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2013年2月11日 (月)

違星北斗の生涯(その7 上京編2 にひはり/後藤静香)

《違星北斗の生涯》 

(その7 上京編2 にひはり/後藤静香) 

 

※これは管理人がやっているツイッター「違星北斗bot」(@kotan_bot)をまとめたものです。

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 アイヌの歌人・違星北斗Botを作ってみました。違星北斗27年の生涯を、ツイートで追体験してみたいと思います。

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【にひはり大正14年4月号】

  畑打やキャベツの根から出し若葉
 
  これは大正14年1月の「余市にひはり句会一月例会」で詠まれたもの。
 ただし、この句は、草風館版『コタン』では「にひはり昭和2年4月号掲載」となっているのですが、これは間違いです。
 掲載誌を確認したところ、大正14年の4月号に掲載されていました。現行『コタン』には、こういったケアレスミスが結構ありますので、要注意です。


【句誌「にひはり」】

 北斗は、東京では、市場協会で労働しながら、自働道話社や希望社に出入りしたり、金田一の集まりに参加したりするだけでなく、短歌・俳句の活動も続けていました。
 北海道時代から盛んに投稿していた句誌「にひはり」(東京市牛込区中里、主宰・勝峰晋三)の句会に、上京後は直接参加するようになります。

 「にひはり」大正14年5月号に

《東京アイヌ学会講演した時、知名の士から「よき書を」してもらった記念の「まくり」を持って来訪された。書がうまいのに驚いた。これから「にひはり」句会に月々出席するといってゐた》

との記述があります。

 北斗の俳句が同誌に掲載されるの同年9月号までで、その後は短歌一本になり、俳句をほとんど詠まなくなってきます。

【熊の話】

 「にひはり」大正14年7月号には、6月8日の句会に北斗が参加し、そこで講演した内容が「熊の話」として掲載されています。

 北斗は「にひはり句会」に参加し、そこで「熊の話」をします。アイヌにとって、熊は神様であること、父甚作が熊取りの名人だったこと、15、6年前の熊取で、父が熊と取っ組み合いになった話などをします。かなり面白いです。

 この「熊の話」は、北斗が喋ったのを、「にひはり」関係者が速記したもの。ですが、お話として、よくできています。
 北斗には、アイヌの美徳の一つである「雄弁」が備わっていたのでしょう。
 地元の頃から演説で人に感銘をあたえ、「アイヌ学会」などでは学者たちをうならせる講演をします。

 《熊の話をせよといふことであります。
 一体アイヌと申しますと、いかにも野蛮人の様に聞えます。アイヌの宗教は多神教であります。万物が凡て神様であります。そこには絶対平等――無差別で、階級といったものがありません。
 
私の父は鰊をとったり、熊をとったりして居ります。この熊をとるといふことは、アイヌ族に非常によろこばれます。といふわけは、熊が大切な宗教であるからであります。熊は人間にとられ、人間に祭られてこそ真の神様になることが出来るのであります。従って、熊をとるといふことが、大変功徳になるのであります。その人は死んでからも天国で手柄になるのであります。さういふわけでありますから、アイヌは熊をそんなに恐れません。
 私の父、違星甚作は、余市に於ける熊とりの名人です。何でも十五六年も前のことでした。
 
こんな時代になると、熊取りなんどといふ痛快なことも段々出来なくなるので、同じ余市の桜井弥助と相談して、若い人達に熊取りの実際を見せるために、十四五人で一緒に出掛けて行きました。
 三日間も山の中を歩き廻りましたが、一頭も出会ひませんでした。
 今年父は五十幾つになって居ります。当時は四十代でありましたから、なかく足が達者でした。弥助も足が達者でした。木の下をくじるとか、雪の上をカンジキはいてあるかしては、とても二人にならんで歩く様な人はありませんでした。
 いつでも二人に遅れ勝ちで、二人は一行を待ちながら歩くといった具合でした。シカリベツといふ山にさしかゝりました。弥助は西の方から、父は青年をつれて南の方からのぼりました。例によって父は一行にはぐれて歩いて居りました。所が父の猟犬が父の前に来て盛んに吠え立てます。
 
父はすっかり立腹して了って、金剛杖(クワ)で犬をたゝきつけました。犬はなきながら遠ざかって行きました。程経て父の前にやって来て、また盛んに吠え立てます。狂犬になったのではないかと心配しながら又たゝきつけますが一寸後へ下るばかり、盛んに吠え立てます。
 犬はなきながら遠ざかって行きました。程経て父の前にやって来て、また盛んに吠え立てます。狂犬になったのではないかと心配しながら又たゝきつけますが一寸後へ下るばかり、盛んに吠え立てます。
 今まですっかり気の附かなかった父の頭に、熊でも来たのではないかしらといふ考へが、 ふいと浮んだので、ふりかへって見ると、馬の様な熊がやって来て居りました。
 それはもう鉄砲も打てない近い所に、じり/\と足もとをねらって居るのです。
 咄瑳に父はクワを雪の上へ突立てました。熊は驚いて横の方へまわって、尚も足元をうかゞって居ります。
 この間、鉄砲に弾を込める暇がありませんでした。(三日間も山を歩いたが熊に出会はなかったので、鉄砲には弾を込めてなかったのです。弾を込めたまゝ持って歩くといふことは可成り危険ですから)
 父は鉄砲で熊をなぐりました。たゝきました。
 その勢で熊は二回雪の上をとんばりがへりしました。父は一旦後じさりして、鉄砲に弾を込め様としましたが、先刻熊をたゝきつけた際に故障が出来て了って弾が入りません。
 熊は今度は立って来ました。大きな熊でした。父は頭から肩先をたゝかれました。(この時父は太刀(タシロ)を抜くことをすっかり忘れて居たと申して居ります)ねぢ伏せられて父は抵抗しました。格闘しました。後からやって来た十二三人の連中は、これをどうすることも出来ませんでした。
 もし手出しをしやうものなら却って自分達を襲って来はしないかといふ懸念がありました。たゞ茫然として、遠巻きにこれを見てゐるより外仕方がありませんでした。弥助のやって来るのを待ちましたが、弥助はなか/\やって来ませんでした。
 父の防寒用の衣類も此の際余り役に立たず、頭、顔、胸をしたゝかかみつかれました。父は熊の犬歯の歯の無い所を手でつかまへて尚も抵抗を続けて居りました。この時、山中熊太郎といふ青年が、熊に向って鉄砲を撃つ者はないかと一同にはかりましたが、誰も撃たうとはしませんでした。
 熊に向って撃った鉄砲が却って格闘してゐる人間に当りはしないかといふ心配がありましたから。と見ると、父は最早、雪の中へ頭をつっ込んで、防寒用の犬の皮によってのみ、熊の牙からのがれて居りました。一同は思ひ切って後の方から一斉に鯨波(とき)の声を挙げて進んで行きました。
 熊はびっくりして後ろをふりかへりました。そして人間の上を飛び越えて逃げて行って了ひました。実際、弥助のやって来るのは遅くありました。皆んなの介抱で山を下りました。それから大分長い間医者にかゝって居りました。    
 所で、それ程の大傷が存外早く癒ったことを特に申し上げなければなりません。それはアイヌの信仰から来て居るのでありまして、つまり熊は神様だ、決して人間に害を加へるものではない――といふ信仰が傷の全治を早からしめるのであります。
 かうした場合、アイヌの宗教上、アイヌは熊をのろひます。そして、熊をのろふ儀式が行はれるのであります。其の後、父は熊狩りに懲りたかと申しますのに決してさうではありません。大正七年の「ナヨシ村」の熊征伐を初めとして、その他にも屡々(しばしば)出掛けて行きました。  先程も申しました様に、熊は人間にとられ、人間に祭られてこそ、初めて真の熊になるからであります。皆さん、お忙しい中をお聞き下さいまして有難う御座いました。その他色々と面白い話もありますが、今晩は大分遅くなりましたので、これだけにして置きます。有難う御座いました。》

 これで「熊の話」は終わりです。
 非常にドラマチックで生々しく、面白い話だと思います。
 北斗の父、甚作の顔や体には、壮絶な傷跡が残っていたと、北斗は言っており、私も余市の古老の方に聞きました。
 北斗は「お話」「童話」も上手く、けっこう数もありますので、本にできたらいいですね。

 最後のナヨシ村は樺太の名好かと思われます。
 現ロシア連邦サハリン州レソゴルスクだそうです。
 余市アイヌは樺太アイヌと関係が深く、北斗も樺太に出稼ぎに行ったりしていますし、北斗の妻も樺太アイヌのピリカメノコだったという話もあります。

【にひはり大正14年7月号】

   シャボン箱置いて団扇に親しめり

   寒月やとんがった氷柱きっらきら

 
【にひはり大正14年8月号】

   夏の野となりてコタンの静かゝな

   熊の胆の煤けからびて榾あかり

 

【筑波登山】

 大正14年6月14日(日)、北斗は3月の高尾山に続いて、筑波山の登山に参加します。
 前回同様、西川光次郎の自働道話社が催した愛読者イベント。
 以下は自働道話大正14年8月号の西川のレポートです。

《「筑波登山」私共の登山団では、六月十四日紫の筑波山へ登りました。
 当日は終日雨天でしたけれども、幸に降らず、無事に面白く、目的を達しました。
 西川の上野着がおくれし為め、一汽車おくれ其の為帰りが後くれて御気の毒でした。
 一行は今村、沼田、鈴木、岩瀬、違星、西川の六人と、愛国少年団員六人と都合十二人でした。
 この写真は筑波の絶頂、男体山の連歌嶽でとったものです。
 岩瀬、違星の両君は既に女体山の方へ向いし後でしたので、両君はこの写真の中へ、はいって居りません》

 と、北斗はなかなか元気そうです。北斗は、他にも遠足や登山に行ったかもしれませんが、記録は残っていません。

【永井叔】

 大正14年8月16日発行の『緑光土』(永井叔・発行、オオゾラと読ませるらしい)という本に、北斗の詩「大空」が掲載されています。
 この本がよくわからない本で、「大空詩人」永井叔(ながい・よし)という人の、よくわからない詩歌を集めた本。
 永井叔の言動はかなり突拍子、エキセントリック。
 その著書「緑光土」にはポエムのようなことが書いてありますが、はっきり言って、何を書いてあるかよくわかりません。
 今でいえば「電波系」といえるかもしれません。

 この大空詩人・永井叔という人は、軍隊で上官を殴って軍獄に入り、その後は街頭でマンドリンを持って自作の歌を歌ったり、詩集を売ったりという、大正の「ヒッピー」とか「路上詩人」みたいな人です。
 北斗との関係は不明ですが、東京のどこかで出会ったのかもしれません。
 永井叔は、当時、街角の変人として名物だったらしく、有名なところでは、詩人の中原中也に恋人の長谷川泰子を紹介した人物として知られています。  
 永井は大正10年放浪中に出会った女優志望の長谷川泰子を連れて広島から上京。
 大震災に遭い、二人は京都へ移り、松山で演劇興行をし、再び京都へ。
 そこで泰子は中原中也と出会い、東京の高円寺で同棲。
 さらに泰子は小林秀雄と出会い、泰子は中也の元を離れて小林の元へ。
 しかしこれは北斗とは別の話。
 永井叔はクリスチャンで、当時流行した世界共通言語エスペラント語の信奉者でもあり、街角の有名人でもありました。
 有名な変人だったらしく、いろいろな方の日記に登場しています。
 

《「大空」  北海のアイヌ 違星北斗

 シュウカントコロカムイ

 永遠の蒼穹に輝く。

 人力で地球は三角になるとも

 大天は人工をゆるさぬ。

 おほひなるかな、そら

 アイヌモシリ、大空の央(なか)

 二千五百八十五年七月六日》 

 永井叔の「緑光土」に掲載された「大空」は、北斗には珍しい散文詩です。  
 冒頭のアイヌ語「シュウカントコロカムイ」は「カントコロカムイ」が「天空の神」、「シュウ」は手持ちの辞書にはなく、余市方言なのか、古語なのか、勉強不足です。
 「シ」なら「大いなる」「本当の」でしょうが……
 二千五百八十五年は皇紀ですから、西暦だと1925年、和暦だと大正14年です。
 北斗は東京のどこかで永井叔という風変わりな街頭詩人に会い、詩を書くことになったのかもしれません。
 

【北斗と中也】

 永井叔を共通の知人とする北斗と中原中也は、同じ時代に東京の同じ中央線沿線をうろうろしていたのですが、残念ながら直接出会ったという記録はありません。
 中也は大正14年3月10日上京。北斗は大正14年2月ごろです。
 北斗は西川光次郎のいた阿佐ヶ谷に足しげくかよっていました。
 一方の中也は高円寺で長谷川泰子と同棲しており、阿佐ヶ谷に友人の永井龍男の兄がやっていた中華料理屋「ピノチオ」があり、中也はそこで(タダ飯を食いながら)小林秀雄ら、仲間たちと芸術論を語り、よく酔っ払っては年上の文士たちに絡んだそうです。
 それが北斗がぶらぶらしていた頃の東京、中央線沿線。
 このあたり後に「阿佐ヶ谷文士村」と呼ばれ多くの文人を輩出します。

 「アイヌ復興」の使命のために、労働の傍ら有識者から知識や思想を吸収することで精一杯、一滴の酒も飲まない北斗と、芸術論文学論で飲み明かす中也たちと。
 残念ながら北斗が彼らと交わったという記録はありません。

 

【にひはり(大正14年9月号】

   大熊に毒矢(ぶし)を向けて忍びけり

   新酒のオテナの神話(ゆうかり)きく夜かな

 
 熊狩りの句は、北斗が実際にみたものかどうか不明です。
 北斗は熊狩りの経験の有無については語っていませんが、おそらくないでしょう。
 「ユーカリ」の句も実体験かどうかわかりませんが、もし実景なら北斗が生きた時代の余市に、まだ古老の口承神話を聞くようなことがあったということになります。
 「オテナ」は「オッテナ」ともいい、乙名、大人と書きます。村の長のことですが、日本語由来であり、古来の村の長である「コタンコロクル」ではなく、松前藩が任命した村の取りまとめ役的なニュアンスがあるようです。
 「ゆうかり」はいわゆる「ユーカラ」ですが、余市方言なのか北斗はよく「ユーカリ」と書いています。


【後藤静香の希望社】

 北斗が出入りしていた修養団体は、自働道話社だけではなく、他にも顔を出していた団体があります。
 それが社会運動団体の「希望社」。
 後藤静香(せいこう)が設立した団体で、当時、非常に大きな影響力を持っていました。
 希望社は、後藤静香が大正7年に設立した組織で、修養雑誌「希望」を発行していました。北斗はすでに西川光次郎の修養雑誌「自働道話」を購読していましたが、当時「希望社運動」といわれる社会活動を行なっていた希望社にも、盛んに出入りするようになります。

 北斗は、東京時代に希望社の後藤静香に傾倒し、後藤もまた北斗を評価し、信頼していました。
 後藤は北斗のアイヌ民族復興を希望社の運動の一つとして、精神的にも資金的にも北斗を支えつづけました。
 北斗が最初に希望社を訪ねた時期はわかりませんが希望社の宗近真澄がこう書き残しています。

《後藤先生と初対面の時の話
 君は例に依り熱をこめて
 アイヌ民族の衰退を嘆き
 自分の抱負を述べた。
 
 すると先生は感謝された。
 『有り難う……』
 先生の此のお言葉は
 電気の様に違星君を打った。
 此の一語は永久に君を
 先生に結びつけたのだ。(後略)》
(「故人の霊に」宗近真澄

 希望社は「希望」のほかに「のぞみ」「光の声」「泉の花」などを出版しており、いずれも修養主義的・啓蒙的な内容でした。

 後藤静香はもともと女子教育の専門家だけに女性からの支持も多く、男女問わず教員などのインテリ層や、学習したい若い労働者などからも支持を受けていました。
 
 当時、希望社は新宿の大久保にあり、北斗の仕事場があった四谷三光町(現・新宿5丁目、花園神社新宿ゴールデン街の界隈)にもほど近く、非常に通いやすい環境にありました。

 後藤静香の希望社は出版だけでなく、実際に「希望社運動」という社会運動を行い、それがまじめな若者たちを惹きつけました。
 「点字の普及」「エスペラント運動」「ハンセン病患者救済」「老人福祉」「現代仮名遣いの普及」などがそれで、そこに後藤が北斗と出会ったことにより、「アイヌ救済」が加わりました。
 希望社の活動は当時、真面目な若者たちにムーブメントを巻き起こしており、否が応でも北斗の知るところとなったのでしょう。 

 宗近真澄の文章にもあったように、北斗は初対面の後藤静香にアイヌの窮状を熱く語り、彼を動かします。

 後藤は北斗のことを「アイヌ民族に対しての私の計画を遂行させてくれる殆ど唯一の中心人物」「アイヌの将来に対し、私の頼りに頼つて居る友」と評しています。

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