◇資料:私家版

2007年4月 1日 (日)

古田文書再読

古田謙二「アイヌの歌人について」に以下のような記述があります。

北斗は余市のアイヌの青年を集めて茶話笑楽会という会を作った。お茶を飲みながら、笑い楽しみ乍ら話をする会というので、その間にアイヌ青年の自覚をうながしてゆきたいというのが目的であった。そしてその会の顧問に私は推されたのである。
笑楽会は、中里篤太郎の家の二階で行なわれた。二階は四間位もあり、フスマを皆はずして広々とし、輪になって語り合った。真中にテーブルをおき、それで一人ずつ出てしゃべることもあった。
昭和二年であったか三年であったか忘れてしまったが杜会主義者の朝鮮人朴烈と日本人の文子とが獄中で恋愛し、裁判で朴烈文子事件として騒がれたあの事だと思う…ある秋の笑楽会の風景がハッキリと眼前に浮かんでくるのである。その時は、秋が深かつたか、すでに冬になっていたか、とにかく樺太出稼の運中が皆帰っていて、樺太で虐待された話を盛んにしていた。
次から次へとアイヌ青年がテーブルをたたいて論じた。その時北斗は、「我々アイヌの中には優れた者はいないかもしれない。しかし、一人の朴烈文子も出していないのである。」とて、国に忠誠なる旨を述べて満場の拍手をよんだ。
中里篤治は、その時は青い顔をしてすでに肺を病んでいるのか元気がなかった。


 この証言が正しいとすれば、北斗が茶話笑楽会で朴烈について語ったというのは、おそらく昭和二年の秋ですね。
 昭和2年に発行された同人誌「コタン」に「会員の殆ど全部がカラフトへ出稼ぎ中」という記述があります。
 大正13年だと、まだ朴烈は大逆罪に問われていませんし、大正14年は東京、大正15年は秋冬は日高にいます。昭和3年は病床にあります。
 昭和二年だと思います。

管理人  ++.. 2007/04/01(日) 23:37 [318]

2007年1月23日 (火)

金田一春彦と北斗

金田一春彦「日本語の生理と心理」より


私がまだ子供のころ、父のところへ出入りしていたアイヌ人にイボシという姓のものがあって、これが風体が薄ぎたない上に金を借りていっては酒を飲み、しかたがない。私の母などは大嫌いで、イボシという名を聞くたびに毛虫にさわるように眉をひそめていたが、いつかの父不在の時に二三回来て、そのたびに玄関払いを食ったあと、姿を見せなくなった。と思っていたら、北海道のどこかで窮死したそうで、その時
世の中は何が何やらわからねど死ぬことだけはたしかなりけり
という和歌がノートに書いてあったというのには、さすがに心を動かされた。思うに彼は、異民族出身の人間としてたえず世間から冷く扱われ爪はじきされ、自暴自棄の中に死ぬ、その心境を右の三十一文字の中にうったえたものであろう。
この歌は「念仏草子」に出ているものをもじったのにすぎないが、これが実感であったろうと思うと、やはり痛ましい。

管理人  ++.. 2007/01/23(火) 18:55 [298]

谷口正氏から、上の文章について問い合わせられた京助が、谷口氏に送った電報

 ゴアンジンアレイサイフミキンダイチ

 (ご安心あれ、委細文(ふみ) 金田一)

管理人  ++.. 2007/01/23(火) 18:58 [299]

 京助から谷口氏への手紙


 春彦に善処をせまって居りますからまず/\御安堵下さい。あれは辞世の歌の一例をあげるのに、つまらない愚言を前書き致したもので全然、春彦の想像で、ウソです。
 私は責めて叱って居ります。
 違星君は私へ金貸してくれなど一度も申したこともなく、酒もタバコも用いない純情そのものの模範青年でした。春彦へ直談判下さってあやまらせて下さってけっこうです。住所は
東京都西高井戸×-×-×
 金田一春彦
    電話(×××)の××××

同居していましたら、あんな文は書く前にさしとめ得た

(以下なし)

管理人  ++.. 2007/01/23(火) 19:00 [300]

 これは昭和37年ごろだと思います。

 同じ一人の人間の印象が、こうも違うのかと思います。
 春彦先生の方の印象は、我々の抱く北斗のイメージとは違いますが、しかし子供の頃の印象としては、やはりそういうものがあったのかもしれませんね。
 誰かと間違えているのかもしれませんが、京助の奥さんの反応などは、そういうところがあったのかもしれません。
 春彦さんは知里真志保などと同じ世代で、いろいろと比較されたりしたところもあったでしょう。この文章でも、アイヌに関して、いい印象を持っていないような感じがします。

 今売っている版ではどうなっているんだろう?

管理人  ++.. 2007/01/23(火) 19:07 [301]

 たしか、真志保が一高を受けるからといって、春彦にはその年には受けさせなかった、というような記述がどこかにあったと思います。探しておきます。

 しかし、実の息子より、知里幸恵の弟である真志保を優先するというのは、子供からすると嫌なものかもしれません。
 後年、真志保と春彦は二人とも高名な学者になるわけですが、二人の間には接点があったのでしょうか。

管理人  ++.. 2007/03/02(金) 18:15 [316]

金田一春彦氏の「父京助を語る」に、知里真志保についての思い出が書かれていました。
 それも、幼い頃の話。

 幼いころ、春彦は金田一家に寄宿していた知里幸恵に可愛がられていて、あるとき、いつも幸恵に読んでもらっていたお気に入りの本が、いつのまにか無くなっていた。それを幸恵に聞くと、北海道の弟に送ったという。それを聞いた春彦は大いにショックを受け、泣いた。後日、真志保から本を送ってくれてありがとうというハガキが届いたが、どうも心がこもってないようで、宛名に「春彦君」と書いてあったのも気に入らなかった。
 実はそれは春彦の本ではなく、幸恵が買った本だったのだが、春彦はそれを知らずに幸恵にあたった。幸恵は困惑して、真志保にお礼のハガキを書くように伝え、真志保は不本意ながらそのハガキをよこしたのではないか。

 と、後の春彦は述懐しています。大人になってからも、親しくしたことはないようです。
 こういった幼年期のいきさつもあって、春彦は、真志保のことを書くときは、非常に他人行儀です。 

管理人  ++.. 2007/11/24(土) 12:38 [344]

違星君の平取入村当時の思い出

※著者不明ですが、文中に平取の人で「忠郎」氏の甥にあたるとあります。ローマ字が書け、キリスト教の知識もある一方、伝統文化にも詳しい教養ある人物だと思います。

バチラー氏と希望社の後藤氏と平取幼稚園開設の予定されていた当時で、違星君は平取聖公会の牧師岡村国夫氏と夫人、千代子さんを訪れ、夫妻のお世話で、故人になられた忠郎氏宅に寄宿される様夫妻が尽力された。 牧師はバチラー博士のキリスト教によるアイヌ伝道教化の先鋭として伝道され、違星君にも、アイヌ教化について随分論議されたと聞いている。
違星君が、和人からの圧迫を随分うけた様にかゝれてあるが、事実少し彼は激情的にアイヌの純血をよくといて議論していた。然し彼等の余市人の純血さを問われ尚、民族の純血の意義より重大なこと、民族としての誇りの問題について話題を提供していた。私が軍隊から除隊した昭和三年十二月から翌春まで牧師宅でよく逢い、伯父忠郎宅で又よく会ふことが多かった。彼が意気込んで、アイヌのメッカ平取に来た時、既に平取では、彼の悩みと同じ悩みを三十年位前から青年達が悩み、明治四十年に青年図書館が出来、各種の修養会が発足し、病院も大正八年六千円で地元のアイヌと道の補助で土人病院が建ち、活発な青年の動き、又、女子教育には豪州婦人ミス・ブライアンドが私塾を開いて伝道と手芸の教育、意気地、衛生などの事業に献身していた時代でむしろ教えられることが多かったと述懐して平取を去った。沙流アイヌと、余市では二十年余市が遅れていたと彼は***を苦悩***た。この苦悩の叫びにいろ/\よい歌も作った。
この当時の牧師に、実は違星が訪れて*て牧師の紹介で故忠郎氏の宅に泊る様になった。
牧師の奥さんが、希望社の経営(バチラー**団)する幼稚園の教師となることに決っていた。後藤氏の話からよくこのことを承知の上岡村牧師夫妻を訪れてこられたのが真相です。


管理人  ++.. 2007/01/23(火) 18:07 [293]

同じ方の字で、小説「泣血」に対する間違いの指摘です。



「泣血」に対する指摘

●「アイノのくせにアイヌ語が判らねえらしい」
……アイノとは古くにアイヌのことをそう呼んでいたらいいが、昨今では「アイヌ」と云はれている。

●茅葺の家
建坪三十坪前後の屋根は茅の本葺が*葺の純東北風の家、明治三十年~三十九年来までに建てられたもので現在もこれは住んでいるが、この家の一軒にも小松宮がお泊りになった家もある。昔風の…チセ…はその当時でも珍しく相当奥地でなければ見あたらなかった。違星が二年ばかり宿泊させた、故忠郎氏の家は現在でもしっかりした建物で、その偉容を見ることが出来る。内地のコビキ(木引き)が手引きした板材を全部使用していた。現存するのは、十余棟、むしろ、余市の大川町の和人の家より外観も屋内も立派に出来ている。当時か冬はストーブを使用していた。
文中一升壜の場合は酒、焼酎の場合は四合壜に決まっている。

●鰊に醤油をかけて……
とあるが、塩ふりかけて焼き、食べるのが案外美味であるが、醤油をつけて食べるなら箸をつかふのが普通ですから、この描写は塩ふり焼の方がよいではないでせうか

●焼酎はその当時全部四合壜詰、ビール瓶と同じ大きさの壜で焼酎はすこしシャレてコタン・ビールと誰れ言となく云われた位 四合壜が全部でした
一升瓶は清酒に決まっていました。

●太陽神に対する祈
太陽神に対する祈りはアイヌの間に存在したが、余市で普通に和人が祈る様な、手を合わせての祈り、特に落陽に対して祈ったことは、アイヌの祈り風景とは全く別な感じを受ける。特に「彼等の風俗の一つである」と言のは重大な誤りである。
が、もし小説的に尽くせると、朝の陽に祈る情景にすべきである。

●違星君の尺八
彼は琴だか都山か知らないが、江差追分を得意としていた。六段、千鳥の曲なども吹奏したような記憶があるが余りそれは上手でなかった。
彼の吹奏の情景は江差追分が柄に合っている。

●額の傷……云々
このような場面に逢ったアイヌの女子なら必ず傷の手当をする筈で、傷が大きいと言うていながら作者は女子の心理の動きに無関心であるのは解せない。
若し男に対して特に冷淡さを示さなければならないとき女も傷について何も****きがある***い。

●オキクルミ像は昭和八年林舜佯の建立で違星の生前にはないものである。が、小説と実話とは少し****致し方ないことでせう。

●文中 太吉の唇の周りに半月形に彫られた青黒い入墨……は太吉は名から見ると男らしいが、情景は女で描写されている。
筆者が若し、太吉が男として老人で書いておられるなら、今一度アイヌ研究の初歩を学ばれたい。
男は稀れに入墨するが、手の甲の部分で**しらべられたもの、只一例あるのみだ。

●「オキクルミ トレシマ(妹)悲し、沙流(しりむか)川の昔を語れクンネチップ(月)よ」

トレシマ…Turesh(ツ゜レシ)
沙流川(シシリムカ)…沙流川の神名或は古い名をシシリムカ

●ローチャーチの教会では十字は切らない。
●「メノコ特有の濃い唇が…」
濃い唇とは理解出来ない。
唇、口の周囲に入墨して濃くしていた様にうけとれるが、でもこの青黒い入墨に、み力を感ずる作者感覚は面白い。

●林檎
平取で林檎園をと云ふことで、バチラー八重子氏が土地を購入、(五町余)して、甥の武夫と違星君に経営させることゝし、*綿*機も購入して貸与したが、発動機の故障などで余りよく行かなかった。
林ごの樹の植樹もしないでこの計画も終った。
平取の林檎は明治四〇年から専門になされた方が、最初に植えられたのは明治十八年ごろ

●メノコ……(娘)
メノコを娘とは適当な表現ではなく、普通の観念では人妻になった位の年齢の女子の呼びかたで娘はマチカチと呼ぶ。

●教会堂の中の描写……当所はバチラーの肖像もなく、又祭壇の中央のキリスト像……云々は、バチラー氏
はローチャーチの出であるので、十字架やローソクなども聖卓には飾られなかった。ハイチャーチの方もだけが、聖公会では小説の描写に近い方法をとる。

●チヤシ(砦) チャシ chash

●オトナ(酋長) オッテナと云いならわせている ottena

●ウタリ  ウタリー …utariyの発音が正しいようです。



管理人  ++.. 2007/01/23(火) 18:10 [294]


当時のコタンで、一応肺患者は死に絶えたときで、統計学的にはアイヌの数もこの地方で少い時で肺患も一番少いときでもあった。明治四十~大正八、九年を峠として、弱い**は全滅し淘汰された時期で、アイヌの肺患は和人のそれのように慢性病でなく、罹患すれば三ヶ月~一カ年位で病死するのが普通であった。又、家の改造の件などはかえって問題でなく
融隔島のことが大事なことで、地元のアイヌの寄附と道の援助で平取村土人病院の出来たのは大正八年で全道で一番最初に出来た土人病院で、豚の臓物や熊の血肉で病気が癒されたり、日の神の信仰で病にかつ様な思想は沙流川筋のアイヌには余り考えられないことで、*は日の神が祈る風習は沙流アイヌは絶無である。



管理人  ++.. 2007/01/23(火) 18:14 [295]

これは、病院・病気に対する解説の断片で、どの文脈につながるかわからないものです。

管理人  ++.. 2007/01/23(火) 18:16 [296]

1)北斗の平取での寄宿先は「忠郎」氏宅

>昔風の…チセ…はその当時でも珍しく相当奥地でなければ見あたらなかった。
>違星が二年ばかり宿泊させた、故忠郎氏の家は現在でもしっかりした建物で、
>その偉容を見ることが出来る。内地のコビキ(木引き)が手引きした板材を全部使用していた。
>現存するのは、十余棟、むしろ、余市の大川町の和人の家より外観も屋内も立派に出来ている。
>当時か冬はストーブを使用していた。

2)尺八について

>違星君の尺八
>彼は琴だか都山か知らないが、江差追分を得意として
>いた。六段、千鳥の曲なども吹奏したような記憶があ
>るが余りそれは上手でなかった。
>彼の吹奏の情景は江差追分が柄に合っている。

3)林檎栽培について

>平取で林檎園をと云ふことで、バチラー八重子氏が土地を購入、
>(五町余)して、甥の武夫と違星君に経営させることゝし、
>*綿*機も購入して貸与したが、発動機の故障などで余り
>よく行かなかった。
>林ごの樹の植樹もしないでこの計画も終った。
>平取の林檎は明治四〇年から専門になされた方が、最初に
>植えられたのは明治十八年ごろ

管理人  ++.. 2007/01/23(火) 18:50 [297

2006年12月 1日 (金)

北斗への手紙

 
 「違星北斗の会」主宰の木呂子敏彦氏のご遺族の方からコピーをいただいた資料の中の、「北斗への手紙」です。


●昭和2年3月23日
金田一京助→違星北斗 葉書
「いろいろなことを体験された出せう。過日北海タイムスの一文は私も向井山雄君から送られて一読しました。札幌郡広島村字中ノ沢今野正治といふ青年です。どういづ人かよく分からないが、アイヌ問題が太平洋学術会議などできまってしまひでもするかのやうに期待して聞いてよこしますから、百年千年の懸案で、さう/\会議などできまってしまふやうな簡単な事では無いのみ成らず、よそから来た人々は、オーストラリヤ人へ関係つけて考へてゐるやうですから、あんな激烈な返事を出したのでした。何かアイヌの歴史をしらべてゐるそうです。それはこれから調べるべきだと云ってやったら、それでは自分も村へはいって、そのしらべにかからうかと云ってるのです。」


管理人  ++.. 2006/12/01(金) 01:56 [278]


●昭和2年4月26日
金田一京助→違星北斗 葉書
「いつもお元気で結構、鰊があまりよくない由心配して居ります。体の無理をなさらぬやう祈ります。こちらはやっとよい時候になりました。あの後一度アイヌ学界を開きました。向井山雄君の上京を期として、ウメ子さんも同伴して大いにこんどは知識階級の人を東京人に紹介したわけです。一同の人々が驚異したのも愉快でした。但し向井君があのとほりのものだから、それに当夜のお客さんの中には、知らぬお客さんもよんだものだから、その人との間に向井君が激論をやり出し、会が白けて残念な幕をとぢました。議論半ばに時間が切れ、それに大雨に祟られて帰ったものでさんざんに皆が濡れとほって。
本年一月号(十二月の内に出版)の新青年に「太古の国の遍路から」を書きました。民族の五月号には知里真志保さんの研究があらはれます。」
宛名 北海道余市町沖村 ウタグス 違星漁場 違星瀧次郎様


 ここで貴重なのは、やはり「違星漁場」の存在が記されていることですね。シリパの岬の裏にあるウタグスに、違星家は漁場を持っていたのです。
 といっても、地元の方に聞くと、非常に辺鄙な、漁場としては良くないところらしいですが。

管理人  ++.. 2006/12/01(金) 01:59 [279]


●昭和3年1月?
バチラー八重子→違星北斗 封書
「新年お目出度御座います。
つひ分御無沙汰いたして居ました。
御変もありませんか。私はお正月休に参って居ます。札幌の養家に一度上がり度ような気持で居ますが上がってもしご迷惑をおかけ申ますようなればいけませんと存じて居ます それに御伺申*ことも御座いますの 中里様では何の変ったこともありませんでしたでしょうか
御息子様の御病気は其後如何でございましたでそう御伺ひ申つもりで居ました 今まで思つゝも何ふしていいのかわからず つひこんなにのびて終ひましたのです
おそれ入りますがくはしく一寸御知らせをお願ひ申上げます 年は新っても私独りは少しも新しくなりません だん/\古びてゆくことを感じます
では御便りをたのしみ待って居ます どうぞごめいわくでもよろしく御願ひ申ます
一月四日  バチラー 八重
違星様」


 八重子はこれを札幌から出しているはずなのですが、札幌の養家に一度上がりたいというのはどういうことなんでしょうね。
 養家とは養父ジョン・バチラーのいる札幌聖公会でしょうが……よくわかりませんね。
 八重子は中里篤治の容態を、北斗に聞いているのですが……どう答えたのでしょうね。
 篤治は昭和4年6月9日に亡くなっています。結局、北斗の方が早く(昭和4年1月26日)に死んでしまいました。

管理人  ++.. 2006/12/01(金) 02:07 [280]


<●昭和3年7月17日
金田一京助→違星北斗 封書(要抄)
「君のやうに正直な真面目な人をかうして若い身そらを空しく故山に病ましむるいふことは神の摂理のあまりに無情なことを嘆かずに居れない。
君静平な心持ちを持して寸分ゆるみなく、余計な感傷にひたることをよして、けんめいに病と戦ひたまへ。
 多感な情熱家の君は、ひょっとしたらあまり感傷にひたって、病気を亢進させるやうなことがありはしないかと心配です。
中里のお父さんの死は大きな打撃でせう。この人の生涯をあくまで劇的主人公たらしめて終わりましたことをいたましくも又美しくも讃歎致します。誰かぜひともこの偉人の片影でも後世に残すやうにはたらく人がないものですか。君といひ徳治君といひ、その天職のためだけでも、まだ/\健康でゐてくれなくてはならない人だちです。君たち二人が直らなくてどうするものですか。それには悠々閑日月の心境を養ふことです。どうかどうかたのみます。


 篤治の父、徳太郎が亡くなったのが昭和3年6月5日。剛毅な人だったようで、金田一も「アイヌの話」という文章の中で徳太郎の生涯を書いています。
 徳太郎・北斗・篤治と立て続けに余市の同胞を失った八重子は、彼らの墓前で一首ずつ短歌を詠んでいます。


端然と ちからづよくぞ 語られし
君今はゐず ゐろり空しも

     逝きし中里徳太郎氏


墓に来て 友になにをか 語りなむ
言の葉もなき 秋の夕暮れ

     逝きし違星北斗氏


ただ一人 父のかたみと 残されし
君また逝きぬ うら若くして

     逝きし中里篤治氏
管理人  ++.. 2006/12/01(金) 02:23 [281]

 ここからは、死が間際に迫った北斗への手紙です。


●昭和3年12月19日付
後藤静香→違星北斗 ローマ字綴り葉書

「違星様、あなたのこと、そしてあなたがたアイヌ民族のことを思いますたびに、私のこころをいためます。どうぞこのうへとも健康に気をつけ、大きい使命を果たしてください。あとから日記などをさしあげます。あなたの歌いつも涙で拝見致します。ここに十円お歳暮として入れます。
十二月十九日 静香」

管理人  ++.. 2006/12/01(金) 02:31 [282]

次からは、古田謙二宛になります。
古田が北斗の病状を伝える手紙を関係者に送ったのだと思います。


●昭和3年12月25日付
松宮春一郎→古田謙二宛 封書
「違星君の病状お知らせ下されくりかへし拝見いたしました。何とも申様もないこと涙の袖をしぼります。近いところならばと残念に存じます。昨日見舞のしるし迄に為替いたしました。只今違星君の知友中の有力者三四の方に見舞金を直様に送ってくれと手紙を出して置きました。甚だ申兼ますが見舞ってやって下さい。慰めてやって下さい。
小生の**雑誌を今後拝呈いたします近著一冊拝呈いたします。
十二月廿五日 松宮拝」
東京市小石川区茗荷谷町五二番地 松宮春一郎

●昭和3年12月28日付
後藤静香→古田謙二宛 封書
「違星兄の為に御心尽くし感謝に堪へません少しばかりのお見舞を送って置きました。同君をよく慰めて下さい」


12月10日の日記で、北斗は古田に代筆を頼んでいます。手紙などの処理は、古田に頼んでいたのでしょう。

次の一通は日付が不明ですが、古田宛になっているので、同じ頃のものかと思います。


●昭和3年(?)
後藤静香→古田謙二宛 絵葉書 
「毎日違星兄の為に祈って居ります。電報為替で少しばかり送りました。同氏の事頼みます。

管理人  ++.. 2006/12/01(金) 02:39 [283]

2006年9月24日 (日)

北斗の童話 拾遺

 鍛冶照三は私家版で「あけゆく後方羊蹄(しりべし)」という本を出しています。
 これは、日本書紀の斉明記に出てくる、阿部比羅夫が蝦夷地に渡り、後方羊蹄というところに政庁を置いたという記述について「その政庁を置かれたところこそ余市である!」という、少し毛色の変わった本です。

 鍛冶はこの本の中に、違星北斗との思い出を書いており(前述の「よいち」掲載の分の転載)、さらに北斗が書き残したという童話を3編掲載しています。

 そのうち1編は、『コタン』掲載の「郷土の伝説 新出からの魂の生活」という昔話ですが、もう2点が、新発見のものです。
 初出がどこかわからないので、本当に北斗のものであるという証明ができませんが、北斗の書いた昔話として載せてみます。


「あけゆく後方羊蹄」   鍛冶照三

十四、余市に伝わるアイヌの伝説(違星北斗の記述から)

(1)シリパのオマンルパラ


(略:コタン所収「郷土の伝説 死んでからの魂の生活」とほぼ同じ内容)



(2)林檎の花の精

牛乳のような柔らかみを帯びた空に夕陽が赤く流れる春の夕べ、美しい雲が往来して、そよ吹く風に林檎の花が銀の雪のように散った。
山に猟にでかけたコタン近くまで来た時には、日はとっぷり暮れてかすんだ月がぼんやり輝いて細長い野道を青白く彩っていた。若者はほの白く咲いたりんごの木並びに差しかかった時、ふと誰かがつづいて来るように感じた。若者ふりかえって見た。けれどもそこには甘い匂いを漂わすりんごの木立ちが道の両側を囲むのみで、何の姿も見え出せない。「何だろう?」若者はつぶやきながら歩みつづけた。けれど何となく恐怖しかかった。彼は大声を上げて歌い出した。それは恐怖から逃れようとする彼の可憐な努力であった。洗練された美しい声が、静かな山道に反響して遠く消えて行く。りんごの花がほろりと散る。若者は一心に歌った。けれど声がとぎれると、確かに何者かのかすかな足音が耳に入る。ちょうど宙を行くような軽い足音であった。「あなた、あなた。」水の垂るような声が、ふと夜の静けさを破って聞えた。若者はきょっとして声のする方を見ると、そこには世にも美しい一人の女が立っている。
「私は先刻からあなたのお出でを待っていました。」と言って、女は真珠のような歯を現わしてほほえみました。
「一体あなたは誰人です。」
若者は顫える声で訊いた。女は「シノオマニイオチの娘です。わたしはあなたを思っていました。」と言って寄り添って来た。若者は、それから後は夢見るような気持ちであった。
「今夜はこれでお別れしましょう。」暫くたって女はしんみりと言った。若者はまだ熱にうかれたかのようい「これから私と一緒に来て下さい。そうしていつまでも離れずに居りましょう。」と言う。
「今夜は行くことが出来ません。十六夜の月が出たら迎えに来て下さい。」「なぜ今夜はいけないのですか。」「でも……。」と女は言葉を濁した。「では十六夜の月の出る時を待っていましょう。その夜、美しいあなたを、私はきっと迎えに来るでしょう。」「ほんとうに……。」「誰がウソを言うものですか。」「堅くお約束いたします。」「勿論ですとも。」と若者は大きくうなづいた。「わたし嬉しい……。」と女は燃ゆるような瞳を若者の頬に寄せた。若者は念を押して女の手を放すと、「さようなら……。」と女は言葉を残したかと思うと、雪と散るリンゴの花の中に、姿を吸われるように消えてしまった。
若者は、あまりのことにぎょっとした。そして恐怖を感じて鳥の翔けるように走ってコタンに帰った。その出来事は嬉しい夢であり、恐しい夢であった。女との約束を果たす気にはなれなかった。十六夜の月はほのぼのと大きく輝いて、山からさしのぼった。若者はしかし女のとこに行こうとしなかった。次の朝、白いリンゴの花に身を埋めて若者が冷たくなっておるのをコタンの人々が発見した。

管理人  ++.. 2006/09/24(日) 22:55 [274]


(3)ローソク岩と兜岩

「あれ!赤い火が沖を飛ぶ、焔のように乱れ飛ぶ、ズート列をなして沖の方へ飛んで行く。早い、早い、実に早い何だろう。この暴風雨に海へ出ている舟もなかろうに……。不思議だなァ……。」
余市町に近い寂しい海辺、星一つない真っ暗な沖合いに、赤い一列の灯が乱れ飛ぶのを見ながら、村の者は物の怪につかれたように、恐れ騒いでいた。
この村に勇敢な若者があった。赤い灯が飛んだ夜……、彼は不思議な夢を見た。美しい月夜だった。彼は沖へ出て釣りをしていた。グイグイ強い手応えと共に竿を上げようとしたが動かぬ、あせればあせる程、彼は強い力で底の方へ、グングン引かれ、いつの間にか、彼は底知れぬ深い暗いところに引き入れられるような気がした。彼の前には大きな岩の門が立っている。彼は入って見た。そこには彼の空想だにしたことのない壮麗な城があった。二匹の大きな魚が門の両側に楯を持って立っていた。そして彼をうながした。奥に入ると広い。恐ろしく立派な部屋に出た。そこに微笑んで立っている美しい女を見た。華やかな装い。しかしどこかに愁色が漂っていた。
「人界の御殿とお見受け申します。わたしはこの奥の王城の女神ですが、どうか折り入って私の願いをきいて下さい。そしてあなたの御力を貸して下さい。」こう云った女神の愬(うった)うるところに依れば、ここ十数日毎夜々々海の怪獣が列をなして押し寄せ、王城の魚を奮(ママ)って行く。男の神様でも居れば退治することも出来ようが、生憎遠国へ出かけて留守だから、あなたのお力でその怪獣を退治してくれ、成功すればお礼として毎年夥しい銀色の鰊をあなたの村へ贈るというのである。
「ハテ不思議だ。さてはあの赤い灯は怪獣の行列であったか。」日頃夢など信じたことのない彼ではあったが、この時ばかりはこの夢が妙に気になって仕方がなかった。何だか不思議な予感が波立ったのであった。
その日村の農夫が耕やしていると、何か硬いものがカツンと鍬にあたった。掘り返えして見ると、立派な青銅造りの兜と氷のような剣だった。土の中にあったにも拘わらず、剣は不思議にピカピカ光っていた。
「これはデッカイものを掘り出した。」噂を聞いて若者は、カムイの使者に聞いた。「これはあの女神があなたの勇気を頼んで、この不思議な武器を下さったのぢゃ。」若者の怪獣に対する恐れは、この一言で全く消え去った。彼はその厳しい武器を見た刹那、何んとなくその武器をもって力の限り戦って見度(みた)い心が、漲り湧くのを覚えた。数日の後、選りすぐった三十人の勇士が熊の皮に身を固め、手に手に槍を持って勇しく
浜を船出した。船頭には神秘の兜をつけ、降魔の利剣をひらめかした若者の姿が雄々しく見られた。舟は余市の沖を北へ北へと進む。月は既に落ちて月のない大空には北極星が寂しく光っていた。彼等は赤い灯を……真っ暗な海を一列に乱れ飛ぶ不思議な灯を待った。
その時、東の方に一点の赤い灯がポッカリ浮んだ。一つ、二つ、三つ、灯は忽ち数を増し、夥しい列をなして、真一文字に乱舞し、旋回しつつ押し寄せて来た。そして恐ろしいこの世のものとも思えぬ叫声をあげながら、物凄い勢いを以って船に肉迫して来る。剣は暗に閃く、槍は流れる。矢は波頭を切って飛ぶ。恐ろしい戦いは始まったのだ。若者は霊剣を滅法に振り廻したが、何の効果もなかった。バタリバタリ凄まじい音を立てながら、味方の漁夫は船から海へ怪獣のために斃(たお)されて行く。若者は死者狂いだった。怪獣は益々その狂暴な底力を発揮し暴れ廻わる。その時叫喚の音の絶え間に鋭い声が彼の耳を打った。
 「剣を潮にひたせ、その剣を」彼は夢中になって剣を海中に入れた。時しも怪獣の一つは恐ろしい力を以って彼の首を引き抜こうとする時だった。不思議なるかな、この時剣は急に灼熱して光りを増した。と思うと怪獣は奇異な叫びを発して、何処ともなく退却した。かくして戦いは終わった。海は静まった。しかし何んたることであろう。若人はそれから村には姿をみせなかった。その事件があって五日目であった。一人の男が「オイオイ皆来イ!」眠りから覚めた人達は彼の指さす方向を見た。不思議にも若者がかぶっていた赤銅の兜がポッカリ浮いている。そして更に不思議なことには、彼の腰にさしていた剣は突き立っているではないか。このことがあってから、余市は毎年のように鰊が押し寄せて村は豊かにすごすことが出来た。一方を兜岩、一方をローソク岩と村人は呼んでいるが、それは怪物を退治した記念の兜と剣の化石である。

管理人  ++.. 2006/09/24(日) 23:59 [275]

2005年8月27日 (土)

山岸礼三の著作

  8月27日(土)12時58分5秒

山岸玄津(礼三)『北海道余市貝塚に於ける土石器の考察』

「緒言」

(前略)

余市が斯く先住民族の遺蹟地であり、遺物埋蔵地でありながら、学者や好事家の発掘に任せ、或は折角蒐集したる人にありても、これを容易に人手に附与し或は今日尚堀土の折等に、時として遺物埋蔵地に遭遇することがあつても、無頓着、無理解なる鋤鍬の一撃に委ねて、之を細砕し、或は抛棄して顧みざるが如きことがある。斯くては貴重なる遺物の包含量も次第に幻滅に帰し去るであらうと思はれる。余は何かの縁で由緒ある此郷に来り、卜したる現住地が恰もその遺蹟地中の優なる場所であつと云ふことは、余自身は勿論何人も気づかなかつたのである。即ち余が現住地は俗にアイヌ街と称する処で、アイヌ住屋地に近接してゐる為め、自(オノズカ)ら土人と親しみを来すことになつたのと、其上に其頃土人中に違星竹次郎(号北斗後上京金田一学士などの名士に参じたことのある且つ頗る気骨があり、又文雅の道にも趣味を有し、思索もすると云ふ面白い男であつたが惜しいことには、三年前に肺患で病没した)なる青年がゐて、時々余の宅を訪れて、余が移居当時の無聊を慰めくれ、時にはアイヌ口碑や「カムイユーカラ」の伝説、現時に於ける実生活状態など聞かしてくれたりして、随分余の新居地の東道役になつてくれた男であつた。然るに大正十二年の春彼が急性肺炎に罹り可なり重患であつたのを、余が一才引き受けて、入院せしめ世話してやつたのを、彼は喜んで全快祝だと称して、彼が年来秘蔵したる西瓜大の土器一箇を携帯寄贈してくれた。これが余が土器を得たそも/\の初めである。此品は彼が大正九年の秋、余が此地に移居の僅か二三ケ月前の或日、余市川に投網して獲得したるもので、話に聞く土器であつたから、御授かりの気持で、誰人の所望にも応ぜず保有してゐたものであると語つた。当時余の問に対して彼がいふには、私共民族の中では、従来土器の保有者一名もなく、祖先から口碑にも聞き居らず、唯伝へられて居るのは、余市アイヌが此地に来た時先住民族が居た。それはアイヌよりも小さく、弱き人種で、わけもなく追つ払つた。此人種はアイヌでは「クルブルクル」石の家の人の意味で「ストーンサークル」環状石籬を作り立て籠もつた民族である。而し「コロボツクル」(蕗の下の人)人種の事を聞いて居るが、それかもしれぬ。只先住民族が居つたと云ふから、或は其遺物であらうと思ふまでだとの答であつた。

余は此時直感した。これは現住のアイヌではない。併し現住アイヌの祖先を彼等に訊ぬれば、数百年は愚か千年以上の口碑を持つて居る。余は只不思儀の一言を発したのである。

兎に角も余は此の得難き一品を手に入れて欣喜置く能はず、心を尽くして彼を犒ひ、祝宴迄開いたことを記憶する。其後土器が縁となり、北海道史を知人から借覧などして興味をそゝり(後略)

*************************

この文献には、今まで知られていない若き日の北斗の姿がかいま見えます。

大正9年ごろ、北斗が投網で西瓜大の土器を得たこと、北斗が大正12年に肺炎で入院し、治してもらったお礼にそれを山岸礼三に贈ったこと、喜んだ山岸が祝宴まで開いたこと、それが山岸の最初の山岸コレクションであることなど。

 また、山岸先生と北斗は非常に親交が厚かったようですね。山岸先生も、北斗の才能や人柄を高く認めていたようです。

 余市でお会いしたご子息のお話によると、山岸礼三先生はアイヌの診断は基本的にはお金を取っていなかったようです。

 コタンの赤ひげ先生は、白老の高橋房次先生だけじゃなかったんですね。

2005年8月 6日 (土)

『違星北斗の会』

 『違星北斗の会』の木呂子敏彦先生の息子さんと会って、いろいろ話をしました。

  木呂子敏彦先生は、とても波瀾万丈で、いろんなことをされているので、とてもひとことでは言えないのですが、その著作集によれば、帯広の教育委員、助役などを務められた方だそうです。また、フゴッペ論争で北斗と争った西田彰三は叔父にあたるそうです。

 若い時に後藤静香の薫陶を受け、人格者として多くの人に慕われた方です。

 木呂子敏彦先生の作品集「鳥の眼、みみずの目」には、けっこう新発見もありました。 たとえば、湯本喜作に協力した「谷口正」氏は、木呂子氏とも懇意で、またこの方は「賢治観音」の発見にも寄与した方だったこと。

 お会いした息子さんも木呂子先生の若い頃いろいろ調べられたそうです。記憶の整理も兼ねて、息子さんにお聞きしたことを書いてみます。

 ・ご実家には、いろいろ木呂子先生の残した資料があり、そこには北斗関係のものもある。

 ・北斗のことについて書いた小説がある。(恩師奈良直弥が書いた?)

 ・アベという学校の先生が書いた、ワープロ打ちの小説もある(アベ?という先生が書いた)。これは、東京時代の恋愛も描いている。(甘味処の短歌がありますよね、あれにインスパイアされたものらしいですが)

 ・後藤静香について

木呂子先生は東京で後藤静香の教えを受けている。(昭和七年ごろ)

家計調査を最初におこなったのは後藤/高崎に記念館がある/

希望社の後継団体「こころの家」はすでに解散。「磯崎氏」が関係者。/

多摩川霊園で後藤の墓前祭をやっている。息子さんは参加したことがある

 ・木呂子先生の吹き込んだテープが40本?以上ある

 ・遺稿集の「門間清四郎」という名前は寄宿先

 フゴッペに関しては、北斗から見て、敵役のように思われているが、身内としては西田彰三の名誉回復もはかりたく、調査しているそうです。

 ・西田彰三について

西田彰三は宮部金吾の助手であった/

素人というわけではなく、むしろ博物学者のようであった/

河野本道の研究会に参加していた/

小樽高商で、商業の実習として石けんの製造からマーケティング?までを

実際におこなっていた。

    伊藤整の「若き詩人の肖像」に、伊藤整が西田彰三のところに石けんを

買いに行く場面がでてくる。

 NHKのラジオドラマについては、木呂子先生のNHKへの働きかけによって実現したものだそうです。私が、息子さんにシナリオのコピーをお渡しすると、仏前に供えます、と言って喜んでいらっしゃいました。

 その他、いろいろあったのですが、やはり印象的だったのは、「西田は決して悪者ではないのだ」ということ。そうですよね。西田の立場に立ってみることも大事なんだなあ、と思いました。

 その他、思い出すことがあれば、また書きます。

2005年5月 8日 (日)

入手した新資料・新事実など  

5月 8日(日)23時24分40秒

 とりあえず、入手した資料、事実などを。

・違星北斗の詳細な家系図(これまで知られていなかった情報や、驚きの事実が多々出て来ました)。

・大正15年当時の余市大川町の地図(北斗の生家や、周囲の状況がわかりました)

・大正3年、余市アイヌの集合写真(北斗は写っていませんが、兄の梅太郎や中里徳太郎等が写っています)。

・これまで未発見の北斗の「色紙」の写真(書と絵)

・北斗と森竹竹市との書簡が白老の「森竹竹市研究会」にあるらしいこと。

・父甚作の樺太での狩猟と、5月のレプンカムイ祭りについて、その他。

・小樽新聞フゴッペ論争ほぼ全文(西田その1、西田その2、北斗、西田反論)

・その他

 とりあえず書いておきます。詳細は徐々に。

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