【北斗没後】

2010年1月27日 (水)

81年前

昨日、1月26日は、北斗の81回目の命日でした。

 81年前の昭和4年1月26日の朝、北斗は帰らぬ人となったのでした。

 北斗の親戚のトキさんという女性によると、

 (前略)雪の降る寒い日だった。わしが炉に火を入れようとした時だった。タケが死んだといって梅(北斗の兄梅太郎のこと)がいってきた。わしは夢中で冷たいのも知らないで、ハダシのままタケの家に行った。一つも口を聞かなかった。

 小樽新聞によると、亡くなったのは朝の9時でした。


 ああ。
 情けないことに、昨日が命日だということを、すっかり忘れていました。
 
 気づいたのが日付が変わってからだ。
 いかに北斗から心が離れているかということだろうな。
 なんとも、情けない。 
 

管理人  ++.. 2010/01/27(水) 01:15

2009年10月 6日 (火)

江口カナメと北斗

江口カナメの「アウタリ」をぱらぱらめくっていたら、こんな短歌を発見。

  金なくて
  こどくをだきて一人して
  北斗に佐美雄コタンに死せり

江口カナメが北斗について言及している短歌があるとは。
見落としていました。

2009年8月 2日 (日)

山上草人とは

北斗の闘病中の姿を描いた短歌を書き、小樽新聞に投稿した山上草人ですが、おそらく古田謙二でまちがいないようです。

 ある方から、古田冬草遺稿集がご遺族の方の手によって発行されたこと、その中に北斗の記事があるということを教えて頂きました。結局新しい情報はありませんでした。

 が……。
 その遺稿集に、古田謙二の雅号についての記述があり、余市時代には「冬草」ではなく、「草人」と名乗っていたと書いてありました。

 《雅号のこと

 たしか大正の末か昭和の初め頃だったかと思う。余市町で教員をしていた時のことである。ある夏のこと、消防番屋の二階で俳句会があり、兄の裸人と連れだって出席した。
 その時、主催者から「あなたの雅号は……」と聞かれた。ところが、私はその時まで雅号というものを持っていなかったのである。突然の質問だったので一寸困ったが、少し考えて「草人」としておいて下さい、と答えてしまったのである。……私の兄は「裸人」であり私は裸人の弟だから人の一字を貰って「○人」としよう。それい私は礼儀作法もわきまえぬ野人だから「野人」位が適当だ。しかし、野人はあまりムキ出しだから野人と同じ意味で少し雅味のある「草人」でよろしかろう……》

 と付けたそうです。
 
 ならば、状況的にも、やはり山上草人は古田謙二で間違いないでしょう。

 
 数年間は草人を使っていたようですが、青木郭公の句誌「暁雲」に参加する時、他に草人という人がいたので、後から入会した古田が改号し、冬草という号にしたということです。何事にも熱中してしまうので、少し頭を冷やすように、冬という字を使ったとのことです。

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2009年5月 1日 (金)

北斗の墓について

北斗の墓について、Tさんからメールをいただき、ご教示いただきました。
以下、その概要です。

 ・清文堂発行の『北海道の研究7』という本に、
  北斗の墓標を見たという人の話がある。

 ・見事な彫刻が施された股木の墓標とあるので、
  北斗はアイヌプリで土葬されたのではなないか。

 ・土葬されたのであれば、現在もそのままである
  可能性は低いので、改葬時に無縁仏になったのかも
  しれない。

ということでした。
Tさん、ありがとうございます。

なるほど、「アイヌプリ」で土葬されたということは、これまで考えたことがなかったのですが、
あれだけ民族の文化に誇りを持っていた北斗ですから、
彼自身、そういう希望を持っていたかもしれないですね。

それに、北斗の父の甚作や、兄梅太郎はアイヌの文化や
儀式によく通じていたようで、北斗の死後にも彼らが行った儀式の記録が残っています。
ですから、実際アイヌプリで北斗を送ることは可能だったのではないかと推測します。

十分ありえますね。
 

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2008年4月 9日 (水)

『コタン』に泣く(後藤静香)

 後藤静香の希望社の雑誌のうち、北斗関係の記事が載っていそうなものを調べていたら、希望社の雑誌「大道」昭和5年8月号に後藤静香による、北斗追悼の記事を見つけました。

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  『コタン』に泣く

 悦ぶと云う字は活字の無くなるほど使つても、泣くと云う字はめつたに使わない私が、こゝにこんな見出しを書いた。

 実際のところ、余りに大きい問題を背負つて居るので、大抵なことでは泣けない私であり、又久しい間の鍛練で、冷たくなつて、熱い涙など殆ど出さなくなった私ではあるが、『コタン』ではとう/\泣いた。人間の至情に負かされた。

『コタン』はアイヌを以て自ら満足し、之を誇りとし、アイヌを救わんが為の大使命に生きた一青年、違星北斗兄(けい)の遺著である。小冊子であるが、此の中には生きた説教が沢山ある。

 泣かされる、考えさせられる。

 違星兄が一民族を背負っての苦しみは、吾々の現状に較べて余りに大きい違いがある。私は兄(けい)に励まされ教えられた。兄ほどの覚悟と努力でやればもつと仕事が出来る。

 違星兄は、アイヌの将来に対し、私の頼りに頼つて居る友であつた。実に惜しい。兄の遺著から、歌を幾つか拾つて見る。

           ○

      はしたないアイヌだけれど日の本に

      生れ合せた幸福を知る

 幸福と言われて苦しい。相済まぬ。兄よ許せ。

           ○

      滅びゆくアイヌの為めに起つアイヌ

      違星北斗の瞳輝く

 この雄々しい態度を見よ。

 之を思うとき、一郷一郡を背負う日本人が、もつと有りたい。

           ○

      天地に伸びよ 栄えよ 誠もて

      アイヌの為めに気を挙げんかな

           ○

      昼飯も食はずに夜も尚歩く

      売れない薬で旅する辛さ

 薬を売つて生活の資を得ながら、アイヌ部落を次から次と廻り、同志の友を見出して、アイヌ救済の計画を進めて居た。

           ○

      売薬の行商人に化けている

      俺の人相つく/゛\と見る

           ○

      空腹を抱へて雪の峠越す 

      違星北斗を哀れと思ふ

           ○

      「今頃は北斗は何処に居るだらう」

      噂して居る人もあらうに

 実際此の通りであつた。東京に於ける兄の知己は、いつも兄の消息を待ち、兄の身の上を案じた。此の気持をよく知りながら、我が幸福―東京の生活―を棄て、大念願の為めに此の苦痛をなめた。

                            ○

      めつきりと寒くなつてもシャツはない

      薄着の俺は又も風邪ひく

             ○

      俺でなけや金にもならず名誉にも

      ならぬ仕事を誰がやらうか

 此の自覚の貴とさ。こんな男が日本に、もつとあつたら。

      「アイヌ研究したら金になるか」と聞く人に

      「金になるよ」とよく云つてやつた

 社友を一人紹介したら、幾ら貰えるかと聞く人間ある由、其の時は「うんともらえる」と答えたがいゝかも知れぬ。

             ○

      金儲けでなくては何もしないものと

      きめてる人は俺を咎める

             ○

      金ためた ただ それだけの人間を

      感心してるコタンの人々       (コタン=アイヌ部落の意)

 コタンならずとも、同じ様な感心をする人たち沢山にあり。

             ○

      葉書さへ買ふ金なくて本意ならず

      御無沙汰をする俺の貧しさ

             ○

      無くなつたインクの瓶に水入れて

      使つて居るよ少し淡いが

 之ほどと知れば、もつと助ける道もあつたのに。

 私には只一回だつて、こんな様子も見せなかつた。

 兄にはどんな時にも、武士の態度があつた。

 併し、余りに律儀すぎた。

 兄を怨みたくなる。

              ○

      見せ物に出る様なアイヌ彼らこそ

      亡びるものの名によりて死ね

              ○

      子供等にからかはれては泣いて居る

      アイヌ乞食に顔をそむける

              ○

      アイヌから偉人の出ない事よりも

      一人の乞食出したが恥だ

              ○

      アイヌには乞食ないのが特徴だ

      それを出す様な世にはなつたか

 違星兄、君が今頃東京などに来て、洋服を着た乞食、時には自動車に乗る乞食を見たら何と言うだろう。アイヌ以上の恥かしさを感じながら之を書く。

              ○

      滅亡に瀕するアイヌ民族に

      せめては生きよ俺の此の歌

              ○

      「強いもの!」それはアイヌの名であつた

      昔に恥ぢよ 覚めよ ウタリー       (ウタリー=同胞)

              ○

      勇敢を好み悲哀を愛してた

      アイヌよアイヌ今何処に居る

              ○

      悪辣で栄えるよりは正直で

      亡びるアイヌ勝利者なるか

              ○

      久々に荒い仕事をする俺の

      てのひら一ぱい痛いまめ出た

              ○

      仕事から仕事追ひ行く北海の

      荒くれ男俺もその一人

              ○

      雪よ飛べ風よ刺せ何北海の

      男児の胆を錬るは此の時

              ○

      平取はアイヌの旧都懐しみ

      義経神社で尺八を吹く

              ○

      尺八で追分節を吹き流し

      平取橋の長きを渡る

              ○

      病よし悲しみ苦しみそれもよし

      いつそ死んだがよしとも思ふ

              ○

      若しも今病気で死んで了つたら

      私はいゝが父に気の毒

              ○

      恩師から慰められて涙ぐみ

      そのまゝ拝む今日のお便り

              ○

      熟々(つらつら)と自己の弱さに泣かされて

      又読んで見る「力の泉」

              ○

      先生の深きお情身にしみて

      疲れも癒えぬ今日のお手紙

              ○

      頑健な身体でなくば願望も

      只水泡だ病床に泣く

              ○

      青春の希望に燃ゆる此の我に

      あゝ誰か此の悩みを与へし

              ○

 身を以て示した大教訓。兄去つて此の民族生きるか。

 君を犬死させては相済まぬ。         ―「コタン」一部五十銭送料四銭―

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      北斗農園の設立

 違星北斗、アイヌ民族を背負つて起った義人は斃れた。吾等はこの死を無意味にしたくない。此の理由から新計画を発表する。

 一、本社は、違星氏の遺著『コタン』の出版全部を無償にて為し、本書の売上金全部を提供す。

 二、此の資金により同氏の郷里北海道余市に農園を経営す。余市林檎は名産なるにより之を主とす。

 三、農園はアイヌの有望なる青年の教育を主眼とし、人物養成の手段とす。

 四、資金の一部を違星氏遺族の慰問費にあつ。

 五、同書十部以上の引受者を以て北斗農園の賛助会員とし、永久に敬意を表す。

          コタンに輝く武士道

 「コタン」を読めば真のアイヌの気質が分る。それは、実に我が古武士の気質そつくりである。私は敢て言う。今の日本に、古武士のおもかげを其のまゝ見せる如何なる書物ありやと。本書によりて、も一度自分たちの生活を見直したい。

 同書は、私が近来読んだ書物の中で最も強い感動を受けたものゝ一つである。血を以て書かれた得がたい書物である。

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編輯余録

(略)

▼アイヌの熱血児違星北斗氏の遺著「コタン」が出ました。之をお読みになる事が直にアイヌ民族保護救済事業の援助になるのです

(後略)

2007年11月 3日 (土)

松木淳


オークションで取引された本

 新短歌 『太陽と雪』 アイヌ人違星北斗の歌 一條 正著(終了日時 : 2005年 9月 7日 7時 54分)
http://rating4.auctions.yahoo.co.jp/jp/show/rating?userID=aak88650&author=mimizou58&bfilter=&bextra=&brole=buyer&bpn=1&bsf=

国会図書館にもなし。一條正という人は昭和初期の詩人のようです。

・「路上」108号に北斗の研究記事あり。107号にもありました。

http://www.h4.dion.ne.jp/~rojyo/

・松木淳という人の詩に北斗を歌ったものがあるようです。
http://eigaku.cocolog-nifty.com/nikki/2007/08/post_f93b.html
 



管理人  ++.. 2007/11/03(土) 16:17 [340]

松木淳(まつき・あつし、1904~1984)


 「荊の座 松木淳詩歌集」


  屑っ切れのうた 1931


 読み終りわれ眼を閉じて思うこと
 違星北斗の遺稿コタンを

 彼が持ちしアイヌの悩みと
 わがもてる
 悩みと深く通うものあり

 悩みつゝ北斗は逝けり
 いたましや
 彼をうばひし病に吾も病む

 去り行ける違星を惜しむ
 生けるうち
 知りなばわれもたよりせんものを

 去り逝ける
 違星北斗よ君が胸の
 深き悩みの われにはわかる

 去り行ける違星北斗よ
 君が霊に
 われも心を捧げて誓う

 短かゝりし二十九年のいのちなれど
 違星北斗は
 コタンに 光る

 同族を想ひて夜を泣き明せし
 違星よ
 われも泣き明すもの

 

 

管理人  ++.. 2007/11/06(火) 19:28 [341]

 松木は山口県出身の詩人・歌人・運動家で、若い頃は水平社員であり、差別と結核に苦しんだようで、コタンを読み、北斗へのシンパシーを感じて歌を詠んだようです。
 北斗に関する歌は「コタン」出版の翌年、1931年に詠んでいます。

 生前の北斗もまた、水平社運動に尊敬を払っていました。
 もし、二人が出会っていたら……どうなっていたでしょうか。

管理人  ++.. 2007/11/06(火) 19:39 [342]

2007年9月27日 (木)

「愛国心を考える」

検索に引っかかった本

「愛国心を考える」 (岩波ブックレット NO. 708)

 なぜ,いま愛国心か
  愛国心と九・一一/日の丸・君が代と愛国心教育

II 愛国心の起源
  愛情とイデオロギー/宗教,国家,愛国心/革命を起源とする愛国心/下からの愛国心が上からの愛国心に変わるとき

III 愛国心と近代国家
  愛情と忠誠心/愛国心,ナショナリズム,ジンゴイズム

IV 近代日本の愛国心
  上からの愛国心/国民精神総動員運動/愛国心と帝国/戦後の愛国心論争

V 行動で示される愛国心
  愛国心という化け物/田中正造/違星北斗/小林トミ/ヴァレリー・カウア/国境を超える愛国心

VI グローバリゼーションの時代の愛国心
  愛国心と安全/愛国心と恥の感覚/愛国心,ネーション,個人/愛国心と教育/愛国心と平和

http://www.iwanami.co.jp/hensyu/booklet/

早速注文。
テッサ・モーリス・鈴木さんは「辺境から眺める」で違星北斗について軽くふれられています。
今回は、北斗について、もう少しつっこんでいただけるとよいなあ思います。

管理人  ++.. 2007/09/28(金) 00:22 [339]

2007年8月 5日 (日)

「ドキュメント 人と業績大辞典」

国会図書館の新聞から、特定の人の記事を集めた資料集として、

「ドキュメント 人と業績大辞典」

というものが発行され、その第3巻に「違星北斗」の項目があるようです。

 かなり高いので買えそうにありませんが、どこかの図書館にあれば、見てみたいと思います。

http://homepage3.nifty.com/nada/page004.html
管理人  ++.. 2007/08/05(日) 23:40 [331]

クリックで拡大表示 ( .jpg / 26.8KB )

北斗の記事は一件だけでした。

毎日新聞 1954年9月10日


”悲劇の民”の歌を絶唱
  縁りの地に近く「北斗」の碑

【その二】違星北斗(本名滝次郎)は明治三十四年北海道後志国余市町に生れた。小学校時代、皆からアイヌ、アイヌとはずかしめられるのを怒り日本人に強い反抗心を抱いていた。
 大正十四年知人を頼って上京、ここで金田一博士らの知遇を受けて感激、滅びゆくアイヌ民族の生活を世に紹介し、その生活の向上をはかることが使命だと考えるようになった。大正十五年、北海道に帰った北斗は道路工夫や売薬行商をしながらアイヌ青年の集りである「茶話笑楽会」を作り、ガリ版刷りの機関誌を発行して教化に努めたが、昭和四年一月、結核のため二十九才で死んだ。翌昭和五年担任教師だった余市小学校訓導古田謙二氏が集めた遺稿集”コタン(村)”が出版された。

管理人  ++.. 2007/08/15(水) 13:24 [332]


  アイヌ相手に酒売りている店だけが大きくなってコタンさびゆく
  不義の子でもシャモでありたい○○子の心のそこに泣かされるなり
  (シャモとは日本人の意)
  平取に浴場一つ欲しいもの金があったらたてたいものを
 などのようにアイヌ民族の悲惨な生活と、しいたげられる悲しみとが歌われている。金田一博士はこれらの歌を現代のアイヌ民族の生活感情をアイヌ民族自身が歌った唯一のものであり、啄木の影響が強いが歌としてもすぐれたものだと評している。こんど立てられる歌碑は古田氏らが作った「違星北斗の会」(札幌市北一条西十丁目門間清四郎氏方)が中心となって計画したもので、場所はアイヌ民族の故知である日高国沙流郡平取村二風谷が選ばれた。碑は歌を刻んだ石碑を土マンジュウで覆ったもので、秋は落葉に覆われ、冬は雪に埋もれ、春から夏にかけてだけ姿を現すように設計されている。碑面の文字は金田一博士が筆をとるが、遺作中から二種を選び、その一つは場所にちなんで
「沙流川(サルガワ)は昨日の雨で水濁りコタンの昔ささやきつゆく」と決まっている。

管理人  ++.. 2007/08/15(水) 14:22 [333]



金田一京助博士談
 (略)
 また北斗は大正十四年、五時間もかかって私の家を探し、途中田の中に落ちたとみえてどろだらけになって訪ねてきたのがはじめだった。よく家に出入りしたが感激性が強くまれにみる純真な男でした。


管理人  ++.. 2007/08/15(水) 14:25 [334]


 それにしても、変な写真です。

 北斗じゃないのような気もしてくる。

 まあ、でも顔の造作は同じですが、目と鼻、頬にかけての印象がかなり違う。まるで「らくがお」です。

 うーん。これはどうなんだろう。
 
管理人  ++.. 2007/08/15(水) 14:35 [335]

2007年1月23日 (火)

金田一春彦と北斗

金田一春彦「日本語の生理と心理」より


私がまだ子供のころ、父のところへ出入りしていたアイヌ人にイボシという姓のものがあって、これが風体が薄ぎたない上に金を借りていっては酒を飲み、しかたがない。私の母などは大嫌いで、イボシという名を聞くたびに毛虫にさわるように眉をひそめていたが、いつかの父不在の時に二三回来て、そのたびに玄関払いを食ったあと、姿を見せなくなった。と思っていたら、北海道のどこかで窮死したそうで、その時
世の中は何が何やらわからねど死ぬことだけはたしかなりけり
という和歌がノートに書いてあったというのには、さすがに心を動かされた。思うに彼は、異民族出身の人間としてたえず世間から冷く扱われ爪はじきされ、自暴自棄の中に死ぬ、その心境を右の三十一文字の中にうったえたものであろう。
この歌は「念仏草子」に出ているものをもじったのにすぎないが、これが実感であったろうと思うと、やはり痛ましい。

管理人  ++.. 2007/01/23(火) 18:55 [298]

谷口正氏から、上の文章について問い合わせられた京助が、谷口氏に送った電報

 ゴアンジンアレイサイフミキンダイチ

 (ご安心あれ、委細文(ふみ) 金田一)

管理人  ++.. 2007/01/23(火) 18:58 [299]

 京助から谷口氏への手紙


 春彦に善処をせまって居りますからまず/\御安堵下さい。あれは辞世の歌の一例をあげるのに、つまらない愚言を前書き致したもので全然、春彦の想像で、ウソです。
 私は責めて叱って居ります。
 違星君は私へ金貸してくれなど一度も申したこともなく、酒もタバコも用いない純情そのものの模範青年でした。春彦へ直談判下さってあやまらせて下さってけっこうです。住所は
東京都西高井戸×-×-×
 金田一春彦
    電話(×××)の××××

同居していましたら、あんな文は書く前にさしとめ得た

(以下なし)

管理人  ++.. 2007/01/23(火) 19:00 [300]

 これは昭和37年ごろだと思います。

 同じ一人の人間の印象が、こうも違うのかと思います。
 春彦先生の方の印象は、我々の抱く北斗のイメージとは違いますが、しかし子供の頃の印象としては、やはりそういうものがあったのかもしれませんね。
 誰かと間違えているのかもしれませんが、京助の奥さんの反応などは、そういうところがあったのかもしれません。
 春彦さんは知里真志保などと同じ世代で、いろいろと比較されたりしたところもあったでしょう。この文章でも、アイヌに関して、いい印象を持っていないような感じがします。

 今売っている版ではどうなっているんだろう?

管理人  ++.. 2007/01/23(火) 19:07 [301]

 たしか、真志保が一高を受けるからといって、春彦にはその年には受けさせなかった、というような記述がどこかにあったと思います。探しておきます。

 しかし、実の息子より、知里幸恵の弟である真志保を優先するというのは、子供からすると嫌なものかもしれません。
 後年、真志保と春彦は二人とも高名な学者になるわけですが、二人の間には接点があったのでしょうか。

管理人  ++.. 2007/03/02(金) 18:15 [316]

金田一春彦氏の「父京助を語る」に、知里真志保についての思い出が書かれていました。
 それも、幼い頃の話。

 幼いころ、春彦は金田一家に寄宿していた知里幸恵に可愛がられていて、あるとき、いつも幸恵に読んでもらっていたお気に入りの本が、いつのまにか無くなっていた。それを幸恵に聞くと、北海道の弟に送ったという。それを聞いた春彦は大いにショックを受け、泣いた。後日、真志保から本を送ってくれてありがとうというハガキが届いたが、どうも心がこもってないようで、宛名に「春彦君」と書いてあったのも気に入らなかった。
 実はそれは春彦の本ではなく、幸恵が買った本だったのだが、春彦はそれを知らずに幸恵にあたった。幸恵は困惑して、真志保にお礼のハガキを書くように伝え、真志保は不本意ながらそのハガキをよこしたのではないか。

 と、後の春彦は述懐しています。大人になってからも、親しくしたことはないようです。
 こういった幼年期のいきさつもあって、春彦は、真志保のことを書くときは、非常に他人行儀です。 

管理人  ++.. 2007/11/24(土) 12:38 [344]

2006年12月26日 (火)

北海タイムス昭和5年8月29日

Hokutotimes

 同族のための
     熱の歌
  

  

若くして病にたふれた
旧土人復興の運動者

 最近旧土人保護法案の撤廃と独立を提唱する叫びが目覚めた旧土人の間に挙げられて来た国家の保護にあまんじ無自覚な生活を続けて来た結果アイヌ種族の滅亡の端を発したのだアイヌ族の復興は我々の手でやれと云ふのが此純真な人々の叫びなのであるこの運動の裡に若くして此運動の第一声を挙げ病に倒れた燃える様な情熱の青年があつた事を忘れてはならない

仕方なくあきらめるんだといふ心哀れアイヌを亡ぼした心……と嘆じ、強いもの!それはアイヌの名であつた昔に恥よ覚めよウタリ……と強く叫んでアイヌ族の為に万丈の気焔を吐き志半ばにして病に倒れた一青年は名を違星瀧次郎君といひ余市旧土人をもつて組織して居る現余市造資組合長違星梅太郎君の実弟である彼は明治三十四年に生れ余市大川尋常小学校を卒業するとから或は夕張登川の木材人夫に石狩の鰊漁場に轟鉱山の坑夫に汗と血と忍苦の生活を続け大正十二年七師団に入隊して八月除隊後再び労働に従事し売薬行商をなしその間「あゝアイヌはやつぱり恥かしい民族だ酒にうつゝをぬかすその体(てい)」と寂しく歌ひ乍ら種族の自覚を叫んで歩いた、が遂に彼の終始一貫せる愛の事業も志半昭和四年一月空しく二十九歳で病に倒れたが彼が前半生を同族の為に捧げアイヌ民族全体の幸福を来す基を築き上げるまでの熱の歌と日誌の遺稿を集めてコタンといふ小冊子を頒布し彼の兄梅太郎君は又故人の遺志をついで雑誌コタンを刊行し之による収益をもつて愛憐事業の一つである故人の雅号をそのまゝに名づけた北斗農園を新設し同族の青少年を収容して旧土人復興の大事業を完成せんと意気込んで居る梅太郎君は語る
 我々はアイヌと呼ばれたくないそして差別撤廃を叫びたいんだ現在余市に居住して居る旧土人は四十八世帯二百四十六人に達して居るその生活業態を見ると労働四、農業十、漁業九十二、商業五、その他百となり、之等をもつて造資組合を設立し愛憐事業の一つとして居る故人の遺志である北斗農園設立も着々進行して居る(写真は若くして逝いた違星君)

(北海タイムス昭和5年8月29日)

管理人  ++.. 2006/12/26(火) 00:02 [286] 

 
 遅くなりましたが、北海タイムスの北斗の紹介記事です。タイミング的には、遺稿「コタン」が出てすぐです。
 皮肉なもので、目の敵にしていた「北海タイムス」にもこのように紹介されていたんですね。
 
 この写真が、北斗のもう一つの写真です。
 文中に兄の梅太郎が北斗の遺志をついで「雑誌コタン」を出すつもりだというのも出てますが、これはどの「コタン」をさすのか、わかりませんね。

 それと、「北斗農園」のことも出ています。

管理人  ++.. 2006/12/26(火) 00:07 [287]

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違星北斗bot(kotan_bot)

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