★人物:北海道

2012年11月12日 (月)

「違星北斗君を悼む」

新短歌時代 第3巻第3号 昭和4年3月1日発行

『違星北斗君を悼む』      村上如月

 握飯腰にぶらさげ出る朝のコタンの空でなく鳶の声

 同族への悲壮な叫びも報ひられぬのみか、異端者として白眼視された時、焰と燃えた情熱は、何時しかあきらめを透して呪詛と変じて了はねばならなかつた。真剣に戦を戦うた君に、カムイ(神)は無上安楽の境地を、死に依つて与へたと謂ふことは、ハムベやハポに優る哀しみを、万に余る君の同族に均しく強く与へた結果となつた。歎かずにはをられない。
 一月廿六日―それは群星もあの天空にそのまゝ凍てついたかと思はれる程寒さの強い夕、私は、なにも知らずに、懐しい詩友の温容を瞳に拾うて、札幌の旅から帰つたのであつたが、君の霊魂は、この時すでに、コタンのつちを離れて、九品の浄域いや西方の九天にと昇るべく、ひたすらの旅立ちをしてゐた事であつたらう。
 病めば心は萎へるといへば、或は臨終の前には、神に凡てを委ねきつた君の姿であつたかも知らぬが、少くも私には、魂の奥底に石の如うにひそむ情熱がつゝむ「無念」の相の君ではなかつたかと想はれてならない。

 だうもうなつら魂をよそにして、弱いさびしいアイヌの心

 君の死を知つては俳壇の耆宿もない。私は早速にも短冊掛に、これを入換へねば済まなかつた。湧然として、君の姿が声が、私の書斎に現れれた。
 それだから私は今、君に喚びかける。
 人が称ぶ「凡平庵」に、君と初めて会うたのは、君も忘れはしまい、昭和二年も暮の十二月二日であつた。見ぬ恋が達せられたいつた形の私の前に、容赦もなく放げ与へられたのは、君のシヤモ(和人)に対する満々たる不平の怒号であつか。飽く迄濃い君の眉毛、朱を帯びた君の頬。

 アイヌッとただひと言が何よりの侮蔑となりて憤怒に燃江る

 そのかみ、徳冨芦花を殺めんとしたと謂ふ情熱はこれであつたか。然し昨年の春寒い三月十三日―君が雪にまみれた姿を、日高胆振の旅の帰りと謂うて、私の高原の家に現はした時、情熱はいや冴えに冴えたといふ想ひはしたが、唯シヤモに対しての空しい闘争のみではなく、同族の為に、国史の為に、アイヌ民族文化の跡を、アイヌの手に依つの研鑽したいと謂ふ、涙ぐましい態度を示したものであつた。かの西田教授との学理的抗争も、恒に考証に悩みつゝ、一歩も後へは退かじとした君の意気には、学徒ならざるが故のみではなく何かしら叱咤激励を続ければならない原因がある如うな、重苦しい想ひさへしたものである。
 メノコ可愛やシベチヤリ河で、誰に見せヨと髪をすく
 日高の話に花が咲いた。曇天のシベチヤリ河の、朝に泛ぶ丸木舟も哀しければ、馬歌山の伝説は、更にいたましい。
 日高名産栗毛の馬にメノコ乗せれば、あレ、月が出る。
殊にもウセナイの濱の秋風に、点在する草家の影。
 ニシパ(主人)ゐねとてセカチ(若者)がしのぶ草家ホイ/\月ばかり。
 こんな私の戯れを、君はどんなに嬉しがつたか。あゝ然し、私に懐かしかつた日高の旅も、君には、また白眼視する「日高アイヌ」の心情をにくむ心が絡はつて、つらく、哀しい日高の旅であるらしかつた。
 虎の仔の如うに大事に持つて来た「高杯」に首飾玉の一つを加へて、君は欣んでコタンへ帰つて行つたが、間もなくの病臥を旅疲れとのみ信じた事は、如何にも哀しすぎる憶測ではあつた。
 五月五日、浜風の寒い日、小樽から帰りをかねての約束に依つて、私は余市大川町の君を訪ねやうとしたのであつた。
訪ねる家は判らない。ハチヤコ(赤児)を背にしたバツコ(老婦)がきゝつけてわざ/゛\案内してくれたのだが、何故かしら、君の同族に親しみを得たいとする心には嬉しい記憶として残つてゐる。
 君よ、この日の君の言葉、些か窶れた頬などを、聴納め見納めと思ふて、私は余市のあの茅ぶきの嬉しい林檎の枝々を、車窓に送つてゐたのではなかつたか。凡ては尽きぬ怨みである。
 あはれ挽歌。
 然し歌ひ得ぬ私である。詠はれぬ今の私である。
 マキヤブといふひと言ゆゑに火と燃えた北斗星の血潮は セカチの血潮だ
                   ×
 雪よ降れ降つて夜となれあゝ一人こゝにも死れぬ男のまなざし
                   ×
 エカシらがコタンに泣く日セカチらが神に祈る日北斗が死んだ日

 註。イキャップ(アイヌ語。最モ忌マレル侮辱ノ言葉) エカシ(同。老爺)
   コタン((同。所又は村落)

 在りし日の君の生活を写す追憶記、君の業績を讃へる追憶言が、君をめぐるアナバ(親戚)や、イカテオマングル(朋友)に依つて為されるであらう事を信じてゐる。故あつて一年有余樽新文芸欄と断つた私が、まずしくもさびしい、君の追悼記の片鱗をももして蘇生らうとする事は、多少のシヨツクを感じられぬものでもない。 
 ともあれ君よ。
 君の霊位よ。
 永くコタンの空に君臨せよ。
 嗚呼、ラムコログル(葬儀に泣く人)も歎け。イコンヌグル(魔法使)も呪へ。
 月なき今宵、ただリコブさつそうと北にとぶ。
                                          ―(完)―

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「歌壇戦線」

(略)

本道が産む唯一のアイヌ歌人違星北斗君、昨秋来の肺炎に虐まれあたら民族再興の覇気も空しく、痛ましくも青春と永別す。高商西田教授を向ふに廻して、樽新紙上に論陣を敷いた「フゴツペの研究」も半ばに夭折したことは、真に痛惜の限りである。村上如月、稲畑笑治両君の彼の死を悼む一文は、けだし彼の面目を写し得て余蘊あるまい。彼の遺稿は友人吉田伊勢両君の手に蒐められ、樽新又は本誌に順次採録することになつてゐる。吾等は二世違星北斗君の出現をまちたい。

(略)
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「編集後記」

(略)最後に同人日出彦氏の養母、かつての加盟者違星北斗氏、高松利雄氏の死去に対して、茲に心から哀悼の意を表して置く【凡平】

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2012年6月 4日 (月)

北海秘話 魂藻物語 (其の一)

 違星北斗が日高各地のコタンを巡り、啓蒙のために「子供の童話」「自働道話」などの雑誌を配っていた時に出会った、長知内小学校の先生、奈良農夫也

 北斗はアイヌ語に関する造詣に関しては金田一京助以上だと評する奈良に、アイヌの昔話を童話として書いて欲しいと頼み、そして奈良が描き上げ、「子供の童話」昭和2年2月号に掲載されたのがこの作品です。

 (其の一)と(其の二)に分かれています。

 (其の一)が、この伝説の伝承者、老媼、テコロタロから聞き取ることになった経緯や、趣意などを沙流山人(=奈良農夫也)が書いたものです。

 (其の二)が、伝承昔話「魂藻物語 (シサム ウェペケレ コモムト゜チ)」です。こちらの方が読みやすいです。

 個人的には、其の二を先に読む方が、味わいが深くなると思います。

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北海秘話 魂藻物語 (其の二)

(其の二)

Shisam,uwepekere

KOMOM TUCHI

シサム。コモト゜チ

 胡盲媼 テコロタ ロ伝

 農童守 沙流山人 和訳

Pon wen shisam an.

ポン ウエン シサム  アン      
(ちい)さな 貧乏な 和人が居った。

(=註…大人になつてからも、ポンウェンシサムと人名の如く称す)

Machihi anwa oka, mip ka isam,

マチヒ アンワ オカ ミプ カ イサム   
妻と暮して居たが、着物も無く、


Epka isam, Ramma Pöka sakno oka,

エプカ イサム ラムマ ポーカ サクノ  オカ
  

食物も無く(極貧乏であつた)何時迄も子供が無いので

この上もない不幸であつた。
 あまりあまり淋しいので夫婦は犬(セタ)と猫(メコ)を飼うことにした。
 飼うには飼つたものゝ食はせるものが無いので、これまでよりもなほ一層のこと困ることになつた。
 
で、一生懸命、山へ行つて薪をとり、それを糠(ぬか)と取替へて糠粥(ぬかがゆ)に炊きそれで犬(セタ)と猫(メコ)を養ひ吾子(わがこ)のやうに大切に可愛がつてゐた。さうして飼つゐるうちに、自分達夫婦はだん/\年老(と)つて、犬(セタ)と猫(メコ)はだん/\大きくなつた
 
そのうちに猫(メコ)は犬(セタ)と一緒に村(コタン)を巡(まわ)り歩き、猫(メコ)は人の家に上り込んでもいゝものなので、人家に這入(はい)り、魚の頭や肉の附いた骨などをもつて来て外に待つて居る犬(セタ)に渡した、犬(セタ)はそれを自家(うち)の爺さん媼(ばあ)さんの許(とこ)へ運んできた。
 
犬は大層綺麗な毛色なので、人々はそれを讃(ほ)めながら、可愛がつて、魚のあまり肉の余物(あまりもの)、握飯の半分などを分けて呉(く)れるのを、直ぐ食べたりせずに家(うち)に持ち(銜(くわ)えて)かへり、かうして親のやうな老夫婦(とそりふうふ)を喜ばせながら養つて居た。
 
さうしてるうちに、犬(セタ)と猫(メコ)は、もつと大きくなつた。或日(あるひ)、猫(メコ)が犬(セタ)に相談を持ちかけて、『いつも何時(いつ)も、恁麼(こんな)ものばかりを父さん母さんに上げてるのぢや嘸(さぞ)つまらないだらう。どうだ、自分達ももう大分(だいぶ)大きくなつたのであるしするから、もちつといゝ仕事をしてもつと喜ばして上げようではないか、この辺にばかり居たんでは、これ迄(マンデ)の事より為様(しよう)もないんだから、これから一つ、大長者(ポロニシパ)の居る遠くの町へ行つてウンと稼いで沢山(たくさん)土産(ムヤンキ)をもつて帰らうではないか、えッ?、どうだい』
 
すると、犬(セタ)は直(す)
『ン、よかんべ!』
と賛成した。
 
それから二人で(アイヌではこゝで二疋(ひき)とは言はない)出かけた。
 
ズーット行つて、何処迄(どこマンデ)も行くと、偖(さて)困つたことに、行かうとする自分の前に、大きな川があつた。行くことが出来ぬので、猫(メコ)は、
『こりや困つた!』と叫んだ。
「困つたなァ」と犬(セタ)も哀れつぽい声を出した。猫(メコ)は凝然(じつ)と考へ込んだ。
「まつたく困つたことになつたなァ」犬(セタ)はまた呟(つぶや)く。
 猫(メコ)はやつぱり黙つて考へ込んでゐる。犬は独りで焦慮(やきもき)して、
「切角(せっかく)こゝ迄(マンデ)来たのに、思詰(おもいつ)めて切角こゝ迄(マンデ)やつて来たのに、こんなことになつて、全く困つたなァ、仕方がない、ぢや、もう帰るべ、え?、もウ帰るべや」
 遂到(とうとう)泣き声になつてしまつた。
 すると今迄(いまマンデ)凝乎(じっ)と考へ込んでいた猫(メコ)が、
「ハッハッハッハッ、……」
と笑ひ出した。そして言ふには
「何もそんなに困ることない、俺、さきになって泳ぐからお前は俺の尻尾銜(くわ)へてあとさ銜(つ)いて泳いで来(コ)ればいゝ……」
 と、さう言って川の中へ躍込(とびこ)んだ。犬(セタ)は猫の尾を銜(くわ)えてあとにつゞいた。漸(ようや)く向岸(むこうぎし)に渡りついて、また往(い)つて、行つて、ズーッと行つたら、大きな町が見えた。見たこともない大きなその町に着いて、その中で一番大きなカムイトノの屋敷に這入(はい)った。
 猫は家の中へ這入り、犬はお庭の辺をうろついてゐた。すると、女中らしいのが犬(セタ)を見つけて、
『まァ、綺麗な犬が居る、どこから来た犬だべ、可愛いゝこと…メンコイこと』
 さう言ひながら、一度家の中に入つて、また出て来た。魚の肉の附いた骨や御飯の旨さうなのを(糠粥でないところの)…沢山容器(いれもの)に盛つてきて下に置いた。家から出て来た猫(メコ)は先にそれを見つけて、
『さァ、こゝに沢山御馳走が出た!』と犬(セタ)に報せた。犬(セタ)はそこに来て、猫と一緒に今迄(いまマンデ)喰べたこともないいろ/\な御馳走にありついた。綺麗な犬(セタ)と綺麗な猫(メコ)とが頭(かしら)を並べて仲よく食べてゐるのを、そこのカムイトノが見て、
『恁麼(こんな)に綺麗な犬(セタ)と猫(メコ)、何処(どこ)から揃つて来たのか、二疋(ひき)とも、うちで飼つてやれ 
 
そして此頃(このごろ)、鼠の多いあの穀庫(こくぐら)の番をさせ、鼠獲(と)りをさせよう』
 
と、そして二人(二疋(ひき))はハルオプの中へ遣られた。
 
穀庫(ハルオプー)の中には沢山穀物(アマム)があつて、多くの鼠が集まつてる模様であつた。猫はこゝ一働きと、見る間に三疋四疋……片つぱしから鼠を捕り初めた。
 
(セタ)は、猫(メコ)の捕つたその死んだ鼠を一々庫(プー)の入口へ運んだ。
 
(メコ)は、鼠を捕つて捕りまくり、犬(セタ)も亦、目のまはる忙(せわ)しさで庫の入口にそれを運んだ。入口には鼠の死骸が山の様に積まれ、もう悉皆(すっかり)捕り尽くして一疋も居なくなつた。
 
庫の中は寂然閑(ひっそりかん)とした。もうコソッともしない。犬(セタ)と猫(メコ)は疲れ切つて憩(やす)んでゐた。
 
と、暫時(しばらく)して……ノソ……ノソッ……と変な跫音(あしおと)がどこからともなく聞こえる
『何だらう』
「ホニ何だべ?」
 二人は不思議さうに耳を傾けながら、その足音らしいのゝ近づく方を見て居た
 
一体何者(なに)が来たのか……と。
 
ノソ、…ノソ、…ノソ、…ノソッノソッノソッ!
 
穀庫(こくぐら)の薄暗い奥から現れ出たのを見ると、大きな大きな犬(セタ)ぐらゐもある怪獣(ばけもの)であつた。
 
コリャ大変な怪物(ばけもの)が出たわい…と、犬(セタ)はコワ/゛\友達の猫(メコ)の顔色をソッと見かへした。猫(メコ)も流石に駭(おどろ)いたけれども、さあらぬ体(てい)に……ナニ、これ鼠だもの…と心に思詰(おもいつ)めながらヂリ/\と怪物(ばけもの)の傍近く向つて行つた…歯牙(きば)を剥出(むきだ)しながら…
 
すると、大きな獣は、
「待つてくれ、暫時(しばらく)まつてくれ…」
『お前はいつたい何者だ?』
『俺はたゞの鼠ではい!
『お前はいつたい何だ!!
「俺はたゞの鼠ではない。 神様に霊通(つづい)てる王なんだから。…暫時(しばらく)まつて呉(く)
 
お前は……お前は俺の子供達を悉皆(すっかり)噛殺(かみころ)してしまひ、俺の妻(マチヒ)も喰殺し、親類(ウタリ)も悉(みんな)亡くしてしまつた。それで遂到自分が出て来たのだが、なんで斯様(このよう)に迄 噛殺(かみころ)してしまつたのか?」
 
猫はひるまずに、
『何を世迷言(よまいごと)(ぬ)かすんだ。俺はカムイトノの吩附(いいつけ)で、この庫の穀物(アマム)を食ひ減らして仕様のない泥棒鼠を捕りつくすのだ。さァお前も覚悟しろ!』
 
牙を剥いて喰付(くいつ)かうとすると、
「まァマア待って呉れ、俺はもう最後(おしまい)に残つた…たつた一疋の鼠なんだから、俺に歯向(はむか)つて決していゝことはない、俺を食はずにくれ、俺はたゞの鼠でない。俺は神さまに霊通(つづい)てるものだから」
『いや待たぬ』
「ンならば…俺のお守、お前にあげるから喰はないでくれ」
『何を呉れる?、何、呉れる、
 何も呉れないば、今直(す)ぐ喰ひ殺すぞ!』
「待つて呉れ、喰はないで呉れ。
 私の大切なお守をやるから。」
『何を呉れる?、何、呉れる、
 何も呉れないば、今直ぐ喰ひ殺すぞ!』
「待つて呉れ、喰はないで呉れ。
 私の大切なお守をやるから。」
『何を呉れる?、何、呉れる、
 何も呉れないば、今直ぐ喰ひ殺すぞ!』
「待つて呉れ、喰はないで呉れ。
 私の大切なお守をやるから。」
『何を呉れる?、何、呉れる、
 何も呉れないば、今直ぐ喰ひ殺すぞ!』
「待つて呉れ、喰はないで呉れ。
 私の大切なお守をやるから。」
『何を呉れる?、何、呉れる、
 何も呉れないば、今直ぐ喰ひ殺すぞ!』
「待つて呉れ、喰はないで呉れ。
 私の大切なお守をやるから。」
『何を呉れる?、何、呉れる、
 何も呉れないば、今直ぐ喰ひ殺すぞ!』
「待つて呉れ、喰はないで呉れ。
 私の大切なお守をやるから。」
 
と(六問六答論法(イワンシュイネチャランケ)はアイヌの神事)イワイソイ(Iwan,isoi)した。
 
大鼠(ポロエルム)は奥の方に行つて暫時(しばらく)してまた出て来た。
 
何か入つてるらしい綺麗な小さなサランベ袋(ブクル)をチャンと銜へてゐる。
 
(メコ)はこれを受け取つた。
 
大鼠(ポロエルム)
「その中にはピンネコモト゜チ(雄Pinne.)とマッネコモト゜チ(雌matne.)がある。それさへあれば何でも自由(かつて)に所有(もつ)ことが出来る。お前達が養はれた父母のために斯様(こう)したところまでンきてるのだといふことは、聴かなかつたけれども、俺は前刻(まえ)から見透(みとお)してよく識(し)つて居た。これを土産(ムヤンケ)に持ち帰つたらば お前達の養父母(ちちはは)である爺さん婆さんは什麼(どんな)に喜ぶかしれない。お前は先刻(さっき)、鼠が穀物(アマム)を盗食ひするといつて怒つたが、鼠が人間の穀物(アマム)を喰ふことは俺達の初め発生(でき)た時から神さまに許されてゐることなのだ。さう許されていることを邪魔して、その上、鼠を食殺すといふことは止めて呉れなければならない。
 
猫はそれに答へて、
『これからは、今日のやうに無闇には食殺すまい。だが鼠(エルム)達だからといつても、神様から許されてる事だからとばかりで、人間の切角(せっかく)働いて庫(プー)さ蔵(しま)つておく物を さう/\無闇矢鱈(むやみやたら)と喰ひ荒すことはいゝことではない。誰だつて、人間だつても、お互(たがい)所有物(もちもの)を盗られるといふことは、あまり気持ちのいゝもんぢゃあるまいからナ』
 
鼠と猫(メコ)達とは、そこで平和(おだやか)に訣別(おわかれ)した。

      

 猫(メコ)達は、もう鼠一疋もゐなくなつた庫に用も無いことだし、それに爺さん婆さんへ持つて帰るいゝ宝の土産物(ムヤンギ)ができたのを喜んで、役済(やくずみ)の気軽さと、嬉しさに 犬(セタ)と相談して早速帰ることにした。

 猫(メコ)は又(また)先になつて コモト゜チ二つ入れたサランベブクルを口に啣(くわ)へ、犬(セタ)もそれに蹤(つ)いて行った。
 もと来たときの、あの大きな川のほとりにきて二人(二疋)ともまた駭(おどろ)いてしまった。上流(かつち)の方に雨が降りつゞいた為か、ワッカポロ(大水)して迚(とて)も渡れさうにない。

 犬(セタ)は落胆(がっかり)した。こゝ迄(マンデ)切角帰り着いたのに、この川渡れさへすれば直ぐにも爺さん婆さんの許(とこ)さ躍(と)んで行けるものになァ……ホニ、きもやなァ……と。

 猫(メコ)も今度こそは、困つたけれども元気をつけて言つた。

 『よし!、行かう、行けないことはない、俺の尻尾を銜(くわ)へて後からつゞいて泳いで来い』

 

 と、それから猫(メコ)はサランベプクルを確乎(しっか)と啣(くわ)て先づさきに水に入った。犬(セタ)も後につゞいて猫(メコ)の尾を銜(くわ)へながら泳ぎ出した。水出が大きく、流(ながれ)が強いので、二人ともズン/\流された。流されながらも向岸(むこうぎし)に近づいたが、渡りつくにはまだ/\距離(ま)があつた。 

 猫(メコ)はたび/\元気のない犬(セタ)のことを心配して、尾から離れないか、離れて流されはしまいかと、あと振向いた。犬(セタ)はついて来てる。

 流れ流れて、流(ながれ)の一層強い個所(ところ)に来たが、岸までもう少しであつた。猫は又犬のことが心配になつてふりかへり、

『もう些(すこし)だ。確乎(しっかり)してっ!』

と気勢づけを言つた。

 犬(セタ)も猫(メコ)もやつと岸についた。身体の水を振落(ふりおと)しながら……さァこれから爺さん婆さんの許(とこ)へ急いで帰るのだ……と二人とも顔見合はしてニツコリしたが猫(メコ)は覚えず…ハッtとした。大事な大事なサランベブクルがない。

 先刻泳いでゐながら『もう少しだ確乎(しっかり)して!』と犬(セタ)を顧(かえり)みながら叫んだ時、思はず口をあいて…その時口から外して流してしまつたのだ。あまり岸に泳ぎ着くことばかりに気をとられ、一生懸命だつたので 口から外したことに気が附かなかつたのだ。

 犬(セタ)も今度こそ全くがつかりしてしまつた。

 爺さん婆さんは什麼(どんな)にか自分等を待ちあぐんでることだらう。年老(とっ)て働けなくなつてから、永い間二人でいろ/\お世話してたのを、フッツリ止(や)めて旅に出たのだから、老い衰へた二人は其後(そのご)食ふものも食はずに居るのではあるまいか、それが今かうして切角(せっかく)立派な宝物を二個(ふたつ)とも土産に持つて帰り、みんなで喜ばうとして来たのだつたに恁麼(こんな)ことになつてしまつた。どうしよう、どうしよう。ほんとに…。

 泣くにも泣きだされず、涙一ぱいためて、すつかり萎気返(しょげかえ)つて了(しま)ひ、流石(さすが)気丈の猫(メコ)でさへも今は全く途方に暮れてしまつた、この川を渡つたら…渡りさえしたら、何も途中心配なく爺さん婆さんの許(とこ)へ帰りつくばかりだつたのに……と、くやしくて/\どうにもかうにもしようがな[か]つた。けれども此儘(このまま)空手(からて)で帰る気にはどうしてもなれず、兎も角、川口まで下つて何か一つ見つけようと、岸づたひに下つて行つた。

 犬(セタ)と猫(メコ)は今迄のことに泣悲(なきかなし)み、また爺さん婆さんの此頃(このごろ)を思ひ案じながら、泣語(なきがた)りに下り下つて、遂到(とうとう)浜に出た。何かあれば…とその辺を歩いてると、渚の砂の上に一尾(いっぴき)のエレクシが死んでるのを見た。大きな大きな鱈(エレクシ)だつた。それがまた途方もない大きな腹をしてゐた。

『恁麼(こんな)大きな鱈(エレクシ)、今迄(いままんで)(まん)だ見たことがない。これでも持って一先づ家に帰り、爺さん婆さんの顔を見てから又(また)何とかいゝ考(かんがへ)を立てる事にしようふゃないか』

と代(かわ)り代りその魚を銜(くわ)へて元来た路を急ぎ帰つた。

 帰つたら、爺さん婆さんも待ちあぐんでゐたのだから、それはそれは喜んだの喜ばないのって今迄(いままんで)見たこともない笑顔で迎へて呉れた。

 二人は早速土産の鱈(エレクシ)を出した。婆さんが先ず料理に取掛かる、「まァこの魚の腹の大きなこと……」さう言ひながら膨れた腹に庖丁を当てたかと思ふと、「オヤッ」、中から思ひがけないものが出た。

 サランベ袋(ブクル)が出たのである。猫(メコ)は急いでかけ寄つてその中を覗く…と見るまに…コモト゜チをとり出した。

 ヨーろこんだの喜ばないのつて、それをもつて爺さんの前に高くもち上げ、婆さんの前へ行つては振りまはして見せ、クル/\跳廻(はねまわ)つて二つのコモムト゜チを手玉にとつて踊りはじめた。

 犬(セタ)も一緒になつて踊り出した。

踊疲(おどりつか)れてから猫(メコ)は炉の傍に来て密(そっ)と犬に耳囁(みみうち)して

『お前は火媼神の近侍(トンデ)(トンチは和語通辞?)なんだから神(カムイ)に一応礼祷(イノンノ)して、爺さんに上げろよ、それからこの婦性(マトネ)コモト゜チmat ne kom-m tuch』の方は、

 
……インネマチヤ――(Inne machiya.
 
……ウタリコエウン――(Utari koeun.
 ……アンタキ!(Antaki!


 セコロハエアンコロ、エシリキせば、インマチあるんだから、また、夫性(ピンネ)コモムト゜チ(
Pin ne komom tuchi)は、
 

 ……タンウシケタ(
tan ushiketa.
 
……イワンハルオプー(Iwan haru opu.
 
……イワンカニオプー(Iwan kani opu.
 
……アンタキ!(Antaki!

と、言って、エシリキ(
Eshi rikk、槌打)せばよい』
 

 
犬(セタ)はそれを聞いて教へられた通り火神(アペフチ)に通祷(イノンキ)して、槌打(エシリキ)の言葉を添へて爺さんに捧げた。爺さんは、ラタイワイスイ(低位掌抄六礼、Rata iwan isui) リキタイワイスイ(上位抄掌六礼、Rikita iwan isui.)捺掌礼(オンカミ)してそれを受けた。

 それで収めて爺さんも婆さんも犬(セタ)も猫(メコ)も大ニコニコに喜んだ。

 爺さんはマッネコモト゜チとピンネコモト゜チを持つて外に出た。山の気色(けしき)、川の気勢(けはい)、野の具合を見計ひ、こゝらに村(コタン)が出来ると好(い)いな…と思はれる個所を見て、そこに佇(た)った。そして先づマッネコモト゜チを右手に身構へた。


「……インネマチヤ
 
……ウタリコエウン
 
……アンタキ!」


と叫んで槌打(エシリキ)したら、立派な沢山な家がズーッと出来て、そこにガヤ/\と人の話声(はなしごえ)が賑かにして、軈(やが)て方々の家から人々が出て来る。次ぎにピンネコモト゜チをとつて、


「……タン、ウシケタ
 
……イハンハルオプー
 
……イワンカニオプー
 
……アンタキ!」

 
と朗らかに言つてエシリキしたら、大きな穀庫(ハルオプー)が六つ、大きな金蔵が六つ、ズラリと並び建つた。

 四人はこれを見て足踏み鳴らして踊り喜んだ。大長者になつた爺さん婆さんは、自分の創りなした村中の者らに神人(カムイニシパ)のやうに尊ばれ、犬と猫とを可愛がりながら何不自由なく楽しく暮らすことが出来た。


(をわり)

 

 

2012年4月 3日 (火)

無題

Twitterで違星北斗botというのをやっているのだが、大正15年の夏で少し停滞している。

昭和2年の日記が大正15年の日記で、さらにバチラーと後藤静香の資金トラブルが本当に大正15年であるのか。裏付けがほしい。決め手となる決定的な証拠がほしい。

2009年8月 2日 (日)

山上草人とは

北斗の闘病中の姿を描いた短歌を書き、小樽新聞に投稿した山上草人ですが、おそらく古田謙二でまちがいないようです。

 ある方から、古田冬草遺稿集がご遺族の方の手によって発行されたこと、その中に北斗の記事があるということを教えて頂きました。結局新しい情報はありませんでした。

 が……。
 その遺稿集に、古田謙二の雅号についての記述があり、余市時代には「冬草」ではなく、「草人」と名乗っていたと書いてありました。

 《雅号のこと

 たしか大正の末か昭和の初め頃だったかと思う。余市町で教員をしていた時のことである。ある夏のこと、消防番屋の二階で俳句会があり、兄の裸人と連れだって出席した。
 その時、主催者から「あなたの雅号は……」と聞かれた。ところが、私はその時まで雅号というものを持っていなかったのである。突然の質問だったので一寸困ったが、少し考えて「草人」としておいて下さい、と答えてしまったのである。……私の兄は「裸人」であり私は裸人の弟だから人の一字を貰って「○人」としよう。それい私は礼儀作法もわきまえぬ野人だから「野人」位が適当だ。しかし、野人はあまりムキ出しだから野人と同じ意味で少し雅味のある「草人」でよろしかろう……》

 と付けたそうです。
 
 ならば、状況的にも、やはり山上草人は古田謙二で間違いないでしょう。

 
 数年間は草人を使っていたようですが、青木郭公の句誌「暁雲」に参加する時、他に草人という人がいたので、後から入会した古田が改号し、冬草という号にしたということです。何事にも熱中してしまうので、少し頭を冷やすように、冬という字を使ったとのことです。

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2009年1月23日 (金)

間違い発見

旅に出てアイヌ北斗の歌思ふ こヽがコタンかしみ/゛\と見る

この短歌はずっと並木凡平のものかと思っていましたが、小樽新聞の紙面をみたら、間違っていることに気づきました。
 これは石狩の齋藤輝子の作品でした。

 この歌の後ろに並木凡平の名前があったのですが、凡平はその次の短歌の作者でした。
 修正しておきます。

平取での在所

    
北斗の平取での住所については、情報がいろいろありますが、おおよそ次の二カ所に絞られます。

(1)「忠郎」氏宅。

 大正15年7月。北斗が北海道に戻り、幌別のバチラー八重子に、アイヌの信仰を持っている家庭を紹介して欲しいと頼んだ。(金田一宛・違星北斗書簡)
 平取で、平取教会の岡村神父夫妻に「忠郎」氏を紹介してもらった。(「違星君の平取入村時の思い出」)

 
(2)義経神社下のバチラー八重子が管理する借家。

 もともとブライアント女史の家だったところで、八重子が譲り受け、吉田ハナが管理していた。
  
 で、これは(1)が1926(大正15)年、(2)がおそらく翌年の1927(昭和2)年の住所ではないかとと思います。
 
 北斗は昭和2年に約3ヶ月の空白期間がある。(8月中旬~10月下旬)

 バチラー八重子が平取に異動するのが昭和2年。
 吉田ハナは北斗のことを確かに知っており、「北斗はキリスト教ではアイヌは救えない」と語っているので、確かにいっしょに過ごしたようだが、そうすればやはり昭和2年も北斗は平取に来ている。

有馬氏

「アイヌ史新聞年表『小樽新聞』(大正期II・昭和期I)編」より。

《1926.07.27 「有馬博士一行/アイヌ結核調査」〈8月1日から、日高地方で、北海道帝国大学医学部の有馬博士と助手2名が、「アイヌの結核調査」に当たる予定になっていることが、『小樽新聞』で報じられた。》

 これは、北斗の日記のこの記述と関係しますね。

八月十一日 水曜日

有馬氏帰札、曰く
一、アイヌには指導者の適切なのが出なかった事
二、当面の問題としては経済的発展が第一である事

 これでしょうね。

2008年11月28日 (金)

北斗の姿

 「アイヌ史新聞年表『小樽新聞』(大正期II・昭和期I)編」という本を入手。
 これは、國學院短期大学コミュニティカレッジセンターが刊行しているもので、明治時代からの小樽新聞の中で、アイヌに関する記述を集めた目録の3冊目にあたる本です。
「大正期II・昭和期I編」は、大正11年から昭和5年を収録しています。
 ちょうど、北斗が活躍した頃のものになるので、北斗に関する記載はないかと探してみたら、大変な発見がありました。

1929年(昭和4)年1月30日に、余市の歌人・山上草人の短歌が掲載されています。

  夕陽さす小窓の下に病む北斗ほゝえみもせずじつと見つめる
 
  やせきつた腕よ伸びたひげ面よアイヌになつて死んでくか北斗

  この胸にコロポツクルが躍つてる其奴が肺をけとばすのだ畜生!

  忘恩で目さきの欲ばかりアイヌなんか滅びてしまへと言つてはせきこむ
 

 北斗の闘病末期の姿を映した短歌です。
 
 また、北斗の死後の2月17日には、札幌の上元芳男による短歌が掲載されています。

  風寒い余市の海の浪音に連れて行かれた違星北斗よ

  アイヌだけがもつあの意気と弱さとを胸に抱いて違星は死んだ
 

 3月2日にも、山上草人の北斗に関する短歌が掲載されています。

  遺稿集あんでやらうと来て座せば畳にみる染むだ北斗の体臭

  クレグールくさい日記にのぞかれる彼の想ひはみな歪んでる

  「このシヤモめ」と憤つた後の淋しさを記す日記は読むに耐へない

  金田一京助さんの恩恵に咽ぶ日もあり、いぢらしい男よ

 さらに、3月8日にも余市の山上草人による短歌があります。

  「神なんかいないいない」と頑張った去年の彼の日記がイエスの言葉で閉ぢられてゐる

  凡平の曾ての歌を口ずさみ言ひ寄つた去年の彼を忘れぬ

  シヤモの嬶貰つた奴を罵倒したその日の日記に「淋しい」とある

  ウタリーの叫びをあげた彼の歌碑どこへ建てやうどの歌彫らう

 さらに、幾春別の木芽伸一による「違星北斗君の死をいたむ」と題された短歌

  亡んでくアイヌのひとりの彼もまたさびしく病んで死んでいつたか

  泣きくれる北斗の妻子のおもはれてさびしくきいてる今宵の吹雪よ

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2008年8月12日 (火)

資料再読

北斗の全資料を再読しています。
その中で、いくつか発見がありましたので、書き込んでおきます。

(1)「子供の道話」昭和2年1月号に掲載された北斗の手になる童話「世界の創造とねづみ」について。

このお噺は、「清川猪七翁」からの聞き取ったものですが、この清川猪七翁という名前、どこかで見たことがあると思っていたのですが、この方はジョン・バチラーの助手であった「清川戌七」ではないかと思います。

 清川戌七といえば、「『アイヌの父』ジョン・バチラー翁とその助手としてのアィヌ、私」の中で、ジョン・バチラーや八重子、吉田花子のことを語っている方です。
http://iboshihokuto.cocolog-nifty.com/blog/2004/10/post_ab90.html

この方は、1874(明治7)年生まれですから、この童話が書かれた大正15年には52歳、北斗から見れば「翁」といっても差し支えない年齢だと思います。

 「文献上のエカシとフチ」(札幌テレビ放送)によると、この方は新冠出身、明治22年新冠でジョン・バチラーと出会い、以後その布教を助けたそうです。
 生活地は平取町荷菜ということなので、北斗が平取教会にいたときに出会ったのでしょう。

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