【行商期】

2012年11月12日 (月)

「違星北斗君を悼む」

新短歌時代 第3巻第3号 昭和4年3月1日発行

『違星北斗君を悼む』      村上如月

 握飯腰にぶらさげ出る朝のコタンの空でなく鳶の声

 同族への悲壮な叫びも報ひられぬのみか、異端者として白眼視された時、焰と燃えた情熱は、何時しかあきらめを透して呪詛と変じて了はねばならなかつた。真剣に戦を戦うた君に、カムイ(神)は無上安楽の境地を、死に依つて与へたと謂ふことは、ハムベやハポに優る哀しみを、万に余る君の同族に均しく強く与へた結果となつた。歎かずにはをられない。
 一月廿六日―それは群星もあの天空にそのまゝ凍てついたかと思はれる程寒さの強い夕、私は、なにも知らずに、懐しい詩友の温容を瞳に拾うて、札幌の旅から帰つたのであつたが、君の霊魂は、この時すでに、コタンのつちを離れて、九品の浄域いや西方の九天にと昇るべく、ひたすらの旅立ちをしてゐた事であつたらう。
 病めば心は萎へるといへば、或は臨終の前には、神に凡てを委ねきつた君の姿であつたかも知らぬが、少くも私には、魂の奥底に石の如うにひそむ情熱がつゝむ「無念」の相の君ではなかつたかと想はれてならない。

 だうもうなつら魂をよそにして、弱いさびしいアイヌの心

 君の死を知つては俳壇の耆宿もない。私は早速にも短冊掛に、これを入換へねば済まなかつた。湧然として、君の姿が声が、私の書斎に現れれた。
 それだから私は今、君に喚びかける。
 人が称ぶ「凡平庵」に、君と初めて会うたのは、君も忘れはしまい、昭和二年も暮の十二月二日であつた。見ぬ恋が達せられたいつた形の私の前に、容赦もなく放げ与へられたのは、君のシヤモ(和人)に対する満々たる不平の怒号であつか。飽く迄濃い君の眉毛、朱を帯びた君の頬。

 アイヌッとただひと言が何よりの侮蔑となりて憤怒に燃江る

 そのかみ、徳冨芦花を殺めんとしたと謂ふ情熱はこれであつたか。然し昨年の春寒い三月十三日―君が雪にまみれた姿を、日高胆振の旅の帰りと謂うて、私の高原の家に現はした時、情熱はいや冴えに冴えたといふ想ひはしたが、唯シヤモに対しての空しい闘争のみではなく、同族の為に、国史の為に、アイヌ民族文化の跡を、アイヌの手に依つの研鑽したいと謂ふ、涙ぐましい態度を示したものであつた。かの西田教授との学理的抗争も、恒に考証に悩みつゝ、一歩も後へは退かじとした君の意気には、学徒ならざるが故のみではなく何かしら叱咤激励を続ければならない原因がある如うな、重苦しい想ひさへしたものである。
 メノコ可愛やシベチヤリ河で、誰に見せヨと髪をすく
 日高の話に花が咲いた。曇天のシベチヤリ河の、朝に泛ぶ丸木舟も哀しければ、馬歌山の伝説は、更にいたましい。
 日高名産栗毛の馬にメノコ乗せれば、あレ、月が出る。
殊にもウセナイの濱の秋風に、点在する草家の影。
 ニシパ(主人)ゐねとてセカチ(若者)がしのぶ草家ホイ/\月ばかり。
 こんな私の戯れを、君はどんなに嬉しがつたか。あゝ然し、私に懐かしかつた日高の旅も、君には、また白眼視する「日高アイヌ」の心情をにくむ心が絡はつて、つらく、哀しい日高の旅であるらしかつた。
 虎の仔の如うに大事に持つて来た「高杯」に首飾玉の一つを加へて、君は欣んでコタンへ帰つて行つたが、間もなくの病臥を旅疲れとのみ信じた事は、如何にも哀しすぎる憶測ではあつた。
 五月五日、浜風の寒い日、小樽から帰りをかねての約束に依つて、私は余市大川町の君を訪ねやうとしたのであつた。
訪ねる家は判らない。ハチヤコ(赤児)を背にしたバツコ(老婦)がきゝつけてわざ/゛\案内してくれたのだが、何故かしら、君の同族に親しみを得たいとする心には嬉しい記憶として残つてゐる。
 君よ、この日の君の言葉、些か窶れた頬などを、聴納め見納めと思ふて、私は余市のあの茅ぶきの嬉しい林檎の枝々を、車窓に送つてゐたのではなかつたか。凡ては尽きぬ怨みである。
 あはれ挽歌。
 然し歌ひ得ぬ私である。詠はれぬ今の私である。
 マキヤブといふひと言ゆゑに火と燃えた北斗星の血潮は セカチの血潮だ
                   ×
 雪よ降れ降つて夜となれあゝ一人こゝにも死れぬ男のまなざし
                   ×
 エカシらがコタンに泣く日セカチらが神に祈る日北斗が死んだ日

 註。イキャップ(アイヌ語。最モ忌マレル侮辱ノ言葉) エカシ(同。老爺)
   コタン((同。所又は村落)

 在りし日の君の生活を写す追憶記、君の業績を讃へる追憶言が、君をめぐるアナバ(親戚)や、イカテオマングル(朋友)に依つて為されるであらう事を信じてゐる。故あつて一年有余樽新文芸欄と断つた私が、まずしくもさびしい、君の追悼記の片鱗をももして蘇生らうとする事は、多少のシヨツクを感じられぬものでもない。 
 ともあれ君よ。
 君の霊位よ。
 永くコタンの空に君臨せよ。
 嗚呼、ラムコログル(葬儀に泣く人)も歎け。イコンヌグル(魔法使)も呪へ。
 月なき今宵、ただリコブさつそうと北にとぶ。
                                          ―(完)―

------------------------------
「歌壇戦線」

(略)

本道が産む唯一のアイヌ歌人違星北斗君、昨秋来の肺炎に虐まれあたら民族再興の覇気も空しく、痛ましくも青春と永別す。高商西田教授を向ふに廻して、樽新紙上に論陣を敷いた「フゴツペの研究」も半ばに夭折したことは、真に痛惜の限りである。村上如月、稲畑笑治両君の彼の死を悼む一文は、けだし彼の面目を写し得て余蘊あるまい。彼の遺稿は友人吉田伊勢両君の手に蒐められ、樽新又は本誌に順次採録することになつてゐる。吾等は二世違星北斗君の出現をまちたい。

(略)
------------------------------
「編集後記」

(略)最後に同人日出彦氏の養母、かつての加盟者違星北斗氏、高松利雄氏の死去に対して、茲に心から哀悼の意を表して置く【凡平】

続きを読む "「違星北斗君を悼む」" »

2008年10月21日 (火)

永劫の象とは

 昭和3年2月29日、違星北斗は幌別で友人の死を知ります。

 二月廿九日 水曜日

 豊年健治君のお墓に参る。堅雪に立てた線香は小雪降る日にもの淋しく匂ふ。帰り道ふり向いて見ると未だ蝋燭の火が二つ明滅して居た。何とはなしに無常の感に打たれる。  
 豊年君は死んで了ったのだ。私達もいつか死ぬんだ。
 一昨年の夏寄せ書した時に君が歌った

    永劫の象に於ける生命の
    迸り出る時の嬉しさ  

 あの歌を思い出す。    

    永劫の象に君は帰りしか
    アシニを撫でて偲ぶ一昨年


 この「永劫の象」とは何か。
 「象」はエレファントの象ではないだろう。かたち、イメージ、イデアの「象」だろう。
 じゃあ、永遠の象とはなんだろう?

続きを読む "永劫の象とは " »

2008年9月 8日 (月)

ある疑念

今、年譜をバージョンアップしているところなのですが、その作業中に、ある疑念が。

年譜に「曜日」の記載をしていて思い出したというか、気づいた点があるのですが……。

北斗の日記の「昭和3年4月25日」を引いてみます。

--------------------------------------
 四月廿五日 月曜日

 何だか咳が出る。鼻汁も出る。夜の事で解らなかったが、明るみへ出て見ると血だ。咯血だ。あわててはいけないとは思ったが、大暴風雨で休むところもない。ゆっくり歩いて山岸病院に行く。先生が右の方が少し悪いなと云ったきり奥へ入られた。静に歩いて帰る。

----------------------------------------
 この、昭和3年4月25日は、昭和3年の日記の中で、唯一、実際の曜日が一致しません。実際は月曜ではなく、水曜日なんです。
 これは前から気づいていたのですが、そのままにしていました。

 で、4月25日が月曜なのは、昭和2年なんです。
 じゃあ、これももしかして、と思ったんですね。
 前に、昭和2年の日記がほとんど大正15年の曜日と一致していて、昭和2年として書かれているのが、実は大正15年だったということがありましたので。

 北斗は昭和2年の4月にもニシン漁のために、余市におり、そして昭和三年と同様、昭和二年も4月下旬に倒れています。(昭和二年は夏までに回復する)。

 では……昭和3年4月25日の日記も、じつは昭和2年の4月25日なのではないか、と思ったんです。

 まあ、証拠が揃っていないので、なんともいえませんが。

 この謎を解くキーワードは、やはり「大暴風雨」でしょうね。
 昭和2年と3年の4月25日の後志地方の天気を調べれば、どちらが正しいかがわかるはずです。

 ネット上では、ちょっと難しいので、これも現地でしらべなければなりませんね。
 

続きを読む "ある疑念 " »

2008年9月 1日 (月)

北斗と平取

 北斗が平取に居たのは、大正14年の7月14日ごろから。
 平取教会の近くのバチラー八重子が管理する家に寄宿。(某忠郎氏のところに寄宿という記述もあり)。二風谷、長知内、荷負、上貫別などにかよっている。
 8月末には札幌バチラー宅へ、その足で余市に帰郷し、9月中頃までに再び平取に戻っている。その後、日高のコタンを旅している。
 
 翌昭和2年の2月に、兄の子が死んだため、余市へ戻っている。
 この後、2月に余市に戻り、鰊漁を終えて、5月中頃に戻る予定が、病気になり、余市に留まります。
 病気は7月には完治したようですが、この期間、北斗は余市の遺跡を巡って郷土研究を行い、また中里篤治と同人誌「コタン」をつくります。 
 この後、記録がないので、北斗は二風谷に戻っていないのではないかと思っていました。

 しかし、このコタンが出た8月から、9月10月にかけて、すっぽりと空白の期間があります。
 

続きを読む "北斗と平取 " »

2007年5月28日 (月)

偶然の出会い

2007年05月28日18:19

 何か、書かずにおれないので久しぶりですが書きます。


 本日、午前中の仕事から午後の仕事に向かう途中、買い物があったので途中にある天王寺の某百貨店に行きました。
 目的の売り場は8階にあって、いつもならなんとなくエレベーターを使うのですが、今日は入った入り口が地下食料品売り場からだったので、エスカレーターを使用したため、目的の階にたどりついたら、催し物会場になっていました。

 そこでやっていたのが「大北海道展」でした。

 ふうん、やってるんだと思いながら、目的の場所に向かうと、アイヌ工芸品の販売所があり、細かな木彫が施されたマキリ(小刀)やお盆などが並んでいました。
 そこに、格好いいエビのアイヌ文様の刻まれた木彫工芸品があったので、売り場の方に、

「いいですね。沙沢ビッキ(有名なアイヌの彫刻家)ですか」

 と聞くと、

「いえ、これは、××さんです。詳しいですね」

 と売り場の方。

「あの、実は私、『違星北斗』を調べてまして」
「えッ、違星北斗って!」
「ご存じですか?」
「うちのおじいちゃんが随分付き合いがあったようです」
「えッ!?」
「うちのおじいちゃん、U・Tです」
「U・Tさんって、北斗の日記に出てくる、あの……」
「ずいぶん家にも来たようですよ。馬車で迎えに行ったって」

 ……ビックリしました。
 こんなこともあるんですね。

 結局、仕事の途中だったので、数分お話して、名刺を交換してその場を去りました。

 U・Tさんは、北斗の日記や同人誌コタンにも名前がある人で、昭和5年の(旧)北海道アイヌ協会の中心人物の一人ですが、お孫さんの話では北斗とはかなり付き合いがあったようで、よく北斗の名前をお聞きになっていたようです。

 物産展は30日までだそうなので、もう一度お会いしに行こうと思っています。

 しかし、こんな偶然もあるんですね。
  

2006年5月10日 (水)

アイヌ一貫同志会


 草風館版の「コタン」にある、違星北斗が辺泥和郎(ぺて・わろう)と吉田菊太郎とで結成したという「アイヌ一貫同志会」という組織について、裏付けを取りたいのですが、いまだにお目にかかれません。
 『近代民衆の記録 アイヌ』の藤本英夫先生の「アイヌ論考」に出てくるのが、唯一かと思うのですが、辺泥和郎から聞いたものかもしれません。

管理人  ++.. 2006/05/10(水) 01:44 [191]

北斗が日高を回っているとき、辺泥和郎は上川から天塩を、吉田菊太郎は道東を、薬の行商をしてめぐっていたということですが……この辺泥さんと吉田さん、どちらもアイヌの運動史の中では重要な方だと思うんですが、この売薬行商については、あまり書かれていないんです。
 吉田菊太郎の書いた本を読んでみたりしましたが、北斗のほの字も出てこなかったのでガッカリしたこともありました。

管理人  ++.. 2006/05/10(水) 01:49 [192]

辺泥和郎の生涯についての、詳しい記述はないのだろうか。

管理人  ++.. 2006/06/13(火) 11:28 [210]

2006年2月17日 (金)

北斗の食と東京

 2006年02月17日10:37

 砂糖湯を呑んで不図(ふと)思ふ東京の
  美好野のあの汁粉と粟餅

  甘党の私は今はたまに食ふ
  お菓子につけて思ふ東京

  支那蕎麦の立食をした東京の
  去年の今頃楽しかったね

 違星北斗の東京を偲ぶ歌は、なぜか食べ物の歌ばかりです。

 大正14年、23歳の違星北斗は、念願の上京を果たします。購読していた雑誌の主宰者である西川光次郎の紹介を得て、東京府市場協会の事務員としての職を得たのでした。
 上京した北斗は、すぐにアイヌ学者として高名だった金田一京助を尋ね、そこで知里幸恵のことを聞きます。この幸恵の著作「アイヌ神謡集」は北斗に絶大な影響を与え、北斗が生涯をかけて憧憬し、追い求めた「コタン」という言葉イメージは、この幸恵の遺作が与えたものであるといえると思います。
 金田一との出会いはまた、北斗にアイヌの父と慕われた英人宣教師ジョン・バチラーのことと、その養女でウタリのバチラー八重子の存在を教えます。
 また金田一の線から沖縄学の伊波普猷や中山太郎らの人文学者や、作家の山中峯太郎らを知り文化芸術に目覚め、おそらくバチラーの線からは、彼を資金援助していた社会運動家の後藤静香を知り、その教えは北斗の思想的な支柱の一つとなりました。
 あまり語られてはいませんが、その思想の遍歴の中では国家的な日蓮系の宗教家、田中智学(宮沢賢治や石原完爾などにも影響をあたえた)などにも傾倒してゆきます。
 一介のアイヌ青年はめくるめくように華やかな大正晩期の東京の中で、錚々たる文化人と交流をもつことになるのでした。

 和人に差別され、病と貧困の中で暮らした北海道での生活から一転して、東京での安定したサラリーマン生活は、夢のようなものだったでしょう。
 北斗は今で言う「セレブ」の人たちに可愛がられ、どんどん新しい思想を吸収し、知識を蓄積してゆきます。
 しかし、北斗は疑問を抱きます。
 アイヌであるがために和人に差別され続けた北海道時代。東京にいる今は、アイヌであるがために和人の文化人にちやほやされ、いいものを食べ、一人前の生活をしている。
 これは、同じ事ではないのか。
 自分がこうして浮かれているあいだにも、北海道のあちこちには苦しみつづけ、涙をしぼって生活しているウタリ(同族)がいるのだ。じぶんだけ東京でぬくぬくしているわけにはいかない。
 北斗は一年半の豊かな東京生活に見切りをつけ、民族復興の思いを胸に、北海道に帰ります。

 そこからは苦難の連続でした。なにせ、安定した東京での生活を蹴って、好きこのんで差別と貧困の中に舞い戻ってきたのですから。

 北海道の北斗が、東京を追想するとき、そこには豊かな生活がありました。
 汁粉、粟餅、お菓子、支那蕎麦。
 貧困の中、空腹にたえながらそれでも同族のために働く北斗がはるかな東京を思うとき、それが食べ物に彩られているのはそういう理由からなのかもしれません。

2006年02月17日10:50

・「美好野」というのは、正しくは「三好野」で、今で言う「甘味処」で、当時一大チェーン展開していたお店だそうです。
 北斗は同族を堕落させる「酒は害毒だ」と言っていまして、酒は飲みません。かわりに、大の甘党なんですね。他にもいろいろお菓子の記述が出てきます。

・支那蕎麦というのは、今で言うラーメンですね。当時から立ち食いのラーメンなんてものがあったのですね。
 関係ないですけど、阿佐ヶ谷の「ぴのちお」という中華料理店をたまり場にしていた詩人の中原中也は、北斗とは同じ時期、非常に近いところをうろうろしていて、永井叔という共通の知人がいたりなんかもしますが、残念ながら直接の接点はないようです。
 北斗と同様に、田中智学の「国柱会」に出入りしていた宮沢賢治とは、これもまたニアミスっぽいです。
 宮沢賢治が田中智学の国柱会に投稿していましたので、お互いの作品を知っていた可能性はありますが。

2005年10月30日 (日)

新短歌時代より(2)

第2巻2号(昭和3年2月)

五十人集

(前略)

○              高根一路
遠いのに薬売りながら尋ねきたけなげなアイヌにまた逢へなんだ

薬売るけなげなアイヌのその歌をこゝろしみ/゛\口にしてみる

(後略)

--------------------------------------------------

昭和三年口語歌壇予想暦

(前略)

十月三十日

 違星北斗、「正義の前に立った確信」といふ気持で、フゴツペの鉄道沿線を掘ると、中から「誇大坊主」(古代文字)のミイラ現れ「淋しい気持」に変る。

(後略)

※これは、まあ各同人の「未来予想」で、冗談記事のようなものですね。

管理人  ++.. 2005/10/30(日) 00:30 [61]

「歌の作り方に就て(二)」 福田義正

(前略)一体に燕麦とか憂鬱とかのやうな音読の文字は強く響くから、次のやうに前後に強い言葉を据えて均衡を保つことが大切であると思ふ。
(中略)
 勇敢を好み悲哀を愛してたアイヌよアイヌ今何處にゐる
(中略)
 これらの歌はよくリズムが整調されてゐて一読ピンとくるではないか。
(後略)

管理人  ++.. 2005/10/30(日) 19:07 [63] 

第2巻6号(昭和3年6月)

さらば小樽よ小樽の人々よ    福田義正
(前略)
 思へば―。百余日にわたる小樽の冬ごもりは私にも楽しかつた。景山医学士夫妻の厚意をうけて望月病院内に起居したことは幸であつた。昼は毎日大きな風呂敷包みを背負つて雑誌を売りに歩いた。私の売る雑誌は至る所で歓迎せられた。並木凡平さんをはじめ、勝見茂、後藤勇、石田さだを、渡部剛、村木雄一、園田朱一、岡野陽子、種田嘉代子等の諸君は私の商売のためにも一方ならず力を尽くしてくれた。然るに私は何等報ることなく立去らうとしてゐる。また裏切り者の名を負うのか。苦しい。諸君よ、許してくれ。
 夕方になると病院に帰つて、景山先生の乗る橇の後押しをして走つた。大男の橇を押す姿は可笑しかつたか、通りすがりの女学生などよくゲラゲラ笑つたりした。それでも患者の家に行けば労を犒つてくれるのでうれしかつた。汗を拭きながら肩で息をしてゐる者にとつて、一杯の渋茶も涙がこぼれるほどうれしかつた。往診から帰つて火の気のない冷たい食堂で飯を食ふとあとは自由に遊ぶ時間であつた。ある晩は景山夫妻の部屋に行つて、ある晩は薬剤師青木朗々の部屋に行つて、たいていは短歌の研究をしあつた。愉快な談笑の声が更けてゆく夜の空気をゆすつた。
 一月十七日の晩だつたと思ふ。小樽に於ける最初の口語歌雑誌「橄攬樹」の編輯者渡邊要君の来訪を幸に、その歓迎会をかねて病院内で短歌会を開いた。凡平さんがヤケドのため出席されなかつたのは残念だつたが、会する者十七八名なかなかの盛会でうれしかつた。その前後であつたか、治療助手の原草之介も歌を作る。川村看護婦も作る。入院患者にまで共鳴者があつた。違星北斗君が来て寝食を共にしたのもその頃であつた。
(後略)

管理人  ++.. 2005/10/30(日) 20:24 [65] 

※上の文章が書かれたのは五月四日。
 ここにも、新発見の北斗の足取りがありますね。

 昭和3年の1月ごろ、小樽の景山病院に起居していた福田義正を訪ね、寝食を共にした、ということですが、この頃はちょうど売薬行商の時期に重なりますね。何日かは滞在したのでしょうね。

管理人  ++.. 2005/10/30(日) 20:32 [66] 

第2号7号(昭和3年7月)

漫歌十人一首 明圓政二
――怒りつぽい人読むべからず――

(前略)
   違星北斗さんへ
おゝアイヌ強いアイヌよどこにゐる出てこい出てこいもう一度たて
(後略)

管理人  ++.. 2005/10/30(日) 22:19 [67] 

第六回 新短歌座談会 
 
 大友秋牧 稲畑笑治 後藤勇 石田さだを 近藤輝越 美津井勇 野村保幸 並木凡平

(前略)

(凡)どうです彗星的に現れた彼の違星北斗君に就いてなにか。
(輝)違星さんの作品に就いて近ごろ非常に幻滅を感じてきました。
(笑)同感々々。
(美)未見ですが歌を通して見た違星君は大変に大和民族的なねつ情のある歌人だと思つてゐます、だが最近の作品のどれもが極端に誇張し過ぎてゐてさつぱり駄目ですね一時は中村孝助氏とともに注目された人ですのに。
(さだ)そう、僕なんかも一時作品には感心させられましたが此の頃の作品はどうも好きになれません。
(保)なぜ違星さんがはじめて歌壇に現出したころのような自然らしい歌が近ごろ生れないのかと不思議に思つております。
(凡)彼の処女作「握り飯腰にぶらさげ出る朝のコタンの空になく鳶の声」当時の詩的情感が今日枯死した感のあるのは甚だ物足りない。民族的偏見と、議論の一説に近い叫びを余りに強く悪どく出しすぎてるの感がある然し理論のしっかりした点は将来期待していゝと思ふ。
(後略)

管理人  ++.. 2005/10/30(日) 22:55 [68] 

>昭和3年の1月ごろ、小樽の景山病院に起居していた福田義正を訪ね、寝食を共にした、ということですが、この頃はちょうど売薬行商の時期に重なりますね。何日かは滞在したのでしょうね。

 景山病院じゃなくて、望月病院ですね。

管理人  ++.. 2005/10/31(月) 23:52 [70]

2005年10月21日 (金)

吉田菊太郎の

著作「アイヌ文化史」を入手。
吉田菊太郎といえば北斗と一緒に「アイヌ一貫同志会」を結成して売薬行商をした人物。

さぞ、北斗のことをたくさん書き残してくれているかとドキドキしながら見ましたが、北斗のことは一言もでてきません。
残念。残念。

管理人  ++.. 2005/10/21(金) 00:28 [41]

2005年5月22日 (日)

昭和3年 白老・幌別

5月22日(日)18時02分49秒

北海道での収穫を整理しています。

 そこで、ささやかな発見をいくつか。

 (1)『コタン』にも載っているのですが、小樽新聞2月27日に、北斗の短歌が載っています。

 

              白老 違星北斗

  夕陽がまばゆくそめた石狩の雪の平野をひた走る汽車

  行商がやたらにいやな一ん日よ金のないのが気になってゝも

  ひるめしも食はずに夜の旅もするうれない薬に声を絞って

  金ためたただそれだけの先生を感心してるコタンの人だち

  酔ひどれのアイヌを見れば俺ながら義憤も消えて憎しみのわく

 

 小樽新聞には、『コタン』ではわからない情報が。

 名前の所にある「白老」ですが、これは北斗が2月27日の数日前に白老にいた、ということでしょう。

 白老方面での足取りを、まとめてみますと、

昭和3年

2月下旬     白老から『小樽新聞』に短歌を投函。(A')

2月24日ごろ  『自働道話』白老、親しい友が死んでいた(B)

          明後日ホロベツ方面へ。(C”)

2月26日?   幌別に。(C’)

2月27日    『小樽新聞』掲載(A)

2月28日夜?  知里真志保と同宿。

          吉田はな宛葉書をこの夜書いたなら

          「知里ましほ君と二人で泊まつてゐます」(D)

          「明日出発の予定です。」(E)

          「一昨日当地(幌別)へ参りました」(C)

2月29日     『吉田はな宛葉書』を投函。               

2月29日     『日記』豊年健治君の墓に参る。(B)

2月29日     幌別を出発? 八雲方面へ?(E')

 確定している日付は2月29日に吉田はな宛葉書を投函していること(「泊まっています」ということは、前夜までに書いたということでしょう)と、同日、豊年健治君の墓に参っていることです。あとは「一昨日」「明後日」や、郵便を出してから届くまでの日数をもとに、相対に割り出した日付です。だいたいこういう感じだとは思うんですが……。

 うーん、おかしい。 

 これでは白老の豊年健治君の墓は「幌別」にあったことになってしまう。しかし、豊年健治君は「一昨年の夏寄せ書した』ということは、この一昨年とは大正15年のことですから、東京から帰ってきてすぐ「明日七月の七日が北海道のホロベツに、東京から持って来た思想の腰をおろしたもんでした」に一致しますね。

 別に豊年君が白老の人でも、ホロベツの人でもかまわない気はします。

 この3月は、北斗の足取りは不明です。本当に八雲方面に行ったのでしょうか。

 4月には喀血し、闘病生活に入ります。

より以前の記事一覧

フォト

違星北斗bot(kotan_bot)

  • 違星北斗bot(kotan_bot)
2016年5月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ