有馬氏
「アイヌ史新聞年表『小樽新聞』(大正期II・昭和期I)編」より。
《1926.07.27 「有馬博士一行/アイヌ結核調査」〈8月1日から、日高地方で、北海道帝国大学医学部の有馬博士と助手2名が、「アイヌの結核調査」に当たる予定になっていることが、『小樽新聞』で報じられた。》
これは、北斗の日記のこの記述と関係しますね。
八月十一日 水曜日
有馬氏帰札、曰く
一、アイヌには指導者の適切なのが出なかった事
二、当面の問題としては経済的発展が第一である事
これでしょうね。
「アイヌ史新聞年表『小樽新聞』(大正期II・昭和期I)編」より。
《1926.07.27 「有馬博士一行/アイヌ結核調査」〈8月1日から、日高地方で、北海道帝国大学医学部の有馬博士と助手2名が、「アイヌの結核調査」に当たる予定になっていることが、『小樽新聞』で報じられた。》
これは、北斗の日記のこの記述と関係しますね。
八月十一日 水曜日
有馬氏帰札、曰く
一、アイヌには指導者の適切なのが出なかった事
二、当面の問題としては経済的発展が第一である事
これでしょうね。
今、年譜をバージョンアップしているところなのですが、その作業中に、ある疑念が。 年譜に「曜日」の記載をしていて思い出したというか、気づいた点があるのですが……。 北斗の日記の「昭和3年4月25日」を引いてみます。 -------------------------------------- 四月廿五日 月曜日 何だか咳が出る。鼻汁も出る。夜の事で解らなかったが、明るみへ出て見ると血だ。咯血だ。あわててはいけないとは思ったが、大暴風雨で休むところもない。ゆっくり歩いて山岸病院に行く。先生が右の方が少し悪いなと云ったきり奥へ入られた。静に歩いて帰る。 ---------------------------------------- この、昭和3年4月25日は、昭和3年の日記の中で、唯一、実際の曜日が一致しません。実際は月曜ではなく、水曜日なんです。 これは前から気づいていたのですが、そのままにしていました。 で、4月25日が月曜なのは、昭和2年なんです。 じゃあ、これももしかして、と思ったんですね。 前に、昭和2年の日記がほとんど大正15年の曜日と一致していて、昭和2年として書かれているのが、実は大正15年だったということがありましたので。 北斗は昭和2年の4月にもニシン漁のために、余市におり、そして昭和三年と同様、昭和二年も4月下旬に倒れています。(昭和二年は夏までに回復する)。 では……昭和3年4月25日の日記も、じつは昭和2年の4月25日なのではないか、と思ったんです。 まあ、証拠が揃っていないので、なんともいえませんが。 この謎を解くキーワードは、やはり「大暴風雨」でしょうね。 昭和2年と3年の4月25日の後志地方の天気を調べれば、どちらが正しいかがわかるはずです。 ネット上では、ちょっと難しいので、これも現地でしらべなければなりませんね。 |
北斗の全資料を再読しています。 その中で、いくつか発見がありましたので、書き込んでおきます。 (1)「子供の道話」昭和2年1月号に掲載された北斗の手になる童話「世界の創造とねづみ」について。 このお噺は、「清川猪七翁」からの聞き取ったものですが、この清川猪七翁という名前、どこかで見たことがあると思っていたのですが、この方はジョン・バチラーの助手であった「清川戌七」ではないかと思います。 清川戌七といえば、「『アイヌの父』ジョン・バチラー翁とその助手としてのアィヌ、私」の中で、ジョン・バチラーや八重子、吉田花子のことを語っている方です。 http://iboshihokuto.cocolog-nifty.com/blog/2004/10/post_ab90.html この方は、1874(明治7)年生まれですから、この童話が書かれた大正15年には52歳、北斗から見れば「翁」といっても差し支えない年齢だと思います。 「文献上のエカシとフチ」(札幌テレビ放送)によると、この方は新冠出身、明治22年新冠でジョン・バチラーと出会い、以後その布教を助けたそうです。 生活地は平取町荷菜ということなので、北斗が平取教会にいたときに出会ったのでしょう。 |
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投稿者: 管理人 投稿日: 1月29日(土)01時51分21秒
後藤静香遺稿集の年表によれば、後藤静香の東北・北海道巡講は大正15年の8月となっているんですが、これ、北斗の日記では昭和2年です。一年ずれています。
でも、日付と場所は一致するんです。
以下、比較です。
(後藤静香年表T15年)・・・・(違星北斗日記S2年)
8月26日(記述なし)・・・札幌バチラー先生宅にて一泊。後藤先生本日来札
27日 札幌・・・・・・午後、後藤先生バチラー先生方へ御来宅。金をどうするかと訊かれる。
28日 小樽・・・・・・雨、時々晴 小樽で後藤先生の御講演を聴く。
29日 小樽・・・・・・(記述なし)
30日 夕張・・・・・・(記述なし)
31日「アイヌ部落」・・午後十一時卅二分上り急行で後藤先生通過になる筈。中里君と啓氏と三人で停車場に行く支度をする。併し先生は居られなかった。
とあり、まったく一致します。
ということは・・・・どういうことか。
どちらかが年号を間違えているわけでしょうが、どっちでしょう。
後藤静香の年表? それもありえるでしょう。しかし、この年表は希望社という組織の記録でもあるので、ある程度信頼性はあると思います。個人の日記である北斗の日記の方が間違っている可能性が、高い。
もし北斗の方が間違っているのであれば、ものすごいダメージです。
もう一度、日記の日付の信頼性から考え直さなければならない。
しかし、私自身この現在の年表にスッキリしないものを感じていたのも事実です。
どうも、北斗の動きが不自然です。バチラー幼稚園にいた昭和2年の夏の日記が、どうも腑に落ちないというか、他の記録と違和感があるというか。
もし・・・。
日記の昭和2年が、実は大正15年の日記だったとしたら? 「コタン」編集の段階で間違ったという可能性は考えられないでしょうか。
大正15年の8月といえば、まだ東京から戻ってきてさほど時間がたっていません。しかし西川への手紙で、大正7月7日に幌別についたという記述と、日記の始まりが「昭和2年」7月11日であるという記述は妙に胸騒ぎを覚えます。
そういえば、北斗の筆致が妙に初々しく、感動に満ちている気がする。バチラー八重子の姿に感動し、知里幸恵の家を初めて知った、という。この感激は、どこかで見た気がする。北斗は、帰道後、幌別についてから大正15年7月25日に確かに沙流川の河畔で短歌を詠んでいるんですが、この感激具合が、ちょうどそれっぽい気がします。
そう考え出すと止まりません。
もし、日記の昭和二年の夏が、本当は大正15年の夏の日記だったら?
そしたら、自分の中にあった違和感はすべてクリアになるような気がする。
たとえば、あの不朽の名文といわれる「アイヌの姿」を書いたのは昭和2年7月2日。同人誌「コタン」の発行は昭和2年8月10日。発行は余市の中里凸天とであり、平取にいて幼稚園の手伝いをしていて出来る仕事ではないでしょう。とても重要な、すごみのある仕事をしている。昭和二年の夏には、すでに北斗の思想は固まっている。各地の同志と連絡を取り合い、活動をしている、と見るべきでしょう。
やはり、バチラー幼稚園云々は、帰道直後の日記ではないか、という気がします。
そして、極めつけ。
違星北斗の日記にはこうあります。
「(昭和二年)七月十一日 日曜日 晴天 平取にて」
曜日計算ソフトで調べてみると、「昭和2年」の7月11日は月曜日、大正15年の7月11日が日曜と出ます。やっぱり、という感じです。
念のため複数のソフトで調べましたが、同じ結果です。この後の曜日も、大正15年の方に一致します。
これは・・・もうちょっと検証が必要だとは思うのですが、ひょっとしたらひょっとしますね。
『コタン』所収の「日記」の、昭和2年の日記(の少なくとも一部)は、大正15年の日記である可能性が高い、と言えるんじゃないでしょうか。
この仮定が本当だとしたら、いろんな不自然さが氷解すると思います。
どうでしょうか。
おそらく間違いないと思います。
というわけで(続き) 投稿者: 管理人 投稿日: 1月29日(土)01時45分12秒
北斗は大正15年7月7日に北海道に帰り、その後すぐ、11日に平取でバチラー八重子の姿に感動し、そこでバチラー幼稚園と後藤静香のお金の問題に巻き込まれる。秋に余市に一時的に帰るが、その後平取に戻り、大正天皇の崩御を平取で聞く。その後昭和2年3月に兄の子の死とともに余市に帰り、そこからは余市を活動の中心としはじめます。研究、春から病を得ますが、夏には何とか治り、思想が完成して同人誌「コタン」や「アイヌの姿」ができるのが夏。バチラー八重子の影響を受けた短歌が、雑誌に載り始めるのが昭和2年の秋です。そして行商の旅と喀血と闘病。
帰道後の北斗の動きは、こういう流れでしょう。
ああ、スッキリした。まったく。
曜日が違うよって、誰か気づかなかったのでしょうか。
(というか、皆さん、特にporonupさんとか、ご存じだったりして・・・)
日記は 投稿者: 管理人 投稿日: 1月29日(土)02時27分52秒
さて、『コタン』の昭和2年の日記が、じつは大正15年のものだったと仮定してみると、他の年の日記も気になります。
曜日を調べて見ると、昭和2年はすべて大正15年の曜日と一致する。昭和3年・4年は正しい。
ただし、昭和3年4月25日は月曜となっているが水曜が正しい。もしくは25でなくて23日月曜日の間違いかもしれない。
また、昭和3年8月8日は火曜となっているが、水曜が正しい。もしくは8月7日火曜が正しい。
いずれにせよ、本来あるはずの昭和2年の日記が欠落していることになります。
古田謙二が希望社に送った手紙には、遺稿整理の際参照した文書の中に、日記帳数冊と、希望社発行の一年日記「心の日記」の昭和2・3・4年版があるので、どうもこの古田の遺稿整理に問題がありそうです。
この古田謙二が希望社に送った遺稿とは、古田がボストンバッグに入った北斗の遺稿を原稿用紙に書き写したものであり、遺稿そのものは余市においてあったのでしょう。もしかしたら、違星北斗の遺稿というのは、案外残ってたりするのかもしれませんね。
ただし 投稿者: 管理人 投稿日: 1月29日(土)08時14分16秒
「昭和2年」12月26日(曜日は書いていない)は、昭和2年で正しい気がします。
兄が感冒で寝ている、との記述があるので、北斗は余市にいるということです。
もし、大正15年なら、前日に12月25日に大正天皇の崩御があったわけですから、大変です。しかし、日記には何も書いてない。
北斗は山の中の平取コタンで2日遅れの崩御の報を聞いたのです。やはり、この12月26日は昭和2年の年末だとすべきではないでしょうか。
ノートの現物が残っていればなあ、と思います。
というわけで 投稿者: 管理人 投稿日: 1月29日(土)08時32分16秒
年表を変えてみました。
補足です 投稿者: 管理人 投稿日: 1月31日(月)07時58分54秒
北斗の足取りを追うためには、日記と西川光次郎宛書簡、新短歌時代、小樽新聞の掲載などが役立つのですが、これまで、日記昭和二年の問題があり、「短歌」の制作年代が割り出しづらい状況があったのですが、今回、北斗の動きがシンプルになったので、今後、やりやすくなると思います。
北斗の思想はまず幌別に腰を下ろし、平取に落ち着いたのでしょう。
知里幸恵、バチラー八重子、ジョン・バチラーのことは金田一から聞いたでしょうし、ジョン・バチラーのことは、尊敬する希望社の後藤静香からも聞いたでしょう。
(しかし「希望社がバチラー幼稚園の援助をしていた」それがいつからなのか、どういったいきさつなのかはよくわかりません)。
大正15年夏から昭和2年の春まで北斗は平取にいます。ここでバチラー八重子とともにあり、知里幸恵の理想を実現すべく、思想を育み、活動の準備をしたのだと思います。ここで得た人脈はバチラー伝導団の人脈です。
八重子、辺泥和郎、そして金成/知里家。あこがれの幸恵の弟、真志保と知己を得るのも自然な流れでしょう。アイヌ人口の多い平取で育った屈託のないアイヌたちや、和人の教師やキリスト教指導者、医師といった人格者の温かい視線たちに囲まれて、次第に思想が固まっていったのでしょう。(しかし、この温かい視線は、のちにコタン巡察での同族から冷たい視線にうってかわり、その落差が北斗を苦しめるのですが)。
昭和2年の北斗の夏の仕事は、自信に満ちあふれ、北斗は「打って出る」体勢にあったと思います。「アイヌの姿」、同人誌『コタン』。
大正15年の夏、沙流川の河畔で得たポエジーは、バチラー八重子の影響を受けた短歌として、やがて奔流のように北斗の思想を世の中に示し、後のアイヌの活動に影響をあたえることになります。
補足ですが、
・後藤静香年表にT15に北海道訪問はありますが、S2年に北海道訪問の記録はありません。
また、日記昭和2年が大正15年であるなら、
・北斗が働いた「バチラー幼稚園」の設立年ですが、こうして『バチラー八重子の生涯』にあるS2年はありえない。『異境の使徒』の大正11年の方が正しいのでしょう。
昭和3年9月3日の日記
山野鴉八氏から葉書が来た。仙台放送局で来る七日午後七時十分からシシリムカの昔を語るさうだ。自分が広く内地に紹介される日が来ても、ラヂオも聴けぬ病人なのは残念。
これはもしかしたら、北斗のことが、この放送で紹介された、と見るべきなんでしょうか。
いままで、「もし、そういう日が来たら」という仮定だと思ってたんですが、そういうふうにも読めるんですね。
語る内容「シシリムカの昔」は、沙流川の昔のことですから、平取にいた北斗であれば、紹介することはできるわけです。
※「山野鴉八」はただしくは「山野鴉人」。昭和3年9月7日に仙台放送局(ラジオ)で午後7時10分より「趣味講座・短歌行脚漫談」が実際に放送されている。北斗が紹介されたかどうかは不明。(05/10/16)
現代人である私たちの感覚とはだいぶちがうと思うのですが、それでも北斗はかなり筆まめだったと思います。
余市住宅地図と同じ日に買った、「後藤静香全集10 実践運動篇・静香年譜」が届きました。古本で1500円程度。
後藤静香(せいこう)は東京時代に北斗が思想上の影響を受けた人物。修養団体希望社の主宰者で、盲人、らい病患者、アイヌや台湾の高砂族などの少数民族の援助、ローマ字運動、エスペラント運動などいろんな運動(希望社運動と呼ばれた)をした人で、その主著『権威』は100万部を売ったといいます。
修養団体っていいますが、まあ神様のいない宗教みたいなものでしょうか。実際、後藤は神様のように「信者」に慕われるカリスマでした。
後藤静香はクリスチャンですが、希望社の教条はキリスト教だけではなく、個人個人が修養して、国家に役立つ立派な人間になろう、という生き方の指南するような感じでしょうか。仏教や儒教やら、リンカーンやらナポレオンなんかの歴史上の偉人のいい話などもごたまぜに盛り込んでいて、なにより絶対的な前提として、「お国のために」というのがベースにあります。
で、後藤静香全集です。
これでまたいくつかの謎が解けました。
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