|
|
|
|
5月22日(日)19時52分56秒
北斗の肖像はいままで、3点見つかっています。
(1)小樽新聞、遺稿集、草風館版『コタン』などに載っているもので、一番知られている写真。
(2)『アイヌの歌人』に掲載されている写真は、白目と黒目がはっきりしていて、黒目がちな北斗の写真とは、雰囲気がちがいます。「(大正15年東京にて撮影)」のキャプションがあります。
(3)『思い出の人々』に掲載されている、中里篤治と一緒に写っているもの。
いずれもが同じ服を着ているのですが、これは一体なんだろうと思っていました。
いろいろ調べたのですが、これ「国民服」(乙式)に酷似していますね。
ただ、「国民服」が制定されたのが昭和15年ですから、大正時代にこの服が「国民服」と呼ばれていたかどうかはわかりませんが……。
(1)の写真、いろいろなヴァージョンがあり、背景が写っているものと写っていないものがあります。
一番広い範囲が写っているのがこの「違星北斗遺稿集」(昭和29年)の写真で胸より上が写っています。
5月 8日(日)23時24分40秒
とりあえず、入手した資料、事実などを。
・違星北斗の詳細な家系図(これまで知られていなかった情報や、驚きの事実が多々出て来ました)。
・大正15年当時の余市大川町の地図(北斗の生家や、周囲の状況がわかりました)
・大正3年、余市アイヌの集合写真(北斗は写っていませんが、兄の梅太郎や中里徳太郎等が写っています)。
・これまで未発見の北斗の「色紙」の写真(書と絵)
・北斗と森竹竹市との書簡が白老の「森竹竹市研究会」にあるらしいこと。
・父甚作の樺太での狩猟と、5月のレプンカムイ祭りについて、その他。
・小樽新聞フゴッペ論争ほぼ全文(西田その1、西田その2、北斗、西田反論)
・その他
とりあえず書いておきます。詳細は徐々に。
5月 2日(月)19時30分36秒
今日は、自転車に乗って、余市の町を走りまわってきました。
しかし、私はよっぽど馬鹿なのでしょう。
フゴッペ洞窟、水産博物館、余市町図書館など、公立の施設はことごとく休みでありました。
一応、外から見れるところ(旧フゴッペ壁画跡、北斗句碑)等は見てきましたが。
また、明日ということになりますね。
町役場に行き、教育委員会のカウンターで「違星北斗について調べているんですが」と言うと、案の定、若い職員さんに、「違星北斗? それは誰ですか?」と言われてしまいました。
やっぱり、地元の人でも知らないんですねぇ。
でも、年配の職員の方が知ってらっしゃったみたいで、水産博物館に詳しい方がいらっしゃるそうです。やはり明日は行かねばなりませんね。
さんざんっぱら自転車で走りまわっていたので、おかしな人と思われたかもしれませんが、いろいろと発見がありました。
これは! という偶然の発見もありました。
でも、それが新たな謎を呼んでしまったりもしました。
北斗や凸天の生れ育った(と思われる)あたりも見てきました。駅にも近いので大通りは賑やかなのですが、一歩内側に入ると、とても静かで、時間がとまったような感じがしました。海辺には廃屋も目立ちました。
鰊漁盛んなりし頃は、きっとものすごく賑わっていたんだろうな、と思いました。
今日はなんだか余市の町そのものを探検した感じです。
投稿者: poronup 投稿日:12月 2日(木)00時07分27秒
三省堂の『金田一京助随筆選集2 思い出の人々』に収録されている「あいぬの話」の中で違星北斗と中里篤治が一緒に写っている写真が紹介されています。この随筆は『金田一京助全集』に収録されていますが写真は省略されています。この写真は初出時に掲載されたものなのか、随筆集に初めて掲載されたものなのかは分かりません。
この随筆の初出は分かりませんが、金田一全集を見れば分かると思います。手元にありませんので図書館で調べてみます。
中里篤治は中里徳太郎の息子です。中里徳太郎については上に挙げた随筆で紹介されています。
余市のアイヌ民族史・アイヌ文化については地元で何人かの方が調査しているそうですが少数の報告文が発表されているだけです。
「アイヌプリ」という言葉は通常儀式などにおける「アイヌのやり方」を指すことが多いので、アイヌの民族衣装について「アイヌプリ」と表現することはあまりないような気がします。
篤治の写真! 投稿者: 管理人 投稿日:12月 2日(木)12時43分45秒
ご教示ありがとうございます。
なんと、中里篤治の写真があるのですか! 早速週末に図書館に行ってしらべてみたいと思います。
それに、中里篤治が中里徳太郎の息子である、ということまで!
ああ、感謝します。
ほんとうにありがとうございます。
助けていただいてばかりなので、私もちゃっと研究しなければ、と襟を糺す思いです。
本当に知らないことだらけです。
さきほど、大阪市立図書館の蔵書検索をしてみたら、「予約中」とありました。残念。
大阪「府立」図書館のほうにはありましたので、そちらに行ってみたいと思います。
ああ、早く週末になって、その本を読みに行きたいと思います。
投稿者: poronup 投稿日:11月28日(日)08時21分17秒
『河野広道ノート 民族誌編1 イオマンテ・イナウ篇』(北海道企画センター)に、違星家のシロシ(パスイなどに彫る印)についての聞き取りの記録が載っていますのでご覧ください。
それから 投稿者: poronup 投稿日:11月28日(日)08時35分13秒
名取武光の論文のことは知りませんでした。
今度その論文を探してみます。
能登酉雄は両親が東京留学中に生まれた子供ですから、むしろその両親が同窓的な存在だと思います。世代的には北斗のおじさんぐらいの歳なのではないでしょうか。
ちょうど先ほどネットで検索したら次のサイトが引っかかりました。
http://www.city.sapporo.jp/kitaku/rekishi/epi1-35.html
それから東京留学時代の写真が北大のウェブサイトで見れるようになっています。
(いろいろな本に掲載されているのでご覧になったかもしれません。)
http://ambitious.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/photo/doc/0B025630000000.html
http://ambitious.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/photo/doc/0B025620000000.html
この中に違星万次郎や能登酉雄の両親が写っている可能性が高いのですが、今のところ誰が誰なのか分からないのです。
ありがとうございます。 投稿者: 管理人 投稿日:11月28日(日)11時33分30秒
なるほど。
能登酉雄はかなり年上なんですか。北斗の祖父と父の間ぐらいでしょうか。
(今見たら、「東京留学」の際には、祖父万次郎は30すぎでしょうか。
けっこういい年です。結婚して、すでに父甚作が生まれて10歳になっているんですね)
能登酉雄が10代後半から20代ぐらいだとすれば、まさに「おじさん」という年代ですね。
早速、河野広道の本を探してみます。
いろいろサイトを教えていただき、ありがとうございます。
札幌北区のページ、私もじつは、同じ頃だと思うのですが、私も検索で見つけたばかりだったんです。能登さんは茨戸アイヌの生き字引のような人だったのでしょうね。
写真は、この中に万次郎がいると思って見たことがありませんでした。北斗の面影を探そうとしてみたのですが、難しいですね。
アイヌ留学生写真 投稿者: poronup 投稿日:11月29日(月)03時56分44秒
このうち、真ん中にいるアットゥシを着た男性が札幌アイヌの琴似又市です。
この写真は、確か皇居で皇太后にアイヌの舞踊を披露した時に帰りに撮った写真だったと思います。
今思い出しましたが、この写真の裏に、誰が誰なのか書いてあるという話をとある方に聞いたような木がします。北大図書館で現物を見れば人物が特定できるかもしれません。
もう一つ参考までに 投稿者: poronup 投稿日:11月29日(月)04時15分7秒
同じ北大に、余市で1917年に撮られたアイヌの集合写真があってウェブでも見られるようになっています。
この中に違星北斗本人もしくは係累の方が写っているかもしれませんが、一人一人があまり大きく写ってないので特定が難しいです。実物を見ればもう少し詳しく分かるかもしれません。
この写真に写っている人々が誰と誰なのか地元の郷土史研究家の方が古老に聞いて確認しているらしいですが詳しいことは分かりません。
http://ambitious.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/photo/doc/0B030040000000.html
つらだましひ 投稿者: 管理人 投稿日:11月29日(月)16時10分28秒
poronup様。ご教示ありがとうございます。
なかなか、集合写真では、親しい人でないと、個人の認識は難しいでしょうね。宿題が出来ました。
写真といえば、違星北斗の肖像は草風館版『コタン』に掲載されている写真のみだと長らく思っていましたが、そういえば『アイヌの歌人』に掲載されている写真は微妙に表情が違います。気のせいかもしれませんが、すこし柔らかい気がします。別の写真なのかもしれません。今手元にありませんが、今度詳しく調べてみようと思います。
獰猛な 面魂を よそにして/弱い淋しい アイヌの心
どちらも、険しい顔つきの中にも目の優しさ(と強さ)が印象的な写真です。
余市の写真 投稿者: 管理人 投稿日:11月30日(火)11時23分14秒
余市の写真は、写っているとしたら、北斗は15歳ですね。
北斗の同年輩だと思われる中里篤治(凸天)や、その親類と思われる中里徳太郎(余市アイヌ一番の先覚者ということですが、篤治の祖父か叔父のような人でしょうか?)も写っている可能性は高いでしょうね。
中里徳太郎に関しては、アイヌの紳士録のような書物に載っているのかもしれません。(「北海道史人名字彙」には載っていませんでした)。そういう本を探したことがあるのですが、結局見つからずに今日にいたっています。
写真の人は和装、アイヌプリ(使い方合ってますか?)、洋装の人がいますが、和人も何人か混じっているようなですね。
拡大するとだいぶ荒くなりますが、なかなか興味深いです。
なかなか北海道まではいけませんので、こういう写真が載っている本かなにかがあれば、いいなあと思います。
河野広道ノート 投稿者: 管理人 投稿日:12月23日(木)05時00分1秒
違星北斗の兄、梅太郎の談話が載っている「河野広道ノート民族誌篇(イオマンテ・イナウ)」入手。
違星梅太郎氏談(1931.5.24?、余市)として
1)《違星家シロシ、三宅家シロシ》
2)《違星家蔵イクパシュイおよびキテのシロシ》
というのがあり、記号が載っています。(記号なので、ここには表示できませんがHTML化の時にちゃんとします)。
この「違星家のシロシ」が「※」の左右の「点」がない形です。
北斗は「エカシシロシ」は「※」だといっていますが、もし違星家のシロシ=エカシ・シロシなら、「※」というのは正確ではないんでしょうね。
ここには能登酉雄の談話も載っています。
最近のコメント