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2022年5月26日 (木)

追悼 “アイヌ語爺”太田満さん――そして「違星北斗のイチャルパ」について

1 太田満さんと違星北斗

 

違星北斗のイチャルパ(慰霊祭)を、彼の故郷の余市でやりたい。

太田満さんは熱烈に語りました。

その太田満さんがお亡くなりになったという知らせを受けたのは昨年(2020年)の12月下旬のことです。受け容れられず、数日の間は呆然としてしまいました。

 

突然のお別れでしたが、出会いもまた、突然のことでした。

今から5年前、20161月6日、深夜2時半ごろ。

当時、ツイッター(@aynuitak_jiji)で「アイヌ語爺」というアカウント名を使っておられた太田さんは、

「誰であろうと北斗に熱き思いを寄せられる あなたに敬意を表します」

というツイッターのダイレクトメッセージを、アイヌの歌人・違星北斗の研究をする私に送ってこられました。

その時まで、私は太田さんのことをほとんど知りませんでした。

私が返信すると、そこから「違星北斗」への思いと、「アイヌの現状」についての深夜のメッセージのやりとりが始まったのでした。

 

太田さんは八雲アイヌにルーツを持ち、旭川でアイヌ語教室を開催されたり、大学でアイヌ語を教えられていたこと、現代におけるアイヌ語教育の専門家であることなどを、その時はじめて知りました。

ネット上での付き合いは5年ですが、実際に会ったのは2回。あわせて4日間ほどの時間でしかありません。ですから、追悼の言葉を書くには、私は不相応なのかもしれません。

ただ、確信を持って言えることがあります。

太田さんは、私がそれまでに話した人の中で、最も違星北斗について、熱い思い入を持ち、それを語ってこられました。

違星北斗について、深く語ったということだけは、誰にも負けない。

ですから、同じ「違星北斗仲間」として、追悼の言葉を残させていただきたいと思います。

 

 

若い頃から違星北斗の著作をバイブルにして生きてこられたという太田さんは、違星北斗の

 

《滅び行くアイヌの為に起つアイヌ違星北斗の瞳輝く(違星北斗)》

 

という短歌を引用し、こう言われました。

 

「『アイヌのために立つアイヌ』の向かう先が、結局「貧困の果ての病死」なら、なかなか人には勧められません。

それは、私も北斗ほどでないにせよ、アイヌの内の問題に関わってきた経験から、身に染みて言わねばならない言葉です」

 

実際、アイヌの為に生涯をかけた違星北斗は、太田さんの言う通り、貧困の中に病死しなければなりませんでした。

 

 

アイヌの歌人・違星北斗が活動した大正時代から昭和の始めにおいては、社会がアイヌ民族を「滅びゆく民族」と呼んではばからない時代でした。

それは「アイヌは滅びる」「アイヌはいない」と言論によって「アイヌ」という存在を社会の中から抹殺する、いわば言霊による大虐殺(ジェノサイド)が行われていた時代でした。

そんな中で違星北斗は、新聞や雑誌などのメディアに「俺はアイヌだ」「アイヌはここにいる」「アイヌが滅びてなるものか」と、アイヌ自身の声を発し、アイヌ民族の存在を主張したのです。

 

《アイヌと云ふ新しくよい概念を 内地の人に与へたく思ふ》

 

「アイヌはいない」のではない。「滅亡」もしていない。ここに生きている。社会の中での「アイヌ」という言葉の概念を、自らが発言・行動することで更新(アップデート)し、多くの人々のアイヌに対する認識を改めさせる。ために違星北斗は言論活動を行っていたのでした。

しかし、一人で背負うには大きすぎる「一民族の未来」を、その青春のすべてをかけて背負って起とうとした違星北斗自身は、貧困と病気に苦しみ27歳の若さでこの世を去りました。

 

 

太田さんは、自らの生き方を北斗に重ねて、こう言われていました。

 

「見かけだけではなく、本当にアイヌをどうかしようとすれば、貧困のうちに家族も持てず、ウタリの多くも敵にして生きなければなりません」

「私はそれを実践してきて、つくづく骨身にしみました」

 

 かつて違星北斗が味わったように、太田さんも「本当にアイヌをどうかしよう」とするために、、生活の上での幸福を犠牲にしてこられたのだと思います。

時には北斗自身もそうであったように、ウタリ(同族)の言動に失望させられたり、ウタリ同士で対立し、決別したりしてしまうこともあったのかもしれません。

 

「私は好きでやってきた。だから私がこのまま犬死にしても自業自得。

でも後輩にはそうなってほしくないと思うのです。」

 

 だから、太田さんもまた、アイヌのために闘ってこられたのでしょう。

 

 

 違星北斗の言葉は、新聞の投書欄ではなく、短歌欄に投稿されました。

それは投書欄では「検閲」や「改稿」、あるいは「不採用」のおそれがあるのに対して、31文字ですが、投稿者の作品がそのまま掲載される短歌欄に投稿されました。

それはゲリラ的な作戦でもあったのでしょう。短い言葉で世界を叫ぶ。それは現代でいえばツイッターのようなものでしょう。

北斗のその叫びは、遺稿集『コタン』にまとめられ、森竹竹市をはじめとする、多くのウタリの心を動かし、さらに和人のアイヌに対する考えも改めさせることとなり、今も輝きを放っています。

 私は、北斗のように生きようとした太田さんの言葉もまた、「後輩に」あるいは「後世」に伝えなければならないものだと思います。

 太田さんの遺稿集が編まれることを切に願います。

 そして……今私にできることとしては(ご本人はお嫌かもしれませんが)、太田さんが残した北斗に関する言葉をみなさんにご覧いただくことだと思い、ここに再録したいと思ったのです。

 

2 「元始」のコタン

 

 太田さんとの深夜のやりとりは続き、違星北斗が大事にした「原始(元始)のコタン」への憧憬についての話題になりました。

 

《見よ、またゝく星と月かげに幾千年の変遷や原始の姿が映ってゐる。山の名、川の名、村の名を静かに朗咏するときに、そこにはアイヌの声が残った。然り、人間の誇は消えない。アイヌは亡びてなくなるものか、違星北斗はアイヌだ。》(違星北斗「アイヌの姿」、傍点筆者)

 

 かつてアイヌの自由の天地だったころの「原始」の姿。

違星北斗にとってそれは「人間の誇」……「アイヌの誇り」といえるものであり、そして、彼は一生、その憧憬のイメージを追い続けることになりました。

 

その「原始」のイメージの源泉としては、北斗自身が幼少期から触れてきていた、地元余市のアイヌの伝承の世界のイメージもあるでしょうし、上京後に読んだ知里幸恵の『アイヌ神謡集』との出会いも大きいでしょう。

 

《その昔この広い北海道は,私たちの先祖の自由の天地でありました.天真爛漫な稚児の様に,美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は,真に自然の寵児,なんという幸福な人だちであったでしょう.(後略)》(『アイヌ神謡集』「序文」知里幸恵)

 

 北斗は、この「原始」のイメージを記した知里幸恵の文章に「コタン」というタイトルを付け、自らの同人誌『コタン』の冒頭に掲げました。

いわば、幸恵の魂を継ぐ者であることを宣言し、もともと、「里」とか「村落」、「集落」といった意味の「コタン」に、北斗は幸恵から受け取ったアイヌ民族の元始のイメージを結びつけたのでした。

 

 

 その「原始」の「コタン」について、太田さんはこう語りました。

 

「元始のコタンは精神世界のみならず、現実のウタリの生活の中にも、形はいくら変わっても、太古より受け継がれたものが見いだせた。

それは今においても同じで、やはりどんなに変形してもそれはあります。」

 

(先の北斗の文では「原始」と表記していましたが、他の文では「元始」も使っています。太田さんはメッセージに「元始」と書かれていたのでそのまま表記します。)。

 いくら時代が進み、アイヌの見た目や生活が変わっても、先祖から受け継がれたものは消えず、必ず残っていく。

 

これは、先の違星北斗の《そこにはアイヌの声が残った。然り、人間の誇は消えない。アイヌは亡びてなくなるものか》という言葉に表された思想にも通じるものだと思います。

 

「ところが、今はその『元始』の部分を国などが進める文化政策にからめて、さも昔風に暮らす、あるいは装うことだとしています。

当然そういうものは現実のアイヌ世界に見られないから、学者が作り上げたアイヌの世界観に沿って再教育しようとしています。」

「かくしてアイヌの子弟は『元始』が息づくアイヌの共同体から離されて、大学や白老などに行って、アイヌがかつて見た事もないような人工アイヌになってしまう。

私はそれを非常に警戒し、私の後輩たちにも呼び掛けています」

「学者から学んだ若いアイヌが、年配のアイヌは何も知らないと馬鹿にし、その学者は若者が馬鹿にする人たちのところへ研究に来るというおかしな世界。」

 

今日、盛んになってきたアイヌをめぐる文化政策。一見、とても良いことのように思います。

でも、太田さんは問いかけます。

そこに違星北斗の、そして太田さんの言う『元始のコタン』の魂はあるのか。

一番大事な、コタン社会という共同体に伝わる、先祖からの伝統、アイヌをアイヌたらしめる「元始の部分」が無視され、学者によって再教育された「人工アイヌ」になっていないか。

 

「北斗の言う『元始』は今なお健在です。しかし今の文化政策が続けば、次の代にはほとんど伝わらず、亡びはしないまでも一層少なくなるでしょう。」

 

 私にはその答えはわかりません。しかし、とても大切な指摘だと思います。

 もちろん、太田さんは単に「昔のコタンに回帰せよ」と言っているのではありません。

 

「今はネットがあるので、日本各地に孤立したウタリにも呼び掛け、表立ったアイヌの動きとは違った動きもできてきています。彼らはみなそれぞれ職業を持って自立した生計を営んでいるのが特徴です。ある意味ネットのコタンと言えますか。」

「先日もスカイプでアシリパノミをやりました。それぞれの姿を写しながら、それぞれ自分のアペフチに祈る。」(アシリパノミ=新年を迎える儀式)

 

 と、ネットを使ったカムイノミをされていることを教えてました。私は単に「こういうことも出来るんだ」と驚いたのですが、よく考えてみると北斗の場合も、新聞をツイッターのように使ったりしていましたし、自分の足で道内のアイヌコタンを巡り、アイヌ同士のネットワークを作ろうとしていました。もし北斗の前にネットがあったら、絶対に活用していたに違いありません。

 

北斗は別の「アイヌの一青年から」という文の中でも述べています。

《私共は閑却されてゐた古習俗の中よりアイヌの誇を掘り出さねばなりません》。

 もし今より後に、和人との「同化」が進んでも、アイヌと和人の区別がつかなくなったとしても《過去の事実を永遠に葬てはいけない》

《吾ら祖先の持ってゐた、元始思想、其の説話、美しき瞑想、その祈り等、自分のもの 己が誇》……ここでは、北斗は「自分のもの 己(おの)誇(ほこり)」すなわち「アイヌの誇り」を、祖先の「元始思想」や伝承文化とイコールで結んでいます。。

北斗は、「コタン」という言葉の概念に、「《元始思想》や伝統文化など、アイヌが受け継いできた原初的で大切なものが、時代がいくら変化しても変わらずに残っていく場所」という意味も込めようとしているのように思えます。

そして、「コタン」すなわち「アイヌの共同体」が存続しなければ、残っていくはずの大切なものも、残していけないということなのかもしれません。

この「アイヌの一青年から」という文章の終盤に、

《十年の後には純然たるコタンに参ります、喜び勇んで参ります。》

という興味深い、ちょっとミステリアスなフレーズがあります。

私は長らく意味がわからなかったのですが、太田さんの言葉によって、この「純然たるコタン」という言葉の意味も、なんとなくわかるような気がしてきました。違星北斗の思想が「コタン」という言葉に集約されていることに改めてきづかされました。なぜ自分が作った同人誌に「コタン」と名付けたかもわかる気がするのです。

 

 

3 違星北斗へに繋がった「受話器」

 

 深夜のメッセージのやりとりは続きます。

 

「以前の北大でのあなたの講演にも行きたかったけれど、いけませんでした。内容は行った仲間から聞きましたが。」

「ところで、以前、北斗の墓参り企画してましたよね?」

 

と、ここで、初めて、太田さんが以前から私のことをご存知いらしたことを知りました。

確かに、以前に、違星北斗の墓参りを企画したことがありました。当時(2009年)、SNS(ミクシィ)で募ったものの人が集まらず、一人で北斗の墓に参るために余市に行ったのでした。

しかし、北斗の命日は126日ですから、大豪雪に阻まれて墓に一歩も近づけないという事態になりました。

(しかも、そのお墓には北斗は入っていないということが後にわかりました)。

私にとっては「トホホ」なイベントだったのですが、それを覚えていただいているということが意外でしたし、非常に嬉しかったことを覚えています。

 

「アイヌは墓参りしないのですが、私も身内ではないとはいえ、敬意から時としてイチャラパはします。(特定の人にイチャラパするのではなく供物の受取人に指名する)。毎年カムイノミしていますから、日が合えばうちのカムイノミで北斗にイチャラパしませんか?」

 

 ここから縁が生まれ、例年太田さんが実施されているカムイノミに声をかけてくださるようになりました。

太田さんは、どこからも援助を受けず、参加者それぞれが時間と費用に都合をつけて準備し、実施しているとのことでした。最初は少人数でしたが、

 

「頑張れば道ができ、気付けば周りに人がいる」

 

とおっしゃるように、近年は毎年20人くらいでカムイノミを行っているそうで、まず滝川市のご自宅にあるヌサ(祭壇)でカムイへの祈りと、供養をされた後、石狩市の浜益の丘の上(ユカラの英雄ポイヤウンペの生誕の地「トミサンベツ・シヌタプカ」と伝説に残るところだそうで、今は神社があります)で、カムイノミ、ユカラ奉納を行い、最後に海岸で海の神へのカムイノミをして終わるということでした。

その目的としては「自立したアイヌを少しづつ増やしていく」こと、そしてアイヌ民族以外の参加も可にしているのは、「民族等の違いを越えた社会生活」というものが、確かに存在すること、それを見た人にも確信してもらいたいのだと語っておられました。

 

その年、2016年は仕事の都合でどうしても参加できず、落胆していたところ、

 

Yayerampokiweysakno ratcisukup es=ki kuni ku=einomi hawe tapan na .

 落胆なされず、平安な暮らしをして下さいますようお祈りいたします。」

 

という言葉をいただきました。

翌2017年、初めて本格的なカムイノミに参加させていただきました。

浜益の丘の上でのカムイノミ、海岸での海のカムイノミも初めての私には何もかもが新鮮で、わくわくしたのを覚えています。

この年は、仕事の関係で到着が夜になったのですが、

 

「ヤイェヤムノエソカイワアプンノエサラキナンコンナー

(気を付けてお過ごしなされ、道中何事もなくまいられますようにお祈りします)」

 

 とメッセージをいただき、到着した滝川のご自宅では、参加者の方との大切な出会いがありました。

 

2018年のイチャルパでは、アットゥシを着るように手渡され、前の方に座るように言われました。

そして、突然

「違星北斗に伝えたいことを、日本語でいいから語りかけてみなさい」

と言われて、焦ってしまいました。

いきなり儀式に参加するよう指名されたことに対しての驚きもありましたが、それよりも、

 

(あ、違星北斗に話しかけられるんだ……話しかけてもいいんだ…!?)

 

という、もっと純粋で新鮮な驚きがありました。

「あ、あなたの研究をさせてもらっている者です…」

その時は緊張して、しどろもどろになり、何を言ったかは覚えていません。

突然、憧れの人・違星北斗に「電話が繋がってるから」と『受話器』」を渡されたようなものですから。

 その時まで、「違星北斗に話しかける」という感覚も、発想もありませんでした。

 北斗がいる世界につながる、自分が生まれるずっと前に亡くなった人に直接、話しかけてもいいんだ、そういう考え方をしてもいいんだと、そういう考え方があるんだ、と気付かされた忘れられない体験でした。

 

海でのカムイノミが終わったあと、太田さんは私に一本のイナウを手渡しました。

「いいんですか?」「お守りだから」といった会話をしたような記憶があります。

 

翌年2019年のカムイノミには仕事の都合で参加できませんでしたので、この2018年の夏が、太田さんと直接会った最後になりました。

 

このイナウを使えば、太田さんにつながる「受話器」になるような気もするのですが、そのやり方を聞けなかったことを残念に思っています。

 

 

4 「Iyoci or ehorari kamuy nomi イヨチオロエホラリカムイノミ」

 

 

「違星のイチャラパを余市でやることを考えてみてはいかがでしょう。いつかやってあげたいと思ってます」

 

 2019年頃より、太田さんと「余市でのカムイノミ」について、ツイッターのメッセージでやりとりをするようになりました。

 

「あれだけアイヌにこだわって、同胞からそっぽ向かれ、知られてすらいない北斗のために、その愛する故郷に、気持ちのある人が、イナウの一本でも捧げられたらいいのではないでしょうか」

「そうすれば、あの世に行った時に、『やあ、あの時はありがとう』くらいの言葉を本人からもらえるかと思います」

 

 あの世で、違星北斗に「ありがとう」と言われる。

まったくそういう発想はありませんでした。これは俄然、やらざるを得ません。

 

「イヨチアネカムイノミ  Iyoci or ehorari kamuy nomi イヨチオロエホラリカムイノミについて、今年浜益に集まった者達で協力しようと話がまとまりました」

 

ちなみに違星北斗の「イチャルパ(供養)」とせず、余市の「カムイノミ(カムイに祈る)」としているのは、

 

「最近何も考えず『イチャルパ』を前面に出した行事ばかりですが、死者のことは表ざたにせぬアイヌプリから、本来は多くの村で『カムイノミ』として行事を行い、それに付随するものとして供養をした」

 

という、太田さんの思いによるものです。

 

「今年浜益では、集まるアイヌの出身はいろいろだけど、伝説の地をこうして守っているから、今後は新しいシヌタプカウンクルとしてまとまっていこうと決めました」

 

「シヌタプカウンクル」は「シヌタプカの人」。「シヌタプカ」「トミサンペッ」はユカラの英雄ポイヤウンペの出身地です。

 

「そしてユカラでこのトミサンペッと関係が深い余市の地に応援するのは、ユカラの理にもかなっていると話しました。というわけで、ヌサなどアイヌの儀式にまつわる一切はこちらで準備させていただきます」

「できれば余市内の北斗の足跡を巡ってもみたいですね。来年の余市のカムイノミも私のウタリ一同楽しみにしております。是非ともあなたも私達も満足し、他に誇れるお祭りにしていきましょう」

「必要ならば、浜益でやっているように、地元と協力して小規模でも毎年あるいは何年かおきに儀礼を継続し、余市アイヌの歩みを余市市民に深めていってもらってもいいと思っております」

 

私が参加できなかった2019年のカムイノミで、太田さんが参加者の方々にもお話をしてくださり、いよいよこれはぜひとも余市でのカムイノミを成功させねばと、私も遅まきながら腹をくくったのでした。

 

 

「余市で違星北斗のカムイノミを行いたい」。

 違星北斗研究でお世話になっている余市の郷土史家のAさん、Kさんなどに連絡をしたところ、その提案は歓迎をもって迎えられました。

 自治体や研究機関の協力や協賛を得ることも考えられましたが、太田さんの「お上の力を借りず、自分たちの手で行えることをする」というポリシーから、申請は行わず、例年のカムイノミと同様の形で行うことになりました。

(もちろん、必要な許可はとり、地元の学芸員の方などにもご相談をする前提です)。

 

 なぜ、余市アイヌの方々に連絡を取らないのか、と疑問に思われる方もいるかもしれません。

余市には「アイヌ協会」はありません。

違星北斗が「アイヌは滅びてなるものか」「アイヌはここにいる」と昭和の始めに叫んだ「余市コタン」「余市アイヌ」は、残念ながらもう存在しない、ということになっています。

 

もちろん、それは自ら公にアイヌを名乗る方がいない、ということで、個人としてアイヌ文化を守り続けた方は比較的最近までいらっしゃいました。昭和30年代には、アイヌの儀式を続けている方がいたそうです。

また、昭和の終わりごろ、教育委員会が余市でカムイノミをやろうとしたことがあり、余市にはアイヌ民族がいないので、祭主として他の地方のアイヌの方を呼んできた所、当日、観衆の中から「ウチのやり方はそうじゃない!」という男性が出てきて、以後その方が祭主の役目を行った、ということもあったそうです。

数字の上では、余市には「アイヌ民族」はいない、ということになっていても、目には見えないけれど、「元始のコタン」はそこにあったのかもしれませんし、もしかしたら今もあるのかもしれません。

そして、もし今回の余市のカムイノミでも、もしかしたら「ウチの作法はそうじゃない」という方が観衆から出てくる可能性だってあったかもしれません。

 

 

2020年のお正月の挨拶もそこそこに、いよいよ太田さんと私、そして余市の郷土史研究者の方々を交えて、カムイノミについてやりとりが始まりました。

郷土史家の方からは、カムイノミを行う場所は「違星北斗の生誕地」が今、空き地なのでそこはどうか、と提案がありました。

また、やりとりの中で、北斗が愛したシリパ岬を望む余市の海岸や、余市水産博物館の違星北斗の句碑の前でも何かできないか、他に違星北斗のファンの方で実家がお寺の方がいらっしゃるので、そこで何かできないか等々、余市でのカムイノミのプランを太田さんに伝えました。

 

「カムイノミ、イチャラパは句碑前がいいですかね。それ以外にも由緒ある場所があれば、イナウを捧げて歩くことはできます。」

「カムイノミは句碑前で済まし、現地では酒を撒くだけで済ますこともできます。その酒はsirkorkamuy土地の神として、古そうな樹に捧げればいいので」

「逆にお寺の方は、北斗について小講演とか朗読とか交流会の会場にはお願いできそうですね」

「ぜひ北斗の詩や文章、気に入っている一行なりと皆で朗読するとかしたいですね」

「私としては、毎年は無理でも継続させていきたいので、徐々に行事を作っていけばいいと思っています」

 

こうやって、様々にアイデアを出し、計画を進めようとしていたところに、「コロナ禍」がやってきました。

2020年6月。太田さんのメッセージが届きました。

 

「誰もが予期せぬ病害に不安な日々を送っておられることとお見舞い申し上げます。

かねてより計画中であった余市での北斗のカムイノミですが、ヤウンモシリも病魔がいまだ去らず、今後も長期化が予想されるため、来年以降に延期したいのですがいかがでしょうか? 来年も怪しいとは思いますが、とりあえずの目安として来年以降ということで」

 

もちろん、日毎にコロナウイルスへの罹患者数が増加してゆく状況下で開催できるはずもありません。私も「来年の方が違星北斗生誕120年なので、よいと思います」と返信しました。

 

「お互いの許に病魔が寄りつかぬことを祈ります。今年は病魔払いにナナカマドの煮汁だけ使いましたが、センダイカブを栽培しますから、来年は伝統のとおりにkikinni wakka(ナナカマドの煮汁)atanewakka(センダイカブの煮汁)が使えるようになります」

 

 これが、太田さんの私への最後のメッセージとなりました。

 

 

 コロナウイルス流行に関しては、まだまだ先の見えない現在ですが、私は太田さんが望んでいた「余市でのカムイノミ、違星北斗のイチャルパ」を、ぜひとも実施したいと思っています。

 それは来年になるか、再来年になるかわかりませんし、私だけで行えることでももちろんありません。アイヌプリの儀式を行うためにはアイヌの方のご協力もお願いしなければなりませんが、それも私にはどうしようもないことです。それでも、いろんな方の力をお借りしなければなりません。

もしアイヌプリの儀式が叶わなければ、どんな形であれ……たとえそれが、太田さんが参加したかったと言ってくださった、12年前の北斗の墓参りのような、淋しいものになったとしても、必ず余市で、違星北斗を偲び、顕彰する何かをやりたいと思っています。

 

 

 太田満さん、ありがとうございました。

 最初にメッセージをやり取りした2016年1月6日。あっというまに数時間がたち、一区切りついた頃には、すでに朝方になっていました。その日、最後に教えてもらったのがこの言葉でした。

 

Pirkano yaysinire yan ! ピリカノヤイシニレヤン! おやすみなさい!」

 

 私があの世に行ったら、また違星北斗に取り次いでください! 

そして北斗と3人で話しましょう。

 

202136

違星北斗研究会 山科清春

 

2022年5月26日追記

 余市のイチャルパについては、未定ですが、現実的に難しいのではないかと思っています。

 何らかの北斗関係のイベントは、できればと思っていますが……

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コメント

「元始のコタン」って、柳田國男の「固有信仰」という概念を彷彿させる、と思いました。アイヌ民族による「元始のコタン」への遡行はこの列島に生きてきた人々の生の形への遡行でもあるし、いまを生きるアイヌ民族から見出せるというお話は示唆に富んでいると思いました。

それと、北海道の和人の存立の前提を供給しているのは他ならぬアイヌ民族の存在そのものなんじゃないかと、たとえ植民地で和人支配が確立しているようにみえても、和人はアイヌという概念に依存しているのではないかと、そういう意味では北斗の意図とはズレているかもしれませんが「アイヌと云ふ新しくよい概念を」というのは北海道人の腑に落ちると、そう思いました。

コメント、ありがとうございます。

違星北斗や太田さんの言葉というのは、たしかに示唆に富むものであり、アイヌ以外の人々の生き方にもなんらかの影響や意味があるものではあると思います。


私個人としては、それをどういう人々がどうフィードバックすべきとかそういうことは考えないで、ただ違星北斗であり、太田満さんの言葉をお伝えするのが私の役目かなあと思っています。

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