違星北斗が発掘した銅鏡
余市町のホームページに 「余市町でおこったこんな話「その169 違星北斗(いぼしほくと)」」 が掲載されています。 北斗が大川遺跡で掘り出したという銅鏡が掲載されています。 https://www.town.yoichi.hokkaido.jp/machi/yoichistory/2018/sono169.html |
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余市町のホームページに 「余市町でおこったこんな話「その169 違星北斗(いぼしほくと)」」 が掲載されています。 北斗が大川遺跡で掘り出したという銅鏡が掲載されています。 https://www.town.yoichi.hokkaido.jp/machi/yoichistory/2018/sono169.html |
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新短歌時代 第3巻第3号 昭和4年3月1日発行
『違星北斗君を悼む』 村上如月
握飯腰にぶらさげ出る朝のコタンの空でなく鳶の声
同族への悲壮な叫びも報ひられぬのみか、異端者として白眼視された時、焰と燃えた情熱は、何時しかあきらめを透して呪詛と変じて了はねばならなかつた。真剣に戦を戦うた君に、カムイ(神)は無上安楽の境地を、死に依つて与へたと謂ふことは、ハムベやハポに優る哀しみを、万に余る君の同族に均しく強く与へた結果となつた。歎かずにはをられない。
一月廿六日―それは群星もあの天空にそのまゝ凍てついたかと思はれる程寒さの強い夕、私は、なにも知らずに、懐しい詩友の温容を瞳に拾うて、札幌の旅から帰つたのであつたが、君の霊魂は、この時すでに、コタンのつちを離れて、九品の浄域いや西方の九天にと昇るべく、ひたすらの旅立ちをしてゐた事であつたらう。
病めば心は萎へるといへば、或は臨終の前には、神に凡てを委ねきつた君の姿であつたかも知らぬが、少くも私には、魂の奥底に石の如うにひそむ情熱がつゝむ「無念」の相の君ではなかつたかと想はれてならない。
だうもうなつら魂をよそにして、弱いさびしいアイヌの心
君の死を知つては俳壇の耆宿もない。私は早速にも短冊掛に、これを入換へねば済まなかつた。湧然として、君の姿が声が、私の書斎に現れれた。
それだから私は今、君に喚びかける。
人が称ぶ「凡平庵」に、君と初めて会うたのは、君も忘れはしまい、昭和二年も暮の十二月二日であつた。見ぬ恋が達せられたいつた形の私の前に、容赦もなく放げ与へられたのは、君のシヤモ(和人)に対する満々たる不平の怒号であつか。飽く迄濃い君の眉毛、朱を帯びた君の頬。
アイヌッとただひと言が何よりの侮蔑となりて憤怒に燃江る
そのかみ、徳冨芦花を殺めんとしたと謂ふ情熱はこれであつたか。然し昨年の春寒い三月十三日―君が雪にまみれた姿を、日高胆振の旅の帰りと謂うて、私の高原の家に現はした時、情熱はいや冴えに冴えたといふ想ひはしたが、唯シヤモに対しての空しい闘争のみではなく、同族の為に、国史の為に、アイヌ民族文化の跡を、アイヌの手に依つの研鑽したいと謂ふ、涙ぐましい態度を示したものであつた。かの西田教授との学理的抗争も、恒に考証に悩みつゝ、一歩も後へは退かじとした君の意気には、学徒ならざるが故のみではなく何かしら叱咤激励を続ければならない原因がある如うな、重苦しい想ひさへしたものである。
メノコ可愛やシベチヤリ河で、誰に見せヨと髪をすく
日高の話に花が咲いた。曇天のシベチヤリ河の、朝に泛ぶ丸木舟も哀しければ、馬歌山の伝説は、更にいたましい。
日高名産栗毛の馬にメノコ乗せれば、あレ、月が出る。
殊にもウセナイの濱の秋風に、点在する草家の影。
ニシパ(主人)ゐねとてセカチ(若者)がしのぶ草家ホイ/\月ばかり。
こんな私の戯れを、君はどんなに嬉しがつたか。あゝ然し、私に懐かしかつた日高の旅も、君には、また白眼視する「日高アイヌ」の心情をにくむ心が絡はつて、つらく、哀しい日高の旅であるらしかつた。
虎の仔の如うに大事に持つて来た「高杯」に首飾玉の一つを加へて、君は欣んでコタンへ帰つて行つたが、間もなくの病臥を旅疲れとのみ信じた事は、如何にも哀しすぎる憶測ではあつた。
五月五日、浜風の寒い日、小樽から帰りをかねての約束に依つて、私は余市大川町の君を訪ねやうとしたのであつた。
訪ねる家は判らない。ハチヤコ(赤児)を背にしたバツコ(老婦)がきゝつけてわざ/゛\案内してくれたのだが、何故かしら、君の同族に親しみを得たいとする心には嬉しい記憶として残つてゐる。
君よ、この日の君の言葉、些か窶れた頬などを、聴納め見納めと思ふて、私は余市のあの茅ぶきの嬉しい林檎の枝々を、車窓に送つてゐたのではなかつたか。凡ては尽きぬ怨みである。
あはれ挽歌。
然し歌ひ得ぬ私である。詠はれぬ今の私である。
マキヤブといふひと言ゆゑに火と燃えた北斗星の血潮は セカチの血潮だ
×
雪よ降れ降つて夜となれあゝ一人こゝにも死れぬ男のまなざし
×
エカシらがコタンに泣く日セカチらが神に祈る日北斗が死んだ日
註。イキャップ(アイヌ語。最モ忌マレル侮辱ノ言葉) エカシ(同。老爺)
コタン((同。所又は村落)
在りし日の君の生活を写す追憶記、君の業績を讃へる追憶言が、君をめぐるアナバ(親戚)や、イカテオマングル(朋友)に依つて為されるであらう事を信じてゐる。故あつて一年有余樽新文芸欄と断つた私が、まずしくもさびしい、君の追悼記の片鱗をももして蘇生らうとする事は、多少のシヨツクを感じられぬものでもない。
ともあれ君よ。
君の霊位よ。
永くコタンの空に君臨せよ。
嗚呼、ラムコログル(葬儀に泣く人)も歎け。イコンヌグル(魔法使)も呪へ。
月なき今宵、ただリコブさつそうと北にとぶ。
―(完)―
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「歌壇戦線」
(略)
本道が産む唯一のアイヌ歌人違星北斗君、昨秋来の肺炎に虐まれあたら民族再興の覇気も空しく、痛ましくも青春と永別す。高商西田教授を向ふに廻して、樽新紙上に論陣を敷いた「フゴツペの研究」も半ばに夭折したことは、真に痛惜の限りである。村上如月、稲畑笑治両君の彼の死を悼む一文は、けだし彼の面目を写し得て余蘊あるまい。彼の遺稿は友人吉田伊勢両君の手に蒐められ、樽新又は本誌に順次採録することになつてゐる。吾等は二世違星北斗君の出現をまちたい。
(略)
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「編集後記」
(略)最後に同人日出彦氏の養母、かつての加盟者違星北斗氏、高松利雄氏の死去に対して、茲に心から哀悼の意を表して置く【凡平】
本当に、久しぶりの更新です。すみません。
「沖縄教育」1925(大正14)年6月号に掲載された伊波普猷の論文「目覚めつゝあるアイヌ種族」は、東京時代の違星北斗の姿を描いたものとして有名ですが、それと同じ号に、違星北斗による「ウタリ・クスの先覚者中里徳太郎氏を偲びて」という文章が掲載されていましたが、希少な雑誌のため、確認できていませんでした。
伊波普猷の論文の方は、その後伊波普猷全集に収録されたましたので、容易に目にすることができたのですが、北斗の文章は雑誌掲載後、どこにも転載されませんでしたので、幻の文章になっていました。
昨年4月、沖縄県の学芸員の方に「沖縄教育」の記事を見せていただくことができましたので、本文が確認できました。
だいぶ間があいてしまいましたが。
1925年2月に上京した北斗は、金田一京助との出会いをきっかけにいろんな学会に顔を出すようになり、この3月19日に金田一が開いた「東京アイヌ学会」に出席し、そこで演説することとなります。それを文章化したものが、この論文です。
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旅に出てアイヌ北斗の歌思ふ こヽがコタンかしみ/゛\と見る
この短歌はずっと並木凡平のものかと思っていましたが、小樽新聞の紙面をみたら、間違っていることに気づきました。
これは石狩の齋藤輝子の作品でした。
この歌の後ろに並木凡平の名前があったのですが、凡平はその次の短歌の作者でした。
修正しておきます。
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O先生から、吉田巌の書いたものの中に北斗のことが出ていたと教えて頂きました。
ありがとうございます。
早速、収蔵されている図書館を調べましたところ、大阪府立図書館にあるようなので、行ってきました。
(1)O先生が教えてくださった記事
帯広市社会教育叢書NO.2 『東北海道アイヌ古事風土記資料』
「日新随筆」の中の「古潭春秋〈上編〉成蹊録」より
東京日日新聞に、違星竹次郎君の記事が、金田一氏によつて報ぜられた。4月10日に亡くなって75日とやら、昨年福田義正氏がここに来て語つた話に、違星がアイヌ詩人として金田一氏の発表記事に憤慨している、遭って鉄拳を加えんといきまいていると聞かされたことが思い出されたが、彼も斃れてはだめだつたウタリーの死を悼む。(昭和4.4.16)
また、帯広叢書NO.34 『吉田巌男日記15』には
昭和4年4月の日記として、同じような記述がありました。
「十六日 前晴、后曇。
尋五、六に五時間ぶっとうし時間の計算をなす。放課后の掃除時間が計算できぬ。成績にかえり見て。
今日郵着の十四日付東京日日に、違星(注1)竹次郎アイヌの記事が、金田一氏によって報ぜられた。四月十日になくなって七十五日とやら、昨年福田義正君がこゝに来てとまった時の話に、違星がアイヌ詩人として、且金田一氏の発表記事に憤慨しているとあって、鉄拳を加へん、といっているときかされたことを思ひ出したが、彼もたふれてはだめだった。
注(1)滝次郎が正しい、歌人で北斗と称していた」
おそらく、こちらが原文でしょう。
推測するに、昭和4年4月14日の東京日日新聞の記事(記事本文)を見た吉田巌は、前年に吉田の元を訪れた福田義正(大男涙を落す記、さらば小樽よ小樽の人々よ)から、北斗のことを聞いたが、それは金田一が発表した記事に対して、北斗が憤慨しており、「鉄拳を加えん」といっている、というようなものであった、ということでしょうか。
北斗が師ともいうべき金田一京助に対して「鉄拳を加えん」とは穏やかではありませんし、そういうキャラでもないような気がしますが、あるいはこういう側面も北斗中にあったのかもしれませんし、そういわれてしまう側面が金田一にもあったのかもしれません。
たしかに、翻って考えてみれば、我々のような生身の人間なら誰しも、大恩ある師のことであっても、多大な敬意を払いつつも、その師について尊敬する側面とは別のこと、側面の陰口や悪口をいうこともあるでしょう。あるいは、誰かから金田一について、なにかを吹き込まれて印象が悪くなっていたという可能性もあるでしょう。(北斗に近い人物で金田一のことをよく思っていない人物といえば、限られてくると思いますが)。
ともかく、吉田巌は、福田義正から聞いたのでしょう、北斗は金田一の発表した記事を読んで、怒りにふるえ、拳を握ったと。
では、北斗をしてここまで怒らせた記事とは何か。
昭和3年に載った、金田一が北斗について書いた記事といえば、おそらくこれでしょう。
この中では、北斗のことは実名では出てきません。
いわゆる、北斗の「思想上の一大転機」が描かれた文の一つでもあります。
他にも、北斗自身が「淋しい元気」で同じシーンを書き、伊波普猷もまた「目覚めつつあるアイヌ種族」で、同じシーンを描いています。
小学校の頃から、和人の子供たちにイジメられ、働き出しては、和人との差別的待遇に怒り、和人への敵愾心に燃えていた北斗が、ある時、会合に出た時に、校長先生から「我々はアイヌとは云ひたくはない言葉ではあるが或る場合はアイヌと云った方が大そう便利な場合がある。又云はねばならぬ事もある。その際アイヌと云った方がよいかそれとも土人と云った方が君達にやさしくひゞくか」と言われ、愕然とします。和人にも、このよに優しい気遣いをしてくれる人がいることに驚き、そして感動するのです。そして、世をのろい、人を恨み続けてきた自分の愚かさに気づいて、家に帰ってさめざめと泣いた、それ以来、思想を一転し、よい人間になるために努力をするようになった、というのが北斗の、そして伊波普猷の記述の概要です。
しかしながら、この「慰めなき悲み」には、金田一得意の脚色(あるいは潤色)が入っています。校長の言葉を聞いて、北斗は演台に立ち、涙を流しながら大演説をぶつのです。相当にドラマチックに改竄されています。
あくまでも推測でしかありませんが、これを読んで、北斗は「事実と違う!」と拳を握ったのではないでしょうか。
金田一京助は北斗のことを相当に気にかけて、また美化していたような雰囲気があります。
京助の息子の春彦の記述には、北斗が酒を飲んでお金を無心するので、金田一の妻が北斗のことを毛嫌いしていたという記述もあります。にわかには信じがたいことですし、金田一京助も完全否定しており、私もあまり信じてはいませんが、実際にはそれが間違っているのかどうかすら、今となってはわからないことだと思います。
北斗も人間である以上、心の中にダークサイドを持っていたことでしょう。欲望に負けたり、怠惰な生活に溺れることもあるでしょう。
だとしたら、金田一のことを悪く言うこともあるかもしれませんし、怒りにうちふるえて拳を握ることもあるでしょう。北斗は聖人でも君子でもないのですから。
あるいは、北斗は自分のことを書かれたからではなく、他の記事(たとえば知里幸恵についての記事や、アイヌ全般についての記事)を読んで怒ったのかもしれません。特に、知里幸恵については、東京から戻ってきて、道内を巡り歩いたこのころの北斗は、知里真志保と親しくつきあっていたので、金田一について思うところが変わってきていたのかもしれません。
そのあたりは、もうすこし調べる必要があるかと思います。
違星北斗の父・甚作は1862(文久2)年12月15日余市郡川村(現大川町)生。アイヌ名はセネックル。中里徳太郎の父である徳三の弟で、男児のなかった違星万次郎の養子になる。養父万次郎とは年齢が10歳しか離れていない。
妻ハルとの間に男6人、女2人の子供を得たが、その多くが成人せずに亡くなっている。北斗は甚作40歳の時の子である。
甚作は漁業が生業だったが、若い頃は熊取りの名人だった、という。
大正13年6月、北斗は句誌『にいはり』の句会で「熊の話」の講演をした。北斗は「私の父は鰊をとったり、熊をとったりして居ります」といい、「余市に於ける熊とりの名人」(同)でもあったとも言うとおり、生業は漁業であったが、熊猟も副業として行っていたようである。
この時の講演で語られた「熊取り」が行われた時代は明治末期であった。この「熊取り」でさえ、「こんな時代になると、熊取りなんどといふ痛快なことも段々出来なくなる」(「熊の話」)という理由から、「若い人達に熊取りの実際を見せるために」(「同」)行ったものであった。
甚作はこの熊取りで、熊と素手の取っ組み合いをして大怪我を負うのであるが、その後も懲りずに各地の熊狩りにも出かけているが、すでに普通のアイヌが日常的に熊取りが出来るような時代ではなかった。
若い頃には甚作は「樺太に長く熊捕り生活をし」(「疑ふべきフゴッペの遺跡」)ていたという。明治の中頃までは、少なくとも樺太においては熊狩りで生活出来たということだろうが、北斗が物心ついた頃は甚作は熊の狩猟で生計を立てていたわけではなく、生業はあくまでも漁業であり、北斗も尋常小学校を出て父の漁業を手伝っている。
北斗は「熊の話」で、アイヌの熊に対する考え方を語っている。
アイヌの宗教は多神教であります。一つの木、一つの草、それが皆んな神様であります。そこには絶対平等―――無差別で、階級といったものがありません。(中略)熊をとるといふことは、アイヌ族に非常によろこばれます。熊は人間にとられ、人間に祭られてこそ真の神様になることが出来るのであります。従って、熊をとるといふことが、大変功徳になるのであります。さういふわけでありますから、アイヌは熊をそんなに恐れません。
東京に学び、開拓使の役人になったという祖父万次郎と違い、父甚作は極めて「アイヌらしい」アイヌ、アイヌの伝統を大事にするアイヌであったのだろう。勇敢で、信仰に厚く、人情に厚い「古き良き」アイヌの面影を残していた。
アイヌ文化の象徴とも言える熊取りの名人を父に持つ北斗が、父の語る勇壮な世界、おおらかなアイヌの世界観に影響を受けなかったはずがない。
私の父は熊と闘った為めに、全身に傷跡が一ぱいある。熊とりが家業だったのだ。弓もある、槍もある、タシロ(刄)もある。又鉄砲もある。まだある、熊の頭骨がヌサ(神様を祭る幣帛を立てる場所)にイナホ(木幣)と共に朽ちてゐる。それはもはや昔しをかたる記念なんだ。熊がゐなくなったから……。『人跡未踏の地なし』と迄に開拓されたので安住地と食物とに窮した熊は二三の深山幽邃」の地を名残に残したきり殆ど獲り尽くされたのである。(「熊と熊取の話」)
しかし、アイヌらしいアイヌ、父甚作の活動する世界はすでにこのアイヌモシリ・北海道にはなく、ただ甚作の身体の傷と、熊取りの道具と、熊の頭骨を飾った幣場とが、ただ「昔しをかたる記念」としてのみ、朽ちるにまかされているのであった。
北斗の家には、このような熊と闘った「記念」が残っており、北斗はそれを見ながら育ったのである。これらの記念は、北斗が大人になった大正末期にも残してあったようで、後に東京時代世話になる社会思想家の西川光二郎が余市を訪問した折り(大正13年8月19日)には、これらの宝物を見せている。(『自働道話』大正13年10月号)
北斗は父親から、アイヌであることの誇りを確かに受け取っているに違いない。
北斗の数少ない散文の原稿の中にあって、熊取りに関する作品が2編あり、そのうち「熊の話」は父親と熊とのとっくみあいの格闘の話、「熊と熊取りの話」は、余市の伝説の熊取り、鬼熊与兵衛の話である。また短歌(俳句)の中にも熊のことを詠ったものが十首(二句)ほどあるが、これも250首に満たない彼の句作からすれば、多いと云えるかも知れない。
北斗は昔のアイヌの勇敢さに憧れ、当時のアイヌの弱さを嘆いていた。その強さ、勇敢さを象徴するものこそが、「熊」であり、それと戦う古い時代のアイヌの姿であったのではないかと思う。後の「吾はただアイヌであると自覚して」という北斗の確固たるアイヌとしてのアイデンティティは、あるいは熊と素手で闘うほど勇敢な、アイヌらしいアイヌであった父甚作の影響が大きいのではないだろうか。
そういえば、彼の号の「北斗」とは、北の大地、北海道で一人斗う、という意味にも取れるし、人々に進むべき方角を教える指標であるともとれる。「違星」という珍しい、象徴的で美しい名であると思うが、その由来となった北斗七星は、西洋では「大熊座」として認識されることも多い。そしてこの北斗七星は、西洋だけでなく、アイヌの伝説においても、熊と関係が深いのは注目してもよいかもしれない。
ジョン・バチラーによると、「北極星は「Chinu-Kara-Guru(チヌ・カラ・グル)」と呼ばれ、「先覚者」、「保護者」を意味しています。しかし、その名前は、大熊座の意味にも使われるのです。熊祭りのときに、儀式の中で殺された後、直ちに子熊に与えられるのが「Chinukara Kamui(チヌカラ・カムイ)」(神なる守護者)という名前であることは、とても興味深いことであります。」(『ジョン・バチラー遺稿 わが人生の軌跡』)という。
北斗七星、大熊座、先覚者、保護者。おそらく、北斗はこのような符号をある程度知って、そして「北斗」という号を付けたのだろう。この名前が、熊をカムイとして敬い、またその熊と格闘するアイヌの考え方をも象徴していると考えるべきではないかとおもう。(北斗の号は奈良直弥がつけたとする文書もあるが、だとしても北斗はこの号に特別の愛着を持っていたことは明らかである)。
昭和三年の一月に発表された「熊と熊取の話」の「私の父は熊と闘かった為めに、全身に傷跡が一ぱいある」という文章があるから、それが書かれた時点では甚作は生きていた。
「自働道話」昭和二年八月号に掲載された、西川光二郎への手紙にも父親について書いてある。ここでは北斗の父に対する思いがわかる。
「私が一番苦しめられたことは、親不孝だったことです。私を案じてゐる父の身を考えた時金にもならないことをしてゐる自分」と民族復興の使命に動かされながらも、その活動のために親孝行が出来なかったことを嘆いている。
北斗は、父の生きた時代、アイヌがアイヌらしく生きられた最後の時代に憧憬を持っていた。そして同時に祖父が幼き日に学んだ「モシノシキ」和人の都・東京にも強いあこがれを抱いていた。アイヌと和人、その相対する二つの文化への憧れと尊敬がその後の違星北斗の生涯を決定づけたといってもそれほど間違いではないと思う。
没年は、享年82歳というから、おそらく昭和18年頃であろうと思われる。
違星万次郎(いぼし・まんじろう)
嘉永5(1852)年、余市郡川村番外地に生まれる。アイヌ名(幼名?)ヤリヘ。
伊古武礼喜(イコンリキ)の子として、後志国余市郡川村番外地(のちの大川町)に生まれる。イソヲクの娘ていと結婚、イソヲクの婿養子となる。
明治6年、万次郎は「違星」の姓を名乗る。これはアイヌとしては最も早い方であった。
その頃に至ってからシャモ(和人)並に名字も必要となって来た。明治六年十月に苗字を許されたアイヌが万次郎外12名あった。(中略)万次郎はイソツクイカシへ養子になったのではあるが、実父伊古武礼喜の祖先伝来のエカシシロシが
であった。これにチガイに星、『違星』と宛て字を入れて現在のイボシと読み慣らされてしまったのがそも/\違星家である。(「我が家名」)
エカシシロシ(エカシは翁、シロシは印)とは、和人における家紋のようなもので、代々男子に伝わってゆくものである。女子にはフチシロシ(フチは媼)があり、それらを辿ることにより男系だけでなく女系も辿ることが出来る。この文章によると「違星」はもともとは「チガイボシ」と読ませるつもりだったのだろうが、読みならされ「イボシ」と読まれるようになった。
私の祖父万次郎は四年前に死亡したが、今より55年前にモシノシキへ行ったのである。今こそ東京と云ふが、アイヌはモシノシキといってゐた。(モシリは国、ノシキは真ン中)。まだ其の頃の事であるから教育も行き渡ってゐない。アイヌの最初の留学生の18名の1人であった。今だったら文化教育とか何々講習生といふものでせう。芝の増上寺清光院とかに居た。祖父は開拓使局の雇員でもあったらしい。ほろよひ機嫌の自慢に「俺は役人であった」と孫共を集めて、モシノシキの思出にふけって語ったものだった。(「我が家名」)
これは1872(明治5)年、北海道開拓使の黒田清隆が東京の芝・増上寺境内に開拓使仮学校(北海道大学の前身)ととともに開設された土人教育所に、アイヌが留学させられたことをさす。その後もアイヌが連れてこられ、最終的には100人を超えたという。選抜されたのは比較的「日本化」されていた石狩、札幌、小樽、余市など日本語の話せるアイヌであった。しかし、一年足らずの間に行方不明、病気、帰郷などで残ったのはわずか5名となり、計画は失敗に終わった。
その実態や評価がどうあれ、実際に留学をした若き日の万次郎は、その東京の思い出を自慢にしていたようだ。そのまま開拓使の雇員になった万次郎は他の同族より一足先に苗字を名乗ることを許された。
だが、その後の万次郎の生涯は順風満帆なものであったかどうかはわからない。教育によってアイヌからエリートを輩出し、和人と同化させて皇国の臣民とする明治新政府の計画は頓挫した。
結局、どの違星万次郎は普通のアイヌとして貧困と差別の中に生きた。それでも若い頃に学んだ文明開化の帝都の思い出話と、開拓使の役人であったということを誇りとして。
万次郎の没年は、先の「私の祖父万次郎は四年前に死亡したが、今より55年前にモシノシキへ行った」という昭和2年の記述から逆算すると、大正12年~13年ごろのことと考えられる。72~3歳ぐらいだろう。
北斗はおそらくおじいちゃん子であったのだと思う。北斗の小学校時代の通知表が残っているが、そこには保護者として、父甚作ではなく、なぜか祖父万次郎の名前がある。
ほろ酔いの祖父の語るモシノシキ/東京の思い出が、幼い北斗の心に響かなかったわけはないだろう。帝都・東京は北斗にとっても憧れの場所となっていたのではないかと思う。大正12年、北斗は、上京の計画を立てるが、関東大震災によって断念している。
違星北斗が実際に上京を果たすのは祖父万次郎の「留学」より約50年後の、大正14年のことである。
イソヲク/イソオク(伊曾於久)、イソツクイカシ
文化7(1810)年生まれ。北斗の祖父・万次郎の養父にあたる。万次郎はイコンリキの実子であったが、イソヲクの娘ていと結婚、イソヲクの家に入る。これがのちの違星家である。
イソツクイカシは、北斗の「我が家名」における表記だが、他の文書では「イソヲク」もしくは「イソオク」となっており、おそらくこちらが正しい。(イカシ=エカシ、翁の意)
察するに「小樽新聞」に初出の際、「ヲ」を「ツ」と読み違えた誤植を、希望社版『コタン』が受け継いだものだろう。
イソヲクの名は「林家文書」の「安政六年ヨイチ御場所蝦夷人名書 控」に見え、役職は「土産取」、年齢49歳、妻「かん」と、娘「てい」(万次郎の母、北斗の祖母)の名も見える。
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