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2013年9月 7日 (土)

「アイヌコタンの医師・高橋房次の生涯』

 去る8月23日に、東京八重洲のアイヌ文化交流センターで行われた「アイヌ文化普及啓発セミナー」のうち、「アイヌコタンの医師・高橋房次の生涯』に参加してきました。

 登壇されたのが、山本融定先生。

 かつて、違星北斗の白老での足取りや森竹竹市との関係を調べるために白老に行った時、詳しい方がいらっしゃるとのことで苫小牧でお話をお聞きしたのが山本先生でした。

 その山本先生から、東京でセミナーに登壇するというお知らせをいただき、平日だったのですが、ちょうど遅めの夏休みを取っていたので、参加することができました。

 

 今回のテーマの「高橋房次」は、「コタンのシュバイツァー」と呼ばれる仁医。違星北斗とも面識があります。

 日露戦争に軍医として従軍し、その後小樽、青森、新冠などで勤務した後、38歳の時に札幌で開業。

 40歳で北海道庁立白老病院に院長として白老に赴任します。

 以後、白老で生涯のほとんどを過ごし、地域医療、とりわけ白老のアイヌコタンの人々の健康維持に力を尽くしました。

 知里真志保は高橋医師のことを次のように語っています。

「アイヌにとって、まさに宿命ともいうべき結核をはじめ、眼疾、内臓疾患、その他悪性の病気が多く、氏は昔ながらの因習にとらわれている一人一人の患者を、根気よく説得し治療した。
 
患者の治療にあたっては、いつも温かく、高橋氏はただの一度も患者を落胆させることなく、どうせ行かなくてはならないのだし、行くからには一分一秒早く出かけて、患者を喜ばしてやろうと、病床に呻吟し、高橋氏の到来を待ちかねる患者の身になって終始した」

 「私は、氏の残された足跡を振り返り、その偉大さに驚くとともに、氏が白老一円にまかれたところの、”善意の種子”がいたるところで成長し、社会生活の中にとけこんでいるのを見て、改めて白老のシュバイツァー『高橋房次』の名を認識させられるのである。」(『日本』昭和34年12月)

 ※山本融定先生作成のセミナー資料より引用。

 

 この高橋先生と北斗の接点を示す文章は

 「自働道話」昭和三年四月号「手紙の中から」に掲載された北斗の手紙。

 とても寒くて困ります
 こゝは白老村です。三年ぶりで来てみれば親しい友は逝れ(ママ)てゐるし友人一人はまた追分駅に出てゐて不在だし 全く淋しい。
 土人学校が新校舎になってゐたのだけは少し嬉しかった。山本先生も留守高橋土人病院長も留守と云ふので一層物足りない。(後略)

 ここに登場する「高橋土人病院長」が、高橋房次のことです。

 昭和3年、北斗は白老を訪問しますが、友人の豊年健治は死に、森竹竹市には仕事で会えず、山本先生(山本儀三郎・白老第二小学校校長)とも、高橋房次とも会えませんでした。北斗の恩師である奈良直彌は昔この学校の校長をしており、山本儀三郎は5代目の校長になるそうです。北斗と山本儀三郎との最初の出会いは、大正15年に東京から戻ってきて、ホロベツ(登別)に居た時ですね。この頃に北斗は、アイヌ子弟の多い小学校に「子供の道話」を配布していて、その配布先のリストの中に、白老の山本儀三郎先生の名前があります。

 北斗が高橋医師に出会ったのも、このころでしょう。

 

 この高橋房次氏の生涯のセミナー、非常に勉強になりました。

 また、同じ日にもう一つ、山岸さんが「アイヌの植物利用」というセミナーも拝見しまして、こちらもすごく勉強になりました。

 八重洲にこういう施設があることは知っていたのですが、なかなか行く機会がありませんでしたので、今回来れたのはよかったと思います。


 

 

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