【幌別・平取時代】

2012年11月12日 (月)

注解アイヌ神謡集

「注解アイヌ神謡集」(知里幸恵著訳、北道邦彦編注)の解説編に収録されている佐藤三次郎「北海道幌別漁村生活誌」に、北斗のことが書かれていました。

 幌別の海岸について。

「六月頃になると、椿に似た真紅な花が沢山咲いて、とてもきれいである。
 この頃は鱒が沢山獲れるし、鰮もぼつぼつみえる頃であるが、ガスがひどく、毎日眺めている恵山(エザン)や近くの鷲別の岬までが、すっかり包まれてしまう事が多い。こんな時、地球岬の灯台は、一日中ボーを鳴らしている。

   幌別の浜のはまなす咲き匂い
   恵山の崎は遠くかすめり

 という違星北斗さんの歌も、この頃詠んだのだろうと思う。


 北斗が幌別にいた頃は7月半ばですが、まだ咲き頃ですね。

 この佐藤三次郎は幌別のバチラー教会の裏に住んでいた人で、「ウタリの友」にもタンネ・ヘカチの名前で寄稿しており、そこにも北斗の名前が登場します。
 http://iboshihokuto.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-3073.html

2012年6月 4日 (月)

北海秘話 魂藻物語 (其の一)

 違星北斗が日高各地のコタンを巡り、啓蒙のために「子供の童話」「自働道話」などの雑誌を配っていた時に出会った、長知内小学校の先生、奈良農夫也

 北斗はアイヌ語に関する造詣に関しては金田一京助以上だと評する奈良に、アイヌの昔話を童話として書いて欲しいと頼み、そして奈良が描き上げ、「子供の童話」昭和2年2月号に掲載されたのがこの作品です。

 (其の一)と(其の二)に分かれています。

 (其の一)が、この伝説の伝承者、老媼、テコロタロから聞き取ることになった経緯や、趣意などを沙流山人(=奈良農夫也)が書いたものです。

 (其の二)が、伝承昔話「魂藻物語 (シサム ウェペケレ コモムト゜チ)」です。こちらの方が読みやすいです。

 個人的には、其の二を先に読む方が、味わいが深くなると思います。

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北海秘話 魂藻物語 (其の二)

(其の二)

Shisam,uwepekere

KOMOM TUCHI

シサム。コモト゜チ

 胡盲媼 テコロタ ロ伝

 農童守 沙流山人 和訳

Pon wen shisam an.

ポン ウエン シサム  アン      
(ちい)さな 貧乏な 和人が居った。

(=註…大人になつてからも、ポンウェンシサムと人名の如く称す)

Machihi anwa oka, mip ka isam,

マチヒ アンワ オカ ミプ カ イサム   
妻と暮して居たが、着物も無く、


Epka isam, Ramma Pöka sakno oka,

エプカ イサム ラムマ ポーカ サクノ  オカ
  

食物も無く(極貧乏であつた)何時迄も子供が無いので

この上もない不幸であつた。
 あまりあまり淋しいので夫婦は犬(セタ)と猫(メコ)を飼うことにした。
 飼うには飼つたものゝ食はせるものが無いので、これまでよりもなほ一層のこと困ることになつた。
 
で、一生懸命、山へ行つて薪をとり、それを糠(ぬか)と取替へて糠粥(ぬかがゆ)に炊きそれで犬(セタ)と猫(メコ)を養ひ吾子(わがこ)のやうに大切に可愛がつてゐた。さうして飼つゐるうちに、自分達夫婦はだん/\年老(と)つて、犬(セタ)と猫(メコ)はだん/\大きくなつた
 
そのうちに猫(メコ)は犬(セタ)と一緒に村(コタン)を巡(まわ)り歩き、猫(メコ)は人の家に上り込んでもいゝものなので、人家に這入(はい)り、魚の頭や肉の附いた骨などをもつて来て外に待つて居る犬(セタ)に渡した、犬(セタ)はそれを自家(うち)の爺さん媼(ばあ)さんの許(とこ)へ運んできた。
 
犬は大層綺麗な毛色なので、人々はそれを讃(ほ)めながら、可愛がつて、魚のあまり肉の余物(あまりもの)、握飯の半分などを分けて呉(く)れるのを、直ぐ食べたりせずに家(うち)に持ち(銜(くわ)えて)かへり、かうして親のやうな老夫婦(とそりふうふ)を喜ばせながら養つて居た。
 
さうしてるうちに、犬(セタ)と猫(メコ)は、もつと大きくなつた。或日(あるひ)、猫(メコ)が犬(セタ)に相談を持ちかけて、『いつも何時(いつ)も、恁麼(こんな)ものばかりを父さん母さんに上げてるのぢや嘸(さぞ)つまらないだらう。どうだ、自分達ももう大分(だいぶ)大きくなつたのであるしするから、もちつといゝ仕事をしてもつと喜ばして上げようではないか、この辺にばかり居たんでは、これ迄(マンデ)の事より為様(しよう)もないんだから、これから一つ、大長者(ポロニシパ)の居る遠くの町へ行つてウンと稼いで沢山(たくさん)土産(ムヤンキ)をもつて帰らうではないか、えッ?、どうだい』
 
すると、犬(セタ)は直(す)
『ン、よかんべ!』
と賛成した。
 
それから二人で(アイヌではこゝで二疋(ひき)とは言はない)出かけた。
 
ズーット行つて、何処迄(どこマンデ)も行くと、偖(さて)困つたことに、行かうとする自分の前に、大きな川があつた。行くことが出来ぬので、猫(メコ)は、
『こりや困つた!』と叫んだ。
「困つたなァ」と犬(セタ)も哀れつぽい声を出した。猫(メコ)は凝然(じつ)と考へ込んだ。
「まつたく困つたことになつたなァ」犬(セタ)はまた呟(つぶや)く。
 猫(メコ)はやつぱり黙つて考へ込んでゐる。犬は独りで焦慮(やきもき)して、
「切角(せっかく)こゝ迄(マンデ)来たのに、思詰(おもいつ)めて切角こゝ迄(マンデ)やつて来たのに、こんなことになつて、全く困つたなァ、仕方がない、ぢや、もう帰るべ、え?、もウ帰るべや」
 遂到(とうとう)泣き声になつてしまつた。
 すると今迄(いまマンデ)凝乎(じっ)と考へ込んでいた猫(メコ)が、
「ハッハッハッハッ、……」
と笑ひ出した。そして言ふには
「何もそんなに困ることない、俺、さきになって泳ぐからお前は俺の尻尾銜(くわ)へてあとさ銜(つ)いて泳いで来(コ)ればいゝ……」
 と、さう言って川の中へ躍込(とびこ)んだ。犬(セタ)は猫の尾を銜(くわ)えてあとにつゞいた。漸(ようや)く向岸(むこうぎし)に渡りついて、また往(い)つて、行つて、ズーッと行つたら、大きな町が見えた。見たこともない大きなその町に着いて、その中で一番大きなカムイトノの屋敷に這入(はい)った。
 猫は家の中へ這入り、犬はお庭の辺をうろついてゐた。すると、女中らしいのが犬(セタ)を見つけて、
『まァ、綺麗な犬が居る、どこから来た犬だべ、可愛いゝこと…メンコイこと』
 さう言ひながら、一度家の中に入つて、また出て来た。魚の肉の附いた骨や御飯の旨さうなのを(糠粥でないところの)…沢山容器(いれもの)に盛つてきて下に置いた。家から出て来た猫(メコ)は先にそれを見つけて、
『さァ、こゝに沢山御馳走が出た!』と犬(セタ)に報せた。犬(セタ)はそこに来て、猫と一緒に今迄(いまマンデ)喰べたこともないいろ/\な御馳走にありついた。綺麗な犬(セタ)と綺麗な猫(メコ)とが頭(かしら)を並べて仲よく食べてゐるのを、そこのカムイトノが見て、
『恁麼(こんな)に綺麗な犬(セタ)と猫(メコ)、何処(どこ)から揃つて来たのか、二疋(ひき)とも、うちで飼つてやれ 
 
そして此頃(このごろ)、鼠の多いあの穀庫(こくぐら)の番をさせ、鼠獲(と)りをさせよう』
 
と、そして二人(二疋(ひき))はハルオプの中へ遣られた。
 
穀庫(ハルオプー)の中には沢山穀物(アマム)があつて、多くの鼠が集まつてる模様であつた。猫はこゝ一働きと、見る間に三疋四疋……片つぱしから鼠を捕り初めた。
 
(セタ)は、猫(メコ)の捕つたその死んだ鼠を一々庫(プー)の入口へ運んだ。
 
(メコ)は、鼠を捕つて捕りまくり、犬(セタ)も亦、目のまはる忙(せわ)しさで庫の入口にそれを運んだ。入口には鼠の死骸が山の様に積まれ、もう悉皆(すっかり)捕り尽くして一疋も居なくなつた。
 
庫の中は寂然閑(ひっそりかん)とした。もうコソッともしない。犬(セタ)と猫(メコ)は疲れ切つて憩(やす)んでゐた。
 
と、暫時(しばらく)して……ノソ……ノソッ……と変な跫音(あしおと)がどこからともなく聞こえる
『何だらう』
「ホニ何だべ?」
 二人は不思議さうに耳を傾けながら、その足音らしいのゝ近づく方を見て居た
 
一体何者(なに)が来たのか……と。
 
ノソ、…ノソ、…ノソ、…ノソッノソッノソッ!
 
穀庫(こくぐら)の薄暗い奥から現れ出たのを見ると、大きな大きな犬(セタ)ぐらゐもある怪獣(ばけもの)であつた。
 
コリャ大変な怪物(ばけもの)が出たわい…と、犬(セタ)はコワ/゛\友達の猫(メコ)の顔色をソッと見かへした。猫(メコ)も流石に駭(おどろ)いたけれども、さあらぬ体(てい)に……ナニ、これ鼠だもの…と心に思詰(おもいつ)めながらヂリ/\と怪物(ばけもの)の傍近く向つて行つた…歯牙(きば)を剥出(むきだ)しながら…
 
すると、大きな獣は、
「待つてくれ、暫時(しばらく)まつてくれ…」
『お前はいつたい何者だ?』
『俺はたゞの鼠ではい!
『お前はいつたい何だ!!
「俺はたゞの鼠ではない。 神様に霊通(つづい)てる王なんだから。…暫時(しばらく)まつて呉(く)
 
お前は……お前は俺の子供達を悉皆(すっかり)噛殺(かみころ)してしまひ、俺の妻(マチヒ)も喰殺し、親類(ウタリ)も悉(みんな)亡くしてしまつた。それで遂到自分が出て来たのだが、なんで斯様(このよう)に迄 噛殺(かみころ)してしまつたのか?」
 
猫はひるまずに、
『何を世迷言(よまいごと)(ぬ)かすんだ。俺はカムイトノの吩附(いいつけ)で、この庫の穀物(アマム)を食ひ減らして仕様のない泥棒鼠を捕りつくすのだ。さァお前も覚悟しろ!』
 
牙を剥いて喰付(くいつ)かうとすると、
「まァマア待って呉れ、俺はもう最後(おしまい)に残つた…たつた一疋の鼠なんだから、俺に歯向(はむか)つて決していゝことはない、俺を食はずにくれ、俺はたゞの鼠でない。俺は神さまに霊通(つづい)てるものだから」
『いや待たぬ』
「ンならば…俺のお守、お前にあげるから喰はないでくれ」
『何を呉れる?、何、呉れる、
 何も呉れないば、今直(す)ぐ喰ひ殺すぞ!』
「待つて呉れ、喰はないで呉れ。
 私の大切なお守をやるから。」
『何を呉れる?、何、呉れる、
 何も呉れないば、今直ぐ喰ひ殺すぞ!』
「待つて呉れ、喰はないで呉れ。
 私の大切なお守をやるから。」
『何を呉れる?、何、呉れる、
 何も呉れないば、今直ぐ喰ひ殺すぞ!』
「待つて呉れ、喰はないで呉れ。
 私の大切なお守をやるから。」
『何を呉れる?、何、呉れる、
 何も呉れないば、今直ぐ喰ひ殺すぞ!』
「待つて呉れ、喰はないで呉れ。
 私の大切なお守をやるから。」
『何を呉れる?、何、呉れる、
 何も呉れないば、今直ぐ喰ひ殺すぞ!』
「待つて呉れ、喰はないで呉れ。
 私の大切なお守をやるから。」
『何を呉れる?、何、呉れる、
 何も呉れないば、今直ぐ喰ひ殺すぞ!』
「待つて呉れ、喰はないで呉れ。
 私の大切なお守をやるから。」
 
と(六問六答論法(イワンシュイネチャランケ)はアイヌの神事)イワイソイ(Iwan,isoi)した。
 
大鼠(ポロエルム)は奥の方に行つて暫時(しばらく)してまた出て来た。
 
何か入つてるらしい綺麗な小さなサランベ袋(ブクル)をチャンと銜へてゐる。
 
(メコ)はこれを受け取つた。
 
大鼠(ポロエルム)
「その中にはピンネコモト゜チ(雄Pinne.)とマッネコモト゜チ(雌matne.)がある。それさへあれば何でも自由(かつて)に所有(もつ)ことが出来る。お前達が養はれた父母のために斯様(こう)したところまでンきてるのだといふことは、聴かなかつたけれども、俺は前刻(まえ)から見透(みとお)してよく識(し)つて居た。これを土産(ムヤンケ)に持ち帰つたらば お前達の養父母(ちちはは)である爺さん婆さんは什麼(どんな)に喜ぶかしれない。お前は先刻(さっき)、鼠が穀物(アマム)を盗食ひするといつて怒つたが、鼠が人間の穀物(アマム)を喰ふことは俺達の初め発生(でき)た時から神さまに許されてゐることなのだ。さう許されていることを邪魔して、その上、鼠を食殺すといふことは止めて呉れなければならない。
 
猫はそれに答へて、
『これからは、今日のやうに無闇には食殺すまい。だが鼠(エルム)達だからといつても、神様から許されてる事だからとばかりで、人間の切角(せっかく)働いて庫(プー)さ蔵(しま)つておく物を さう/\無闇矢鱈(むやみやたら)と喰ひ荒すことはいゝことではない。誰だつて、人間だつても、お互(たがい)所有物(もちもの)を盗られるといふことは、あまり気持ちのいゝもんぢゃあるまいからナ』
 
鼠と猫(メコ)達とは、そこで平和(おだやか)に訣別(おわかれ)した。

      

 猫(メコ)達は、もう鼠一疋もゐなくなつた庫に用も無いことだし、それに爺さん婆さんへ持つて帰るいゝ宝の土産物(ムヤンギ)ができたのを喜んで、役済(やくずみ)の気軽さと、嬉しさに 犬(セタ)と相談して早速帰ることにした。

 猫(メコ)は又(また)先になつて コモト゜チ二つ入れたサランベブクルを口に啣(くわ)へ、犬(セタ)もそれに蹤(つ)いて行った。
 もと来たときの、あの大きな川のほとりにきて二人(二疋)ともまた駭(おどろ)いてしまった。上流(かつち)の方に雨が降りつゞいた為か、ワッカポロ(大水)して迚(とて)も渡れさうにない。

 犬(セタ)は落胆(がっかり)した。こゝ迄(マンデ)切角帰り着いたのに、この川渡れさへすれば直ぐにも爺さん婆さんの許(とこ)さ躍(と)んで行けるものになァ……ホニ、きもやなァ……と。

 猫(メコ)も今度こそは、困つたけれども元気をつけて言つた。

 『よし!、行かう、行けないことはない、俺の尻尾を銜(くわ)へて後からつゞいて泳いで来い』

 

 と、それから猫(メコ)はサランベプクルを確乎(しっか)と啣(くわ)て先づさきに水に入った。犬(セタ)も後につゞいて猫(メコ)の尾を銜(くわ)へながら泳ぎ出した。水出が大きく、流(ながれ)が強いので、二人ともズン/\流された。流されながらも向岸(むこうぎし)に近づいたが、渡りつくにはまだ/\距離(ま)があつた。 

 猫(メコ)はたび/\元気のない犬(セタ)のことを心配して、尾から離れないか、離れて流されはしまいかと、あと振向いた。犬(セタ)はついて来てる。

 流れ流れて、流(ながれ)の一層強い個所(ところ)に来たが、岸までもう少しであつた。猫は又犬のことが心配になつてふりかへり、

『もう些(すこし)だ。確乎(しっかり)してっ!』

と気勢づけを言つた。

 犬(セタ)も猫(メコ)もやつと岸についた。身体の水を振落(ふりおと)しながら……さァこれから爺さん婆さんの許(とこ)へ急いで帰るのだ……と二人とも顔見合はしてニツコリしたが猫(メコ)は覚えず…ハッtとした。大事な大事なサランベブクルがない。

 先刻泳いでゐながら『もう少しだ確乎(しっかり)して!』と犬(セタ)を顧(かえり)みながら叫んだ時、思はず口をあいて…その時口から外して流してしまつたのだ。あまり岸に泳ぎ着くことばかりに気をとられ、一生懸命だつたので 口から外したことに気が附かなかつたのだ。

 犬(セタ)も今度こそ全くがつかりしてしまつた。

 爺さん婆さんは什麼(どんな)にか自分等を待ちあぐんでることだらう。年老(とっ)て働けなくなつてから、永い間二人でいろ/\お世話してたのを、フッツリ止(や)めて旅に出たのだから、老い衰へた二人は其後(そのご)食ふものも食はずに居るのではあるまいか、それが今かうして切角(せっかく)立派な宝物を二個(ふたつ)とも土産に持つて帰り、みんなで喜ばうとして来たのだつたに恁麼(こんな)ことになつてしまつた。どうしよう、どうしよう。ほんとに…。

 泣くにも泣きだされず、涙一ぱいためて、すつかり萎気返(しょげかえ)つて了(しま)ひ、流石(さすが)気丈の猫(メコ)でさへも今は全く途方に暮れてしまつた、この川を渡つたら…渡りさえしたら、何も途中心配なく爺さん婆さんの許(とこ)へ帰りつくばかりだつたのに……と、くやしくて/\どうにもかうにもしようがな[か]つた。けれども此儘(このまま)空手(からて)で帰る気にはどうしてもなれず、兎も角、川口まで下つて何か一つ見つけようと、岸づたひに下つて行つた。

 犬(セタ)と猫(メコ)は今迄のことに泣悲(なきかなし)み、また爺さん婆さんの此頃(このごろ)を思ひ案じながら、泣語(なきがた)りに下り下つて、遂到(とうとう)浜に出た。何かあれば…とその辺を歩いてると、渚の砂の上に一尾(いっぴき)のエレクシが死んでるのを見た。大きな大きな鱈(エレクシ)だつた。それがまた途方もない大きな腹をしてゐた。

『恁麼(こんな)大きな鱈(エレクシ)、今迄(いままんで)(まん)だ見たことがない。これでも持って一先づ家に帰り、爺さん婆さんの顔を見てから又(また)何とかいゝ考(かんがへ)を立てる事にしようふゃないか』

と代(かわ)り代りその魚を銜(くわ)へて元来た路を急ぎ帰つた。

 帰つたら、爺さん婆さんも待ちあぐんでゐたのだから、それはそれは喜んだの喜ばないのって今迄(いままんで)見たこともない笑顔で迎へて呉れた。

 二人は早速土産の鱈(エレクシ)を出した。婆さんが先ず料理に取掛かる、「まァこの魚の腹の大きなこと……」さう言ひながら膨れた腹に庖丁を当てたかと思ふと、「オヤッ」、中から思ひがけないものが出た。

 サランベ袋(ブクル)が出たのである。猫(メコ)は急いでかけ寄つてその中を覗く…と見るまに…コモト゜チをとり出した。

 ヨーろこんだの喜ばないのつて、それをもつて爺さんの前に高くもち上げ、婆さんの前へ行つては振りまはして見せ、クル/\跳廻(はねまわ)つて二つのコモムト゜チを手玉にとつて踊りはじめた。

 犬(セタ)も一緒になつて踊り出した。

踊疲(おどりつか)れてから猫(メコ)は炉の傍に来て密(そっ)と犬に耳囁(みみうち)して

『お前は火媼神の近侍(トンデ)(トンチは和語通辞?)なんだから神(カムイ)に一応礼祷(イノンノ)して、爺さんに上げろよ、それからこの婦性(マトネ)コモト゜チmat ne kom-m tuch』の方は、

 
……インネマチヤ――(Inne machiya.
 
……ウタリコエウン――(Utari koeun.
 ……アンタキ!(Antaki!


 セコロハエアンコロ、エシリキせば、インマチあるんだから、また、夫性(ピンネ)コモムト゜チ(
Pin ne komom tuchi)は、
 

 ……タンウシケタ(
tan ushiketa.
 
……イワンハルオプー(Iwan haru opu.
 
……イワンカニオプー(Iwan kani opu.
 
……アンタキ!(Antaki!

と、言って、エシリキ(
Eshi rikk、槌打)せばよい』
 

 
犬(セタ)はそれを聞いて教へられた通り火神(アペフチ)に通祷(イノンキ)して、槌打(エシリキ)の言葉を添へて爺さんに捧げた。爺さんは、ラタイワイスイ(低位掌抄六礼、Rata iwan isui) リキタイワイスイ(上位抄掌六礼、Rikita iwan isui.)捺掌礼(オンカミ)してそれを受けた。

 それで収めて爺さんも婆さんも犬(セタ)も猫(メコ)も大ニコニコに喜んだ。

 爺さんはマッネコモト゜チとピンネコモト゜チを持つて外に出た。山の気色(けしき)、川の気勢(けはい)、野の具合を見計ひ、こゝらに村(コタン)が出来ると好(い)いな…と思はれる個所を見て、そこに佇(た)った。そして先づマッネコモト゜チを右手に身構へた。


「……インネマチヤ
 
……ウタリコエウン
 
……アンタキ!」


と叫んで槌打(エシリキ)したら、立派な沢山な家がズーッと出来て、そこにガヤ/\と人の話声(はなしごえ)が賑かにして、軈(やが)て方々の家から人々が出て来る。次ぎにピンネコモト゜チをとつて、


「……タン、ウシケタ
 
……イハンハルオプー
 
……イワンカニオプー
 
……アンタキ!」

 
と朗らかに言つてエシリキしたら、大きな穀庫(ハルオプー)が六つ、大きな金蔵が六つ、ズラリと並び建つた。

 四人はこれを見て足踏み鳴らして踊り喜んだ。大長者になつた爺さん婆さんは、自分の創りなした村中の者らに神人(カムイニシパ)のやうに尊ばれ、犬と猫とを可愛がりながら何不自由なく楽しく暮らすことが出来た。


(をわり)

 

 

2012年4月 3日 (火)

無題

Twitterで違星北斗botというのをやっているのだが、大正15年の夏で少し停滞している。

昭和2年の日記が大正15年の日記で、さらにバチラーと後藤静香の資金トラブルが本当に大正15年であるのか。裏付けがほしい。決め手となる決定的な証拠がほしい。

2011年4月10日 (日)

ウタリの友

ウタリ之友に、北斗に関する記述がありました。

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ウタリ之友 九月号 一九三三年九月一〇日

 幌別だより      タンネ・ヘカチ

 いつも「ウタリの友」をお送下さりまして有難う御座います。
 何か御礼にも と思ひましてもルンベンである僕は何も出来ませんので申訳なく思って居ります。毎月戴く「ウタリの友」を見ますとみんな知った人ばかりなので つひ懐かしさの余り筆を取らうと思ひますが、一日々々と延びて締切の日を越えたり、筆不精のため遅れたりで毎日過して来ました。今日は雨模様の静かな日です。久しぶりに落ちついた心で教会の辺りを歩いてみました。土手にはクローバーやチモシーなどの牧草が綺麗に生えてゐて 処々に月見草が優しくうなだれてゐます。土手の中には南瓜が一面に這ってゐます。あそこには苺が沢山つくられてあって八重先生がいつもレーキやホーをもって草を取ったり、藁を敷いたりしてゐたのでした。西側の一隅にはアスパラガスの一群に野菊が混って仲よく茂ってゐます。僕が小学校に通ってゐた頃は畑もよく耕されて雑草のない黒土に茎の太いアスパラガスが元気よく延びてゐたものでした。あれからもう六・七年の年月を過してゐます。主人無き古き教会の土手の片隅にアスパラガスは 冬に眠り春に目覚めては培ふ人の再び訪れる日を待ちわびてゐたのでせう。しかし教会の門柱が朽崩れても 裏のシグナルの上に北斗七星がいく夜かまたゝいても去った人々は再び訪れてくれませんでした。
 そのうちにアスパラガスの根もとには いつしか野菊やノコギリ草が混りました。今ではアスパラガスはそれらの雑草と仲よく暮す事が楽しみなのでせう。細くすらりとした姿で野菊の白い小花の中にふさ/\とした葉を垂れてゐます。
 僕は遠い少年の日を思ひ乍ら 赤や青のガラスを填めた小窓を見てゐました。いつか八重先生が札幌へお出でになった留守でした。学校から帰ってきた春野さんが二三人の子供を連れて来て 礼拝堂の高い屋根に梯子をかけて雀の仔を沢山とりました。軒からは藁や毛がバラ/\落ちました。春野さんはその雀の仔をみんな子供達に分けてやってから、僕の方を見て笑い乍ら内へ入りました。ある時はまた豊君が豚の餌を買ひに行っての帰り途で、石花菜(キラズ)を山盛りに入れた箱をひっくりかへした事もありました。井戸のつるべが落ちた時 死んだ違星さんが僕のうちへ釣[瓶]を借りに来た事もクリスマスの劇で僕が大工さんになって恥しかった事も みんな楽しい思ひ出です。あの頃の人々は皆何処かへ行って了ひました。僕だけが毎朝トマト畑から古い教会を眺めて暮してゐます。
(一九三三年九月四日)
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(出典は「アイヌ民族近代の記録」草風館より)

 作者のタンネ・ヘカチは佐藤三次郎。
 どこかで聞いた名前だと思ったら、知里真志保に「違星北斗のような短歌は作るな」と言われた人だった。
 http://www.geocities.jp/bzy14554/fujimoto.html

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2009年1月23日 (金)

平取での在所

    
北斗の平取での住所については、情報がいろいろありますが、おおよそ次の二カ所に絞られます。

(1)「忠郎」氏宅。

 大正15年7月。北斗が北海道に戻り、幌別のバチラー八重子に、アイヌの信仰を持っている家庭を紹介して欲しいと頼んだ。(金田一宛・違星北斗書簡)
 平取で、平取教会の岡村神父夫妻に「忠郎」氏を紹介してもらった。(「違星君の平取入村時の思い出」)

 
(2)義経神社下のバチラー八重子が管理する借家。

 もともとブライアント女史の家だったところで、八重子が譲り受け、吉田ハナが管理していた。
  
 で、これは(1)が1926(大正15)年、(2)がおそらく翌年の1927(昭和2)年の住所ではないかとと思います。
 
 北斗は昭和2年に約3ヶ月の空白期間がある。(8月中旬~10月下旬)

 バチラー八重子が平取に異動するのが昭和2年。
 吉田ハナは北斗のことを確かに知っており、「北斗はキリスト教ではアイヌは救えない」と語っているので、確かにいっしょに過ごしたようだが、そうすればやはり昭和2年も北斗は平取に来ている。

有馬氏

「アイヌ史新聞年表『小樽新聞』(大正期II・昭和期I)編」より。

《1926.07.27 「有馬博士一行/アイヌ結核調査」〈8月1日から、日高地方で、北海道帝国大学医学部の有馬博士と助手2名が、「アイヌの結核調査」に当たる予定になっていることが、『小樽新聞』で報じられた。》

 これは、北斗の日記のこの記述と関係しますね。

八月十一日 水曜日

有馬氏帰札、曰く
一、アイヌには指導者の適切なのが出なかった事
二、当面の問題としては経済的発展が第一である事

 これでしょうね。

2008年10月11日 (土)

北斗からの手紙(2)大正15年7月8日

さて、2通目の手紙です。

 宛先は「東京市外阿佐ヶ谷町大字成宗三三二
金田一京助先生」、封筒に書かれた日付は大正15年7月8日、差出人は「北海道室蘭線ホロベツ バチラー方 違星滝次郎」とあります。
 
 北斗は大正15年7月5日夜に東京を発ち、7月7日に北海道の幌別に到着しています。その翌日に書かれた手紙です。
 
 これを見ると、北斗は帰道直後、バチラー八重子のいる幌別(現・登別)の聖公会の教会に寄宿したことがわかります。

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2008年9月 1日 (月)

北斗と平取

 北斗が平取に居たのは、大正14年の7月14日ごろから。
 平取教会の近くのバチラー八重子が管理する家に寄宿。(某忠郎氏のところに寄宿という記述もあり)。二風谷、長知内、荷負、上貫別などにかよっている。
 8月末には札幌バチラー宅へ、その足で余市に帰郷し、9月中頃までに再び平取に戻っている。その後、日高のコタンを旅している。
 
 翌昭和2年の2月に、兄の子が死んだため、余市へ戻っている。
 この後、2月に余市に戻り、鰊漁を終えて、5月中頃に戻る予定が、病気になり、余市に留まります。
 病気は7月には完治したようですが、この期間、北斗は余市の遺跡を巡って郷土研究を行い、また中里篤治と同人誌「コタン」をつくります。 
 この後、記録がないので、北斗は二風谷に戻っていないのではないかと思っていました。

 しかし、このコタンが出た8月から、9月10月にかけて、すっぽりと空白の期間があります。
 

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2008年8月20日 (水)

「新日本紀行・サラブレッド高原」

NHKの「新日本紀行・サラブレッド高原」のビデオを入手。昭和44年9月の放送。

以前、この番組を書籍化した本に北斗の記述を見つけたので、テレビ番組の中でも放送されたのではないかと期待していたのですが……。

 http://iboshihokuto.cocolog-nifty.com/blog/2005/03/post_7204.html

 残念。
 ありませんでした。

 年表の方にも「紹介されたか?」と書いているので、消さなければなりませんね。

 北斗の事は、書籍化に際して追加されたものかもしれません。
 残念。

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