【少年時代】

2008年5月14日 (水)

違星ハル

 北斗の母。1871(明治4)年9月余市郡川村(現大川町)生。旧姓は都築。

 甚作との間に8人の子供(男児6人、女児2人)があった。梅太郎は21歳の時、竹次郎(滝次郎=北斗)は31歳の時の子である。この兄弟の構成は戸籍をもとにしたものだが、資料によって人数や名前に差異があるため、いろいろと疑問は残る)。

 ハルのことはほとんど記録が残っていない。北斗の発言および短歌などからわずかにその人柄がしのばれる程度である。

 ハルは若い頃、和人の家で働いていた経験があり、そのために学問の必要性を感じて、瀧次郎をアイヌの学校(いわゆる「土人学校」)ではなく、和人の学校に入れたという。当時、アイヌの子弟は「土人学校」と呼ばれた学校に入れられることが多く、尋常小学校が六年間であるのに対して「土人学校」は四年しかなく、教科も少なく、カリキュラムの面で差がつけられていた。
 北斗は母の強い勧めもあり、和人の尋常小学校に通うことになるのだが、そこで待っていたのは同級生による執拗ないじめであった。

 私は小学生時代同級の誰彼に、さかんに蔑視されて毎日肩身せまい学生々活をしたと云ふ理由は、簡単明瞭『アイヌなるが故に』であった。(「アイヌの姿」)

 北斗は小学生時代のことを、あまりいいようには言わない。北斗は自ら「
小学校六年生をやっと卒業した」(「淋しい元気」)という。

 
アイヌ、アイヌといつて非常に侮蔑され、時偶なぐられることなどもありました。学校にいかないうちは餓鬼大将であつて、和人の子供などをいぢめて得意になつてゐた私は、学校にいつてから急にいくぢなしになつて了ひました。この迫害に堪へかねて、幾度か学校を止めようとしましたが、母の奨励によって、六ヶ年間の苦しい学校生活に堪へることができました。もう高等科へ入る勇気などはとてもありませんでした。(「目覚めつつあるアイヌ種族」伊波普猷)

 実際のところは「高等科に入る勇気」があっても、家庭環境的に難しかったのかも知れない。万次郎と甚作、そして梅太郎という三人の稼ぎ手がいたわけだから、あるいは違星家にも北斗を高等小学校に行かせる余裕はあったのかもしれない。

 しかし、北斗に学問の必要性を説き、励まし続けた母親ハルは、大正の初めごろ、北斗が十二歳ぐらいの頃に亡くなってしまう。(ハルの没年については、早川勝美が「放浪の歌人」の中で大正元年11月11日、41歳としている)。

 母を亡くした北斗は、のちに母のことを偲んで歌を詠んでいる。

  洋服の姿になるも悲しけれ/あの世の母に見せられもせで

  親おもふ心にまさる親心/カツコウ聞いて母はいってた

(『北斗帖』)

  正直が一番偉いと教へた母がなくなって十五年になる

(『志づく』)

 確かに、母ハルの「学問大事」という信念は、北斗に学問という大きな武器を与えた。辛かった尋常小学校での六年間の勉強が、その後の自修のための基礎を付けたのは間違いない。伊波普猷は北斗が持参した同人誌『茶話誌』創刊号の北斗の宣言「アイヌとして」(正確には「アイヌとして 青年諸君に告ぐ」)を読み、「尋常小学校の教育しか受けない者が、あんな文章を書くとはたゞ驚くの外ありません」と、彼の文章力を高く評価している。残念ながら「アイヌとして」は現存しないが、彼の卓抜した文章力はその後の彼の代表的な、不朽の論文「アイヌの姿」を見てもよくわかる。
 「正直が一番偉い」という母の教えが、北斗の正直で実直な性格を育ませたのかも知れない。

 また、北斗は知里幸恵やバチラー八重子を女神のように崇拝しているように見える。このような女性観を持つに至ったのには、やはり思春期前に母を亡くしたという体験によるところが大きいのかもしれない。

 当たり前のことであるが、ハルがなければ違星竹次郎(瀧次郎)は生まれなかったばかりか、歌人としての違星北斗もまた、うまれえなかったのだと思う。

2008年4月29日 (火)

違星甚作

 違星北斗の父・甚作は1862(文久2)年12月15日余市郡川村(現大川町)生。アイヌ名はセネックル。中里徳太郎の父である徳三の弟で、男児のなかった違星万次郎の養子になる。養父万次郎とは年齢が10歳しか離れていない。

 妻ハルとの間に男6人、女2人の子供を得たが、その多くが成人せずに亡くなっている。北斗は甚作40歳の時の子である。

 甚作は漁業が生業だったが、若い頃は熊取りの名人だった、という。

 大正13年6月、北斗は句誌『にいはり』の句会で「熊の話」の講演をした。北斗は「私の父は鰊をとったり、熊をとったりして居ります」といい、「余市に於ける熊とりの名人」(同)でもあったとも言うとおり、生業は漁業であったが、熊猟も副業として行っていたようである。

 この時の講演で語られた「熊取り」が行われた時代は明治末期であった。この「熊取り」でさえ、「こんな時代になると、熊取りなんどといふ痛快なことも段々出来なくなる」(「熊の話」)という理由から、「若い人達に熊取りの実際を見せるために」(「同」)行ったものであった。

 甚作はこの熊取りで、熊と素手の取っ組み合いをして大怪我を負うのであるが、その後も懲りずに各地の熊狩りにも出かけているが、すでに普通のアイヌが日常的に熊取りが出来るような時代ではなかった。

 若い頃には甚作は「樺太に長く熊捕り生活をし」(「疑ふべきフゴッペの遺跡」)ていたという。明治の中頃までは、少なくとも樺太においては熊狩りで生活出来たということだろうが、北斗が物心ついた頃は甚作は熊の狩猟で生計を立てていたわけではなく、生業はあくまでも漁業であり、北斗も尋常小学校を出て父の漁業を手伝っている。

 北斗は「熊の話」で、アイヌの熊に対する考え方を語っている。

 アイヌの宗教は多神教であります。一つの木、一つの草、それが皆んな神様であります。そこには絶対平等―――無差別で、階級といったものがありません。(中略)熊をとるといふことは、アイヌ族に非常によろこばれます。熊は人間にとられ、人間に祭られてこそ真の神様になることが出来るのであります。従って、熊をとるといふことが、大変功徳になるのであります。さういふわけでありますから、アイヌは熊をそんなに恐れません。

 東京に学び、開拓使の役人になったという祖父万次郎と違い、父甚作は極めて「アイヌらしい」アイヌ、アイヌの伝統を大事にするアイヌであったのだろう。勇敢で、信仰に厚く、人情に厚い「古き良き」アイヌの面影を残していた。

 アイヌ文化の象徴とも言える熊取りの名人を父に持つ北斗が、父の語る勇壮な世界、おおらかなアイヌの世界観に影響を受けなかったはずがない。

 私の父は熊と闘った為めに、全身に傷跡が一ぱいある。熊とりが家業だったのだ。弓もある、槍もある、タシロ(刄)もある。又鉄砲もある。まだある、熊の頭骨がヌサ(神様を祭る幣帛を立てる場所)にイナホ(木幣)と共に朽ちてゐる。それはもはや昔しをかたる記念なんだ。熊がゐなくなったから……。『人跡未踏の地なし』と迄に開拓されたので安住地と食物とに窮した熊は二三の深山幽邃」の地を名残に残したきり殆ど獲り尽くされたのである。(「熊と熊取の話」)

 しかし、アイヌらしいアイヌ、父甚作の活動する世界はすでにこのアイヌモシリ・北海道にはなく、ただ甚作の身体の傷と、熊取りの道具と、熊の頭骨を飾った幣場とが、ただ「昔しをかたる記念」としてのみ、朽ちるにまかされているのであった。
 北斗の家には、このような熊と闘った「記念」が残っており、北斗はそれを見ながら育ったのである。これらの記念は、北斗が大人になった大正末期にも残してあったようで、後に東京時代世話になる社会思想家の西川光二郎が余市を訪問した折り(大正13年8月19日)には、これらの宝物を見せている。(『自働道話』大正13年10月号)

北斗は父親から、アイヌであることの誇りを確かに受け取っているに違いない。

北斗の数少ない散文の原稿の中にあって、熊取りに関する作品が2編あり、そのうち「熊の話」は父親と熊とのとっくみあいの格闘の話、「熊と熊取りの話」は、余市の伝説の熊取り、鬼熊与兵衛の話である。また短歌(俳句)の中にも熊のことを詠ったものが十首(二句)ほどあるが、これも250首に満たない彼の句作からすれば、多いと云えるかも知れない。

 北斗は昔のアイヌの勇敢さに憧れ、当時のアイヌの弱さを嘆いていた。その強さ、勇敢さを象徴するものこそが、「熊」であり、それと戦う古い時代のアイヌの姿であったのではないかと思う。後の「吾はただアイヌであると自覚して」という北斗の確固たるアイヌとしてのアイデンティティは、あるいは熊と素手で闘うほど勇敢な、アイヌらしいアイヌであった父甚作の影響が大きいのではないだろうか。

 そういえば、彼の号の「北斗」とは、北の大地、北海道で一人斗う、という意味にも取れるし、人々に進むべき方角を教える指標であるともとれる。「違星」という珍しい、象徴的で美しい名であると思うが、その由来となった北斗七星は、西洋では「大熊座」として認識されることも多い。そしてこの北斗七星は、西洋だけでなく、アイヌの伝説においても、熊と関係が深いのは注目してもよいかもしれない。

 ジョン・バチラーによると、「北極星は「Chinu-Kara-Guru(チヌ・カラ・グル)」と呼ばれ、「先覚者」、「保護者」を意味しています。しかし、その名前は、大熊座の意味にも使われるのです。熊祭りのときに、儀式の中で殺された後、直ちに子熊に与えられるのが「Chinukara Kamui(チヌカラ・カムイ)」(神なる守護者)という名前であることは、とても興味深いことであります。」(『ジョン・バチラー遺稿 わが人生の軌跡』)という。

 北斗七星、大熊座、先覚者、保護者。おそらく、北斗はこのような符号をある程度知って、そして「北斗」という号を付けたのだろう。この名前が、熊をカムイとして敬い、またその熊と格闘するアイヌの考え方をも象徴していると考えるべきではないかとおもう。(北斗の号は奈良直弥がつけたとする文書もあるが、だとしても北斗はこの号に特別の愛着を持っていたことは明らかである)。

 昭和三年の一月に発表された「熊と熊取の話」の「私の父は熊と闘かった為めに、全身に傷跡が一ぱいある」という文章があるから、それが書かれた時点では甚作は生きていた。

 「自働道話」昭和二年八月号に掲載された、西川光二郎への手紙にも父親について書いてある。ここでは北斗の父に対する思いがわかる。

私が一番苦しめられたことは、親不孝だったことです。私を案じてゐる父の身を考えた時金にもならないことをしてゐる自分」と民族復興の使命に動かされながらも、その活動のために親孝行が出来なかったことを嘆いている。

 北斗は、父の生きた時代、アイヌがアイヌらしく生きられた最後の時代に憧憬を持っていた。そして同時に祖父が幼き日に学んだ「モシノシキ」和人の都・東京にも強いあこがれを抱いていた。アイヌと和人、その相対する二つの文化への憧れと尊敬がその後の違星北斗の生涯を決定づけたといってもそれほど間違いではないと思う。

 没年は、享年82歳というから、おそらく昭和18年頃であろうと思われる。

2007年6月 3日 (日)

軍隊生活

違星北斗の軍隊生活は、大正12年7月から8月の1ヶ月しかありません。

通常は、当時の兵役は2年間だったようで、それが1ヶ月やそこらで除隊になるというのは、病気や怪我のほかは、まずあり得ないと思います。

コタンの年譜にも大正十二年に「病気」とあるので、病気で除隊というのがもっとも考えられるものかと思います。

管理人  ++.. 2007/06/03(日) 00:20 [324]

2006年12月29日 (金)

北斗の成績表

違星北斗の小学校の成績表のコピーを入手しました。そこからいろいろなことがわかります。

41年次
氏名 違星瀧次郎 生年月日 明治三十五年一月一日
住居 大川町番外地

入学年月日 明治四十一年四月一日
卒業年月日 大正三年三月廿四日

保護者
 氏名 違星萬次郎 住所 大川町番外地 職業 漁業
 児童トノ関係 祖父

学業成績   |1 |2 |3 |4 |5 |6 |
  修 身   |甲|甲|乙|乙|乙|乙|
  国 語   |甲|甲|甲|乙|乙|乙|
  算 術   |乙|乙|甲|甲|乙|甲|
  日本歴史--|--|--|--|乙|乙|
  地 理   |--|--|--|--|乙|乙|
  理 科   |--|--|--|--|乙|乙|
  図 画   |--|甲|乙|乙|乙|乙|
  唱 歌   |甲|甲|乙|乙|乙|乙|     
  体 操   |甲|乙|乙|甲|乙|乙|
  手 工   |--|--|乙|乙|乙|乙|
  操 行   |乙|甲|乙|乙|乙|乙|

修了の年月日 第一学年 明治四十二年三月廿三日
             第二学年 明治四十三年三月廿三日
             第三学年 明治四十四年三月廿四日
             第四学年 明治四十五年三月廿三日
             第五学年 大正二年三月廿四日
             第六学年 大正三年三月廿三日

在学中出席及欠席1年 2年 3年 4年 5年 6年
出席日数          244    190   242   229   206   227
欠席日数 病気       0   57      0      0       0      0
         事故       2       1      6    17      41    23

身体の状況
                  1年  2年  3年  4年  5年  6年
        身長  110.0   115.5   121.0   124.0   4.18    4.48

        体重   18.8     20.7     22.5     24.9    7.600  7.550
        胸囲  56.0     57.0     59.0     63.0    2.17   2.25
        脊柱  正       正       正       正       正     正
        体格   中       乙       甲       強       強     中

管理人  ++.. 2006/12/29(金) 00:46 [288]

 なぜか、祖父万次郎が保護者になっていますね。
 どうして父甚作ではないのでしょうか。

学業成績は、徐々に悪くなっていますね。
欠席も後半の学年にいくほど増えます。

> 身体の状況

 これは、なぜか4年生までがメートル法、5年生から尺貫法に単位が変わっています。

> 身長 |110.0|115.5|121.0|124.0|4.18尺(=126.7cm)|4.48尺(135.76cm)|
> 体重 |18.8|20.7|22.5|24.9|7.600 (28.5kg)|7.550(28.35kg)|

 驚くべき事に、5年生から6年生の間に身長は10センチ近くのびているのに、体重は減っている! 体格も「強」から「中」へと下がっていますから、かなり激やせしています。記録にはありませんが、なにか病気をしたのかもしれません。
 
> 体格 中 乙 甲 強 強 中

 小学六年生で母ハルの死を迎えるのですが、それが関係しているのでしょうか。

管理人  ++.. 2006/12/29(金) 01:14 [290]

2006年9月23日 (土)

12歳の違星北斗

今回の度の収穫の一つとして、北斗の母校大川小学校で、北斗の小学校の卒業写真を発見できたことがありました。
 情報公開の関係で、複写はできなかったのですが……。

 突然お尋ねした大川小学校でしたが、教頭先生が話を聞いてくださり、調べてくださることになりました。
 
 一旦、小学校を後にして、余市の漁場跡などを見学していたら、小一時間ほどして教頭先生から電話がありました。
 大正3年の卒業アルバムが見つかったということでした。

 再び、大川小学校に行き、教頭先生が持ってきてくださった大正3年3月に撮影された卒業写真を見た時、思わず息をのみました。

 生徒それぞれの名前は書いてありませんでした。
 しかし、一瞬で、どの子供が北斗、違星竹次郎であるかがわかりました。
 
 北斗自身も書いているように、その学年でアイヌはおそらく北斗だけだったのでしょう。
 (当時、アイヌの子弟は尋常4年で卒業でしたが、北斗の場合は母ハルの薦めで和人と同じ6年の過程を卒業したのでした)。
 顔つきが、まわりの和人の子供と違って、目鼻立ちがはっきりして眉根が険しく、何より私には、ほかの子供たちと違う悲しみをたたえているような気がしました。
 12歳の北斗は、大人の写真と同じように端正で寂しげで、やさしいまなざしをしていました。
 大人の写真はゴツゴツした顔ですが、子供の北斗は顔が小さく、眉と目が近く、シュッとした凛々しい印象でした。
 丸坊主で、まわりの子供と同じように、絣の着物に羽織を着ていました。
 
 ああ、これが12歳の北斗なんだな、と思いました。
 
 今はまだ、お見せすることはできませんが、いつか本を出したりするときには、ご相談ください、とのことでした。



管理人  ++.. 2006/09/23(土) 23:37 [273]

2006年4月20日 (木)

「北斗についての早川通信」早川勝美


 この手紙は、札幌市の早川勝美氏から勇払郡穂別町富内駅勤務の谷口正氏への手紙。昭和41年5月13日の消印。

 谷口正氏は、湯本喜作『アイヌの歌人』の執筆に際し資料を送るなどして協力した人物。この本によると、自ら『コタンの夜話』という著作があるそうです。

 以下、要点のみを書きます。

・早川氏は昨年(昭和40年)は3度余市を訪ねた。その際に違星家の人と会っている。
・違星家は早川氏が訪れるよりも以前に火事になり、北斗の遺した資料もすべて焼かれてしまった。
・北斗の甥にあたるM氏も北斗についてほとんど印象がなかった。記憶に残っていることも、日記に書かれているようなことのみ。
・たまたま、80過ぎのお婆さんで、トキさんという北斗のことをよく知る人がおられ、その人にいろいろ聞くことができた。
・トキさんは北斗より18歳年上で、U家の人。
(山本注:U家は北斗の祖父万次郎の実父イコンリキの家系。違星家はイソヲクの家系で、万次郎はU家からの婿養子)。
・トキさんは北斗が病気で床に伏しているときに、妹とともにかわるがわる看病をしたそうです。

管理人  ++.. 2006/04/20(木) 23:56 [178]

 では、以下からは早川氏のトキさんからの聞きとりです。要点を引用します。

 タケジロウは、頭の良い立派な男だった。イボシの家で顔は一番まずかったけれど、勉強はよく出来、暇さえあれば中里の息子(篤治のこと)と人を集めて何やら書いたり読んだりしていた。

 いやいや、私は北斗は男前だと思います。


管理人  ++.. 2006/04/21(金) 04:05 [179]

 いつのころか忘れたが、タケがまだ余市に居る頃だった。丁度鰊時で浜がにぎやかだつた頃だ。漁場に出稼ぎに来ていた樺太アイヌのメノコで、Sというきれいなおなご(女子)がいた。
 そのおなごがタケに惚れて、タケと一緒に暮らすようになった。いくらぐらい一緒にいたか忘れたが、そのうち女に赤ん坊が生まれ、その子にトモヨと名付けて可愛がっていた。もちろん籍なんて入れてなかったが、子供がうまれたので、入れるつもりだったが、子供を生んで二十日もたたないうちに、赤ん坊を連れてそのおなごは、余市から出ていった。


 北斗に妻(籍を入れていない)がいて、その人との間に娘がいた、という証言ですね。
(余市に行ったとき、こういうことがあったと地元の方からお聞きしていましたが、それが「娘」であるというのは初めて聞きました)。
 この娘の名前の「トモヨ」というのは、日記に出てくる名前です。
「今日はトモヨの一七日だ。死んではやっぱりつまらないなあ」という記述が昭和3年9月3日にあります。
 これまでこれが誰なのか謎でしたが、娘だったとしたら、あの日記の記述も、意味が大きく違ってきますね。
 一七日とは、初七日のことです。北斗は病床で離れて暮らす幼い娘の死を知ったということになります。
 

管理人  ++.. 2006/04/21(金) 04:06 [180]

そのおなごは、タケが死んで三年たってから、一度イボシの家に来ていったが、その後は何の便りもないし、どこにどう生きているものか…。
 タケが余市から出ていったのは、その嫁が出ていってから、一カ月ぐらい後だった。それから暫く家に戻って来なかった。いつごろだろうかはっきりしないが、雪が解けはじめる頃だった。昔の面影なんぞまったくなく、大きな目だけギョロギョロさせて帰ってきた。わしが訳をたずねると、又肺病にかかったと笑っていた。 


 この女性と一緒に暮らした期間ですが、まだ特定できていません。日記の残っていない昭和2年かもしれませんし、大正13年以前かもしれません。
 女性が出て行ってから、北斗もしばらくいなくなったというので、その期間がもしかしたら東京時代をさすのかもしれませんが……今の段階では情報が少なくて、よくわかりません。

管理人  ++.. 2006/04/21(金) 04:30 [181]

それから三、四カ月ぐらいしてだったか、血を吐くようになったのは、家の者にも嫌がられ、他の者からは肺病たかりといって、何度床に戻って泣いたことか。

 これは昭和3年の発病かもしれないですね。このまま寝付いてしまったような感じです。


 わしは、一日も早く良くなってほしいものだから、山からよく山ねぎを取ってきて、茄でてよくタケに喰わしたもんだった。タケの妹のハルヨもよく看病した。血を吐くタケの背を何度もさすってやっていた。家の者は皆タケには冷たかった。妹のハルヨも肺病で死んだが、ハルヨもタケに似てか頭がよかった。
 タケは、大きな部屋に独りで寝ていた。寝ながらでもなにか一所懸命本を読んでいた。


 妹のハルヨ……聞いたことがない名前です。いままで知っていた妹の名前とはちがいます。実妹ではなく義妹かと思ったのですが、「タケに似てか頭がよかった」とありますので、実妹なのでしょうね。
管理人  ++.. 2006/04/21(金) 04:39 [182]

 それからしばらくした雪の降る寒い日だった。わしが炉に火を入れようとした時だった。タケが死んだといって梅(北斗の兄梅太郎のこと)がいってきた。わしは夢中で冷たいのも知らないで、ハダシのままタケの家に行った。一つも口を聞かなかった。
 それから間もなく、タケと仲良しだった中里の息子が死んだのは。ほんとうに頭の良いものばかり、皆先に行ってしまって、余市のアイヌもタケらの時代で終わりじゃ。

 
 この証言も生々しいですね。
 北斗は雪の降る寒い朝に死んでいったんですね。

管理人  ++.. 2006/04/21(金) 04:47 [183]

2005年10月 7日 (金)

日本残酷物語

 平凡社『日本残酷物語4 保障なき社会』を読んでいたら、どこかで見た文章が。


 村上久吉氏は、あるアイヌ少年の苦悩の印象をつぎのように伝えている。「じぶんが通るのを見ると子どもたちが、アイヌ、アイヌという。聞こえなければ聞こえないだけに、何かささやいているように思われ、口は閉じていても目が云っている。行きも、帰りも、昨日も、今日も……毎日のことについ陰鬱な少年になり、病身にさえなって、はては血をはき、世をのろい、人をのろい、手あたり次第に物をたたきわって、あばれ死にでもしたくなる。生意気ざかりの年頃には、『アイヌがどうした』と立ちもどってなぐりとばす。不意にうたれた子どもたちは意外だという顔をして、やがて泣いて逃げてゆく。そのまた様子があとまで目について、自分が打たれたよりも苦痛であった」というこの文章の最後の箇所はとくに意味深い。虐げられたものの傷が予想以外に深いことにアイヌみずから気がついたとき、彼らの生涯抜きがたい真の苦しみがはじまることを告げているからである。

(無署名記事だが、筆者は高倉(新一郎)と文中にある)。


これは、金田一京助の「あいぬの話」の北斗の項と内容がほとんど同じですね。村上久吉には『あいぬ実話集』に「熱血の違星瀧次郎君」、『あいぬ人物誌』に「熱血青年違星滝次郎」がありますが、どちらも金田一京助の文章の引き写しです。
 まあ、早い話、金田一の文章をパクっているのですが、それが名著と名高い『日本残酷物語』に載っているというのはいやはやどうしたことか。
 
 
 

管理人  ++.. 2005/10/07(金) 00:12 [18]

云うまでもなく、このアイヌ少年というのは北斗のことです。念のため。
管理人  ++.. 2005/10/07(金) 00:13 [19] 

さて、この村上久吉『あいぬ実話集』は、そういうことでまことに信用ならん部分があるのですが、そういう本に限ってオヤッという記述がある。


 余市アイヌの傑物中里徳太郎君。この中里君の感化をうけて、力強く民族に目ざめ、勤労のかたはら、自ら雑誌を作つて部落の青少年に呼びかけ、毎号巻頭にはその標語として「よき日本人に」といふ題字をかゝげ、まつすぐに同化の一路をすゝんだ熱血男児違星瀧次郎君(金田一先生曰く、兄は松太郎でこれは弟であるから竹次郎であつた。所が届出の時に竹を瀧に誤つたのであると)がある。


うーん。初耳ですね。
 長男は梅太郎のはずなんですが、もしかしたらやはり松太郎という兄がいたのかも? (『北の光』に「違星松太郎」という名前が出てくるのも気になるけど)。
 しかし、わざわざ金田一京助の名前を出しているところを見ると無視できないですね。
 本当なら、以前書いた余市方言の「イ段音」と「エ段音」の混同が、こんなところにも影響を与えたことになりますね。

管理人  ++.. 2005/10/07(金) 00:25 [20] 

やっぱり……気になるなあ。

村上久吉(1898-1981)は旭川中学教諭、郷土史家。昭和30年、旭川文化賞受賞。
 著作には『旭川市史試詠百題』『旭川市史小話』『あいぬ実話集』『あいぬ人物伝』『字原を探る』『盲唖人物伝』『郷土を拓く人々』などがあるようですね。

管理人  ++.. 2005/10/08(土) 00:03 [22] 

私はこの「竹次郎」が戸籍届け出の際、エ段音がイ段音に訛る訛りが原因で「滝次郎」になってしまったというのを信じることにしました。

やっぱり、金田一先生の名前を出されてはしょうがない。『あいぬ実話集』執筆当時は当然金田一京助は生きていたわけで、旭川中学の村上先生ともあろう人がそんな嘘をつくとも思えない。
それに、東京留学した祖父万次郎はともかく、父甚作は読み書きに不自由した可能性が高い。

(なら、なぜ学のある祖父の万次郎がヘルプしない? というところですが、万次郎と甚作は実の親子ではなく、甚作は中里からの養子なので微妙なところではないのか、と思うんです。実際、同じ家に住んでいたのかも疑う必要があると思います。近所には住んでいたでしょうが)。

管理人  ++.. 2005/10/09(日) 23:12 [24] 

つまり、こういうことかと。
「甚作さんヨォ、赤ちゃんの名前はどうするんだい?」
「おう、次郎(タジロウ)にしてくれんか」
「そうか。次郎(タジロウ)かね。そりゃ良い名前だ」
「おう、良い名前だともよ」
「で、甚作さんよ、子どもの生まれた日付はどうするよ?」
「わすれちまったでよ、めでてぇから1月1日にしてくれねぇかな」
「1月1日ね。そりゃめでたいね」

……というような感じだったのではないかと。
(あくまで想像)。

管理人  ++.. 2005/10/09(日) 23:22 [25] 

2005年8月27日 (土)

山岸礼三の著作

  8月27日(土)12時58分5秒

山岸玄津(礼三)『北海道余市貝塚に於ける土石器の考察』

「緒言」

(前略)

余市が斯く先住民族の遺蹟地であり、遺物埋蔵地でありながら、学者や好事家の発掘に任せ、或は折角蒐集したる人にありても、これを容易に人手に附与し或は今日尚堀土の折等に、時として遺物埋蔵地に遭遇することがあつても、無頓着、無理解なる鋤鍬の一撃に委ねて、之を細砕し、或は抛棄して顧みざるが如きことがある。斯くては貴重なる遺物の包含量も次第に幻滅に帰し去るであらうと思はれる。余は何かの縁で由緒ある此郷に来り、卜したる現住地が恰もその遺蹟地中の優なる場所であつと云ふことは、余自身は勿論何人も気づかなかつたのである。即ち余が現住地は俗にアイヌ街と称する処で、アイヌ住屋地に近接してゐる為め、自(オノズカ)ら土人と親しみを来すことになつたのと、其上に其頃土人中に違星竹次郎(号北斗後上京金田一学士などの名士に参じたことのある且つ頗る気骨があり、又文雅の道にも趣味を有し、思索もすると云ふ面白い男であつたが惜しいことには、三年前に肺患で病没した)なる青年がゐて、時々余の宅を訪れて、余が移居当時の無聊を慰めくれ、時にはアイヌ口碑や「カムイユーカラ」の伝説、現時に於ける実生活状態など聞かしてくれたりして、随分余の新居地の東道役になつてくれた男であつた。然るに大正十二年の春彼が急性肺炎に罹り可なり重患であつたのを、余が一才引き受けて、入院せしめ世話してやつたのを、彼は喜んで全快祝だと称して、彼が年来秘蔵したる西瓜大の土器一箇を携帯寄贈してくれた。これが余が土器を得たそも/\の初めである。此品は彼が大正九年の秋、余が此地に移居の僅か二三ケ月前の或日、余市川に投網して獲得したるもので、話に聞く土器であつたから、御授かりの気持で、誰人の所望にも応ぜず保有してゐたものであると語つた。当時余の問に対して彼がいふには、私共民族の中では、従来土器の保有者一名もなく、祖先から口碑にも聞き居らず、唯伝へられて居るのは、余市アイヌが此地に来た時先住民族が居た。それはアイヌよりも小さく、弱き人種で、わけもなく追つ払つた。此人種はアイヌでは「クルブルクル」石の家の人の意味で「ストーンサークル」環状石籬を作り立て籠もつた民族である。而し「コロボツクル」(蕗の下の人)人種の事を聞いて居るが、それかもしれぬ。只先住民族が居つたと云ふから、或は其遺物であらうと思ふまでだとの答であつた。

余は此時直感した。これは現住のアイヌではない。併し現住アイヌの祖先を彼等に訊ぬれば、数百年は愚か千年以上の口碑を持つて居る。余は只不思儀の一言を発したのである。

兎に角も余は此の得難き一品を手に入れて欣喜置く能はず、心を尽くして彼を犒ひ、祝宴迄開いたことを記憶する。其後土器が縁となり、北海道史を知人から借覧などして興味をそゝり(後略)

*************************

この文献には、今まで知られていない若き日の北斗の姿がかいま見えます。

大正9年ごろ、北斗が投網で西瓜大の土器を得たこと、北斗が大正12年に肺炎で入院し、治してもらったお礼にそれを山岸礼三に贈ったこと、喜んだ山岸が祝宴まで開いたこと、それが山岸の最初の山岸コレクションであることなど。

 また、山岸先生と北斗は非常に親交が厚かったようですね。山岸先生も、北斗の才能や人柄を高く認めていたようです。

 余市でお会いしたご子息のお話によると、山岸礼三先生はアイヌの診断は基本的にはお金を取っていなかったようです。

 コタンの赤ひげ先生は、白老の高橋房次先生だけじゃなかったんですね。

2004年12月16日 (木)

アイヌ史資料集裁判

12月16日(木)09時30分8秒

 pronupさんに教えていただいた雑誌のバックナンバーを入手。

 しかし、読むと暗澹たる気分になりました。

 「アイヌ史資料集裁判」については全く知りませんでした。

 違星北斗の記録がこういう形で残されていることに驚き、問題になっている事を知り、どうしようもなくやるせなくなりました。

 違星北斗の資料。

 それはどんなものであれ、私にとって、それは喉から手が出るほど欲しいもの。

 違星北斗情報は、欲しい。

 しかし、その存在自体が、多くの人々をきずつけるとしたら、どうなんだろう。

 それが、現在生きている人々のプライバシーを侵し、名誉を傷つけるものになりうる資料だとしたら・・・。

 金田一京助や他の研究者の研究もそうかもしれない。やり方や考え方に反感を持つ人もいるけれども、私は彼らの残した記録を読んで勉強している。

 とにかく、悩みます。

2004年12月 5日 (日)

金田一京助『思い出の人々』

 poronupさんに教えていただいた、金田一京助随筆選集を入手。
 色々と新発見がありました。以下、金田一京助随筆選集2『思い出の人々』より。

(1)中里徳太郎

「年少のころから、村の老酋長を助けて、その知恵袋とも、懐刀ともなって余市のアイヌ部落をして今日あらしめた有力者であります。
 余市のアイヌ部落のために、土地払い下げを願い出たり、余市部落の互助組合を組織したり、そのためには役場へお百度をふんで、町役場ではだめと見切りをつけて、札幌に出て道庁に願い出てみたり、そのためには幾年の努力、身銭をきって奔走し(中略)千辛万苦、ついにみな目的を達して、巨万にのぼる、村の共同財産というものができ、今でも部落の人の仕事をする時に資金の融通ができたり、和人の町屋と軒をならべていて、少しの遜色もないほどに、余市部落の生活を向上させた功労者(後略)」

 とあります。
 また「中里徳太郎君の先代は、徳蔵といって、これがまた余市のアイヌの傑物」で、アイヌと和人の両方から信望を得ていたのですが、酒の席で寄った和人と喧嘩になり、鳶口を持った数十人によってめったうちにされます。

 瀕死の徳蔵は、九つの徳太郎に遺言を残します。

「『(前略)徳太郎、お前、早く大きくなって、父さんのあだを討て! (中略)が、勘違いをしてはいけない。刃物三昧のあだ討ちならたやすいが、父さんのいうあだ討ちはそれじゃないんだぞ。いいか。理不尽に、父ちゃんたちが、こんな目に合わされるのはなあ、父ちゃんたちが読み書きがないところから、無学文盲なところから、ばかにされてこうなんだ。くやしい。お前はなあ、明日からでも、すぐ学校へいって、うんと読み書きを習うんだ。そしてなあ、早く和人並みになって和人を見返してやれ、それが父さんのあだ討ちだぞ、わすれるなよ』」

 徳太郎は、役場にしつこく頼み込んで、当時まだ、アイヌの子どもは入れなかった学校に入れてもらい、勉強を始めます。最初は同級生からののしられ、侮辱されたが、そのうちに成績も首席になり、和人からも親しまれ、尊敬されるようになります。
 彼は余市の名誉職をつとめるようになり、余市の青年たちの崇拝の的となり、青年団長として青年たちを教え導く存在となります。

           ※

 北斗が「東京アイヌ学会」で語り、伊波普猷に勧めれれて「沖縄教育」に載せたという「アイヌの先覚者中里徳太郎を偲びて」は、おそらくこの金田一の中里徳太郎に関する記述とそう変わらないかもしれません。

(2)違星竹次郎

(西川光次郎の手紙と同様に、これも「滝次郎」ではなく、「竹次郎」になっています。もしかしたら、当時の北斗は「竹次郎」という名前を普通に使っていたのかもしれません。兄の名前が梅太郎ということもあり、もっと調べてみる必要があるのかもしれません)。

北斗の部分は、全文引用します。

「さていま一つの余市の方はというと、中里徳太郎君の息のかゝった余市の青年に違星竹次郎君がありました。中里徳太郎君の感化をうけて、力強くアイヌに目ざめ、勤労のかたわら、みずから雑誌を作って同村内の青少年に呼びかけ、毎号巻頭にはその標語(モットー)として、よき日本人にという題字を掲げてまっすぐに同化の一路を進む方針であったものでした。しかし違星竹次郎青年のそうなるまでには、それはなか/\、たいへんな苦悩を体験した結果でありました。
 生まれて八つまで、家庭ではアイヌであることも何も知らずに育ったのだそうです。八つで小学校にあがって、他の子供から「やいアイヌ、アイヌのくせになんだい」といわれて、泣いて家へ帰って、両親へわけをたずねて、はじめて自分たちがそういうものだということを知ったそうです。それまで、何の曇りもなく無邪気に育ったものが、こゝに至って急に穴の中へさかさに突き落とされたよう、「どうしてアイヌなんどに生まれたんだろう」と、魂を削られるように悩みつゞけて成長しました。」

         ※

 この、北斗は8つまで、自分がアイヌであることを知らなかったというのは、初めて聞きました。

「自分が通るのをみると路傍の子供などまで、「アイヌ、アイヌ」というものですから生意気ざかりの年ごろには、「アイヌがどうした」と立ちもどって、なぐりとばして通ったこともあったそうです。子供が意外な顔をして、打たれてびっくりして泣いた様子が、あとまで目について、打たれたよりも苦痛だったと申します。腹立たしく町を通ると、自分を目送りして「アイヌ、アイヌ」とさゝやいたのが、こっそりさゝやくのも、早鐘のように耳をうち、口をとじていわないものでも、眼がそういって見送ったように思え、行きも、返りも、昨日も、今日も、毎日毎日のことですから目も心も暗くなって、陰鬱な青年になり、ついには病身になり、血をはきなどして、世をのろい人をのろい、手あたり次第に物をたゝき割って暴れ死にたくなったそうです。
 村の人の話では、当時の違星青年は、よく尺八を吹いて月夜の浜を行きつ戻りつ、夜もすがらそうしていたこともあり、まっくらな嵐の晩に磯の岩の上にすわって、一晩尺八を吹いていたこともあったそうです。

              

 この、尺八のくだりも初めて知りました。
 尺八を吹くということは、短歌の中にも出てきていましたが、このようにいろんなところで夜尺八を吹いていたというのは、知りませんでした。まるで苦行のように嵐の磯の岩の上で尺八を吹いている姿は、北斗らしいといえるかもしれませんが、なんとも痛々しくて、つらい話です。

 しかるに、竹次郎青年、ある日ふと隣村の青年会へ演説してくれと呼ばれました。病気だからと一度は断ったが、むしゃくしゃ、込みあげている、日ごろの鬱憤を爆発さして、毒づいてやろうと、二度目に承知していったそうです。たま/\村の学校が会場で、教員室に入って控えていると、学校の先生が、「ちょっと君に聞きたいことがある」といって次の室へ呼んでいうのには、
「いつかだれかに一ぺん聞こう/\と思って、つい聞きそぐれていることなんだが、我々は、いうまいと思うけれど、必要以上いわなきゃならないことがあるものだ。もしいわなければならなくっていう時には『アイヌ』といった方が君たちに聞きよいか、『土人』といった方が聞きよいか、君たちに、どっちの方が聞きよいのだろうか」
ということだったそうです。
 それを聞いた違星青年は茫然として、はいといったまゝ、しばらく面を伏せて、
「ありがとうございます。さようですか、そういうお心持ちでおっしゃってくださるなら、アイヌでも、土人でも、どちらをおっしゃってくだすっても、少しも痛くはありません、どちらでも結構です」
といってほろりと落涙しました。
 こゝです、わずかばかりの心づかいですが、人間一人を救ったやさしい心づかい、この青年がこれをきっかけに心機一転するのです。
 やがてベルが鳴って時間になって、演壇に立った違星青年は、
「諸君、我々はまちがっていた、ひがんでおりました。和人の中にもアイヌという一語を口にするのに、このくらい心づかいをしていてくださる方が、少なくともこゝにお一人あったのです。私は今の今まで、こういうことのあるとは思いもよりませんでした。石だから石、木だから木、アイヌだからアイヌというのに、何の不当があろう。一々それを侮辱されるものに思ったのは、我々がアイヌでありながら、アイヌであることを恥じていたからだ。自分の影法師に自分でおびえていたのだ。一人の心は万人の心だ。世間が広いから。我々の経験が狭いから。してみれば、我々の久しい悩みは、我々自身の暗愚なひがみが、これをかもしていたのじゃなかったか! 私はあやまる!」
声涙ならび下り、感動と悔悟に嗚咽して、涙にぬれたこぶしをふるって、たゞ怒号したそうであります。
 好感、憤りは物みな焼かずんばやまざらんとした熱血男子、悔悟する時に滂沱として衆目の前に号泣したものだったそうです。」

               ※

 いわゆる北斗の「思想上の一大転機」です。
 この一大転機を描いた記録には北斗の「淋しい元気」(新短歌時代)、伊波普猷の「目覚めつつあるアイヌ種族」、それに金田一の「慰めなき悲み」などがあり、この「あいぬの話」も「慰めなき悲み」の内容を詳しくした感じですね。
 この北斗・伊波・金田一のバージョンの中で、金田一バージョンにだけあるのが、北斗の演説シーン。思想上の一大転機を迎えた北斗は、観衆に対して演説を打つのですが、これはどうも金田一の中で潤色されたのではないかと思います。
 衆目の前でさめざめ泣いたとありますが、北斗および伊波のバージョンでは、家に帰って泣いた、となっており、おそらくはそちらのほうが正しいのでしょう。金田一版はドラマチックに過ぎます。

 この青年を囲繞(いにょう)する現実は、昨日も今日も塵一つ増減したものがなかったのですが、しかも、青年の目に、それ以来、世の中が一変したそうです。
 その心をいだいて会ってみると、昨日まで無情に見えた和人も、存外柔らかに温かい手ざわりを覚え、我から進んでにっこり握手することができたそうです。
 そして驚いたことには、血まで吐いた病気もぐんぐんなおって、大いに村のために茶話会を斡旋して開いたり、茶話会の機関誌を、謄写版でてずから造って若い人々を啓発するに努めたそうです。
 たま/\東京に出て来て私などにはじめて会い、アイヌというものは、おそく生まれた弟のようなもので、這い/\していても恥じることがないどころか、人間生活の太古の姿を偲ぶ貴重な生活事実であって、我々が真剣にそれを研究しているのだ。そればかりではない、アイヌはひょっとして白人種かもしれないのだよ。そういうことになったらアメリカで、日本人の人種問題がなくなってしまうではないか、などいうような話を聞かされて、アイヌであることをのろう今までの気持ちからぷっつりと蝉脱して、天真爛漫、だれにも愛されて、愉快な東京生活をつゞけておられたのでした。

        ※

 この、アイヌ白人説は現在では否定されています。ただ、金田一はこのアイヌ白人説を積極的に信じていたわけでもなく、ただ当時、劣っていると見られていたアイヌの人々を力づけるために、こういう説もある、という意味でよく用いていたようですね。

 しかるに、まっ正直な違星青年は、東京には私ほどのものは箒で掃くくらい、箕で簸(あお)るくらい、沢山ある。いや沢山ありすぎて、就職難を告げているのに、私なんどが、アイヌのくせに、和人ぶりをして、その席をふさいでいるのは申しわけのないことだ。
 私がアイヌでなかったら、だれがこんな高い月給で使ってくださるか。アイヌなものだから、かわいそうにと同情して、何もできもせぬものにこんな高給をくださるのだ。おめ/\頂戴しているのは申しわけのないことだ。それでなくってさえ、アイヌ部落にいるのをきらって、少し目がみえてくると、みんな部落を飛び出して、よその飯を食うので、いよ/\部落はつまらないものだけが残る。アイヌを見に部落に来てくださる人はアイヌといってつまらない人間だと見て帰られるわけだ。祖先に申しわけのないことだ。
 これは、帰って同族の世話をもみ、また同族のことを詳しく知って、東京のご好意の先生がたにご探索の労の一助とでもなるべきだ。
 そういって北海道に帰ったのでしたが、からだを虐使し、若い時にやったことのある肺結核を再発させ、

  世の中は何が何やらわからねど死ぬことだけはたしかなりけり

の詠を残して世を去りました。

          ※

 これで、北斗の項は終わりです。
 この「あいぬの話」は、「違星青年」と「慰めなき悲み」をあわせたような内容ですね。
 発表年代がいつごろかがわかれば、どちらが先かがわかるのですが。

(3)中里篤治(凸天)

 この「あいぬの話」では、中里篤治は「徳治」となっていますね。「篤治」の方が正しいです。
 違星滝次郎は「竹次郎」になっているし・・・なにか理由があるのでしょうか。

 違星竹次郎君の無二の親友が、中里徳太郎の一子、徳治でした。父の太っ腹だったのに比して、これは、俊敏細緻、よく父の偉業を受け継いでほとんど一人で互助組合のことにあたって、過労のあまり、病に倒れて、惜しいことをしましたが、この人々の涙ぐましい努力のあとは、決してそのまゝにやんでしまいません。子供たちにも利口な子らがありますし、余市だけはアイヌ部落も和人町に伍して遜色なく健全に日本化しております。

 金田一をはじめとする、当時の親アイヌ派の文化人のほとんどが、この「日本化」「同化」こそが、アイヌを「滅亡」から救う、唯一の方策だと考えていたようで、アイヌである違星北斗や中里篤治も恩師でアイヌ青年の修養会「茶話笑学会」の顧問でもあった奈良直彌や、奈良を通して、西川光次郎の影響を受けて、「よき日本人に」なるために、という考えをもって活動していたようです。

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