○新発見

2016年1月20日 (水)

【新発掘】 違星北斗「小曲」

小曲

1 

アイヌモシリの

遠おい遠い

むかしこひしの

恋ひしややら

2 

光るは涙か?

それとも声か?

澄むほど淋し

大熊小熊

3 

みんなゆめさと

わすれてゐても

雲るも涙

照さえかなし

4 

北のはてなる

チヌカラカムイ

冷めたいみそらに

まばたいてゐる

(大正14年ノートより)

2015年2月 9日 (月)

北斗の短冊

 「アイヌ民族否定論に抗する」(河出書房新社)をお読みになった方がツイッターで興味深いつぶやきをされていました。
 その方のお祖父さまは、違星北斗のお知り合いだったとのこと。
 さっそく、ツイッターで連絡させていただきました。
 現在、札幌にお住まいのTさんとおっしゃられる方で、その方のお祖父さまは、小樽の景山病院で働いて短歌や俳句をされており、ご自宅に北斗が泊まられたられり、一緒に銭湯に行ったことがあるそうです。
 
 景山病院といえば、北斗が活躍していた「新短歌時代」に掲載された「さらば小樽よ小樽の人々よ」という福田義正の文章に登場します。

http://www.geocities.jp/bzy14554/sarabaotaruyo.htm

 
 また、今回ご連絡をいただいたTさんのお祖父様のお名前も、上の文章に出ているそうです。

 さらに!
 ご自宅に現在も「北斗の直筆の短冊」がある、とのことでした。

 それが、こちらです。

Ss


 これは、間違いなく、北斗の筆によるものだと思います。

 特徴的なのが「4」に似た「斗」の形、斗の右下に点を打つこと。

2012年11月12日 (月)

「違星北斗君を悼む」

新短歌時代 第3巻第3号 昭和4年3月1日発行

『違星北斗君を悼む』      村上如月

 握飯腰にぶらさげ出る朝のコタンの空でなく鳶の声

 同族への悲壮な叫びも報ひられぬのみか、異端者として白眼視された時、焰と燃えた情熱は、何時しかあきらめを透して呪詛と変じて了はねばならなかつた。真剣に戦を戦うた君に、カムイ(神)は無上安楽の境地を、死に依つて与へたと謂ふことは、ハムベやハポに優る哀しみを、万に余る君の同族に均しく強く与へた結果となつた。歎かずにはをられない。
 一月廿六日―それは群星もあの天空にそのまゝ凍てついたかと思はれる程寒さの強い夕、私は、なにも知らずに、懐しい詩友の温容を瞳に拾うて、札幌の旅から帰つたのであつたが、君の霊魂は、この時すでに、コタンのつちを離れて、九品の浄域いや西方の九天にと昇るべく、ひたすらの旅立ちをしてゐた事であつたらう。
 病めば心は萎へるといへば、或は臨終の前には、神に凡てを委ねきつた君の姿であつたかも知らぬが、少くも私には、魂の奥底に石の如うにひそむ情熱がつゝむ「無念」の相の君ではなかつたかと想はれてならない。

 だうもうなつら魂をよそにして、弱いさびしいアイヌの心

 君の死を知つては俳壇の耆宿もない。私は早速にも短冊掛に、これを入換へねば済まなかつた。湧然として、君の姿が声が、私の書斎に現れれた。
 それだから私は今、君に喚びかける。
 人が称ぶ「凡平庵」に、君と初めて会うたのは、君も忘れはしまい、昭和二年も暮の十二月二日であつた。見ぬ恋が達せられたいつた形の私の前に、容赦もなく放げ与へられたのは、君のシヤモ(和人)に対する満々たる不平の怒号であつか。飽く迄濃い君の眉毛、朱を帯びた君の頬。

 アイヌッとただひと言が何よりの侮蔑となりて憤怒に燃江る

 そのかみ、徳冨芦花を殺めんとしたと謂ふ情熱はこれであつたか。然し昨年の春寒い三月十三日―君が雪にまみれた姿を、日高胆振の旅の帰りと謂うて、私の高原の家に現はした時、情熱はいや冴えに冴えたといふ想ひはしたが、唯シヤモに対しての空しい闘争のみではなく、同族の為に、国史の為に、アイヌ民族文化の跡を、アイヌの手に依つの研鑽したいと謂ふ、涙ぐましい態度を示したものであつた。かの西田教授との学理的抗争も、恒に考証に悩みつゝ、一歩も後へは退かじとした君の意気には、学徒ならざるが故のみではなく何かしら叱咤激励を続ければならない原因がある如うな、重苦しい想ひさへしたものである。
 メノコ可愛やシベチヤリ河で、誰に見せヨと髪をすく
 日高の話に花が咲いた。曇天のシベチヤリ河の、朝に泛ぶ丸木舟も哀しければ、馬歌山の伝説は、更にいたましい。
 日高名産栗毛の馬にメノコ乗せれば、あレ、月が出る。
殊にもウセナイの濱の秋風に、点在する草家の影。
 ニシパ(主人)ゐねとてセカチ(若者)がしのぶ草家ホイ/\月ばかり。
 こんな私の戯れを、君はどんなに嬉しがつたか。あゝ然し、私に懐かしかつた日高の旅も、君には、また白眼視する「日高アイヌ」の心情をにくむ心が絡はつて、つらく、哀しい日高の旅であるらしかつた。
 虎の仔の如うに大事に持つて来た「高杯」に首飾玉の一つを加へて、君は欣んでコタンへ帰つて行つたが、間もなくの病臥を旅疲れとのみ信じた事は、如何にも哀しすぎる憶測ではあつた。
 五月五日、浜風の寒い日、小樽から帰りをかねての約束に依つて、私は余市大川町の君を訪ねやうとしたのであつた。
訪ねる家は判らない。ハチヤコ(赤児)を背にしたバツコ(老婦)がきゝつけてわざ/゛\案内してくれたのだが、何故かしら、君の同族に親しみを得たいとする心には嬉しい記憶として残つてゐる。
 君よ、この日の君の言葉、些か窶れた頬などを、聴納め見納めと思ふて、私は余市のあの茅ぶきの嬉しい林檎の枝々を、車窓に送つてゐたのではなかつたか。凡ては尽きぬ怨みである。
 あはれ挽歌。
 然し歌ひ得ぬ私である。詠はれぬ今の私である。
 マキヤブといふひと言ゆゑに火と燃えた北斗星の血潮は セカチの血潮だ
                   ×
 雪よ降れ降つて夜となれあゝ一人こゝにも死れぬ男のまなざし
                   ×
 エカシらがコタンに泣く日セカチらが神に祈る日北斗が死んだ日

 註。イキャップ(アイヌ語。最モ忌マレル侮辱ノ言葉) エカシ(同。老爺)
   コタン((同。所又は村落)

 在りし日の君の生活を写す追憶記、君の業績を讃へる追憶言が、君をめぐるアナバ(親戚)や、イカテオマングル(朋友)に依つて為されるであらう事を信じてゐる。故あつて一年有余樽新文芸欄と断つた私が、まずしくもさびしい、君の追悼記の片鱗をももして蘇生らうとする事は、多少のシヨツクを感じられぬものでもない。 
 ともあれ君よ。
 君の霊位よ。
 永くコタンの空に君臨せよ。
 嗚呼、ラムコログル(葬儀に泣く人)も歎け。イコンヌグル(魔法使)も呪へ。
 月なき今宵、ただリコブさつそうと北にとぶ。
                                          ―(完)―

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「歌壇戦線」

(略)

本道が産む唯一のアイヌ歌人違星北斗君、昨秋来の肺炎に虐まれあたら民族再興の覇気も空しく、痛ましくも青春と永別す。高商西田教授を向ふに廻して、樽新紙上に論陣を敷いた「フゴツペの研究」も半ばに夭折したことは、真に痛惜の限りである。村上如月、稲畑笑治両君の彼の死を悼む一文は、けだし彼の面目を写し得て余蘊あるまい。彼の遺稿は友人吉田伊勢両君の手に蒐められ、樽新又は本誌に順次採録することになつてゐる。吾等は二世違星北斗君の出現をまちたい。

(略)
------------------------------
「編集後記」

(略)最後に同人日出彦氏の養母、かつての加盟者違星北斗氏、高松利雄氏の死去に対して、茲に心から哀悼の意を表して置く【凡平】

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違星北斗、新情報

現在、「違星北斗と口語短歌」という企画展が開催されている、小樽文学館の方から、何点か、北斗に関する情報をいただきました。

 (これらは、現在開催中の小樽文学館の企画展「違星北斗と口語短歌」に展示されています)。

1 村上如月「違星北斗君を悼む」 

 『新短歌時代』第3巻第3号(昭和4年3月1日発行)に、村上如月による「違星北斗君を悼む」という記事が掲載されているとのことで、コピー画像をいただきました。
 テキスト化して、別ページにアップします。

2 違星北斗の描いた絵画「イナウ」

  北斗が描いたエカシのカラー絵画です。
  

 

  Iboshi2

 

  エカシがイナウを削っているところです。

  北斗はエカシ(老翁)の絵ばかり描いていますね。本当に、エカシが好きなんだなあと思います。

  この絵は、河野本道氏所蔵のものです。

3 違星北斗の写真(台紙付き)

 

Iboshi

   丸坊主の北斗。

   台紙に「新宿ステーション写真室」とあります。
   東京で、新調した背広を着て撮った写真ですね。

   握った拳が力強いです。

   

   写真と絵画に関しては、違星北斗.comの「絵画ページ」と

   「写真ページ」も更新しておきます。

 

2010年8月15日 (日)

違星北斗「ウタリ・クスの先覚者中里徳太郎氏を偲びて」

 本当に、久しぶりの更新です。すみません。

 「沖縄教育」1925(大正14)年6月号に掲載された伊波普猷の論文「目覚めつゝあるアイヌ種族」は、東京時代の違星北斗の姿を描いたものとして有名ですが、それと同じ号に、違星北斗による「ウタリ・クスの先覚者中里徳太郎氏を偲びて」という文章が掲載されていましたが、希少な雑誌のため、確認できていませんでした。

 伊波普猷の論文の方は、その後伊波普猷全集に収録されたましたので、容易に目にすることができたのですが、北斗の文章は雑誌掲載後、どこにも転載されませんでしたので、幻の文章になっていました。

 昨年4月、沖縄県の学芸員の方に「沖縄教育」の記事を見せていただくことができましたので、本文が確認できました。

 だいぶ間があいてしまいましたが。

 1925年2月に上京した北斗は、金田一京助との出会いをきっかけにいろんな学会に顔を出すようになり、この3月19日に金田一が開いた「東京アイヌ学会」に出席し、そこで演説することとなります。それを文章化したものが、この論文です。

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2009年1月24日 (土)

新発見資料

道立図書館にて、資料調べ。

新発見あり。

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2008年11月28日 (金)

北斗の姿

 「アイヌ史新聞年表『小樽新聞』(大正期II・昭和期I)編」という本を入手。
 これは、國學院短期大学コミュニティカレッジセンターが刊行しているもので、明治時代からの小樽新聞の中で、アイヌに関する記述を集めた目録の3冊目にあたる本です。
「大正期II・昭和期I編」は、大正11年から昭和5年を収録しています。
 ちょうど、北斗が活躍した頃のものになるので、北斗に関する記載はないかと探してみたら、大変な発見がありました。

1929年(昭和4)年1月30日に、余市の歌人・山上草人の短歌が掲載されています。

  夕陽さす小窓の下に病む北斗ほゝえみもせずじつと見つめる
 
  やせきつた腕よ伸びたひげ面よアイヌになつて死んでくか北斗

  この胸にコロポツクルが躍つてる其奴が肺をけとばすのだ畜生!

  忘恩で目さきの欲ばかりアイヌなんか滅びてしまへと言つてはせきこむ
 

 北斗の闘病末期の姿を映した短歌です。
 
 また、北斗の死後の2月17日には、札幌の上元芳男による短歌が掲載されています。

  風寒い余市の海の浪音に連れて行かれた違星北斗よ

  アイヌだけがもつあの意気と弱さとを胸に抱いて違星は死んだ
 

 3月2日にも、山上草人の北斗に関する短歌が掲載されています。

  遺稿集あんでやらうと来て座せば畳にみる染むだ北斗の体臭

  クレグールくさい日記にのぞかれる彼の想ひはみな歪んでる

  「このシヤモめ」と憤つた後の淋しさを記す日記は読むに耐へない

  金田一京助さんの恩恵に咽ぶ日もあり、いぢらしい男よ

 さらに、3月8日にも余市の山上草人による短歌があります。

  「神なんかいないいない」と頑張った去年の彼の日記がイエスの言葉で閉ぢられてゐる

  凡平の曾ての歌を口ずさみ言ひ寄つた去年の彼を忘れぬ

  シヤモの嬶貰つた奴を罵倒したその日の日記に「淋しい」とある

  ウタリーの叫びをあげた彼の歌碑どこへ建てやうどの歌彫らう

 さらに、幾春別の木芽伸一による「違星北斗君の死をいたむ」と題された短歌

  亡んでくアイヌのひとりの彼もまたさびしく病んで死んでいつたか

  泣きくれる北斗の妻子のおもはれてさびしくきいてる今宵の吹雪よ

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2008年10月30日 (木)

グーグル書籍検索で「違星北斗」を検索してみた

 グーグルに「書籍検索」というものがあり、アメリカの図書館の蔵書の「中身」が検索できるようになっています。
 アメリカの図書館といっても、英語だけじゃなく、アメリカの図書館の中に所蔵されている「日本語」の本の中身も日本語で検索できるようになっており、結構すごいことになっております。

 私としては当然のことながら、「違星北斗」で検索してみましたところ、いろいろと出てきました。

 ただ、たとえば「違星」と検索しても、その名前の前後の20文字程度しか出てこない、あるいはその本の中に「違星」という言葉が含まれているということしかわからない、といったものですので、結局はその本をどこかで探して読まなければならないのですが。

 また、スキャナで取り込んで、OCR(文字認識ソフト)文字化しているのですが、文字認識の精度が低く、正しく「違星」と認識されている場合もあれば、「連星」「迫星」など、違った文字として読まれてしまっているのもあり、似た文字をいろいろ試しながら、現在、そのリストを作っているところです。

 その作業の中で、ちょっとした発見がありました。

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2008年10月24日 (金)

北斗からの手紙(3)昭和3年6月20日

さて、新発見の手紙、3通目です。
週末しか更新の時間がとれないので、なかなか先にすすめませんが、ご勘弁ください。

昭和3年6月20日の消印。
余市大川町違星北斗から杉並町成宗の金田一京助への手紙です。
この手紙は、ちょっと、扱いに困ります。内容がプライベートすぎるといいますか、梅子さんという女性についての記述や、余市コタン内での人間関係に関する記述が多いので、それらについてはおおまかな概略だけのべて、引用はしないことにします。

東京の思出が それから それへと なつかしい日です。
静かな雨が降ってゐます。北海道はお節句 と云ふので となり近所はドッシンドッシンと米を ついてゐる きねの音が平和に ひゞいてゐます。子供らのとって来た熊笹の若葉は ベコ餅 をのせたり 三角に包むにちょうどよい程 のびてゐます。雪のあるうちから 寝てゐた私は もうこんなに伸びた のに 一寸と 光陰あまりに早いのを 一寸と 妬みもしましたが すぐまた、青々生々してる熊笹を愛します。


 「お節句」というのは、五月五日の端午の節句ですね。それを昭和三年当時の余市では、旧暦の五月五日で祝っているようです。この手紙が出された六月二十日は旧暦では五月三日、旧暦五月五日は六月二十二日になります。ちょうど、節句の前の準備をしているところなんですね。
 「ベコ餅」というのは、私は近畿の人間なので知らないのですが、調べると北海道や東北地方の一部において、端午の節句で食べられる菓子で、黒白二色なのでベコ(牛)だからベコというそうです。(鼈甲がルーツという説もあるということです)。
 北斗は4月の末に喀血して病床に伏し、手紙を書いた時点で、約二か月、病床にあるという状況です。

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2008年10月11日 (土)

北斗からの手紙(2)大正15年7月8日

さて、2通目の手紙です。

 宛先は「東京市外阿佐ヶ谷町大字成宗三三二
金田一京助先生」、封筒に書かれた日付は大正15年7月8日、差出人は「北海道室蘭線ホロベツ バチラー方 違星滝次郎」とあります。
 
 北斗は大正15年7月5日夜に東京を発ち、7月7日に北海道の幌別に到着しています。その翌日に書かれた手紙です。
 
 これを見ると、北斗は帰道直後、バチラー八重子のいる幌別(現・登別)の聖公会の教会に寄宿したことがわかります。

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