣いの普及」など。
 大正時代から昭和の始めにかけて、若者たちに影響を与え、政治家や経営者にも影響を与えていた希望社の後藤静香については、もっと知られて良い人物でしょう。
 善人なのですが、脇が甘かった人という印象です。

 

【希望社のアイヌ援助】

 後藤が違星北斗に出会う前に、こんな文を書いています。

《アイヌ民族の保護 

 大正十一年十二月から、この事業に着手いたしました。
 これはまだ発表したことがありませんから、不思議に思われるかも知れません。
 しかし、これは、国家がなすべき当然の仕事です。
 これをすておいては、人道の上に立った日本として世界にモノが言えません。
 国家がなすべくして、未だなし能わざるとき、これに代って国民を代表し、当然の責務を果たすのが、社会教育者の務めでございます。
 私はこんな見地から、この事業のために四十幾年間没頭していられるバチラー博士を助けています。
 いまは主として、幼稚園の経営につくしています。》


(後藤静香「希望社の事業とその信念」『希望』大正13年1月、『後藤静香選集』第十巻)

 北斗は東京で後藤静香と出会った時、すでに後藤はアイヌ援助をはじめていました。
 北斗と後藤が最初に出会ったきっかけはわかりません。
 同様の社会教育家の西川光次郎の「自働道話社」に出入りしていた関係や、職場が新宿だった関係から、当時新宿に巨大ビルを構え勢いのあった「希望社」を見つけたのかと思いましたが、意外と金田一京助を通じて知り合ったバチラー八重子からの線かもしれません。

【参考・後藤静香と希望社】
後藤静香」 
後藤静香の言葉集
後藤静香記念館
amazon「後藤静香」

【大正15年8月11日】

《水曜日 有馬氏帰札、曰く 
一、アイヌには指導者の適切なのが出なかった事 
二、当面の問題としては経済的発展が第一である事

 村医橋本氏に会ふ。曰く 
一、二十年間沙流川沿岸に居る。
二、年寄は仕方もないが若い者は自覚する事が第一である。


 後藤先生よりお手紙を頂く。
 幼稚園に就いての問合せであるが困った事だ。
 先生としては成程御尤であるが、何分にもバチラー先生の直営なのだから……。

 

 有馬氏は北海道帝国大学医学部の有馬博士。
 小樽新聞1926年7月27日に

《「有馬博士一行/アイヌ結核調査」〈8月1日から、日高地方で、北海道帝国大学医学部の有馬博士と助手2名が、「アイヌの結核調査」に当たる予定になっている》

 と記載あり。完全に一致。
 この事実は実は重要だと思います。というのは、続く「後藤先生よりお手紙を頂く。幼稚園に就いての問合せであるが困った事だ。先生としては成程御尤であるが、何分にもバチラー先生の直営なのだから……。」という、バチラーへの援助を後藤静香をどうしようかという金銭トラブルが、これが大正15年であるということが確定するからです。
 昭和2年として知られる日記はやはり、大正15年で間違いないことがここでもはっきりするわけです。

 後藤静香がバチラーへの援助を打ち切ったのは大正15年。
 やはり、北斗が後藤の命を受け、バチラーの懐に飛び込んで、すぐにそういうトラブルになったということになります。


【「日記」大正15年8月13日】


八月十三日 金曜日
 今夜教会に行って岡村さんが札幌に行かれたと聞く。
 聞けば幼稚園の事ださうだ。
 それなら前にお話してあるから同じ事だ。
 それとも後藤先生が他から何か聞いて、それを此方に訊きたくて呼ばれたのか知ら?
 何にしても此の幼稚園は此の村に無くてはならぬものの一つであるから、どうぞ岡村先生がよいお便りを齎して下さる様に祈って止まない。》

 後藤静香は平取のバチラー幼稚園の援助が打ち切りたいという。
 平取教会の岡村神父は、札幌のバチラーのもとに相談にいきます。
 北斗としては気が気でないでしょう。
 後藤静香の命を受けてバチラーの平取教会にやってきたは、まことに立つ瀬がない。
 これはスポンサーと非援助者という関係だけでない。後藤静香は思想上の恩師であり、バチラー八重子や平取の人々とはアイヌの同族としての絆がある。
 北斗は二つの「情」に引き裂かれそうになるわけです。

【日記大正15年8月14日】

《土曜日 岡村先生お帰り。
 幼稚園の問題だったと。
 後藤先生が万一送金を止められてもバチラー先生は園を永く続けるとの事。
 又此の家(家賃二十円)の問題もあり教会の方を提供して、色々の設備もするとの事であった。》


 ジョン・バチラーとの打合せを終えた岡村が札幌から戻ります。
 幼稚園の継続もそうですが、「此の家(家賃20円)」というのが気になります。
 幼稚園として使っている家なのかもしれません。
 維持できなくなったら、平取教会を使おうと。
 切実です。
 当時、公務員初任給75円、銀行員初任給50~70円、下宿料(東京)20~25円です。

【大正15年8月16日月曜】

《8月16日月曜 晴れ、夜雨

 土方の出面に行く。
 岡村先生と例の話をする。
 嬉しい。
 若しも此の村に此の先生が居られなかったらどんなに淋しい事だらう。
 今日は栄吉さんの皮肉な話を聞いて、一層淋しく、此の様な村はいやになると思うたが、岡村先生に慰められて又さうでもないと思ひ直す。
 勉強も出来ず研究もしないで居る自分は苦しい。
 まあ気永にやるの他はない。
 それにしても余市に行って林檎も研究せねばならぬ。
 その方面のアイヌ事情も知りたいと思ふ。
 後藤先生に手紙を書く。

 一、一箇年五十円の薬価――施薬
 二、正月と中元に三十円父に送金
 三、二風谷に希望園を作る 林檎三百本
 四、コタンに浴場を建てたい
 五、札幌に勤労中学校
 六、土人学校所在地に幼稚園設置
 七、アイヌ青年聯盟雑誌出版》


 「土方の出面」ではじまるこの日の日記は、痛切です。
 お金のため、生活のために病身をおしての労働。
 さらには村人の皮肉に心を痛め、それでも、岡村神父の存在によって癒される。
 理想を掲げてはいても、思い通りに行かない現実。
 北斗の思い描く同族を救うための7か条には、施薬、衛生、教育、殖産、団結と、重要な条項が多く含まれています。
 心配をかけ通しの父への援助が入っているのが一層痛切です。

 優遇された東京の幸せな日々から一転、厳しいコタンの現実。
 理想を語る北斗に、同族からは余所者扱いの冷たい目と言葉が投げかけられます。
 追い打ちをかけるバチラー幼稚園の金銭問題。
 北斗は疲弊していきます。


【大正15年8月26日 木曜日】

《札幌バチラー先生宅にて一泊。後藤先生本日来札》

 札幌で、平取幼稚園援助に関するスポンサー後藤静香とジョン・バチラーとの会談に、北斗も参加することになります。

 恩師と恩師のお金の問題。
 想像するだけで胃が痛くなりそうなシチュエーションです。
 


【大正15年8月27日】

《金曜日 雨天
 午後、後藤先生バチラー先生方へ御来宅。
 金をどうするかと訊かれる。
 よう御座いますと答へる。
 蒲団は送る様に話して来たと仰しゃった。
 お急ぎの様子なので碌にお話ししない。》


 これでバチラーへの後藤静香からの援助はなくなります。
 唐突に「蒲団」についての記述がありますが、これは一見意味不明なのですが、どうも平取で蒲団が足りず、後藤静香に頼んだということなのかもしれません。

【大正15年8月28日】

《土曜日、雨、時々晴
 小樽で後藤先生の御講演を聴く。
 「帰結」の五箇条。
 駅で先生より二十円也を頂く。
 やれ有り難や。
 やっとハイカラ饅頭十個お土産に買ふ。
 余市に着いたのは夕方。

    叔父さんが帰って来たと喜べる 
    子供等の中にて土産解くわれ 》


 2年ぶりに余市に帰郷。
 バチラー幼稚園への援助打ち切りが決まった翌日、北斗は小樽で行われた後藤静香の講演を聴講し、そのまま駅まで送った際に、後藤から20円援助してもらいます。東京での給料が40円でしたので、結構な額です。
 北斗はその夕方、故郷余市へ。
 甘党の北斗は子供らとは兄梅太郎の子どもたち。
 お土産に小樽のハイカラ饅頭を買っていきます。
 北斗が二年ぶりの帰郷に際して買ったお土産は小樽の「ハイカラ饅頭」。これは北海道の食物番付にも載るような有名なお土産だったようです。  

【大正15年8月31日】

 《火曜日
 午後11時32分上り急行で後藤先生通過になる筈。
 中里君と啓氏と三人で停車場に行く支度をする。
 併し先生は居られなかった。
 林檎は送るより他に仕方がなくなった。》


 余市で北斗は、汽車で通過する後藤静香に会うために、幼馴染の中里篤治らとともに駅へ。
 余市駅での停車時間を利用して、後藤静香に名物のリンゴを渡すつもりだったのですが、後藤には会えませんでした。
 その理由は、翌日に日記にあります。

【9月1日】

《水曜日 晴れ、未明大雨 
 今朝日程表で見ると後藤先生は30日夜に通過されたのであった。》


 北斗は本当に汽車の時間にはルーズです。
 分かっているだけでも3回電車に遅れています。高尾登山、東京を後にする際、そして今回です。
 「汽車に遅れる」というのも北斗のキャラの一つですね。
 

 後藤静香側の記録を見ると、
 8月27日札幌(バチラー相談)
 8月28日小樽(講演)
 8月29日小樽
 8月30日夕張
 8月31日「アイヌ部落」(これがどこのコタンをさすのか不明)

 となっています。

【帰郷】

 久々に余市に戻ってきた北斗。
 友人の古田謙二が証言を残しています。
 以下は古田の証言。

《私は独身時代に、大正十五年秋から昭和二年の春頃まで、奈良先生の家に二階に下宿したことがあった。
 丁度、その時のことである。
 (略)北斗が東京から帰って来た頃のことである。
 道でバッタリ北斗と逢った。
 「やあ、どうした」
 「今、東京から帰って来たたところで、奈良先生をお訪ねするところです」
 「それは丁度よい。私は奈良先生の家に下宿しているので、話をしていき給え…」
 と、いうわけで、同行して帰宅。
 奈良先生に、東京から帰ってきた挨拶をした後、二階の私の部屋にやつてきて、それから長時間の話しあいをしました。
 東京の話、例によって「アイヌに対する和人の優越感に対する慣慨…」とうとう夜中の一時、二時頃になってしまい、私のところに泊まってしまいました。
 その時の話題は、皆忘れてしまったが、唯一、覚えているのは、西田幾太郎の「善の研究」という本の話をしたことです。
 「善の研究」を当時私は購読。
 その第三章に宗教のところがあります。
 私はキリスト教なので、西田幾太郎のように神を理解することができなかったのです。
 即ち、「神は宇宙の上に超越している」と理解したいのですが、「善の研究」には「宇宙の中の働き、そのものの中に神の存在を見る」ようにと説かれているのです。
 そのことを、長時間話しあいをしたのですが、北斗は「私も善の研究のように神を理解したい」といい、私は「超越してある神」をとり、遂に意見が一致しませんでした。
 ほんとうにあれから、もう四十年もたってしまいました。》


 違星北斗がこの会談の際に西田幾太郎の『善の研究』を読んでいたのか、それとも古田に概要を聞いたのかは不明ですが、当時の旧制中学生の必読書といわれていた本とのこと。北斗の宗教観がわかりますね。

【平取に戻る】

 大正15年8月末後藤静香とバチラーの札幌での会談に同席した北斗。
 後藤のバチラー幼稚園援助は打ち切りが決定しますが、北斗と後藤、北斗とバチラーの関係は特に変化は観られません。
 余市に一時帰郷した北斗は、父や兄の家族と会い、友人の古田謙二とかたらって、9月10日ごろ、平取に戻ります。

 北斗が余市に一時帰郷していたこのころ、西川光次郎に手紙を書いています。

《家事上の都合により昨日当地に参りました。
 ついでに少々研究もあります故九月十日まで当地に居ります。
 それからやはり沙流郡平取村の我が家に帰ります。
 余市は涼しい。デモ平取村よりも少し暑い気分です。
 来年から平取村にリンゴの苗木を少し植附けます。
 この地方(余市)に研究的に林檎園を経営してみたいものです。
 それらの事も余市でなければ出来ない相談です。
 兎に角く、一生けんめいであります。》

 (自働道話大正15年10月号)

 北斗はリンゴ農園の経営で経済的自立を考えていました。

【「日記」大正15年9月19日】

《九月十九日 日曜日
 後藤先生から絵葉書が来た。
 『あせってはいけない……』と。
 本当に感謝に堪へない。
 コクワを先生に送って上げたいものだが。》


 この葉書はおそらく平取で受け取ったものでしょう。
北斗には他にもコクワに関する記述があります。

《コクワ取り

 たった独で山奥に入る。
 淋しいが独は気持がよい。
 私は常に他人に相槌を打つ癖がある。
 厭なのだがしかたない、性分なのだから。
 けれども独になった時は相槌を打つ様な厭な気苦労から逃れて気楽になる。
 だから淋しい中にも一人になった時は嬉しい。
 コクワなんてどうでもよいのだ。》

 なんだか北斗の人間性がよくわかる文章です。
 コクワに関しては、こういう歌もあります。
 


    上京しようと一生懸命コクワ取る
    売ったお金がどうも溜まらぬ


いずれも『コタン』より。
コクワは猿梨(サルナシ)、最近ではミニキウィとも呼ばれているようです。キウィの近縁種なんですね。

【コタンの夜話】

 谷口正氏の著書に「コタンの夜話」というものがあり、そこに北斗のことが出ているそうです。
 現物は未確認、湯本喜作氏の「アイヌの歌人」からの孫引きです。

《谷口氏は二風谷の酋長故二谷国松さんから、初めて北斗のことを聞いたのである。

 それは、何時だったか忘れたが、とうきびのおいしい季節であった。
 一人のアイヌ青年が訪ねて来た。
 彼は違星滝次郎と名乗り、自分はアイヌの研究は同族の手でやらねばならぬとの信念で研究する傍ら、アイヌ民族の解放運動に情熱をそそぎ、全道のコタン部落をくまなく歩き、同志を求めていると自己紹介した。
 彼はしばらく平取のバチェラー園で働いていたが、惜しいことに平取を去り、郷里の余市で短かい生涯を終えたので、秋の一夜を、とうきびを囓りながら語りあかしたのが最後となった。
 彼は、また違星北斗と名乗り歌を作っていた。》


 この話をきっかけに谷口氏は北斗の研究に入ります。
 谷口正氏は鉄道員の仕事の傍ら、北斗の証言を集めました。
 それを『アイヌの歌人』で紹介したのが湯本喜作です。
 この二谷国松氏は伝承者としても有名な方で、萱野茂さんの父・貝沢清太郎氏と、二谷一太郎氏と同世代(明治20年代生まれ)。
 北斗より10歳以上年上です。

 以下、ちょっと違星北斗からそれますが、萱野茂さんの著書「アイヌの碑」より引用します。

《この三人は、二風谷ではアイヌ語を上手にしゃべれる最後の人たちでした。
 三人が話していたのは次のようなことでした。
 「三人のうちで、一番先に死んだ者が最も幸せだ。
 あとの二人がアイヌの儀式とアイヌの言葉で、ちゃんとイヨイタッコテ(引導渡し)をしてくれるから、その人は確実にアイヌの神の国へ帰って行ける。
 先に死ねたほうが幸せだ」
 聞いていて、わたしはとても悲しかった。
 「先に死んだほうが幸せだ」。
 わたしは何度もこの言葉を心の中で繰り返しました。
 この言葉の意味は、民族の文化や言葉を根こそぎ奪われた者でなければ、おそらく理解することは絶対に不可能でしょう。
 人間は年をとると、死ぬということにあまり恐れをいだかなくなるといいます。
 しかし、死んだときには、自分が納得できるやり方で、野辺の送りをしてもらいたいと願う気持ちには変わりがありません。
 その納得できる葬式をしてもらいたい、ただそれだけのために早く死にたいと願うほど、わたしたちアイヌ民族にとってアイヌ文化、アイヌ語は大切なものなのです。
 そして、その三人のうち、“最も幸せ”になったのは、わたしの父でした。》

 萱野茂「アイヌの碑」より。

 この時、北斗が二谷国松と具体的にどのような話をしたかはわかりません。国松は、北斗が平取を去った後のことも知っているようなので、北斗と文通などはしていたのかもしれません。
 このエピソードは北斗がどのような形で全道の同胞に会って話をしていたかがわかる貴重な資料です。

 また、似たような話に、北斗の余市の句友、古田謙二の言葉があります。

《日高の二風谷における北斗のことは直接は知らない。
 しかし、二風谷を初めて訪れ、酋長の宅でアイヌ民族向上について談じこんだ事実は、北海道のある雑誌にのった誰かの北斗に関する記事で見た記憶がある。
 ―その家の娘が北斗に恋をしたが、北斗はこれを受入れず二風谷を去った―というようにその記事に書かれてあったようにも記憶している。
 事実かどうか話があまり巧みにいっているので、作り話ではないかと思う。》


 その記事を確認できていませんが、なかなか興味深い記述です。
 

【医文学9月号】

 北斗は東京の「医文学」に8首の短歌を投稿し、同9月号に掲載されています。

《△北海道日高国沙流郡平取村のアイヌ族違星北斗氏から左のやうな短歌を寄せられた。

  沙流川のせゝらぎつゝむあつ霰
  夏なほ寒し平取コタン。

  今朝などは涼しどころか寒いなり
  自炊の味噌汁あつくして吸ふ

 

  お手紙を出さねばならぬと気にしつゝ
  豆の畑で草取してゐる。

  たち悪くなれとの事が今の世に
  生きよと云ふ事に似てゐる

  卑屈にもならされてゐると哀なる
  あきらめに似た楽を持つ人々 

  東京から手紙が来るとあの頃が
  思出すなりなつかしさよ

  酒故か無智故かはしらねども
  見せ物のアイヌ連れて行かるゝ

  利用されるアイヌもあり利用する
  シャモもあるなり哀れ世の中

 
 

  本号に掲載の違星氏の書面と此歌を読む我読者諸君は果して如何の感があらうか。
 一視同仁の意義は吾等は努めて之れを実現せねばならぬ。(後略)》

 

 9月号掲載ということは、北斗が北海道に戻り、平取に入った7月後半以降、8月前半ぐらい(まだいろいろ疲れてしまう前?)に投函されたものでしょう。
 同じ号には、北斗が東京を発つ直前に書いた手紙「アイヌの一青年から」も掲載されています。 

【二風谷より】

 「医文学」の翌10月号には、北斗からの葉書が紹介されています。

《△北海道のアイヌ違星北斗氏から葉書来る。
 北海道全道を盛に旅行して居るそうだ。
 二風谷村から投函されたものだ。
 書中俳句二つ。

   川止めになってコタン(村)に永居かな

   またしても熊の話しやキビ果入る》

 

 素直に読めば「二風谷村」で川止めになってしまったと取れますが、俳句にはコタンとだけあり、地名は入っていないので、もしかしたら別のコタンかもしれません。
 「またしても熊の話しやキビ果入る」の句は、「キビ果入る」の意味がよくわかりません。誤字?どなたか判じていただけると助かります。

【童話】

 「子供の道話」大正15年10月号に、北斗の童話が掲載されています。
 バチラー八重子伝承、北斗筆記の童話です。
 面白いです。
 「アイヌのお噺(ウエベケレ) 半分白く半分黒いおばけ」           

【大正15年9月】

 北海道に来て2~3ヶ月目の北斗は、胆振・日高のコタンを巡っていたのですが、その際に西川光次郎の出版していた雑誌「自働道話」や「子供の道話」を配っていたようです。
 これは「修養雑誌」為になるいい話、啓蒙や修身、道徳、今風に言えば「意識の高い」話が掲載されている雑誌です。
 9月頃の配本予定は、「白老土人学校五、長知内学校三、荷負(土)小学校三、平取アイヌ幼チ院一、上貫別(土)小学校二、二風谷(土)小学校三、外小生三」と、白老および日高各地のコタンの学校に配本していました。意識改革は子供のうちから、という思いがあったのでしょう。

【奈良農夫也先生】

 北斗は、このコタン巡りの際に、長知内の奈良農夫也(のぶや)という先生に出会います。
 余市の恩師奈良直弥先生と同姓ですが、偶然です。
 この奈良農夫也先生は「有名な奇人か偉人か変人」として知られ、北斗によればアイヌ語が金田一京助以上に達者な「アイヌ通」ということ。
 北斗は、なんとかアイヌ語・アイヌ文化に精通し、「学会よりも注目を集めてゐる」奈良農夫也にアイヌの道話を書かせようとします。
 奇人・変人として知られる人物だけに、苦心しますが、匿名・無報酬を条件になんとか書かせることに成功します。
 奈良農夫也は若いころ、鴎外と出会っています。
 鴎外の「明治四十三年日記」四月十日に「秋田県角鹿郡花輪町袋丁の人 獣医奈良農夫也といふもの大塚寿助の紹介書を持ちて来訪す」とあります。 
 その時の風貌は髪の毛が肩を越えて長かったとのこと。
 奈良農夫也は明治四十一年三月、三本木の青森県立畜産学校畜産科を卒業し、獣医師免許を取得。
 二十四、五歳の頃、上京して千住の木賃宿に一年ほど暮らし、労働生活を送り、その頃、徳冨蘆花と知り合います。その後、北海道に渡り、日高国沙流郡長知内教習所でアイヌ教育に従事しました。
 奈良農夫也は、蘆花との親交は深く、昭和2年には状況して岩波の蘆花全集の編集を手伝っています。
 岩波書店の岩波茂雄との親交があり、関東大震災の時には岩波書店に援助をしています。
 木賃宿時代は子供に英語を教えたりといったこともしていたようです。

 違星北斗が、奈良農夫也に書くことを薦めた昔話は、「子供の道話」昭和2年2月号に「北海道秘話 魂藻物語」として、掲載。
 ペンネームは「沙流仙人」。
 筆者が古老に「玉藻」について聞きに行くと「貧しい老夫婦を助けるために大冒険を繰り広げる犬と猫の話」を聞きます。

 「北海秘話 魂藻物語 その1
 「北海秘話 魂藻物語 その2
 
 

 童話は、貧乏なシサムのお爺さんお婆さんのために犬と猫が大冒険する話で、一見メルヘンやファンタジーなんですが、その中の猫に退治される「鼠の王」のセリフで、なんともいえない気持ちになりました。

 ネタバレしないようにしますが、このお話はもっと重層的な構造を持っている気がします。

 「お前は……お前は俺の子供達を悉皆(すっかり)噛殺(かみころ)してしまひ、俺の妻(マチヒ)も喰殺し、親類(ウタリ)も悉(みんな)亡くしてしまつた。それで遂到自分が出て来たのだが、なんで斯様(このよう)に迄 噛殺してしまつたのか?
 ……この、「ウタリ」を悉く失った鼠の王の言葉が悲しすぎます。

 「お前は先刻(さっき)、鼠が穀物(アマム)を盗食ひするといつて怒つたが、鼠が人間の穀物を喰ふことは俺達の初め発生(でき)た時から神さまに許されてゐることなのだ。さう許されていることを邪魔して、その上、鼠を食殺すといふことは止めて呉れなければならない」
 
……この台詞も悲しい。

 語り手の想いが、猫と犬以上に、鼠の王に投影されている気がするのは、穿ちすぎなのでしょうか。
 ちなみに、鼠の王が言う、人間の食物を食べるのを神様に許されているという話は、北斗が平取で聞き取りしたこちら「世界の創造とねずみ」を参照。話は繋がっています。
   

【自働道話12月号】

 違星北斗からの手紙で10月ごろに投函されたものが掲載されています。

《来月から新冠の方面に参りたいと存ます。
 労働はとても疲労します。
 従って皆様に御無沙汰勝になりまして、申わけもありません。
 どうも郵便局が四里も遠くなので、切手を求むるのが骨です。
 

   幽谷に風嘯いて黄もみじが、
   
苔ふんでゆく我に降りくる

   むしろ戸にもみじ散りくる風ありて
   杣家一っぱい煙まわりけり

    秋雨の静な沢を炭釜の
   白いけむりがふんわり昇る

    干瓢を贈ってくれた東京の
   友に文かく雨のつれゞゝ 》


 林業や土木などの肉体労働をしながら、生活費や活動資金を稼ぎ、コタンを巡って啓蒙活動を続ける北斗。
 今回の4首は、北斗には珍しく抒情的ですが、あるいは山奥での「炭焼」の歌ではないかと思うと、リアルにも見えてきます。
 北斗は炭焼の仕事もしたのかもしれません。
 労働に追われ、思うように進まない研究や活動。
 しだいに疲労感が隠せなくなってきます。


【秋の短歌】

 北斗の平取時代に詠まれたと思われる「秋」の短歌。

   面影は秋の夜寒に啼く虫の
   声にも似てるヤイサマネイナ

   暦なくとも鮭来るときを秋とした
   コタンの昔したはしいなあ

   一雨は淋しさを呼び一雨は
   寒さ招くか蝦夷の九月は

   秋の夜の雨もる音に目をさまし
   寝床片寄せ樽を置きけり

   ひらひらと散った一葉に冷めたい
   秋が生きてたコタンの夕

   桂木の葉のない梢天を衝き
   日高の山に冬は迫れる

   土方した肩のいたみをさすりつゝ
   また寝なほした今朝の雨ふり 


   最後のは特に秋ではないですが、平取時代のものですね。


【大正天皇崩御】

 年も押し迫った大正15年12月25日、大正天皇が崩御。
 北斗は二日後に、山中のコタンでその報せを聞きます。

    崩御の報二日も経ってやっと聞く
    此の山中のコタンの驚き


 このコタンがどこかは不明ですが、平取か、もしくは日高のどこかのコタンかと思われます。

【昭和2年】

 山中で崩御を聞いた北斗は、正月を迎えます。

    諒闇の正月なれば喪旗を吹く
    風も力のなき如く見ゆ

    勅題も今は悲しき極みなれ
    昭和二年の淋しき正月


 大正天皇は大正15年12月25日崩御。
 翌日より昭和元年がはじまり、7日後、昭和2年の正月を迎えます。

 当時の雑誌を見ると、昭和2年1月発売の雑誌には「大正16年」という表記のまま出版されています。まあ、そりゃそうですね。

 これまで、病弱だった大正天皇に代わり、摂政として公務を行なっていた裕仁親王が天皇となります。
 昭和天皇は1901年生まれ。北斗の誕生年は自称の1901年と戸籍上の1902年1月1日との二通りがありますが、昭和天皇と同じだから、1901年の方を好んで使ったという可能性もあるかもしれません。
 

 北斗は、アイヌ民族を鼓舞し、アイヌの地位を向上させ、当時の日本社会に欠かすべからざる、役割を果たす人々となるよう修養しよう、と同族を啓蒙していた北斗。天皇については、当時の「日本人」の大多数と同様に、崇敬の念を持っていました。
 このあたりの皇室への敬慕というのは時代的には自然なのだと思います。
 ちなみに、北斗が余市時代に結成した「茶話笑楽会」の結成日時は4月29日、当時・皇太子(摂政宮)であった昭和天皇の誕生日からとられています。
 


【日高巡回】

 大正天皇の崩御により、諒闇の中はじまった昭和2年。
 違星北斗は、平取周辺のアイヌコタンだけでなく、日高各地を巡るようになります。
 西川光次郎への手紙によると、

《旅行してより今日で十日にもなります。
 日高のアイヌ部落はたいてい廻ることが得られるのが嬉しい。
 平取の我が本陣に戻るのはそうですネ今日は十四日だから十八日頃でせう。
 北海道は雪と申します。
 けれども十一州その所によりけりです
 日高は尤も雪の少ない処です この辺は一寸位です。
 余市は三尺以上もあるでせうに
 高田屋嘉兵衛氏の末孫がこゝの村を開きました。
 今は貧しい旅館を営んでゐます。(今日の宿北海道、日高三ツ石)》
(自働道話昭和2年3月)》


 日高三石は現在の新ひだか町三石地区、日高の海岸沿いですね。
 近隣にはシャクシャインで有名な静内があります。
 北斗に共鳴していた同志・浦川太郎吉がいた浦川も近くです。
 奥さんの浦川タレさんは伝承者として有名ですね。
 

 北斗の同志・浦川太郎吉といえば、数年前、管理人が大阪のデパートの「北海道展」に行って、彫刻に見入っていると、話しかけてきた方が偶然、浦川太郎吉のお孫さんで「爺さんが違星北斗がうちに来てたってよく言ってたよ」というのを直接お聞きしました。
 奇縁を感じました。

【童話】

 「世界の創造とねづみ」(子供の道話昭和2年1月号)北斗が採録した道話です。
 話者は「清川猪七」翁となっていますがこれは「清川戌七」でしょう。
 バチラーの元で学び、聖公会の伝道師になったアイヌの方の口述です。世界が出来たばかりの頃、神と悪魔の戦いで、神を助けたネズミの話。これも面白い話。 

【最後の平取】

 昭和2年夏、自らの思想の結晶ともいうべき「アイヌの姿」を同人誌「コタン」を創ったあと、おそらく平取で二度目に夏をすごします。北斗は、バチラー八重子とともに幼稚園を手伝い、吉田ハナととも、蚕を飼ったり、林檎園をつくろうとしたりとコタンの殖産に努めました。

【吉田ハナ】北斗が平取で一緒に過ごしたという吉田ハナについては、複数の異なる証言があります。北斗の筆による吉田ハナへの手紙が残っており、藤本英夫氏は北斗と同世代の女性と見ていますが、別の証言では、バチラー八重子より年上の宣教婦だというものもあります。私は同名の別人かと思います。


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>>その11に続く

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