◆時代・風俗

2008年5月 8日 (木)

希望社の雑誌

北斗が生きていた時代の希望社の雑誌がごっそり売りに出ていたので、意を決して購入。

全部93冊だけど、一冊あたりだと100円ちょっと。

①「のぞみ」 希望社

 大正12年 1~11月/大正13年1月、3~12月/大正15年2~7月、9月、11月

 昭和2年1月、5~8月/昭和3年1~12月/昭和4年1~7月、9月、11月

②「希望」 希望社 

 大正11年6~7月/大正12年6~11月/大正13年1~5月  

 大正14年1~4月、8~12月/大正15年2~11月/昭和2年4~5月、7月、9~10月

 昭和3年1~7月

 以前、同じく希望社の「大道」に北斗の追悼記事があったので、期待に胸を躍らせながらとりかかりました。

 数日かけて、ひととおり精読しましたが、北斗に関することは全くでていませんでした。

 非常に、残念です。

 「のぞみ」、「希望」とも修養雑誌ですが、それぞれのターゲットが「のぞみ」は一般読者、「希望」は教育者向けということのようです。

 執筆はほとんど後藤静香一人によるものらしく、格言や古今東西の偉人伝、寓話などが主です。カリスマ的な後藤静香の一人語りです。

 希望社の雑誌には、同じく北斗が愛読していた、西川光二郎・文子夫妻の「自働道話」「子供の道話」のように、読者からのお便りを掲載するといった「双方向性」がほとんどみられません。

 そういうこともあってでしょうが、北斗の痕跡は、今回読んだ「希望」「のぞみ」にはまったく残っていませんでした。北斗は後藤静香とは面識があり、アイヌのことでいろいろ意見交換をしたりしていたようですが、雑誌上においては、北斗は百万読者の一人でしかなかったようです。

(ただ、「大道」が北斗の追悼文を掲載した昭和5年のあたりには、同様の何かがあるかもしれませんし、今回チェックしていないところに掲載されている可能性はないとはいえませんが)。

 同じ修養雑誌でも、「読者参加型」でアットホームな雑誌であった西川光二郎の「自働道話」等と、カリスマ後藤静香のお言葉、いわば「お筆先」を記した希望社の「希望」「のぞみ」等とは、当然ながら棲み分けがあったと思います。

 ただ、共通しているのは、時系列で読んでいくにしたがって、徐々に右傾化していく時代の匂いや勢いが、誌面からもよくわかることでしょうか。

 時代の空気が、そうだった以上、その空気を吸っている北斗をはじめとする善男善女、無辜の人々もまた、その影響を受けざるを得ないのだと思います。

 北斗の右傾化したようにみえる言動について、現代の匂いや色のついた空気の中から、あれやこれや非難するのは簡単ですが、それでは本当の北斗のこと、彼の言葉の意味は何もわからないでしょう。

 北斗が吸っていた空気の色や匂いを知らなくてはいけない。完全とはいえないけれども、その空気を出来る限り知ったつもりになった上で、北斗の言動を見なければならない。

 そんな気がします。

 機会があれば、希望社の雑誌について、もっと読み込んで、何か書いてみたいとも思います。

2007年9月27日 (木)

「愛国心を考える」

検索に引っかかった本

「愛国心を考える」 (岩波ブックレット NO. 708)

 なぜ,いま愛国心か
  愛国心と九・一一/日の丸・君が代と愛国心教育

II 愛国心の起源
  愛情とイデオロギー/宗教,国家,愛国心/革命を起源とする愛国心/下からの愛国心が上からの愛国心に変わるとき

III 愛国心と近代国家
  愛情と忠誠心/愛国心,ナショナリズム,ジンゴイズム

IV 近代日本の愛国心
  上からの愛国心/国民精神総動員運動/愛国心と帝国/戦後の愛国心論争

V 行動で示される愛国心
  愛国心という化け物/田中正造/違星北斗/小林トミ/ヴァレリー・カウア/国境を超える愛国心

VI グローバリゼーションの時代の愛国心
  愛国心と安全/愛国心と恥の感覚/愛国心,ネーション,個人/愛国心と教育/愛国心と平和

http://www.iwanami.co.jp/hensyu/booklet/

早速注文。
テッサ・モーリス・鈴木さんは「辺境から眺める」で違星北斗について軽くふれられています。
今回は、北斗について、もう少しつっこんでいただけるとよいなあ思います。

管理人  ++.. 2007/09/28(金) 00:22 [339]

2007年6月 1日 (金)

修養とは何か

石原千秋「百年前の私たち 雑書から見る男と女」
(講談社現代新書)より

(前略)一冊のごく一般的な修養書を少し丁寧に見ておこう。青木日蔭・村田天籟共編『努力と修養』(中村書店、大正四年三月)である。詳しく紹介して面白い本でもないので尻取りみたいな書き方になるけれども、悪しからず。
 人は「社会の生活」をするために生まれてきたが、それができるような「完全の人」となるには、「人格」が備わっていなければならない。そういう「有用な人間」になるには「立志」がなければならなくて、立身出世をするためには修養を積まなければならない。修養とは「自分の心を修め、才知や道徳を養ひ成(たす)けるのを言ふ」。修養を以て事を為し遂げるには努力が大切で、努力とは「少しも間断(たえま)の無い、張り切つた心の働きを要する」ものである。ただし、それには「身体の健康」と「精神の弾力」とが必要である。
 以下に『努力と修養』が述べる修養に必要なものを列挙すると、「品位」「独立心」「理想」「良心」「克己心」「我欲を去る事」「節倹主義」「常識」「不屈の精神」「高尚なる心性」「時間に対する経済」「公徳心」「勇気の養成」「事務と整理」「注意」「空想の排斥」「雑念を去るべき事」「秩序を正す事」「正直を主とする事」「機敏といふ事」「虚栄心の害毒」「孝の誉れ」「忠孝の大義」「武道の名誉」「孝道の鑑」「義理の苦心」「忠義の討死」「修養詩歌」。ああ疲れた、これで「完全なる人間」になれそうだ。

管理人  ++.. 2007/06/01(金) 23:33 [322]


 修養とは何か。
 違星北斗が傾倒していた後藤静香や西川光次郎が唱えていた「修養」は、しかしなにも彼らだけの専売特許ではなく、時代の風潮だったように思います。
 日本全国津々浦々の村々の青年団では講習会や夜学校が開かれてこのような「修養」が説かれていたわけです。
 「完全なる人間」「よき人間」、もっといえば「よき日本人」として、いかにして「社会」(=「お国」)のためにお役に立てる人間になり、「立身出世」して「親孝行」をする。
 このような模範的青年像に近づくことが、当時のまじめな青年たちの目標だったのです。そのベクトルのすぐ先にはうっすらと「軍国主義」の姿が見えそうになっているのですが、北斗の時代には、その先十年後に起こることはまだ見えていなかったのかもしれません。

 まじめな北斗も「よい人間になりたい」との思いから、このような修養を志し、同時代の「正義」であるこのような考え方に従って行動してゆきます。

 北斗は十代の後半から東京を後にする二十代半ばまでは、このような理想に燃えています。
 しかし、北海道に帰ってからの北斗の中には、この理想に対しての迷い、活動との矛盾も出てきているように感じます。

 北斗は、和人の教育者たちから得た「修養」というもののフォーマットを、そのままアイヌ民族の地位向上のために使いました。

 確かに、国家が主導して、扱いやすい人間をつくっていくための教育だったのかもしれませんが、その時代の中にあっては、それは致し方がないことであると思います。
 また作品の中で北斗が妙に国家主義的な発言を例にとって、和人の価値観を最後まで払拭できなかった云々という意見がありますが、それもまた、少し違う気がします。
 若い頃の北斗の意見にはかなりの振れ幅があり、タイミングによって、その思想は変化しています。
 今はまだ、彼の生涯にわたる思想の変遷を総括できるほど、その資料が見つかっていないというところだと思います。

 

管理人  ++.. 2007/06/02(土) 00:11 [323]

2006年4月17日 (月)

「放浪の歌人・違星北斗」より


 武井静夫「放浪の歌人・違星北斗」より、オヤッと思ったところを抜き出してみます。
 この作品は、基本的には小説風の評伝といった感じですが、わりと精確なデータに基づいているような気がしますので、資料的にも価値があると思います。
 しかし、残念ながら掲載紙が不明で、入手したものは第二回までしかありません。
 北斗の誕生前より、小学校時代までしかありません。

 北斗違星滝次郎がいつ生れたかは、定かではない。明治三十四年の、多分暮れもおしせまってからのことであったろう。

 また、滝次郎と同じ頃、中里徳太郎の子供も生まれたとあります。

 万次郎は、この孫に滝次郎という名をつけることにし、生れた月を明治三十五年一月一日とした。徳太郎もそれに合わせて、子供の生れた日を一月一日にすることにした。名前は元三とした。

 また、北斗の兄弟姉妹についても、除籍簿をもとに詳しく書いてあります。

 万次郎は、伊古武礼喜の子供として、嘉永五年(一八五二)九月十一日に、後志国余市郡川村番外地に生れている。伊古武礼喜は、イコンリキに当てた漢字名である。川村は余市町大字大川町と改称される。妻のテイは、同じ川村の伊曽於久(イソオク)の娘で、嘉永六年九月六日に生れている。万次郎より一つ年下である。二人の間に、長女テル(明治一九・一一・六生)と、二女のキワ(同二九・一二・一四生)とが生れている。
この籍に養男として、甚作が入る。文久二年(一八六二)十二月十五日に生れているから、十歳しか年が違っていない。
この甚作が、やはり同じ川村から、妻のハル(明治四・九生)を迎え、明治二十五年一月八目に、長男の梅太郎を生んだ。翌二十六年二月五日、二男が生れているが、三月九日に死去、ついで二十七年五月十目に、長女ヨネが生れている。二女ハナは、二十九年八月十六日に生れて、三十二年十一月二十三日に死亡する。この二十九年は、万次郎の二女キワの生れた年である。
滝次郎は、養子甚作三男として、明治三十五年一月一日に生れたことになっている。この日、中里徳太郎の家では、長男の元三が生れている。ついで甚作の家では、四男竹蔵(九日で死亡)、三女ツ子、五男松雄(四カ月で死亡)と生れる。六男竹雄とはふた子である。


 これによると、イコンリキの子である万次郎は、イソオク(違星家)の娘ていの「婿養子」になるようですね。
 北斗の父・甚作は婿養子ではなく、男児がなかったために中里家からもらった養子になります。
 一説には梅太郎はハルのつれ子で、甚作とは血のつながりはないという話があり、それが原因で梅太郎と北斗は仲がよくなかったという話を聞きましたが、確証はありません。
 いずれにせよ、戸籍上は『コタン』の八人兄弟は正しいようです。
 ただ、甚作とハルの間にはこの他にも養子がいたようではあります。

管理人  ++.. 2006/04/17(月) 00:33 [171]

 出生届けを出したのは、

ようやく一月九目になって、出生届を持ち役場に出かけた。

 とあり、届けたのが一月九日だということです。
 北斗と同じ一月一日生まれとして届けられた中里元三は、

 中里元三は、三月二十四日に、母のサワとともに、戸籍に入れられた。しかし、その翌月の四月十五日に死亡した。わずか数か月の生命であった。

 とあります。
 
 また、「違星」姓について、

 違星はイボシなのかエボシなのか、はっきりしていない。このいきさつからいうとイボシでいいはずであるし、滝次郎自身も「我が家名」で、イボシと読み慣わされるようになったといっている。しかし、本人はエボシと言っていたらしく、古田冬草は「違星北斗のこと」(昭和二八・三『よいち』)において、わざわざエボシとかなをふっている。

 これは、イボシでいいのでしょう。ただ、北斗自身の発音がよくなかったのだと思います。
 この古田の記事は、探してみたいと思います。
 『よいち』(昭和二十八年)は道立図書館にあるようですので、また調べてみます。

 

管理人  ++.. 2006/04/17(月) 01:03 [172]


 この「放浪の歌人・違星北斗」は、だいたい次のような内容になっています。

第1回
●北斗誕生前夜。祖父違星万次郎と、若き中里徳太郎。徳太郎の結婚。
●徳太郎の父・徳蔵の死(和人によるリンチ:金田一の「あいぬの話」より)、その後、徳太郎の小学校入りに万次郎が尽力したというエピソード。
●違星甚作・ハルの子として滝次郎誕生。同じ頃、中里元三誕生。ともに1月1日生まれとして戸籍にいれる。
●違星甚作とハルの子どもの誕生と死を除籍簿より紹介。
●徳太郎の子、元三の死。

第2回
●万次郎の回想。余市場所の歴史。
●万次郎の少年時代、東京留学。
●違星家の家名とエカシシロシ
●滝次郎の幼少期
●滝次郎の小学校時代
●奈良直弥先生
●滝次郎の小学校時代の成績と病気、母の死

 と、まあこんな感じです。

管理人  ++.. 2006/04/19(水) 23:00 [173]

明治四十一年四月一日、滝次郎は、余市大川尋常高等小学校に入学した。
前日、新しく洗いなおしてもらった着物に着かえると、胸がわくわくした。わらぐつも新しくなっていた。教科書はふろしきにつつんで、背中にしょった。
学校へは万次郎が連れていった。父の甚作は出稼ぎが多いせいもあって、公的な会合には、いつも万次郎が出た。保護者にも万次郎がなった。万次郎は弁もたったし、読み書きにも通じていた。
担任の先生は、奈良直弥といった。小柄でやさしそうな人だった。滝次郎は、毎日の学校が楽しかった。勉強もよくわかったし、先生もたえずはげましてくれた。


 このあたりは、どこまで信用していいもんかわかりませんね。
 例えば、公的な会合にはいつも万次郎が出たのか? 奈良先生は小柄だったのか? これを書いた武井氏はどこまで調べて書いたのかわかりませんので……。

  

管理人  ++.. 2006/04/19(水) 23:12 [174]

たとえば、次のようなエピソードも同様です。

クラスの中にも、意地悪な子がいた。体操の時間、徒競走の練習でころんでビリになると、おどり上って、「アイヌ!アイヌ!」と手拍子ではやした。それに五、六人が和した。
その騒ぎを聞きつけて、とんできた奈良先生は、いきなりその子をひきずり出して、なぐった。ふだんはおとなしい先生のはげしい怒りに、生徒はとまどってぼんやりしていた。
「友達の不幸を笑うやつがあるか」
先生はそう言っただけで、アイヌとも、滝次郎とも言わなかった。その目には涙がうかんでいた。
その子は、滝次郎のところへ寄ってくると
「許せな」
と、きまり悪げに言った。滝次郎は、そんな先生のはからいが気にいった。


 まったくのフィクションなのか、それともある程度事実を反映しているのか。

管理人  ++.. 2006/04/19(水) 23:20 [176] 

滝次郎の成績に関する記述です。

一年生のときの欠席は、二日しかない。成績も、算術と操行とが乙だけで、あとの科目はすべて甲である。
万次郎は、この成績をことのほか喜んだ。和人に負けなかったからではない。はるかにとび抜けた成績をとったこの孫の能力が、同族の未来をどうかえてくれるかに、期待したからである。
二年生になると、大病を病んだ。医者にかかるにも、金がなかった。病気欠席は、ついに五十七日におよぶ。それにもかかわらず、成績の中で下っているのは、体操の乙だけ、操行は甲に上って、甲の科目は五つにたっている。
注目すべきは、操行の甲である。品行方正で利はつな少年の面影を、そこにかいまみることができるのである。(中略)
四年生からは、事故による欠席が目立ちはじめる。事故とは、理由のわからない欠席ということである。この年十七日を数えた欠席は、五年生になって、なんと四十一白にも達している。成績はすべてが乙、これがあの滝次郎であったかと、疑いたくなるほどの変りようである。
この年、もう一つの悲しいできごとが重なる。母ハルの死である。
大正元年十一月十一目、ハルは四十一歳であっけなく死んだ。
(中略)
六年生になると、この事故による欠席は、二十三日にへる。この年、算数が甲に上っている。すくなくなった欠席日数が二十三目である。それだけ休んで、算術が甲なのである。そのことが、滝次郎の小学校時代を象徴する。この成績と欠席との奥に、やりきれない無念の表情が、今もありありとうかんでくるような気がする。大正三年三月、滝次郎は、尋常科を卒業した。


 このように細かい数字や評価について書かれていますので、おそらく実際に北斗の成績を調査したのだと思います。
 もう一つ貴重な情報は、大正元年11月11日という、母ハルの亡くなった日が記されていることです。

管理人  ++.. 2006/04/20(木) 07:53 [177]

2006年4月11日 (火)

「湯本喜作『アイヌの歌人』について」古田謙二

 これは、北斗に俳句の手ほどきをし、北斗の遺稿の整理をしたといわれる、古田謙二が、昭和29年に発行された湯本喜作の著書『アイヌの歌人』について、正誤を記したもの。
 この湯本の『アイヌの歌人』は、バチラー八重子、森竹竹市とともに北斗を取り上げているのですが、いかにも素人の仕事といった感が強く、いろいろとつっこみどころも多い。しかしまた、北斗研究の嚆矢でもあるので、功罪相半ばといったところでしょうか。
 以下、古田の文章を引きながら、解説していきます。

「私と北斗」
私が余市の余市小学校に赴任したのは大正十一年のこと。その頃は北斗を知らなかった。受持の生徒の中にアイヌの児童がおり、それ等を通してアイヌの生活は知っており、また同情も持っていた。


 古田謙二は北斗が青年になってから出会ったわけですね。北斗よりちょっと年上なだけです。

 大正十三年一月、余市小学校の裁縫室を会場として、「青年合同宿泊講習会」というのが、北海道庁主催で開催された。道庁の役人、中等学校の先生等を講師として、いわゆる精神修養を行なうためである。
三日目の最後の日、その夜は講習の感想発表会である。約四十名位の青年が一堂に集まって感想発表となり、中々熱心であった。その終わり頃に壇にたったのが、違星瀧次郎という青年であった。


 大正13年。東京に出る前ですね。
 以下、その演説の内容です。

 「皆さん、私はアイヌの青年であります…」冒頭のこの一言が皆の注目をひいた。それから違星は大体次の様な話を、満場の注目をあびつつしたのである。「世の中でアイヌ人は蔑視されております。学校ではアイヌの児童をのけ者にします。世間ではアイヌ人を酷使します。すべてアイヌ人は人間並みに扱われておりません。憲法の下に日本人は平等であるべきに、これはどうした事でしょうか。
その原因の半分はアイヌ人自身にあると思います。アイヌの子供は学校で成績はよくありません。乱暴です。嫌われるのも致し方ありません。又、世間ではアイヌの人を酷使し、馬鹿にしますが、酒を飲んで酔いしれているアイヌ人を見ると、他人を責めることも出来かねます。たしかにアイヌ自身に蔑視される原因はあると思います。然し、和人の方々にもその原因はないでしょうか。学校にあがると、我々をアイヌ、アイヌと馬鹿にする。社会に出ると同じ仕事をし乍ら別扱いをして低賃金しかくれない。こうした境遇におき乍ら、アイヌ人が素直になれの、おとなしくしていろのと、いつでも無理であります。
一体アイヌ人は劣等民族ではありません。アーリヤン民族の一派だといわれておりますが、欧州のアーリアン民族の優秀なことは歴史がよくこれを証明しております。
アイヌが現在のような状態におかれているのは、実は人為的にそのようにしているのであって、結局は愛の欠乏がひきおこした悲劇であります。」
かくて和人の愛の心を呼び起こす絶叫をして約二十分程で壇を下りたが、満場粛然として声がなく壇を下りた時は、拍手がしばし止まらなかった。私はしっかりした青年がいるものだとの印象をうけ、この時から違星北斗に注目したのである
 私は、以前からアイヌ児童の家庭訪問はよくやった。しかし違星を知ってからは一層熱心にアイヌのためにつくしてやろうと思うようになった。



 これが、古田謙二がはじめて北斗を見た瞬間ですね。
 この「演説」を見ると、やはり北斗は演説が上手かったのでしょう。上京後に名だたる名士たちの前で、臆することなく演説できたのは、こういうことに馴れており、アイヌの美徳とされる、「雄弁さ」と「度胸」を持ち合わせていたからなんですね。

管理人  ++.. 2006/04/11(火) 04:52 [152]

 北斗は余市のアイヌの青年を集めて茶話笑楽会という会を作った。お茶を飲みながら、笑い楽しみ乍ら話をする会というので、その間にアイヌ青年の自覚をうながしてゆきたいというのが目的であった。そしてその会の顧問に私は推されたのである。
笑楽会は、中里篤太郎の家の二階で行なわれた。二階は四間位もあり、フスマを皆はずして広々とし、輪になって語り合った。真中にテーブルをおき、それで一人ずつ出てしゃべることもあった。


 「茶話笑会」は、遺稿の「コタン」では「茶話笑会」になっているんですが、それ以外の数種類の文書では「笑楽会」になっています。どっちなんでしょうね?
 「笑楽会」が行われた中里篤(徳)太郎の家は、大きかったんですね。2階建てで、その上2階だけでも4間もあったわけですね。
 あとに出てくる北斗の家も、何部屋もあるような、ちゃんとした家だった。
 以前入手した地図によると、この中里と違星の二軒の家だけが、余市コタンの入口に離れてあり、他のウタリの家よりも大きな家に描かれていました。
 
 昭和二年であったか三年であったか忘れてしまったが杜会主義者の朝鮮人朴烈と日本人の文子とが獄中で恋愛し、裁判で朴烈文子事件として騒がれたあの事だと思う…ある秋の笑楽会の風景がハッキリと眼前に浮かんでくるのである。その時は、秋が深かつたか、すでに冬になっていたか、とにかく樺太出稼の運中が皆帰っていて、樺太で虐待された話を盛んにしていた。
次から次へとアイヌ青年がテーブルをたたいて論じた。その時北斗は、「我々アイヌの中には優れた者はいないかもしれない。しかし、一人の朴烈文子も出していないのである。」とて、国に忠誠なる旨を述べて満場の拍手をよんだ。
中里篤治は、その時は青い顔をしてすでに肺を病んでいるのか元気がなかった。


 「朴烈写真事件」は大正15年年ですね。
 古田のいうようにこの出来事が昭和2,3年のものだとしたら、大正13年に発足した茶話笑楽会が、このころまで、ちゃんと活動していたということですね。
 昭和2年夏に発行の同人誌「コタン」に「同人が樺太に出稼ぎに行っていて留守」というような記述がありましたから、この風景は彼らが帰ってきた昭和2年の秋か冬のものかもしれませんね。
 それに、昭和3年の秋や冬では、北斗は闘病生活にはいって床に伏していいますから、やはり昭和2年以前でしょう。大正15(昭和元)年は、秋冬はまだ北斗の本拠地が日高の平取にありますし、やはり、これは昭和2年の出来事だと思います。
 この頃の北斗たちの思想は、大きく右に傾いていますね。「茶話誌」のキーワードが、「よき日本人に」でした。
 中里篤治は、北斗よりも先に結核にかかりますが、けっかとしては北斗よりわずかに長生きします。
 樺太で出稼ぎをしてきた友人「惣次郎君」との友情を歌った短歌がありましたが、あれもこの頃かもしれませんね。

管理人  ++.. 2006/04/11(火) 04:52 [153] 

 私は、昭和五年六月に留萌高等女学校教諭に転任したが、北斗の遺稿を集め希望杜にたのんで遺稿集を出版できるようにしてやったのは北斗を後世に伝える資料を残すことになり、よいことをしたと思う。

 古田がコタンの編集に手を貸したのは、留萌に移る直前ということですね。

 古田はKという北斗の甥(姉の子)の担任でした。Kは、母(北斗の姉)を亡くし、父もいなかったので、梅太郎に養われていたのですが、古田はKを可愛がり、また不憫に思って、Kを空知郡栗山町の実家の書籍文具店の小僧として紹介しています。
管理人  ++.. 2006/04/11(火) 05:15 [154] 

瀧次郎という名

北斗の姓名は違星瀧次郎といい、北斗は号である。然し、瀧次郎というのは、実は誤まってこうなったので
「竹次郎」というのが親のつけた本当の名前であった。
彼の長兄は「梅太郎」といい、それで彼が生まれた時、親は「松竹梅」から来たものか、「竹次郎」と名づけた。ただ役場にとどけ出る手続きが面倒なので、これを代書人に依頼したのだが、その時口頭で「タケジロウ」といったものらしい。その時の発音が代書人の耳には「タケジロウ」でなくて「タキジロウ」と聞こえたのである。そこで「ああよろしい」というわけだ。早速竹次郎が瀧次郎と変って届け出られてしまった。かくて、瀧次郎は終生の彼の名前となってしまったのである。
事実、彼の両親をはじめ、アイヌの仲間たちは、皆彼を北斗とも瀧次郎ともよばず「タケ」とよんでいた。私は何回となく「タケ タケ」と話しかけているアイヌを見たものだ。
このことは、私は北斗自身の口からも聞いているので、間違いないことである。
もっとも、北斗が少し世に知られ「北斗」という号の方がわかりやすくなってからは、アイヌも和人と話をする時に「北斗」というよび方をよくしていた。しかし、これは和人と話をする時のことで、アイヌ同志のときは、やはり「タケ」とよんでいた。


 やはり、そうでしたか。
 北斗の名前は「タケジロウ」で通用していたんですね。
 「自動道話」の初期の署名は「竹二郎」ですし、金田一の「違星青年」も「竹次郎」になっているものがあったと思います。
 やっぱり発音の問題だったんですね。
管理人  ++.. 2006/04/11(火) 05:24 [155] 

西川光二郎氏の北遊の途次に知られ…
P・十四-四行目

 西川光二郎氏はもと社会主義者で、当局におそれられた人だが、このころは既に儒教主義の社会運動家に転向しており、「自働道話」という月刊雑誌(今のタブロイド版の半裁で、たしか八頁位でなかったかと記憶している)を発行していた。


 西川光次郎(光二郎)については、『アイヌの歌人』での扱いはひどすぎます。ある程度の知識人なら、西川光次郎が幸徳秋水とともに平民社にあり、日本に社会主義を紹介した、もっとも最初の人たちの一人で、多くの書物を訳している人であることは知っていたのではないかと思いますので、つまりは、湯本喜作氏はそういう知識を持ち合わせていない、よく言えば普通の人だったのでしょう。
 史上最大の大逆事件(冤罪)である幸徳事件で生き残り、獄中で転向し、精神修養を説くようになります。
 ちなみに自働道話は「八頁」は少なすぎます。30頁位で、3ミリぐらいの厚さはあります。

 彼、北斗の短歌の半分位は、この雑誌に掲載されたものである。それというのは、奈良直弥先生がこの西川氏に私淑しており、奈良先生のすすめと御世話で、同誌上に掲載されたものである。私もその実物をみせられておぼえている。西川氏は北遊の途次、奈良氏の招聘で余市へも立寄られ、そこで北斗とははじめて逢った。
北斗の上京は、北斗自身の考えによるか、奈良氏のすすめによりものか、今は忘れてしまったが、その何れにしても、奈良氏のすすめにあづかって力があったことは確かである。


 やはり、奈良先生が北斗を紹介し、上京の段取りもしたということで間違いないようですね。
 こうしてみてみると、古田と北斗が出会った大正13年は思想的には激動の頃ですね。茶話笑学会結成、自働道話の購読、西川光次郎との出会い。
 
 上京中の北斗は高見沢氏は勿論であるが、多くの人から可愛がられ、彼も喜んで働いたようだ。金田一先生を訪ねたのは、この期間中のことであるか、金田一先生から石川啄木のことをよく聞いたと、私に度々語って聞かせてくれた。
話の内容はもう忘れてしまったが、啄木の常規を逸したような行動をじっと耐えて、これを友人として暖かく遇していた金田一氏の人間的善さを讃えていたし、また天才肌の啄木にも同情の眼を注いでいた。
その後の北斗の短歌が啄木調と思えるところがあるのは、意識的であつて、彼は「啄木の短歌は率直で好きだ」とくりかえし言っていた。


 北斗が、啄木について言及しているとは。
 全く、今まで出てこなかった証言です。

 後世、北斗は「アイヌの啄木」と呼ばれるようになりました。
 私はそれを聞いてどうもしっくりしない気がしないでもなかったのですが、北斗がそれを聞いたら、むしろ結構喜んだのかもしれませんね。
 よく考えたら当然かもしれませんが、金田一から啄木の話を聞いたことも、歌人違星北斗の誕生に一役買っているのでしょうね。

管理人  ++.. 2006/04/15(土) 04:49 [156] 

北斗と女性

日高の二風谷における北斗のことは直接は知らない。しかし、二風谷を初めて訪れ、酋長の宅でアイヌ民族向上について談じこんだ事実は、北海道のある雑誌にのった誰かの北斗に関する記事で見た記憶がある。
―その家の娘が北斗に恋をしたが、北斗はこれを受入れず二風谷を去った―というようにその記事に書かれてあったようにも記憶している。事実かどうか話があまり巧みにいっているので、作り話ではないかと思う。


 この二風谷の話が載っている「北海道のある雑誌」は、もしかしたら、『アイヌの歌人』の中で、湯本氏が孫引きしている、「コタンの夜話」(谷口正)のことかもしれません。

 一体、北斗は異性に関することはほとんど語らなかったが、只一回私に語ったことがある。それは美唄で出している短歌雑誌(「しづく」と言ったかと思う)の一投稿女性が、彼に猛烈に恋をし、熱烈な手紙をよこしたという。北斗はこれに対し返事を出した方がよいものかどうか迷っているといい、「アイヌに恋をするということは容易に出来るものではないが、これは真面目なようだ。しかし…」といって、微苦笑をしたものである。
その後話がないところをみると、このことはそれっきり発展しなかったらしい。私が知っている唯一の女性に関する話である。


 北斗と異性について。
 「志づく」の愛読者ですか。当時から熱烈な北斗のファンがいたんですね。
 まあ、あれだけ目立って、異彩を放っていると、そういう話もあるでしょう。
 それに対して北斗は「微苦笑」。北斗らしいですね。

 古田謙二は他には聞いたことがない、と言っていますが、余市に行ったときに、いろいろと重要な話を聞き、資料も入手しました。
 また、今回入手した資料の中にも、北斗の恋愛の話がありました。
 そのうち発表できると思います。

管理人  ++.. 2006/04/15(土) 05:06 [157]

「フゴッペの洞窟」云云
P・三十二-十三行目

 フゴッペの洞窟は、鉄道線路工事中発見されたもので、私の余市校在職中の出来事ある。この洞窟の壁の文字様のものは、その当時新聞で話題となり、小樽高商の西田教授は、小樽の手宮古代文字と同じく、古代文字として、新聞に書いた。それを小樽新聞で北斗が反諭したもので、遺稿集「コタン」に全文がのせてある。
そのころ、北斗は原稿を私に見せてくれた。私は文中のカナちがい(アイヌの人々は、発音が悪くてカナちがいをする者が多い)の幾つかを訂正してやったものである。


 ここにも「発音」の話が出て来ましたね。
 地域は違いますが、二風谷の萱野茂さんの本にも、萱野さんのお婆さんが、たしか「しげる」が発音できなくて、ずっと「しめる」と呼んでいた、という話がありました。
 北斗の周囲では、「い」段音と、「え」段音の発音が聞き取りにくいところがあるようです。例えば、北斗の名前にしても、「いぼし」と「えぼし」、「たきじろう」と「たけじろう」といった具合です。

管理人  ++.. 2006/04/15(土) 05:15 [158] 

西田教授は本気で相手にしていない。

反ばく文を新聞に投稿した後、北斗は小樽市に出かけ、西田教授の家を訪問している。ところが、教授はどう思ったのか居留守を使って北斗に会おうとしなかった。それでしかたなく帰ってきた。

北斗はその後、このことを私に話をして、「西田先生は自信がなくて私に会いたくなかったのだろうか。それともシャモの優越感からアイヌごとき者に会うのはイヤだ、その気持から避けたのだろうか」等といつて笑っていた。
 本書には「町民にしこりを残しているだけに、彼の晩年は一層さびしいものがあったろう」と書かれているが、そんなことは全くない。しこりを残す等というのは、全然、当時を知らない人のいうことである世人は、この論争(論争といつても一、二回きりのもので、論争というほどのものではないが)をただ書いただけのものである。第一、アイヌのイカシシロシといったところで、誰でもわからないことであるから。要するに当時は、ただ、「アイヌが面白い説をはいているなあ」といった程度のものであった。


 北斗は、西田教授と会って、話そうとしたんですね。 しかし、なぜだか会ってくれなかった。

『アイヌの歌人』では、北斗がフゴッペの壁画はアイヌの手によるものではない、にせものではないか」と言ったので、史跡指定が遅れ、町民にしこりをのこし、余市に帰りにくくなった、というような記述があるのですが、それはデタラメだったようですね。  
管理人  ++.. 2006/04/15(土) 10:12 [159] 


北斗の家   P・三十三-一行目

本書に、「家は大川町にあり、あばら屋である」と書かれているが、あばら屋ではない。古くなり造作はよくなかったが、余市の労働者程度の家としては普通のものである。

中里 篤治のこと P・三十四-四行目

当時の余市におけるアイヌのなかで大物が二人いた(酋長格というところ)。中里篤太郎(篤治の父親)と違星梅太郎一北斗の兄)とである。特に中里篤太郎はアイヌの代表的人物で、体も大きく、仲仲気骨もありしっかりしていた。話もわかっていて、アイヌのことは何でも中里に行けといった町役場の調子である。
実はアイヌ街(大川町の一隅)の入口にあり、立派な建物である。篤治はその息子だが、私の知つた当時は、肺結核が進んでおり、青い顔をして、ゴホンゴホンと咳をしていた。親とちがいキャシャな体で声も柔らかく、到底北斗のような気概はなかった。

 大正末の地図によると、北斗の家は、中里徳太郎の家の隣、コタンの入口あたりに並んで建っていたようです。「酋長格」の実力者であった中里と違星の家は、コタンの中の他の家よりも大きな家でした。
 この家ですが、あとで「早川通信」の時にも書きますが、早川氏の訪れた昭和40年より以前に火事で焼けてしまったようで、資料も何もかも燃えてしまったそうです。
 あばらやというのは、その後の違星家なのかもしれません。もしかしたら、私が余市で訪ねた青い家なのかもしれませんね。

 この頃は中里篤治は、北斗よりも症状がひどかったようですね。北斗の死後数ヶ月で、篤治もまた他界します。

管理人  ++.. 2006/04/15(土) 10:30 [160]

(同人誌『コタン』の中里篤治の短歌)
アイヌ行く隔離病舎だ電話など
いらぬといった町会議員

という歌は知らなかったが、当時こういう話題は北斗から聞いていて、私も覚えている。
それは、中里篤太郎は「町会議員の馬鹿野郎ども避病院はアイヌのいくところだから、電話なんか要らないとぬかしやがつた。電話のいる、いらぬはとにかくとして、アイヌの行くところとは何だ。アイヌを馬鹿にしやがる。そんな町会議員は、皆病気にかかって避病院にやってしまえ!」と、どなりちらしていたということである。
ある町会議員が、町議会の席で避病院に電話を引く話の出たとき、「避病院はアイヌなんかも入院するし、電話なんか要らないだろうといったという話が流れてきて、それを聞いた篤太郎の憤慨である。もちろん避病院は一般の人の入院するところで、アイヌばかりが入院するわけではないが、当時は非常に建物が痛んでいて、粗末な建物であることを、アイヌにかこつけるのを、篤太郎は「シヤモの野郎、生意気だ」と憤慨したのである。


 なるほど。この病院の短歌にはこういう裏話があったんですね。
 中里徳太郎は本当に豪傑のようです。金田一の残した「あいぬの話」に、幼い頃自ら学校に入れてくれと役所に頼み込んだ話があります。
 今回入手した武井静夫の「放浪の歌人・違星北斗」には、北斗誕生前夜の余市コタンの二人の傑物、違星万次郎(北斗の祖父)と、中里徳太郎の姿が描かれています。(小説風に書かれていますので、すべてが本当だとはいえないですが、よく調べて書かれている印象です)。この中では、余市コタンの指導者としてはまずは万次郎があり、そして徳太郎がそれに倣ったような感じで描かれています。
管理人  ++.. 2006/04/15(土) 10:41 [161] [引用]

クリスチャン  P・三十四-四行目

篤治がクリスチャンだったとは初耳である。(私自身がクリスチャンで、十五歳の年から現在まで五十年間教会に通つているが)余市の教会で一度も篤治の姿をみたことがない。ジョン・バチェラー氏は余市方面には伝導に来ていなかったので、その影響もない筈。
篤治がクリスチャンだったとしても、それは微温的なものでなかったろうか。むしろクリスチャンを表明しない方がよいのであるまいか。

篤治の短歌というのを私は知らない。又短歌を作るということも殆ど知らなかった。ここにのっている四首というのもはじめて見たくらいである。篤治は短歌を作ったかもしれないが、世間的には全く話にのらなかったし、自身も熱心ではなかった筈である。


 そうですか。中里篤治は正式なクリスチャンではなかった、ということなんでしょうか……?
 書くものはキリスト教の影響を受けているような感じでしたが……。
 ただ……古田謙二はバチラーの伝道の影響はなかったと言いますが、実はバチラー八重子に中里篤治、徳太郎を偲ぶ短歌があります。

端然と ちからづよくぞ 語られし
君今はゐず ゐろり空しも
                逝きし中里徳太郎氏

ただ一人 父のかたみと 残されし
君また逝きぬ うら若くして
                逝きし中里篤治氏

 大正15年以降、北斗はバチラー父娘と関係があったわけですから、まったく影響がないというのは考えられませんね。北斗を通じて影響を受けたのかもしれません。
管理人  ++.. 2006/04/15(土) 10:52 [162] 

北斗の日記  P・三十七-十一行目

北斗の死んだ二日後、まだ消毒薬の匂いのプンプンしている寝室に入り、枕元においてあったボストンバックの中から遺稿になるとおぼしきものを引き出した。その時日記も二冊あった。


 これは生々しいエピソードですね。
 「ボストンバッグ」というのは、この古田の実体験だったんですね。
 日記は2冊ですか。大正15年と、昭和3年でしょうか。

 私が出版の世話してやった遺稿集「コタン」の巻末を見て下さい。あとがきが書いてあります。(後藤静香氏が執筆)。あのように、遺稿集はその後希望杜から出すことになり、その編輯役を引き受けたのが某氏(この名前失念、後書きにかいてある筈です)
この某氏とは、北斗の上京時代知り合いになった仲だと思うが、もう記憶がうすれてしまった-です。私は、あまり原稿はいじらず、原稿になるとおぼしき書類を整理し、それに本や日誌もそえて送ってやりました。

 
 某氏とは、岩崎吉勝か宗近真澄でしょうね。

 
 フゴッペの古代文字に関し、西田彰三教授に反論した新聞記事の切抜きが、私の切抜帳に貼ってあったので、これを切りとって送ってやった。

また茶話笑楽会誌―という北斗自身ガリ版を切った余市アイヌが出していた雑誌四冊を送ってやりました。この雑誌の一部は、コタンに写真になって(アイヌの顔が)のっている筈です。


 なるほど。コタンに載っているアイヌの顔のイラストは、茶話誌に載っていたものなんですね。

 その第三号には、私のガリ版を切ったところも入っております。北斗は、この第三号を余市小学校にやって来て、学校の謄写版を借りて、私と一緒に印刷したものです。

 そうですか。学校でガリを切ったんですね。
 茶話誌は実物が見つかっていないので、見てみたいものですね。

 その某氏が、日記の抜き書をやり、笑楽会誌も抜書きし、本にまとめたわけです。費用は希望杜が出しました。

 出版後、原稿、日誌、笑楽会誌等、一切返戻してよこしませんでした。私もそのままにしておきました。

今日遺稿資料を探すとすれば、希望社の関係者を探し出し、その人から某氏(コタンの後書きでわかる筈)の現住所を訊いて、その人に資料の行方を聞いてみるより方法はありません。
日記は、二冊のほかまだ沢山あるのか知りませんが、私の記憶しているのはそれだけです。他はおそらく無いか、あっても現在わかりますまい。


 長らく疑問だった、遺稿については、そういうことだったんですね。
 古田が「わかりますまい」と言っている相手、この遺稿を探している人は、おそらくこの木呂子敏彦氏なんだと思います。
 先の火事の件もあり、北斗の未発見の遺稿はほぼ絶望的だということなんでしょうね。
 残念です。

管理人  ++.. 2006/04/15(土) 11:15 [163]

北斗の実父 イコンリキ P・四十二-九行目
 
 私は北斗の家で、炉端であたっている北斗の父をよくしっている。おとなしい人だった。頭の耳の上の部分に大きな傷跡が残っていた。「これは何の傷ですか」と聞いたら「オヤジにやられたのさ」と笑っていた。オヤジというのは親爺…即ち熊のことである。
 北斗の父は熊取りの名人で、若い時熊取りに行き、遂に熊との格闘になって、その時熊にひっかかれたのがこの傷跡だというのです。しかし、私が知った時は、おとなしい老爺におさまっていた。


「北斗の実父イコンリキ」は間違い。父は違星甚作、アイヌ名はセネツクル。「アイヌの歌人」の間違いですが、古田も訂正していないところを見ると、古田も北斗の父の名は知らないのかもしれんません。
 この北斗の父と熊との格闘は「熊の話」に詳しく書かれています。
 イコンリキは祖父万次郎の実父(北斗の曾祖父)です。

管理人  ++.. 2006/04/16(日) 21:19 [164] 

西川光二郎氏 P・四十六-五行目

 西川光二郎について、幸徳秋水事件の生き残りの人、雑文書き…程度の記事は余りにも淋しいと思う。もっと調査して書いてほしい。たしかに幸徳の一味であり、社会主義者であったが後に、儒教主義の社会運動家に転向した人と聞いており、私も今はこの程度より書けないが、この人はもっとその道の人には知られており、書かねばならぬことがあると思う。調査してほしい。


 これは先に出たとおりですね。この「儒教主義の社会運動家」という記述には、なるほど、と納得しました。
管理人  ++.. 2006/04/16(日) 21:27 [165] 

余市のフゴッペ洞窟について 
P・四十六-九行目

 フゴッペ洞窟について、北斗の反対論があったため、昭和二十八年まで文化財保護指定が遅れ…云々。こんなことは全くない。


 湯本喜作は「北斗が故郷余市に帰りたがらなかった理由の一つ。このフゴッペ洞窟について、北斗の反対論があったために昭和二十八年まで文化財保護指定がおくれ、町の人達にあるしこりを残していた」と書いているのですが、それに対しての古田の反駁ですね。
 そもそも。北斗の「フゴッペの遺跡」と「フゴッペ洞窟」は微妙にちがうものです。前者は昭和二年に発見されたもので、鉄道工事によって露出した壁画、後者は昭和二十五年に海水浴に来ていた中学生が発見した洞窟の中の壁画のことです。

 第一、小樽新聞に北斗が投書し、それが新聞に載ったのに対し、世論は殆ど騒がなかった。「そんな意見もあるのかなあ…」と、新聞を読んだ識者は思ったろうが、それからどういう説もなかった。それはそのままに終わってしまった。
 北斗が故郷余市に帰りたがらなかった理由に一つに、このフゴッペ洞窟の反対論があったため…等とはとんでもない話である。これは全くの誤解である。
 第一、フゴッペの洞窟はずいぶん世の中に知られたと言われているが、北斗の新聞記事は、世間で問題にされなかったのである。北斗を知り、アイヌに関心を持っている者には相当問題になる記事だが、一般としては、そのまま見すごされてしまった。
 だから、北斗の伝記の中では重要な事だが、世の中の間題としては、微々たるものであつたというべきである。


 なるほど。この新聞記事の影響力は地元でもあまりなかったと。

管理人  ++.. 2006/04/16(日) 21:48 [166]

北斗が余市に帰りたがらなかったかどうかは、私は知らないが、―若しそれが真実とせば、次の理由によるものと思われる。

 北斗は兄梅太郎の家に居た。母はすでになく、梅太郎の妻(もちろんメノコ)の世話になるが、心苦しく思っていたものと思われる。(そんなことを、ちよっと私にもらしていたこともあったようだ)それで帰りたがらなかったのかも知れない。
このころ、余市のアイヌは、土地にあまり漁もないので、樺太や利尻、礼文方面に出稼ぎによく出かけた。そしてようやく生計をたてていた。
しかるに、北斗は出稼ぎなどせず、アイヌ民族の向上だの何のだのと言って、あまり働いて銭をもうける仕事もしないので、兄嫁に好い顔をされなかったのかもしれない。それで、なお帰りたがらなかったという話が出たのかもしれない。しかし、これは私の想像である。
梅太郎の妻(北斗の兄嫁)はよい人であった。北斗が死んだ時、私の家に教えに来てくれたのは、彼女であって「タケがとうとう死んで…。ほんとに先生にはお世話になったね」と、涙をこぼして言った姿が今も眼に浮かびます。


 北斗は梅太郎のところに厄介になっていたわけですが、上の古田の記述以外にも、北斗自身、兄の家に厄介になっていることを気にしているような気がします。
 母親が死んでから、北斗も家には居づらかったのかもしれません。
(余市にいったとき、そういうことを聞きました。金田一の「違星青年」にも「病骨を母なき故郷の兄の家へ横たへる身となった」とあり、兄夫婦の家は、北斗にとってはあまり居心地のいいところではなかったのでしょうね。

管理人  ++.. 2006/04/16(日) 22:18 [167]

イサシの山のとほくかすめる P・五十-二行目

これは「イサンの山の」の誤植ではなかろうか、北斗は江差には行ったことがない筈である。これは函館方面の恵山(エサン)の誤りと思う。恵山だと、室蘭方面にゆけば噴火湾の向こうに恵山が見えるが、江差は遠くて全然見えない。もしそうとすれば記事が全部変ってくる。


 この「イサシ」は確実に誤植ですね。

「山岸院長は元軍医中将で」 P・五十五-五行目

私の記憶によると、軍医大佐だと思います。将官ではなかった筈です。


 『余市文教発達史』には「陸軍二等軍医正(中佐)」とありますね。いずれにしても将官ではなかったみたいですね。

管理人  ++.. 2006/04/16(日) 22:33 [168] 

奈良直弥先生 P・八十二-三行目

今、達者であれば百歳位にでもなっていようか。北斗たちは、余市の黒川分教場(大川小学校の分校で奈良先生一人で教えており、単級学校であった)にあがった。
奈良先生は、非常に明るい人で、お酒が好き、俳句が好き、書道の達人-私がはじめて氏を知ったころは、白髭をながくあごにのばしていた。


 北斗の入った学校は、大川小学校の分校の「黒川分教場」ということですが……『コタン』にはただ「尋常小学校」とだけあり、『余市文教発達史』には「余市尋常高等小学校」、『放浪の歌人・違星北斗』(武井静夫)では「余市大川尋常高等小学校」、『泣血』(阿部忍)には「大川尋常小学校」とあります。その他文書によってちがいますが……たぶん、「大川尋常小学校」が正しいんでしょうね。

 当時、アイヌは義務教育が一般の六年制に対し、四年制であった。

 ちなみに、北斗は、母親のすすめで、和人の行く六年制の小学校に行っています。

 この先生は、ちょっと普通の先生の型にはまらぬところが、町民からまで「奈良先生、奈良先生」と愛されていた。
 北海道がまだ、北海遺庁のおかれていない以前、即ち、三県時代といって、函館県、札幌県、根室県とに分かれていたころの、函館県の師範学校(たしか簡易科)の卒業生である。
 氏の子息では、帯広市在住の能勢眞美氏(洋画家として北海道では有名)など知られている。
 昔、松竹の映画俳優として知られた奈良眞養(マサヨ、シンヨウ)という人は、奈良先生の甥にあたる。


 なるほど。型破りな先生だったんですね。

 私は独身時代に、大正十五年秋から昭和二年の春頃まで、奈良先生の家に二階に下宿したことがあった。
丁度、その時のことである。略歴には「大正十五年十一月北海道に帰る」とあるが、北斗が東京から帰って来た頃のことである。
道でバッタリ北斗と逢った。
「やあ、どうした」
「今、東京から帰って来たたところで、奈良先生をお訪ねするところです」
「それは丁度よい。私は奈良先生の家に下宿しているので、話をしていき給え…」
と、いうわけで、同行して帰宅。奈良先生に、東京から帰ってきた挨拶をした後、二階の私の部屋にやつてきて、それから長時間の話しあいをしました。
東京の話、例によって「アイヌに対する和人の優越感に対する慣慨…」とうとう夜中の一時、二時頃になってしまい、私のところに泊まってしまいました。


 ここでは、北斗は東京に帰ってきてすぐというふうになっていますが、北斗が東京から帰ってきたのは大正十五年の七月です。北斗は登別で知里幸恵の生家を訪ねたあと、そのまま平取へと向かっています。
 それに、帰道直後であれば、古田はまだ奈良の家に住んでいないことになりますから、この話は、大正十五年八月~九月の、平取からの一時帰郷をさしているのかもしれません。

 その時の話題は、皆忘れてしまったが、唯一、覚えているのは、西田幾太郎の「善の研究」という本の話をしたことです。「善の研究」を当時私は購読。その第三章に宗教のところがあります。私はキリスト教なので、西田幾太郎のように神を理解することができなかったのです。
即ち、「神は宇宙の上に超越している」と理解したいのですが、「善の研究」には「宇宙の中の働き、そのものの中に神の存在を見る」ようにと説かれているのです。
そのことを、長時間話しあいをしたのですが、北斗は「私も善の研究のように神を理解したい」といい、私は「超越してある神」をとり、遂に意見が一致しませんでした。
ほんとうにあれから、もう四十年もたってしまいました。


 この記述は、本当に貴重ですね。
 北斗のその時点での「神」に関する考え方がわかります。北斗が西田幾太郎の「善の研究」を読んでいたとは……。私も読んでいないのでなんとも言えませんが、当時旧制高校生の必読書というような話を聞いたことがあります。かなりの知性がないと読めない本だと思いますが、小学校しか出ていない北斗がそれを読み、古田のような学校の先生と論議していたと思うと、あらためて北斗の知性はすばらしいものだと思いますね。

管理人  ++.. 2006/04/16(日) 23:35 [169]

> ほんとうにあれから、もう四十年もたってしまいました。

 この通りだとすると、この古田謙二の言葉は、昭和四十年ごろのものだということになりますね。

管理人  ++.. 2006/04/16(日) 23:40 [170] 

>笑楽会は、中里篤太郎の家の二階で行なわれた。二階は四間位もあり、フスマを皆はずして広々とし、輪になって語り合った。真中にテーブルをおき、それで一人ずつ出てしゃべることもあった。

ここに出てくる「四間」というのは、今の今まで「四間(ま)」で「四部屋」だと思っていたのですが、これって、単に長さの「4間(けん)」なのかもしれませんね。
 
 googleで調べると「四間 = 7.27272727 メートル」……確かに広いかも。
 そんな気がしてきました。

管理人  ++.. 2006/05/08(月) 23:16 [190]

2006年3月21日 (火)

違星北斗の東京・再び(その2)

3月12日

次の日、朝イチで新宿区中央図書館に向かいました。昨日、高田馬場で泊まったのは、この図書館に行きたかったからです。
 ここで、新宿区の戦前の地図を何種類か入手しました。新宿区は(新宿に限らないですが)、現在は戦前とは地名ががらっと変わってしまっていて、非常に味気ない地名になってしまっていたりします。
 新宿はもともとは「東京市」の外、東京府下の「郡部」で、まあ田舎だったのですが、関東大震災後、東京の町が郊外へ郊外へと拡がる過程で、西郊へのターミナルとして、爆発的に人口が増え、急激に発展していったという経緯があり、ちょうど、違星北斗がうろうろしていた大正の終わりごろはその過渡期であり、開発期の活気に溢れていたころだったようです。
 古い地図で見ると、北斗の勤めていた東京府市場協会は「四谷区三光町46番」は、花園神社と同じ区画の西側寄りのところにありました。

 
 新宿へ。
 日曜日の新宿はお父ちゃんやおばちゃんや、パンクやゴスロリやらヒップホップやらでごった返していましたが、その中を人波をかき分けて「花園神社」へと向かいました。
 花園神社はすぐ見つかりました。
 
 香ばしい「新宿ゴールデン街」の西側の道路から、階段を5メートルばかり登ると、狛犬が顔を出し、いきなり花園神社の境内、本殿の隣に出るのでした。
 おかしいな、市場協会があった46番地の辺も、今は神社になってしまっているのです。宮司さんに聞いてみると、昭和40年代に、本殿の位置が変わったのこと。では、そこにあったのだろうか、と思ったのですが、ちょっと待てよ。
 今登ってきた階段の隣、つまりゴールデン街より高くなっている「花園神社の地下」は、現在は鉄道の高架下のような感じになっていて、伊勢丹の倉庫とか、清水建設かなんかの事務所なんかが入っているのですが、これって、昔からそうなんだろうか? もしかしたら、ここに、同じような感じで、80年前に「東京府市場協会」が入っていたんじゃないだろうか、と思い始めました。


現在の花園神社界隈【横から見た図】
 西<>東

  もと新宿市場    /本\ 花園神社  _
  ゴールデン街  _|殿|______H_ 
 _ロロロロロロ__ロロ
            ↑ここに伊勢丹などの事務所・倉庫がある 

 
 まあ、とりあえず、違星北斗は80年前に確かにここに訪れたんだ、と思うことにして、次に行くことにしました。
 

 昼下がり。四谷へ。
 四谷にある「新宿歴史博物館」へ。
 昨日研究会でご一緒した四谷在住のLさんと合流しました。

 この博物館で知りたいのは2点。
 一点は先の「新宿区市場協会」の場所。
 そして、もう一点は、四谷見附の「牛鍋屋」について。

 違星北斗は1年半の東京暮らしのあと、その恵まれた環境をなげうち、北海道に戻って同族のために働くことを決意して、大正15年の7月、東京をあとにします。 
 この帰道の直前、四谷の三河屋という牛鍋屋で、北斗の送別会が開かれました。
 その牛鍋の三河屋が、四谷見附のどのへんにあったのかが知りたい。
 どうでもいいことなんですが、それが気になって、調べてみたいのでした。

 博物館へ行く道すがら、道行くご老人を捕まえては、いろいろ聞いてみましたが、なにせ80年も前のことですから、なかなかご存じでないようでした。お一人、憶えてらっしゃる方がいらっしゃいましたが、わかったのは道路のどっち側にあったかということだけでした。
 
 Lさんと合流して、博物館へ。
 とりあえず中に入り、学芸員さんに話して、閲覧室に入れて頂き、戦前の四谷や新宿の、商店の種類や名前なんかが入った詳細な住宅地図を見せていただきました。
 牛鍋屋の「三河屋」は一生懸命さがしたのですが、ありませんでした。
 しかし、いろいろ判明したことがありました。
 まず、四谷にも「東京府市場協会」の支部があることがわかりました。だから、唐突に四谷で送別会をしたというわけではないんですね。
 あと、新宿(四谷区三光町)の「東京府市場協会」について。市場協会の文字は見つかりませんでしたが、「新宿市場」が花園神社の西隣、ちょうど今の「新宿ゴールデン街」の場所にすっぽり収まるかたちでありました。
 なるほど。もし、市場協会の事務所が花園神社の地下にあったとしたら、これはこれですっきりとするのかもしれません。
 Lさんには、私がへどもどしていると、色々フォローしてくださいました。ありがとうございます。
 L様、調査にご協力いただき、またいろんなお話をお聞かせ頂いて、どうもありがとうございました。
 

 とりあえず、今回の調査で、北斗の東京での居場所の一部がなんとなくわかってきました。少しずつ、東京での北斗の姿がおぼろげながら、脳裏に浮かんでくるような感覚がありました。
 21世紀の色めく、めくるめくような週末の歓楽街を歩きながら、ただ一人、大正末期の新宿を、北斗をおいかけてあるいているような気がしました。
 
 当時の新宿もまた、北斗には刺激的な町だったことでしょう。一年半の東京での日々の中には、誘惑もあったでしょうし、時には誘惑に負けたこともあったかもしれない。
 ズルズルと惰性に堕ちていったこともあるかもしれないし、愛に溺れてその志を忘れた時もあったかもしれない。

 北斗の東京には、大きな空白の時期があります。記録が残っていないのは、北斗が残さなかったのか、誰かが意図的に残さなかったからでしょう。
 それは「アイヌの先覚者」「アイヌの彗星的歌人」「若くして逝ったアイヌの偉人」といった、真面目で潔癖でストイックな違星北斗のイメージに「ふさわしくない」からかもしれない。そういうイメージは、意図的に「編集」され、遺されていない可能性がある。
 しかし、もしかしたら、ヘッセの「シッダルタ」や、安吾の「堕落論」のように(安吾はちょっと違うか)、北斗は堕ちるところまで堕ちたんじゃないか(もちろん、周りから見て堕落したということじゃなく、彼がそう思っただけかもしれないですが)という気もしてきました。
 東京での日々を振り返る文章を読むと、そんな気もしてきます。もしかしたら、だからこそ、堕ちたぶんだけ、北斗は高いところを目指せたのかも知れない。
 あくまで、これは私の妄想なのですが。
 
 戦前の地図を片手に新宿の雑踏を歩いていると、そのようなことを考えずにはいれませんでした。
 
 この調査にご協力頂いた方、お世話になった方々に、感謝いたします。



管理人  ++.. 2006/03/21(火) 12:07 [139]

2006年3月 6日 (月)

東京での調査3 三河屋

3月5日、新宿歴史博物館へ。

 学芸員の方に東京府市場協会の場所と、北斗の送別会が行われた「四谷の三河屋」について、聞きました。

>  そういえば「自働道話」大正十五年八月号に
>
>  △アイヌ族の青年違星北斗君が、アイヌ族の根本的研究を思ひ立ち、市場協会を辞して、北海道に帰へらるゝことになったので、六月末日、一夕、違星君を招き、高田、額田、佐々木、高山の諸君と共に、四谷の三河屋で会食いたしました。
>

 歴史博物館に至る道のりの途中、この「四谷の三河屋」について、四谷で聞き取り調査してみました。
 これは牛鍋のお店で、東京でも有数の名店だったそうです。
 通りがかりのご老人や、古そうなお店の方にお聞きしたのですが、半分以上は「知らない」とのこと。
 80年も前のことだから、そりゃそうでしょうね。
 一人、80過ぎぐらいのご老人が「あったあった、通りの右側にあった」とおっしゃってくださいました。
 通りというのは、四谷見附の交差点のある、新宿通りのことです。

 この三河屋の場所、四谷見附の新宿通りの、右側にあったということですが、詳しい場所は結局わかりませんでした。
 
 ただ、歴史博物館でお見せいただいた地図によると、「東京府市場協会」の四谷の支部(?)がこの界隈にあったんですね。現在の四谷1丁目の、23番地です。

http://www.mapfan.com/m.cgi?MAP=E139.43.51.0N35.41.2.3&ZM=11&CI=R&OMAP=E139.43.51.0N35.41.2.3&SMAP=E139.43.51.0N35.41.2.3&SP=1&MS=1&KN=0&CTG=&CT=&CW=&s1=%A2%A9160%2D0004%20%20%C5%EC%B5%FE%C5%D4%BF%B7%BD%C9%B6%E8%BB%CD%C3%AB%A3%B1%2D%A3%B2%A3%B3

今の東貨健保会館のある場所です。
北斗は四谷もウロウロしていたんでしょうね。

管理人  ++.. 2006/03/06(月) 15:26 [130] 

四谷三河屋情報
『蘭亭ぽん多』のホームページ
 http://www.tcn-catv.ne.jp/~rantei/syokubunka.htm
黒田清輝日記(黒田清輝記念館)
【1915.12.14】    http://www.tobunken.go.jp/kuroda/archive/k_diary/japanese/1915/dy9151214x.html
【1918.01.26】
http://www.tobunken.go.jp/kuroda/archive/k_diary/japanese/1918/dy9180126x.html
日めくり漢字歳時記
http://www.migikata.net/kanji_saijiki/200412/a/a_20041229.html
白鳥省吾関連年別データベース
http://ww5.et.tiki.ne.jp/~y-sato/mtdata13.htm

三河屋にはカフェも洋風酒場もあったんですね。

管理人  ++.. 2006/03/06(月) 16:26 [131]

今和次郎の『新版 大東京案内』(ちくま文庫)の「味覚の東京」に

 日本独特の牛鍋は、また東京自慢の一つで、銀座の「松喜」。四谷の「三河屋」。よし町の「今清」に神田の「今文」。

とありますね。

また仲田定之助の『明治商売往来』(ちくま文庫)の「牛鍋屋」の項には

 東京一の牛屋と世評が高かったのは四谷見附の三河屋だったが、地理的に遠かったのでわたしは一、二度しかいったことがない。とあります。
 
やはり有名な牛鍋屋だったんですね。

管理人  ++.. 2006/03/07(火) 00:37 [133]

2006年3月 5日 (日)

東京での調査1 東京府市場協会

午前中、国会図書館で調べ物

 
 1. 現代配給組織鉤玄 / 高見沢清. -- 東京府市場協会, 昭和3


 これは、国会図書館にある唯一の「東京府市場協会」発行の書物です。この市場協会とは、東京時代の北斗の勤務先ですね。

 内容は、市場協会の高見沢氏(北斗の身元引受人といってもいいでしょう)の書いた、流通の組織化についての理論。むづかしくてとても理解できませんが、この市場協会のような組織は、「米騒動」をきっかけとして生まれたようです。府なり市なりが介入する「公設市場」を設けることにより、物価の高騰を防ぐのが目的だったとおぼろげに理解しています。
(こんどもっとちゃんと調べておきます)。

 で、私にとって重要なのはその中身ではなく、その「奥付」です。
 北斗の勤務地を特定すること。

 高見沢清の住所は
 「東京府豊多摩郡淀橋町字角筈316番地」
 で、これは前から知っていたのですが、
 財団法人 東京府市場協会は
 「東京市四谷区三光町46番地」
 だそうです。
 
 ここが、違星北斗の、勤務先だということでしょう。

 そういえば「自働道話」大正十五年八月号に

 △アイヌ族の青年違星北斗君が、アイヌ族の根本的研究を思ひ立ち、市場協会を辞して、北海道に帰へらるゝことになったので、六月末日、一夕、違星君を招き、高田、額田、佐々木、高山の諸君と共に、四谷の三河屋で会食いたしました。

 とありましたね。四谷はホームグラウンドだったわけです。

管理人  ++.. 2006/03/05(日) 00:20 [119]

 …と思ったら、「三光町」は今の新宿5丁目なんですね。
 やっぱり「新宿」か。

管理人  ++.. 2006/03/05(日) 00:41 [120]


北斗がいた「東京府市場協会」ですが、番地の上では花園神社の裏あたりなのですが、戦前の地図では、隣接する地域、今の「新宿ゴールデン街」のところにあったりしています。

ゴールデン街の歴史を調べると、なにか出てくるかもしれないですね。


管理人  ++.. 2006/03/06(月) 12:58 [127] 


 これについては、研究会でお会いしたYさんに、早々にメールでご教示いただきました。

以下、Yさんのメールから:

>三光町の件、さっそく調べてみたところ、下記でHITしました
>http://www.geocities.jp/pccwm336/sub12.html
>(この中の花園神社の説明のところ)

>新宿東口から伊勢丹に向かい、北に2本ほど通りを越えると
>花園神社があります。
>あそこが廃仏毀釈前は三光院という寺院と同居していて、
>あたり一体が三光町だったそうです
>現在の新宿5丁目の一部にあたるようです

 なるほど。
 北斗の勤務先の市場協会のあったのは、46番地になるのですが、花園神社と同じ区画に入っているので、神社の裏、もしくは「一部」になってしまいます。
 戦前の地図では道路を挟んだところ、52番地に(現在の新宿ゴールデン街の一帯)に「新宿市場」があります。しかし、46番地の市場協会の事務所はそこではないと思います。
 現在、花園神社の西側の地下はコンクリートの建物で盛り上げられていて事務所のようになっています。ゴールデン街とは5メートルぐらいの高低差があるんです(表現難しい)。


現在の花園神社界隈【横から見た図】
 西<>東

  もと新宿市場    /本\ 花園神社  _
  ゴールデン街  _|殿|______H_ 
 _ロロロロロロ__ロロ
            ↑ここに伊勢丹などの事務所・倉庫がある 

 この、花園神社の地下の事務所の部分がもしかしたら、市場協会のあった46番なのかもしれないと思ったのですが、このような高度な建築が当時可能だったのかとも思います。
 花園神社の方にお聞きしたところ、神社の本殿は昭和40年代に神社の中で移動したということですから、本殿がのっかっていなかったとしたら、もしかしたら大正末にもこういうような建築が可能だったのかもしれません。
管理人  ++.. 2006/03/06(月) 14:19 [129]



 ゴールデン街の由来は戦後の「闇市」なんですね。

 なるほど、かつて新宿市場だったところに闇市が立つというのはよくわかる気がします。
 
 ゴールデン街の公式HPには、何もないすすきの原だったようなことが書かれていますが、それはどうなんだろう。
 戦前のすくなくとも昭和12年ごろの地図には都電の車庫と花園神社に挟まれた形で新宿市場があるわけで……ススキの原になったとしたら、戦争で焼け野原になったあとかもしれないですね。
管理人  ++.. 2006/03/07(火) 10:46 [135]

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2006年1月23日 (月)

小熊秀雄と吉田一穂


 小熊秀雄詩集と吉田一穂詩集を読む。

 二人とも北斗と同世代で、小熊は小樽生まれ(樺太育ち)、吉田は古平の生まれ。二人とも、少年時代にニシン漁を経験しています。
 といっても、対称的で、小熊は継母に虐められる不遇な少年時代を過ごしており、生活のために鰊場をはじめとして、伐採、炭焼、昆布漁などの労働をしているのに対し、吉田は網元の息子で「引きこもり」、どちらかというと放蕩息子ですね。

 小熊秀雄はそのような貧困の中から、旭川で新聞記者となり、上京して芸術家・詩人として名を成します。小熊は和人ですが、どことなく、北斗の「もしかしたら、あったかもしれない未来」を思わせます。北海道に戻らず、東京にずっといたら、北斗にも歌人・詩人としての将来があったのかもしれません。

 小熊には「飛ぶ橇」という詩があります。老アイヌと和人の山林官の交流を描いたものですが、雪崩から山林官を救うアイヌの勇敢な姿には心を打たれます。
 
 一方の吉田一穂もまた、東京で詩人として成功しますが、故郷古平を「白鳥古丹(かむいこたん)」と呼んで憧憬しています。
 その古平のコタンは、北斗が

ウタリーの絶えて久しくふるびらのコタンの遺蹟に心ひかれる

 と詠ったコタンと同じ、古平のコタンなのでしょう。

 もちろん、和人である吉田が偲んだ「コタン」と、アイヌである北斗の「コタン」はその切実さにおいて、まったく意味合いが違うでしょう。しかし、和人である吉田もまた、自らの原風景を「コタン」という言葉に託したのは興味深いことだと思います。

管理人  ++.. 2006/01/23(月) 01:27 [104]


 その吉田一穂に「白鳥」という詩があります。


   白鳥

 1

 掌(て)に消える北斗の印。
 ……然れども開かねばならない、この内部の花は。
 背後(うしろ)で漏沙(すなどけい)が零れる。

 (後略)

 というのがあります。


 この「北斗」はもちろん違星北斗の北斗ではないでしょうが……なんだか気になります。

 

管理人  ++.. 2006/01/23(月) 01:35 [105] [引用]

2006年1月16日 (月)

いわゆる「霊感」について

[返信] [引用]

 私は、幽霊や、超能力や、生まれ変わりやらといういわゆる霊感、オカルトの類をあまり信じてはいないのですが、それはなぜかというと、若い頃にどっぷりと浸かっていたんですね。ワンダーライフというオカルト誌の愛読者でしたから。

 しかし、ある時からそれを卒業して、頑なに否定するようになりました。
 テレビなんかで、そういうオカルトな人を見ると、非科学的だとか、浅はかだとか思うようになったんですね。 

 だけれども、違星北斗を調べるようになって、そういうオカルトを信じる人を否定したり、軽蔑したりするのは間違っていると思うようになりました。

 自分の物差しだけで、人をはかってはいけない。あるいは、現代人の物差しで、過去の時代の人々の価値観をはかってはいけないんだと思うようになりました。あるいは、自分の属する文化圏の基準を、他の文化を人々に押しつけてはいけないんだと思います。

 北斗の生きた戦前の人々は、たぶん現代人の我々よりも非科学的で、信心深い。
 
 北斗が会った人々だってそうだ。
 霊感(オカルト的な意味だけでなく)によって動かされている人たちが多いと思う。
 
 希望社の後藤静香は霊感の人だと思うし、バチラーも心霊術をよくした人だった。山中峯太郎は第六感、今日でいえば「超能力」と呼んでもさしつかえないような能力を持っていたそうだし、永井叔は今日的にいえば多分に「電波系」なところがあると思う。
 西川光次郎は金光会や大本教の出口王仁三郎といった宗教関係者とつながりがあったようですし。(どの程度かはわからないが)。
 
 そして、北斗。
 
 「アイヌの姿」に

 鮮人が鮮人で貴い。アイヌはアイヌで自覚する。シャモはシャモで覚醒する様に、民族が各々個性に向って伸びて行く為に尊敬するならば、宇宙人類はまさに壮観を呈するであろう。嗚呼我等の理想はまだ遠きか。

 とある。この一気に宇宙の高みへのぼってゆき、世界を見下ろすような感覚は、何かに似ているような気がします。


 何代か前の主人が海上に漁業に出でしに、船中にて恍惚として霊域に入り、江戸も樺太も何処でも見得た。是れは神通自在の「ヌプル」に成りかけたのであつた。 (「アイヌの秘密数件」)
 
 この北斗の祖先が体験したという「霊域」、あるいは「幽体離脱」(!?)の感覚ににていないだろうか。
 北斗は後藤静香と会った時、電気に撃たれたようになった、と「故人の霊に」にある。ほかにも穿った読み方をすれば、そういう箇所は探せばあるだろうとおもうんです。
 無論、僕は、わざわざ北斗をオカルティストだというように読み直したいわけではないし、そうだとも思わないのですが、ただ、霊感のようなものについて、当時の人々の感覚を、あらためて考え直してみる必要があるのではないか、とは思います。

 北斗は充分に理性的でも、科学的でもあったけれども、それでもまだ、我々が思う以上に「霊感」に動かされていたのだと思う。

 時代がそうだったのかもしれない。あの時代は、みんな「神がかっていた」ような、そんな気もする。
 だから、現代人の潔癖な「科学的」な物差しではかってはいけないのだとおもいます。

 別に僕自身がオカルトを信じるようになれというわけではなく、オカルトを信じる人々を、そうでない人と同じように信じるということ、それが肝要かと思います。

管理人  ++.. 2006/01/16(月) 23:08 [91]

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