【幼少期】

2008年5月14日 (水)

違星ハル

 北斗の母。1871(明治4)年9月余市郡川村(現大川町)生。旧姓は都築。

 甚作との間に8人の子供(男児6人、女児2人)があった。梅太郎は21歳の時、竹次郎(滝次郎=北斗)は31歳の時の子である。この兄弟の構成は戸籍をもとにしたものだが、資料によって人数や名前に差異があるため、いろいろと疑問は残る)。

 ハルのことはほとんど記録が残っていない。北斗の発言および短歌などからわずかにその人柄がしのばれる程度である。

 ハルは若い頃、和人の家で働いていた経験があり、そのために学問の必要性を感じて、瀧次郎をアイヌの学校(いわゆる「土人学校」)ではなく、和人の学校に入れたという。当時、アイヌの子弟は「土人学校」と呼ばれた学校に入れられることが多く、尋常小学校が六年間であるのに対して「土人学校」は四年しかなく、教科も少なく、カリキュラムの面で差がつけられていた。
 北斗は母の強い勧めもあり、和人の尋常小学校に通うことになるのだが、そこで待っていたのは同級生による執拗ないじめであった。

 私は小学生時代同級の誰彼に、さかんに蔑視されて毎日肩身せまい学生々活をしたと云ふ理由は、簡単明瞭『アイヌなるが故に』であった。(「アイヌの姿」)

 北斗は小学生時代のことを、あまりいいようには言わない。北斗は自ら「
小学校六年生をやっと卒業した」(「淋しい元気」)という。

 
アイヌ、アイヌといつて非常に侮蔑され、時偶なぐられることなどもありました。学校にいかないうちは餓鬼大将であつて、和人の子供などをいぢめて得意になつてゐた私は、学校にいつてから急にいくぢなしになつて了ひました。この迫害に堪へかねて、幾度か学校を止めようとしましたが、母の奨励によって、六ヶ年間の苦しい学校生活に堪へることができました。もう高等科へ入る勇気などはとてもありませんでした。(「目覚めつつあるアイヌ種族」伊波普猷)

 実際のところは「高等科に入る勇気」があっても、家庭環境的に難しかったのかも知れない。万次郎と甚作、そして梅太郎という三人の稼ぎ手がいたわけだから、あるいは違星家にも北斗を高等小学校に行かせる余裕はあったのかもしれない。

 しかし、北斗に学問の必要性を説き、励まし続けた母親ハルは、大正の初めごろ、北斗が十二歳ぐらいの頃に亡くなってしまう。(ハルの没年については、早川勝美が「放浪の歌人」の中で大正元年11月11日、41歳としている)。

 母を亡くした北斗は、のちに母のことを偲んで歌を詠んでいる。

  洋服の姿になるも悲しけれ/あの世の母に見せられもせで

  親おもふ心にまさる親心/カツコウ聞いて母はいってた

(『北斗帖』)

  正直が一番偉いと教へた母がなくなって十五年になる

(『志づく』)

 確かに、母ハルの「学問大事」という信念は、北斗に学問という大きな武器を与えた。辛かった尋常小学校での六年間の勉強が、その後の自修のための基礎を付けたのは間違いない。伊波普猷は北斗が持参した同人誌『茶話誌』創刊号の北斗の宣言「アイヌとして」(正確には「アイヌとして 青年諸君に告ぐ」)を読み、「尋常小学校の教育しか受けない者が、あんな文章を書くとはたゞ驚くの外ありません」と、彼の文章力を高く評価している。残念ながら「アイヌとして」は現存しないが、彼の卓抜した文章力はその後の彼の代表的な、不朽の論文「アイヌの姿」を見てもよくわかる。
 「正直が一番偉い」という母の教えが、北斗の正直で実直な性格を育ませたのかも知れない。

 また、北斗は知里幸恵やバチラー八重子を女神のように崇拝しているように見える。このような女性観を持つに至ったのには、やはり思春期前に母を亡くしたという体験によるところが大きいのかもしれない。

 当たり前のことであるが、ハルがなければ違星竹次郎(瀧次郎)は生まれなかったばかりか、歌人としての違星北斗もまた、うまれえなかったのだと思う。

2006年12月29日 (金)

北斗の成績表

違星北斗の小学校の成績表のコピーを入手しました。そこからいろいろなことがわかります。

41年次
氏名 違星瀧次郎 生年月日 明治三十五年一月一日
住居 大川町番外地

入学年月日 明治四十一年四月一日
卒業年月日 大正三年三月廿四日

保護者
 氏名 違星萬次郎 住所 大川町番外地 職業 漁業
 児童トノ関係 祖父

学業成績   |1 |2 |3 |4 |5 |6 |
  修 身   |甲|甲|乙|乙|乙|乙|
  国 語   |甲|甲|甲|乙|乙|乙|
  算 術   |乙|乙|甲|甲|乙|甲|
  日本歴史--|--|--|--|乙|乙|
  地 理   |--|--|--|--|乙|乙|
  理 科   |--|--|--|--|乙|乙|
  図 画   |--|甲|乙|乙|乙|乙|
  唱 歌   |甲|甲|乙|乙|乙|乙|     
  体 操   |甲|乙|乙|甲|乙|乙|
  手 工   |--|--|乙|乙|乙|乙|
  操 行   |乙|甲|乙|乙|乙|乙|

修了の年月日 第一学年 明治四十二年三月廿三日
             第二学年 明治四十三年三月廿三日
             第三学年 明治四十四年三月廿四日
             第四学年 明治四十五年三月廿三日
             第五学年 大正二年三月廿四日
             第六学年 大正三年三月廿三日

在学中出席及欠席1年 2年 3年 4年 5年 6年
出席日数          244    190   242   229   206   227
欠席日数 病気       0   57      0      0       0      0
         事故       2       1      6    17      41    23

身体の状況
                  1年  2年  3年  4年  5年  6年
        身長  110.0   115.5   121.0   124.0   4.18    4.48

        体重   18.8     20.7     22.5     24.9    7.600  7.550
        胸囲  56.0     57.0     59.0     63.0    2.17   2.25
        脊柱  正       正       正       正       正     正
        体格   中       乙       甲       強       強     中

管理人  ++.. 2006/12/29(金) 00:46 [288]

 なぜか、祖父万次郎が保護者になっていますね。
 どうして父甚作ではないのでしょうか。

学業成績は、徐々に悪くなっていますね。
欠席も後半の学年にいくほど増えます。

> 身体の状況

 これは、なぜか4年生までがメートル法、5年生から尺貫法に単位が変わっています。

> 身長 |110.0|115.5|121.0|124.0|4.18尺(=126.7cm)|4.48尺(135.76cm)|
> 体重 |18.8|20.7|22.5|24.9|7.600 (28.5kg)|7.550(28.35kg)|

 驚くべき事に、5年生から6年生の間に身長は10センチ近くのびているのに、体重は減っている! 体格も「強」から「中」へと下がっていますから、かなり激やせしています。記録にはありませんが、なにか病気をしたのかもしれません。
 
> 体格 中 乙 甲 強 強 中

 小学六年生で母ハルの死を迎えるのですが、それが関係しているのでしょうか。

管理人  ++.. 2006/12/29(金) 01:14 [290]

2006年4月17日 (月)

「放浪の歌人・違星北斗」より


 武井静夫「放浪の歌人・違星北斗」より、オヤッと思ったところを抜き出してみます。
 この作品は、基本的には小説風の評伝といった感じですが、わりと精確なデータに基づいているような気がしますので、資料的にも価値があると思います。
 しかし、残念ながら掲載紙が不明で、入手したものは第二回までしかありません。
 北斗の誕生前より、小学校時代までしかありません。

 北斗違星滝次郎がいつ生れたかは、定かではない。明治三十四年の、多分暮れもおしせまってからのことであったろう。

 また、滝次郎と同じ頃、中里徳太郎の子供も生まれたとあります。

 万次郎は、この孫に滝次郎という名をつけることにし、生れた月を明治三十五年一月一日とした。徳太郎もそれに合わせて、子供の生れた日を一月一日にすることにした。名前は元三とした。

 また、北斗の兄弟姉妹についても、除籍簿をもとに詳しく書いてあります。

 万次郎は、伊古武礼喜の子供として、嘉永五年(一八五二)九月十一日に、後志国余市郡川村番外地に生れている。伊古武礼喜は、イコンリキに当てた漢字名である。川村は余市町大字大川町と改称される。妻のテイは、同じ川村の伊曽於久(イソオク)の娘で、嘉永六年九月六日に生れている。万次郎より一つ年下である。二人の間に、長女テル(明治一九・一一・六生)と、二女のキワ(同二九・一二・一四生)とが生れている。
この籍に養男として、甚作が入る。文久二年(一八六二)十二月十五日に生れているから、十歳しか年が違っていない。
この甚作が、やはり同じ川村から、妻のハル(明治四・九生)を迎え、明治二十五年一月八目に、長男の梅太郎を生んだ。翌二十六年二月五日、二男が生れているが、三月九日に死去、ついで二十七年五月十目に、長女ヨネが生れている。二女ハナは、二十九年八月十六日に生れて、三十二年十一月二十三日に死亡する。この二十九年は、万次郎の二女キワの生れた年である。
滝次郎は、養子甚作三男として、明治三十五年一月一日に生れたことになっている。この日、中里徳太郎の家では、長男の元三が生れている。ついで甚作の家では、四男竹蔵(九日で死亡)、三女ツ子、五男松雄(四カ月で死亡)と生れる。六男竹雄とはふた子である。


 これによると、イコンリキの子である万次郎は、イソオク(違星家)の娘ていの「婿養子」になるようですね。
 北斗の父・甚作は婿養子ではなく、男児がなかったために中里家からもらった養子になります。
 一説には梅太郎はハルのつれ子で、甚作とは血のつながりはないという話があり、それが原因で梅太郎と北斗は仲がよくなかったという話を聞きましたが、確証はありません。
 いずれにせよ、戸籍上は『コタン』の八人兄弟は正しいようです。
 ただ、甚作とハルの間にはこの他にも養子がいたようではあります。

管理人  ++.. 2006/04/17(月) 00:33 [171]

 出生届けを出したのは、

ようやく一月九目になって、出生届を持ち役場に出かけた。

 とあり、届けたのが一月九日だということです。
 北斗と同じ一月一日生まれとして届けられた中里元三は、

 中里元三は、三月二十四日に、母のサワとともに、戸籍に入れられた。しかし、その翌月の四月十五日に死亡した。わずか数か月の生命であった。

 とあります。
 
 また、「違星」姓について、

 違星はイボシなのかエボシなのか、はっきりしていない。このいきさつからいうとイボシでいいはずであるし、滝次郎自身も「我が家名」で、イボシと読み慣わされるようになったといっている。しかし、本人はエボシと言っていたらしく、古田冬草は「違星北斗のこと」(昭和二八・三『よいち』)において、わざわざエボシとかなをふっている。

 これは、イボシでいいのでしょう。ただ、北斗自身の発音がよくなかったのだと思います。
 この古田の記事は、探してみたいと思います。
 『よいち』(昭和二十八年)は道立図書館にあるようですので、また調べてみます。

 

管理人  ++.. 2006/04/17(月) 01:03 [172]


 この「放浪の歌人・違星北斗」は、だいたい次のような内容になっています。

第1回
●北斗誕生前夜。祖父違星万次郎と、若き中里徳太郎。徳太郎の結婚。
●徳太郎の父・徳蔵の死(和人によるリンチ:金田一の「あいぬの話」より)、その後、徳太郎の小学校入りに万次郎が尽力したというエピソード。
●違星甚作・ハルの子として滝次郎誕生。同じ頃、中里元三誕生。ともに1月1日生まれとして戸籍にいれる。
●違星甚作とハルの子どもの誕生と死を除籍簿より紹介。
●徳太郎の子、元三の死。

第2回
●万次郎の回想。余市場所の歴史。
●万次郎の少年時代、東京留学。
●違星家の家名とエカシシロシ
●滝次郎の幼少期
●滝次郎の小学校時代
●奈良直弥先生
●滝次郎の小学校時代の成績と病気、母の死

 と、まあこんな感じです。

管理人  ++.. 2006/04/19(水) 23:00 [173]

明治四十一年四月一日、滝次郎は、余市大川尋常高等小学校に入学した。
前日、新しく洗いなおしてもらった着物に着かえると、胸がわくわくした。わらぐつも新しくなっていた。教科書はふろしきにつつんで、背中にしょった。
学校へは万次郎が連れていった。父の甚作は出稼ぎが多いせいもあって、公的な会合には、いつも万次郎が出た。保護者にも万次郎がなった。万次郎は弁もたったし、読み書きにも通じていた。
担任の先生は、奈良直弥といった。小柄でやさしそうな人だった。滝次郎は、毎日の学校が楽しかった。勉強もよくわかったし、先生もたえずはげましてくれた。


 このあたりは、どこまで信用していいもんかわかりませんね。
 例えば、公的な会合にはいつも万次郎が出たのか? 奈良先生は小柄だったのか? これを書いた武井氏はどこまで調べて書いたのかわかりませんので……。

  

管理人  ++.. 2006/04/19(水) 23:12 [174]

たとえば、次のようなエピソードも同様です。

クラスの中にも、意地悪な子がいた。体操の時間、徒競走の練習でころんでビリになると、おどり上って、「アイヌ!アイヌ!」と手拍子ではやした。それに五、六人が和した。
その騒ぎを聞きつけて、とんできた奈良先生は、いきなりその子をひきずり出して、なぐった。ふだんはおとなしい先生のはげしい怒りに、生徒はとまどってぼんやりしていた。
「友達の不幸を笑うやつがあるか」
先生はそう言っただけで、アイヌとも、滝次郎とも言わなかった。その目には涙がうかんでいた。
その子は、滝次郎のところへ寄ってくると
「許せな」
と、きまり悪げに言った。滝次郎は、そんな先生のはからいが気にいった。


 まったくのフィクションなのか、それともある程度事実を反映しているのか。

管理人  ++.. 2006/04/19(水) 23:20 [176] 

滝次郎の成績に関する記述です。

一年生のときの欠席は、二日しかない。成績も、算術と操行とが乙だけで、あとの科目はすべて甲である。
万次郎は、この成績をことのほか喜んだ。和人に負けなかったからではない。はるかにとび抜けた成績をとったこの孫の能力が、同族の未来をどうかえてくれるかに、期待したからである。
二年生になると、大病を病んだ。医者にかかるにも、金がなかった。病気欠席は、ついに五十七日におよぶ。それにもかかわらず、成績の中で下っているのは、体操の乙だけ、操行は甲に上って、甲の科目は五つにたっている。
注目すべきは、操行の甲である。品行方正で利はつな少年の面影を、そこにかいまみることができるのである。(中略)
四年生からは、事故による欠席が目立ちはじめる。事故とは、理由のわからない欠席ということである。この年十七日を数えた欠席は、五年生になって、なんと四十一白にも達している。成績はすべてが乙、これがあの滝次郎であったかと、疑いたくなるほどの変りようである。
この年、もう一つの悲しいできごとが重なる。母ハルの死である。
大正元年十一月十一目、ハルは四十一歳であっけなく死んだ。
(中略)
六年生になると、この事故による欠席は、二十三日にへる。この年、算数が甲に上っている。すくなくなった欠席日数が二十三目である。それだけ休んで、算術が甲なのである。そのことが、滝次郎の小学校時代を象徴する。この成績と欠席との奥に、やりきれない無念の表情が、今もありありとうかんでくるような気がする。大正三年三月、滝次郎は、尋常科を卒業した。


 このように細かい数字や評価について書かれていますので、おそらく実際に北斗の成績を調査したのだと思います。
 もう一つ貴重な情報は、大正元年11月11日という、母ハルの亡くなった日が記されていることです。

管理人  ++.. 2006/04/20(木) 07:53 [177]

2005年10月 7日 (金)

日本残酷物語

 平凡社『日本残酷物語4 保障なき社会』を読んでいたら、どこかで見た文章が。


 村上久吉氏は、あるアイヌ少年の苦悩の印象をつぎのように伝えている。「じぶんが通るのを見ると子どもたちが、アイヌ、アイヌという。聞こえなければ聞こえないだけに、何かささやいているように思われ、口は閉じていても目が云っている。行きも、帰りも、昨日も、今日も……毎日のことについ陰鬱な少年になり、病身にさえなって、はては血をはき、世をのろい、人をのろい、手あたり次第に物をたたきわって、あばれ死にでもしたくなる。生意気ざかりの年頃には、『アイヌがどうした』と立ちもどってなぐりとばす。不意にうたれた子どもたちは意外だという顔をして、やがて泣いて逃げてゆく。そのまた様子があとまで目について、自分が打たれたよりも苦痛であった」というこの文章の最後の箇所はとくに意味深い。虐げられたものの傷が予想以外に深いことにアイヌみずから気がついたとき、彼らの生涯抜きがたい真の苦しみがはじまることを告げているからである。

(無署名記事だが、筆者は高倉(新一郎)と文中にある)。


これは、金田一京助の「あいぬの話」の北斗の項と内容がほとんど同じですね。村上久吉には『あいぬ実話集』に「熱血の違星瀧次郎君」、『あいぬ人物誌』に「熱血青年違星滝次郎」がありますが、どちらも金田一京助の文章の引き写しです。
 まあ、早い話、金田一の文章をパクっているのですが、それが名著と名高い『日本残酷物語』に載っているというのはいやはやどうしたことか。
 
 
 

管理人  ++.. 2005/10/07(金) 00:12 [18]

云うまでもなく、このアイヌ少年というのは北斗のことです。念のため。
管理人  ++.. 2005/10/07(金) 00:13 [19] 

さて、この村上久吉『あいぬ実話集』は、そういうことでまことに信用ならん部分があるのですが、そういう本に限ってオヤッという記述がある。


 余市アイヌの傑物中里徳太郎君。この中里君の感化をうけて、力強く民族に目ざめ、勤労のかたはら、自ら雑誌を作つて部落の青少年に呼びかけ、毎号巻頭にはその標語として「よき日本人に」といふ題字をかゝげ、まつすぐに同化の一路をすゝんだ熱血男児違星瀧次郎君(金田一先生曰く、兄は松太郎でこれは弟であるから竹次郎であつた。所が届出の時に竹を瀧に誤つたのであると)がある。


うーん。初耳ですね。
 長男は梅太郎のはずなんですが、もしかしたらやはり松太郎という兄がいたのかも? (『北の光』に「違星松太郎」という名前が出てくるのも気になるけど)。
 しかし、わざわざ金田一京助の名前を出しているところを見ると無視できないですね。
 本当なら、以前書いた余市方言の「イ段音」と「エ段音」の混同が、こんなところにも影響を与えたことになりますね。

管理人  ++.. 2005/10/07(金) 00:25 [20] 

やっぱり……気になるなあ。

村上久吉(1898-1981)は旭川中学教諭、郷土史家。昭和30年、旭川文化賞受賞。
 著作には『旭川市史試詠百題』『旭川市史小話』『あいぬ実話集』『あいぬ人物伝』『字原を探る』『盲唖人物伝』『郷土を拓く人々』などがあるようですね。

管理人  ++.. 2005/10/08(土) 00:03 [22] 

私はこの「竹次郎」が戸籍届け出の際、エ段音がイ段音に訛る訛りが原因で「滝次郎」になってしまったというのを信じることにしました。

やっぱり、金田一先生の名前を出されてはしょうがない。『あいぬ実話集』執筆当時は当然金田一京助は生きていたわけで、旭川中学の村上先生ともあろう人がそんな嘘をつくとも思えない。
それに、東京留学した祖父万次郎はともかく、父甚作は読み書きに不自由した可能性が高い。

(なら、なぜ学のある祖父の万次郎がヘルプしない? というところですが、万次郎と甚作は実の親子ではなく、甚作は中里からの養子なので微妙なところではないのか、と思うんです。実際、同じ家に住んでいたのかも疑う必要があると思います。近所には住んでいたでしょうが)。

管理人  ++.. 2005/10/09(日) 23:12 [24] 

つまり、こういうことかと。
「甚作さんヨォ、赤ちゃんの名前はどうするんだい?」
「おう、次郎(タジロウ)にしてくれんか」
「そうか。次郎(タジロウ)かね。そりゃ良い名前だ」
「おう、良い名前だともよ」
「で、甚作さんよ、子どもの生まれた日付はどうするよ?」
「わすれちまったでよ、めでてぇから1月1日にしてくれねぇかな」
「1月1日ね。そりゃめでたいね」

……というような感じだったのではないかと。
(あくまで想像)。

管理人  ++.. 2005/10/09(日) 23:22 [25] 

2004年12月 5日 (日)

金田一京助『思い出の人々』

 poronupさんに教えていただいた、金田一京助随筆選集を入手。
 色々と新発見がありました。以下、金田一京助随筆選集2『思い出の人々』より。

(1)中里徳太郎

「年少のころから、村の老酋長を助けて、その知恵袋とも、懐刀ともなって余市のアイヌ部落をして今日あらしめた有力者であります。
 余市のアイヌ部落のために、土地払い下げを願い出たり、余市部落の互助組合を組織したり、そのためには役場へお百度をふんで、町役場ではだめと見切りをつけて、札幌に出て道庁に願い出てみたり、そのためには幾年の努力、身銭をきって奔走し(中略)千辛万苦、ついにみな目的を達して、巨万にのぼる、村の共同財産というものができ、今でも部落の人の仕事をする時に資金の融通ができたり、和人の町屋と軒をならべていて、少しの遜色もないほどに、余市部落の生活を向上させた功労者(後略)」

 とあります。
 また「中里徳太郎君の先代は、徳蔵といって、これがまた余市のアイヌの傑物」で、アイヌと和人の両方から信望を得ていたのですが、酒の席で寄った和人と喧嘩になり、鳶口を持った数十人によってめったうちにされます。

 瀕死の徳蔵は、九つの徳太郎に遺言を残します。

「『(前略)徳太郎、お前、早く大きくなって、父さんのあだを討て! (中略)が、勘違いをしてはいけない。刃物三昧のあだ討ちならたやすいが、父さんのいうあだ討ちはそれじゃないんだぞ。いいか。理不尽に、父ちゃんたちが、こんな目に合わされるのはなあ、父ちゃんたちが読み書きがないところから、無学文盲なところから、ばかにされてこうなんだ。くやしい。お前はなあ、明日からでも、すぐ学校へいって、うんと読み書きを習うんだ。そしてなあ、早く和人並みになって和人を見返してやれ、それが父さんのあだ討ちだぞ、わすれるなよ』」

 徳太郎は、役場にしつこく頼み込んで、当時まだ、アイヌの子どもは入れなかった学校に入れてもらい、勉強を始めます。最初は同級生からののしられ、侮辱されたが、そのうちに成績も首席になり、和人からも親しまれ、尊敬されるようになります。
 彼は余市の名誉職をつとめるようになり、余市の青年たちの崇拝の的となり、青年団長として青年たちを教え導く存在となります。

           ※

 北斗が「東京アイヌ学会」で語り、伊波普猷に勧めれれて「沖縄教育」に載せたという「アイヌの先覚者中里徳太郎を偲びて」は、おそらくこの金田一の中里徳太郎に関する記述とそう変わらないかもしれません。

(2)違星竹次郎

(西川光次郎の手紙と同様に、これも「滝次郎」ではなく、「竹次郎」になっています。もしかしたら、当時の北斗は「竹次郎」という名前を普通に使っていたのかもしれません。兄の名前が梅太郎ということもあり、もっと調べてみる必要があるのかもしれません)。

北斗の部分は、全文引用します。

「さていま一つの余市の方はというと、中里徳太郎君の息のかゝった余市の青年に違星竹次郎君がありました。中里徳太郎君の感化をうけて、力強くアイヌに目ざめ、勤労のかたわら、みずから雑誌を作って同村内の青少年に呼びかけ、毎号巻頭にはその標語(モットー)として、よき日本人にという題字を掲げてまっすぐに同化の一路を進む方針であったものでした。しかし違星竹次郎青年のそうなるまでには、それはなか/\、たいへんな苦悩を体験した結果でありました。
 生まれて八つまで、家庭ではアイヌであることも何も知らずに育ったのだそうです。八つで小学校にあがって、他の子供から「やいアイヌ、アイヌのくせになんだい」といわれて、泣いて家へ帰って、両親へわけをたずねて、はじめて自分たちがそういうものだということを知ったそうです。それまで、何の曇りもなく無邪気に育ったものが、こゝに至って急に穴の中へさかさに突き落とされたよう、「どうしてアイヌなんどに生まれたんだろう」と、魂を削られるように悩みつゞけて成長しました。」

         ※

 この、北斗は8つまで、自分がアイヌであることを知らなかったというのは、初めて聞きました。

「自分が通るのをみると路傍の子供などまで、「アイヌ、アイヌ」というものですから生意気ざかりの年ごろには、「アイヌがどうした」と立ちもどって、なぐりとばして通ったこともあったそうです。子供が意外な顔をして、打たれてびっくりして泣いた様子が、あとまで目について、打たれたよりも苦痛だったと申します。腹立たしく町を通ると、自分を目送りして「アイヌ、アイヌ」とさゝやいたのが、こっそりさゝやくのも、早鐘のように耳をうち、口をとじていわないものでも、眼がそういって見送ったように思え、行きも、返りも、昨日も、今日も、毎日毎日のことですから目も心も暗くなって、陰鬱な青年になり、ついには病身になり、血をはきなどして、世をのろい人をのろい、手あたり次第に物をたゝき割って暴れ死にたくなったそうです。
 村の人の話では、当時の違星青年は、よく尺八を吹いて月夜の浜を行きつ戻りつ、夜もすがらそうしていたこともあり、まっくらな嵐の晩に磯の岩の上にすわって、一晩尺八を吹いていたこともあったそうです。

              

 この、尺八のくだりも初めて知りました。
 尺八を吹くということは、短歌の中にも出てきていましたが、このようにいろんなところで夜尺八を吹いていたというのは、知りませんでした。まるで苦行のように嵐の磯の岩の上で尺八を吹いている姿は、北斗らしいといえるかもしれませんが、なんとも痛々しくて、つらい話です。

 しかるに、竹次郎青年、ある日ふと隣村の青年会へ演説してくれと呼ばれました。病気だからと一度は断ったが、むしゃくしゃ、込みあげている、日ごろの鬱憤を爆発さして、毒づいてやろうと、二度目に承知していったそうです。たま/\村の学校が会場で、教員室に入って控えていると、学校の先生が、「ちょっと君に聞きたいことがある」といって次の室へ呼んでいうのには、
「いつかだれかに一ぺん聞こう/\と思って、つい聞きそぐれていることなんだが、我々は、いうまいと思うけれど、必要以上いわなきゃならないことがあるものだ。もしいわなければならなくっていう時には『アイヌ』といった方が君たちに聞きよいか、『土人』といった方が聞きよいか、君たちに、どっちの方が聞きよいのだろうか」
ということだったそうです。
 それを聞いた違星青年は茫然として、はいといったまゝ、しばらく面を伏せて、
「ありがとうございます。さようですか、そういうお心持ちでおっしゃってくださるなら、アイヌでも、土人でも、どちらをおっしゃってくだすっても、少しも痛くはありません、どちらでも結構です」
といってほろりと落涙しました。
 こゝです、わずかばかりの心づかいですが、人間一人を救ったやさしい心づかい、この青年がこれをきっかけに心機一転するのです。
 やがてベルが鳴って時間になって、演壇に立った違星青年は、
「諸君、我々はまちがっていた、ひがんでおりました。和人の中にもアイヌという一語を口にするのに、このくらい心づかいをしていてくださる方が、少なくともこゝにお一人あったのです。私は今の今まで、こういうことのあるとは思いもよりませんでした。石だから石、木だから木、アイヌだからアイヌというのに、何の不当があろう。一々それを侮辱されるものに思ったのは、我々がアイヌでありながら、アイヌであることを恥じていたからだ。自分の影法師に自分でおびえていたのだ。一人の心は万人の心だ。世間が広いから。我々の経験が狭いから。してみれば、我々の久しい悩みは、我々自身の暗愚なひがみが、これをかもしていたのじゃなかったか! 私はあやまる!」
声涙ならび下り、感動と悔悟に嗚咽して、涙にぬれたこぶしをふるって、たゞ怒号したそうであります。
 好感、憤りは物みな焼かずんばやまざらんとした熱血男子、悔悟する時に滂沱として衆目の前に号泣したものだったそうです。」

               ※

 いわゆる北斗の「思想上の一大転機」です。
 この一大転機を描いた記録には北斗の「淋しい元気」(新短歌時代)、伊波普猷の「目覚めつつあるアイヌ種族」、それに金田一の「慰めなき悲み」などがあり、この「あいぬの話」も「慰めなき悲み」の内容を詳しくした感じですね。
 この北斗・伊波・金田一のバージョンの中で、金田一バージョンにだけあるのが、北斗の演説シーン。思想上の一大転機を迎えた北斗は、観衆に対して演説を打つのですが、これはどうも金田一の中で潤色されたのではないかと思います。
 衆目の前でさめざめ泣いたとありますが、北斗および伊波のバージョンでは、家に帰って泣いた、となっており、おそらくはそちらのほうが正しいのでしょう。金田一版はドラマチックに過ぎます。

 この青年を囲繞(いにょう)する現実は、昨日も今日も塵一つ増減したものがなかったのですが、しかも、青年の目に、それ以来、世の中が一変したそうです。
 その心をいだいて会ってみると、昨日まで無情に見えた和人も、存外柔らかに温かい手ざわりを覚え、我から進んでにっこり握手することができたそうです。
 そして驚いたことには、血まで吐いた病気もぐんぐんなおって、大いに村のために茶話会を斡旋して開いたり、茶話会の機関誌を、謄写版でてずから造って若い人々を啓発するに努めたそうです。
 たま/\東京に出て来て私などにはじめて会い、アイヌというものは、おそく生まれた弟のようなもので、這い/\していても恥じることがないどころか、人間生活の太古の姿を偲ぶ貴重な生活事実であって、我々が真剣にそれを研究しているのだ。そればかりではない、アイヌはひょっとして白人種かもしれないのだよ。そういうことになったらアメリカで、日本人の人種問題がなくなってしまうではないか、などいうような話を聞かされて、アイヌであることをのろう今までの気持ちからぷっつりと蝉脱して、天真爛漫、だれにも愛されて、愉快な東京生活をつゞけておられたのでした。

        ※

 この、アイヌ白人説は現在では否定されています。ただ、金田一はこのアイヌ白人説を積極的に信じていたわけでもなく、ただ当時、劣っていると見られていたアイヌの人々を力づけるために、こういう説もある、という意味でよく用いていたようですね。

 しかるに、まっ正直な違星青年は、東京には私ほどのものは箒で掃くくらい、箕で簸(あお)るくらい、沢山ある。いや沢山ありすぎて、就職難を告げているのに、私なんどが、アイヌのくせに、和人ぶりをして、その席をふさいでいるのは申しわけのないことだ。
 私がアイヌでなかったら、だれがこんな高い月給で使ってくださるか。アイヌなものだから、かわいそうにと同情して、何もできもせぬものにこんな高給をくださるのだ。おめ/\頂戴しているのは申しわけのないことだ。それでなくってさえ、アイヌ部落にいるのをきらって、少し目がみえてくると、みんな部落を飛び出して、よその飯を食うので、いよ/\部落はつまらないものだけが残る。アイヌを見に部落に来てくださる人はアイヌといってつまらない人間だと見て帰られるわけだ。祖先に申しわけのないことだ。
 これは、帰って同族の世話をもみ、また同族のことを詳しく知って、東京のご好意の先生がたにご探索の労の一助とでもなるべきだ。
 そういって北海道に帰ったのでしたが、からだを虐使し、若い時にやったことのある肺結核を再発させ、

  世の中は何が何やらわからねど死ぬことだけはたしかなりけり

の詠を残して世を去りました。

          ※

 これで、北斗の項は終わりです。
 この「あいぬの話」は、「違星青年」と「慰めなき悲み」をあわせたような内容ですね。
 発表年代がいつごろかがわかれば、どちらが先かがわかるのですが。

(3)中里篤治(凸天)

 この「あいぬの話」では、中里篤治は「徳治」となっていますね。「篤治」の方が正しいです。
 違星滝次郎は「竹次郎」になっているし・・・なにか理由があるのでしょうか。

 違星竹次郎君の無二の親友が、中里徳太郎の一子、徳治でした。父の太っ腹だったのに比して、これは、俊敏細緻、よく父の偉業を受け継いでほとんど一人で互助組合のことにあたって、過労のあまり、病に倒れて、惜しいことをしましたが、この人々の涙ぐましい努力のあとは、決してそのまゝにやんでしまいません。子供たちにも利口な子らがありますし、余市だけはアイヌ部落も和人町に伍して遜色なく健全に日本化しております。

 金田一をはじめとする、当時の親アイヌ派の文化人のほとんどが、この「日本化」「同化」こそが、アイヌを「滅亡」から救う、唯一の方策だと考えていたようで、アイヌである違星北斗や中里篤治も恩師でアイヌ青年の修養会「茶話笑学会」の顧問でもあった奈良直彌や、奈良を通して、西川光次郎の影響を受けて、「よき日本人に」なるために、という考えをもって活動していたようです。

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2004年12月 2日 (木)

違星北斗の写真

 投稿者: poronup  投稿日:12月 2日(木)00時07分27秒

三省堂の『金田一京助随筆選集2 思い出の人々』に収録されている「あいぬの話」の中で違星北斗と中里篤治が一緒に写っている写真が紹介されています。この随筆は『金田一京助全集』に収録されていますが写真は省略されています。この写真は初出時に掲載されたものなのか、随筆集に初めて掲載されたものなのかは分かりません。

この随筆の初出は分かりませんが、金田一全集を見れば分かると思います。手元にありませんので図書館で調べてみます。

中里篤治は中里徳太郎の息子です。中里徳太郎については上に挙げた随筆で紹介されています。

余市のアイヌ民族史・アイヌ文化については地元で何人かの方が調査しているそうですが少数の報告文が発表されているだけです。

「アイヌプリ」という言葉は通常儀式などにおける「アイヌのやり方」を指すことが多いので、アイヌの民族衣装について「アイヌプリ」と表現することはあまりないような気がします。


篤治の写真!  投稿者: 管理人  投稿日:12月 2日(木)12時43分45秒

 ご教示ありがとうございます。

 なんと、中里篤治の写真があるのですか! 早速週末に図書館に行ってしらべてみたいと思います。

 それに、中里篤治が中里徳太郎の息子である、ということまで!

 ああ、感謝します。

 ほんとうにありがとうございます。

 助けていただいてばかりなので、私もちゃっと研究しなければ、と襟を糺す思いです。

 

 本当に知らないことだらけです。

 

 さきほど、大阪市立図書館の蔵書検索をしてみたら、「予約中」とありました。残念。

 大阪「府立」図書館のほうにはありましたので、そちらに行ってみたいと思います。

 ああ、早く週末になって、その本を読みに行きたいと思います。

2004年11月28日 (日)

違星梅太郎

 投稿者: poronup  投稿日:11月28日(日)08時21分17秒

『河野広道ノート 民族誌編1 イオマンテ・イナウ篇』(北海道企画センター)に、違星家のシロシ(パスイなどに彫る印)についての聞き取りの記録が載っていますのでご覧ください。


それから  投稿者: poronup  投稿日:11月28日(日)08時35分13秒

名取武光の論文のことは知りませんでした。

今度その論文を探してみます。

能登酉雄は両親が東京留学中に生まれた子供ですから、むしろその両親が同窓的な存在だと思います。世代的には北斗のおじさんぐらいの歳なのではないでしょうか。

ちょうど先ほどネットで検索したら次のサイトが引っかかりました。

http://www.city.sapporo.jp/kitaku/rekishi/epi1-35.html

それから東京留学時代の写真が北大のウェブサイトで見れるようになっています。

(いろいろな本に掲載されているのでご覧になったかもしれません。)

http://ambitious.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/photo/doc/0B025630000000.html

http://ambitious.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/photo/doc/0B025620000000.html

この中に違星万次郎や能登酉雄の両親が写っている可能性が高いのですが、今のところ誰が誰なのか分からないのです。


ありがとうございます。  投稿者: 管理人  投稿日:11月28日(日)11時33分30秒

 なるほど。

 能登酉雄はかなり年上なんですか。北斗の祖父と父の間ぐらいでしょうか。

 (今見たら、「東京留学」の際には、祖父万次郎は30すぎでしょうか。

 けっこういい年です。結婚して、すでに父甚作が生まれて10歳になっているんですね)

 能登酉雄が10代後半から20代ぐらいだとすれば、まさに「おじさん」という年代ですね。

 早速、河野広道の本を探してみます。

 いろいろサイトを教えていただき、ありがとうございます。

 札幌北区のページ、私もじつは、同じ頃だと思うのですが、私も検索で見つけたばかりだったんです。能登さんは茨戸アイヌの生き字引のような人だったのでしょうね。

 

 写真は、この中に万次郎がいると思って見たことがありませんでした。北斗の面影を探そうとしてみたのですが、難しいですね。


アイヌ留学生写真  投稿者: poronup  投稿日:11月29日(月)03時56分44秒

このうち、真ん中にいるアットゥシを着た男性が札幌アイヌの琴似又市です。

この写真は、確か皇居で皇太后にアイヌの舞踊を披露した時に帰りに撮った写真だったと思います。

今思い出しましたが、この写真の裏に、誰が誰なのか書いてあるという話をとある方に聞いたような木がします。北大図書館で現物を見れば人物が特定できるかもしれません。


もう一つ参考までに  投稿者: poronup  投稿日:11月29日(月)04時15分7秒

同じ北大に、余市で1917年に撮られたアイヌの集合写真があってウェブでも見られるようになっています。

この中に違星北斗本人もしくは係累の方が写っているかもしれませんが、一人一人があまり大きく写ってないので特定が難しいです。実物を見ればもう少し詳しく分かるかもしれません。

この写真に写っている人々が誰と誰なのか地元の郷土史研究家の方が古老に聞いて確認しているらしいですが詳しいことは分かりません。

http://ambitious.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/photo/doc/0B030040000000.html


つらだましひ  投稿者: 管理人  投稿日:11月29日(月)16時10分28秒

 poronup様。ご教示ありがとうございます。

 なかなか、集合写真では、親しい人でないと、個人の認識は難しいでしょうね。宿題が出来ました。

 写真といえば、違星北斗の肖像は草風館版『コタン』に掲載されている写真のみだと長らく思っていましたが、そういえば『アイヌの歌人』に掲載されている写真は微妙に表情が違います。気のせいかもしれませんが、すこし柔らかい気がします。別の写真なのかもしれません。今手元にありませんが、今度詳しく調べてみようと思います。

  獰猛な 面魂を よそにして/弱い淋しい アイヌの心

 どちらも、険しい顔つきの中にも目の優しさ(と強さ)が印象的な写真です。


余市の写真  投稿者: 管理人  投稿日:11月30日(火)11時23分14秒

 余市の写真は、写っているとしたら、北斗は15歳ですね。

 北斗の同年輩だと思われる中里篤治(凸天)や、その親類と思われる中里徳太郎(余市アイヌ一番の先覚者ということですが、篤治の祖父か叔父のような人でしょうか?)も写っている可能性は高いでしょうね。

 中里徳太郎に関しては、アイヌの紳士録のような書物に載っているのかもしれません。(「北海道史人名字彙」には載っていませんでした)。そういう本を探したことがあるのですが、結局見つからずに今日にいたっています。

 写真の人は和装、アイヌプリ(使い方合ってますか?)、洋装の人がいますが、和人も何人か混じっているようなですね。

 拡大するとだいぶ荒くなりますが、なかなか興味深いです。

 なかなか北海道まではいけませんので、こういう写真が載っている本かなにかがあれば、いいなあと思います。


河野広道ノート  投稿者: 管理人  投稿日:12月23日(木)05時00分1秒

 違星北斗の兄、梅太郎の談話が載っている「河野広道ノート民族誌篇(イオマンテ・イナウ)」入手。

 違星梅太郎氏談(1931.5.24?、余市)として

1)《違星家シロシ、三宅家シロシ》

 

2)《違星家蔵イクパシュイおよびキテのシロシ》

というのがあり、記号が載っています。(記号なので、ここには表示できませんがHTML化の時にちゃんとします)。

この「違星家のシロシ」が「※」の左右の「点」がない形です。

北斗は「エカシシロシ」は「※」だといっていますが、もし違星家のシロシ=エカシ・シロシなら、「※」というのは正確ではないんでしょうね。

 

 ここには能登酉雄の談話も載っています。

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