『著作:研究』

2009年4月30日 (木)

北斗帖について

 メルマガの最終原稿を書いていて気づいたのですが、現在「北斗帖」の名で知られている歌集は、最初の希望社版『コタン』では「私の短歌」とあり、「北斗帖」のタイトルは84年版で編集部でつけられたものです。

 もともと「北斗帖」とは北斗の死後の遺稿の中にあった墨書自選歌集の名前。

 ですが、これは現物が未発見です。

 なので、北斗の墨書自選歌集「北斗帖」と、我々が今知っている、現在青空文庫などで流布している「北斗帖」とは違うものであるという可能性がある。

 さらにもう一つ、希望社版の「私の短歌」というタイトルは、歌集にではなく、「私の歌はいつも論説の……」という、北斗による自作解題の「文章」につけられたものであり、歌集としてのタイトルではない可能性がある(高い?)ということ。

つまり、わかりやすく整理すると、

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2006年4月11日 (火)

「湯本喜作『アイヌの歌人』について」古田謙二

 これは、北斗に俳句の手ほどきをし、北斗の遺稿の整理をしたといわれる、古田謙二が、昭和29年に発行された湯本喜作の著書『アイヌの歌人』について、正誤を記したもの。
 この湯本の『アイヌの歌人』は、バチラー八重子、森竹竹市とともに北斗を取り上げているのですが、いかにも素人の仕事といった感が強く、いろいろとつっこみどころも多い。しかしまた、北斗研究の嚆矢でもあるので、功罪相半ばといったところでしょうか。
 以下、古田の文章を引きながら、解説していきます。

「私と北斗」
私が余市の余市小学校に赴任したのは大正十一年のこと。その頃は北斗を知らなかった。受持の生徒の中にアイヌの児童がおり、それ等を通してアイヌの生活は知っており、また同情も持っていた。


 古田謙二は北斗が青年になってから出会ったわけですね。北斗よりちょっと年上なだけです。

 大正十三年一月、余市小学校の裁縫室を会場として、「青年合同宿泊講習会」というのが、北海道庁主催で開催された。道庁の役人、中等学校の先生等を講師として、いわゆる精神修養を行なうためである。
三日目の最後の日、その夜は講習の感想発表会である。約四十名位の青年が一堂に集まって感想発表となり、中々熱心であった。その終わり頃に壇にたったのが、違星瀧次郎という青年であった。


 大正13年。東京に出る前ですね。
 以下、その演説の内容です。

 「皆さん、私はアイヌの青年であります…」冒頭のこの一言が皆の注目をひいた。それから違星は大体次の様な話を、満場の注目をあびつつしたのである。「世の中でアイヌ人は蔑視されております。学校ではアイヌの児童をのけ者にします。世間ではアイヌ人を酷使します。すべてアイヌ人は人間並みに扱われておりません。憲法の下に日本人は平等であるべきに、これはどうした事でしょうか。
その原因の半分はアイヌ人自身にあると思います。アイヌの子供は学校で成績はよくありません。乱暴です。嫌われるのも致し方ありません。又、世間ではアイヌの人を酷使し、馬鹿にしますが、酒を飲んで酔いしれているアイヌ人を見ると、他人を責めることも出来かねます。たしかにアイヌ自身に蔑視される原因はあると思います。然し、和人の方々にもその原因はないでしょうか。学校にあがると、我々をアイヌ、アイヌと馬鹿にする。社会に出ると同じ仕事をし乍ら別扱いをして低賃金しかくれない。こうした境遇におき乍ら、アイヌ人が素直になれの、おとなしくしていろのと、いつでも無理であります。
一体アイヌ人は劣等民族ではありません。アーリヤン民族の一派だといわれておりますが、欧州のアーリアン民族の優秀なことは歴史がよくこれを証明しております。
アイヌが現在のような状態におかれているのは、実は人為的にそのようにしているのであって、結局は愛の欠乏がひきおこした悲劇であります。」
かくて和人の愛の心を呼び起こす絶叫をして約二十分程で壇を下りたが、満場粛然として声がなく壇を下りた時は、拍手がしばし止まらなかった。私はしっかりした青年がいるものだとの印象をうけ、この時から違星北斗に注目したのである
 私は、以前からアイヌ児童の家庭訪問はよくやった。しかし違星を知ってからは一層熱心にアイヌのためにつくしてやろうと思うようになった。



 これが、古田謙二がはじめて北斗を見た瞬間ですね。
 この「演説」を見ると、やはり北斗は演説が上手かったのでしょう。上京後に名だたる名士たちの前で、臆することなく演説できたのは、こういうことに馴れており、アイヌの美徳とされる、「雄弁さ」と「度胸」を持ち合わせていたからなんですね。

管理人  ++.. 2006/04/11(火) 04:52 [152]

 北斗は余市のアイヌの青年を集めて茶話笑楽会という会を作った。お茶を飲みながら、笑い楽しみ乍ら話をする会というので、その間にアイヌ青年の自覚をうながしてゆきたいというのが目的であった。そしてその会の顧問に私は推されたのである。
笑楽会は、中里篤太郎の家の二階で行なわれた。二階は四間位もあり、フスマを皆はずして広々とし、輪になって語り合った。真中にテーブルをおき、それで一人ずつ出てしゃべることもあった。


 「茶話笑会」は、遺稿の「コタン」では「茶話笑会」になっているんですが、それ以外の数種類の文書では「笑楽会」になっています。どっちなんでしょうね?
 「笑楽会」が行われた中里篤(徳)太郎の家は、大きかったんですね。2階建てで、その上2階だけでも4間もあったわけですね。
 あとに出てくる北斗の家も、何部屋もあるような、ちゃんとした家だった。
 以前入手した地図によると、この中里と違星の二軒の家だけが、余市コタンの入口に離れてあり、他のウタリの家よりも大きな家に描かれていました。
 
 昭和二年であったか三年であったか忘れてしまったが杜会主義者の朝鮮人朴烈と日本人の文子とが獄中で恋愛し、裁判で朴烈文子事件として騒がれたあの事だと思う…ある秋の笑楽会の風景がハッキリと眼前に浮かんでくるのである。その時は、秋が深かつたか、すでに冬になっていたか、とにかく樺太出稼の運中が皆帰っていて、樺太で虐待された話を盛んにしていた。
次から次へとアイヌ青年がテーブルをたたいて論じた。その時北斗は、「我々アイヌの中には優れた者はいないかもしれない。しかし、一人の朴烈文子も出していないのである。」とて、国に忠誠なる旨を述べて満場の拍手をよんだ。
中里篤治は、その時は青い顔をしてすでに肺を病んでいるのか元気がなかった。


 「朴烈写真事件」は大正15年年ですね。
 古田のいうようにこの出来事が昭和2,3年のものだとしたら、大正13年に発足した茶話笑楽会が、このころまで、ちゃんと活動していたということですね。
 昭和2年夏に発行の同人誌「コタン」に「同人が樺太に出稼ぎに行っていて留守」というような記述がありましたから、この風景は彼らが帰ってきた昭和2年の秋か冬のものかもしれませんね。
 それに、昭和3年の秋や冬では、北斗は闘病生活にはいって床に伏していいますから、やはり昭和2年以前でしょう。大正15(昭和元)年は、秋冬はまだ北斗の本拠地が日高の平取にありますし、やはり、これは昭和2年の出来事だと思います。
 この頃の北斗たちの思想は、大きく右に傾いていますね。「茶話誌」のキーワードが、「よき日本人に」でした。
 中里篤治は、北斗よりも先に結核にかかりますが、けっかとしては北斗よりわずかに長生きします。
 樺太で出稼ぎをしてきた友人「惣次郎君」との友情を歌った短歌がありましたが、あれもこの頃かもしれませんね。

管理人  ++.. 2006/04/11(火) 04:52 [153] 

 私は、昭和五年六月に留萌高等女学校教諭に転任したが、北斗の遺稿を集め希望杜にたのんで遺稿集を出版できるようにしてやったのは北斗を後世に伝える資料を残すことになり、よいことをしたと思う。

 古田がコタンの編集に手を貸したのは、留萌に移る直前ということですね。

 古田はKという北斗の甥(姉の子)の担任でした。Kは、母(北斗の姉)を亡くし、父もいなかったので、梅太郎に養われていたのですが、古田はKを可愛がり、また不憫に思って、Kを空知郡栗山町の実家の書籍文具店の小僧として紹介しています。
管理人  ++.. 2006/04/11(火) 05:15 [154] 

瀧次郎という名

北斗の姓名は違星瀧次郎といい、北斗は号である。然し、瀧次郎というのは、実は誤まってこうなったので
「竹次郎」というのが親のつけた本当の名前であった。
彼の長兄は「梅太郎」といい、それで彼が生まれた時、親は「松竹梅」から来たものか、「竹次郎」と名づけた。ただ役場にとどけ出る手続きが面倒なので、これを代書人に依頼したのだが、その時口頭で「タケジロウ」といったものらしい。その時の発音が代書人の耳には「タケジロウ」でなくて「タキジロウ」と聞こえたのである。そこで「ああよろしい」というわけだ。早速竹次郎が瀧次郎と変って届け出られてしまった。かくて、瀧次郎は終生の彼の名前となってしまったのである。
事実、彼の両親をはじめ、アイヌの仲間たちは、皆彼を北斗とも瀧次郎ともよばず「タケ」とよんでいた。私は何回となく「タケ タケ」と話しかけているアイヌを見たものだ。
このことは、私は北斗自身の口からも聞いているので、間違いないことである。
もっとも、北斗が少し世に知られ「北斗」という号の方がわかりやすくなってからは、アイヌも和人と話をする時に「北斗」というよび方をよくしていた。しかし、これは和人と話をする時のことで、アイヌ同志のときは、やはり「タケ」とよんでいた。


 やはり、そうでしたか。
 北斗の名前は「タケジロウ」で通用していたんですね。
 「自動道話」の初期の署名は「竹二郎」ですし、金田一の「違星青年」も「竹次郎」になっているものがあったと思います。
 やっぱり発音の問題だったんですね。
管理人  ++.. 2006/04/11(火) 05:24 [155] 

西川光二郎氏の北遊の途次に知られ…
P・十四-四行目

 西川光二郎氏はもと社会主義者で、当局におそれられた人だが、このころは既に儒教主義の社会運動家に転向しており、「自働道話」という月刊雑誌(今のタブロイド版の半裁で、たしか八頁位でなかったかと記憶している)を発行していた。


 西川光次郎(光二郎)については、『アイヌの歌人』での扱いはひどすぎます。ある程度の知識人なら、西川光次郎が幸徳秋水とともに平民社にあり、日本に社会主義を紹介した、もっとも最初の人たちの一人で、多くの書物を訳している人であることは知っていたのではないかと思いますので、つまりは、湯本喜作氏はそういう知識を持ち合わせていない、よく言えば普通の人だったのでしょう。
 史上最大の大逆事件(冤罪)である幸徳事件で生き残り、獄中で転向し、精神修養を説くようになります。
 ちなみに自働道話は「八頁」は少なすぎます。30頁位で、3ミリぐらいの厚さはあります。

 彼、北斗の短歌の半分位は、この雑誌に掲載されたものである。それというのは、奈良直弥先生がこの西川氏に私淑しており、奈良先生のすすめと御世話で、同誌上に掲載されたものである。私もその実物をみせられておぼえている。西川氏は北遊の途次、奈良氏の招聘で余市へも立寄られ、そこで北斗とははじめて逢った。
北斗の上京は、北斗自身の考えによるか、奈良氏のすすめによりものか、今は忘れてしまったが、その何れにしても、奈良氏のすすめにあづかって力があったことは確かである。


 やはり、奈良先生が北斗を紹介し、上京の段取りもしたということで間違いないようですね。
 こうしてみてみると、古田と北斗が出会った大正13年は思想的には激動の頃ですね。茶話笑学会結成、自働道話の購読、西川光次郎との出会い。
 
 上京中の北斗は高見沢氏は勿論であるが、多くの人から可愛がられ、彼も喜んで働いたようだ。金田一先生を訪ねたのは、この期間中のことであるか、金田一先生から石川啄木のことをよく聞いたと、私に度々語って聞かせてくれた。
話の内容はもう忘れてしまったが、啄木の常規を逸したような行動をじっと耐えて、これを友人として暖かく遇していた金田一氏の人間的善さを讃えていたし、また天才肌の啄木にも同情の眼を注いでいた。
その後の北斗の短歌が啄木調と思えるところがあるのは、意識的であつて、彼は「啄木の短歌は率直で好きだ」とくりかえし言っていた。


 北斗が、啄木について言及しているとは。
 全く、今まで出てこなかった証言です。

 後世、北斗は「アイヌの啄木」と呼ばれるようになりました。
 私はそれを聞いてどうもしっくりしない気がしないでもなかったのですが、北斗がそれを聞いたら、むしろ結構喜んだのかもしれませんね。
 よく考えたら当然かもしれませんが、金田一から啄木の話を聞いたことも、歌人違星北斗の誕生に一役買っているのでしょうね。

管理人  ++.. 2006/04/15(土) 04:49 [156] 

北斗と女性

日高の二風谷における北斗のことは直接は知らない。しかし、二風谷を初めて訪れ、酋長の宅でアイヌ民族向上について談じこんだ事実は、北海道のある雑誌にのった誰かの北斗に関する記事で見た記憶がある。
―その家の娘が北斗に恋をしたが、北斗はこれを受入れず二風谷を去った―というようにその記事に書かれてあったようにも記憶している。事実かどうか話があまり巧みにいっているので、作り話ではないかと思う。


 この二風谷の話が載っている「北海道のある雑誌」は、もしかしたら、『アイヌの歌人』の中で、湯本氏が孫引きしている、「コタンの夜話」(谷口正)のことかもしれません。

 一体、北斗は異性に関することはほとんど語らなかったが、只一回私に語ったことがある。それは美唄で出している短歌雑誌(「しづく」と言ったかと思う)の一投稿女性が、彼に猛烈に恋をし、熱烈な手紙をよこしたという。北斗はこれに対し返事を出した方がよいものかどうか迷っているといい、「アイヌに恋をするということは容易に出来るものではないが、これは真面目なようだ。しかし…」といって、微苦笑をしたものである。
その後話がないところをみると、このことはそれっきり発展しなかったらしい。私が知っている唯一の女性に関する話である。


 北斗と異性について。
 「志づく」の愛読者ですか。当時から熱烈な北斗のファンがいたんですね。
 まあ、あれだけ目立って、異彩を放っていると、そういう話もあるでしょう。
 それに対して北斗は「微苦笑」。北斗らしいですね。

 古田謙二は他には聞いたことがない、と言っていますが、余市に行ったときに、いろいろと重要な話を聞き、資料も入手しました。
 また、今回入手した資料の中にも、北斗の恋愛の話がありました。
 そのうち発表できると思います。

管理人  ++.. 2006/04/15(土) 05:06 [157]

「フゴッペの洞窟」云云
P・三十二-十三行目

 フゴッペの洞窟は、鉄道線路工事中発見されたもので、私の余市校在職中の出来事ある。この洞窟の壁の文字様のものは、その当時新聞で話題となり、小樽高商の西田教授は、小樽の手宮古代文字と同じく、古代文字として、新聞に書いた。それを小樽新聞で北斗が反諭したもので、遺稿集「コタン」に全文がのせてある。
そのころ、北斗は原稿を私に見せてくれた。私は文中のカナちがい(アイヌの人々は、発音が悪くてカナちがいをする者が多い)の幾つかを訂正してやったものである。


 ここにも「発音」の話が出て来ましたね。
 地域は違いますが、二風谷の萱野茂さんの本にも、萱野さんのお婆さんが、たしか「しげる」が発音できなくて、ずっと「しめる」と呼んでいた、という話がありました。
 北斗の周囲では、「い」段音と、「え」段音の発音が聞き取りにくいところがあるようです。例えば、北斗の名前にしても、「いぼし」と「えぼし」、「たきじろう」と「たけじろう」といった具合です。

管理人  ++.. 2006/04/15(土) 05:15 [158] 

西田教授は本気で相手にしていない。

反ばく文を新聞に投稿した後、北斗は小樽市に出かけ、西田教授の家を訪問している。ところが、教授はどう思ったのか居留守を使って北斗に会おうとしなかった。それでしかたなく帰ってきた。

北斗はその後、このことを私に話をして、「西田先生は自信がなくて私に会いたくなかったのだろうか。それともシャモの優越感からアイヌごとき者に会うのはイヤだ、その気持から避けたのだろうか」等といつて笑っていた。
 本書には「町民にしこりを残しているだけに、彼の晩年は一層さびしいものがあったろう」と書かれているが、そんなことは全くない。しこりを残す等というのは、全然、当時を知らない人のいうことである世人は、この論争(論争といつても一、二回きりのもので、論争というほどのものではないが)をただ書いただけのものである。第一、アイヌのイカシシロシといったところで、誰でもわからないことであるから。要するに当時は、ただ、「アイヌが面白い説をはいているなあ」といった程度のものであった。


 北斗は、西田教授と会って、話そうとしたんですね。 しかし、なぜだか会ってくれなかった。

『アイヌの歌人』では、北斗がフゴッペの壁画はアイヌの手によるものではない、にせものではないか」と言ったので、史跡指定が遅れ、町民にしこりをのこし、余市に帰りにくくなった、というような記述があるのですが、それはデタラメだったようですね。  
管理人  ++.. 2006/04/15(土) 10:12 [159] 


北斗の家   P・三十三-一行目

本書に、「家は大川町にあり、あばら屋である」と書かれているが、あばら屋ではない。古くなり造作はよくなかったが、余市の労働者程度の家としては普通のものである。

中里 篤治のこと P・三十四-四行目

当時の余市におけるアイヌのなかで大物が二人いた(酋長格というところ)。中里篤太郎(篤治の父親)と違星梅太郎一北斗の兄)とである。特に中里篤太郎はアイヌの代表的人物で、体も大きく、仲仲気骨もありしっかりしていた。話もわかっていて、アイヌのことは何でも中里に行けといった町役場の調子である。
実はアイヌ街(大川町の一隅)の入口にあり、立派な建物である。篤治はその息子だが、私の知つた当時は、肺結核が進んでおり、青い顔をして、ゴホンゴホンと咳をしていた。親とちがいキャシャな体で声も柔らかく、到底北斗のような気概はなかった。

 大正末の地図によると、北斗の家は、中里徳太郎の家の隣、コタンの入口あたりに並んで建っていたようです。「酋長格」の実力者であった中里と違星の家は、コタンの中の他の家よりも大きな家でした。
 この家ですが、あとで「早川通信」の時にも書きますが、早川氏の訪れた昭和40年より以前に火事で焼けてしまったようで、資料も何もかも燃えてしまったそうです。
 あばらやというのは、その後の違星家なのかもしれません。もしかしたら、私が余市で訪ねた青い家なのかもしれませんね。

 この頃は中里篤治は、北斗よりも症状がひどかったようですね。北斗の死後数ヶ月で、篤治もまた他界します。

管理人  ++.. 2006/04/15(土) 10:30 [160]

(同人誌『コタン』の中里篤治の短歌)
アイヌ行く隔離病舎だ電話など
いらぬといった町会議員

という歌は知らなかったが、当時こういう話題は北斗から聞いていて、私も覚えている。
それは、中里篤太郎は「町会議員の馬鹿野郎ども避病院はアイヌのいくところだから、電話なんか要らないとぬかしやがつた。電話のいる、いらぬはとにかくとして、アイヌの行くところとは何だ。アイヌを馬鹿にしやがる。そんな町会議員は、皆病気にかかって避病院にやってしまえ!」と、どなりちらしていたということである。
ある町会議員が、町議会の席で避病院に電話を引く話の出たとき、「避病院はアイヌなんかも入院するし、電話なんか要らないだろうといったという話が流れてきて、それを聞いた篤太郎の憤慨である。もちろん避病院は一般の人の入院するところで、アイヌばかりが入院するわけではないが、当時は非常に建物が痛んでいて、粗末な建物であることを、アイヌにかこつけるのを、篤太郎は「シヤモの野郎、生意気だ」と憤慨したのである。


 なるほど。この病院の短歌にはこういう裏話があったんですね。
 中里徳太郎は本当に豪傑のようです。金田一の残した「あいぬの話」に、幼い頃自ら学校に入れてくれと役所に頼み込んだ話があります。
 今回入手した武井静夫の「放浪の歌人・違星北斗」には、北斗誕生前夜の余市コタンの二人の傑物、違星万次郎(北斗の祖父)と、中里徳太郎の姿が描かれています。(小説風に書かれていますので、すべてが本当だとはいえないですが、よく調べて書かれている印象です)。この中では、余市コタンの指導者としてはまずは万次郎があり、そして徳太郎がそれに倣ったような感じで描かれています。
管理人  ++.. 2006/04/15(土) 10:41 [161] [引用]

クリスチャン  P・三十四-四行目

篤治がクリスチャンだったとは初耳である。(私自身がクリスチャンで、十五歳の年から現在まで五十年間教会に通つているが)余市の教会で一度も篤治の姿をみたことがない。ジョン・バチェラー氏は余市方面には伝導に来ていなかったので、その影響もない筈。
篤治がクリスチャンだったとしても、それは微温的なものでなかったろうか。むしろクリスチャンを表明しない方がよいのであるまいか。

篤治の短歌というのを私は知らない。又短歌を作るということも殆ど知らなかった。ここにのっている四首というのもはじめて見たくらいである。篤治は短歌を作ったかもしれないが、世間的には全く話にのらなかったし、自身も熱心ではなかった筈である。


 そうですか。中里篤治は正式なクリスチャンではなかった、ということなんでしょうか……?
 書くものはキリスト教の影響を受けているような感じでしたが……。
 ただ……古田謙二はバチラーの伝道の影響はなかったと言いますが、実はバチラー八重子に中里篤治、徳太郎を偲ぶ短歌があります。

端然と ちからづよくぞ 語られし
君今はゐず ゐろり空しも
                逝きし中里徳太郎氏

ただ一人 父のかたみと 残されし
君また逝きぬ うら若くして
                逝きし中里篤治氏

 大正15年以降、北斗はバチラー父娘と関係があったわけですから、まったく影響がないというのは考えられませんね。北斗を通じて影響を受けたのかもしれません。
管理人  ++.. 2006/04/15(土) 10:52 [162] 

北斗の日記  P・三十七-十一行目

北斗の死んだ二日後、まだ消毒薬の匂いのプンプンしている寝室に入り、枕元においてあったボストンバックの中から遺稿になるとおぼしきものを引き出した。その時日記も二冊あった。


 これは生々しいエピソードですね。
 「ボストンバッグ」というのは、この古田の実体験だったんですね。
 日記は2冊ですか。大正15年と、昭和3年でしょうか。

 私が出版の世話してやった遺稿集「コタン」の巻末を見て下さい。あとがきが書いてあります。(後藤静香氏が執筆)。あのように、遺稿集はその後希望杜から出すことになり、その編輯役を引き受けたのが某氏(この名前失念、後書きにかいてある筈です)
この某氏とは、北斗の上京時代知り合いになった仲だと思うが、もう記憶がうすれてしまった-です。私は、あまり原稿はいじらず、原稿になるとおぼしき書類を整理し、それに本や日誌もそえて送ってやりました。

 
 某氏とは、岩崎吉勝か宗近真澄でしょうね。

 
 フゴッペの古代文字に関し、西田彰三教授に反論した新聞記事の切抜きが、私の切抜帳に貼ってあったので、これを切りとって送ってやった。

また茶話笑楽会誌―という北斗自身ガリ版を切った余市アイヌが出していた雑誌四冊を送ってやりました。この雑誌の一部は、コタンに写真になって(アイヌの顔が)のっている筈です。


 なるほど。コタンに載っているアイヌの顔のイラストは、茶話誌に載っていたものなんですね。

 その第三号には、私のガリ版を切ったところも入っております。北斗は、この第三号を余市小学校にやって来て、学校の謄写版を借りて、私と一緒に印刷したものです。

 そうですか。学校でガリを切ったんですね。
 茶話誌は実物が見つかっていないので、見てみたいものですね。

 その某氏が、日記の抜き書をやり、笑楽会誌も抜書きし、本にまとめたわけです。費用は希望杜が出しました。

 出版後、原稿、日誌、笑楽会誌等、一切返戻してよこしませんでした。私もそのままにしておきました。

今日遺稿資料を探すとすれば、希望社の関係者を探し出し、その人から某氏(コタンの後書きでわかる筈)の現住所を訊いて、その人に資料の行方を聞いてみるより方法はありません。
日記は、二冊のほかまだ沢山あるのか知りませんが、私の記憶しているのはそれだけです。他はおそらく無いか、あっても現在わかりますまい。


 長らく疑問だった、遺稿については、そういうことだったんですね。
 古田が「わかりますまい」と言っている相手、この遺稿を探している人は、おそらくこの木呂子敏彦氏なんだと思います。
 先の火事の件もあり、北斗の未発見の遺稿はほぼ絶望的だということなんでしょうね。
 残念です。

管理人  ++.. 2006/04/15(土) 11:15 [163]

北斗の実父 イコンリキ P・四十二-九行目
 
 私は北斗の家で、炉端であたっている北斗の父をよくしっている。おとなしい人だった。頭の耳の上の部分に大きな傷跡が残っていた。「これは何の傷ですか」と聞いたら「オヤジにやられたのさ」と笑っていた。オヤジというのは親爺…即ち熊のことである。
 北斗の父は熊取りの名人で、若い時熊取りに行き、遂に熊との格闘になって、その時熊にひっかかれたのがこの傷跡だというのです。しかし、私が知った時は、おとなしい老爺におさまっていた。


「北斗の実父イコンリキ」は間違い。父は違星甚作、アイヌ名はセネツクル。「アイヌの歌人」の間違いですが、古田も訂正していないところを見ると、古田も北斗の父の名は知らないのかもしれんません。
 この北斗の父と熊との格闘は「熊の話」に詳しく書かれています。
 イコンリキは祖父万次郎の実父(北斗の曾祖父)です。

管理人  ++.. 2006/04/16(日) 21:19 [164] 

西川光二郎氏 P・四十六-五行目

 西川光二郎について、幸徳秋水事件の生き残りの人、雑文書き…程度の記事は余りにも淋しいと思う。もっと調査して書いてほしい。たしかに幸徳の一味であり、社会主義者であったが後に、儒教主義の社会運動家に転向した人と聞いており、私も今はこの程度より書けないが、この人はもっとその道の人には知られており、書かねばならぬことがあると思う。調査してほしい。


 これは先に出たとおりですね。この「儒教主義の社会運動家」という記述には、なるほど、と納得しました。
管理人  ++.. 2006/04/16(日) 21:27 [165] 

余市のフゴッペ洞窟について 
P・四十六-九行目

 フゴッペ洞窟について、北斗の反対論があったため、昭和二十八年まで文化財保護指定が遅れ…云々。こんなことは全くない。


 湯本喜作は「北斗が故郷余市に帰りたがらなかった理由の一つ。このフゴッペ洞窟について、北斗の反対論があったために昭和二十八年まで文化財保護指定がおくれ、町の人達にあるしこりを残していた」と書いているのですが、それに対しての古田の反駁ですね。
 そもそも。北斗の「フゴッペの遺跡」と「フゴッペ洞窟」は微妙にちがうものです。前者は昭和二年に発見されたもので、鉄道工事によって露出した壁画、後者は昭和二十五年に海水浴に来ていた中学生が発見した洞窟の中の壁画のことです。

 第一、小樽新聞に北斗が投書し、それが新聞に載ったのに対し、世論は殆ど騒がなかった。「そんな意見もあるのかなあ…」と、新聞を読んだ識者は思ったろうが、それからどういう説もなかった。それはそのままに終わってしまった。
 北斗が故郷余市に帰りたがらなかった理由に一つに、このフゴッペ洞窟の反対論があったため…等とはとんでもない話である。これは全くの誤解である。
 第一、フゴッペの洞窟はずいぶん世の中に知られたと言われているが、北斗の新聞記事は、世間で問題にされなかったのである。北斗を知り、アイヌに関心を持っている者には相当問題になる記事だが、一般としては、そのまま見すごされてしまった。
 だから、北斗の伝記の中では重要な事だが、世の中の間題としては、微々たるものであつたというべきである。


 なるほど。この新聞記事の影響力は地元でもあまりなかったと。

管理人  ++.. 2006/04/16(日) 21:48 [166]

北斗が余市に帰りたがらなかったかどうかは、私は知らないが、―若しそれが真実とせば、次の理由によるものと思われる。

 北斗は兄梅太郎の家に居た。母はすでになく、梅太郎の妻(もちろんメノコ)の世話になるが、心苦しく思っていたものと思われる。(そんなことを、ちよっと私にもらしていたこともあったようだ)それで帰りたがらなかったのかも知れない。
このころ、余市のアイヌは、土地にあまり漁もないので、樺太や利尻、礼文方面に出稼ぎによく出かけた。そしてようやく生計をたてていた。
しかるに、北斗は出稼ぎなどせず、アイヌ民族の向上だの何のだのと言って、あまり働いて銭をもうける仕事もしないので、兄嫁に好い顔をされなかったのかもしれない。それで、なお帰りたがらなかったという話が出たのかもしれない。しかし、これは私の想像である。
梅太郎の妻(北斗の兄嫁)はよい人であった。北斗が死んだ時、私の家に教えに来てくれたのは、彼女であって「タケがとうとう死んで…。ほんとに先生にはお世話になったね」と、涙をこぼして言った姿が今も眼に浮かびます。


 北斗は梅太郎のところに厄介になっていたわけですが、上の古田の記述以外にも、北斗自身、兄の家に厄介になっていることを気にしているような気がします。
 母親が死んでから、北斗も家には居づらかったのかもしれません。
(余市にいったとき、そういうことを聞きました。金田一の「違星青年」にも「病骨を母なき故郷の兄の家へ横たへる身となった」とあり、兄夫婦の家は、北斗にとってはあまり居心地のいいところではなかったのでしょうね。

管理人  ++.. 2006/04/16(日) 22:18 [167]

イサシの山のとほくかすめる P・五十-二行目

これは「イサンの山の」の誤植ではなかろうか、北斗は江差には行ったことがない筈である。これは函館方面の恵山(エサン)の誤りと思う。恵山だと、室蘭方面にゆけば噴火湾の向こうに恵山が見えるが、江差は遠くて全然見えない。もしそうとすれば記事が全部変ってくる。


 この「イサシ」は確実に誤植ですね。

「山岸院長は元軍医中将で」 P・五十五-五行目

私の記憶によると、軍医大佐だと思います。将官ではなかった筈です。


 『余市文教発達史』には「陸軍二等軍医正(中佐)」とありますね。いずれにしても将官ではなかったみたいですね。

管理人  ++.. 2006/04/16(日) 22:33 [168] 

奈良直弥先生 P・八十二-三行目

今、達者であれば百歳位にでもなっていようか。北斗たちは、余市の黒川分教場(大川小学校の分校で奈良先生一人で教えており、単級学校であった)にあがった。
奈良先生は、非常に明るい人で、お酒が好き、俳句が好き、書道の達人-私がはじめて氏を知ったころは、白髭をながくあごにのばしていた。


 北斗の入った学校は、大川小学校の分校の「黒川分教場」ということですが……『コタン』にはただ「尋常小学校」とだけあり、『余市文教発達史』には「余市尋常高等小学校」、『放浪の歌人・違星北斗』(武井静夫)では「余市大川尋常高等小学校」、『泣血』(阿部忍)には「大川尋常小学校」とあります。その他文書によってちがいますが……たぶん、「大川尋常小学校」が正しいんでしょうね。

 当時、アイヌは義務教育が一般の六年制に対し、四年制であった。

 ちなみに、北斗は、母親のすすめで、和人の行く六年制の小学校に行っています。

 この先生は、ちょっと普通の先生の型にはまらぬところが、町民からまで「奈良先生、奈良先生」と愛されていた。
 北海道がまだ、北海遺庁のおかれていない以前、即ち、三県時代といって、函館県、札幌県、根室県とに分かれていたころの、函館県の師範学校(たしか簡易科)の卒業生である。
 氏の子息では、帯広市在住の能勢眞美氏(洋画家として北海道では有名)など知られている。
 昔、松竹の映画俳優として知られた奈良眞養(マサヨ、シンヨウ)という人は、奈良先生の甥にあたる。


 なるほど。型破りな先生だったんですね。

 私は独身時代に、大正十五年秋から昭和二年の春頃まで、奈良先生の家に二階に下宿したことがあった。
丁度、その時のことである。略歴には「大正十五年十一月北海道に帰る」とあるが、北斗が東京から帰って来た頃のことである。
道でバッタリ北斗と逢った。
「やあ、どうした」
「今、東京から帰って来たたところで、奈良先生をお訪ねするところです」
「それは丁度よい。私は奈良先生の家に下宿しているので、話をしていき給え…」
と、いうわけで、同行して帰宅。奈良先生に、東京から帰ってきた挨拶をした後、二階の私の部屋にやつてきて、それから長時間の話しあいをしました。
東京の話、例によって「アイヌに対する和人の優越感に対する慣慨…」とうとう夜中の一時、二時頃になってしまい、私のところに泊まってしまいました。


 ここでは、北斗は東京に帰ってきてすぐというふうになっていますが、北斗が東京から帰ってきたのは大正十五年の七月です。北斗は登別で知里幸恵の生家を訪ねたあと、そのまま平取へと向かっています。
 それに、帰道直後であれば、古田はまだ奈良の家に住んでいないことになりますから、この話は、大正十五年八月~九月の、平取からの一時帰郷をさしているのかもしれません。

 その時の話題は、皆忘れてしまったが、唯一、覚えているのは、西田幾太郎の「善の研究」という本の話をしたことです。「善の研究」を当時私は購読。その第三章に宗教のところがあります。私はキリスト教なので、西田幾太郎のように神を理解することができなかったのです。
即ち、「神は宇宙の上に超越している」と理解したいのですが、「善の研究」には「宇宙の中の働き、そのものの中に神の存在を見る」ようにと説かれているのです。
そのことを、長時間話しあいをしたのですが、北斗は「私も善の研究のように神を理解したい」といい、私は「超越してある神」をとり、遂に意見が一致しませんでした。
ほんとうにあれから、もう四十年もたってしまいました。


 この記述は、本当に貴重ですね。
 北斗のその時点での「神」に関する考え方がわかります。北斗が西田幾太郎の「善の研究」を読んでいたとは……。私も読んでいないのでなんとも言えませんが、当時旧制高校生の必読書というような話を聞いたことがあります。かなりの知性がないと読めない本だと思いますが、小学校しか出ていない北斗がそれを読み、古田のような学校の先生と論議していたと思うと、あらためて北斗の知性はすばらしいものだと思いますね。

管理人  ++.. 2006/04/16(日) 23:35 [169]

> ほんとうにあれから、もう四十年もたってしまいました。

 この通りだとすると、この古田謙二の言葉は、昭和四十年ごろのものだということになりますね。

管理人  ++.. 2006/04/16(日) 23:40 [170] 

>笑楽会は、中里篤太郎の家の二階で行なわれた。二階は四間位もあり、フスマを皆はずして広々とし、輪になって語り合った。真中にテーブルをおき、それで一人ずつ出てしゃべることもあった。

ここに出てくる「四間」というのは、今の今まで「四間(ま)」で「四部屋」だと思っていたのですが、これって、単に長さの「4間(けん)」なのかもしれませんね。
 
 googleで調べると「四間 = 7.27272727 メートル」……確かに広いかも。
 そんな気がしてきました。

管理人  ++.. 2006/05/08(月) 23:16 [190]

2006年1月16日 (月)

山岸礼三の著書


 北斗の主治医で余市コタンの赤ひげ先生、山岸礼三の著書を入手。

「水郷余市の奇勝 神巖 蝋燭岩」玄津学人
 (発行・余市郷土研究会・昭和11年3月10日)

 余市のローソク岩についての伝承の研究。

 北斗のことについて何か書いてないかと思ったんですが……北斗はなし。
 ただ、梅太郎について若干記述がある程度。

 詳細は後日。

管理人  ++.. 2006/01/16(月) 00:47 [89]

2006年1月12日 (木)

再びフゴツペ 古代文字と石偶に就て

小樽高商 西田彰三

(一)は欠
(マイクロフィルムにも残っていない)。

(二)

原始民族の宗教的発達の経路は動物神或は植物神の多神に始まつて次第に人形を帯びたる神形人視主義に進化したることは古代の美術や祭式によつて推知せらるゝところで始めは純粋の動物形を崇拝してゐるが次ぎには半人的性質を帯んで、オロチヨン族の木偶の如き神か動物の皮(熊の皮)をきた人間の像とまで進化したのである。フゴツペの人面石像は、なめくじが人間の像になつて崇拝の的となつてゐるものと思はれる。
猿は非常に蛇を嫌ふ人間の蛇を嫌ふのも猿と同様の進化を遂げたからだといはれてゐるただ何となし憎悪嫌悪の感を蛇を直視する瞬間に発するのである。この先天的観念は蝦夷族も同様であると思ふ、大和民族もこの蛇を嫌ふ観念が*に*を崇拝して神と信ずる観念となりこの動物神崇拝の観念が、神形人視主義に支配せられて蛞(なめくじ)を人間かし偶像化して崇拝するものと思はれるしかして「三すくみ」の思想は支那に発せるものと思はるるが是もあるひは大陸民族を介して蝦夷族に伝へられたものと推せらる。古代の民族が蛇を怖れたことは紀元前四八四四――二八年時代のヘロドドスの歴史にも窺はれる
ネウリ人はスキチア人と風俗を同じうしてゐる、彼等はダリウス王の遠征より一代ばかり前に国を離れなければならぬ禍に遇ふた、即ち彼等の国に沢山の蛇があらはれ、又砂漠の方からも蛇が沢山出て来たから人々何れも怖れて国を立ち退いたのであると
以上によつて観るに畚部遺跡の人面石偶並に古代土耳古文字的記号は単なる蝦夷族の芸術的の力作とのみ見ることが出来ぬそれは宗教的信仰よりなる芸術的なる芸術的力作であると断ずるをうるのである然らば畚部遺跡は何等の古墳的遺跡の意味をなさぬかといふにさにあらずフゴツペ遺跡の左の洞窟は居住の地をせるか又は墓地と見ることが出来るそれはこの辺には他にも人骨の掘出されたといふから必ずしもこの洞窟のみに限るまいが兎も角も今回発見のフゴツペ洞窟の左の部は人骨を掘り出してゐるそれが遺憾ながら遂に直接見ることが出来ぬ様になつたが元々、上顎骨と下顎骨のみであるといふから頭蓋骨を見る様に正しく蝦夷族と判定し得ぬが遺憾であるが下顎には四本の歯あり何れも深く根を顎骨に挿入し今日まで脱落せざるところにより見るに蝦夷族と認あらる余は*に頭骨のみより見出さぬといふにあり首を切つて埋めたものと推したるもその後頸骨が出てそれが扁平であったといふからいよ/\蝦夷族の骨格と認めるのである、然して頸骨は頭蓋に対して少しく離れてこれと或る角度をなして存在せりといふによりこの死体は屈葬せるものと思はるもので古蝦夷族埋葬の様式が窺はれるこれは蝦夷族は死者の再帰を防ぐ一首の迷信よりくるもので、蝦夷族はその家の主人死するときその家を焼き又家族の死に当たつても葬式の出棺は壁を破りて出し出棺後其の壁の破れたるを塞ぐので是等も死者の再帰を防ぐ呪禁と見るべきである、なほ骨と共に土器、壺の大形なるもの出たるは是又死者の再帰に対する儀式的のもので甕被葬とみたるべききはめて特種なる葬り方であるがすでに内地河内国府の蝦夷式墳墓の石器時代遺跡に発見せるところで大正七年十月松枝氏が国府に発見せる三体の中の一体は頭部に*紋土器をもつて覆はれてあつたと記載してゐる、又完全なるものでなく大なる破片で覆ふたと思はるるものもあるといふ。
今フゴツペ遺跡の土器壺破片を見るに弥生式でなく蝦夷指揮土器であること先に述べたる如きで更にその模様が曲線式のしかも現代蝦夷族の衣服器具等に見る模様と一致するものである。甕葬は更に乳児にも行はるるとのことであるので被の土器壺は乳児甕葬でないかと念のため前記の上顎骨下顎骨の発見者について尋ねたが全く成人の歯と顎骨であつたと申述べてゐるから勿論小児甕葬ではないのである、石器時代には小児を容れる位の甕はあつたが大人を容れる位の大きい壺がなかつたから大人にはこれを頭に被せることにおいて満足せねばならぬ次第である。次にその後の発掘によつて同骨格の出た腹部の辺りのところから楕円形の長経一尺厚さ二三寸あるこの辺には見られぬ扁平石が発見された、これは抱石葬に相当するやはり儀式的のものと思はれるこれ等も屈葬や甕被葬と同様死者に石を抱かしめて埋葬することは死者の屍に大いに禁抑を加へてその再帰を恐れこれを防止せんとする迷信より来る儀式的副葬品である。
(小樽新聞 昭和二年十二月四日)

管理人  ++.. 2006/01/12(木) 22:35 [85]

(三)

次にこの墳墓には見出されぬが*冠と同様の意義で石冠を副葬品として用ひるこれも死者の再帰を恐れて**する意味のもので石塊で冠形を造つたもので必ず頭部に安置してある。従来この石冠は何の目的に使用せるものか判断に苦しめるもので或は穀物を擦り潰すに用ひたるものなるべしとなし或は又宗教的用品なるべしとなし本道においても諸処に発見せられ室蘭忍路村土場等にありたるがその最も多数を掘出せるものは余市沢町の永全寺の住職東開氏が赤井川の蝦夷族墓地より百数個持来り供養のため寺の庭に並べたるものあり何れも石冠にてこれ又副葬品たるを証明するものである、内地の蝦夷式墳墓にも掘り出されたといふことである。
以上の埋葬様式副葬品並にその土器の模様等によつて該骨格は蝦夷族の埋葬墳墓と断定するのである勿論該所は初め居住であつたのでその証拠は土器を焼きまた火食せる焼跡の炭及煙跡を岩壁に認めるのでも知ることが出来るしかしてこの洞窟で土器を焼いた形式の明らかなるは同書から炭団大の粘土塊十個程出たことでこれは土器の製造に使用した残りと思はれる。
そこでフゴツペ遺跡は余が前回結論において最後に述べたる如く単に蝦夷人居住の遺跡である従つて石偶及岩壁の文字は彼等の芸術的力作とも見らるるが又土器及び骨片の存在する蝦夷式墳墓とも見らることを述べておいたが
今茲に述べたる骨格、石塊、土器、粘土、焚火跡の灰煙跡等より初め居住であつて後その墳墓となれることを認めるのである、しかしてこの墳墓に埋葬せられたる人物はその神殿道と思はる右側洞窟、岩壇の、呪禁的彫刻記号並に石偶の作者でないかと推せらるるのである。
永田氏北海道地名辞曰くフムコイヘ、はフンキオベの急呼にして守りをする義昔余市と忍路の境界を争い、番人を置き守りたる処なり故に名ありと、しかして余市も土城あり、フゴツペにも土城ある事この地名のよるところあるを知る元来フゴツペには一種の伝説がありこの小山を元金時山現在丸山と呼んでゐるがこの山が余市沖村のローソク岩と直線をなし昔両蝦夷は大いに戦つたといふことである、のみならず、吉川氏の研究によれば余市沖村のローソク岩の正面に【「★」の上に「―」】の一大文字を水銀式をもつて刻せりとのことであれば、この伝説あながち根拠のないものでもないフゴツペの【「土」の下に「入」、その左に「★」】と何等かの関係あるものと思はるゝので古昔この両蝦夷族の盛んに戦闘を交したるを推せらるゝのである。従つてこの遺跡が戦争に関係ある如く思はるゝも以上述べたる如きその後の調査研究によつて該遺跡の右が信仰的殿堂の遺跡で左が墳墓であると結論するのである。土器や石器を以て蝦夷族の遺跡と断定する推論を否定する一派の学者もある現在の多くの蝦夷族はこれ等の土器や石器は我等の祖先の造つたものでなくコロポクルなる人種の遺品であると信じてゐるこれに対して非コロポクル説なるものがある坪井博士並にモールス氏はコロポクル実在説で然もそのコロポクルは現に生存する、エスキモー族であると断定し石器時代の遺物と現存蝦夷族との比較数点を挙げて論結し石器時代の人民と蝦夷族とは関係のないものであると断定し蝦夷以外の人種のコロポクルの実在を信じてゐる。この点は現在蝦夷族の意見と一致してゐる。
これに対して非コロポクル説を主張せらるゝのは小金井氏河野氏シーボールト氏等であって、河野氏は道史に正徳二年択捉島に漂流せる舟子大隅国浜の市村一船頭次郎左衛門の記事蝦夷島叢話に同島の土人は穴居せるを記述し宝暦十三年十勝場所の西部に漂着せる名古屋の船頭吉十郎等の漂流船書上に十勝の蝦夷が穴居し上を木の皮などにてかこひゐたる旨述べてゐる、即ち現在蝦夷族が竪穴は蝦夷祖先の遺跡でないと否定する論拠はこの正徳、宝暦の両漂流記によりて、蝦夷島の東北部、十勝、釧路、根室、千島等の土人が多く穴居であつたことを物語るによつて否定せらるゝものである。次に尤も有力なる非コロポクル説の証明となつたものは、北千島土人の居住が穴居であつてしかもその竪穴の中に笥がハンノキで石の鏃のついてをつたのを発見し又、石鏃の製造もなしつゝあるのを見出したことであるこれは明治三十年頃占守の守備に当つてゐた郡司大尉からの報告であつて同三十二年鳥居氏親しく北千島に出張調査して北千島の土人は堅(ママ)穴に居住するのみならず骨*(ぞう)、骨鈷、骨斧、骨刀を使用し土器石器を製造使用することを知つたのである。これに依つて従来蝦夷族の伝説にあるコロポクルなるものはやほ(ママ)り蝦夷族自身の先住系の人種であることが知れた次第で多分今日の蝦夷族は銅器鉄器の恩沢を受け陶器の輸入等もあつて全く石器、土器の使用を忘却したものと思わはれる、特に前述の通り十勝蝦夷の穴居の報告あれば二百五十年前頃までは十勝に穴居蝦夷のありしを証明するものであり従ってその竪穴から見いださるゝ石器土器はやはり蝦夷族の使用せるものと断ずるを得るのである。元来石器の多くはその使用の目的からして戦争とか、魚捕とか魚獣の調製とかの点でその形状等略(ほぼ)一致するものであり比較的変化の少いものであるが、土器に至つては使用の目的以外に民族の趣味が加はるもので土器の形とか模様とかにそれが発達して民族真理が発揮せらるるものである。この点で原日本民族の土器なる弥生式は主として形に意匠が加へられ、蝦夷式土器は
模様に主として意匠が加へられたものである。即ちフゴツペ墳墓の中より出たる土器壺はその模様の意匠は全く蝦夷式と現代蝦夷族の衣服、木器等に施されたる模様と同一系統に属するもので、うたがひもなく蝦夷族の索引なることを証するものである。

(小樽新聞 昭和二年十一月五日)

管理人  ++.. 2006/01/13(金) 07:05 [86]

2005年8月 6日 (土)

『違星北斗の会』

 『違星北斗の会』の木呂子敏彦先生の息子さんと会って、いろいろ話をしました。

  木呂子敏彦先生は、とても波瀾万丈で、いろんなことをされているので、とてもひとことでは言えないのですが、その著作集によれば、帯広の教育委員、助役などを務められた方だそうです。また、フゴッペ論争で北斗と争った西田彰三は叔父にあたるそうです。

 若い時に後藤静香の薫陶を受け、人格者として多くの人に慕われた方です。

 木呂子敏彦先生の作品集「鳥の眼、みみずの目」には、けっこう新発見もありました。 たとえば、湯本喜作に協力した「谷口正」氏は、木呂子氏とも懇意で、またこの方は「賢治観音」の発見にも寄与した方だったこと。

 お会いした息子さんも木呂子先生の若い頃いろいろ調べられたそうです。記憶の整理も兼ねて、息子さんにお聞きしたことを書いてみます。

 ・ご実家には、いろいろ木呂子先生の残した資料があり、そこには北斗関係のものもある。

 ・北斗のことについて書いた小説がある。(恩師奈良直弥が書いた?)

 ・アベという学校の先生が書いた、ワープロ打ちの小説もある(アベ?という先生が書いた)。これは、東京時代の恋愛も描いている。(甘味処の短歌がありますよね、あれにインスパイアされたものらしいですが)

 ・後藤静香について

木呂子先生は東京で後藤静香の教えを受けている。(昭和七年ごろ)

家計調査を最初におこなったのは後藤/高崎に記念館がある/

希望社の後継団体「こころの家」はすでに解散。「磯崎氏」が関係者。/

多摩川霊園で後藤の墓前祭をやっている。息子さんは参加したことがある

 ・木呂子先生の吹き込んだテープが40本?以上ある

 ・遺稿集の「門間清四郎」という名前は寄宿先

 フゴッペに関しては、北斗から見て、敵役のように思われているが、身内としては西田彰三の名誉回復もはかりたく、調査しているそうです。

 ・西田彰三について

西田彰三は宮部金吾の助手であった/

素人というわけではなく、むしろ博物学者のようであった/

河野本道の研究会に参加していた/

小樽高商で、商業の実習として石けんの製造からマーケティング?までを

実際におこなっていた。

    伊藤整の「若き詩人の肖像」に、伊藤整が西田彰三のところに石けんを

買いに行く場面がでてくる。

 NHKのラジオドラマについては、木呂子先生のNHKへの働きかけによって実現したものだそうです。私が、息子さんにシナリオのコピーをお渡しすると、仏前に供えます、と言って喜んでいらっしゃいました。

 その他、いろいろあったのですが、やはり印象的だったのは、「西田は決して悪者ではないのだ」ということ。そうですよね。西田の立場に立ってみることも大事なんだなあ、と思いました。

 その他、思い出すことがあれば、また書きます。

2005年6月27日 (月)

西田彰三について  

6月27日(月)16時23分31秒

 西田彰三の著作権継承者をご存じないか、小樽商大に問い合わせましたところ、すぐに教えてくださいました。

 小樽商大の担当者の方、ありがとうございます。なんていい大学なんでしょう!


 小樽商大の総務課の方に教えて頂いた情報によりますと、

《高商では「商品学」という分野を担当され

 大正7年2月25日講師で採用→

 大正9年10月6日教授に昇任→

 昭和18年6月14日退官→

 昭和18年6月30日非常勤講師就任、

 昭和24年1月4日死亡と記録されております。(緑丘50年史より)》

 (ということは、没後すでに56年ほど経っていますので、西田彰三のフゴッペ論文は掲載可能だということです)。


6月27日(月)23時12分12秒

 ということは、やはり西田先生は「高商」の「商品学」先生であって、民族学とか考古学といった学問に対しては、すくなくとも専門外だったわけですよね。

 あの「日文(ひふみ)」とか「蒙古トルコ文字」なんていう、トンデモぶりには納得できます。まあ、現代から見るからこそ、トンデモだとわかるわけなんでしょうが。

 それに比べたら、北斗の説は、なんて地に足の着いた、冷静な意見なんでしょう。すごく現実的な、「理知的」な意見だと思います。

2005年5月25日 (水)

フゴッペ論争について  

5月25日(水)00時57分42秒

 小樽新聞における違星北斗と西田彰三の「フゴッペ論争」の全てを、テキスト化しようと思います。

 《フゴッペ論争》

 1、 昭和2年11月14日 フゴッペ発見記事

 2、 11月15日~11月20日

    西田彰三「フゴッペの古代文字並にマスクについて」(全6回)

 3、 12月3(?)日~12月7日

    西田彰三「再びフゴッペ 古代文字と石偶について」(全5回)

   (第1回欠、道立図書館のマイクロフィルムにありませんでした)

 4、 12月19日、25日、30日、昭和3年1月5日、1月8日、10日

    違星北斗「疑ふべきフゴッペの遺跡 問題の古代文字 アイヌの土俗的傍証」     (全6回)

    

 5、 7月25~28,31日,8月2、4~7日

    西田彰三「畚部古代文字と砦址並に環状石籬」(全10回)

2004年10月15日 (金)

西崎氏? 西崎さん?

ゼンリンの「住宅地図」をネットで購入しました。
なんと一万円弱。しかし、研究のためと「えーい」とばかりに購入。
届いて、包装を解いて、一瞬。
ほんとうに一瞬で早速一つの謎が解けました。

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