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2013年2月10日 (日)

違星北斗の生涯(その6 上京編1 金田一京助と西川光次郎)

《違星北斗の生涯》 

(その6 上京編1 金田一京助と西川光次郎) 

 ※これは管理人がやっているツイッター「違星北斗bot」(@kotan_bot)をまとめたものです。

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 アイヌの歌人・違星北斗Botを作ってみました。違星北斗27年の生涯を、ツイートで追体験してみたいと思います。

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【大正14年】

 この年は、北斗の転機となる年です。
 2月に東京府市場協会に就職のため上京し、働きながら、当時の一流の知識人・文化人と多く出会って、その思想は刻々と変化していくことになります。

 また、文筆活動としては「にひはり」への俳句の投稿が主たるものになります。

 1月。
 上京が決まった北斗は上京前としては最後の「余市にひはり句会」に出席しています。
 その時に詠んだのが次の俳句。

   畑打ちや キャベツの根から出し若葉

 この畑打ちの句などは、畑仕事の実体験がなければ、詠めない句ではないかと思います。
 北斗は本業の漁業だけでなく、日常的に畑仕事もしていたんでしょうね。

 

【上京】

 大正14年2月、違星北斗は上京します。
 東京府市場協会の高見沢清が西川光次郎に「真面目な青年はいないか」と相談したことを受け、北斗を紹介しました。
 市場協会の役員・高見沢は、西川の修養思想に傾倒しており、協会に西川を呼んで講演をさせたりと、高見沢の市場協会と西川の自動道話社は深いつながりがありました。
 この時、北斗と一緒に紹介された同期が大阪の額田真一という青年で、この額田と北斗は上京中に親友というべき存在となります。

 北斗が事務員として就職することになった「東京府市場協会」とは、「米騒動」をきっかけに、流通の組織化と物価の安定を図る目的で設置された、「公設市場」を統括する組織です。東京府の管轄するものは、東京府下に39ヶ所(大正15年)ありました。
 一つの建物の中にさまざまな店が入っており、当時としては新しい業態でした。 
 この「公設市場」は、30代以上の人なら、よく知っている店舗の業態だと思います。スーパーマーケットやコンビニなどの影響で最近はあまり見られなくなりましたが、大正時代の「公設市場」は、最新の店舗形態だったんですね。
 また、今でも沖縄の公設市場は有名ですね。

 「東京府」とは、いまの東京都のことで、当時は東京・京都・大阪の三府がありました。昭和18年に東京府から「東京都」になりました。

 また、「東京市」とは、明治22年に15区でスタート、その後、東京の都市部が拡大するにしたがって、郊外を合併して、昭和22年に特別区22区になり、のちに23区となりました。 


【上京】

 北斗の上京は2月の半ばのことです。
 まず、まっすぐ向かったのは就職の世話をしてくれた西川光次郎のいる阿佐ヶ谷。
 その時の模様を、西川の妻・文子が書いています。

 「違星さんは(中略)北海道の余市から阿佐ヶ谷まで来るのに牛乳一合買うたきりで弁当は一度も買わずに来たほどの人です」

 北海道の余市から、東京の阿佐ヶ谷まで。

 現代でも鉄道で移動するとなると、相当の長旅ですが、当時は現在の比ではありません。
 丸2日はかかります。
 (現代でも、新幹線をつかわないと18時間、全部鈍行で来ると30時間以上かかります)。
 その間、一度も弁当を買わずに牛乳一本飲んだだけというのは、よっぽどです。弁当を買う金も節約したかったのだと思います。

 また、筆者が東京の中央線沿線に住むようになってわかりましたが、「東京」ではなく、「阿佐ヶ谷」と書いてあるのがミソだと思います。
 列車が東京の上野についても、そこからまず新宿に向かい、さらに西へ向かわなければならない。当時の阿佐ヶ谷は東京市外で、郊外の農村地帯といってもいい場所です。そこには「郊外の阿佐ヶ谷まで」というニュアンスもあると思います。

 北斗から金田一京助への手紙によると、上京が大正14年2月15日となっていますが、これが余市を出た日なのか、東京に着いた日なのかは不明です。
 上京後、数日は阿佐ヶ谷の西川光次郎宅で、同時採用の大阪の青年・額田真一とともに「自働道話」誌の編集を手伝っています。

 どうして、「自働道話」の編集を手伝うことになったのか。
 おそらく初出勤日まで日があったのと、この時、西川光次郎は不在で、文子が一人で編集していたのですが、子供の一人が神保院に入院していて、文子はそちらにも通わねばならないという大変な状況で、そこで愛読者でもある北斗と額田真一の手を借りたのだと思います。


【西川光次郎】

 北斗が出会った思想家のうち、最も早く接触したのが、西川光次郎。
 西川の出版する雑誌『自働道話』を北斗の恩師・奈良直弥が愛読いたのが縁で、西川が北海道へ行った際に、奈良先生を訪ね、その際に、北斗を紹介されたのでした。
 その後、北斗の上京するきっかけを作ることになります。

 西川光二郎は元は幸徳秋水片山潜らとともに日本最初の社会主義政党「日本社会党」を結成した活動した社会主義者でしたが、獄中で転向し、北斗と出会った頃にはおとなしい修養主義者となっていました。
 修養主義者というのも聞きなれない言葉ですが、社会のシステムを変革するよりも、個人が修養(勉強し、精神を向上させる)することにより、社会全体を変えていくべきだという考え、といえると思います。
  西川光次郎(光ニ郎)については、田中英夫「西川光二郎小伝」 が詳しいです。
 また、妻の西川文子も平民社出身で、婦人運動家として著名で、「平民社の女」 という自伝があります。

 西川は、北斗に就職の世話をし、東京における北斗の最初の身元引受人となりました。

【自働道話】

 北斗は、上京のきっかけを作ってくれた西川光次郎の「自働道話社」にさかんに出入りし、雑誌の編集なども手伝っていたようです。
 このあたりの経験は、後に北斗が雑誌を作ったり、文筆家として活動するようになるのに役立ったと思われます。

 「自働道話」はA5サイズの雑誌で、80ページぐらいの薄いもの。もちろん当時の雑誌なので、粗い印刷でカラーではありません。
 この雑誌は、いわゆる「修養」的な記事、たとえば海外名作の翻案、偉人伝、道徳といったものを、学のない人でもわかるように、噛み砕いて面白く読ませ、教養と人格の向上を促進させるというような雑誌でした。
 自働「童話」ではなく「道話」なのはこのためです。

 この変わった誌名はもともと「自働販売機」で販売しようと思ったためですが、結局自販機での発売は無しになりました。
 大正末にも自販機はありましたが、もちろん現在のような電気式ではなく、機械式のもので、コインを入れて、レバーか何かをヨイショと力入れて動かすと、ガシャンと商品が出るような、いわば、今のガチャガチャとか、トイレの紙の自販機みたいな半自動の物ででした。

 この雑誌の特徴は、誌面に読者の投稿が多数登場すること。一方的な雑誌ではなく、ある意味で今日のソーシャルメディア的な読者との交流が、誌面を創るようなアットホームな雑誌でもあり、西川も常連読者を足がかりに全国(樺太、朝鮮、台湾など含む)に講演旅行をしていました。

 北斗と出会ったのも、こういう巡講の途中です。北海道に訪れた西川光二郎は、北斗の恩師奈良先生を通じてすでに読者であった北斗と出会い、北斗や余市アイヌの勉強会「茶話笑楽会」、その会報「茶話誌」が記事にも登場します。

 この旅で西川の印象に強く残った北斗は、その縁で上京し就職することになったのです。


【額田真一】

 北斗とともに東京府市場協会に雇われた青年が額田真一です。大阪出身の青年で、彼も自働道話の熱心な読者。誌面にもよく登場していました。

 同期ということで北斗とは親しい友人となります。

 この額田真一は、死の間際まで文通を続けた、北斗の生涯の親友。
 北斗の死後も自働道話誌にたびたび登場していますが、詳細は不明です。
 北斗の同世代なので明治30年代生まれ、大阪出身。
 全国の額田さん、祖父様、曽祖父様にに真一さんはいらっしゃいませんでしょうか? 


【新宿界隈】

 北斗が東京で生活していたのは今の新宿近辺です。
 勤務先「東京府市場協会」の場所は四谷区三光町。
 現在の地名だと新宿5丁目、新宿ゴールデン街や花園神社のあるあたりです。公設市場を運営する組織ですが、北斗はそこで事務員として働くことになります。

 北斗は当初、市場協会の高見沢清の元に寄宿していたようで、上京後すぐの3月12日に金田一に送った手紙では、住所は「東京府豊多摩郡淀橋町字角筈316番地高見沢清様方」となっています。
 現在の西新宿4丁目、都庁や新宿中央公園よりちょっと西あたりです。 

 
 また、よく出入りしていた後藤静香の希望社のあったのが大久保です。
 当時は新宿も東京市外、いわば東京の「外」でした。
 関東大震災で東京市内が甚大な被害をうけ、人々は郊外へと移り住み、新宿や池袋のような郊外がターミナル駅として爆発的に発展した時代でした。

金田一京助

 北斗は、大正14年の2月半ばに上京していますが、その2月末か3月の初め頃に金田一京助を訪ねています。
 この日付は、北斗自身が金田一宛の手紙に書いているものです。
 北斗はアイヌ民族のことを勉強するには、まずアイヌ語研究の第一人者であった金田一を訪ねることだと考えました。
 北斗は金田一京助に会うことを、上京の目的の一つとしていたようです。当時、金田一は東京府下杉並町成宗に住んでいました。成宗は現在の杉並区成田周辺。西川光次郎のいた阿佐ヶ谷のすぐ南です。北斗が金田一を訪ねた時のことを、金田一が「違星青年」という随筆で書いています。

《五年前のある夕、日がとっぷり暮れてから、成宗の田圃をぐるぐるめぐって、私の門前へたどりついた未知の青年があった。
 出て逢うと、ああうれしい、やっとわかった。ではこれで失礼します。》

 北斗が金田一宅に着いたのは夜のことでした。

 《「誰です」と問うたら、「余市町から出て来たアイヌの青年、違星瀧次郎というものです」と答えて、午後三時頃、成宗の停留所へ降りてから、五時間ぶっ通しに成宗を一戸一戸あたって尋ね廻って、足が余りよごれて上れない、というのであったが、とにかく上ってもらった。》

 北斗は、午後3時に成宗の停車場で降り、5時間金田一宅を訪ねて歩きました。その際に田んぼに落ちて足がドロドロになってしまったそうです。当時の杉並町成宗は田園地帯でした。この不器用すぎる探し方や、その根気、金田一に遠慮するところなど、北斗の性格がにじみ出ていると思います。

 《これが、私の違星青年を見た最初である。
 西川光次郎氏の北遊の途次に知られ、その引で、市場協会の高見沢氏をたよって上京し、協会へ務めて四十余円を給せられながら真面目に働いている青年であったが、》

 当時の銀行員初任給が50~70円ですから40円は決して悪くありません。

 《アイヌに関する疑問を山ほど持って来て、何もかも私から合点しようとする真剣な熱烈な会談が、それから夜中まで続いたことであった。》

 
北斗は金田一京助にありったけの疑問をぶつけ、金田一はそれに丁寧に答えたのでしょう。以後、北斗は度々金田一を訪ねるようになります。

 北斗は北海道にいた時には知らなかったさまざまなことを、この東京府下・成宗での金田一との一晩の会談で知ることになります。
 特に大きかったのが、金田一が研究を通じて出会った知里幸恵や弟の真志保、バチラー八重子といった、先覚的な同族のことを聞くことができたことです。

知里幸恵

 北斗は、金田一に聞くまで、知里幸恵のことは知りませんでした。
 知里幸恵は、北斗と同世代のアイヌの女性で、金田一京助のアイヌ語研究を手伝い、彼の研究に多大な影響をあたえた才媛でした。
 『アイヌ神謡集』という美しい一冊の本を残し、19歳で亡くなりました。

 北斗は、知里幸恵の『アイヌ神謡集』に、衝撃を受け、後の北斗の思想自体も、この本の描き出したアイヌの世界に大きな影響をうけています。
 北斗の思想と幸恵の『アイヌ神謡集』についてはとても書ききれませんので、こちらを参考にして下さい。

【金田一再訪】

 北斗は最初の訪問のあと、3月12日に金田一に葉書を出し、また3月15日(日)に訪ねたいと書いています。
 本人の金田一への別の葉書によると、その後、頻繁に金田一宅を訪ねたようです。
 金田一には、アイヌ研究のことだけでなく、幼なじみの石川啄木のこともよく聞いたようだと余市の古田謙二が証言しています。

《北斗は、常軌を逸した啄木の行動に耐え、暖かく遇した金田一の人柄を敬っており、また「啄木の短歌は率直で好きだ」と語っていた》

とのこと。

【バチラー八重子】

 違星北斗は、上京してすぐに金田一京助を訪ね、そこで北海道に居ては知ることがなかった、「先覚者」であるアイヌの女性の話を聞きます。
 一人は、『アイヌ神謡集』を残して19歳で没した知里幸恵。
 もう一人が、英国人宣教師ジョン・バチラーの養女、バチラー八重子でした。

 (今日では「バチェラー」という表記が一般的ですが、北斗や八重子自身も使っていた「バチラー」と表記しています)。

 バチラー八重子は、明治17年生まれですから、北斗より17歳年上。
 有珠アイヌの有力者の娘として生まれ、英国聖公会のジョン・バチラーの養女となり、北海道で伝道師として活動していました。
 アイヌ語・日本語・英語を話す才媛です。
 北斗はすぐにバチラー八重子に、自分のことや、アイヌ学会のこと、アイヌに対して同情的な人々のことなどを手紙に書いて送りました。
 すると八重子から「どうかウタリグス(同族)のために自重して欲しい」という熱烈な返事が来ます。
 北斗のアイヌ復興の活動が「点」から「線」になった瞬間です。
 それまで、地元の余市で北斗が中心となり、同族たちと細々とやっていた活動が、皮肉なことに、東京に来てはじめて、別の地方のアイヌとの繋がりを生みました。
 金田一からは、北斗が心を動かされた『アイヌ神謡集』の知里幸恵の弟、知里真志保のことも聞き、帰道後に会っています。
 バチラー八重子との文通は、その後も続きます。
 翌大正15年の7月に北海道に戻った際には、一番に八重子の居た幌別教会に向かうことになります。


【バチラー八重子と短歌】

 バチラー八重子は昭和6年に『若きウタリに』という歌集を出しており、違星北斗、森竹竹市と並び、アイヌ三大歌人といわれています。
 それまで俳句を詠んでいた違星北斗が、バチラー八重子の影響で短歌を読み始めたという説があるようですが、これは間違いです。
 北斗は、上京前から短歌を詠んでいたことは、上京時の事を書いた伊波普猷や西川文子の記述からうかがえます。上京前の短歌は、反逆的な歌が多かったようです。
 上京前の北斗が短歌を創っていたという確証としては、もう一つ、北斗が上京中の大正15年3月5日の釧路新聞に、まだ有名になる前の北斗のことが紹介されています。北斗のノートが、道庁の役人に送られてきて、そこには「青年の告白で復讐心に燃えて居た時代にノートに書き付けた歌」が 「此の頃の感想を陳べた歌とを相添て道庁の知人の許に寄せて来たが是等は学校の先生、青年指導の任にある人々には何よりの参考資料だ」とあります。和人の復讐心に燃えていたのは、もちろん上京前のことですから、その短歌は上京前のものだと思われます。 」
 どういう経緯で北斗のノートが道庁の役人に渡ったかはわかりませんが、もしかしたら、前述の「東京アイヌ学会」での博文館の岡村千秋の「北海道の内務部長に自分の友人がいるが、この絵に皆で賛を書いたり署名をしたりして、奴におくってやろうじゃないか」発言と関係あるかもしれません。

【ウタリグス】

 金田一に呼ばれて「東京アイヌ学会」に出席した北斗は、そこで多くの人と出会い、親交を結びます。伊波普猷のところにもたびたび訪れ、その際には余市で作っていた同人誌「茶話誌」や金田一から、もしくは八重子からもらったであろう「ウタリグス」を持参しています。
 この「ウタリグス」とはは、英国聖公会のジョン・バチラーの伝道団の機関紙。
 ジョン・バチラーはアイヌへのキリスト教布教に力を尽くし、日・英・アイヌ語辞書を創ったことでも知られています。
 ウタリグスには、バチラー八重子の他、信者の若いアイヌたちが寄稿していました。
 北斗は、上京してからバチラー八重子の存在を知ったぐらいですので「ウタリグス」誌には馴染みはありませんでした。
 おそらく金田一か、あるいは八重子から入手したものでしょう。
 狭い余市コタンで小さな同人誌をやっていた北斗からは「ウタリグス」の活動はずいぶんと大規模なものに見えたでしょう。
 北斗は「ウタリグス」誌に大きな影響を受けました。ただし、同族の間に浸透していくキリスト教については、北斗は複雑な思いを抱いていたようで、彼は後に、「キリスト教ではアイヌは救えない」とクリスチャンのアイヌ女性に言い、生涯キリスト教とは微妙な距離を持ち続けました。

【にひはり2月号】

 上京した2月にも「にひはり」に短歌が掲載されています。

    魚洗ふ手真赤なり冬の水

【第2回東京アイヌ学会】

 北斗が2度目に金田一京助を訪れた大正14年3月15日(土)のわずか4日後、3月19日(木)、東京永楽町(現:大手町)の永楽倶楽部で「第二回東京アイヌ学会」が開かれました。

 金田一に誘われて、北斗も顔をだすことになるのですが、それが彼の運命 を変えていきます。

 この「アイヌ学会」は、金田一が中心となってやっているもので、其のメンバーは、アイヌ語やアイヌ文化の専門家は、ほとんど金田一のみといえると思います。
 その他のメンバーは、今日でいうところの民俗学者や言語学者です。
 もちろん、北斗以外には、アイヌは一人もいません。

 この「第2回アイヌ学会」の模様は「沖縄学」の第一人者である伊波普猷が詳細に書き残しています。

 《今回、金田一京助氏の
 「アイヌ研究」が出版されましたのを機会に久しぶりで本会を開催し金田一氏をお祝いすると同時に、本会の経過をお話致したいと存じます。御出席をお待ちします」
 というアイヌ学会からの通知を受取って、三月十九日の晩、永楽クラブにいって見ますと、アイヌ研究に熱心な二十名近くの会員が集っていました。
 晩餐は済んで、いよいよ講演が始まりました。
 博文館の中山太郎氏の挨拶があって、金田一君の「アイヌの現状」についての講演がありましたが、ほんとに花も実もある講演でした。
 同君は単にアイヌの言語や土俗の研究者であるばかりでなく、その内的生活・文化学的方面の研究に指を染めて居らるる篤学者で(中略)アイヌに対して多大な同情をもっている人です。
 今その話をかいつまんで見るとこうです》。

 ここから、金田一が出席者に語ったアイヌの現状を伊波普猷がまとめたものになります。
 曰く、アイヌが虐げられた民族であるがゆえに、疑心暗鬼にもなり、お互いに争いをして、民族としての団結を得られなかった、そこに食い詰めた商人や無法者など、我利我利の和人が入ってきて、漁場や土地を奪われ、疫病にやられ、酒害などによって自縄自縛に陥って、衰退していったのだ、と。
 さらに金田一は語ります。

 《ところが明治になってから、彼等の間に中里徳太郎という偉大な一人のアイヌが生れた。
 (中略)彼は率先して新時代の教育を受けアイヌの頽勢を挽回すべく奮闘した。
 ほかにアイヌの恩人と呼ぱれるバッチェラー師の感化を受けたクリスチャン・アイヌの一団があつて、『ウタリ・クス』という機関雑誌を発行してアイヌの為に気焔を吐いているが、これにはいくらかアンティジャパニーズの思想がほの見えている。
 それから近頃中里氏の部落の余市のアイヌの中から自覚した青年アイヌの一団が産声を挙げた。
 彼等はアイヌを恥とせず、アイヌから出発してよい日本人になろうとする連中で、『茶話誌』という機関雑誌を発行して、熱烈にアイヌ道を絶呼している。
 このグループの一人が先日突然自分を訪問して来た。
 二十五歳の青年で、違星滝次郎といって、『アイヌ神謡集』の著者知里幸恵女史を男にしたような自覚した青年である。
 今晩実は違星君に何か話して貰おうと思って、御同道を願ったのである。》

 ここで金田一の発表は終わり、伊波普猷の主観で見た記述に戻ります。

《この時、一同の視線は、この青年アイヌを物色しようとして、盛んに交叉されました。
 やがて金田一君の招きに応じて、自席を立ったアイヌは、晩餐の時、私の向いに座って、上品にホークとナイフとを動かしていた眉根が高く隆起し、眼が深く落ち込んでいて、私に奄美大島の人ではないかと思わせた青年でした。
 彼れは流暢な日本語で、しかも論理的な言表し方で、一時間ばかりウタリ・クス―吾等の同胞―について語り、少からぬ感動を一同に与えました。
 彼の演説の一半は「ウタリ・グスの先覚者中里徳太郎を偲びて」の題で彼自身の筆で発表させることにしましたから、ここには、ただその要領だけを紹介することにしましょう》。

 ここから、北斗の発表になります。

《「私は違星といふアイヌです。
 私が生れた所は札幌に近い余市といふアイヌの村落ですが、この村落は早く和人に接触したのと、そこから中里徳太郎といふ、アイヌきつての豪傑を出したのとで、アイヌの村落中で一番よく日本化した所です。
 (中略)私の母は若い時分に和人の家で下女奉公をしていましたので日本語が非常に上手でした。
 母はつとに学間の必要を感じて、家が貧乏であったにも拘らず、私を和人の小学校に入れました。
 この時、全校の児童中にアイヌの子供は三、四名しか居ませんでしたので、アイヌ、アイヌといって非常に侮蔑され、時偶なぐられることなどもありました。
 学校にいかないうちは、餓鬼大将であって、和人の子供などをいぢめて得意になっていた私は、学校へいってから急にいくぢなしになってしまいました。
 この迫害に堪え兼ねて、幾度か学校をやめようとしましたが、母の奨励によって、六ケ年間の苦しい学校生活に堪えることが出来ました。
 もう高等科へ入る勇気などはとてもありませんでした。
 私は地引網と鰊とを米櫃としていた父の手伝いをして、母がいつも教訓していた正直なアイヌとして一生をおくる決心をしました。
 けれどもいい漁場は大方和人のものになっていたので、生活の安定はとても得られませんでした。
 一方同族の状態を顧みますと、汗水を流してやっと開拓して得たと思う頃に、折角の野山は、もう和人に払い下げられて、路頭に迷っているアイヌも大勢いました。
 そこで私は北海道はもともとアイヌの故郷であるのに、この状態は何だといって、和人を怨み、遂に日本の国家を呪うようになりました。
 私はこれをどうにかしなければならないと思って、兎に角もっと学問をして偉くならなければならないと決心しました。
 それから私は漁猟のひまひまに、雑誌や書籍を読んで、自修することにしました。
 ある時、私は医学博士永井潜氏の論文の中に……一民族と他民族とが接触する時、恐ろしいのは鎗や刀や弾丸ではない、実に恐るべきは微生物の贈物である》

  北斗はこの永井潜の論文の中で、1803年に英人がタスマニヤ島に殖民した当時、6000人いた先住民が、73年後の1876年には最後の純タスマニヤ人が地球から一人残らず死滅してしまったこと、これが結核菌とアルコールの為であり、和人と接触したアイヌが同じ運命をたどりつつある、というのを読んで驚愕しました。

 
 《そして私は残っている一万五千のウタリ・クスの為に、一生を捧げる決心をしました。
 爾来私は言語風俗習慣の点に於て、和人と寸分も違はないやうになるのが気がきいてゐると考えて、事毎に模倣をこれ事としました。
 内地から来る観光団が余市にやって来て、その日本化しているのを見て、何だ、ちっとも違わないじゃないかと失望して帰るのを見て、幾度腹を立てたか知れません。
 こういう調子で、私はアイヌといわれるのを嫌い、アイヌ語をあやつるのを恥じたので、かんじんな母語を大方忘れてしまいました。
 ある晩、札幌の夜学校の終業式に列席していますと、ある先生が演説を始める前に、私の名を呼んで「違星君! 私の演説中に和人に対して便宜上あなた方をアイヌという名称で呼ばなければならない場合があるが、アイヌといった方がいいか、土人といった方がいいか、どちらがいい気持がするか」と、きかれたので、実はどちらも面白くないとは思いましたが「ええどちらでも差し支えありません」と答えましたものの、心中ひそかに自分が意気地のないのを恥じて、家に帰った後でさめざめと泣きました。
 アイヌにはもと「人間」とか「いい人間」とか「紳士」とかいう意味があるのに、何故自分はそういわれるのを嫌うだろう、五百年間にアイヌの本義が忘れられて、侮蔑の意味に使われているとしたら、殊更にアイヌという名称を避けずに、そのまま使いながら、自分が偉くなり、ウタリ・クスの位地を高めてアイヌの本来の意味を取り返すように努力したがいいではないか》

 この体験は、この伊波普猷の手によるものと、金田一京助の手によって書き残されたものがありますが、金田一版と伊波版の印象はかなり違います。
 伊波版は、このように帰宅後、さめざめと泣きますが、金田一版は、和人教師の気遣いに感謝し、反逆思想を改め、その場で演説まで始めます。
 どちらが正しいのか。どっちもあったことかもしれないですが、金田一の筆はやはりオーバーです。

 この「アイヌ学会」で北斗が行ったスピーチを、金田一京助と伊波普猷は、それぞれ違う受け取り方をして、違う文脈を作り上げています。
 岩手出身の金田一は《屈服と転向の物語》として。
 沖縄出身の伊波は《民族のアイデンティティの再定義の決意表明》として聞き取っているわけです。
 違星北斗の思想の流れは、《自ら「蝦夷の末裔」と自任しつつ自嘲する「金田一的なるもの」への接近》と、《そこからいかに脱却するかの模索》という二つの時期があったのではないかと思います。
 金田一は最後まで「師」ではありましたが、後者のために、さらに多くの師を求め続けることになります。
 

 《私はこの頃天下の耳目を聳動させている水平運動を尊敬していますが、私にはこの人達がヱタといふ名称を嫌う心理がよくわかります。
 けれどもこの人達がヱタという名称をそのまま使用されたら、もっと勇しいことであると思います。
 
 
 私は最初アイヌとして自覚した時、アイヌの恩人のバッチェラー先生の所に走ろうかと思いましたが、外国人にたよるのは日本人として面白くないような気がして、なるべくなら、ウタリ・クスに同情を寄せて下さる和人の所にいって教えを受けたいものと思って、ひかえることにしました。

  そういうところへ、金田一先生が、アイヌの内的生活の研究者で、アイヌに多大な同情を有って居られるということを聞いて、着京早々先生を訪問したが縁となり、今晩ここで皆様に御目にかかることが出来て、嬉しく存じている次第です。
 実は北海道にいた時分、 日本人の中にはアイヌに同情を寄せる人があるということを聞きましたので、土着心のない北海道移住民が日本人の代表者でないということに気がついて、私の過激思想は全くなくなり、今ではよい日本人となって、アイヌのため日本のために、何かやって見たいという気になっているのです》 
 

 これで、北斗のスピーチは終わりです。聴衆が金田一京助やアイヌ学会に出席している学者たちですので、北斗もそれを意識して喋っており、多少のリップサービスはあると思います。

 《一同は少からず感動しました。アイヌは五以上の数は数えることが出来ないなどと聞かされていた私たちの知識は、見事に粉砕されました。》

 あまりにひどい言い様ですが、伊波普猷のような帝大を出て言語学や民俗学をやる学者すら、このような誤った認識を持っていたわけですね。 

《これからこの青年アイヌを取囲んで座談が始まり、彼等の機関雑誌が机上に陳列されました。
 私は違星君に握手をして、私は君の郷里と反対の方向の琉球から来た伊波というものだが、君の気持は誰よりも私には能くわかる、といったら、非常に喜びました。
 中山氏が伊波君を除くの外、ここに居られる人々の血管の中には、違星君と同じ血液が流れている、といわれたので、否、私の血管の中にはかえって余計に流れているかも知れない、私の『古琉球』を見て御覧なさい、ベルツ博士デーデルライン博士や、その他二、三の学者は奄美群島や沖縄諸島の人民の血管の中に、アイヌの血液が流れているといっている」といったら、一同はくすくす笑いました。
 そして違星君は満足そうに笑っていました。
 あとで金田一君が「違星君は画も中々上手である」といって、アイヌの風俗をかいた墨絵を二枚程出しましたが、なるほどよく出来ていました。
 博文館の岡村千秋氏が「北海道の内務部長に自分の友人がいるが、この絵に皆で賛を書いたり署名をしたりして、奴におくってやろうじゃないか。
 そうしたら、アイヌに対する教育方針を一変するかも知れないから」といったので、中山氏が真っ先に筆を走らして「大正十四年三月十九日第二回東京アイヌ学会を開催し違星氏の講話を聴き遙かに在道一万五千のアイヌ同胞に敬意を表す」と書き一同の署名が終りました。》

 ここに出て来る中山氏は民俗学者の中山太郎です。(もちろん同名の政治家とは無関係)。
 中山の「日本巫女史」には北斗からの聞き取りも含まれています。

《私(伊波普猷)は「所見異所聞違此心同此理同」という文句を書添えました。
 適当な文句だと感心した人もありました。
 後で違星君が私の前にやって来て、その意味をききましたので、それは支那の国子監で琉球の学生の為に設けてあった特別教室の入口の両側に掲けてあった聯で、人種が異なり、言語が異なり風俗習慣が異っていても、人情や道理が異なる筈はない、それさえ同じければ、何処の人間でも同じ様に教えることが出来る、ということだと、説明してやりましたら、これは我々アイヌの為に特にいってくれたような文句だ、といって喜びました。》

 その時の寄せ書きが、これです。
 
 柳田国男の名前も見えます。
 日本の民俗学の黎明期の貴重な寄せ書きですね。
 このあと、中山太郎のように柳田と袂を分かつ人々が出てきますので、 北斗は、民俗学の古き良き、貴重な時代を体験したわけです。

 《会は十一時頃済みました。
 私はこの青年アイヌと話しながら帰りましたが、いい知己を得たといって喜んでいました。
 彼はその後二度私を訪問して、自分等の同族についてくわしく話してくれました。
 そしてその機関雑誌の『茶話誌』や『ウタリ・クス』を全部揃えて来て、見せてくれました。
 尋常小学の教育しか受けない者が、あんな文章を書くとはただ驚くの外ありません。
 この二誌に現われている青年アイヌの思想を調べて見ますと、時代が時代だからでもありましょうが、「沖縄青年雑誌」に現われている明治二十三年頃の東京沖縄青年の思想よりは遙に進んでいるようです。
 『茶話誌』創刊号に載っている違星君の宣言「アィヌとして」は実に堂々たる大文字です。
 それから『ウタリ・クス』の第三号に出ている向井山雄というアイヌの「彼と我と」という論説は、最も進んだアイヌの叫び声で、何処に出しても恥かしくない新しい思想だと思います。
 違星君の話によると、向井氏は基督教の神学校を出たアイヌであるとのことです。
 それから婦人の間にも中々偉い人が出ています。
 どこかのアイヌの酋長の娘で、バッチェラー博士の養女になっている八重子といふ人がありますが、この人はかつて米国にも渡ったことがあるので、英語が達者で日本語はそれ以上に達者だということです。
 この人は美術を解し、文芸を語り、中々趣味の多い人だそうですが、近頃同族の為に中等学校設立の必要を感じて、資金調達の運動に取りかかっているとのことです。
 彼女の「ウタリー姉妹の方々に」という檄文は、実に条理のたった立派な文章です。
 それから『ウタリ・クス』の姉妹雑誌に『小さき群』という文芸雑誌のあることも見逃してはなりません。
 こういうような雑誌は探したら、方々にあるかも知れない、と違星君はいっています。
 二年前郷土研究杜から炉辺叢書の一として『アイヌ神謡集』が出たことは御承知でしょう。
 この本の著者は、知里幸恵というアイヌのメノコで、旭川の女子職業学校を優等で卒業した才媛でしたが、大正十一年の九月に二十一歳を一期として空しく白玉楼中の人となりました。
 先達て違星君にあった時、この人のことを話しますと、実は東京に出て来るまで、アイヌの女性にこんな偉い人があったということを知りませんでした、実に借しいことをしました、といって涙ぐんでいました。
 そして違星君は此の人の墓が雑司ケ谷にあると聞いて、二三日中に墓参にいかなければならないといっていました。
 今日の青年アイヌは男女共、実に維新当時の志士のようなものです。
 互いに連絡を取りつつ、(中略)頽勢を挽回すべく誓っているようです。
 違星君はこないだ始めてバッチェラー八重子女史に手紙を出して、自分のことやアイヌ学会のことや、アイヌに対する同情者のことなどを書いて知らせたら、どうかウタリ・クスの為に自重してくれ、との熱烈な返事を貰ったといって、感激していました。
 私は彼に、雑誌を出して思想を宣伝するのもいい、著書をして、アイヌを紹介するのもいい、中等程度の学校を設立する運動をするのもいい、けれども君等の同族にとっての目下の急務は、同胞の間に這入り込んで、通俗講演をやることである。
 こういう啓蒙運動は、いわば鍬をもって士地を耕すようなもので、こうして一種の気分が出来た暁でなければ、君等が蒔く思想の種子は芽を出すものではないといいましたら、そういふことは始めて聞くが、是非そうしなければならないと思つている、けれども自分はアイヌ語を全く忘れてゐるので、さういふ肝腎な場合には、とても間に合はない、どうしたらいゝか、といつて、ひどく悲しみました。
 私は彼に『古琉球』を一部やりました。
 そして我々の同胞も、アイヌと同じく、虐げられたものだが、日支両国の間に介在したお蔭で、両文化を消化して、自家の個性を発揮させることが出来、その上幾多のよい指導者が輩出した為めに、漸く日本国民の仲問入りをして参政権まで獲得したが、三百年間の奴隷的生活に馴致された彼等は、その為に甚しくその性情を傷けられてヒステリックとなり、アイヌと同じように、外に対しては疑い深いと共に、内に対してはとにかく反目嫉視して、党争に日もこれ足らず、とうとう共倒れの状態となり、今やその経済生活も行き詰つて、国家の手で救済されなければならない羽目に陥っている、とにかくあの広土地にいながら、一万五千のアイヌが減少する傾向があるに対して、六十万の琉球人があの狭い土地でいやが上に繁殖していくのは、いい対照である、と話したら、彼は目を丸くして驚いていました。
 彼等の祖先は、私達の祖先がオモロをのこしたように、ユーカリという美しい詩をのこしています。
 そして今日のアイヌの村落も美わしい民謡が盛んにうたはれているとのことです。面白いことには、今日のアイヌが私たちと同じやうに和歌を作つてゐることです。
 バツチェラー八重子女史も和歌を詠じています。
 (中略) 私は青年アイヌの運動に多大な同情を有するものです。けれど世界の民族運動がその終焉に近いた頃に彼等がおくればせに雄々しくも最初から出発しようとするのを見て、一滴の涙なきを得ません。
 北斗君は『北海タィムス』が、アイヌの天国は酒に酔ってくたばる所にある、といったというので、怒っていましたが、私は一日も早く北海道が彼等の為に住み心地のいい楽土になって、彼等がその個性を十二分に発輝することが出来ることを祈ってやみません。立派な環境さえ与えたら、彼等の中から、詩人も学者も政治家も踵を接して出て来るだろうと思います。(後略)》

 
これは大正14年5月1日、伊波普猷が書いた『目覚めつつあるアイヌ種族』という文です。
 
伊波は 『奄美大島民族誌』の跋文に北斗の印象を書いています。

 「東京アイヌ学会」とは、アイヌの集まりではなく、金田一を始めとする、民俗学者・言語学者の集まりです。
 ただ、伊波普猷のみ、「沖縄」出身であり、彼のみ、他の学者と違って、自らの「民族」を背負っていたといえます。
 北斗が、アイヌ学会でこの伊波普猷に出会えたことは幸運といえると思います。そこに、民族を背負って自らの文化・言語を研究し、民族の地位向上に務める「先輩」がいたわけです。

 伊波普猷は、北斗の話を聞き、自らの故郷・琉球の人々に重ねます。
 同じような虐げられた歴史を持つ伊波のアドバイスは的確で、後に北斗が行う運動そのものといってもいいかもしれません。

 この大正14年3月19日に行われた「第二回東京アイヌ学会」での北斗の演説「ウタリ・クスの先覚者中里徳太郎氏を偲びて」は、彼自身の手によって書き残され、伊波の文と同じ「沖縄教育」(大正14年6月号)に掲載されています。
 この文は長らく幻の文章でしたが、所蔵されている沖縄県立博物館美術館の学芸員の方に見つけて頂き、見ることができました。長いので、こちらを参照してください。「ウタリ・クスの先覚者中里徳太郎氏を偲びて

【名士たちとの出会い】

 違星北斗は、東京アイヌ学会で、上のような演説をし、名士たちから拍手を受けます。
 ここで出会った名士で、特に交流の記録が残っているのが、伊波普猷、中山太郎(民俗学者)、岡村千秋(郷土研究社)、松宮春一郎(世界文庫刊行会主催)らでした。

 岡村千秋は知里幸恵の『アイヌ神謡集』を出版した会社の社主です。
 また、世界文庫刊行会の松宮春一郎は、ほとんど知られていない人物ですが、北斗にとっては重要な人物です。
 松宮は、北斗に自分の名刺を持たせて、いろんな人に紹介しています。
 その中の一人が、小説家の山中峯太郎。彼は後に北斗をモデルにした小説も書いています。
 山中峯太郎といえば「アジアの曙」「敵中横断三百里」他、戦争小説、冒険小説、探偵小説で知られる小説家ですが、彼は実は中国の革命に参加した経験がある、なかなか癖のある人物です。
 山中は北斗がした話をもとにヰボシという青年が登場する『民族』という小説を執筆しています。
 山中峯太郎の『民族』に出てくるヰボシ青年は、実際の違星北斗とは少し違うキャラクターです。
 成績優秀なアイヌ青年で、上京して東京の中学に留学しますが、最後には同族の気質から絶望して自殺します。
 昭和15年に陸軍の将校向け雑誌に書かれた小説ですが、あんまりすぎます。
 ところが、戦後、山中峯太郎は『民族』を書きなおして『コタンの娘』という小説を発表します。
 この中ではヰボシは死なず、同族たちに未来に希望をもつよう語って終わります。(参考)
 どちらも北斗をモデルに書かれた作品ですが、戦後の『コタンの娘』のほうが北斗が語りそうなことを語っています。
 この『コタンの娘』の前書で、山中峯太郎は次のように書いています。

《「世界聖典全集」を出版した松宮春一郎さんの名刺を持って、顔の黒い精悍な感じのする青年が、私をたづねて来た。
 松宮さんの名刺に、「アイヌの秀才青年ヰボシ君を紹介します。よろしくお話し下さい。」と、書かれてゐた。
 
ヰボシ君と私は、その後かなり親しくなった。
 アイヌ民族の事情についてさまざまな話をヰボシ君が聞かせてくれた。
 その話を材料にして私は「民族」を書いた。
 しかし出版すると発売禁止になった。
 今度それを書き改め、前には書けなかつたことを思うとおりに書きたしたので名前も改めたのである。》


 現在、『民族』『コタンの娘』とも入手困難です。図書館で古い本を借りるしかありません。
 著作権が切れてパブリックドメインになる2016年になれば、手軽に読めるようになるかもしれません。

 山中峯太郎以外にも、松宮春一郎の紹介で北斗と出会ったという人物がいます。
 『医文学』という雑誌を編集していた長尾折三(藻城)です。

《アイヌに有為の一青年があり、違星滝次郎と呼び北斗と号する。私は松宮春一郎君を介して之を知り、曾て医文学社の小会にも招いたことがある》

 『医文学』とは医学関係者による文学誌。
 北斗の文章も掲載されています。
 このように、北斗は金田一京助との出会いから、柳田国男を中心とした民俗学関係のそうそうたる学者や、出版関係者と知り合い、そこからさらに多くの知識人と出会い、さらに北斗は多くの宗教家・思想家・運動家とも出会います。


【高尾登山】

 北斗が出入りしていた自働道話社は、よくレクリエーションの読者との交流イベントを開催していました。
 大正14年3月21日、自働道話社は高尾山への遠足を実施し、上京1ヶ月の北斗も参加しています。以下、実際の記事です。

《「自働道話社遠足会 高尾登山」額田真一 〈自働道話大正十四年五月一三三号〉

 三月二十一日春季霊祭の日、自働道話社春の遠足会あり、高尾山に登りました。
 その日は風のなく、暖いほんとに選ばれたる晴天でした。
 集合地新宿駅には既に西川先生、島田氏、大久保氏が見えて居ました。
 それから日本排酒会の永田氏や今村氏も見えました。
 また見える筈の違星北斗君が、七時になっても見えず、どうした事かと案じて居ますと、 七時十二分発車のベルはケタタマシク鳴響いて止んでしまいました。
 もう駄目だと、諦めて、プラットホームに返す途端、違星氏が見えて大急ぎにて汽車に飛び込みました。
 石沢氏は吉祥寺駅から加わり、一行は氏のほかに中島氏と妹さんの礼子さんと十人でした。
 ことに礼子さんはまだ11歳と云う小さい方なのに足も大へん達者にて、始終一番で登られました。
 みんなは色々の木や、草を見て研究しました。
 又大木を見ては驚き顔にて仰ぐのでした。
 中には四人でもかかえ切れない程の太い杉もありました。
 頂上は大へん広い見晴で、俗に関八州他三州十一州の見下と云ひます。
 一行はその雄大な眺めに酔はされました。
 みんななんと云ふよい天気でせう、こんな暖い日はと云って大喜びでした。
 頂上の茶屋にて弁当を食べて、記念の写真を撮りました。

 (中略)

 また御出席下さる為に駅まで御越下さった方が他に御在りかと案じて居ます。
 実は目標に『高尾登山自働道話社』と前夜書いて置いたのですいたのですが、違星君に託して置いた為に、同君は発車間際に来られたので折角の準備も役に立たず、ことに先生からのご案内にて御越しになって、 先生の御顔を御存じない為に引返された方には何とも申訳有りません。
 次回から充分に用意もして皆様の御越を期待申して居ます。》

 と、早速北斗は大ポカをやらかします。
 この「電車に遅れる」というのは北斗のキャラクターのようなもので、一年半後に東京を後にする際も遅れそうになり、また余市に後藤静香の列車が通り過ぎる時にも、一日間違えて結局会えなかったということもあります。
 遠足の電車に遅れそうになるとか、金田一訪問の際に田んぼに落ちるとか、そういうドン臭いエピソードが、北斗のもう一つの側面です。
 ドジで、愚直で、不器用で、汗みどろドロだらけ、傷だらけになっても、目的のためには止まらない。
 吹雪の中、空腹でも歩き続ける。それが違星北斗です。

 この遠足は、北斗にとってはどれだけ楽しかったか。
 北斗は差別と貧困の中で、苦しく辛い小学生時代をすごし、卒業後は漁師、出稼ぎとして働きづめ。
 そんな北斗にとって、東京はまるで別世界でした。
 あれほど苦しんだアイヌ差別はなくなり、名士善男善女に一人の人間として同等に扱われる。
 小学校時代に遠足があったとしても、北海道では和人の差別の中で、過酷な遠足だったでしょう。
 しかし、この遠足では、教養ある上品な人々とともに、和気あいあいと楽しく過ごしました。
 北斗はこの遠足で別世界を実感し、どれほど解放され、救われ、喜びを感じたことでしょう。
 北斗は別天地・東京で戸惑いながらも、金田一や西川といった恩人から紹介を受けたさまざまな名士・著名人を訪ね歩き、その知識や見識、思想を吸収していきます。
 ただ彼には絶対にブレない一つのテーマがあり、すべての勉強はそのためでした。
 ただ「アイヌの未来」を明るいものにするために。

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>>その7に続く

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