違星北斗の生涯(その13 闘病編)
《違星北斗の生涯》
(その13 闘病編)
※これは管理人がやっているツイッター「違星北斗bot」(@kotan_bot)をまとめたものです。
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アイヌの歌人・違星北斗Botを作ってみました。違星北斗27年の生涯を、ツイートで追体験してみたいと思います。
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【発病】
昭和3年4月25日、北斗は結核を再発させます。
「何だか咳が出る。鼻汁も出る。」
「明るみへ出て見ると血だ。喀血だ」
大暴風雨の中、山岸病院に行き、診察を受け、結核が再発したことがわかります。
【小樽新聞5/12】
咯血のその鮮紅色を見つめては 気を取り直す「死んぢゃならない」/
キトビロを食へば肺病直ると云う アイヌの薬草 今試食する/
見舞客来れば気になるキトビロの 此の悪臭よ消えて無くなれ/
これだけの米ある内に此の病気 癒さなければ食ふに困るが
【熊の肉】
日記5/8
「兄が熊の肉を沢山貰って帰ってきた。フイベも少し貰って来て呉れた。」
熊の肉俺の血となれ肉になれ 赤いフイベに塩つけて食ふ/
熊の肉は本当にうまいよ内地人 土産話に食はせたいなあ/
あばら家に風吹き入りてごみほこり 立つ其の中に病みて寝るなり/
希望もて微笑みし去年も夢に似て 若さの誇り我を去り行く
【『新短歌時代』(昭和3年6月号)】
民族を背負って立つのは青年だ 先覚者よ起てアヌウタリクス!
あばら家に風吹きこめばごみほこりたつその中に病んで寝てゐる
永いこと病床にゐて元気なくこころ小さな俺になってゐる
【日記5/17】
酒飲みが酒飲む様に楽しくに こんな薬を飲めないものか
薬など必要でない健康な 身体にならう利け此の薬
【『小樽新聞』6/5』】
赤いものの魁だとばっかりにアカベの花が真赤に咲いた
雪どけた土が出た出た花咲いたシリバの春だ山のアカベだ
熊の肉、俺の血になれ肉になれ赤いフイベに塩つけて食ふ
岩崎のおどは今年も熊とった金毛でしかも大きい熊だ
熊とった痛快談に夜はふける熊の肉食って昔をしのぶ
【中里徳太郎の死】
北斗が余市で闘病中の6月5日、余市コタンの指導者であった中里徳太郎がなくなります。
徳太郎は親友篤治の父親で、北斗にとっても、おじにあたり、余市コタンの殖産や貯蓄などを手がけた人。
北斗も影響を受け、東京で彼のことについて講演したこともあります。
【日記6/9】
死ね死ねと云はるるまで生きる人あるに 生きよと云はれる俺は悲しい/
東京を退いたのは何の為 薬飲みつゝ理想をみかへる
【『小樽新聞』6/19】
芸術の誇りもたたず宗教の厳粛もないアイヌの見世物/
白老のアイヌはまたも見世物に博覧会に行った咄! 咄!
【恩師への手紙】
6月20日付の金田一京助宛の手紙で、北斗は東京時代の思い出や、金田一への感謝、北斗の手引きで上京した同族の女性について現在の病気、兄との和解などを語っています。手紙の文面からは、かなり悲観的な様子が見て取れます。
bit.ly/11Xm8O1
【『新短歌時代』(7月号)】
「アイヌの乞食」子供等にからかはれては泣いてゐるアイヌの乞食に顔をそむける/
酒のめばシャモもアイヌも同じだテ愛奴のメノコ嗤ってゐます
【金田一からのハガキ】
7月17日、金田一京助からのハガキが届きます。
金田一は、ナーバスになっている北斗に対して、はやく元気になって北斗や篤治のような若者が、中里徳太郎の死は痛手だが、こういう傑物について語り次がねばならないといったことを諭します。
【日記7/18】
続けては咳する事の苦しさに 坐って居れば縄の寄り来る/
血を吐いた後の眩暈に今度こそ 死ぬぢゃないかと胸の轟き/
何よりも早く月日が立つ様に願ふ日もあり夏床に臥し
【日記8/8】
中里篤治の家の裏で盆踊りがあること、今日は一日喀血しないこと、そして『小樽新聞』の北斗のフゴッペ論文に対しての西田氏の反論連載が、ようやく終わったこと。
「私は反駁に力を入れては醜いと云ふことを発見した」「反駁の為の反駁は読む人をして悪感を起こさしめる」
【『小樽新聞』8/29】
カッコウとまねればそれをやめさせた亡き母恋しい閑古鳥なく
【日記9/3】
「めまひがして困る」「やっぱり生に執着がある。ある、大いにある。全く此の儘に死んだらと思ふと、全身の血が沸き立つ様だ。夕方やっと落ち着く」
山野鴉八氏より
「仙台放送局でシシリムカの昔を語るさうだ。自分が広く内地に紹介される日が来ても、ラヂオも聴けぬ病人なのは残念」
ラジオの仙台放送局で、北斗を取材したラジオが放送されることになった。
「今日はトモヨの一七日だ。死んではやっぱりつまらないなあ」
一七日とは初七日。
死んだトモヨとはおそらく北斗の娘。
トモヨの母親は、娘が生まれてすぐ娘とともに余市を去ったらしい。
くわしくはわからない。
【日記10/3】
永いこと病んで臥たので意気失せて心小さな私となった/
頑強な身体でなくば願望も 只水泡だ病床に泣く/
アイヌとして使命のまゝに立つ事を 胸に描いて病気を忘れる
【山上草人の短歌】
北斗の闘病中の姿を、友人の山上草人(おそらく古田謙二)が短歌としてのこしています。
夕陽さす小窓の下に病む北斗ほゝえみもせずじつと見つめる/
やせきつた腕よ伸びたひげ面よアイヌになつて死んでくか北斗/
この胸にコロポツクルが躍つてる其奴が肺をけとばすのだ畜生!/
忘恩で目さきの欲ばかりアイヌなんか滅びてしまへと言つてはせきこむ
【日記10/5】
山岸医師の往診。
「一ヶ月前よりも悪いのではないかと思ふと云へば『問題ではない。今日は余程よくなって居るよ』と先生は云はれる」
【日記10/9】
「山岸先生お出下さって注射一本、薬が変わった」
「少しでも悪くなると先生には本当に済まないと思ふ」
【日記10/8】
「午後二時頃喀血した。ほんの少しであったが血を見てうんざりした。」
【日記10/26】
「山岸先生看病大事と妹に諭し『国家の為にお役に立てねばならぬ』と云はれた。生きたい」/
此の病気俺にあるから宿望も 果たせないのだ気が焦るなあ/
何をそのくよくよするなそれよりか 心静かに全快を待て
※妹のハルヨと、トキという親戚が北斗を看病していた。
【日記11/3】
「埋立の橋が完成した」「定吉と宇之吉が川尻で難船したのを常太郎が泳いで行ってロップで救うた」
【日記12/10】
夕方古田先生が来る。金田一先生への代筆をしてもらう。
浦川(太郎吉)君へ『アイヌ・ラックルの伝説』も送ってもらう。 /
健康な身体となってもう一度 燃える希望で打って出たや
【一言集】
北斗はこのころ、病床で後藤静香の「一言集」という小冊子を読んでいたという。
一言集は、後藤静香の言葉を集めた格言集のようなもの。
【後藤静香からの葉書】
昭和3年12月19日付「違星様、あなたのこと、そしてあなたがたアイヌ民族のことを思いますたびに、私のこころをいためます。
どうぞこのうへとも健康に気をつけ、大きい使命を果たしてください。
あとから日記などをさしあげます。あなたの歌いつも涙で拝見致します」
【北斗帖】
この頃までに、北斗は病床で「北斗帖」という自撰の歌集をまとめています。 bit.ly/TyzVZ1
【松宮春一郎からの手紙】
「違星君の病状お知らせ下されくりかへし拝見いたしました。何とも申様もないこと涙の袖をしぼります。近いところならばと残念に存じます」
12月25日、東京時代に北斗に様々な文化人を紹介した松宮からの手紙。
すでに北斗ではなく友人の古田謙二宛になっています。
【後藤静香からの手紙】
昭和3年12月28日付「違星兄の為に御心尽くし感謝に堪へません少しばかりのお見舞を送って置きました。同君をよく慰めて下さい」
同年日付不明(同じ頃か)昭和3年(?)「毎日違星兄の為に祈って居ります」「同氏の事頼みます」
【日記12/28】
「此の頃左の肋が痛む。咳も出る」
東京の高見沢清氏、東京の希望者後藤先生よりお見舞い、福岡県の八尋直一様より慰問袋「心の日記」とチョコレート。
此の病気で若しか死ぬんぢゃなからうか ひそかに俺は遺言を書く
何か知ら嬉しいたより来る様だ 我が家めざして配達が来る
【小樽新聞12/30】
あばら家に風吹き込めばごみほこり立つその中に病んで寝てゐる/
永いこと病床にゐて元気なく心小さなおれになってゐる
【危篤】
北斗は、昭和3年12月28日から、危篤が続き、危篤の中で誕生日を迎え、昭和4年1月5日に危篤から回復します。
【日記1/5】
山岸先生来る。勇太郎君から八つ目を貰う。
(ヤツメウナギは、精力がつくとされていました)。
【日記1/6(絶筆)】
勇太郎君から今日も八ツ目を貰う。辞世の歌3首。
青春の希望に燃ゆる此の我に あゝ誰か此の悩みを与へし
いかにして「我世に勝てり」と叫びたる キリストの如安きに居らむ
世の中は何が何やら知らねども 死ぬ事だけは確かなりけり
【昭和4年1月6日】
この日、北斗は明け方に大喀血をします。
【再び危篤】
1月6日、北斗は再び危篤に陥ります。
【北斗忌】
昭和4年1月26日(土)午前9時 違星北斗は永眠しました。
今からちょうど84年前のことです。
雪の降る寒い朝だったそうです。
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>>その14に続く
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