『短歌・俳句』

2019年2月 4日 (月)

十人一評 新短歌時代 昭和三年七月号

十人一評

新短歌時代 昭和三年七月号

(前略)

違星北斗

 うらゝかな陽のさす路に子供らとあそびほうける不具の子がある(石川幸吉)

 不具の子。不具の子。もうそれだけで冷いかんじです。偏見に陥り易く、またともすれば一人ぽっちで淋しく遊ぶ…誠に可愛想ではありませんか。けれども此処に遊びほうけてる不具の子は今幸福に酔ふてゐる。外の子供等よりどんなにか嬉しさを強められてゐることでせう。平和の境が眼に見えて嬉しい。然し夢中になって遊んでる子供達の中不具の子がゐなかったらさほど気にもとまらないだらう。それから亦不具の子がゐても仲よくたのしそうに遊んで居さへすればそれでいい……やうなものゝ其処になんとなしに心ひかれるいた/\しさを感じるものは何か?うるほひのある情操の所産はするどい。歌はもとより立派であるが歌としてよりことがらの方がはるかに勝れてゐるのではないでせうか。

(後略)


※新短歌時代 昭和三年七月号

2017年8月29日 (火)

コタン吟

だいぶ前に、余市のK先生よりコピーを頂いた、北斗自筆の「コタン吟」。

Img_4121ss

 「コタン吟」というタイトルは、
同人誌「コタン」創刊号(S2/8月)
 http://www.geocities.jp/bzy14554/kotangin-dojin.html
「新短歌時代」創刊号(S2/12月)
 http://www.geocities.jp/bzy14554/shintankajidai.html
「志づく」(S3年2月)
 http://www.geocities.jp/bzy14554/shiduku.html

「ウタリの友」(昭和8年1月)
http://www.geocities.jp/bzy14554/utarinotomo.html

など、いろいろなところで使われているが、このラインナップは、そのどれとも違う。
 
 おそらく「コタン吟」というのは、北斗が好んで使っていたタイトルなのだろう。

 のちに、病床で「北斗帖」という自筆の歌集を編み、
 草風館版コタンでも「私の短歌」を編集者によって「北斗帖」と名づけられてしまった
(つまり、北斗による命名としては病床の「北斗帖」のみで、草風館版「北斗帖」は北斗自身の編集でも命名でもなく、中身も自薦歌集「北斗帖」とはイコールではないと思われる)が、

 元気な時は「コタン吟」を好んで使っている。

 「コタン吟」のタイトルにも、もっと注目すべきだろうと思う。

2009年8月 2日 (日)

山上草人とは

北斗の闘病中の姿を描いた短歌を書き、小樽新聞に投稿した山上草人ですが、おそらく古田謙二でまちがいないようです。

 ある方から、古田冬草遺稿集がご遺族の方の手によって発行されたこと、その中に北斗の記事があるということを教えて頂きました。結局新しい情報はありませんでした。

 が……。
 その遺稿集に、古田謙二の雅号についての記述があり、余市時代には「冬草」ではなく、「草人」と名乗っていたと書いてありました。

 《雅号のこと

 たしか大正の末か昭和の初め頃だったかと思う。余市町で教員をしていた時のことである。ある夏のこと、消防番屋の二階で俳句会があり、兄の裸人と連れだって出席した。
 その時、主催者から「あなたの雅号は……」と聞かれた。ところが、私はその時まで雅号というものを持っていなかったのである。突然の質問だったので一寸困ったが、少し考えて「草人」としておいて下さい、と答えてしまったのである。……私の兄は「裸人」であり私は裸人の弟だから人の一字を貰って「○人」としよう。それい私は礼儀作法もわきまえぬ野人だから「野人」位が適当だ。しかし、野人はあまりムキ出しだから野人と同じ意味で少し雅味のある「草人」でよろしかろう……》

 と付けたそうです。
 
 ならば、状況的にも、やはり山上草人は古田謙二で間違いないでしょう。

 
 数年間は草人を使っていたようですが、青木郭公の句誌「暁雲」に参加する時、他に草人という人がいたので、後から入会した古田が改号し、冬草という号にしたということです。何事にも熱中してしまうので、少し頭を冷やすように、冬という字を使ったとのことです。

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2009年1月23日 (金)

間違い発見

旅に出てアイヌ北斗の歌思ふ こヽがコタンかしみ/゛\と見る

この短歌はずっと並木凡平のものかと思っていましたが、小樽新聞の紙面をみたら、間違っていることに気づきました。
 これは石狩の齋藤輝子の作品でした。

 この歌の後ろに並木凡平の名前があったのですが、凡平はその次の短歌の作者でした。
 修正しておきます。

2008年11月28日 (金)

北斗の姿

 「アイヌ史新聞年表『小樽新聞』(大正期II・昭和期I)編」という本を入手。
 これは、國學院短期大学コミュニティカレッジセンターが刊行しているもので、明治時代からの小樽新聞の中で、アイヌに関する記述を集めた目録の3冊目にあたる本です。
「大正期II・昭和期I編」は、大正11年から昭和5年を収録しています。
 ちょうど、北斗が活躍した頃のものになるので、北斗に関する記載はないかと探してみたら、大変な発見がありました。

1929年(昭和4)年1月30日に、余市の歌人・山上草人の短歌が掲載されています。

  夕陽さす小窓の下に病む北斗ほゝえみもせずじつと見つめる
 
  やせきつた腕よ伸びたひげ面よアイヌになつて死んでくか北斗

  この胸にコロポツクルが躍つてる其奴が肺をけとばすのだ畜生!

  忘恩で目さきの欲ばかりアイヌなんか滅びてしまへと言つてはせきこむ
 

 北斗の闘病末期の姿を映した短歌です。
 
 また、北斗の死後の2月17日には、札幌の上元芳男による短歌が掲載されています。

  風寒い余市の海の浪音に連れて行かれた違星北斗よ

  アイヌだけがもつあの意気と弱さとを胸に抱いて違星は死んだ
 

 3月2日にも、山上草人の北斗に関する短歌が掲載されています。

  遺稿集あんでやらうと来て座せば畳にみる染むだ北斗の体臭

  クレグールくさい日記にのぞかれる彼の想ひはみな歪んでる

  「このシヤモめ」と憤つた後の淋しさを記す日記は読むに耐へない

  金田一京助さんの恩恵に咽ぶ日もあり、いぢらしい男よ

 さらに、3月8日にも余市の山上草人による短歌があります。

  「神なんかいないいない」と頑張った去年の彼の日記がイエスの言葉で閉ぢられてゐる

  凡平の曾ての歌を口ずさみ言ひ寄つた去年の彼を忘れぬ

  シヤモの嬶貰つた奴を罵倒したその日の日記に「淋しい」とある

  ウタリーの叫びをあげた彼の歌碑どこへ建てやうどの歌彫らう

 さらに、幾春別の木芽伸一による「違星北斗君の死をいたむ」と題された短歌

  亡んでくアイヌのひとりの彼もまたさびしく病んで死んでいつたか

  泣きくれる北斗の妻子のおもはれてさびしくきいてる今宵の吹雪よ

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2008年11月 4日 (火)

北斗はいつ短歌をはじめたか

 北斗がいつから、短歌を詠み始めたかは、はっきりわかっていません。

 ただ「北斗はバチラー八重子の影響で短歌を詠み始めた」と書いてある本がありますが、それは間違いだと思います。

 草風館の95年版「コタン」で現在確認できる一番古い短歌は自働道話大正十三年十一月号に掲載された次の一首。
 
  外つ国の花に酔ふ人多きこそ
  菊や桜に申しわけなき

 上京前の短歌としてはこの一首のみです。
 では、本格的に短歌を作り始めたのは、東京から北海道に戻って来てバチラー八重子に会って影響を受けたからなのかというと、そうでもないようです。

 大正14年5月1日、伊波普猷は「目覚めつつあるアイヌ種族」で北斗のことを書いていますが、その時すでに北斗は短歌を詠んでいました。

 違星君はあまり上手ではないが和歌でも俳句でも川柳でも持つて来いの方です。

 と、書いています。もちろん、この時点で北斗はバチラー八重子とは会ったことがなく、一度手紙をやりとりしたのみです。

 もちろん、その手紙で八重子から短歌を勧められた可能性があるではないか、という考えもできなくもないですが、これも違うと思います。

 大正15年3月5日の釧路新聞に、北斗のことが紹介されています。北斗がまだ東京にいる頃、歌人として有名になる前で、一人のアイヌ青年として紹介されています。
 北斗の人となりを紹介し、昔は和人への敵愾心に燃えていたが、青年団に入ったことによって、人間愛を知り、今は東京の西川光次郎の元で社会事業に従事している、というような内容です。
 この記事の中に、次のような記述があります。

 是は此の青年の告白で復讐心に燃えて居た時代にノートに書き付けた歌と此の頃の感想を陳べた歌とを相添て道庁の知人の許に寄せて来たが是等は学校の先生、青年指導の任にある人々には何よりの参考資料だ

 つまり、道庁の役人に送られてきたノートには、青年団に入る前の、「復讐心」に燃えていた頃の短歌と、青年団に入り、「人間愛」を知ってからの短歌が書かれているということです。是等とあるので2冊あるのかもしれません。
 この通りだとすると、東京に来る前の余市時代、青年団に入る前からけっこうな短歌を作っていたということになります。

 もちろん、バチラー八重子の影響もあったでしょうし、それ以上に実は、金田一から若き日にともにあった啄木の話をよく聞いたそうですから、その生々しい話の刺激もあって、上京後に本格的に短歌を作り始めたのだと思います。
 
 ところで、その道庁の役人に送った北斗のノートとやらは、どこにいってしまったのでしょうね。
 実はまだ道庁のどこかにあったりして。
 
 

 

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2006年7月18日 (火)

横浜調査

仕事で東京に行ったついでに、横浜へ。
神奈川県立文学館というところへ違星北斗の文献を漁りにいきました。
今回の目的は「にひはり」という大正終わりから昭和のはじめの俳句の雑誌。
まずまずの成果でした。

(1)「にひはり」大正13年11月 特集芭蕉号


「北海道から北越へ(上)」勝峰晋風

 にひはり主筆の勝峰晋風が北海道を訪ねています。
 その中に「林檎の名所余市」という記事があります。

 林檎の名所余市

 廿日正午、岩内を立つて国富駅に来ると、千葉羽卒子が本多楚童子と共に面会に出てゐた。羽卒子は小沢まで同車して、その指導する十文会の近況を話した。小沢から本線に乗換へて間もなく、仁木へ田中半夢子が出迎へに来たので汽車中話しながら午後余市に着いた。停車場から奈良如翁子の宅へ導かれて、枝も撓む林檎をもぎ取り大きな房のゆれる葡萄を蔓からつまんで野趣を掬し、夜に入って小保内桂泉子の経営する丸久旅館に投宿した。二十一日は如翁、半夢、桂泉の三子に案内され、モヨリの岸壁に沿ふて青い青い澄んだ海をながめつゝ、沢町へ散歩して本間三咲子の撞球場で少憩した。旧知の余市は僕を小樽の新聞記者時代に回想させて多少の感慨がないでもなかつた。小樽から長尾其仙子に代つて水声子が来られた。仁木から汀花、笑石、閑鴎の諸子、蘭島からも数名来会したので句会を開く以前既に盛んな句作気分をかもしたのであつた。丸久旅館の奥座敷をぶつ通して句会の席とし北海道に行はるゝ方言又は土語を作中に詠ずるやう希望したのと、出句を全部手刷版にすつて来会者に配布したのとで、時間はだんだんに遅れて行つた。僕は余市に就ての感想と東京に於ける俳壇の批評を述べたが、まだ詠草が刷上らないので画讃のこと及び写生句の遂に成立せざることなどを約一時間講話した。出席三十九名に達したので幹部は大汗になつて進行したが披講了つて散会したのは、翌日午前二時であつた。出席者に北斗子を見たのはうれしかつた。北斗子は旧土人であるが、アイヌ族の一人たるを恥るよりは寧ろ同族をして何人にもヒケを取らないまでに進歩させやうといふ気概家で、「にひはり」愛好者として如翁子から、詳しく人物性格を紹介されて異常な感慨うたれたのである。この句会にも
  落林檎石の音して転けり  北斗
の如き、既に月並を脱した句を出して人々を驚かせたが、時間がなくして、したしく談話し得なかつたのを遺憾とすする。
管理人  ++.. 2006/07/18(火) 11:35 [244]

 余市の歓迎句会   田中半夢

 晋風先生が来られた。ほんとうに来られた嬉しくてたまらない。二ヶ月前からの御約束であり待ちに待つた先生真実嬉しいに違い無い。が私が仁木の駅で初めて御目にかゝつた時までは実際内心は言ひ知れない不安に駆られてゐたのだ。夫れは此の片田舎の俳壇が如何に幼稚で如何に衰頽してゐるかを嗤はれると思つたからだ。処が一度御遇ひして見ると私の考が全然間違つてゐた事が発見されたと同時に非常な、親しみを感じさせられた。他に理由は無い「先生臭くない先生」「隔てのない先生」夫れだけだ。而して私の杞憂は居場所が無くなつて忽ち消え去つた。
 九月二十一日午後六時から支部員で旅館を経営し居られる小保内桂泉氏宅大広間で句会を催した。小樽、仁木、蘭島から猛者十数氏の来会あり地元俳人を加へて実に三十九名当地句会初めての盛会であつたことは、主催者として誠に喜ばしかつた。先生から眼白、稲妻、夜学、林檎の四題を戴たが内二句は特に「北海道に行はるゝ方言を用ひて」との御注文には一同聊か面喰つた。「句作と講評」と題する講演が終つて披講に入つたが、何様不馴れなのと特に紀念の為に三百二十句からのものを印刷して配布した為、全部終つたのは午前二時であつたことは忙がしい旅の先生ははじめ来会者諸君に申訳がなかつた。こゝで深く御詫をすると同時に「句の素質が良い一般から推して中の中どころだ」と云はれた先生の言葉を頼みに、之から奮発したいと思ふ。
  林檎売りの魚臭き刺子でありに鳧   水声
  森のオヤヂ(熊)の寝様稲妻折々す  汀花
  夜学終へて炉囲めばドンコロ燃え盛る 笑石
  ランプ煤けてあづましく無き夜学哉  水声
  夜嵐や袋のまゝの落ち林檎      三咲
  コクワ採るや眼白しば鳴く峡夕日   水声
  夜学子やランプのホヤの破れ貼り   暮笑
  凍林檎石の音してころげけり     北斗
  樹の林檎の粒々冷えて月夜なり    汀花
  一羽来て何時迄鳴かぬ眼白かな    一舟
  稲妻やより藻に光る蟹の泡      拙水
  月を背に負ふて夜学の路遠し     鹿の子
  稲妻やたれ穂の浪のつゞく里     芦汀
  林檎たわゝに揺れ居たり園の書静か  閑鴎
  稲妻や大樹を透し迫るまど      笠杖子
  眼白啼くや丘なだらかによく晴る   汀花
  眼白押し一樹につのるかはら風    拙水
  シガ(氷)五尺やがて夜学の門はしら 玉童
  稲妻や舟みな伏せて濱しづか     一舟
  眼白押す枝揺れ撓み落ち日寒む    半夢
  むきかぬる林檎の皮の赤さかな    鹿の子
  夕陽赫と林檎つぶらに済める背戸   空石
  稲妻やつゞいて光る河岸の舟     一洲
  晩学の灯しに妻は縫ひ添ひぬ     汀花
  壁に映る親しき影や夜学の灯     拙水
  草の実のこぼるゝ風や眼白押し    はじめ
管理人  ++.. 2006/07/18(火) 12:13 [245]


これらの文章を読むと、以下のようなことが分かります。


1 北斗は、大正十三年頃、余市の句会というか、俳句グループに属していた。
 ここには、恩師の奈良直弥先生が属しており、また日記に出てくる小保内氏も属していた。
 
2 大正十三年九月二十一日に小保内氏の旅館で句会が開かれ、北斗も出席。「落林檎」(後の文章では「凍林檎」)の句を詠んでいる。

3 この「落林檎」は、「北海道樺太新季題句集」に掲載され、「コタン」にも載っていましたが、長らく北斗のものかどうかが不詳とされていました。それが、北斗の作だと証明されたことになります。
管理人  ++.. 2006/07/18(火) 12:21 [246]

「にひはり」大正十四年一月号

 余市にひはり句会(田中半夢報)

  いとし子の成長足袋に見ゆる哉   北斗


  ぬかる道足袋うらめしう見て過ぎぬ 北斗



 =======================

 新発見の二句。

 上の「いとし子の」は、北斗の子のことでしょうか。
 どうでしょうか。

 もしこれが、北斗の愛児のことだとすれば……。

 北斗に子供がいた(トモヨ)というのは、すでにわかっていることですが、それがいつごろなのかが、わからなかったんです。
 この句が、北斗の子の成長を詠んだものなら、やはり大正十三年ごろに生まれたということにならないでしょうか。
 日記昭和三年の記述「今日はトモヨの一七日だ」を信じるとすれば、トモヨは昭和三年に死んでいます。大正十三年ごろ生まれたのだとすれば、満3~4歳ということになります。

 しかし、この「足袋」というテーマは句会の御題のようで、他の人も「足袋」で詠んでいます。すので、まったくのフィクションということもありうるかもしれません。
 
管理人  ++.. 2006/07/18(火) 12:32 [247]

別の北斗

 「にひはり」を見ていると、違星北斗と同じく「北斗」の号を使っているのですが、おそらく違星北斗ではないだろうと思われる「北斗」さんを発見しました。
 念のために挙げておきます。

(1)滋賀の北斗さん
にひはり大正12年8月号

「若草会 滋賀支部 仲邑翠濤報 松宇先生撰

   寺の蚊の弥陀の御肌 憩ひ鳧  北斗 」

(2)会寧(朝鮮半島)の北斗さん

にひはり昭和3年3月号

「豚の背に鵲とまる冬の朝   会寧  北斗
 口髭に氷柱三寸下りけり       同
 虎吠る白頭山や冬の月        同」

昭和3年4月号

「銃声も余所に揚がれる雲雀かな  会寧  北斗」

昭和3年6月号

「菊の苗秘蔵の土に移しけり  会寧  北斗
 羊飼ひの羊と寝たる日永かな 
    朝鮮風俗
 ふらこゝに鮮女集まる端午かな」

昭和3年7月号

「春雷に声なく飛べり時鳥   北斗」

※これは、「時事吟 坪谷水哉選」の中の一句。時事ネタに関連づけた句を紹介しており、この句には「第三師団動員の応召勇士」とある。詳細は不明。

同号
「斧鉞見ぬ大森林や閑古鳥  会寧  北斗
 蒜の香に席替へぬ汽車の旅        」

八月号
「麻雀に耽て短夜明にけり  会寧  北斗
 褌のあとのみ白き裸かな
 新茶煮て新茶を題や俳諧師        」

=======================
※会寧はフェリョン、現在の北朝鮮北東部の都市。
 当然のことながら、昭和三年は違星北斗は闘病中であり、まったくの別人だと考えられる。
管理人  ++.. 2006/07/18(火) 13:10 [248]

草風館版コタンの誤り?をいくつか発見しました。

①『にひはり』(大正15年4月号) 
 「畑打やキャベツの根から出し若葉」

 は、「大正14年4月号」の掲載。

②『にひはり』(大正13年11月号)に掲載されているという
「かさこそと落葉淋しく吹かれ鳧(けり)」
「乾鮭や残留の漁夫の思はれつ」
 
 二つの短歌は確認できなかった。
管理人  ++.. 2006/07/21(金) 17:13 [249]

2006年3月25日 (土)

玫瑰(はまなす)の花

まったく知らない新資料が売りに出ていたので、購入しました。

「玫瑰の花」(青木健作違星北斗永瀬英一南正胤含)前田夕暮矢代東村署名入 昭和6年 玫瑰会編 18,000円

値段が値段ですから、迷いましたが、購入しました。

結果は、短歌の掲載二首掲載されていただけでした。

うち、新発見の短歌が一首。
管理人  ++.. 2006/03/25(土) 12:11 [147]

『玫瑰(はまなす)の花』玫瑰会 昭和6年

 目次には「故違星北斗」とあります。

 
 土方した肩のいたみをさすりつゝまた寝なほした今朝の雨ふり

 名のしれぬ花も咲いてゐた月見草も雨の真昼に咲いてゐたコタン(村)

  アイヌ人にして稀に見る敏才北斗は不幸昭和三年に世を去つた(竹内)
 
管理人  ++.. 2006/03/25(土) 12:17 [148]

※「土方」の歌が初見。
※竹内は竹内薫兵で、「玫瑰(はまなす)会」の代表。この本の編集人。玫瑰会は前田夕暮が指導している。
※「跋」によると、この「玫瑰の花 第六輯」は大正14年から昭和六年までの歌会で発表された短歌の中から選んだものだそうで、北斗は東京時代にこの「玫瑰(はまなす)会」の「歌会」に出席していたのかもしれません。
管理人  ++.. 2006/03/25(土) 12:32 [149]

2006年3月24日 (金)

にひはり

 北斗の作品が掲載された雑誌の中で、全く一号も目にしていないのは「にひはり」だけです。

 どこかの図書館にあると思うんだけれど……探して確認せねばと思います。
 俳句誌ですが、意外なことに、余市時代、上京後まで、二年以上も掲載され続けた雑誌でもあります。

 きっと、現物を見てみれば、いままで知らないことが書いてあると思いますので、いつか確認してみたいと思っています。
 探してみよう。
管理人  ++.. 2006/03/24(金) 12:58 [143]

あった。

三康図書館、東京都港区芝、増上寺の裏……。

って、増上寺!
なんという偶然!?

北斗の祖父万次郎が、明治の始めに連れてこられて勉強させられた芝増上寺にあるとは。

奇縁なのか……なんなのか。
しまった……何度か増上寺には行ってるけど……もう一度行かなければ。
そして、前回わからなかった、万次郎が学んだ清光寺の今も見てこよう。
管理人  ++.. 2006/03/24(金) 13:08 [144]

にひはりメモ

伊藤松宇
http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku13-1-a-3.htm

「にひはり」は成田山仏教図書館にもある模様。

また、芥川龍之介の俳句も掲載されているようだ。
管理人  ++.. 2006/03/24(金) 13:22 [145]

にひはりは、神奈川近代文学館にもあり。

三康図書館は土日休みだから、ちょっと行けないので、こっちのほうがいいかも。
管理人  ++.. 2006/07/04(火) 21:20 [229]

2006年3月18日 (土)

北斗と禁酒

2006年03月18日11:01

 大正15年、東京での恵まれた生活をなげうって、北海道へと舞い戻った違星北斗は、アイヌの同族のために活動を始めます。和人によって「滅び行く民族」という烙印を押されていたアイヌのイメージを一掃しようと、「俺はアイヌだ、アイヌはここにいるぞ」という叫びをあげたのでした。
 彼は「アイヌの手によるアイヌ研究」を志して、また全道各地のアイヌコタンをめぐって、バラバラだった同族の自覚を促し、団結を呼びかけて、コタンからコタンを結ぶネットワークを構築しようとしました。

 ところが、北斗のその熱い思いを裏切るように、その真摯な瞳に飛び込んできたのは、同族の悲惨な現実でした。
 貧困、病苦、差別、諦め。
 悪循環の構図でした。そして、その循環を加速させていたのが彼が「悪魔」とさえ呼んだ「酒」でした。

 違星北斗が「酒」について歌った歌をあげてみます。
(仮名遣いは現代仮名遣いに、漢字の表記も若干改めてあります)。

  酒ゆえか無智ゆえかは知らねども 
  見せ物のアイヌ連れて行かれる

  限りなき その寂寥をせめてもの
  悲惨な酒に まぎらそうとする

  いとせめて酒に親しむ同族に
  この上とても酒呑ませたい

  現実の苦と引き替えに魂を削る
  たからに似ても酒は悪魔だ!

  ああアイヌはやっぱり恥しい民族だ
  酒にうつつをぬかす其の態

  泥酔のアイヌを見れば我ながら
  義憤も消えて憎しみの湧く

  山中のどんな淋しいコタンにも
  酒の空瓶 たんと見出した


 北斗は、山中のコタンに、あるいは海辺のコタンに、あるいは故郷のコタンに、行く先々に、酒に溺れ、身を持ち崩す同族の姿を見ました。まさにそれは同族の心と体を蝕む「悪魔」だと考えていました。

 この「禁酒」への北斗の考え方は、すでに上京前に、恩師の奈良直弥先生のもとで結成した「茶話笑学会」のモットーの中にもあります。
 この「茶話笑学会」は、大正期から戦前のいわゆる「青年団」運動の流れの中にあるものと考えられます。
 この青年団の運動は、北海道に限らず、全国の村や町の地域コミュニティの中で、青年たち(男子だけでなく、女子もありました)を団結させ、修養させるという全国的なムーブメントで、青年団の指導には多くの場合、教育者や退役軍人など地元の名士があたったようです。
 青年団の活動はたとえば、「夜学校」のように夜集まって勉強会を開いたりして、青年たちの意識を高めてゆきました。
 貧困から抜け出すための「生活向上」のため「勤勉」し「貯蓄」を奨励し、知性や人格を磨き、そのベクトルは「よりよい人間、お国のためにお役に立てる人間になる」と言う方向に向いていました。その修養思想の中で、重要な要素が「禁酒」だったのです。

 大正時代とは、都会ではモダンな消費文化が花開いた時代だという反面、地方の青年たちにはストイックで右傾化の進んだ時代だったと言えるかもしれません。
 つまりは違星北斗は東京で、そういう時代の最先端の思想を吸収して北海道に帰ってきたのでした。

 違星北斗は思想の遍歴をした人で、地元の余市の青年団にはじまり、その影響から修養雑誌「自働道話」の西川光次郎、そのつてで東京に出て、社会運動団体「希望社」の後藤静香に傾倒する一方で、国粋的日蓮主義の田中智学の「国柱会」に入信もしていました。また、北海道に戻って「アイヌの父」と呼ばれた英国人宣教師ジョン・バチラーや、その養女のバチラー八重子の影響も受けました。奈良は北斗の恩師、田中智学は元日蓮宗の僧侶ですが、それ以外の人はキリスト教の洗礼をうけています。
 これらの人々が持っている思想は、一様にストイックで、「国家のためによい人間になるため修養しよう」というものであり、それが帰道後の北斗の「右傾的」とも読める発言のもとになっています。
 全国の津々浦々にあった青年団はもともとは、「若者組」と呼ばれるような、江戸時代からの農村漁村の互助的なコミュニティーであったわけですが、それが国家の思想支配の末端としての修養勉強会となったのが、この時代でした。
 「修養」は、苦しい日常を改善する「生活向上」のための手段として、若者の心をつかみ、じわじわと「お国のために」勤勉で従順で国民を作りだし、やがて未曾有の大戦争へと繋がっていくための準備が整っていったのでした。

 話がそれましたが、この「禁酒」というのは、単に酒をやめるということだけでなく、そういった軍国主義の時代へと向かうための、意外に重要なキーワードでもあったのです。

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