★人物:ウタリ

2015年2月10日 (火)

中里徳太郎

「アイヌ教育制度の廃止 --「旧土人児童教育規程」廃止と1937年「北海道旧土人保護法」改正 /小川正人

http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/29404/1/61_P37-79.pdf

この44Pの注釈、知里幸恵が聞いたという「余市の中里さんは中里篤治」は誤りで、父の中里徳太郎の事ですね。

金田一京助は余市の中里徳太郎を随分と買っていましたが、時をおかずして徳太郎は亡くなってしまいます。

「あいぬの話」金田一京助
http://www.geocities.jp/bzy14554/ainunohanashi.html

「ウタリクスの先覚者 中里徳太郎を偲びて」違星北斗
http://iboshihokuto.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-baf5.html

2012年11月12日 (月)

注解アイヌ神謡集

「注解アイヌ神謡集」(知里幸恵著訳、北道邦彦編注)の解説編に収録されている佐藤三次郎「北海道幌別漁村生活誌」に、北斗のことが書かれていました。

 幌別の海岸について。

「六月頃になると、椿に似た真紅な花が沢山咲いて、とてもきれいである。
 この頃は鱒が沢山獲れるし、鰮もぼつぼつみえる頃であるが、ガスがひどく、毎日眺めている恵山(エザン)や近くの鷲別の岬までが、すっかり包まれてしまう事が多い。こんな時、地球岬の灯台は、一日中ボーを鳴らしている。

   幌別の浜のはまなす咲き匂い
   恵山の崎は遠くかすめり

 という違星北斗さんの歌も、この頃詠んだのだろうと思う。


 北斗が幌別にいた頃は7月半ばですが、まだ咲き頃ですね。

 この佐藤三次郎は幌別のバチラー教会の裏に住んでいた人で、「ウタリの友」にもタンネ・ヘカチの名前で寄稿しており、そこにも北斗の名前が登場します。
 http://iboshihokuto.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-3073.html

2011年4月10日 (日)

ウタリの友

ウタリ之友に、北斗に関する記述がありました。

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ウタリ之友 九月号 一九三三年九月一〇日

 幌別だより      タンネ・ヘカチ

 いつも「ウタリの友」をお送下さりまして有難う御座います。
 何か御礼にも と思ひましてもルンベンである僕は何も出来ませんので申訳なく思って居ります。毎月戴く「ウタリの友」を見ますとみんな知った人ばかりなので つひ懐かしさの余り筆を取らうと思ひますが、一日々々と延びて締切の日を越えたり、筆不精のため遅れたりで毎日過して来ました。今日は雨模様の静かな日です。久しぶりに落ちついた心で教会の辺りを歩いてみました。土手にはクローバーやチモシーなどの牧草が綺麗に生えてゐて 処々に月見草が優しくうなだれてゐます。土手の中には南瓜が一面に這ってゐます。あそこには苺が沢山つくられてあって八重先生がいつもレーキやホーをもって草を取ったり、藁を敷いたりしてゐたのでした。西側の一隅にはアスパラガスの一群に野菊が混って仲よく茂ってゐます。僕が小学校に通ってゐた頃は畑もよく耕されて雑草のない黒土に茎の太いアスパラガスが元気よく延びてゐたものでした。あれからもう六・七年の年月を過してゐます。主人無き古き教会の土手の片隅にアスパラガスは 冬に眠り春に目覚めては培ふ人の再び訪れる日を待ちわびてゐたのでせう。しかし教会の門柱が朽崩れても 裏のシグナルの上に北斗七星がいく夜かまたゝいても去った人々は再び訪れてくれませんでした。
 そのうちにアスパラガスの根もとには いつしか野菊やノコギリ草が混りました。今ではアスパラガスはそれらの雑草と仲よく暮す事が楽しみなのでせう。細くすらりとした姿で野菊の白い小花の中にふさ/\とした葉を垂れてゐます。
 僕は遠い少年の日を思ひ乍ら 赤や青のガラスを填めた小窓を見てゐました。いつか八重先生が札幌へお出でになった留守でした。学校から帰ってきた春野さんが二三人の子供を連れて来て 礼拝堂の高い屋根に梯子をかけて雀の仔を沢山とりました。軒からは藁や毛がバラ/\落ちました。春野さんはその雀の仔をみんな子供達に分けてやってから、僕の方を見て笑い乍ら内へ入りました。ある時はまた豊君が豚の餌を買ひに行っての帰り途で、石花菜(キラズ)を山盛りに入れた箱をひっくりかへした事もありました。井戸のつるべが落ちた時 死んだ違星さんが僕のうちへ釣[瓶]を借りに来た事もクリスマスの劇で僕が大工さんになって恥しかった事も みんな楽しい思ひ出です。あの頃の人々は皆何処かへ行って了ひました。僕だけが毎朝トマト畑から古い教会を眺めて暮してゐます。
(一九三三年九月四日)
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(出典は「アイヌ民族近代の記録」草風館より)

 作者のタンネ・ヘカチは佐藤三次郎。
 どこかで聞いた名前だと思ったら、知里真志保に「違星北斗のような短歌は作るな」と言われた人だった。
 http://www.geocities.jp/bzy14554/fujimoto.html

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2010年8月15日 (日)

違星北斗「ウタリ・クスの先覚者中里徳太郎氏を偲びて」

 本当に、久しぶりの更新です。すみません。

 「沖縄教育」1925(大正14)年6月号に掲載された伊波普猷の論文「目覚めつゝあるアイヌ種族」は、東京時代の違星北斗の姿を描いたものとして有名ですが、それと同じ号に、違星北斗による「ウタリ・クスの先覚者中里徳太郎氏を偲びて」という文章が掲載されていましたが、希少な雑誌のため、確認できていませんでした。

 伊波普猷の論文の方は、その後伊波普猷全集に収録されたましたので、容易に目にすることができたのですが、北斗の文章は雑誌掲載後、どこにも転載されませんでしたので、幻の文章になっていました。

 昨年4月、沖縄県の学芸員の方に「沖縄教育」の記事を見せていただくことができましたので、本文が確認できました。

 だいぶ間があいてしまいましたが。

 1925年2月に上京した北斗は、金田一京助との出会いをきっかけにいろんな学会に顔を出すようになり、この3月19日に金田一が開いた「東京アイヌ学会」に出席し、そこで演説することとなります。それを文章化したものが、この論文です。

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2009年10月 6日 (火)

江口カナメと北斗

江口カナメの「アウタリ」をぱらぱらめくっていたら、こんな短歌を発見。

  金なくて
  こどくをだきて一人して
  北斗に佐美雄コタンに死せり

江口カナメが北斗について言及している短歌があるとは。
見落としていました。

2009年1月23日 (金)

平取での在所

    
北斗の平取での住所については、情報がいろいろありますが、おおよそ次の二カ所に絞られます。

(1)「忠郎」氏宅。

 大正15年7月。北斗が北海道に戻り、幌別のバチラー八重子に、アイヌの信仰を持っている家庭を紹介して欲しいと頼んだ。(金田一宛・違星北斗書簡)
 平取で、平取教会の岡村神父夫妻に「忠郎」氏を紹介してもらった。(「違星君の平取入村時の思い出」)

 
(2)義経神社下のバチラー八重子が管理する借家。

 もともとブライアント女史の家だったところで、八重子が譲り受け、吉田ハナが管理していた。
  
 で、これは(1)が1926(大正15)年、(2)がおそらく翌年の1927(昭和2)年の住所ではないかとと思います。
 
 北斗は昭和2年に約3ヶ月の空白期間がある。(8月中旬~10月下旬)

 バチラー八重子が平取に異動するのが昭和2年。
 吉田ハナは北斗のことを確かに知っており、「北斗はキリスト教ではアイヌは救えない」と語っているので、確かにいっしょに過ごしたようだが、そうすればやはり昭和2年も北斗は平取に来ている。

2008年10月24日 (金)

北斗からの手紙(3)昭和3年6月20日

さて、新発見の手紙、3通目です。
週末しか更新の時間がとれないので、なかなか先にすすめませんが、ご勘弁ください。

昭和3年6月20日の消印。
余市大川町違星北斗から杉並町成宗の金田一京助への手紙です。
この手紙は、ちょっと、扱いに困ります。内容がプライベートすぎるといいますか、梅子さんという女性についての記述や、余市コタン内での人間関係に関する記述が多いので、それらについてはおおまかな概略だけのべて、引用はしないことにします。

東京の思出が それから それへと なつかしい日です。
静かな雨が降ってゐます。北海道はお節句 と云ふので となり近所はドッシンドッシンと米を ついてゐる きねの音が平和に ひゞいてゐます。子供らのとって来た熊笹の若葉は ベコ餅 をのせたり 三角に包むにちょうどよい程 のびてゐます。雪のあるうちから 寝てゐた私は もうこんなに伸びた のに 一寸と 光陰あまりに早いのを 一寸と 妬みもしましたが すぐまた、青々生々してる熊笹を愛します。


 「お節句」というのは、五月五日の端午の節句ですね。それを昭和三年当時の余市では、旧暦の五月五日で祝っているようです。この手紙が出された六月二十日は旧暦では五月三日、旧暦五月五日は六月二十二日になります。ちょうど、節句の前の準備をしているところなんですね。
 「ベコ餅」というのは、私は近畿の人間なので知らないのですが、調べると北海道や東北地方の一部において、端午の節句で食べられる菓子で、黒白二色なのでベコ(牛)だからベコというそうです。(鼈甲がルーツという説もあるということです)。
 北斗は4月の末に喀血して病床に伏し、手紙を書いた時点で、約二か月、病床にあるという状況です。

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2008年10月21日 (火)

永劫の象とは

 昭和3年2月29日、違星北斗は幌別で友人の死を知ります。

 二月廿九日 水曜日

 豊年健治君のお墓に参る。堅雪に立てた線香は小雪降る日にもの淋しく匂ふ。帰り道ふり向いて見ると未だ蝋燭の火が二つ明滅して居た。何とはなしに無常の感に打たれる。  
 豊年君は死んで了ったのだ。私達もいつか死ぬんだ。
 一昨年の夏寄せ書した時に君が歌った

    永劫の象に於ける生命の
    迸り出る時の嬉しさ  

 あの歌を思い出す。    

    永劫の象に君は帰りしか
    アシニを撫でて偲ぶ一昨年


 この「永劫の象」とは何か。
 「象」はエレファントの象ではないだろう。かたち、イメージ、イデアの「象」だろう。
 じゃあ、永遠の象とはなんだろう?

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2008年10月11日 (土)

北斗からの手紙(2)大正15年7月8日

さて、2通目の手紙です。

 宛先は「東京市外阿佐ヶ谷町大字成宗三三二
金田一京助先生」、封筒に書かれた日付は大正15年7月8日、差出人は「北海道室蘭線ホロベツ バチラー方 違星滝次郎」とあります。
 
 北斗は大正15年7月5日夜に東京を発ち、7月7日に北海道の幌別に到着しています。その翌日に書かれた手紙です。
 
 これを見ると、北斗は帰道直後、バチラー八重子のいる幌別(現・登別)の聖公会の教会に寄宿したことがわかります。

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2008年9月 1日 (月)

北斗と平取

 北斗が平取に居たのは、大正14年の7月14日ごろから。
 平取教会の近くのバチラー八重子が管理する家に寄宿。(某忠郎氏のところに寄宿という記述もあり)。二風谷、長知内、荷負、上貫別などにかよっている。
 8月末には札幌バチラー宅へ、その足で余市に帰郷し、9月中頃までに再び平取に戻っている。その後、日高のコタンを旅している。
 
 翌昭和2年の2月に、兄の子が死んだため、余市へ戻っている。
 この後、2月に余市に戻り、鰊漁を終えて、5月中頃に戻る予定が、病気になり、余市に留まります。
 病気は7月には完治したようですが、この期間、北斗は余市の遺跡を巡って郷土研究を行い、また中里篤治と同人誌「コタン」をつくります。 
 この後、記録がないので、北斗は二風谷に戻っていないのではないかと思っていました。

 しかし、このコタンが出た8月から、9月10月にかけて、すっぽりと空白の期間があります。
 

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