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2013年2月11日 (月)

違星北斗の生涯(その8 上京編3 国柱会/決意) 

《違星北斗の生涯 まとめ》 

(その8 上京編3 国柱会/決意) 

 ※これは管理人がやっているツイッター「違星北斗bot」(@kotan_bot)をまとめたものです。

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 アイヌの歌人・違星北斗Botを作ってみました。違星北斗27年の生涯を、ツイートで追体験してみたいと思います。

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【国柱会】

 大正14年2月に上京してから約半年。
 その年の後半から大正15年の春ぐらいまでの違星北斗の足跡は、突然ぷっつりと途絶えます。

 もちろん、行方不明になっていたわけではなく、記録が残っていないだけで、その間に、東京府市場協会の事務員として働いていたことは間違いありません。
 ただ、西川光次郎の「自働道話」には北斗の名前が載らなくなります。

 その間、違星北斗はある宗教団体に出入りするようになったと思われます。
 それが『国柱会』です。
 国柱会は元日蓮宗の僧侶・田中智学が興した仏教団体。
 石原莞爾宮沢賢治が帰依していた宗教団体として有名です。

 アイヌである北斗がナゼ日蓮宗系の宗教に?という疑問があるかもしれませんが、 北斗の宗教観は、後に北斗が金田一に送った書簡で明らかになりますが、基本的には「アイヌ復興に役に立つなら信じる」というリアリスティックなものでした。
 知里幸恵をはじめ、多くの同族がキリスト教に帰依しつつも一向に救われなかったと見た北斗は、早々にキリスト教に見切りをつけます。
 余市の違星家の宗派は日蓮宗だったこともあり、そんなに違和感なく入っていったのかもしれません。
 北斗は寺の友人の墓に線香を供え、余市神社の祭りに参加し、村の盆踊りにも参加し、さらに古老のユーカラを聞き、アイヌプリの儀式にも、キリスト教のお祈りにも参加しています。

 かといって、北斗は無神論者ではありません。
 後に友人の古田謙二と『善の研究』(西田幾多郎)について語り合った時、北斗は『善の研究』と同じく「宇宙の中の働き、そのものの中に神の存在を見る」と語り、クリスチャンである古田の「神は宇宙の上に超越する」という意見と一致しませんでした。
 そういう意味で、北斗はクレバーすぎて、何か大きな救い主に盲信的に頼るような宗教は、合わなかったのかもしれません。
 キリスト教にすがっても救われずに苦しむ同族を見て来た彼には、当時イケイケドンドンで、社会に影響力を及ぼしていた国柱会や希望社の方が魅力的に映ったのでしょう。

 失われた楽園・理想郷的アイヌ世界「コタン」を心に描き、それを追い求めながら、「弱い自分」に力を与えてくれる実効的な学問、思想、宗教を求め続けたのが、北斗の生涯だといえるかもしれません。


【美保の講習会】

 東京で『国柱会』に出会った北斗は、その勉強会に熱心に通いつめ、合宿講習会にまで参加しています。
 静岡県三保の施設「最勝閣」で開かれた講習会は、北斗の東京滞在中には2度開かれています。
 大正14年8月3日~12日と、同年14年12月27日~翌1月5日。

 夏・冬どちらに出たかはわかっていません。どうして、北斗が国柱会の教義にはまったのかは、彼自身の言葉が残っていないのでわかりません。
 ただ、国柱会の教義が、北斗の目標に対して、即効性があると感じたからなのかもしれません。彼の目標とはいうまでもなく「アイヌの復権」でした。

 北斗が国柱会に足しげく通い、研修合宿に出ていたというのは、国柱会の代表・田中智学の娘の田中蓮代氏の「違星青年を悼む」という文により、明らかにされています。
 蓮代氏は、北斗のことを知りませんでしたが、あるとき彼女の恩師である金田一京助を訪ね、その際に金田一より北斗が、彼女の父の主宰した国柱会に傾倒していたと聞かされます。
 北斗が傾倒した田中智学の娘・蓮代はかつて金田一京助より言語学を習った教え子で、阿佐ヶ谷に住む恩師を訪ねたのでした。
 金田一は「この青年は貴女のお父様を崇拝していまして、三保の講習会へも伺わせて頂いたとか、色々の感銘をよく語り、「お父様はきっとこういうアイヌ青年のいた事を御存知かもしれませんから、この遺作集をお目にかけて頂けましたら、亡き違星君も満足する事で御座いましょう」と『コタン』を蓮代に手渡したということです。
 詳細は不明ですが、これも北斗の東京時代の「空白」を埋める一片はあります。

 北斗は、大正14年の夏か冬に、国柱会の研修合宿に参加しています。
 場所は静岡県三保にあった、国柱会の「最勝閣」という施設。ちなみに、この静岡県三保が記録に残っているうちで、違星北斗が訪れた最も西になります。国柱会の記録によると合宿の内容は次の通り。

 夏だと第31回大正14年8月3日~、田中智学の講義は「妙行正軌」。
 冬だと第32回大正14年12月27日~、講義は「法国冥合と本門本尊」、いずれも10日間。
 ほかに討論会、幻燈講話、少年講話、婦人講話、演説会、運動競技会、修学旅行、茶談会、宗曲・雅楽の演奏など。

 「男性は必ず羽織と袴を着用、居眠りをしようものなら、遠慮会釈なくチョークが飛んだ。『合掌以敬心欲聞具足道』の実践である。しかし茶談会や納涼談話、スポーツや遠足など、童心に帰ってみな愉しく語りかつ遊びもした」

 ということです。北斗が、どこまでやっていたのかは不明です。

 これほどまでに、はまっていながら、東京から北海道に帰った北斗の言動や日記・手紙などの記述には、その名残りはまるで見られません。
 国柱会の信仰への傾倒は、東京時代の、それも一時的なものであったと見たほうがよいのかもしれません。

【大正15年】

 前年と違い、大正15年の前半の記録はほとんど見つかっていません。東京府市場協会の仕事をしながら、あちこちに顔を出し、学問や思想の勉強に励んでいたと考えられます。

 北斗の生涯は昭和4年1月29日までですから、あとは大正15、昭和2、昭和3年のわずか3年間しかありません。ですが、その3年間で、北斗は大きな仕事をいくつも成し遂げます。
 恵まれた東京での生活を捨て、北海道に戻って、コタンを巡って多くの同族に語りかける一方、新聞雑誌に短歌を発表し始めます。やがて、病を得て闘病生活に入ります。いよいよ精力的で濃密な3年間に入って行きます。


【東京生活】

 北斗は東京では東京府市場協会の事務員として働き、その役員であった高見沢清の淀橋区角筈(現在の西新宿)の家で生活を始め、高見沢家の人々に愛されました。
 東京について詠んだ短歌もいくつかありますので、紹介してみます。


   砂糖湯を呑んで不図(ふと)思ふ東京の 
   美好野のあの汁粉と栗餅


   甘党の私は今はたまに食ふ 
   お菓子につけて思ふ東京

 …美好野とは正しくは「三好野」で、当時の甘味処のチェーン店の名前。
 北斗は下戸の甘党で、帰道後も高見沢の妻からお菓子を贈られて喜んだりしています。


   支那蕎麦の立食をした東京の 
   去年の今頃楽しかったね



 …大正15年に北海道に戻った北斗は、東京の立ち食いのラーメンの味を懐かしんでいます。
 支那そばは当時でも、札幌や函館では食べられたようですが、平取や余市では望むべくもなく、ラーメンは楽しかった東京を象徴する料理だったのでしょう。

【釧路新聞】

 違星北斗が上京中の大正15年3月5日、釧路新聞に北斗についての記事が掲載されました。

《札幌より 三日 支局記者 
◎余市の大川青年団に違星瀧次郎と云ふアイヌの団員が居た
 この青年は小学校時代の数年間アイヌなるが故に全校の生徒から非常な迫害と侮蔑を受けた
◎事毎にアイヌだ旧土人だと罵られるので瀧次郎は自分のこの世に於ける仇敵はシヤモ(和人)である
 自分は一生をシヤモ退治に捧げやうと決した
◎今に見ろ俺が大きくなつたら必ず此の仇討をするぞ
 シヤモの奴等ヒドイ目に会はしてやるぞとは彼が寝ても覚ても忘れられない心境であつた
◎或る時は不逞鮮人云々の新聞記事などを見て
 俺も鮮人と提携して此の怨みを晴さうかと考へたことも一度や二度ではなかつた
◎其後学校を卒へて青年団に入ると此所は全然学校とは様子が変つて迫害どころか返つて非常な優遇を受る
 少くとも差別待遇がない普通の団員として幹部や仲間の取扱に何事の等差がない
◎団員となつて初めて自分は人間愛に接することが出来
 斯うして数年間団員生活は自分の思想を一変させ小学校時代のシヤモに対する復讐心は何時の間にか雲散霧消して今では当時を追憶することさへも罪悪の様な気がする
◎是は此の青年の告白で復讐心に燃えて居た時代にノートに書き付けた歌と此の頃の感想を陳べた歌とを相添て
 道庁の知人の許に寄せて来たが
 是等は学校の先生、青年指導の任にある人々には何よりの参考資料だ
 瀧次郎氏は今は東京に出て西川光次郎氏の下に在つて社会事業に従事して居る(後略)》



 まだ無名の青年だった違星滝次郎の名が釧路新聞に掲載されたのは、道庁に北斗のノートが送られてきたからでした。
 経緯は不明ですが、東京アイヌ学会で知遇を得た人の誰かが送ったのかもしれません。
 このノートの存在は、北斗が短歌を上京以前から詠んでいるという証拠でもあるのですが、現物はみつかっていません。
 いまでも道庁の片隅にあったりしないのでしょうか……。

【北方文明研究会】

 北斗が再び記録に姿を表すのは大正15年5月27日。
 この日、北斗は金田一につれられて、柳田國男主催の「北方文明研究会」に出席しています。

 柳田国男は郷土研究会、郷土会、南方談話会、民間伝承会など、テーマごとに細分化した研究会を開き、北方文明研究会は、東北文化の研究に絞ったもので、前年の大正14年8月に結成されたものでした。

 沢田四郎作の「柳田先生の思い出」という文章に北斗の事が出てきます。

《(略)この年の5月27日もお誘いをうけて、北方文明研究会に行ったが、当日は台湾帝大総長幣原坦博士、フィンランド大使のラムステッド博士も出席され、金田一京助、中道等樋畑雪湖松本信広今和次郎三淵忠彦有賀喜左右衛門、岡村千秋、谷川磐雄の諸氏に御紹介して下さった。
 この日は鈴木・中道・今氏など東北出身の方々を囲んで男子のみによってなされる職業やオシラ様の話が中心であった。
 この日金田一先生はアイヌ人の違星という青年を連れて来られた。
 この人は間もなく27才の若さで亡くなったがこの青年について金田一先生がお書きになった昭和四年四月十五日の東京日日新聞の切抜きを保存している。(後略)》


 この沢田四郎作は医者・民俗学者。
 前年に参加した東京アイヌ学会同様、北方文明研究会の参加者もすごいメンバーです。
 違星北斗は日本民俗学の父・柳田国男や考現学の今和次郎ら、錚々たる民俗学者とも出会っていました。


【北斗が東京で出会った文化人】

 上京中、金田一京助との出会いをきっかけに、民俗学関係の人々と出会います。
 「沖縄学」の伊波普猷。「日本巫女史」の中山太郎。
 「民俗学の父」柳田國男。「考現学」の今和次郎。

 学者から、出版人へ。
 知里幸恵の「アイヌ神謡集」を出版した「炉端文庫」の岡千秋
 「世界神話文庫」の松宮春一郎。 この松宮春一郎は北斗に自分の名刺を持たせ、いろんな人を紹介します。 

 作家で、もと革命家の山中峯太郎。彼は違星北斗をモデルにした『民族』『コタンの娘』という小説を書きます。
 「医文学」の長尾折三。

 金田一以外の人脈としては、余市時代から読者だった句誌「にひはり」の勝峰晋三や、「自働道話」西川光次郎。
 そして、思想遍歴の中で出会った「希望社」の後藤静香、「国柱会」田中智学。
 北斗は彼らと関わり、常に学びつづけました。

【苦悩】

 大正15年初夏。
 東京で働きながら、アイヌの未来のために勉強を続けていた違星北斗は、ある決心をします。
 この時の心境については、金田一京助の「違星青年」に記述があります。

《私は労働服の違星青年の姿を、学会に、講演会に、ありとある所に見受ける様になつた。
 かうした一年有余の時の流れは、偶々違星生を、虐げられた半生の苦酸から引つこ抜き、執拗に追い廻す差別待遇の笞から解放して、世界を一変さした。
 逢ふ人あふ人に愛され、行く処行く処に好遇されて、生活が安定し、思想が落ち著いて、何一つ不足なくなつて来た時に、丁度その時に、 「真実な生活に徹したい違星生の真摯さは、また自分の生活の矛盾をどうすることも出来ない苦悶にみづからを追ひ込んだ。
 私ほどの者なら、東京には有り余る程ゐる。
 そして失業の失職の生活難のといつてゐる時に、半人前も仕事の出来ぬ私が、一人前の俸給をもらつて納まつてをれるのは、たゞ私がアイヌだからである。
 私の様な者が、学者の会合へ交れたり、大きな会館で銀の匙やフオークで御馳走になつたりする。
 この幸福も、やつぱりたゞ私がアイヌだからである。
 私が若し和人であつたら、協会のあの仲間並に、あゝいふ手合と、あゝして暮すだけの事、誰がこんな殊遇を与へられよう。
 アイヌであつたからこそだ。
 待て、待て、「アイヌだから」といふ差別待遇を抗拒し、悲憤して来た自分ぢゃなかつたか?》

 これはあくまで金田一京助の筆によるものです。
 金田一は結構ドラマチックに、お涙頂戴に内容を「盛る」ので、その辺は考慮が必要ですが、この内容については、北斗が悩みを語ったことだと思います。
 北斗の同僚を「ああいう手合い」とか書いてしまうあたりも基本的には「いい人」だが、どこか配慮の足りない金田一京助らしい残念さがあります。


【決意】

 上京から1年が経ったころから、北斗は自分の置かれている立場に疑問を抱きはじめます。
 東京では、学者や文化人からチヤホヤされ、アイヌであるがゆえに優遇される。
 一方で、郷里では、差別や貧困に苦しむ同胞たちがいる。この矛盾に苦悩しはじめます。
 北斗は、安定した東京での生活を捨て、世話になった恩人や友人たちに別れを告げ、差別や貧困の待つ北海道に戻る決意をします。
 彼は、アイヌ民族の地位向上を自らの使命として定め、そのために一生を捧げることを決意したのでした。


【辞職】

 大正15年6月末をもって、北斗は東京府市場協会を辞します。
 1年と5ヶ月でした。
 辞職にともなって、協会の人々が北斗の送別会を行なっています。
 市場協会に縁が深い「自働道話」誌に、その時のことが書かれています。
 北斗は、市場協会の人々にも、辞職の理由を話していたようです。

《△アイヌ族の青年違星北斗君が、アイヌ族の根本的研究を思ひ立ち、市場協会を辞して、北海道に帰へらるゝことになったので、六月末日、一夕、違星君を招き、高田、額田、佐々木、高山の諸君と共に、四谷の三河屋で会食いたしました。》

 四谷の三河屋は老舗の牛鍋店です。
 参加メンバーの内、「額田」は額田真一。
 市場協会に北斗と同時に採用された大阪出身の青年で、北斗とは生涯の親友となりますが、彼も西川光次郎の「自働道話」の愛読者。
 送別会の主催が西川光次郎だとすると、市場協会の送別会ではなく、ではなく自働道話社の送別会の可能性もあります。


【「医文学」送別会】

 他にも送別会が開かれています。
 北斗が出入りしていた「医文学」誌にも別の送別会の記録があります。(後述)。
 「医文学」関係者が開いた送別会で、「アイヌ学会の人士やその他の人々」が出席とありますので、「医文学」の雑誌が開いたというより、金田一人脈の人々が開いたというべきかもしれません。
 「琉球の某文学士」も出席とありますが、これは伊波普猷です。
 アイヌ学会の人士というと、金田一京助の周辺の人々でしょう。
 中山太郎、岡村千秋、松宮春一郎あたりが出ていたのかもしれません。
 その他の人々がどのような人々だったのかは今となっては知りようがありませんが、北斗は自らの決意を宣言し、多くの人々の応援を受けて、北海道にもどるのでした。

【アイヌの一青年から】
 「医文学」大正15年9月号に、北斗からの手紙が掲載されています。
 手紙が書かれた日付は大正15年6月30日。
 まさに、西川光次郎が四谷の送別会を行ったその日です。
 少し長くなりますが、北斗が東京を去る直前の心境が綴られているので、全文を引きます。

 まずは医文学編集者、長尾折三(藻城)による紹介文

《アイヌの一青年から 藻城生

 アイヌに有為の一青年があり、違星滝次郎と呼び北斗と号する。
 私は松宮春一郎君を介して之を知り、曾て医文学社の小会にも招いたことがある。
 一昨年来東京に住してゐたが事に感じて帰国することゝなつた。
 この帰国には大なる意味があつて、喜ばしくもあるが、亦た悲しくもある。
 アイヌ学会の人士や其他の人々と共に心ばかりの祖道の宴を開いて帰道を送つた。
 此会には琉球の某文学士抔も参加されてゐた。
 其後左の如き手紙が届いたのでこゝに掲載する。
 その心事一斑を知ることが出来るであらう。》

 続いて北斗の手紙

《謹んで申し上げます。
 私しは一年と五ケ月を、東京に暮しました。誠に幸福でありました。これもみんな皆様の御同情と御祈の賜と感謝してゐます。
 私しは今度突然北海道に帰ることになりました。
 折角かげとなりひなたとなつて御鞭撻下さった皆様の御期待に叛くやうでありますが、どうぞ御許し下さいまして相不変(あいかわらず)御愛導をお願申します。
 申し上るまでもありませんが人類の奇蹟の如く、日本は二千五百八十六年の古より光は流れ輝いてゐます。
 建国の理想も着々として実現し、吾が北海道も二十世紀の文明を茲(ここ)に移し、アイヌは統一され、そして文化に浴し日本化して行く。
 それはたとへ建国の二千五年後で少く遅かったにしても、「彌や栄ゆる皇国」として皆様とこの光栄をともにいたしますことを悦びます。
 乍然この国に生れこの光栄を有してゐても過渡期にあるアイヌ同族(ウタリ)は、果して楽観すべき境遇にあるでせうか?
  昔の面影もどこへやら、精神は萎縮する、民族自身は(或は他からも)卑下する、誇るべき何物をも持ってゐない、そしてあの冷たい統計を凝視る、至る処に聴く「アイヌ」と云ふ言葉、それは「亡び行く者」「無智無気力」の代名詞の感があります、本当に残念なこと、お恥しいことであります。
 これも単に同族の不名誉であるばかりでなく我大日本の恥辱であることを思ふと真に大和民族に対し面目次第もないことであります。
 自然淘汰や運命と云ふ大きな力であるからどうすることも出来ませんが、私共は閑却されてゐた古習俗の中よりアイヌの誇を掘り出さねばなりません。
 今にアイヌは強き者の名となるの日を期してよい日本人の手本となることに努力せねばなりません。
 只だ古俗の研究はとうてい不可能也とされてゐる今日、誰かアイヌの中から己が自身を研究する者が出なければならないのであります。
 今の民族の弱さを悲しむ時は恩恵的や同情的ことにどうして愉快を感ぜられやう。
 アイヌを恥て外形的シャモになる者……又は逃げ隠れる者は祖先を侮辱する者である。
 不取敢(とりあえず)・今の最も大なる問題は「老人の死亡と古俗の消滅と密接な関係がある」から年寄の多い中に研究の歩を進めなければなりません。
 私しは伝説や瞑想の世界に憧憬てアイヌの私し共は最善を尽して出来るだけ大勢に調和することであります。
 それにはアイヌからすべての人材を送り出し、民族的にも国家的にも大いに貢献し幸福を増進せねばなりません。
 その為に昔のアイヌ、所謂、純粋が無くなるから無くなっても一向差しつかへないのであります。
 吾々は同化して行く事が大切の中の最も大切なものであると存じます。

 かふして同化はアイヌの存在も見分が付かなくなるであらう、それで何の不都合もない、けれど、過去の事実を永遠に葬てはいけない。
 吾ら祖先の持ってゐた、元始思想、其の説話、美しき瞑想、その祈り等、自分のもの己が誇を永い間わすれられてゐた、とこしへに消去らうとしたのを、金田一京助先生の手に依而(よって)危くも救はれた、私し共は衷心から感謝するものであります。
 十年の後には純然たるコタンに参ります、喜び勇んで参ります。
 それにしても何等の経験も予備知識もない貧弱な自分を省るとき、心細さを感ぜずには居られません、けれども私は信じます。
 東京の幸福より尊く。金もうけより愉快なことであります、そしてこれが私の唯一の使命であることを
 どうぞ皆様
 私しはかふして東京を去ります宜敷く御教導の程偏に御願申し上げる次第であります。
  大正十五年六月三十日             違星瀧次郎》


 壮絶な決意。
 「亡び行く」と言われるアイヌを救わねばならない。
 そのためにはまず、アイヌであることを恥じてシャモに化け、逃げ隠れしてはいけない。
 民族の誇りを取り戻すために、古俗の研究をアイヌ自身で行わなければならない。
 たとえ同化したとしても過去の事実、民族の誇りは葬ってはいけない。

 そして、美しくミステリアスな響きもある、北斗のこの宣言。

「十年の後には純然たるコタンに参ります、喜び勇んで参ります」。

 ああ、なんという決意でしょうか……24歳の「アイヌの一青年」でしかない違星滝次郎北斗は、この瞬間、アイヌという民族の未来を、たった一人で背負う覚悟をしたわけです。まるで基督の如くに。

「十年の後には、純然たるコタンに参ります。喜び勇んで参ります」というのは、穿ち過ぎかもしれないが、あるいは、この時、北斗は、自分が長生き出来ないことを覚悟していたのかもしれないとも思えます。
 10年。純然たるコタンとは……そういうことなのかもしれません。

 大正15年、東京を後にしようとしている違星北斗は、まだ「《亡び行くアイヌ》を救う」という志を立てたばかりです。

 和人たちは「アイヌは滅びる」という。
 しかし、北斗にはそれを受け容れ難かった。
 そして、北斗は、彼の言葉を借りると「北海道の中でも最も和人化の進んだ」余市のアイヌの現状しか知らない。
 余市のコタンは確かに和人との混淆が進んでいるが、他のコタンはのことは知らない。
 余市しか知らない自分は、自分は、アイヌ全体を代表し得ない、という部分があったのではないかと想像します。
 だからこそ、北斗はまず他のコタンの現状を見てみたい、アイヌの文化を学び直してみたいと思ったのだと思うのです。

 北斗が東京時代に、「同化止むなし」と考え、和人の前で発言しているのには、一つは和人の前でのポーズでもあり、もう一つはそういった、余市アイヌの状況しか知らず、北海道全体の状況が見えいなかったがために、余市の状況を北海道アイヌ全体の状況として捉えてしまっている部分があると思います。
 若いころの北斗は、たとえ同化がこのまますすんでも仕方ない、でもアイヌの文化や記録は遺さねばならないと考えました。しかし、彼の郷里・余市の状況が前提でしょう。たとえば、船が沈むとか、家が燃えているいった状況の時、何をあきらめ、何を残すか。
 若い頃の北斗には、同化してでも文化は残さなければいけないと思えたわけでしょう。
 しかし、東京で暮らし、アイヌの現状を遠くから客観的に見直してみて、その考えが変わったのだと推測します。
 その後、幌別や平取、白老など、各地のコタンを巡り、若いウタリと意見を交換した北斗は、狭い余市アイヌの現状のイメージではなく、全道のアイヌの現状をイメージできるようになって、「同化やむなし」の考え方は変化していきます。
 それは、ほぼ一年に書かれた「アイヌの姿」を読むとよくわかります。

【東京での北斗の働き】

 違星北斗はアイヌのために東京で何をしたか。
 北斗は労働しながら、勉強に励みましたが、一方的に学ぶだけでなく、東京の一流の知識人、文化人のほうも、北斗に会い、アイヌの現状を聞くことで、心を動かされ、感化・啓蒙されていることがわかります。
 こうして、北斗は世論にはたらきかけ、実際に小規模ではあるが、人と資本を動かすことに成功しています。この
 本人が自覚していたか、否かは別にして、北斗は東京でアイヌのスポークスマンとなり、キーパーソンにロビー活動(根回し)をする「ロビイスト」の役割を担っていたような 気がします。
 こういう、東京での働きは、本当はもっと検証され、評価されるべきだと思いますが、アイヌの運動史の中でも正当に評価されていない気がします。
 

 北斗は戦前、ただアイヌのために、当時の社会の中にアイヌの居場所を作ろうとし、民族の名誉を回復しようとして、そのために命までなげうちました。
 しかし、現代の価値観から見ると、違星北斗の言動は、当時の体制に迎合しすぎた、右寄りの発言があるようにも見えるかもしれません。
 それゆえに、恣意的にその若い発言を取り出して、それに快哉を叫ぶ者も出るし、その対極にいる人々には、その発言は地雷として機能し、さらに研究が遅れたのではないかと思います。
 これまで、ちゃんと研究がされてこなかったために、成長しつづける北斗の思想の流れも、把握することなく、ただ自分達の都合のいい言葉を取り出して利用されてしまうということがありました。
 そういう使われ方をされないためにも、時系列を追った北斗の言動の精細な検証が必要だと思います。

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>>その9に続く

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