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2018年6月 1日 (金)

違星北斗の生涯(その12 放浪編)

《違星北斗の生涯》 

(その12 放浪編) 

 ※これは管理人がやっているツイッター「違星北斗bot」(@kotan_bot)をまとめたものです。

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 アイヌの歌人・違星北斗Botを作ってみました。違星北斗27年の生涯を、ツイートで追体験してみたいと思います。

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【売薬行商へ】
 小樽新聞を主な活躍の場として、アイヌの歌人、そして郷土研究者として、注目されるようになった北斗ですが、昭和2年の年末から、また新しいことを始めます。

 それが、売薬行商でした。
 薬を売り歩きながら、北海道各地のコタンをめぐり、全道にわたるネットワークをつくろう考えたのでした。 

【最後の平取】

 昭和2年夏、自らの思想の結晶ともいうべき「アイヌの姿」を同人誌「コタン」を創ったあと、おそらく平取で二度目に夏をすごします。
 北斗は、バチラー八重子とともに幼稚園を手伝い、吉田ハナととも、蚕を飼ったり、林檎園をつくろうとしたりとコタンの殖産に努めました。

【吉田ハナ】

 北斗が平取で一緒に過ごしたという吉田ハナについては、複数の異なる証言があります。
 北斗の筆による吉田ハナへの手紙が残っており、藤本英夫氏は北斗と同世代の女性と見ていますが、別の証言では、バチラー八重子より年上の宣教婦だというものもあります。
 私は同名の別人かと思います。

【小樽新聞】

 昭和2年10月3日、はじめて北斗の短歌4首が、小樽新聞に掲載されます。

 以後、小樽新聞は北斗の主な活躍の舞台となり、そこから小樽歌壇の人々と親交を結び、かつてないアイヌの歌人として、衝撃をもって迎えられ、じょじょに活動の場を広げていくことになります。

【10/3掲載『小樽新聞』】

 アイヌッ! とただ一言が何よりの侮辱となって燃える憤怒だ/
 獰猛な面魂をよそにして弱く淋しいアイヌのこゝろ/
 ホロベツの浜のはまなす咲き匂ひエサンの山は遠くかすんで/
 伝説のベンケイナッポの磯の上にかもめないてた秋晴れの朝

【フゴッペ壁画】

 昭和2年10月8日 蘭島駅の保線工夫がフゴッペ bit.ly/10SLSLd という小山に壁画と、人の顔のように見える石偶を発見し話題となります。
 当時、余市近辺の遺跡の調査を行なっていた北斗も、壁画に関心を寄せ、後に論文を書くことになります。

【フゴッペ新聞記事】

 このフゴッペ壁画は、戦後に発見され、現在は保存処理をされている「フゴッペ洞窟」とは厳密にいえば異なるものですが、近接した場所にあるため、無関係とは考えられません。

 壁画の方は現存していません。

 戦前の発見記事→ bit.ly/10SMArM

【10/25掲載『小樽新聞』】

 シリバ山もすそにからむ波だけは昔も今にかはりはしない/
 暦なくとも鮭くる時を秋としたコタンの昔慕はしくなる/
 握り飯腰にぶらさげ出る朝のコタンの空でなく鳶の声/
 シャモといふ小さなカラで化石した優越感でアイヌ見にくる/
 シャモといふ優越感でアイヌをば感傷的に歌をよむ、やから/
 人間の誇は何も怖れない今ぞアイヌのこの声を聞け/
 俺はただ「アイヌである」と自覚して正しき道をふめばいゝのだ

【10/28 掲載『小樽新聞』】

 「何ッ! 糞でも喰へ!」と剛放にどなった後の無気味な沈黙/
 いとせめて酒に親しむ同族にこの上ともに酒のませたい/
 単純な民族性を深刻にマキリで刻むアイヌの細工/
 たち悪くなれとのことが今の世に生きよといへることに似てゐる/
 開拓の功労者てふ名のかげに脅威のアイヌおのゝいてゐる/
 同族の絶えて久しく古平のコタンのあとに心ひかれる/
 アヌタリの墓地であったといふ山もとむらふものない熊笹の藪

【余市短歌会】

 小樽新聞での掲載が続く北斗は、余市短歌会の集会に出席し、そこで並木凡平、稲畑笑児らと知り合います。

 口語自由短歌を標榜する並木は、北斗の短歌の持つ威力に驚愕し、北斗に惚れ込んで自らの仲間に引き入れます。

 稲畑は同世代の歌人ですが、北斗に心酔していた節があります。

 この歌会で、北斗は「痛快に『俺はアイヌだ』と宣言し正義の前に立った確信」という歌を読み、稲畑笑治と余市名産の林檎(北斗のお土産でしょう)をかじりながら語り合ったといいます。

 笑治とは特に親交があつく、北斗は自宅に招いたりもしているようです。

 この北斗の登場は並木凡平にとっては衝撃だったようで、北斗の堂々とした物腰や態度、理知的な話しぶり、そして爆発力のある短歌に恐れいり、またアイヌに対する偏見を恥じ入り、過去に詠んだアイヌを上から目線で憐憫した短歌を詠んだことを反省し、以後、北斗の短歌の最大の理解者となります。

【昭和2年11月29日】

 北斗はこの日小樽の郷土史家である橋本暁尚宛にハガキを送ります。

 が、肝心の内容についてはわかっていません。というのも実はヤフオクで出品されていたもので、惜しくも落札できませんでした。

 一緒に出品されてたのは、なんと幻のガリ版同人誌「コタン」の現物!悔しい! 

【新短歌時代】

 昭和2年冬、いよいよ、北斗の歌人としての活躍がはじまります。

 余市短歌会で北斗と出会った並木凡平が、北斗を紹介したのです。

 新創刊の口語短歌誌「新短歌時代」の予告号に北斗の短歌4首が掲載されます。

【『新短歌時代』(予告号)】

 暦なくとも鮭来る時を秋としたコタンの昔 思ひ出される/

 幽谷に風うそぶいて黄もみぢが―――苔踏んでゆく肩にふりくる/

 ニギリメシ腰にぶらさげ出る朝のコタンの空でなく鳶の声/

 桂の葉のない梢 天を突き日高の山に冬がせまった

【11/7『小樽新聞』】

 痛快に「俺はアイヌだ」と宣言し正義の前に立った確信 

【西田彰三】

 『小樽新聞』11/14に、フゴッペの壁画の発見記事が掲載され、小樽高商の西田彰三教授が、その解説を行います。

 翌11/15には同じ西田彰三の連載「フゴッペの古代文字並にマスクについて」が7回にわたって掲載されています。

 北斗はこの連載を読み、違和感を感じます。

 北斗は西田教授が「フゴッペ壁画はアイヌの手によるものである」という結論に対して、そうではないと考え、アイヌである自身の立場から反論をしたいと、自らの考えを論文にまとめ、同じ小樽新聞で連載します。

 それが「疑うべきフゴッペの遺跡」です。 bit.ly/TxtkxS

 北斗の反論に対して、西田教授は「遺跡はアイヌのものだ」とその後、長期にわたって反論を繰り返し、「反論のための反論はみっともないだけだ」と北斗を呆れさせています。

 遺跡は、適切な保存処理も行われず、摩耗してしまいました。

 ただ、戦後すぐ近くの洞窟で壁画が見つかっています。

【11/21『小樽新聞』】

 余市川その源は清いものをこゝろにもなく濁る川下/

 岸は埋立川には橋がかゝるのにアイヌの家がまた消えてゆく/

 ひら/\と散ったひと葉に冷やかな秋が生きてたアコロコタン

【売薬行商】

 昭和2年12月頃、北斗は薬の行商を始めます。

 目的は「コタン巡視察」つまり、道内各地を薬を売り歩きながら、アイヌ文化の研究と、各地のコタンの同族とのネットワークをつくることでした。

 売る薬は小樽の薬屋から仕入れた「大能膏」というガッチャキ(痔)の薬です。

 それとは別に、余市の郷土史家の方に「このガッチャキの薬は、北斗の祖母が薬を煎じていて作ったもので、北斗もそれを売っていた」というのを聞いたことがあります。

 ただ、北斗自身が言っているので、おそらく小樽の「大能膏」という薬なのでしょう。

 北斗の売薬の証言としては
 「箕笠をかぶり、大きな行李を背負い、秋の雷電峠を歩いていた」
 「簑笠をかぶり、行商に向かう北斗が訪ねてきて、暫くの別れにと尺八で『別れの曲』を吹いた」
 といったものがあります。「秋」ということは、もうすこし前から行商していたのかもしれません。

 12月下旬頃には、美国、古平、湯内などの余市の郡部をめぐって帰宅しています。

 北斗は「ナニシロ今度こそは本当に自由の身になったものですから大いに年来の希望に向つて突進出来ます」と、心境を語っています。

【北海道人】

 北斗は、小樽新聞や新短歌時代以外の媒体にも登場しはじめます。

 12月には「北海道人」という雑誌に短歌が6首掲載されています。

 アイヌ!と ただ一言がなによりの 侮蔑となって燃える憤怒だ

 「ナニッ! 糞でも喰へ」と 豪放に どなった後の寂しい沈黙

 限りなきその寂寥をせめてもの 悲惨な酒にまぎらさうとする

 獰猛な面魂をよそにして 弱い淋しいアイヌの心

 単純な民族性を深刻に マキリで刻むアイヌの細工

 たち悪るくなれとのことが今の世に 生きよといへることに似てゐる

【12月『新短歌時代』(創刊号)】

 創刊号には、並木凡平による北斗の紹介記事が掲載されています。

「いま北斗君の歌を見て全く恥入ったことを白状する、歌はたしかに昂奮であるが、これほど胸に強くせまつたものはなかった」
「以上挙げた四首は、われわれにとって強い爆弾であると同時に亡びゆく民族にとって、救世主としての彼の出現に驚異したのである」

 と、北斗の歌を評し、また

「私は少からず感激に打たれた、語り出す一語一句は、われわれ仲間よりなほ理知と謙譲の奥床しさがあった」

 と北斗の印象を語っています。bit.ly/14dLxT2

 よっぽど衝撃的だったのか、その号の座談会でも、北斗のことが話題になっています。

 そこでも、並木凡平は北斗を高く評価し、また稲畑が北斗に惹かれているのがわかります。

 一方で、他の歌人は否定的、もしくは蔑視的に見ている様子も見て取れます。
 bit.ly/14dMjQ9

 北斗は、その後、並木凡平の家「凡平庵」を訪ねたりもしているようです。

【12月『新短歌時代』(創刊号)】

 しかたなくあきらめるといふこゝろあはれアイヌを亡したこゝろ/

 アイヌ相手に金もうけする店だけが大きくなってコタンさびれた/

 強いもの! それはアイヌの名であった昔しに恥よさめよ同族 /

 熊の胆で助かったのでその子に熊雄と名づけた人もあります/

 正直なアイヌをだましたシャモをこそ憫なものとゆるすこの頃/

 勇敢を好み悲哀を愛してたアイヌよアイヌ今どこにゐる

【小樽新聞12/4】

 北斗に惚れ込んだ並木凡平は、小樽新聞でも、北斗を大きく紹介します。

 昭和2年12月4日には、顔写真入りで

「歌壇の彗星 今ぞたつ アイヌの歌人 亡びゆく同族の救世主 余市の違星北斗君」

と大々的に紹介しています。bit.ly/14dNS0o

【フゴッペ論文】

 小樽新聞12月4日から年をまたいだ1月10日まで、全6回にわたって、北斗のフゴッペ遺跡への見解が述べられました。

 この連載を見て北斗を知った同族も多く、のちに北斗と同じく「アイヌの歌人」の一人に数えられる森竹竹市も、この記事を呼んで北斗を知ったそうです。

【我が家名】

 北斗が自らのルーツを語った「我が家名」は、このフゴッペ論文の連載中に、「閑話休題」として発表されたもの。

 ここで北斗の祖父のことや、祖先の名、イカシシロシ(家紋)について語られています。

 bit.ly/14dPmb1

【小樽新聞12/30】

 売薬の行商人に化けてゐる俺の姿をしげしげとみる/
 売薬はいかがでございと人のゐない峠で大きな声出してみる/
 田舎者の好奇心にうまく売ってゆく呼吸も少し覚えた薬屋/
 ガッチャキの行商薬屋のホヤホヤだ吠えてくれるなクロは良い犬

【希望社】

 昭和2年12月26日の日記に「希望社から10円と『心の日記』に『カレンダー』を送って貰う」という記述があります。

 心の日記とは、後藤静香の希望社が出していた日記帳で、各ページに後藤静香の金言入り。

 北斗の日記の数冊は「心の日記」帳に書かれたようですが、残っていません。

【除夜の鐘】

 昭和3年の大晦日は、北斗は除夜の鐘をついています。

 俺のつくこの鐘の音に新年が生れて来るか精一っぱいつく

 新生の願は叶へと渾身の力を除夜の鐘にうちこむ

【昭和3(1928)年】

 正月に北斗は、小樽に行き、何人かの人を訪ねます。

 新短歌時代の同人、福田義正を訪ねて親交を深め、また、高根一路を訪ねてもいますが、こちらは会えませんでした。

 またフゴッペ論争の相手である西田教授を訪ねて、会ってもらえなかったりしています。

【違星家聞き取り】

 また、余市の自宅にアイヌ文化研究者の河野常吉・広道親子がアイヌ文化や伝承についての調査に来ています。

 この時の内容は、河野常吉の研究資料に残っています。bit.ly/WAmDrr

【バチラー八重子からの手紙】

 この年、1/4、バチラー八重子から北斗に当てた手紙がみつかっています。

 内容は年賀の挨拶や、結核に倒れた北斗の親友・中里篤治の病状を教えて欲しい、といったことです。

 篤治はこのころ結核が進んでいましたが、結果的には北斗よりも少し長生きしています。

【淋しい元気】

 新短歌時代昭和3年1月号には、北斗の幼少期から青年期のことを語った「淋しい元気」が掲載されています。bit.ly/lAgPaB

【行商へ】

 1月10日頃、北斗は再び売薬行商に出ます。

 余市を出て、1月14日には千歳を訪ねていますが、雪の中で宿が確保できず、難儀をしたようすが日記に書かれています。

【『新短歌時代』昭和3年2月号】

 俺がつくこの鐘の音に新春が生れてくるか精一ぱいにつく/

 新生の願ひ叶へとこんしんの力を除夜の鐘にうちこむ/

 高利貸の冷い言葉が耳そこに残ってるのでねむられない夜/

 詮じつめればつかみどこないことだのに淋しい心が一ぱいだ冬

【『自働道話』昭和3年2月号】

 コタン視察の予定や、新年の決意などを、東京時代に世話になった西川光次郎に語っています。

 塞翁の馬にもあはで年暮れの馬にもあはで年暮れ/

 俺のつくこの鐘の音に新年が生れて来るか精一っぱいつく/

 新生の願は叶へと渾身の力を除夜の鐘にうちこむ

【友の死】

 昭和3年2月末、北斗は3年ぶりに白老を訪ねます。

 そこで、友人の豊年健治が死んでいたことを知り、また会いたいと思っていた森竹竹市や、アイヌ子弟の教育で高名な山本儀三郎教師や、コタンのシュバイツァーと呼ばれた名医高橋房次らとも会えず落胆します。

【森竹竹市の短歌】

 北斗とともにアイヌの歌人として有名な森竹竹市は、北斗と会った時のことを短歌で詠んでいます。

 「フゴッペの古代の文字に疑問持ち所信の反論新聞で読む」

 「違星北斗初めて知った君の名を偉いウタリと偲ぶ面影」

 「北斗です出した名刺に『滝次郎』逢いたかったと堅く手握る」

【知里真志保と再会】

 2月末、北斗は、幌別で知里幸恵の弟の真志保と会います。

 二人はおそらく3年前、北斗が東京から北海道に戻り、幌別のバチラー教会にいた頃に会い、以後も親交を続けていました。

 北斗は、この日知里真志保と同宿したことを、平取の吉田はな子にハガキで書き送っています。

【アイヌの道話・烏と翁】

 昭和3年2月27日の小樽新聞に北斗が筆記した道話「烏(パシクル)と翁(イカシ)」が掲載。bit.ly/R1ofLm

【小樽新聞2/27】

 夕陽がまばゆくそめた石狩の雪の平野をひた走る汽車/

 行商がやたらにいやな一ん日よ金のないのが気になってゝも/

 ひるめしも食はずに夜の旅もするうれない薬に声を絞って/

 金ためたただそれだけの先生を感心してるコタンの人だち/

 酔ひどれのアイヌを見れば俺ながら義憤も消えて憎しみのわく

【豊年健治君】

 昭和3年2月29日、北斗は友人豊年健治の墓に参って、次のような感想を残しています。

「何とはなしに無常の感に打たれる。豊年君は死んで了ったのだ。私達もいつかは死ぬんだ」

 …その一月半後には、北斗も発病してしまうわけで、なんとも象徴的です。

【『志づく』第3巻1号】

 悪いもの降りましたネイと 挨拶する 北海道の雪の朝方/

 シリバ山 もしそにからむ波のみが昔を今に ひるかへすかな/

 正直なアイヌだましたシャモをこそ憫れなものと ゆるす此頃/

 久々で熊がとれたで熊の肉何年ぶりで食ふたうまさよ/

 コタンからコタンを巡るも嬉しけれ絵の旅詩の旅伝説の旅

【室蘭中学校】

 この頃、北斗は室蘭中学に「民族学研究家」として迎えられたといいます。

 北斗が知里真志保の恩師である岩倉友八と話した際、「真志保は学者になるのに適した頭脳を持っている」と岩倉が高く評価したことを、北斗が真志保に伝え、それがきっかけで真志保が学者をめざしたという。

【日高再訪】

 3月ごろ、北斗は胆振に続いて、日高を巡り、その帰りに雪にまみれて村上如月のところに現れ、「同族の為に、国史の為に、アイヌ民族文化の跡を、アイヌの手に依つの研鑽したい」と語り、また、体調不良や疲れがあると言ったていたようです。

【歌誌『志づく』】

 昭和3年4月3日、歌誌『志づく』の「違星北斗特集号」が発行されます。

 これは北斗の生前に発行された出版物としては、最もまとまった歌集となります。

 また、この『志づく』の女性読者が北斗に熱烈なファンレターをよこしたという話もあります。

【鰊漁】

 昨年同様、昭和3年もまた、稼業の鰊漁を手伝っていたと思われます。/

 亦今年不漁だったら大へんだ余市のアイヌ居られなくなる/

 今年こそ乗るかそるかの瀬戸際だ鰊の漁を待ち構へてる/

 或時はガッチャキ薬の行商人今鰊場の漁夫で働く/

 今年こそ鰊の漁もあれかしと見渡す沖に白鴎飛ぶ

【『小樽新聞』4/8】

 豊漁を告げるにゴメはやってきた人の心もやっとおちつく/

 久しぶりで荒い仕事する俺の手のひら一ぱいに痛いまめでた/

 一升めし食へる男になったよと漁場のたよりを友に知らせる/

 ボッチ舟に鰊殺しの神さまがしらみとってゐた春の天気だ

【『小樽新聞』4/11】

 水けってお尻ふりふりとんでゆくケマフレにわいた春のほほえみ/

 建網の手あみのアバさ泊まってて呑気なケマフレ風に吹かれる/

 とんとんと不純な音で悠久な海を汚して発動機船ゆく/

 不器用とは俺でございといふやうな音たててゆく発動機船

【『小樽新聞』5/2】

 シャモの名は何といふかは知らないがケマフレ鳥は罪がなさそだ/

 ケマフレはどこからくるかいつもの季節にまたやってきた可愛水鳥/

 人さまの浮世は知らぬけさもまた沖でケマフレたわむれてゐた/

 人間の仲間をやめてあのやうなケマフレと一しょに飛んでゆきたい

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>>その13に続く

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