◇資料:手紙

2008年10月24日 (金)

北斗からの手紙(3)昭和3年6月20日

さて、新発見の手紙、3通目です。
週末しか更新の時間がとれないので、なかなか先にすすめませんが、ご勘弁ください。

昭和3年6月20日の消印。
余市大川町違星北斗から杉並町成宗の金田一京助への手紙です。
この手紙は、ちょっと、扱いに困ります。内容がプライベートすぎるといいますか、梅子さんという女性についての記述や、余市コタン内での人間関係に関する記述が多いので、それらについてはおおまかな概略だけのべて、引用はしないことにします。

東京の思出が それから それへと なつかしい日です。
静かな雨が降ってゐます。北海道はお節句 と云ふので となり近所はドッシンドッシンと米を ついてゐる きねの音が平和に ひゞいてゐます。子供らのとって来た熊笹の若葉は ベコ餅 をのせたり 三角に包むにちょうどよい程 のびてゐます。雪のあるうちから 寝てゐた私は もうこんなに伸びた のに 一寸と 光陰あまりに早いのを 一寸と 妬みもしましたが すぐまた、青々生々してる熊笹を愛します。


 「お節句」というのは、五月五日の端午の節句ですね。それを昭和三年当時の余市では、旧暦の五月五日で祝っているようです。この手紙が出された六月二十日は旧暦では五月三日、旧暦五月五日は六月二十二日になります。ちょうど、節句の前の準備をしているところなんですね。
 「ベコ餅」というのは、私は近畿の人間なので知らないのですが、調べると北海道や東北地方の一部において、端午の節句で食べられる菓子で、黒白二色なのでベコ(牛)だからベコというそうです。(鼈甲がルーツという説もあるということです)。
 北斗は4月の末に喀血して病床に伏し、手紙を書いた時点で、約二か月、病床にあるという状況です。

続きを読む "北斗からの手紙(3)昭和3年6月20日 " »

2008年10月11日 (土)

北斗からの手紙(2)大正15年7月8日

さて、2通目の手紙です。

 宛先は「東京市外阿佐ヶ谷町大字成宗三三二
金田一京助先生」、封筒に書かれた日付は大正15年7月8日、差出人は「北海道室蘭線ホロベツ バチラー方 違星滝次郎」とあります。
 
 北斗は大正15年7月5日夜に東京を発ち、7月7日に北海道の幌別に到着しています。その翌日に書かれた手紙です。
 
 これを見ると、北斗は帰道直後、バチラー八重子のいる幌別(現・登別)の聖公会の教会に寄宿したことがわかります。

続きを読む "北斗からの手紙(2)大正15年7月8日 " »

2008年9月20日 (土)

北斗からの手紙(1) 大正14年3月12日ハガキ

 北斗の手紙について、分析してみたいと思います。

 
 まず、最初は大正14年3月12日の日付がある、金田一京助宛のハガキです。北斗が上京したのが2月中頃と思われますから、東京に来て一月経たない頃のハガキです。

 宛先は「杉並町大字成宗332金田一京助」。当時の杉並は、東京市の「市外」でした。大正12年の震災で東京市内が壊滅的な被害を受けたため、人々は郊外へと流出し、東京が拡大しはじめた頃です。
 成宗は現在の杉並区の成田あたりで、成田の地名は1963年につけられたもので、成田と田端の合成地名だということです。
 金田一がこの当時、成宗に住んでいたというのは、「違星青年」にも出てきますね。

 一方、発信者である北斗の住所は「淀橋町角筈316高見沢清」とあります。
 その当時、すくなくともハガキを出した時点では、北斗は雇用者である、東京府市場協会の高見沢清のもとに寄宿していたということがわかりました。
 淀橋町角筈は、現在の新宿区西新宿の一帯。
 北斗が寄宿していたあたりは、当時の地図と現在の地図を比較して推測するに、このあたりだと思います。

 http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=35.68378575&lon=139.69149754&sc=2&mode=map&pointer=on

 現在の新宿公園や都庁のあたりは当時は淀橋浄水所でした。その浄水所の西に熊野神社があります。これは現在もあります。また当時の淀橋第六小学校がありましたが、それが現在の西新宿小学校ですから、それをもとに考えると、だいたい、このあたりになります。
 
 まあ、一時的かもしれませんが、北斗が東京で住んだ場所がわかったのは嬉しいです。新発見です。
 ここから北斗は、花園神社のそばの東京府市場協会に通い、大久保の希望社に顔を出し、成宗の金田一宅や、阿佐ヶ谷の西川光次郎のところに通ったのかもしれないと思うと、なんともいえない感慨があります。

 いい地図がありました。
 http://oldmaproom.aki.gs/m03e_station/m03e_shinjuku/shinjuku_3.htm

 この地図の左下「玉川上水」と書いてある、その「玉」の字の上に小さく316と書いてあります。
 そこが北斗が寄宿した高見沢邸があった場所であります。

 ちなみに新宿も、この当時は東京市外、豊多摩郡淀橋町でした。こういった淀橋や角筈、あるいは成宗といった、伝統ある地名が行政の勝手で味気ない○○何丁目といった地名に変えられてしまったのは、本当に残念なことだと思います。

 次は内容に入っていきます。

続きを読む "北斗からの手紙(1) 大正14年3月12日ハガキ " »

2008年9月 6日 (土)

北斗からの手紙

 T様より、北斗が書いた手紙の写しを頂きました。

 以下の4通です。

続きを読む "北斗からの手紙 " »

2008年8月12日 (火)

資料再読

北斗の全資料を再読しています。
その中で、いくつか発見がありましたので、書き込んでおきます。

(1)「子供の道話」昭和2年1月号に掲載された北斗の手になる童話「世界の創造とねづみ」について。

このお噺は、「清川猪七翁」からの聞き取ったものですが、この清川猪七翁という名前、どこかで見たことがあると思っていたのですが、この方はジョン・バチラーの助手であった「清川戌七」ではないかと思います。

 清川戌七といえば、「『アイヌの父』ジョン・バチラー翁とその助手としてのアィヌ、私」の中で、ジョン・バチラーや八重子、吉田花子のことを語っている方です。
http://iboshihokuto.cocolog-nifty.com/blog/2004/10/post_ab90.html

この方は、1874(明治7)年生まれですから、この童話が書かれた大正15年には52歳、北斗から見れば「翁」といっても差し支えない年齢だと思います。

 「文献上のエカシとフチ」(札幌テレビ放送)によると、この方は新冠出身、明治22年新冠でジョン・バチラーと出会い、以後その布教を助けたそうです。
 生活地は平取町荷菜ということなので、北斗が平取教会にいたときに出会ったのでしょう。

続きを読む "資料再読 " »

2006年12月 1日 (金)

北斗への手紙

 
 「違星北斗の会」主宰の木呂子敏彦氏のご遺族の方からコピーをいただいた資料の中の、「北斗への手紙」です。


●昭和2年3月23日
金田一京助→違星北斗 葉書
「いろいろなことを体験された出せう。過日北海タイムスの一文は私も向井山雄君から送られて一読しました。札幌郡広島村字中ノ沢今野正治といふ青年です。どういづ人かよく分からないが、アイヌ問題が太平洋学術会議などできまってしまひでもするかのやうに期待して聞いてよこしますから、百年千年の懸案で、さう/\会議などできまってしまふやうな簡単な事では無いのみ成らず、よそから来た人々は、オーストラリヤ人へ関係つけて考へてゐるやうですから、あんな激烈な返事を出したのでした。何かアイヌの歴史をしらべてゐるそうです。それはこれから調べるべきだと云ってやったら、それでは自分も村へはいって、そのしらべにかからうかと云ってるのです。」


管理人  ++.. 2006/12/01(金) 01:56 [278]


●昭和2年4月26日
金田一京助→違星北斗 葉書
「いつもお元気で結構、鰊があまりよくない由心配して居ります。体の無理をなさらぬやう祈ります。こちらはやっとよい時候になりました。あの後一度アイヌ学界を開きました。向井山雄君の上京を期として、ウメ子さんも同伴して大いにこんどは知識階級の人を東京人に紹介したわけです。一同の人々が驚異したのも愉快でした。但し向井君があのとほりのものだから、それに当夜のお客さんの中には、知らぬお客さんもよんだものだから、その人との間に向井君が激論をやり出し、会が白けて残念な幕をとぢました。議論半ばに時間が切れ、それに大雨に祟られて帰ったものでさんざんに皆が濡れとほって。
本年一月号(十二月の内に出版)の新青年に「太古の国の遍路から」を書きました。民族の五月号には知里真志保さんの研究があらはれます。」
宛名 北海道余市町沖村 ウタグス 違星漁場 違星瀧次郎様


 ここで貴重なのは、やはり「違星漁場」の存在が記されていることですね。シリパの岬の裏にあるウタグスに、違星家は漁場を持っていたのです。
 といっても、地元の方に聞くと、非常に辺鄙な、漁場としては良くないところらしいですが。

管理人  ++.. 2006/12/01(金) 01:59 [279]


●昭和3年1月?
バチラー八重子→違星北斗 封書
「新年お目出度御座います。
つひ分御無沙汰いたして居ました。
御変もありませんか。私はお正月休に参って居ます。札幌の養家に一度上がり度ような気持で居ますが上がってもしご迷惑をおかけ申ますようなればいけませんと存じて居ます それに御伺申*ことも御座いますの 中里様では何の変ったこともありませんでしたでしょうか
御息子様の御病気は其後如何でございましたでそう御伺ひ申つもりで居ました 今まで思つゝも何ふしていいのかわからず つひこんなにのびて終ひましたのです
おそれ入りますがくはしく一寸御知らせをお願ひ申上げます 年は新っても私独りは少しも新しくなりません だん/\古びてゆくことを感じます
では御便りをたのしみ待って居ます どうぞごめいわくでもよろしく御願ひ申ます
一月四日  バチラー 八重
違星様」


 八重子はこれを札幌から出しているはずなのですが、札幌の養家に一度上がりたいというのはどういうことなんでしょうね。
 養家とは養父ジョン・バチラーのいる札幌聖公会でしょうが……よくわかりませんね。
 八重子は中里篤治の容態を、北斗に聞いているのですが……どう答えたのでしょうね。
 篤治は昭和4年6月9日に亡くなっています。結局、北斗の方が早く(昭和4年1月26日)に死んでしまいました。

管理人  ++.. 2006/12/01(金) 02:07 [280]


<●昭和3年7月17日
金田一京助→違星北斗 封書(要抄)
「君のやうに正直な真面目な人をかうして若い身そらを空しく故山に病ましむるいふことは神の摂理のあまりに無情なことを嘆かずに居れない。
君静平な心持ちを持して寸分ゆるみなく、余計な感傷にひたることをよして、けんめいに病と戦ひたまへ。
 多感な情熱家の君は、ひょっとしたらあまり感傷にひたって、病気を亢進させるやうなことがありはしないかと心配です。
中里のお父さんの死は大きな打撃でせう。この人の生涯をあくまで劇的主人公たらしめて終わりましたことをいたましくも又美しくも讃歎致します。誰かぜひともこの偉人の片影でも後世に残すやうにはたらく人がないものですか。君といひ徳治君といひ、その天職のためだけでも、まだ/\健康でゐてくれなくてはならない人だちです。君たち二人が直らなくてどうするものですか。それには悠々閑日月の心境を養ふことです。どうかどうかたのみます。


 篤治の父、徳太郎が亡くなったのが昭和3年6月5日。剛毅な人だったようで、金田一も「アイヌの話」という文章の中で徳太郎の生涯を書いています。
 徳太郎・北斗・篤治と立て続けに余市の同胞を失った八重子は、彼らの墓前で一首ずつ短歌を詠んでいます。


端然と ちからづよくぞ 語られし
君今はゐず ゐろり空しも

     逝きし中里徳太郎氏


墓に来て 友になにをか 語りなむ
言の葉もなき 秋の夕暮れ

     逝きし違星北斗氏


ただ一人 父のかたみと 残されし
君また逝きぬ うら若くして

     逝きし中里篤治氏
管理人  ++.. 2006/12/01(金) 02:23 [281]

 ここからは、死が間際に迫った北斗への手紙です。


●昭和3年12月19日付
後藤静香→違星北斗 ローマ字綴り葉書

「違星様、あなたのこと、そしてあなたがたアイヌ民族のことを思いますたびに、私のこころをいためます。どうぞこのうへとも健康に気をつけ、大きい使命を果たしてください。あとから日記などをさしあげます。あなたの歌いつも涙で拝見致します。ここに十円お歳暮として入れます。
十二月十九日 静香」

管理人  ++.. 2006/12/01(金) 02:31 [282]

次からは、古田謙二宛になります。
古田が北斗の病状を伝える手紙を関係者に送ったのだと思います。


●昭和3年12月25日付
松宮春一郎→古田謙二宛 封書
「違星君の病状お知らせ下されくりかへし拝見いたしました。何とも申様もないこと涙の袖をしぼります。近いところならばと残念に存じます。昨日見舞のしるし迄に為替いたしました。只今違星君の知友中の有力者三四の方に見舞金を直様に送ってくれと手紙を出して置きました。甚だ申兼ますが見舞ってやって下さい。慰めてやって下さい。
小生の**雑誌を今後拝呈いたします近著一冊拝呈いたします。
十二月廿五日 松宮拝」
東京市小石川区茗荷谷町五二番地 松宮春一郎

●昭和3年12月28日付
後藤静香→古田謙二宛 封書
「違星兄の為に御心尽くし感謝に堪へません少しばかりのお見舞を送って置きました。同君をよく慰めて下さい」


12月10日の日記で、北斗は古田に代筆を頼んでいます。手紙などの処理は、古田に頼んでいたのでしょう。

次の一通は日付が不明ですが、古田宛になっているので、同じ頃のものかと思います。


●昭和3年(?)
後藤静香→古田謙二宛 絵葉書 
「毎日違星兄の為に祈って居ります。電報為替で少しばかり送りました。同氏の事頼みます。

管理人  ++.. 2006/12/01(金) 02:39 [283]

2006年3月25日 (土)

木呂子敏彦氏所蔵の資料


「違星北斗の会」主宰、木呂子先生のご遺族の方から、先生が所蔵されていた資料のコピーを送っていただきました。
 ほんとうにありがたいです。
 感動の連続です。興奮がおさまりません。

 新発見の連続です。
管理人  ++.. 2006/03/25(土) 12:01 [146]

とりあえず、資料のリストです。

●「北斗についての早川通信」早川勝美
 早川勝美氏から谷口正氏への書簡、昭和41年5月13日。
 早川氏は北斗の調査をされていたようで、新事実多し。
 圧巻は北斗に関する、北斗より18才年上のお婆さんの聞き書き。

●「湯本喜作著『アイヌの歌人』について」古田謙二

 北斗と親交の厚かった教師・古田謙二が、湯本喜作の『アイヌの歌人』の正誤について書いて(聞き取り?)いる。
 いろんな謎がとけました。
 表題だけ書いておきます。
 「私と北斗」「瀧次郎という名」「西川光二郎の北遊の途次に知られ…」「北斗と女性」「フゴッペの洞窟」「西田教授は本気で相手にしていない」「北斗の家」「中里篤治のこと」「クリスチャン」「並木凡平」「北斗の日記」「知里真志保氏」「北斗の実父 イコンリキ」「西川光二郎氏」「余市のフゴッペ洞窟について」「イサシの山のとほくかすめる」「山岸院長は元軍医中将で」「奈良直弥先生」

●「北斗の歌に思ふ」白老 森竹竹市

 北海道新聞「卓上四季」の記者へ宛てた、森竹竹市の手紙。

●評伝(小説?)「放浪の歌人・違星北斗」武井静夫
 連載、掲載紙不詳だが、北海道の雑誌かとおもわれる。(二回分、生い立ちから、小学校まで。精細な調査に基づいて書かれている)

●小説「泣血」阿部 忍
 原稿用紙100枚以上の大作。
 北斗の少年時代から、東京時代、帰道後、死まで。昭和27年。フィクションなので、事実に合わない点は多い。
 梗概「駒沢文壇第2号」昭和26年6月18日
 其の一「駒沢文壇3号」昭和26年7月20日
 其の二「波 第2号」昭和26年12月1日
 其の三「波 第3号」昭和27年2月1日
 其の四「波 第5号」昭和27年4月1日

管理人  ++.. 2006/03/25(土) 14:16 [150]

私も楽しみにしています。
「もうこれ以上は分からないだろう」とあきらめてたようなことが分かることって時々あるんですよね。私も地元のアイヌ史を調べていますが、びっくりするようなことを知ることもあります。もうとっくに散逸しててもおかしくないような資料を遺族の方が大事に持っていてくれて感動するようなこともあります。

その新資料の中身がどのようなものなのか知るのが楽しみです。

poronup  ++.. 2006/03/25(土) 16:48 [151]

2006年3月 5日 (日)

東京での調査2 医文学

「医文学」について。

 せっかく国会図書館に来たので、これまで現物を見たことがなかった「医文学」をさがしてみました。
 ありました。北斗が掲載された大正15年9月号。
管理人  ++.. 2006/03/05(日) 02:45 [122]


アイヌの一青年から   藻城生

 アイヌに有為の一青年があり、違星滝次郎と呼び北斗と号する。私は松宮春一郎君を介して之を知り、曾て医文学社の小会にも招いたことがある。一昨年来東京に住してゐたが事に感じて帰国することゝ
なつた。この帰国には大なる意味があつて、喜ばしくも
あるが、亦た悲しくもある。アイヌ学会の人士や其他の人々と共に心ばかりの祖道の宴を開いて帰道を送つた。此会には琉球の某文学士抔も参加されてゐた。其後左の如き手紙が届いたのでこゝに掲載する。その心事一斑を知ることが出来るであらう。


 謹んで申し上げます
 私しは一年と五ケ月を、東京に暮しました、誠に幸福でありました、これもみんな皆様の御同情と御祈の賜と感謝してゐます、私しは今度突然北海道に帰ることになりました、折角かげとなりひなたとなつて御鞭撻下さった皆様の御期待に叛くやうでありますが、どうぞ御許し下さいまして相不変御愛導をお願申します。申し上るまでもありませんが人類の奇蹟の如く、日本は二千五百八十六年の古より光は流れ輝いてゐます、建国の理想も着々として実現し、吾が北海道も二十世紀の文明を茲に移し、アイヌは統一され、そして文化に浴し日本化して行く。それはたとへ建国の二千五年(ママ)後で少く遅かったにしても、「彌や栄ゆる皇国」として皆様とこの光栄をともにいたしますことを悦びます。
 乍然この国に生れこの光栄を有してゐても過渡期にあるアイヌ同族(ウタリ)は、果して楽観すべき境遇にあるでせうか? 昔の面影もどこへやら精神は萎縮する民族自身は(或は他からも)卑下する誇るべき何物をも持ってゐないそしてあの冷たい統計を凝視る至る処に聴くアイヌと云ふ言葉それは亡び行く者」「無智無気力の代名詞の感があります、本当に残念なこと、お恥しいことであります、これも単に同族の不名誉であるばかりでなく我大日本の恥辱であることを思ふと真に大和民族に対し面目次第もないことであります、自然淘汰や運命と云ふ大きな力であるからどうすることも出来ませんが只だ古俗の研究はとうてい不可能也とされてゐる今日、誰かアイヌの中から己が自身を研究する者が出なければならないのであります。
 今の民族の弱さを悲しむ時は恩恵的や同情的ことにどうして愉快を感ぜられやう。
 アイヌを恥て外形的シャモになる者……又は逃げ隠れる者は祖先を侮辱する者である
 私共は閑却されてゐた古習俗の中よりアイヌの誇を掘り出さねばなりません 。今にアイヌは強き者の名となるの日を期してよい日本人の手本となることに努力せねばなりません。
不取敢・今の最も大なる問題は「老人の死亡と古俗の消滅と密接な関係がある」から年寄の多い中に研究の歩を進めなければなりません。
 私しは伝説や瞑想の世界に憧憬てアイヌの私し共は最善を尽して出来るだけ大勢に調和することであります、それにはアイヌからすべての人材を送り出し、民族的にも国家的にも大いに貢献し幸福を増進せねばなりません。その為に昔のアイヌ、所謂、純粋が無くなるから無くなっても一向差しつかへないのであります、吾々は同化して行く事が大切の中の最も大切なものであると存じます、かふして同化はアイヌの存在も見分が付かなくなるであらう、それで何の不都合もない、けれど、過去の事実を永遠に葬てはいけない。
吾ら祖先の持ってゐた、元始思想、其の説話、美しき瞑想、その祈り等、自分のもの己が誇を永い間わすれられてゐた、とこしへに消去らうとしたのを、金田一京助先生の手に依而危くも救はれた、私し共は衷心から感謝するものであります、十年の後には純然たるコタンに参ります、喜び勇んで参ります。
 それにしても何等の経験も予備知識もない貧弱な自分を省るとき心細さを感ぜずには居られません、けれども私は信じます。
 東京の幸福より尊く。金もうけより愉快なことであります、そしてこれが私の唯一の使命であることを
 どうぞ皆様
 私しはかふして東京を去ります宜敷く御教導の程偏に御願申し上げる次第であります。
  大正十五年六月三十日                                  違星瀧次郎



※下線部、原文では傍点
※この文は「藻城生」こと長尾折三(医文学編集者)。
同じ号の編集後記「編輯落葉籠」にも北斗に関する言及があります。
管理人  ++.. 2006/03/05(日) 03:06 [123]


編輯落葉籠

(前略)
△北海道日高国沙流郡平取村のアイヌ族違星北斗氏から左のやうな短歌を寄せられた。

 沙流川のせゝらぎつゝむあつ霰夏なほ寒し平取コタン。

 今朝などは涼しどころか寒いなり自炊の味噌汁あつくして吸ふ

 お手紙を出さねばならぬと気にしつゝ豆の畑で草取してゐる。

 たち悪くなれとの事が今の世に生きよと云ふ事に似てゐる

 卑屈にもならされてゐると哀なるあきらめに似た楽を持つ人々

 東京から手紙が来るとあの頃が思出すなりなつかしさよ。

 酒故か無智故かはしらねども見せ物のアイヌ連れて行かるゝ。

 利用されるアイヌもあり利用するシャモもあるなり哀れ世の中

 本号に掲載の違星氏の書面と此歌を読む我読者諸君は果して如何の感があらうか。一視同仁の意義は吾等は努めて之れを実現せねばならぬ。(後略)

管理人  ++.. 2006/03/05(日) 03:17 [124]

 草風館版「コタン」は、遺稿集ということもあり、違星北斗以外の人の文は載せられないのかもわかりませんが、このように、他人の文章の中で北斗の文を引用しているような場合でも、草風館版「コタン」では、前後の文脈を無視して、北斗の文のみを載せています。
 解題として若干のフォローがありますが、結果として、分かりにくくなっているところがあるのは否めないように思います。

 このカットされているところから、新事実がわかりました。
 長尾折三に北斗を紹介したのは「松宮春一郎」とあります。
 これは知りませんでした。
 この松宮春一郎は、小説家の山中峯太郎に北斗を紹介した人物でもあります。

 この本は、かうして書いた

『世界聖典全集』を出版した松宮春一郎さんの名刺を持って、顔の黒い精悍な感じのする青年が、私をたづねて来た。松宮さんの名刺に、「アイヌの秀才青年ヰボシ君を紹介します。よろしくお話し下さい。」と、書かれてゐた。

 ヰボシ君と私は、その後、かなり親しくなった。アイヌ民族の事情について、さまざまな話をヰボシ君が聞かせてくれた。その話を材料にして私は「民族」を書いた。しかし出版すると発売禁止になった。今度それを書き改め、前には書けなかつたことを、思ふとほりに書きたしたので、名まへも改めたのである。

 (山中峯太郎『コタンの娘』「前書き」)


 松宮は金田一や中山太郎といった「東京アイヌ学会」の人々と関係があるのでしょう。

管理人  ++.. 2006/03/05(日) 03:25 [125]

同じく「医文学」大正15年10月号より


△北海道のアイヌ違星北斗氏から葉書来る。北海道全道を盛に旅行して居るそうだ。二風谷村から投函されたものだ。書中俳句二つ。

  川止めになつてコタン(村)に永居かな
  またしても熊の話しやキビ果入る
管理人  ++.. 2006/03/05(日) 07:49 [126]


ずっと前からですが、この、「キビ果入る」の意味がわかりません。
 どういうことでしょう。

 「キビ果」が「入る」のか、「キビ」が「果(は)」て「入る」のか、それとも誤植なのか……。

 わかりませんね。

管理人  ++.. 2006/03/07(火) 10:41 [134]



ちなみに、この文章のちょっと前の文章は、長尾折三のところに宮武外骨が遊びに来たというお話です。

ついに……宮武外骨まであらわれたか!

「トモダチのトモダチは皆トモダチだ」の法則でいうと、違星北斗のトモダチは凄い人ばっかりだなあ。

 中也も賢治も啄木も、石原完爾も孫文も皆トモダチです。

管理人  ++.. 2006/03/08(水) 10:58 [136]

2006年2月 6日 (月)

道話

 けれども私はバチラー博士のあの偉大な御態度に接する時に無限の教訓が味はゝれます。私はだまってしまひます。去年の八月号だったと思ます。道話に出てた「師表に立ツ人バ博士」は本当でした。(『自働道話』昭和2年8月号)

 「師表に立ツ人バ博士」という記事がないか調べましたが、『自働道話』の大正15年8月号には北斗がいうような記述はありませんでした。
この「道話」とは、もしかしたら自働道話社と同じく西川光次郎と妻の文子が出していた「子供の道話」の8月号なのかもしれない。

 子供の道話を調べてみると、やはり「金光図書館」にあるということなので、また余裕があるときに見に行こうと思います。

 それから、金光図書館の「自働道話」に欠があったので、調べてみたら、立命館の図書館に大正14年、15年のものがあるようですので、これもまた調べにいこうと考えています。

管理人  ++.. 2006/02/06(月) 11:52 [114]

2005年10月16日 (日)

「コタン」創刊号とハガキ2枚


 ある方から教えて頂いたのですが、札幌の古書店に「コタン」創刊号(ガリ版刷り同人誌)と、北斗の自筆ハガキが売りに出ていたそうです。
 その方が連絡したところ、もうすでに売却済みだったそうです。12万円。
 残念です。
 本当に残念です。もし、買えるものであれば借金してでも買いたかった!
 どなたが買われたのかが、気になります。研究者とか、研究機関だったらいいのですが……。

 「コタン創刊号」は、希望社版『コタン』に付録として掲載された時点で、活字に直されているのですが、内容が変えられている可能性もあるのです。
 これは、夏の旅で同宿の時にporonupさんが発見されたことですが、「フゴッペ」の「エカシシロシ」というのは、小樽新聞では「イカシシロシ」となっているのです。こういう「改竄」が、「コタン創刊号」にもあるはずです。
 それに、おそらくガリ版を切ったのは北斗自身であるはずです。
 写真でもコピーでもいいから、ぜひみてみたいものです。

管理人  ++.. 2005/10/16(日) 09:06 [26]

それから、ハガキ。

小樽の郷土史家「橋本尭尚」氏宛だそうです。

その内容が知りたい。

ちょっと検索しただけですが、橋本尭尚氏には「北海道史年譜」「小樽の人と名勝」という著作があるようです。

管理人  ++.. 2005/10/16(日) 09:18 [27] 

より以前の記事一覧

フォト

違星北斗bot(kotan_bot)

  • 違星北斗bot(kotan_bot)
2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
無料ブログはココログ