◇資料:写真

2007年8月 5日 (日)

「ドキュメント 人と業績大辞典」

国会図書館の新聞から、特定の人の記事を集めた資料集として、

「ドキュメント 人と業績大辞典」

というものが発行され、その第3巻に「違星北斗」の項目があるようです。

 かなり高いので買えそうにありませんが、どこかの図書館にあれば、見てみたいと思います。

http://homepage3.nifty.com/nada/page004.html
管理人  ++.. 2007/08/05(日) 23:40 [331]

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北斗の記事は一件だけでした。

毎日新聞 1954年9月10日


”悲劇の民”の歌を絶唱
  縁りの地に近く「北斗」の碑

【その二】違星北斗(本名滝次郎)は明治三十四年北海道後志国余市町に生れた。小学校時代、皆からアイヌ、アイヌとはずかしめられるのを怒り日本人に強い反抗心を抱いていた。
 大正十四年知人を頼って上京、ここで金田一博士らの知遇を受けて感激、滅びゆくアイヌ民族の生活を世に紹介し、その生活の向上をはかることが使命だと考えるようになった。大正十五年、北海道に帰った北斗は道路工夫や売薬行商をしながらアイヌ青年の集りである「茶話笑楽会」を作り、ガリ版刷りの機関誌を発行して教化に努めたが、昭和四年一月、結核のため二十九才で死んだ。翌昭和五年担任教師だった余市小学校訓導古田謙二氏が集めた遺稿集”コタン(村)”が出版された。

管理人  ++.. 2007/08/15(水) 13:24 [332]


  アイヌ相手に酒売りている店だけが大きくなってコタンさびゆく
  不義の子でもシャモでありたい○○子の心のそこに泣かされるなり
  (シャモとは日本人の意)
  平取に浴場一つ欲しいもの金があったらたてたいものを
 などのようにアイヌ民族の悲惨な生活と、しいたげられる悲しみとが歌われている。金田一博士はこれらの歌を現代のアイヌ民族の生活感情をアイヌ民族自身が歌った唯一のものであり、啄木の影響が強いが歌としてもすぐれたものだと評している。こんど立てられる歌碑は古田氏らが作った「違星北斗の会」(札幌市北一条西十丁目門間清四郎氏方)が中心となって計画したもので、場所はアイヌ民族の故知である日高国沙流郡平取村二風谷が選ばれた。碑は歌を刻んだ石碑を土マンジュウで覆ったもので、秋は落葉に覆われ、冬は雪に埋もれ、春から夏にかけてだけ姿を現すように設計されている。碑面の文字は金田一博士が筆をとるが、遺作中から二種を選び、その一つは場所にちなんで
「沙流川(サルガワ)は昨日の雨で水濁りコタンの昔ささやきつゆく」と決まっている。

管理人  ++.. 2007/08/15(水) 14:22 [333]



金田一京助博士談
 (略)
 また北斗は大正十四年、五時間もかかって私の家を探し、途中田の中に落ちたとみえてどろだらけになって訪ねてきたのがはじめだった。よく家に出入りしたが感激性が強くまれにみる純真な男でした。


管理人  ++.. 2007/08/15(水) 14:25 [334]


 それにしても、変な写真です。

 北斗じゃないのような気もしてくる。

 まあ、でも顔の造作は同じですが、目と鼻、頬にかけての印象がかなり違う。まるで「らくがお」です。

 うーん。これはどうなんだろう。
 
管理人  ++.. 2007/08/15(水) 14:35 [335]

2006年12月26日 (火)

北海タイムス昭和5年8月29日

Hokutotimes

 同族のための
     熱の歌
  

  

若くして病にたふれた
旧土人復興の運動者

 最近旧土人保護法案の撤廃と独立を提唱する叫びが目覚めた旧土人の間に挙げられて来た国家の保護にあまんじ無自覚な生活を続けて来た結果アイヌ種族の滅亡の端を発したのだアイヌ族の復興は我々の手でやれと云ふのが此純真な人々の叫びなのであるこの運動の裡に若くして此運動の第一声を挙げ病に倒れた燃える様な情熱の青年があつた事を忘れてはならない

仕方なくあきらめるんだといふ心哀れアイヌを亡ぼした心……と嘆じ、強いもの!それはアイヌの名であつた昔に恥よ覚めよウタリ……と強く叫んでアイヌ族の為に万丈の気焔を吐き志半ばにして病に倒れた一青年は名を違星瀧次郎君といひ余市旧土人をもつて組織して居る現余市造資組合長違星梅太郎君の実弟である彼は明治三十四年に生れ余市大川尋常小学校を卒業するとから或は夕張登川の木材人夫に石狩の鰊漁場に轟鉱山の坑夫に汗と血と忍苦の生活を続け大正十二年七師団に入隊して八月除隊後再び労働に従事し売薬行商をなしその間「あゝアイヌはやつぱり恥かしい民族だ酒にうつゝをぬかすその体(てい)」と寂しく歌ひ乍ら種族の自覚を叫んで歩いた、が遂に彼の終始一貫せる愛の事業も志半昭和四年一月空しく二十九歳で病に倒れたが彼が前半生を同族の為に捧げアイヌ民族全体の幸福を来す基を築き上げるまでの熱の歌と日誌の遺稿を集めてコタンといふ小冊子を頒布し彼の兄梅太郎君は又故人の遺志をついで雑誌コタンを刊行し之による収益をもつて愛憐事業の一つである故人の雅号をそのまゝに名づけた北斗農園を新設し同族の青少年を収容して旧土人復興の大事業を完成せんと意気込んで居る梅太郎君は語る
 我々はアイヌと呼ばれたくないそして差別撤廃を叫びたいんだ現在余市に居住して居る旧土人は四十八世帯二百四十六人に達して居るその生活業態を見ると労働四、農業十、漁業九十二、商業五、その他百となり、之等をもつて造資組合を設立し愛憐事業の一つとして居る故人の遺志である北斗農園設立も着々進行して居る(写真は若くして逝いた違星君)

(北海タイムス昭和5年8月29日)

管理人  ++.. 2006/12/26(火) 00:02 [286] 

 
 遅くなりましたが、北海タイムスの北斗の紹介記事です。タイミング的には、遺稿「コタン」が出てすぐです。
 皮肉なもので、目の敵にしていた「北海タイムス」にもこのように紹介されていたんですね。
 
 この写真が、北斗のもう一つの写真です。
 文中に兄の梅太郎が北斗の遺志をついで「雑誌コタン」を出すつもりだというのも出てますが、これはどの「コタン」をさすのか、わかりませんね。

 それと、「北斗農園」のことも出ています。

管理人  ++.. 2006/12/26(火) 00:07 [287]

2006年9月23日 (土)

12歳の違星北斗

今回の度の収穫の一つとして、北斗の母校大川小学校で、北斗の小学校の卒業写真を発見できたことがありました。
 情報公開の関係で、複写はできなかったのですが……。

 突然お尋ねした大川小学校でしたが、教頭先生が話を聞いてくださり、調べてくださることになりました。
 
 一旦、小学校を後にして、余市の漁場跡などを見学していたら、小一時間ほどして教頭先生から電話がありました。
 大正3年の卒業アルバムが見つかったということでした。

 再び、大川小学校に行き、教頭先生が持ってきてくださった大正3年3月に撮影された卒業写真を見た時、思わず息をのみました。

 生徒それぞれの名前は書いてありませんでした。
 しかし、一瞬で、どの子供が北斗、違星竹次郎であるかがわかりました。
 
 北斗自身も書いているように、その学年でアイヌはおそらく北斗だけだったのでしょう。
 (当時、アイヌの子弟は尋常4年で卒業でしたが、北斗の場合は母ハルの薦めで和人と同じ6年の過程を卒業したのでした)。
 顔つきが、まわりの和人の子供と違って、目鼻立ちがはっきりして眉根が険しく、何より私には、ほかの子供たちと違う悲しみをたたえているような気がしました。
 12歳の北斗は、大人の写真と同じように端正で寂しげで、やさしいまなざしをしていました。
 大人の写真はゴツゴツした顔ですが、子供の北斗は顔が小さく、眉と目が近く、シュッとした凛々しい印象でした。
 丸坊主で、まわりの子供と同じように、絣の着物に羽織を着ていました。
 
 ああ、これが12歳の北斗なんだな、と思いました。
 
 今はまだ、お見せすることはできませんが、いつか本を出したりするときには、ご相談ください、とのことでした。



管理人  ++.. 2006/09/23(土) 23:37 [273]

2006年1月16日 (月)

高尾登山の記念写真

Takaotozan

 

金光図書館で『自働道話』を読んできました。
 
 まず、大発見(?)から。

 これは、高尾登山の写真。

頂上は大へん広い見晴で、俗に関八州他三州十一州の見下と云ひます。一向はその雄大な眺めに酔はされました。みんななんと云ふよい天気でせう、こんな暖い日はと云って大喜びでした。
 頂上の茶屋にて弁当を食べて、記念の写真を撮りました。


 その記念写真がこれ。

 
 

管理人  ++.. 2006/01/16(月) 23:54 [92]

後列右より 中原氏 礼子さん 違星氏 永田氏 額田氏 西川氏 石沢氏

前列右より 大久保氏 島田市 今村氏


管理人  ++.. 2006/01/16(月) 23:56 [93]

クリックすると拡大されますが……

北斗の顔はなんとなく面影はあるのですが、不鮮明すぎますね。

ただ、洋服を着ていること、帽子をかぶっていることはわかります。

ほとんど洋装ですね。
しかし、この写真は貴重です。
うまくすれば、北斗の身長が大体割り出せるかもしれません。

管理人  ++.. 2006/01/17(火) 00:00 [94]

高尾登山 フルバージョン

「自働道話社遠足会 高尾登山」額田真一


 三月二十一日春季霊祭の日、自働道話社春の遠足会あり、高尾山に登りました。その日は風のなく、暖いほんとに選ばれたる晴天でした。集合地新宿駅には既に西川先生、島田氏、大久保氏が見えて居ました。それから日本排酒会の永田氏や今村氏も見えました。また見える筈の違星北斗君が、七時になっても見えず、どうした事かと案じて居ますと、七時十二分発車のベルはケタヽマシク鳴響いて止んでしまひました。もう駄目だと、諦めて。プラットホームに返す途端、違星氏が見えて大急にて汽車に飛込みました。石沢氏は吉祥寺駅から加はり、一行は氏の外に中島氏と妹さんの礼子さんと十人でした。殊に礼子さんはまだ十一歳と云ふ小さい方なのに足も大へん達者にて始終一番で登られました。みんなは色々の木や、草を見て研究しました、又大木を見ては驚き顔にて仰ぐのでした。中には四人でもかゝへ切れない程の太い杉もありました。
 頂上は大へん広い見晴で、俗に関八州他三州十一州の見下と云ひます。一向はその雄大な眺めに酔はされました。みんななんと云ふよい天気でせう、こんな暖い日はと云って大喜びでした。
 頂上の茶屋にて弁当を食べて、記念の写真を撮りました。
 帰りには反対路に降りました。こちらは少々路も険しい様でした。蛇滝、琵琶の滝などみんな小さい滝で水も僅かですが、美しい好い感じの処でした。
 路々天気よく軍歌や三角章の歌を歌つたり、又色々と面白い話が次から次と出て、知らぬうちに降りて仕舞ました。
 広い道に出ると両側に沢山の紅白の梅が今を盛りと咲いて高い香が鼻をつくのでした。
 日頃黄塵万丈の都会生活をするものに此の様な大自然に楽しむ事ほど恵まれた事は有りません須く吾等教壇は大自然の中に見出すことです、野にはユラ/\と柔らかなカゲローが立つて居るし、小川の水車のゴトリ/\の音も長閑さうにきこえて暖い春が来た事をほんとに嬉しく感じました。
  水車の音も長閑や春の昼
 などゝ口吟んで見ました。
 殊に私達一行を喜ばせた礼子さんは汽車の中でも梅の小枝をねむりかけて居る人の鼻もとに驚かせたり、渋い顔をして居る人に好い香りをかゞせて笑はせたり、ほんとに『子供の道話』に出て居るパレアナさんの様だと云つて笑ひました。
 常に職務に没頭するものには休日には斯うした志を同ふする人々と共に、オープンハアートした集いを大自然の中につくりたいと存じます。
 是れから隔月位に催うし度いものだと存じます。
 今回御都合が悪くて御出席にならなかつた御方もどうぞ御越下ある様祈ります。

 又今回御出席下さいました方々にすべて不徹底で有りました事を私から御託申ます。又御出席下さる為に駅まで御越下さった方が他に御在りかと案じて居ます。実は目標に『高尾登山自働道話社』と前夜書いて置いたのですが、違星君に託して置いた為に、同君は発車間際に来られたので折角の準備も役に立たず殊に先生からのご案内にて御越になって先生の御顔を御存じない為に引返された方には何とも申訳有りません。次回から充分に用意もして皆様の御越を期待申して居ます。


管理人  ++.. 2006/01/19(木) 23:24 [100]

書き込みは久しぶりです。
この写真は大発見ですね。すごい。ご努力に心から敬意を表したいと思います。
いろいろ私からも報告したこともあったんですがちょっとゆっくり文章を書く時間がないのでまた次回にします。

poronup  ++.. 2006/01/26(木) 00:20 [106]

2005年10月17日 (月)

金田一京助先生の

お孫さんから、「あいぬの話」の掲載写真と、金田一先生の原稿(「違星青年」)の掲載許可をいただきました。

ありがとうございます。

管理人  ++.. 2005/10/17(月) 21:09 [30]

早速、作りかけていた写真の研究ページをオープンしようと思います。

また、「違星青年」が全文掲載可能になったのは嬉しいです。

本当にありがとうございます!

管理人  ++.. 2005/10/17(月) 21:11 [31] 

とりあえず、写真ページを作成。
トップページと、「コタン文庫」からリンクしています。

管理人  ++.. 2005/10/18(火) 11:15 [33]

「違星青年」は複数のバージョンがあるので、それぞれを掲載することにしようと思います。
管理人  ++.. 2005/10/18(火) 11:27 [34]

2005年5月22日 (日)

北斗の肖像について  

5月22日(日)19時52分56秒

 

 北斗の肖像はいままで、3点見つかっています。

 (1)小樽新聞、遺稿集、草風館版『コタン』などに載っているもので、一番知られている写真。

 (2)『アイヌの歌人』に掲載されている写真は、白目と黒目がはっきりしていて、黒目がちな北斗の写真とは、雰囲気がちがいます。「(大正15年東京にて撮影)」のキャプションがあります。

 (3)『思い出の人々』に掲載されている、中里篤治と一緒に写っているもの。

 いずれもが同じ服を着ているのですが、これは一体なんだろうと思っていました。

 いろいろ調べたのですが、これ「国民服」(乙式)に酷似していますね。

 ただ、「国民服」が制定されたのが昭和15年ですから、大正時代にこの服が「国民服」と呼ばれていたかどうかはわかりませんが……。

 

 (1)の写真、いろいろなヴァージョンがあり、背景が写っているものと写っていないものがあります。

 一番広い範囲が写っているのがこの「違星北斗遺稿集」(昭和29年)の写真で胸より上が写っています。

Ikousyupics

2005年5月 8日 (日)

入手した新資料・新事実など  

5月 8日(日)23時24分40秒

 とりあえず、入手した資料、事実などを。

・違星北斗の詳細な家系図(これまで知られていなかった情報や、驚きの事実が多々出て来ました)。

・大正15年当時の余市大川町の地図(北斗の生家や、周囲の状況がわかりました)

・大正3年、余市アイヌの集合写真(北斗は写っていませんが、兄の梅太郎や中里徳太郎等が写っています)。

・これまで未発見の北斗の「色紙」の写真(書と絵)

・北斗と森竹竹市との書簡が白老の「森竹竹市研究会」にあるらしいこと。

・父甚作の樺太での狩猟と、5月のレプンカムイ祭りについて、その他。

・小樽新聞フゴッペ論争ほぼ全文(西田その1、西田その2、北斗、西田反論)

・その他

 とりあえず書いておきます。詳細は徐々に。

2005年5月 2日 (月)

北海道調査 5/2

5月 2日(月)19時30分36秒

 今日は、自転車に乗って、余市の町を走りまわってきました。

 

 しかし、私はよっぽど馬鹿なのでしょう。

 フゴッペ洞窟、水産博物館、余市町図書館など、公立の施設はことごとく休みでありました。

 一応、外から見れるところ(旧フゴッペ壁画跡、北斗句碑)等は見てきましたが。

 また、明日ということになりますね。

 町役場に行き、教育委員会のカウンターで「違星北斗について調べているんですが」と言うと、案の定、若い職員さんに、「違星北斗? それは誰ですか?」と言われてしまいました。

 やっぱり、地元の人でも知らないんですねぇ。

 でも、年配の職員の方が知ってらっしゃったみたいで、水産博物館に詳しい方がいらっしゃるそうです。やはり明日は行かねばなりませんね。

 さんざんっぱら自転車で走りまわっていたので、おかしな人と思われたかもしれませんが、いろいろと発見がありました。

 これは! という偶然の発見もありました。

 でも、それが新たな謎を呼んでしまったりもしました。

 北斗や凸天の生れ育った(と思われる)あたりも見てきました。駅にも近いので大通りは賑やかなのですが、一歩内側に入ると、とても静かで、時間がとまったような感じがしました。海辺には廃屋も目立ちました。

 鰊漁盛んなりし頃は、きっとものすごく賑わっていたんだろうな、と思いました。

 今日はなんだか余市の町そのものを探検した感じです。

2004年12月 2日 (木)

違星北斗の写真

 投稿者: poronup  投稿日:12月 2日(木)00時07分27秒

三省堂の『金田一京助随筆選集2 思い出の人々』に収録されている「あいぬの話」の中で違星北斗と中里篤治が一緒に写っている写真が紹介されています。この随筆は『金田一京助全集』に収録されていますが写真は省略されています。この写真は初出時に掲載されたものなのか、随筆集に初めて掲載されたものなのかは分かりません。

この随筆の初出は分かりませんが、金田一全集を見れば分かると思います。手元にありませんので図書館で調べてみます。

中里篤治は中里徳太郎の息子です。中里徳太郎については上に挙げた随筆で紹介されています。

余市のアイヌ民族史・アイヌ文化については地元で何人かの方が調査しているそうですが少数の報告文が発表されているだけです。

「アイヌプリ」という言葉は通常儀式などにおける「アイヌのやり方」を指すことが多いので、アイヌの民族衣装について「アイヌプリ」と表現することはあまりないような気がします。


篤治の写真!  投稿者: 管理人  投稿日:12月 2日(木)12時43分45秒

 ご教示ありがとうございます。

 なんと、中里篤治の写真があるのですか! 早速週末に図書館に行ってしらべてみたいと思います。

 それに、中里篤治が中里徳太郎の息子である、ということまで!

 ああ、感謝します。

 ほんとうにありがとうございます。

 助けていただいてばかりなので、私もちゃっと研究しなければ、と襟を糺す思いです。

 

 本当に知らないことだらけです。

 

 さきほど、大阪市立図書館の蔵書検索をしてみたら、「予約中」とありました。残念。

 大阪「府立」図書館のほうにはありましたので、そちらに行ってみたいと思います。

 ああ、早く週末になって、その本を読みに行きたいと思います。

2004年11月28日 (日)

違星梅太郎

 投稿者: poronup  投稿日:11月28日(日)08時21分17秒

『河野広道ノート 民族誌編1 イオマンテ・イナウ篇』(北海道企画センター)に、違星家のシロシ(パスイなどに彫る印)についての聞き取りの記録が載っていますのでご覧ください。


それから  投稿者: poronup  投稿日:11月28日(日)08時35分13秒

名取武光の論文のことは知りませんでした。

今度その論文を探してみます。

能登酉雄は両親が東京留学中に生まれた子供ですから、むしろその両親が同窓的な存在だと思います。世代的には北斗のおじさんぐらいの歳なのではないでしょうか。

ちょうど先ほどネットで検索したら次のサイトが引っかかりました。

http://www.city.sapporo.jp/kitaku/rekishi/epi1-35.html

それから東京留学時代の写真が北大のウェブサイトで見れるようになっています。

(いろいろな本に掲載されているのでご覧になったかもしれません。)

http://ambitious.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/photo/doc/0B025630000000.html

http://ambitious.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/photo/doc/0B025620000000.html

この中に違星万次郎や能登酉雄の両親が写っている可能性が高いのですが、今のところ誰が誰なのか分からないのです。


ありがとうございます。  投稿者: 管理人  投稿日:11月28日(日)11時33分30秒

 なるほど。

 能登酉雄はかなり年上なんですか。北斗の祖父と父の間ぐらいでしょうか。

 (今見たら、「東京留学」の際には、祖父万次郎は30すぎでしょうか。

 けっこういい年です。結婚して、すでに父甚作が生まれて10歳になっているんですね)

 能登酉雄が10代後半から20代ぐらいだとすれば、まさに「おじさん」という年代ですね。

 早速、河野広道の本を探してみます。

 いろいろサイトを教えていただき、ありがとうございます。

 札幌北区のページ、私もじつは、同じ頃だと思うのですが、私も検索で見つけたばかりだったんです。能登さんは茨戸アイヌの生き字引のような人だったのでしょうね。

 

 写真は、この中に万次郎がいると思って見たことがありませんでした。北斗の面影を探そうとしてみたのですが、難しいですね。


アイヌ留学生写真  投稿者: poronup  投稿日:11月29日(月)03時56分44秒

このうち、真ん中にいるアットゥシを着た男性が札幌アイヌの琴似又市です。

この写真は、確か皇居で皇太后にアイヌの舞踊を披露した時に帰りに撮った写真だったと思います。

今思い出しましたが、この写真の裏に、誰が誰なのか書いてあるという話をとある方に聞いたような木がします。北大図書館で現物を見れば人物が特定できるかもしれません。


もう一つ参考までに  投稿者: poronup  投稿日:11月29日(月)04時15分7秒

同じ北大に、余市で1917年に撮られたアイヌの集合写真があってウェブでも見られるようになっています。

この中に違星北斗本人もしくは係累の方が写っているかもしれませんが、一人一人があまり大きく写ってないので特定が難しいです。実物を見ればもう少し詳しく分かるかもしれません。

この写真に写っている人々が誰と誰なのか地元の郷土史研究家の方が古老に聞いて確認しているらしいですが詳しいことは分かりません。

http://ambitious.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/photo/doc/0B030040000000.html


つらだましひ  投稿者: 管理人  投稿日:11月29日(月)16時10分28秒

 poronup様。ご教示ありがとうございます。

 なかなか、集合写真では、親しい人でないと、個人の認識は難しいでしょうね。宿題が出来ました。

 写真といえば、違星北斗の肖像は草風館版『コタン』に掲載されている写真のみだと長らく思っていましたが、そういえば『アイヌの歌人』に掲載されている写真は微妙に表情が違います。気のせいかもしれませんが、すこし柔らかい気がします。別の写真なのかもしれません。今手元にありませんが、今度詳しく調べてみようと思います。

  獰猛な 面魂を よそにして/弱い淋しい アイヌの心

 どちらも、険しい顔つきの中にも目の優しさ(と強さ)が印象的な写真です。


余市の写真  投稿者: 管理人  投稿日:11月30日(火)11時23分14秒

 余市の写真は、写っているとしたら、北斗は15歳ですね。

 北斗の同年輩だと思われる中里篤治(凸天)や、その親類と思われる中里徳太郎(余市アイヌ一番の先覚者ということですが、篤治の祖父か叔父のような人でしょうか?)も写っている可能性は高いでしょうね。

 中里徳太郎に関しては、アイヌの紳士録のような書物に載っているのかもしれません。(「北海道史人名字彙」には載っていませんでした)。そういう本を探したことがあるのですが、結局見つからずに今日にいたっています。

 写真の人は和装、アイヌプリ(使い方合ってますか?)、洋装の人がいますが、和人も何人か混じっているようなですね。

 拡大するとだいぶ荒くなりますが、なかなか興味深いです。

 なかなか北海道まではいけませんので、こういう写真が載っている本かなにかがあれば、いいなあと思います。


河野広道ノート  投稿者: 管理人  投稿日:12月23日(木)05時00分1秒

 違星北斗の兄、梅太郎の談話が載っている「河野広道ノート民族誌篇(イオマンテ・イナウ)」入手。

 違星梅太郎氏談(1931.5.24?、余市)として

1)《違星家シロシ、三宅家シロシ》

 

2)《違星家蔵イクパシュイおよびキテのシロシ》

というのがあり、記号が載っています。(記号なので、ここには表示できませんがHTML化の時にちゃんとします)。

この「違星家のシロシ」が「※」の左右の「点」がない形です。

北斗は「エカシシロシ」は「※」だといっていますが、もし違星家のシロシ=エカシ・シロシなら、「※」というのは正確ではないんでしょうね。

 

 ここには能登酉雄の談話も載っています。

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