【東京時代】

2016年1月20日 (水)

【新発掘】 違星北斗「小曲」

小曲

1 

アイヌモシリの

遠おい遠い

むかしこひしの

恋ひしややら

2 

光るは涙か?

それとも声か?

澄むほど淋し

大熊小熊

3 

みんなゆめさと

わすれてゐても

雲るも涙

照さえかなし

4 

北のはてなる

チヌカラカムイ

冷めたいみそらに

まばたいてゐる

(大正14年ノートより)

2014年8月 3日 (日)

徳富蘆花

京王蘆花公園駅(世田谷区)。



徳冨蘆花の旧居ですね。
蘆花といえば、アイヌの歌人•違星北斗が「おのれ、蘆花、許さん! ぶっ殺してやる」
とか言って鉄拳を振り上げそうになったという話がある。
なにがどうなってそうなったのかはわからないが、確かにそういう証言があるんだよね。
多分蘆花の作品か発言でアイヌのことを侮辱するようなところがあったのかもしれない。
(蘆花は「八重の桜」の新島襄の門下。
蘆花は北斗の私淑した奈良農夫也先生とも親交が深かった。
昭和2年没だから、最晩年に北斗と東京で会っていた可能性はないとは言えない)。
まあ、北斗は師の金田一京助にも「金田一先生とはいえ、これは許さん! ええい、鉄拳制裁してやる!」みたいな発言したことがあり、結構喧嘩っ早いところもあったんだよね。
まあ、後でズーンと後悔するところも含めてが北斗なんだけど。
まるで少年漫画の主人公。

やはり、北海の熱血快男児なんだよ。

2013年2月 9日 (土)

『伊波普猷全集』

『伊波普猷全集』 第十巻に、北斗の記述あり。

『奄美大島民族誌』「跋」

 奄美大島を訪れたことのある人は、其の住民(中略)を見て、アイヌを聯想したであらう。
(中略)
 一昨年の秋頃であつたか、アイヌ学会のあつた時、(中略)晩餐の時、私の向ひに眼のへこんだ毛深い青年が坐つてゐたのを見て、大島の人とばかり思つてゐたところが、あとでこの青年が違星[北斗]といふアイヌであると聞いて吃驚した。そして其の演説を聴くに及んで、其の発音や語調が大島の人のそれにそつくりだつたので、二度吃驚した。私がまのあたりアイヌを見て、其の話を聞いたのは、此が初めてだつた。違星君には其の後も屡〃会つて、其の発音や語調を観察したが、彼がアイヌの部落中で、最も日本化した余市のアイヌで、しかもその母語を全く話すことが出来ないと聞いたので、其の発音や語調は、ことによると、近所にゐる和人の影響を受けたものか、さもなければ、彼の個人的の特徴ではないかと思つて、他のアイヌのそれを聞く機会を待つてゐた。昨年の秋、アイヌ向井山雄を歓迎する為に、アイヌ学会が開かれた時、私は半ば好奇心に駆られて、出席して見た。向井氏は胆振の有珠の酋長の子で、バッチラー師の下で働いてゐる宗教家であるが、その顔附が大島の上流社会の紳士そつくりだつた。しかも其の発音や語調が、違星君のより一層大島的であるのを聴いて、面白いと思つた。これは恐らく今日まで何人も気づかなかつたことであらう。かくもかけ離れた所に居る両民族の間に、かくも著しい類似の存するのは、たゞ不思議といふの外はない。これは果して偶然の一致だらうか。(後略)

 これは、内容的には「目覚めつつあるアイヌ種族」と一致しますね。
http://www.geocities.jp/bzy14554/mezame.htm

 ただ、伊波普猷と北斗が初めて出会ったアイヌ学会は3月19日、「一昨年の秋頃」というのは間違いではないかと思います。
 その次に書いてある、向井山雄の出たアイヌ学会のことは、金田一から北斗への手紙(昭和2年4月26日)にも書いてあります。
 向井山雄は大暴れしてしまいます。
 http://www.geocities.jp/bzy14554/tegamikindaichi.htm


※08/10/30のブログから、サルベージ。

2012年4月 7日 (土)

北斗と映画

北斗がいた大正14年から大正15年に、かかっていた映画。

「20世紀へタイムスリップ 1925年(大正14年)」(http://nannohidonnahi.sakura.ne.jp/20seiki/1925/05.htm

 黄金狂時代(The Gold Rush) 6.26 アメリカ 1925/12/(日本公開)
  監督:チャールズ・チャップリン
  出演:チャールズ・チャップリン

 オペラ座の怪人(The Phantom of the Opera) 9.6 アメリカ 1925/09/(日本公開)
  監督:ルパート・ジュリアン
  原作:ガストン・ルルー
  出演:ロン・チェイニー メアリー・フィルビン ノーマン・ケリー ギブソン・ゴーランド

 戦艦ポチョムキン ソ連 第1次ロシア革命20周年記念映画 1967/10/(日本公開)
  監督:セルゲイ・エイゼンシュテイン
  出演:アレクサンドル・アントノーフ グリゴリー・アレクサンドロフ ウラジミール・バルスキー

 キートンのセブン・チャンス(キートンの栃麺棒 Seven Chances) 3.11 アメリカ
  監督:バスター・キートン
  出演:バスター・キートン

 キートンの西部成金(キートンのゴー・ウェスト! Go West) 11.1 アメリカ
  監督:バスター・キートン
  出演:バスター・キートン

 ロイドの人気者(The Freshman) 9.20 アメリカ
  監督:フレッド・C・ニューメイヤー サム・テイラー
  出演:ハロルド・ロイド

邦画

 恩讐の彼方に 2.5
  監督:牧野省三
  製作:東亜キネマ(等持院撮影所)
  原作:菊池寛「恩讐の彼方に」
  脚本:直木三十三
  出演:市川花紅 常盤松代 沢田正二郎 久松喜代子
  上映:京都マキノキネマ

 街の手品師 2.13
  監督:村田実
  製作:日活(京都撮影所第二部)
  出演:岡田嘉子
  上映:浅草三友館

 月形半平太 5.15
  監督:衣笠貞之助
  製作:聯合映画芸術家協会(等持院撮影所)
  主演:沢田正二郎
  上映:浅草大東京

 ふるさとの歌 9.17
  監督:溝口健二
  製作:日活(関西撮影所教育部)
  出演:木藤茂 辻峰子 川又賢太郎 橘道子
  上映:大阪常盤座

 日輪 11.13
  監督:衣笠貞之助
  製作:マキノプロダクション(御室撮影所) 聯合映画芸術家協会
  原作:横光利一
  出演:沢村源十郎 市川猿之助 阪東和三郎 市川八百蔵 マキノ輝子 マキノ富栄
  上映:浅草大東京

 雄呂血 11.20
  監督:二川文太郎
  製作:阪東妻三郎プロダクション
  配給:マキノプロダクション
  出演:阪東妻三郎
  上映:浅草大東京

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2011年12月 4日 (日)

「大空」

 今、Twitterのテキストを仕込んでいて、重大な間違いに気づいた。

 永井叔の「緑光土」に載った北斗の「大空」、皇紀2585年を大正13年としていたのだけれど、正しくは大正14年ではないですか。

 どうしてこうなったかわからないですが、年表が間違っていました。

 年表を大正13年になっていたので、大空は東京で永井叔に会う前の余市時代に書いたとなって、ちょっとおかしいなとは思っていたのですが、もしかしたら、北斗が事前に書いていたのを、永井と出会ってから見せたということもないではない、と思っって居ました。

 しかし、大正14年でしたら、東京で永井叔との交流があってから、書いたということになり、非常に自然になります。

 しかし、なんでこんな単純なケアレスを長年見過ごしていたのだろうか……orz
 

2011年4月10日 (日)

年譜について

昭和5年版「コタン」の年譜は、北斗の手によるものであるといわれています。

しかし、草風館の「コタン」の年譜は、読者への親切のためだと思いますが、編者の筆が入っているため、意味合いが変わってしまっているところがあります。

たとえば、大正9年。
元は「畑を借り茄子作、中途病気」
これが草風館版(昭和59)だと「畑を借りて茄子等を作るが病気再発する」となります。

 微妙に、ニュアンスが違いますよね。

 昭和5年版は「茄子」と言い切っていますが、昭和59年版は「茄子等」。「等」ってどこから出てきたんですかね。

 あと、昭和5年の「中途病気」と昭和59年の「病気再発」では意味が違いますよね。

 昭和5年版の方が、資料としては精細です。
 なぜなら、「畑で茄子をつくったが、茄子を作っている中途に病気になった、と読める。茄子は夏の野菜ですから、発病時期が夏より前だということもわかる。

 でも、それが昭和59年版だと、編者のおせっかいでわからなくなってしまっている。

 ほかにも、同様のおせっかいによるニュアンスの変化がある。

 北斗が東京から北海道に帰ったのは7月ですが、それが11月になってたりして、けっこう適当な年譜なのですが、これがオフィシャルみたいになってしまっているんですよね。

(ちなみに、11月というのは、元々縦書きの北斗の原稿に「七」と書かれていたものを希望社版コタンの編者が「十」「―」と読み間違え、それが草風館版にも引き継がれてしまったからですね)

 アイヌ一貫同志会なんて、本当に存在したのかどうかもわからないのですが、この草風館版の年譜に載っているから、あったこととして確定してしまっていますね。

2010年8月15日 (日)

違星北斗「ウタリ・クスの先覚者中里徳太郎氏を偲びて」

 本当に、久しぶりの更新です。すみません。

 「沖縄教育」1925(大正14)年6月号に掲載された伊波普猷の論文「目覚めつゝあるアイヌ種族」は、東京時代の違星北斗の姿を描いたものとして有名ですが、それと同じ号に、違星北斗による「ウタリ・クスの先覚者中里徳太郎氏を偲びて」という文章が掲載されていましたが、希少な雑誌のため、確認できていませんでした。

 伊波普猷の論文の方は、その後伊波普猷全集に収録されたましたので、容易に目にすることができたのですが、北斗の文章は雑誌掲載後、どこにも転載されませんでしたので、幻の文章になっていました。

 昨年4月、沖縄県の学芸員の方に「沖縄教育」の記事を見せていただくことができましたので、本文が確認できました。

 だいぶ間があいてしまいましたが。

 1925年2月に上京した北斗は、金田一京助との出会いをきっかけにいろんな学会に顔を出すようになり、この3月19日に金田一が開いた「東京アイヌ学会」に出席し、そこで演説することとなります。それを文章化したものが、この論文です。

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2009年10月 6日 (火)

阿佐ヶ谷散策

日曜日に自転車に乗って阿佐ヶ谷を探検してきました。

まず、北斗が北海道からの二日間の道中、牛乳一杯のんだだけで、上京後最初に訪れたという、西川光次郎の自働道話社の住所。

 東京府杉並町阿佐ヶ谷678ですが、古地図と現代の住宅地図を照らし合わせてみましたところ、これは現在の住所でいうと、おそらく、ここではないかと推測します。

 ここ

 杉並消防署の、それも訓練場のあたりか。

 けっこう、中央線の阿佐ヶ谷駅からは遠いんですね。
 「自働道話」に乗っていた自働道話社(西川光次郎宅)へのアクセス方法には「阿佐ヶ谷の駅を出て、右へ3町、湯屋の前を右に曲がり、二町ばかりいきし所」とあるのですが、そうなると、駅から人は東向きに出て、南に約300m、西に約200m行くことになりますね。
 むしろ、成宗に近い。

 その成宗といえば、金田一京助が住んでいたところ。
 金田一を訪ねて農村地帯だった成宗を訪ねて行った北斗は途中で田んぼに落ちて泥だらけになったりしながらも、夜の8時にようやく金田一宅をさがしあて、その夜に運命的な会談をするわけです。
 その会談の行われた金田一京助自宅は「杉並町成宗332」。
 これは現在の成田東四丁目。

 自転車で「たぶんこのあたりかな」と思いながら走っていると、突然見覚えのあるお名前の表札(「国語の神様」としてテレビでおなじみの先生)があり、やはり、このあたりかと思いました。
 
 北斗のころとは違って、田んぼなどまったくない、閑静な住宅地ですね。

管理人  ++.. 2009/10/06(火) 01:48

2009年9月22日 (火)

東京に転居

 
 仕事の都合で、東京に越してきました。

 それほど意識はしていなかったのですが、いくつかの偶然が重なって、たまたま新居に選んだのは中央線沿線、杉並区高円寺。

 そう。北斗が東京に着いて最初にたずねた西川光次郎のいた「阿佐ヶ谷」や、金田一京助を訪ねた「成宗」(現・成田)の近く。
 そして、北斗が働いていた新宿にも中央線で一本。

 北斗が高尾山に遠足に行ったときに使ったのも、中央線。

 80年前に北斗がうろうろしていたあたりなんですね。

 これからは、東京での北斗の足跡を暇を見つけて調査していきたいと思います。

 

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2009年4月25日 (土)

歴史地理教育

O先生から教えて頂きました。

歴史地理教育2009年3月号(増刊号)
「まるごと学ぶ北海道 ――アイヌ・歴史・暮らし――」に、「沖縄教育」誌に掲載された違星北斗の未発見文書に関連する記事があるとのことで、取り寄せて読んでみました。

 掲載されている「違星北斗に出会った伊波普猷」(近藤健一郎、全2ページ)によると、

 沖縄県教育会機関誌『沖縄教育』第一四六号(一九二五年六月)にアイヌ青年違星北斗による「ウタリ・クスの先覚者中里徳太郎氏を偲びて」という論考が掲載されている(沖縄県立博物館・美術館所蔵)。この論考は『沖縄教育目次集』(那覇市企画部市史編集室、一九七七年)に掲載されていたものの、雑誌の所蔵が不明であったため原文は知られずにいた。

 なるほど。この「沖縄教育」に関しては、沖縄の図書館の蔵書検索をしてみたりしてたんですが、見つかっていませんでした。あるところには、やっぱりあったんですね。

 北斗の言葉も引用されています。

「アイヌが日本化することを無上の光栄とするは誠に美しい人情であつて真にそうある可きでありますが、それがためにアイヌ自身を卑下するに至つては遺憾千万である。アイヌを卑下しては永遠にアイヌ民族の名を挙げることは出来ない。アイヌ自身が自重して進むことである」

さて。

「歴史地理教育」のこの記事には、一枚の写真が掲載されています。

 キャプションは

《違星と伊波が出会ったアイヌ学会(1925年)において、違星による墨絵に出席者が寄せ書きしたもの。
「伊波普猷」の名も見える(『沖縄教育』)》 
 
 とあり、細長い紙の下の方に囲炉裏端に座っているアイヌ男性の絵があり、上の方に小さくて判読できないですが、寄せ書きがしてあります。

 これは、伊波の「目覚めつつあるアイヌ種族」にも書かれている寄せ書きでしょう。

「目覚めつつあるアイヌ種族」(『伊波普猷全集』より)

《あとで金田一君が違星君は画も中々上手であるといつて、アイヌの風俗をかいた墨絵を二枚程出しましたが、なるほどよく出来てゐました。博文館の岡村千秋氏が、北海道の内務部長に自分の友人がゐるが、この絵に皆で賛を書いたり署名をしたりして、奴におくつてやらうぢやないか、さうしたら、アイヌに対する教育方針を一変するかも知れないから、といつたので、中山氏が真先に筆を走らして、「大正十四年三月十九日第二回東京アイヌ学会ヲ開催シ違星氏ノ講話ヲ聴キ遙ニ在道一万五千ノアイヌ同胞ニ敬意ヲ表ス」と書き一同の署名が終りました。私は所見異所聞違此心同此理同といふ文句を書添へました。(中略)先日博文館の編輯局に寄つた時、違星君の絵に皆で寄せ書きをしたものゝ写真を貰つて来ましたので、一枚送つて上げますから、雑誌の口絵にでもして下さい。》

 ここに出てくるものでしょうね。
 
 掲載されている写真は小さいくてわかりにくいのですが、描かれている絵は、かつて余市の水産博物館でいただいたこの写真の絵とほぼ同じ図案です。(寄せ書きのほうは墨絵なので、すこし感じがちがいますが)。
 こちらの絵には「カムイコニモック(神占)」と書かれていますので、占いの儀式の絵でしょう。北斗がサインをするときの絵のレパートリーの一つなのかもしれません。

(09/04/25)

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