★人物:東京

2018年2月16日 (金)

大川周明と違星北斗

今、大川周明がなぜかブームですが、そういえば北斗も大川周明の講演を聞いてノートにメモを残していたなと思い、読み直してみました。

大正14年11月3日「大邦日本の理想 文学士 大川周明氏」の講演を聞いた北斗は、
大川周明の意見に、いろいろと思うところがあったようで、

 

Okawa2


「日本の理想は?
食ふことから出発せなくてはならないなんて、哀れな理想ではないか。
対外政策が日本の理想か。
なぜもっと良い理想がないのか。
国家以上の大理想がないか。
食ふことの問題? 
生きることの問題? 
人の人たる問題を援(?)いて食ふため国の立つための問題が理想であったら全く小さな問題である」

これは、大川が「食べるため国家を立てるための理想を語ったのに対して、「人の人たる問題をないがしろにして、何が理想だ、国家以上の大理想はないのか」みたいに読んだんですが、「人の人たる問題を援いて」だとすると、「たすける」「援用する」みたいな意味になってきて、ちょっとわからない。前半で小さな理想だとディスっているので、否定的なんだというのはわかるんですが。
Okawa1
これが、大川周明講義の内容の北斗のメモ。

「朝鮮台湾を含んでこれを大邦日本……
植民政策は同化主義は失敗と攻撃せられた(フランス)…
日本はそれを如何(台湾を植民地とみるは不可
西洋の例にのりとる可からず……ヲウストリアが治めた政治……日本は同化政策ととる可し
民族を同じうする……ローマの同化政策は成功
した。 フランスは独逸の或る一角地を同化させて
しまった 百年後には祖先よりフランス人たるを誇りとした
大邦日本の理想 日本海を中心にして満蒙に発展すること」

 といった、大川の日本中心・征服者としての心得を北斗はどう聞いたのか。

2018年1月26日 (金)

「徳富蘆花ゆるせん!」

違星北斗が「蘆花許せん!」と言ったらしいのですが、理由がよくわからなかった。

もしかしたらだけど、蘆花の旅行記に「熊の足跡」というものがあり、その中の釧路での記述の中に、

「昨日石狩嶽に雪を見た。汽車の内も中々寒い。上川原野を南方へ下つて行く。水田が黄ばむで居る。田や畑の其處此處に燒け殘りの黒い木の株が立つて居るのを見ると、開け行く北海道にまだ死に切れぬアイヌの悲哀が身にしみる樣だ。」

(青空文庫「熊の足跡」徳富蘆花 http://www.aozora.gr.jp/cards/000280/files/18326_19239.html)


といったものがある。
これなんか、北斗が見たら怒りそうではある。

2013年2月 9日 (土)

『伊波普猷全集』

『伊波普猷全集』 第十巻に、北斗の記述あり。

『奄美大島民族誌』「跋」

 奄美大島を訪れたことのある人は、其の住民(中略)を見て、アイヌを聯想したであらう。
(中略)
 一昨年の秋頃であつたか、アイヌ学会のあつた時、(中略)晩餐の時、私の向ひに眼のへこんだ毛深い青年が坐つてゐたのを見て、大島の人とばかり思つてゐたところが、あとでこの青年が違星[北斗]といふアイヌであると聞いて吃驚した。そして其の演説を聴くに及んで、其の発音や語調が大島の人のそれにそつくりだつたので、二度吃驚した。私がまのあたりアイヌを見て、其の話を聞いたのは、此が初めてだつた。違星君には其の後も屡〃会つて、其の発音や語調を観察したが、彼がアイヌの部落中で、最も日本化した余市のアイヌで、しかもその母語を全く話すことが出来ないと聞いたので、其の発音や語調は、ことによると、近所にゐる和人の影響を受けたものか、さもなければ、彼の個人的の特徴ではないかと思つて、他のアイヌのそれを聞く機会を待つてゐた。昨年の秋、アイヌ向井山雄を歓迎する為に、アイヌ学会が開かれた時、私は半ば好奇心に駆られて、出席して見た。向井氏は胆振の有珠の酋長の子で、バッチラー師の下で働いてゐる宗教家であるが、その顔附が大島の上流社会の紳士そつくりだつた。しかも其の発音や語調が、違星君のより一層大島的であるのを聴いて、面白いと思つた。これは恐らく今日まで何人も気づかなかつたことであらう。かくもかけ離れた所に居る両民族の間に、かくも著しい類似の存するのは、たゞ不思議といふの外はない。これは果して偶然の一致だらうか。(後略)

 これは、内容的には「目覚めつつあるアイヌ種族」と一致しますね。
http://www.geocities.jp/bzy14554/mezame.htm

 ただ、伊波普猷と北斗が初めて出会ったアイヌ学会は3月19日、「一昨年の秋頃」というのは間違いではないかと思います。
 その次に書いてある、向井山雄の出たアイヌ学会のことは、金田一から北斗への手紙(昭和2年4月26日)にも書いてあります。
 向井山雄は大暴れしてしまいます。
 http://www.geocities.jp/bzy14554/tegamikindaichi.htm


※08/10/30のブログから、サルベージ。

2011年12月 4日 (日)

「大空」

 今、Twitterのテキストを仕込んでいて、重大な間違いに気づいた。

 永井叔の「緑光土」に載った北斗の「大空」、皇紀2585年を大正13年としていたのだけれど、正しくは大正14年ではないですか。

 どうしてこうなったかわからないですが、年表が間違っていました。

 年表を大正13年になっていたので、大空は東京で永井叔に会う前の余市時代に書いたとなって、ちょっとおかしいなとは思っていたのですが、もしかしたら、北斗が事前に書いていたのを、永井と出会ってから見せたということもないではない、と思っって居ました。

 しかし、大正14年でしたら、東京で永井叔との交流があってから、書いたということになり、非常に自然になります。

 しかし、なんでこんな単純なケアレスを長年見過ごしていたのだろうか……orz
 

2009年9月22日 (火)

東京に転居

 
 仕事の都合で、東京に越してきました。

 それほど意識はしていなかったのですが、いくつかの偶然が重なって、たまたま新居に選んだのは中央線沿線、杉並区高円寺。

 そう。北斗が東京に着いて最初にたずねた西川光次郎のいた「阿佐ヶ谷」や、金田一京助を訪ねた「成宗」(現・成田)の近く。
 そして、北斗が働いていた新宿にも中央線で一本。

 北斗が高尾山に遠足に行ったときに使ったのも、中央線。

 80年前に北斗がうろうろしていたあたりなんですね。

 これからは、東京での北斗の足跡を暇を見つけて調査していきたいと思います。

 

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2009年5月 1日 (金)

日本巫女史

北斗が東京時代に親交のあった民俗学者・中山太郎の著書『日本巫女史』に北斗についての記載があります。

第一篇 第七章 第二節

(略)

アイヌ民族の間に行われている神標(カムイシルシ)の信仰は、極めて神聖なるものであって、家長以外には絶対に知らせぬ事として、今に厳重に秘密を守り、家長が死ぬときに始めて相続人に告げ知らせるほどの大切なものであるが、然もその神標(カムイシルシ)とは、死者に持たせてやる其の家の合標(アイジルシ)であって、アイヌは死人が出来ると、急いで家々に伝わる神標(カムイシルシ)を木の板に彫り付けて死者の肌に付ける。これさえ持って往けば、霊界において祖先が己れの子孫であることを知って保護してくれると信じているのである〔二一〕。
(略)

〔註二一〕
アイヌに生れて和歌をよくした故違星北斗氏から承った。猶お此の機会に言うが、アイヌ民族は立派にトーテムを有していて、今にその信仰を貽している。而して違星氏の談によれば、そのカムイシルシを見ると、本家、分家、新宅などの関係がよく判然し、更に溯ればその家々のトーテムまで判明するとのことであった。故違星氏は、手宮駅頭の古代文字と称せらるるものは、アイヌのカムイシルシであるとて、此の研究にも手を着けられていたのであるが、完成せぬうち宿痾のために不帰の客となられたのは遺憾のことであった。
 

(引用元HP)巫研 Docs Wiki
 http://docs.miko.org/index.php/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8

 

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2009年4月25日 (土)

歴史地理教育

O先生から教えて頂きました。

歴史地理教育2009年3月号(増刊号)
「まるごと学ぶ北海道 ――アイヌ・歴史・暮らし――」に、「沖縄教育」誌に掲載された違星北斗の未発見文書に関連する記事があるとのことで、取り寄せて読んでみました。

 掲載されている「違星北斗に出会った伊波普猷」(近藤健一郎、全2ページ)によると、

 沖縄県教育会機関誌『沖縄教育』第一四六号(一九二五年六月)にアイヌ青年違星北斗による「ウタリ・クスの先覚者中里徳太郎氏を偲びて」という論考が掲載されている(沖縄県立博物館・美術館所蔵)。この論考は『沖縄教育目次集』(那覇市企画部市史編集室、一九七七年)に掲載されていたものの、雑誌の所蔵が不明であったため原文は知られずにいた。

 なるほど。この「沖縄教育」に関しては、沖縄の図書館の蔵書検索をしてみたりしてたんですが、見つかっていませんでした。あるところには、やっぱりあったんですね。

 北斗の言葉も引用されています。

「アイヌが日本化することを無上の光栄とするは誠に美しい人情であつて真にそうある可きでありますが、それがためにアイヌ自身を卑下するに至つては遺憾千万である。アイヌを卑下しては永遠にアイヌ民族の名を挙げることは出来ない。アイヌ自身が自重して進むことである」

さて。

「歴史地理教育」のこの記事には、一枚の写真が掲載されています。

 キャプションは

《違星と伊波が出会ったアイヌ学会(1925年)において、違星による墨絵に出席者が寄せ書きしたもの。
「伊波普猷」の名も見える(『沖縄教育』)》 
 
 とあり、細長い紙の下の方に囲炉裏端に座っているアイヌ男性の絵があり、上の方に小さくて判読できないですが、寄せ書きがしてあります。

 これは、伊波の「目覚めつつあるアイヌ種族」にも書かれている寄せ書きでしょう。

「目覚めつつあるアイヌ種族」(『伊波普猷全集』より)

《あとで金田一君が違星君は画も中々上手であるといつて、アイヌの風俗をかいた墨絵を二枚程出しましたが、なるほどよく出来てゐました。博文館の岡村千秋氏が、北海道の内務部長に自分の友人がゐるが、この絵に皆で賛を書いたり署名をしたりして、奴におくつてやらうぢやないか、さうしたら、アイヌに対する教育方針を一変するかも知れないから、といつたので、中山氏が真先に筆を走らして、「大正十四年三月十九日第二回東京アイヌ学会ヲ開催シ違星氏ノ講話ヲ聴キ遙ニ在道一万五千ノアイヌ同胞ニ敬意ヲ表ス」と書き一同の署名が終りました。私は所見異所聞違此心同此理同といふ文句を書添へました。(中略)先日博文館の編輯局に寄つた時、違星君の絵に皆で寄せ書きをしたものゝ写真を貰つて来ましたので、一枚送つて上げますから、雑誌の口絵にでもして下さい。》

 ここに出てくるものでしょうね。
 
 掲載されている写真は小さいくてわかりにくいのですが、描かれている絵は、かつて余市の水産博物館でいただいたこの写真の絵とほぼ同じ図案です。(寄せ書きのほうは墨絵なので、すこし感じがちがいますが)。
 こちらの絵には「カムイコニモック(神占)」と書かれていますので、占いの儀式の絵でしょう。北斗がサインをするときの絵のレパートリーの一つなのかもしれません。

(09/04/25)

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2008年11月23日 (日)

覚え書き

●朝日新聞CD-ROMより

・松宮春一郎、1933(昭和8)6月18年没。59歳。
 肩書きは中央大学事務部長となっている。

逆算すれば明治7年ぐらいの生まれか。
北斗より27歳ぐらい年上。
北斗が出会った松宮は、出版人だったけど、ここでは大学の役員のようになっている。本当に北斗の出会った松宮と同一人物だろうか。

・高見沢清、1932(昭和7)年3月9日没。56歳。

東京府市場協会(府営市場を経営する団体)の役員で、北斗の上京を世話し、公私ともに面倒を見た人も、意外と早く亡くなっている。

 北斗が暮らした、大正~昭和初期の自由な東京は、北斗の没後、だんだんと変ってゆく。

 希望社の後藤静香の没落とほぼ同時期に、高見沢や松宮の死があるのは偶然だとしても、なにか運命的なことを感じてしまう。

 一つの時代が終わる時とはそういうものなのだろうか。

●『北海道文学散歩II』によれば、

「山音」48号に早川勝美の「違星北斗の歌」という文章があるらしい。読みたい。(「山音」は道立図書館にありますね)。

2008年11月 4日 (火)

北斗はいつ短歌をはじめたか

 北斗がいつから、短歌を詠み始めたかは、はっきりわかっていません。

 ただ「北斗はバチラー八重子の影響で短歌を詠み始めた」と書いてある本がありますが、それは間違いだと思います。

 草風館の95年版「コタン」で現在確認できる一番古い短歌は自働道話大正十三年十一月号に掲載された次の一首。
 
  外つ国の花に酔ふ人多きこそ
  菊や桜に申しわけなき

 上京前の短歌としてはこの一首のみです。
 では、本格的に短歌を作り始めたのは、東京から北海道に戻って来てバチラー八重子に会って影響を受けたからなのかというと、そうでもないようです。

 大正14年5月1日、伊波普猷は「目覚めつつあるアイヌ種族」で北斗のことを書いていますが、その時すでに北斗は短歌を詠んでいました。

 違星君はあまり上手ではないが和歌でも俳句でも川柳でも持つて来いの方です。

 と、書いています。もちろん、この時点で北斗はバチラー八重子とは会ったことがなく、一度手紙をやりとりしたのみです。

 もちろん、その手紙で八重子から短歌を勧められた可能性があるではないか、という考えもできなくもないですが、これも違うと思います。

 大正15年3月5日の釧路新聞に、北斗のことが紹介されています。北斗がまだ東京にいる頃、歌人として有名になる前で、一人のアイヌ青年として紹介されています。
 北斗の人となりを紹介し、昔は和人への敵愾心に燃えていたが、青年団に入ったことによって、人間愛を知り、今は東京の西川光次郎の元で社会事業に従事している、というような内容です。
 この記事の中に、次のような記述があります。

 是は此の青年の告白で復讐心に燃えて居た時代にノートに書き付けた歌と此の頃の感想を陳べた歌とを相添て道庁の知人の許に寄せて来たが是等は学校の先生、青年指導の任にある人々には何よりの参考資料だ

 つまり、道庁の役人に送られてきたノートには、青年団に入る前の、「復讐心」に燃えていた頃の短歌と、青年団に入り、「人間愛」を知ってからの短歌が書かれているということです。是等とあるので2冊あるのかもしれません。
 この通りだとすると、東京に来る前の余市時代、青年団に入る前からけっこうな短歌を作っていたということになります。

 もちろん、バチラー八重子の影響もあったでしょうし、それ以上に実は、金田一から若き日にともにあった啄木の話をよく聞いたそうですから、その生々しい話の刺激もあって、上京後に本格的に短歌を作り始めたのだと思います。
 
 ところで、その道庁の役人に送った北斗のノートとやらは、どこにいってしまったのでしょうね。
 実はまだ道庁のどこかにあったりして。
 
 

 

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2008年11月 1日 (土)

希望社の没落

図書館で、あることについての調べ物のついでに、戦前の朝日新聞のCD-ROMを見てきました。

 北斗が傾倒した希望社について、こんな記事がありました。
 

 教化団「希望社」に皮肉にも争議 全社員結集して立つ」

「希望」の巧な言葉と、パンフレットとで、全国の地方男女に呼びかけ、向上欲に燃える二十萬の社友を擁し一大王国を形造つてゐる市外西大久保の希望社理事長後藤静香氏に対し、社友結束して後藤氏の不徳行為と、その待遇改善その他を掲げて今ストライキに移らんとの、穏やかならぬ形勢を示してゐる

 社主を非難する三つの理由
 古傷洗ひ立てらる

 この3つの理由とは、

1、希望社の小間使いである17歳の少女と関係を持ち、少女が嫁いだあとも関係を続けていたという不倫行為があり、その行為を恐喝していた暴力団が検挙されたために発覚した。

2 棒給の減額したにもかかわらず、本人は豪奢な生活を送っているとして、会計の公開を迫られた

3 上記2点に対しての謝罪と引退、待遇改善をもとめたが、後藤は「この種の罪は誰人にもあることで……」云々と言い訳し、今まで偶像崇拝をしていた社員の激怒を買ったということです。

 この記事の後半には「人間味があつていゝ」の標題とともに、後藤静香の談話があります。曰く、人間にありがちな過ちであり、辞職しようとも思ったが、翻って考えると、過ちを反省して向上してゆくことに人間味もあるものだ、社員たちが自分を偶像視したのは間違いで、このような人間味があるところがわかれば一層尊敬する気にもなるだろう、
 などと空気の読めない発言をしてしまいます。

 こういうわけで、神のごとく若者たちに慕われた後藤静香の没落のカウントダウンがはじまったわけですね。

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