道新記事についての所感
Tさんより、北海道新聞12日道東版夕刊に、北斗関連記事が掲載されているとのことを教えていただきました。
「【ピヤラ アイヌ民族の今】釧東高・山本教諭 アイヌ民族三大歌人を調査 (2013/02/12)」
(WEB上にもUPされていますので、こちらを御覧ください)。
「釧路東高で国語を教える山本悦也教諭(57)が三大歌人の作った歌を調べたところ、アイヌ民族ならではの視点で、自分たちの思いをうたった短歌が多数発見された。」
とのこと。
あらら。呆然。
「発見」っていわれても……。
違星北斗、バチラー八重子、森竹竹市の三人の短歌を「発見」とな。
講談社文芸文庫に入っている短歌を「発見」しちゃうんだ。
そりゃ、この先生にしてみれば「調査」して「発見」かもしれないけど……新聞で「発見」っていうのは違うんでないかな。
知ってる人はみんな知ってることですよね。
こういうのは、「調査」「発見」はなくて、「読書」っていうんじゃないのかな。
というか、「読書」による研究成果の「発表」ですよ。
まあ……。
この先生じゃなくて、記者の方に問題があるのかもしれないと思います。
文面から「ニワカ」臭がぷんぷんしたので、とりあえず間違い探しをしてみます。
まず、
【あまり知られていないが、明治期から昭和にかけ「アイヌ民族三大歌人」と呼ばれる人たちがいた】
明治は、さかのぼりすぎでしょう。「大正から昭和」というべき。
三人とも明治生まれだとしても、歌人として知られるようになったのは昭和五年以降です。北斗と竹市は明治が終わる頃にはまだ子供だし、八重子にしても明治期に歌を作っていたという記録はない。
そもそも、「アイヌ民族三大歌人」って括り方というのは、湯本喜作『アイヌの歌人』が出た1963年(昭和38年)以降じゃないかと思います。
それまではバチラー八重子と違星北斗の二人が突出していて、森竹竹市はそんなに知られているわけではなかったと思います。
【釧路東高で国語を教える山本悦也教諭(57)が三大歌人の作った歌を調べたところ、アイヌ民族ならではの視点で、自分たちの思いをうたった短歌が多数発見された。日本文化の象徴でもある短歌に当時のアイヌ民族はどんな思いを託したのか。探った。(荻野貴生)】
もちろん、「発見」っていうような、未知の歌ありません。全部、講談社文芸文庫の「現代アイヌ文学作品選」を一冊に入っているわけですし、この本の存在をしらなかったにせよ、図書館や古本屋でそれぞれの本を見つけて、それを読めばわかることでしょう。
それを「発見」って、どういうことなのか。ぬるすぎる。
なんていうか……これはこの先生よりも、記者が薄すぎたのかもしれないな。私が記者だったら、「あまり知られていない【アイヌ民族三大歌人】を紹介した」と書くでしょうね。
日本文化の象徴云々というのも、アレですよね。こういうい取り方をする人は昔から多くて、昭和5年に出た八重子の「若きウタリに」の序文で新島出が「女史が、祖先以来受け継いだところのアイヌの民族感情と、バチェラー老師の慈恩に導かれたキリスト教精神とを、敷島のやまと言葉に表現して」と書いているんです。
でも、あったりまえじゃないかと。
伝えるためには、伝えるという役目を果たせる道具を使わなきゃいけない。アイヌ語で伝える環境が「失われて」いて、日々日本語で生活しているのに、日本語で詠まなければ何語で詠むのか。
なのに言葉を奪った側の和人サイドが「アイヌなのに我らが古来の和歌を読んでいる!すごい!」みたいなのはどうなのかなあ、と。
他にも、こういう反応って結構あるんですよね。
まあ、「和歌」という呼称は、ないでしょう。「短歌」です。
それも、「敷島の大和言葉」を使いたかったわけでは決してなく、北斗は当時の最大のメディアであった「新聞」の中で、「ほぼ唯一、読者が自由に情報を発信できるコーナー」である「短歌欄」を使ったわけです。
自分の思いを、短文として発表したんです。ツイッターのように。
思い出したのですが、
「宮沢賢治が入っていた国柱会に違星北斗も入っていたことを発見した」という記事を書かれた学者さんがいて、その方が「アイヌの青年が仏教と関わりを持っていたとは興味深い」みたいなこと書いてるんですが、その時に思ったのは「あったりまえだろ! 北斗の家は祖父の代から禅宗だぞ!」と思ったのでした。
「アンタ、大正に生きるアイヌ・違星北斗をまるで妖精の国か、イーハトーブの住人かと思っとるのかと」。
新島出のような大学者もそうだし、今回の道新の記者も「日本文化の象徴」とか、そういう書き方をする。
なんだかなあ、といった感じです。
で、肝心の北斗のことですが、
【違星北斗は「『アイヌ研究したら金になるか』と聞く人に『金になるよ』とよく云(い)ってやった」など、直接的な表現で社会を批判する作品も多いが、病に思い悩む啄木的な切なさを感じさせる歌もある。
「病む故に、母が薪(まき)割るその音を、二階にて聞く淋(さび)しい俺だ」
「世の中は何が何やら知らぬども死ぬ事だけは確かなりけり」】
え? 「病む故に」の歌って、これは……
母が薪割る?
違星北斗の母って、小学生の時に死んでるんですけど……甚作さん、再婚したの?
それとも、ファンタジー? メルヘン?
奇跡?魔法?でお母さんが蘇って薪を割ってくれてるの?
……あのさあ。どうしてこうなるのかな。
これ、北斗の幼馴染の「中里篤治(凸天)」の短歌じゃないか。
どこを見て北斗の短歌だと思ったのかしらないけど、「違星北斗遺稿 コタン」は、1930年版、1984年版、1995年版、すべて「凸天」って署名があるよね。
だから、この「病む故に」の歌は、北斗のものではありません。
……
こういう適当な記事を見ると、なんていうか、言葉がなくなりますね。
道新の方にも訂正の依頼をしておきました。訂正するそうです。
(2013/02/23現在で、WEBはまだ変わっていないけど、道新の方には訂正文載ったのかな?)
興味深いのが、違星北斗の間違いが掲載されている記事のその隣の記事が、「アイヌ民族の教科書記述」に「整合性不足や事実誤認も」っていう記事なことなんですね。
ブーメランが横の記事に刺さっちゃった感じ。
いろいろ深いというか、ほろ苦いなあ。
で、まとめなんですが、
【山本教諭は調査の過程で3人に交友関係のあることを知った。例えば違星北斗は教会でバチラー八重子の講話を聞いて、感銘を受け、手紙のやりとりもしていた。
また、森竹竹市の遺稿集には次のような短歌が掲載されている。
「北斗です出した名刺に『瀧次郎(本名)』逢いたかったと堅く手握る」
これらの作品について山本教諭は「日本語を母国語としないアイヌ民族が1300年の伝統を持つ短歌を作ったことに大きな意義がある」と指摘。「作品は差別されてきたアイヌ民族の苦しみが実感できるもの。日本の植民地にされた台湾の人たちが『台湾万葉集』を出したのと同じで、『アイヌ万葉集』として評価されるべきものだ」と話している。
】
これがまとめですって。
3人に交流があったことは、いろんな本にも、北斗のウィキペディアにも書いてあることだし、ちょっと勉強すればわかることでしょう。
というか、「交流があった」んじゃないんです。
北斗が「交流があるようにした」んです。
違星北斗なき後、全道のアイヌは団結しようと動き始めます。それが北海道アイヌ協会という組織になっていくわけですよね。
北斗は、生前、主要人物たちに会って、団結をよびかけているんです。
まるで、北斗は「縫い針」のような存在です。
北斗は、道内のアイヌコタンをめぐり、糸のついた針のように、主要人物の心に穴をあけて、そこに糸を通して行きました。
彼の死後、針は無くなったけど、糸は残った。
吉田菊太郎、浦川太郎吉、八重子の弟である向井山雄、兄・違星梅太郎、知里幸恵の弟・知里真志保……北斗に影響された人々が、その残された糸を引っ張って、たぐっていったんですよ。そしたら、みんなつながっていった。
北斗がみんなをつなぎとめたんです。交流があったんじゃなく、北斗の存在があっての「交流」だったんだと思うんです。
ちょっとオーバーかもしれないんですが、私はそう思ってるんです。
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で、結局のところ結論は「日本語を母国語としないアイヌ民族が1300年の伝統を持つ短歌を作ったことに大きな意義がある」
って、そんなもんですか?
短歌は北斗にとっては道具であり、武器でしたが、それは、17歳の時に、自らを傷つけた敵方の凶器でもあったんですよ。
べつに1300年の伝統を持つ短歌をヨイショするんなら他でやればいいでしょう。かくいう私も大学で国文を勉強してましたから、和歌には和歌のすばらしさがあることは分かります。本棚には愛用のMY万葉集も、MY古事記もMY風土記もMY日本書紀もあります。自分のルーツにつながるものとして大好きです。僕にとっては日本語もルーツを示すものだから。
だけど、台湾人やアイヌがその和歌のすばらしさ、大和言葉の美しさのために短歌を使ったわけではないと思うんですよね。
それが日常使う「国語」だったから。
いわばツールなんだ。最も効率よく心象を表せる言語だったから。
そして、北斗の場合は「日本語しか使えなかった」から。
自分の言葉を表すには、それしかなかったから。
そして、短歌は、当時の最大のメディア「新聞」に数少ない読者発信のコーナー「投書欄」「短歌欄」「俳句欄」の中で、投書欄よりも載りやすく、俳句欄より情報量が多く、制約のない短歌を使うことになったのだと思います。
釧路の山本悦也先生、これが違星北斗研究会の山本由樹の意見です。反論あるならコメントいただければ。
そして、北海道新聞の荻野貴生さん。
北斗はね、新聞(北海タイムズ)のアイヌ侮蔑の短歌2首によって、心を深く傷つけられ、人生観すら変えられたんですよ。
上京中には、まだ無名だった北斗の東京での活躍をつたえ、差別体験を紹介する記事が、新聞(釧路新聞)に掲載されたりもしています。
そして、大きく成長した北斗は、こんどはその新聞(小樽新聞)に短歌を掲載することによって、アイヌ復興の狼煙を上げ、北斗のフォロアーとなった森竹竹市は、北斗の短歌をその小樽新聞で読んだんですよ。
北海タイムズ、釧路新聞、小樽新聞、全部、あなたの北海道新聞の前身でしょうが。
新聞は、北斗の、そして森竹竹市の「戦場」だったんだと思います。
道新の「ピヤラ」というのは、アイヌ文化を紹介するコーナーですよね。
こんなシキシマのヤマト文化バンザイな、しょっぱい結論でいいんですか? 戦前の新島出の「アイヌなのにわれわれの敷島の大和言葉で和歌を」っていう結論でいいんですか? 自分なら書き直してもらいますよ。
80年も「先祖返り」しないでほしいもんです。
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コメント
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違星北斗に関しての研究を興味深く読まさせていただいています。彼の短い生涯についていろいろ調べるのは大変だと思います。ご苦労様です。
一点、気になる点がございましたのでご指摘させていただきたく思います。キリスト教の役職者の名称ですが、聖公会(バチラー八重子が牧会した教会)は牧師であり、八重子の弟も神父ではなく、牧師となります。
神父はカトリック教会の役職で、その他の教会は聖公会、プロテスタント教会ともに教職者を牧師と呼びます。
日本の教会史を調べている者として、その町にあった教会がどこに所属するか調べる時に、牧師、神父がごっちゃになっていると混乱を起こすことがあるので、老婆心ながらご指摘させていただきます。
投稿: タマ | 2013年4月 8日 (月) 18時44分