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2013年2月12日 (火)

違星北斗の生涯(その11 余市編)

《違星北斗の生涯》 

(その11 余市編) 

 ※これは管理人がやっているツイッター「違星北斗bot」(@kotan_bot)をまとめたものです。

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 アイヌの歌人・違星北斗Botを作ってみました。違星北斗27年の生涯を、ツイートで追体験してみたいと思います。

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【余市帰郷】
 

 大正15年8月、東京から幌別に直行し、そのまま日高の平取に腰をおちつけた違星北斗は、労働しながら日高のコタンを巡り、同族の啓蒙に励み、年の瀬に大正天皇の崩御の報を聞きます。
 あくる昭和2年2月、北斗は実家から訃報を受け取ります。
 兄・梅太郎の子が病死したのです。

 兄の子ですから、北斗の甥か姪にあたりますが、名前・性別は不明です。 
 前年の9月に余市に帰った時

     叔父さんが帰って来たと喜べる
     子供等の中にて土産解くわれ

 (『日記』)と読んでいますが、この時北斗の帰郷を喜んだ「子供等」の一人が亡くなったのでしょう。悲しい帰郷です。


【鰊漁】

 昭和2年2月に兄の子の葬儀のために余市に帰郷した北斗は、そのまま余市に留まります。
 実家の稼業でもあるニシン漁を手伝い、活動・生活資金を稼いでいこうと考えたのでした。
 以下西川光次郎への手紙です。

《先月小生は平取を急に出立しました。
 宅の方で兄の子供が病死したのでした。
 それ以来余市に居ります。
 鯡を漁してからまたあちらの方に参ります考です。
 何しろ家は貧いので年から年中不幸ばかりしてはゐられないから、春の三ヶ月間は一寸でも手伝しやうと思ます。
 五月中頃からまた日高方面に入り込みます。
 大漁でもして少しお金が出来たら手塩方面にも視察してみたい考へです
 ですが未定です。
 余市はまだ雪が五尺以上もあります。
 昨日ウタグスの漁場に雪堀に行きました、山のふもとは丈余浜の方で七尺五尺四尺位もあります。
 こんな雪の中でもやっぱり金魚やが昨日から見えました。
 先は一寸御礼旁御伺申上ます(三月十四日北海道)》

(自働道話昭和2年5月号)

 ウタグスという漁場は、余市の浜の左手に横たわるシリパ岬の裏側で、ここにバラックを建てていました。
 このころの金田一京助から違星北斗の手紙(昭和2年4月26日消印)の宛先には「北海道余市町沖村ウタグス 違星漁場 違星滝次郎様」とあります。

【鰊漁の俳句】

   浮氷鴎が乗って流れけり

   大漁の旗そのまゝに春の夜

   春浅き鰊の浦や雪五尺

   鰊舟の囲ほぐしや春浅し

 
 基本的に、北斗の短歌で鰊を詠んだものは、死後の「コタン」にしか掲載されておらず、製作時期がわかりません。
 ただ、先の手紙には「余市はまだ雪が五尺以上もあります」とあり、俳句ににも「雪五尺」が出てきていますので、このへんの鰊の短歌は、この時期の俳句かもしれません。

【不漁】

 その一ヶ月後。同じく西川光次郎への手紙では、北斗は落胆しています。

《お手紙ありがとう存ます。
 目下ウタグスと云ふ断崖の下の磯に漁舎を■てそこに起居してニシンの漁にいそしんでゐます。
 今年は例年にない不漁です。
 先日奈良ノブヤ先生がいらしてこのウタグスのバラックで一夜を明しました。
 先生からお土産をいたゞきました。
 それは曽て東京で西川先生からいたゞいた焼のりをわざ/\ノブヤ先生が私に持って来て下さいました。
 ナンダカ堅苦しい様な気分の中でもとに角く西川先生からのと思ふたとき何ともたとへかたなき嬉しさが湧きました。
 厚く/\く感謝いたします。
 
本年の鯡は余市始まって以来の最大不漁にて殆んど閉口仕り候、就ては再度の上京も遺憾ながら見合せる可く候(北海道、余市)》

 

 奈良ノブヤ先生は、長知内の奈良農夫也先生です。

 前回の手紙を出した昭和2年3月14日の手紙の時点で漁場の「雪掘」をしていた北斗は、鰊の到来に期待をしていたようですが、その1ヶ月後の手紙では「最大不漁」ですっかり意気消沈しています。

 北斗には「鰊漁」に関する短歌もありますが、これらは発表時期から見て、おそらく翌昭和3年の鰊漁の時期に詠まれたものだと思います。 

【金田一からのハガキ】
 昭和2年3月23日と4月26日付の、金田一京助から違星北斗に当てたハガキが残っています。3月23日のハガキ「いろいろなことを体験された出せう。過日北海タイムスの一文は私も向井山雄君から送られて一読しました。札幌郡(略)今野(略)といふ青年です。→→「どういづ人かよく分からないが、アイヌ問題が太平洋学術会議などできまってしまひでもするかのやうに期待して聞いてよこしますから、百年千年の懸案で、さう/\会議などできまってしまふやうな簡単な事では無いのみ成らず、→→「よそから来た人々は、オーストラリヤ人へ関係つけて考へてゐるやうですから、あんな激烈な返事を出したのでした。何かアイヌの歴史をしらべてゐるそうです。それはこれから調べるべきだと云ってやったら、それでは自分も村へはいって、そのしらべにかからうかと云ってるのです。」→※これは、おそらく北海タイムスに掲載された今野青年のアイヌに関する文章が「困った」内容だったのでしょう。文中に金田一とのやりとりがあり、それを北斗が問い合わせたのかもしれません。彼はアイヌに対して好意的で、理想に燃えている一方、あまりアイヌの現実を知らない人なのかもしれません→※→現代でもよく見られるタイプの、アイヌに過剰な幻想をいだき、現実はよく知らないけれども激しい正義感を持った「親アイヌ的」和人なのかもしれません。新聞に当初したり、金田一に手紙を送ったりしているようです。


【金田一からのハガキ】

 昭和2年4月26日消印。

《いつもお元気で結構、鰊があまりよくない由心配して居ります。
 体の無理をなさらぬやう祈ります。こちらはやっとよい時候になりました。
 あの後一度アイヌ学界を開きました。
 向井山雄君の上京を期として、ウメ子さんも同伴してウメ子さんも同伴して大いにこんどは知識階級の人を東京人に紹介したわけです。
 一同の人々が驚異したのも愉快でした。
 但し向井君があのとほりのものだから、それに当夜のお客さんの中には、知らぬお客さんもよんだものだから、その人との間に向井君が激論をやり出し、会が白けて残念な幕をとぢました。
 議論半ばに時間が切れ、それに大雨に祟られて帰ったものでさんざんに皆が濡れとほって。
 本年一月号(十二月の内に出版)の新青年に「太古の国の遍路から」を書きました。
 民族の五月号には知里真志保さんの研究があらはれます。》

 金田一は、バチラー八重子の弟で、聖公会の神父である向井山雄をアイヌ学会に招きます。
 しかし、山雄は弁論の立つ一方で、気が荒く、怒ると手がつけられないところがあり、参加者のうち、よくわかっていない人の質問に対して激昂してしまったということでしょう。
 一緒に出たウメ子さんとは、上京したいといっていたウタリの女性で、北斗の思想に同調する聡明な人だったので、北斗が自分の後に続く同志として、金田一に頼んで、上京の世話をしてもらった人でした。
 (しかし、この北斗の思いは、結局かなうことはありませんでした。
 その期待は裏切られてしまいますが、それは後の話です)。 
 文中の「太古の国の遍路から」は、金田一が紫雲古津の盲伝承者ワカルパのこと等を書いた文。
 知里真志保の研究とは、「山の刀禰・浜の刀禰物語」のことで、これは室蘭中学(旧制)在学中にアイヌの昔話を和訳した、真志保の処女作。
 北斗も当時、昔話づいていたことを考えると興味深いですね。


【不漁】

 昭和2年の鰊漁は不漁に終わりました。資金を稼いで再び上京したいと考えていた北斗の計画も見合わせることになります。
 そのショックなのか、無理がたたってか、北斗は4月下旬ごろ、再び病気になり、余市の実家で療養することになります。

 病気になったといっても、北斗はただでは起きません。
 この4月末~6月ごろの余市での療養中に、北斗は多くのことを成し遂げ、大きく成長します。
 執筆活動、幼馴染の中里篤治(凸天)と二人で同人誌「コタン」の制作など。北斗は、東京や平取での経験を故郷で活かします。
 北斗は、東京という大きな差異のある異郷を知り、そして郷里である北海道の中でも、胆振や日高といった別のコタンを巡ることによって、いわば小さな「異郷」を知り、自分の故郷・余市に、真剣に向き合うことになります。
 自分の「コタン」は、ほかでもない「余市コタン」でしかないのだということに気づいたのだと思います。

【充実した休養期間】

 この夏の北斗の病気は、金田一京助への手紙には「腐敗性キカン」と記していますが、 腐敗性気管支炎ではないかと思います。
 ただ、今回は3ヶ月ほどで治っており、闘病というよりは、休養期間と言ったほうがよいかもしれません。その休養中も、活発に動き続けます。

 療養を始めた4月28日、北斗はこのころよく書いていた童話を一つ書き上げました。
 「郷土の伝説 死んでからの魂の生活」です。
 「郷土の伝説」はタイトルからもわかるように、余市の伝説を北斗が書き起こしたもので、『子供の道話』に掲載されます。これは、余市のシリパ岬にあったという「あの世」への入口「オマンルパラ」の伝説を記したもの。
 日本神話のイザナキの黄泉下りにも似た「オマンルパラ」の話ですが、この黄泉への穴は、「オマンルパロ」Oman-ru-paro (奥へ. 行く・道・の口)ともいい、黄泉の国でも、地上と同じような生活をしているそうで、同じような伝説は道内各地にあるようです。

 これまでに北斗は、バチラー八重子や、平取でウタリから伝説を聞き、それを書き残しました。
 今度は、それを自分の生まれ育った故郷でやろうとしたわけです。
 北斗は、東京という異郷を知り、同じアイヌコタンでもそれぞれ文化の差異やアイデンティティの持ちように違いのある幌別や白老、平取、日高各地の数多くのコタンを回って見て、より立体的にアイヌの現実を実感したんだと思います。
 そして、北斗は病を得て、故郷余市コタンで同族の機関誌たる「コタン」を創ります。


【同人誌「コタン」】

 「コタン」は、北斗と幼馴染の中里篤治が、彼らが以前創っていた余市青年アイヌの修養サークル「茶話笑楽会」の機関誌「茶話誌」の後身として2年ぶり創ったものです。
 かつての同人は樺太に出稼ぎに行き、病気の北斗と篤治のみでの制作でしたが、その意義や内容は大きく変容していました。
 「茶話誌」は和人の教職員である奈良や古田の指導の元に創られた、サークル誌のようなものでしたが、東京時代に西川光二郎の自働道話社を手伝い、社会現象を起こしていた希望社の後藤の「やり方」を見ていた北斗は、「コタン」の読者対象を村内の回覧同人誌ではなく、全道アイヌに設定したのです。
 もちろん、全道のアイヌを読者想定するといってもそれは「志」として、ということですが、それがまんざら夢ということでもありませんでした。
 北斗にはすでに、踏破した後志・胆振・日高のコタンの同志とのネットワークがあり、そこから派生した他のコタンとの連携もありました。
 いきなり全道のアイヌに配布できるわけもありませんが、すでに執筆者には余市以外の浦河の浦川太郎吉もはいっており、これまでに関わりを持ったコタンには送ったものと思われます。


【病臥一ヶ月】

 昭和2年春の病気は、ほどなく快方に向かいます。
 病気療養に入って一ヶ月後、北斗は、東京の西川光次郎に手紙を書いています。

《北海道へお出でなさる由指折数へてお待してゐます。
 当地では九日十日十一日は余市神社祭であります。
 お祭りにゐらっしゃる事になります。
 さて、十日の東京出発なのでせうか? 十日の余市着になるのでせうか。
 いづれ奈良先生にお伺したら分るでせうが………………私は病臥一ヶ月でやう/\快方に赴きました
 お多用の奈良先生から連日の御見舞状でしたので病床への修養が出来たのか全快に力あった様に嬉しい。
 とに角全快の嬉しさに先生をお迎へ申事の出来るのも限なく喜ばしう存ます(北海道)》

『自働道話』昭和2年7月号。

 自働道話の場合、掲載まで1~2ヶ月の時差がありますので、5~6月ごろの手紙でしょうか。
 病床にありながら、北斗は前向きです。
 恩師奈良直弥先生の連日のお見舞いもあって、体力も気力も回復し、修養もできて、いい充電期間になったようです。
 文中の余市神社は、シリパの山麓にある余市第一の神社。
 余市の運上屋の差配だった林家の氏神であった伏見稲荷を祭ったのが最初で、明治の終わりに皇祖神と出雲系の大国主・少彦名等を祀る余市神社となります。
 北斗らアイヌも地域の住民として、普通に神社を敬い、お祭りにも参加していました。
 違星家は仏教(禅宗)でしたが、当時の大方の日本人と同様に、神社や皇室への敬意もあり、それにプラスして、北斗は消滅の危機にあったアイヌの信仰を掘り起こそうとしていました。
 キリスト教には北斗は距離をおいていました。

【西川との再開】
 先の手紙で言っていた、西川の余市訪問は昭和2年6月13日で、残念ながら、6月9~11日の余市神社の祭りは終わってしまっていましたが、北斗は思想上の恩師の一人であり、上京中に世話になった恩人である西川光次郎を駅まで迎えに行きます。
 以下、西川の手記を引用。

《△六月十三日(曇、時々雨)
  (略)午前〇時四十五分の汽車にて余市に向う。
  (略)午後七時五十分余市着。
  奈良老先生、違星、菅原の両君と共に出迎へられ、奈良先生お宅に厄介となる。
  違星君は意外にも早く全快して、元のまゝの違星君で、うれしかった。

△十四日(晴)午前十一時より大川小学校にて講話、午後〇時半より余市実科女学校にて講話、午後六時半の汽車にて小樽に向ふ。
 奈良先生違星君と共に、御見送り下さった。
 (略)奈良先生は明治十六年より今日まで、小学校の先生を勤続さるゝの人》


 西川は、北斗が全快したと印象を持ったようですので、本当に回復していたのでしょう。

【郷土研究】

 西川が北斗にすっかり回復したと印象を持った、その1週間後の6月21日には、北斗は突如、島泊に姿を現します。
 余市近辺のアイヌ文化に関する聞き取りおよび遺跡のフィールドワークを始めたのでした。
 しかし、島泊でいきなり大きなショックを受けます。

《島泊村のアイヌは影もない。どこへ行ったか?(6月21日) 

   アヌタリ(同族)の墓地であったと云う山も 
   とむらふ人ない熊笹のやぶ 

   その土地のアイヌは皆死に絶えて
   アイヌのことをシャモにきくのか》 
(「志づく」) 

 北斗が訪ねて、アイヌコタンがなくなっていたため落胆した「島泊」は現・余市町潮見町島泊。
 同じ余市町といっても、余市大川町から5~6キロぐらい、ワッカケ岬の近くですが、地形的には岬に近いだけあって、険しいところで、海に近いのに山籠もった感じです。
 北斗も初めて訪ねたのでしょう。

【古平】

 島泊よりさらに積丹半島の奥、古平を訪ねる北斗。

《古平町にはもう同族はゐない、只沿革史の幾頁にか名残を止めてゐるにすぎない。
 なんと云ふ悲しいことであらう。(六月二十二日)

     ウタリーの絶えて久しくふるびらの
     コタンの遺蹟(あと)に心ひかれる》(志づく)
 

 古平の歌は同人誌「コタン」にも。

 《古平村にて 

    ウタリーの消滅(たえ)てひさしく古平(ふるびら)の
    コタンの遺跡(あと)に心ひかるゝ

     アヌタリー(同族)の墓地でありしと云ふ山も 
    とむらふ人なき熊笹の藪
 

    海や山そのどっかに何かありて
    知らぬ昔が恋しいコタン》 
(同人誌『コタン』)

 「アヌタリの墓地」の短歌は、『志づく』では島泊、『コタン吟』では古平で詠んだとなっていますが、どちらが正しいかは不明です。
 墓地については、古来、アイヌは墓地は不吉なものとして忌避し、あまり墓参りをしなかったといいます。
 ですが、昭和の始めころには、その感覚も薄れているのかもしれません。
 余市生まれの北斗の場合にはすでにそういう感覚は薄いのか、北斗は普通に墓参して、ウタリの故人をしのぶ歌を詠んでいます。

      永劫の象に君は帰りしか
       アシニを撫でて偲ぶ一昨年
(友人の豊年健治を偲んで)

  また、バチラー八重子も北斗の死後の墓に参り、北斗を偲んでいます。

   墓に来て 友になにをか 語りなむ
   言の葉もなき 秋の夕暮れ  /逝きし違星北斗氏(バチラー八重子)
 

 昭和初期、余市ではまだアイヌ式の弔いを行い、木の墓標(アシニ)を立てることはあったようで、北斗自身の墓標もアイヌ伝統の木の墓標だったという証言があります。
 その余市アイヌの木の墓標は、他の平取などのアイヌ墓標とは形式がけっこう違うようで、むしろ海を隔てた樺太アイヌの形式に近いのだとか。
 しかし、戦後に亡くなった兄の梅太郎は、違星家のイカシシロシ(家紋)が入った、石の墓石に入っています。
  また、先の豊年健治も「アシニ」(「立つ木」=墓標)という言葉から、木の墓標であった可能性があります。


【昭和2年6月】

 「子供の道話」に北斗が闘病中に書いた「郷土の伝説 死んでからの魂の生活」と北斗の手紙が掲載されています。

《お手紙いたゞきまして、うれしく拝見いたしました。
 『子供の道話』は早速、私共の少年部に二たわけにして、廻覧さしてゐます。
 大そう成績がよいやうですから、これを永続さしたいと念願してます。

 

    伝説のベンケイナツボの磯のへに 
    かもめないてた なつかしいかな

 

 (北海道 余市)》

※ベンケイナツボは不明ですが、ナツボは鰊を入れるため地中に埋める壺だとか。
 弁慶の「ナツボ」とされる湾か入江の伝説があったのかも。
 有名な「弁慶岬」ではなく、古平の近く美国に「ベンケイ湾」があるのでそこかもしれませんが……。
 北海道には義経北行伝説から連想した義経・弁慶の伝説が沢山あり、地名としてもたくさん残っています。
 アイヌの英雄神オキクルミと同一視する考えがありますが、もちろんこれは和人が持ち込んだもの。
 古代から他集団を支配するには、彼らが信仰する「神」を身内するために、神の「家系図」を無理やりつないでいけばいいわけで、「古事記」なんてのはその集大成かと思います。
 弁慶の地名にかんしては「ペンケ(上の~)」「ペレケイ(破れた~)」といったアイヌ語地名に引っ掛けたものが多いようで、それに義経北行伝説を引っ掛けたわけですね。


【昭和2年7月6日】

 西川が6月に余市を訪れて、半月ほど経った頃、北斗は西川光次郎に手紙を書きます。
 この手紙によって、北斗が東京を出発した時のことが詳細にわかります。

《大正十五年七月五日でした。
 上野駅より出発しましたのは……もういつのまにか、記念すべき一周年が来たのです。
 ちゃうど、明日七月の七日が北海道のホロベツに、東京から持って来た思想の腰をおろしたもんでした。
 其の後はどんな収かくがあったでせう、かへりみる時に、うんざりします。
 或る時はもういやになって/\いたまらなくなりましたことも度々ありました。
 本当に考へてみると東京の生活が極楽てした。
 好きこのんでやってゐる私の最初の一歩は全く危ふいものでした。
 私が一番苦しめられた事は、親不孝だったことです。
 私を案じてゐる父の身を考えた時金にも名にもならない事をしてゐる自分……そして何の反響もない自分の不甲斐なさに幾度か涙しました。》

 

 北斗が東京・上野を発ったのが、一年前の大正15年7月5日であることや、7月7日にホロベツに着いたことなどがこれによってはっきりします。
 また、東京の生活が楽しかったこと、その後の北海道の生活については、苦しく、危ういものであったこと。
 そして、金にならないことをして、反響のない、親不孝な自分。
 北斗の活動中の苦悩が描かれています。

《今もやっぱりそうです。
 けれども私はバチラー博士のあの偉大な御態度に接する時に無限の教訓が味はゝれます。
 私はだまってしまひます。
 去年の八月号だったと思ます。
 道話に出てた「師表に立ツ人バ博士」は本当でした。
 反響があらうがなからうが決して実行に手かげんはしなかった。
 黙々として進んでゆく博士には社会のおもわくも反響も、宛にしてやってゐるのではなかったことを思ふと自分と云ふ意気地無しは穴があったら入りたい様な気持になります。
 皆様が色々と私に云って下さった、高見沢様の言葉が今でも泌々と感じてゐます。
 私はやっぱりだまって歩くより外に道はない。
 否でもおうでも行かねばならぬと、力こぶを入れてゐます。
 どうぞご鞭韃下さい。
 先生には御無事にお帰りになられた由お祝申し上げます。
 本日は御鄭重な御手紙及御菓子を下さいまして誠に有難う御座います。
 何とも御礼の申上げやうもありません。
 どうぞ先生からも御目にかゝれた節どうぞ宜しくと厚く高見沢様に御礼申し上げて下さい。
 お願申し上ます。》

 高見沢は北斗が働いていた東京府市場協会の役員で、公私共に世話になった大恩人です。

《『子供の道話のお菓子』で皆子供と一所にパクツキました。
 父からも兄からも亦子供からも宜敷くと……皆になりかはって厚く御礼申し上げます。
 原稿用紙も沢山頂きまして誠に有難う御座います。
 こんどから一増勉強します。
 私は第二年目に入るのです。
 出陣を祝ふ如く甘とうの旗頭が武者ぶるいしてお菓子を食べました。
 先は不取敢御礼申上ます。
 だん/\暑くなります。
 今日霧がかゝって涼しいが昨日あたりの暑は格別でした サヨウナラ(北海道余市)》

 「自働道話」昭和2年8月号掲載の手紙。文中の「子供の道話」は姉妹誌で、西川光次郎の妻文子が編集にあたっていました。

 この手紙は、北斗の文章の「軽妙なセンス」が面目躍如という気がします。
 内容的には実はハードなのですが、西川への親しみの感じられる砕けた文体で、時折ユーモアを交えつつ、少し前の冗談に洒落を重ねていく感じとか、本当に良い感じでいい感じだと思います。
 休養から明けて、研究もはじめた北斗の余裕が感じられます。
 「東京からの、おいしいお菓子を送って下さいましたので、子供等は申すまでもなく大供までもよろこんでたべました」「子供と一所にパクツキました」「出陣を祝ふ如く甘党の旗頭が武者ぶるいしてお菓子を食べました。」
党を自認する北斗にたくさん甘いお菓子を送った高見沢の妻、雪子の気遣い。
 ちなみに、文中に出て来る「師表に立つ人バ博士」はジョン・バチラーのことを書いた文章なのでしょうが、自働道話・子供の道話を調べましたが、掲載を確認できませんでした。
 北斗の書きかたからすると、困難があっても、反響がなくても黙々と突き進んだバチラーのことを書いた文でしょうね。
 バチラーは金田一と後藤静香のラインの人脈かと思ったら、西川ともつながっていたんですね。

烏と翁

 自働道話7月号に道話「烏と翁」(パシクルとイカシ)が掲載されています。
 パシクルがカラス、イカシが翁(おじいさん)です。
 通常、「エカシ」と表記することが多いですが、余市方言では「イカシ」と発音したようで、北斗もそう表記します。
 ただし、北斗の作品の中にも「エカシ」表記があり、不統一です。
 北斗が書いた「フゴッペ論文」なども、初出の小樽新聞掲載時は「イカシ」だったのが、遺稿集「コタン」では「エカシ」に変更されており、何らかの校閲がなされたのだと思います。
 北斗が古老から「イカシ」と聞き、「イカシ」と表記しているのに、わざわざ他の地方の発音に直すのはどうかとも思われます。
 昔話「烏と翁」は、海辺で鮭を見つけたお爺さんが、そこにいたカラスに鮭をわけてあげたら、カラスが恩返しに来て、海に鯨が漂着するので、村人総出でいきなさいと教えてくれる、という話。
 北斗らしい、やさしい語り口の心温まる昔話です。


熊と熊取の話

 昭和2年6月22日、北斗はさらに一編の民話を書き上げます。
 「熊と熊取の話」は神話時代の話ではなく、数世代前の江戸時代の石狩・浜増の話で、鬼熊与兵衛と呼ばれたアイヌの豪傑の悪熊退治の話です。
 すでに鰊漁は産業として隆盛を極め、アイヌもその社会の中で働いています。
 一読して思うのは、鰊場という巨大産業がある地域では、イメージされがちな「アイヌVS和人」の対立構造ではなく、巨大産業にいやおうなく融和と共生、適応(いい意味でも悪い意味ではなく)を強いられる時代のアイヌの姿があるのではないかと思います。
 鰊漁で賑わった余市のような土地では、もちろん差別はあったが、現経済的恩恵もあり、巨大産業とともにやってきた和人文化の波に、抗うことを考える暇もなくさらされ続けた。
 誤解を覚悟で書けば、日本企業の工場がやってきた外国の町のようであり、原発が来た村のように、それに依存してしまう。

「熊と熊取の話」の最後は北斗の語りになっています。

(人々は)《与兵衛の剛胆と智謀に敬服した。……その後も数頭の荒熊を獲ったので、誰れ云ふとなく、鬼熊与兵衛と云はれる様になった。
 (与兵衛の妻は鬼神とも歌はれた女傑で夫婦そろつて巨熊を退治したと云ふ珍談も豊富だがいづれ機会をみてお話し申しますが今でも上場所で六十才以上の人にはたいてい知られてゐる。
 それは単に強いばかりでなく、弱いアイヌの中に珍らしくも男子気があったのだから)。
 偖て、与兵衛の話、それは去年やおどゞしの話ではない。
 実に今(昭和2年)を去ること七十年も昔のことである。
 ならば今は我北海道に熊はいったいどれ位居るであらうか?。
 永劫この通り変るまいと思はせた千古の密林も、熊笹茂る山野も、はまなしの咲き競ふ砂丘も、皆んな原始の衣をぬいでしまった。
 
山は畑地に野は水田に、神秘の渓谷は発電所に化けて、二十世紀の文明は開拓の地図を彩色してしまった。
 熊、熊! 野生の熊!! その熊を見たことのある現代人は果して幾程かあるであらうか?。
 ――本道人は千人に一人も熊をみたことがあるだらうか?。
 内地の人に聞かせたい。
 私の父は熊と闘かった為めに、全身に傷跡が一ぱいある。
 熊とりが家業だったのだ。
 弓もある、槍もある、タシロ(刄)もある。
 又鉄砲もある。まだある、熊の頭骨がヌサ(神様を祭る幣帛を立てる場所)にイナホ(木幣)と共に朽ちてゐる。
 それはもはや昔しをかたる記念なんだ。
 熊がゐなくなったから……。
 「人跡未到の地なし」と迄に開拓されたので安住地と食物とに窮した熊は二三の深山幽邃の地を名残に残したきり殆んど獲り尽くされたのである。
 ―熊が居なくなった。
 本場であるべき吾北海道だのに「熊は珍らしい」と云ったら、内地の人は本当にするか?》

 

 この文は知里幸恵の有名なアイヌ神謡集の序文や北斗の「アイヌの姿」につながるものだと思います。
 
昭和2年の時点で、熊は過去のものだったという北斗。
 しかし、北斗の近くにはその名残が色濃く残ってもいる。
 熊取名人である父の生々しい傷跡、朽ちかけた祭壇にある熊の頭骨。熊取の道具。老人たちの語る熊取名人の伝承。北斗は自分たちの代で消えてしまう伝統と伝承を、少しでも残そうとしました。

【アイヌの姿】

 昭和2年7月2日、違星北斗は希望社の後藤静香にあてて、手紙を書きます。
 それは手紙というよりも、一つの宣言でした。
 昭和2年夏の時点での、違星北斗の思想の結晶であり、そこには北斗が思い描くアイヌ民族のビジョンが描かれています。
 長くなりますが、全文引用していきます。

《「アイヌの姿」 北斗星

 

後藤先生

 

 どういふ風に書いたら今のアイヌに歓迎されるかと云ふことは朧げながら私は知ってゐます。
 にもかゝはらず本文は悉くアイヌを不快がらせてゐます。
 私は心ひそかにこれを痛快がってゐると同時に、悲痛な事に感じて居ります。
 これは今のアイヌの痛いところを可成り露骨にやっつけてゐるからであります。
 若しアイヌの精神生活を御存じない御仁が之を御覧になられたら、違星は不思議なことを言ふものかなと思召されることでせう。
 殊にコタン吟の「同化への過渡期」なぞに至っては益々この感を深うすることでせう。
 アイヌを愛して下さる先生にかやうなことを明るみであばくことは本当に恥しいことであります。
 けれどもアイヌの良いところも(もしあったとしたら)亦悪いところも皆んな知って頂きたい願から拙文をもってアイヌの姿(のつもりで)を正直に書きました。
 なるべくよそ様へは見せたくはありません。
 それは歓迎されないからではありません。
 ナゼ私は私さへも不快な事実を表白せねばならないか。
 その「ねばならぬ」ことを悲しむからです。
 只々私の目のつけどころ(ねらひどころ)だけを御汲みわけ下さい。


 
永劫かくやと思わせた千古の大森林、熊笹茂る山野、はまなしの花さき競ふ砂丘も、原始の衣を脱いで百年。
 見よ、山は畑地に野は水田に神秘の渓流は発電所に化して、鉄路は伸びる。
 巨船はふえる、大厦高楼は櫛の歯のやうに並ぶ。
 

 かうして二十世期の文明は北海道開拓の地図を彩色し尽した。
 嗚呼、皇国の隆盛を誰か讃仰せぬ者あらう。
 長足の進歩! その足跡の如何に雄々しき事よ。

 

 されど北海の宝庫ひらかれて以来、悲しき歩みを続けて来た亡びる民族の姿を見たか……野原がコタン(村)になり、コタンがシャモの村になり、村が町になった時、そこに居られなくなった…………、保護と云ふ美名に拘束され、自由の天地を失って忠実な奴隷を余儀なくされたアイヌ…………、腑果斐なきアイヌの姿を見たとき我ながら痛ましき悲劇である。
 ひいては皇国の恥辱である。

 

 アイヌ! あゝなんと云ふ冷かな言葉であらう。
 誰がこの概念を与へたであらう。
 言葉本来の意義は遠くに忘れられて、只残る何かの代名詞になってゐるのはシャモの悪戯であらうか。
 アイヌ自身には負ふべき責は少しもなかったであらうか? 
 内省せねばならぬことを痛切に感ずるのである。

 

 私は小学生時代同級の誰彼に、さかんに蔑視されて毎日肩身せまい学生々活をしたと云ふ理由は、簡単明瞭「アイヌなるが故に」であった。
 現在でもアイヌは社会的まゝ子であって不自然な雰囲気に包まれてゐるのは遺憾である。
 然るにアイヌの多くは自覚してゐないで、ただの擯斥や差別からのがれようとしていてのがれ得ないでゐる。
 即ち悪人が善人になるには悔あらためればよいのであるが、アイヌがシャモになるには血の問題であり時間の問題であるだけ容易でないのである。
 こゝに於て前科者よりも悪人よりも不幸であるかの様に嘆ずるものもある。
 近頃のアイヌはシャモへシャモへと模倣追従を事としてゐる徒輩がまた続出して、某はアイヌでありながらアイヌを秘すべく北海道を飛び出し某方面でシャモ化して活躍してゐたり、某は○○○○学校で教鞭をとってゐながら、シャモに扮してゐる等々憫むべきか悲しむべきかの成功者がある。
 これらの贋シャモ共は果して幸福に陶酔してゐるであらうか? 
 否ニセモノの正体は決して羨むべきものではない。
 先ず己がアイヌをかくしてることを自責する。
 世間から疑はれるか、化けの皮をはがれる。
 其の度毎に矛盾と悲哀のどん底に落つるか、世をはかなみ人を恨む。
 此の道をたどった人の到達の点如何に悲惨であるかは説明するまでもないことである。
 吾人は自覚して同化することが理想であって模倣することが目的でない。いわんやニセモノにおいてをやである。

 

 けれども悲しむべし。
 アイヌは己が安住の社会をシャモに求めつゝ優秀な者から先をあらそうてシャモ化してしまふ。
 その抜け殻が今の「アイヌ」の称を独占しているのだ! 
 今後益々この現象が甚しくなるのではあるまいか? 
 
優生学的に社会に立遅れた劣敗者がアイヌの標本として残るのではあるまいか? 
 昔のアイヌは強かった。然るに目前のアイヌは弱い。
 現代の社会及び学会では此の劣等アイヌを「原始的」だと前提して太古のアイヌを評価しようとしてゐる。
 けれども今のアイヌは既に古代のアイヌにさかのぼりうる梯子の用を達し得ないことを諸君と共に悲しまねばならぬ。
 
アイヌはシャモの優越感に圧倒されがちである。弱いからだと云ってしまへばそれまでであるが、可成り神経過敏になってゐる。
 耳朶を破って心臓に高鳴る言葉が「アイヌ」である。
 言語どころか「アイヌ」と書かれた文字にさへハッと驚いて見とがめるであらう。
 吾人はこの態度の可否は別問題として、かゝる気づかひを起こさしめた(無意識的に平素から神経を鋭くさしてゐる程重大な根本的欲求の)その第一義は何であらう? 
 ―――アイヌでありたくない―――と云ふのではない。―――シャモになりたい―――と云ふのでもない。
 然らば何か「平等を求むる心」だ、「平和を願う心」だ。適切に云ふならば「日本臣民として生きたい願望」であるのである。

 
此の欲求をはき違へたり、燃ゆる願をアイヌ卑下の立場にさらしたことを憫れむのである。
 
同化の過渡期にあるアイヌは嘲笑侮蔑も忍び、冷酷に外人扱ひにされてもシャモを憎めないでゐる。
 恨とするよりも尚一層シャモへ憧憬してゐるとは悲痛ではないか。
 併しながら吾人はその表現がたとひ誤多しとしても、彼等が衷心の大要求までを無視しようとするのでは毛頭ない。
 アイヌには乃木将軍も居なかった。
 大西郷もアイヌにはなかった。
 一人の偉人をも出してゐないことは限りなく残念である。
 されど吾人は失望しない。
 せめてもの誇りは不逞アイヌの一人もなかった事だ。
 今にアイヌは衷心の欲求にめざめる時期をほゝ笑んで待つものである。
 

「水の貴きは水なるが為めであり、火の貴きは火なるが為めである」(権威)

 

 そこに存在の意義がある。
 鮮人が鮮人で貴い。
 アイヌはアイヌで自覚する。
 シャモはシャモで覚醒する様に、民族が各々個性に向って伸びて行く為に尊敬するならば、宇宙人類はまさに壮観を呈するであろう。
 嗚呼我等の理想はまだ遠きか。

 シャモに隠れて姑息な安逸をむさぼるより、人類生活の正しい発展に寄与せねばならぬ。民族をあげて奮起すべき秋は来た。今こそ正々堂々「吾れアイヌ也」と呼べよ。 

 たとい祖先は恥しきものであってもなくっても、割が悪いとか都合がよいとか云ふ問題ではない。必然表白せないでは居られないからだ。

 

 吾アイヌ! そこに何の気遅れがあらう。
 奮起して叫んだこの声の底には先住民族の誇まで潜んでゐるのである。
 この誇をなげうつの愚を敢てしてはいかぬ。
 不合理なる侮蔑の社会的概念を一蹴して、民族としての純真を発揮せよ。
 公正偉大なる大日本の国本に生きんとする白熱の至情が爆発して「吾れアイヌ也」と絶叫するのだ。
 
見よ、またゝく星と月かげに幾千年の変遷や原始の姿が映ってゐる。
 山の名、川の名、村の名を静かに朗咏するときに、そこにはアイヌの声が残った。
 然り、人間の誇は消えない。
 アイヌは亡びてなくなるものか、違星北斗はアイヌだ。
 今こそはっきり斯く言ひ得るが…………反省し瞑想し、来るべきアイヌの姿を凝視みつめるのである。
(二五八七・七・二)



【小樽新聞】

 昭和2年10月3日、はじめて北斗の短歌4首が、小樽新聞に掲載されます。
 以後、小樽新聞は北斗の主な活躍の舞台となります。
 北斗は小樽歌壇にかつてないアイヌの歌人として、衝撃をもって迎えられ、並木凡平らに認められて、小樽の歌人たちと親交を結び、じょじょに活動の場を広げていくことになります。

【10/3掲載『小樽新聞』】

 アイヌッ! とただ一言が
  何よりの侮辱となって燃える憤怒だ

  獰猛な面魂をよそにして
  弱く淋しいアイヌのこゝろ

  ホロベツの浜のはまなす咲き匂ひ
  エサンの山は遠くかすんで 

  伝説のベンケイナッポの磯の上に
  かもめないてた秋晴れの朝



【フゴッペ壁画】

 昭和2年10月8日、蘭島駅の保線工夫がフゴッペという小山に壁画と、人の顔のように見える石偶を発見し話題となります。
 当時、余市近辺の遺跡の調査を行なっていた北斗も、壁画に関心を寄せ、後に論文を書くことになります。

 このフゴッペ壁画は、戦後に発見され、現在は保存処理をされている「フゴッペ洞窟」とは厳密にいえば異なるものですが、近接した場所にあるため、無関係とも考えにくいようです。(戦前の発見記事


【10/25掲載『小樽新聞』】

   シリバ山もすそにからむ波だけは
   昔も今にかはりはしない

   暦なくとも鮭くる時を秋とした
   コタンの昔慕はしくなる

   握り飯腰にぶらさげ出る朝の
   コタンの空でなく鳶の声

   シャモといふ小さなカラで化石した
   優越感でアイヌ見にくる

    シャモといふ優越感でアイヌをば
   感傷的に歌をよむ、やから

   人間の誇は何も怖れない
   今ぞアイヌのこの声を聞け


   俺はただ「アイヌである」と自覚して
   正しき道をふめばいゝのだ

【10/28 掲載『小樽新聞』】

   「何ッ! 糞でも喰へ!」と剛放に
   どなった後の無気味な沈黙 

   いとせめて酒に親しむ同族に
   この上ともに酒のませたい

   単純な民族性を深刻に
   マキリで刻むアイヌの細工

   たち悪くなれとのことが今の世に
   生きよといへることに似てゐる

   開拓の功労者てふ名のかげに
   脅威のアイヌおのゝいてゐる

   同族の絶えて久しく古平の
   コタンのあとに心ひかれる

   アヌタリの墓地であったといふ山も
   とむらふものない熊笹の藪


【余市短歌会】

 小樽新聞での掲載が続く北斗は、余市短歌会の集会に出席。
 そこではじめて並木凡平、稲畑笑児らと知り合います。
 口語自由短歌を標榜する並木は、北斗の短歌の持つ威力に驚愕し、惚れ込んで自らの仲間に引き入れます。
 また、稲畑笑児は同世代の歌人ですが、北斗に心酔していた節があります。

 この歌会で、北斗は

    痛快に『俺はアイヌだ』と宣言し
    正義の前に立った確信


 という歌を読み、稲畑笑治と余市名産の林檎(北斗のお土産でしょう)をかじりながら語り合ったといいます。
 笑治とは特に親交があつく、北斗は自宅に招いたりもしているようです。

 この北斗の登場は並木凡平にとっては衝撃だったようです。
 北斗の堂々とした物腰や態度、理知的な話しぶり、そして爆発力のある短歌に恐れいり、またアイヌに対する偏見を恥じ入り、過去に詠んだアイヌを上から目線で憐憫した短歌を詠んだことを反省しました。
 以後、北斗の短歌の最大の理解者・紹介者となっていきます。


【昭和2年11月29日】

 北斗はこの日小樽の郷土史家である橋本暁尚宛にハガキを送ります。
 が、肝心の内容についてはわかっていません。
 というのも実は古書のカタログに掲載されていたもので、惜しくも購入できませんでした。
 一緒に出品されてたのは、なんと幻のガリ版同人誌「コタン」の現物! もはや存在しないと思われていたものが、古書として流通し、買った方がいらっしゃるのですから、いつか見ることもできるだろうと思います。


【新短歌時代】

 昭和2年冬、いよいよ、北斗の歌人としての本格的な活躍がはじまります。
 余市短歌会で北斗と出会った並木凡平が、新創刊の口語短歌誌「新短歌時代」の予告号で北斗を紹介し、北斗の短歌4首が掲載されます。

   暦なくとも鮭来る時を秋とした
   コタンの昔 思ひ出される

   幽谷に風うそぶいて黄もみぢが
   ―――苔踏んでゆく肩にふりくる

   ニギリメシ腰にぶらさげ出る朝の
   コタンの空でなく鳶の声

   桂の葉のない梢 天を突き
   日高の山に冬がせまった》



【11/7『小樽新聞』】

   痛快に「俺はアイヌだ」と宣言し
   正義の前に立った確信 


   小樽新聞への掲載も続きます。

【フゴッペ論争】

 11月14日の小樽新聞に、「フゴッペ壁画」の発見記事が掲載さました。
 その解説を行ったのが、小樽高商の西田彰三教授です。
 そして、翌11月15日からは、西田の連載「フゴッペの古代文字並にマスクについて」が7回にわたって掲載されています。
 北斗は、この連載を読み、「間違っている」と感じます。

 西田教授は、「フゴッペ壁画はアイヌの手によるものである」という結論づけていましたが、北斗はそうではないと考えました。
 そして、アイヌである自身の立場から反論をしたいと、自らの考えを論文にまとめ、同じ小樽新聞で連載することになります。
 それが「疑うべきフゴッペの遺跡」です。

 北斗は、壁画がアイヌの手によるものとは考えられないと主張します。
 北斗の反論に対して、西田教授は「遺跡はアイヌの手によるものだ」とその後、長期間にわたって反論を繰り返します。
 ついには北斗に「反論のための反論はみっともないだけだ」と呆れられることになります。
 この時のフゴッペ遺跡は、適切な保存処理も行われず、ついに摩耗してなくなってしまいました。
 ただ、戦後、壁画の近くで洞窟がみつかり、そこでも壁画が見つかっており、続縄文時代の遺跡とされています。
 
 


【11/21『小樽新聞』】

   余市川その源は清いものを
   こゝろにもなく濁る川下

   岸は埋立川には橋がかゝるのに
   アイヌの家がまた消えてゆく

   ひら/\と散ったひと葉に
   冷やかな秋が生きてたアコロコタン



【売薬行商へ】

 小樽新聞を主な活躍の場として、アイヌの歌人、そして郷土研究者として、注目されるようになった北斗ですが、昭和2年の年末から、また新しいことを始めます。
 それが、売薬行商でした。薬を売り歩きながら、北海道各地のコタンをめぐり、全道にわたるネットワークをつくろう考えたのでした。 

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>>その12に続く

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