「称好塾」の句会
違星北斗の東京時代のノートに「称好塾」の句会に出たという記録がある。この「称好塾」は国粋主義者の杉浦重剛の私塾と同じ名。北斗が訪れたのは杉原の死後の大正14年の10月。北斗は中野亨という人物と会っているが、同名の人物が『天台道士語録』という杉浦の語録を出しているので、同じ塾だろう。
この中野亨は『杉浦重剛座談録』の編者で晩年の杉浦弟子中野刀水と同一人物かも知れない。
東京時代には北斗と国粋主義との接近は国柱会などでも見られるが、結局「和人は皇祖神天照大神を崇拝するならば、アイヌである自分はエカシの信仰を大事にするべきだ」と気付きを得て、北海道に戻ってゆく。
「祖先崇拝(敬?)は大生命の自覚であったとしたならば、私の祖先崇拝は大日本の天照大神をより、アイヌのエカシの崇拝が重要ではないか」「祖先崇拝したら叛けと云う教ではないか」
これは大川周明の講演を聞いたあとの感想。北斗は東京に知識を得にきただけではなく、自ら「名刺狂」「名士狂」というほど、名士の名刺を持って新たな著名人を紹介してもらい、アイヌ復興のための「ロビー活動」していたようなところがある。当時の実力者に会おうとすると、当然ながら国士も多くなる。
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