◇資料:図書館

2013年10月 6日 (日)

『北海道及樺太』誌掲載の「北斗星」氏について

 

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 以前、小樽文学館の方から送っていただいた資料に、「新短歌時代」昭和4年3月号がありました。

 この、「新短歌時代」には、村上如月という人の違星北斗の追悼文 が掲載されていたのですが、その裏表紙に気になる記述がありました。

 裏表紙の広告は「北海道及樺太」昭和4年3月号ですが、その内容として、「鰊漁業合同論」という記事の題名があり、著者名は「北斗星」。

 で、これは違星北斗ではないか、ずっと確かめられずにいました。

 「北斗星」の筆名は違星北斗自身、「アイヌの姿」という論文の時にそう名乗っていましたし、「北海道及樺太」は以前は「北海道人」という誌名で、この「北海道人」には北斗は何度も掲載されたことがあります。

 また、この「北海道及樺太」という雑誌の執筆者の中には、並木凡平のように、北斗が深く関わった「新短歌時代」や「小樽新聞」の関係者が多い。

 さらに、テーマが「鰊漁」。北斗の家の稼業です。

 これは、もしかしたら、もしかするかもしれない。

 論文としては「フゴッペ」以来のものが見つかるかもしれない。

 この「北海道及樺太」、図書館や古書店のサイトもざっと調べたのですが、北海道大学の図書館ぐらいにしかない。調べたいが、いま経済的に、とても北海道には行けそうもない。

 先日、そのことをツイッター(@kiyamashina)で、つぶやいたところ、

 なんと、それを見た「ひとみデラックス」さん(「しょたこたママ」さん)が、北大アイヌ先住民研究センターの先生とともに、調べてくださいました。

 ありがたいやら、申し訳ないやらです。

 結論から先にいいますと、

 この「鰊漁業合同論」の著者「北斗星」は違星北斗の手によるものではありませんでした。

 雑誌の中に、「実業家の一時的ペンネーム」という記述がありました。

 違星北斗は決して運動家であっても、実業家ではないので、残念ながら違いますね。

 それから、文体も全然違います。

「違星北斗ではない、赤の他人である」のは間違いないと思います。

 残念だとは思いますが、一つ前にすすむことができました。

 しょたこたママ様、Y先生、ありがとうございました。

 

 

 

2009年4月25日 (土)

歴史地理教育

O先生から教えて頂きました。

歴史地理教育2009年3月号(増刊号)
「まるごと学ぶ北海道 ――アイヌ・歴史・暮らし――」に、「沖縄教育」誌に掲載された違星北斗の未発見文書に関連する記事があるとのことで、取り寄せて読んでみました。

 掲載されている「違星北斗に出会った伊波普猷」(近藤健一郎、全2ページ)によると、

 沖縄県教育会機関誌『沖縄教育』第一四六号(一九二五年六月)にアイヌ青年違星北斗による「ウタリ・クスの先覚者中里徳太郎氏を偲びて」という論考が掲載されている(沖縄県立博物館・美術館所蔵)。この論考は『沖縄教育目次集』(那覇市企画部市史編集室、一九七七年)に掲載されていたものの、雑誌の所蔵が不明であったため原文は知られずにいた。

 なるほど。この「沖縄教育」に関しては、沖縄の図書館の蔵書検索をしてみたりしてたんですが、見つかっていませんでした。あるところには、やっぱりあったんですね。

 北斗の言葉も引用されています。

「アイヌが日本化することを無上の光栄とするは誠に美しい人情であつて真にそうある可きでありますが、それがためにアイヌ自身を卑下するに至つては遺憾千万である。アイヌを卑下しては永遠にアイヌ民族の名を挙げることは出来ない。アイヌ自身が自重して進むことである」

さて。

「歴史地理教育」のこの記事には、一枚の写真が掲載されています。

 キャプションは

《違星と伊波が出会ったアイヌ学会(1925年)において、違星による墨絵に出席者が寄せ書きしたもの。
「伊波普猷」の名も見える(『沖縄教育』)》 
 
 とあり、細長い紙の下の方に囲炉裏端に座っているアイヌ男性の絵があり、上の方に小さくて判読できないですが、寄せ書きがしてあります。

 これは、伊波の「目覚めつつあるアイヌ種族」にも書かれている寄せ書きでしょう。

「目覚めつつあるアイヌ種族」(『伊波普猷全集』より)

《あとで金田一君が違星君は画も中々上手であるといつて、アイヌの風俗をかいた墨絵を二枚程出しましたが、なるほどよく出来てゐました。博文館の岡村千秋氏が、北海道の内務部長に自分の友人がゐるが、この絵に皆で賛を書いたり署名をしたりして、奴におくつてやらうぢやないか、さうしたら、アイヌに対する教育方針を一変するかも知れないから、といつたので、中山氏が真先に筆を走らして、「大正十四年三月十九日第二回東京アイヌ学会ヲ開催シ違星氏ノ講話ヲ聴キ遙ニ在道一万五千ノアイヌ同胞ニ敬意ヲ表ス」と書き一同の署名が終りました。私は所見異所聞違此心同此理同といふ文句を書添へました。(中略)先日博文館の編輯局に寄つた時、違星君の絵に皆で寄せ書きをしたものゝ写真を貰つて来ましたので、一枚送つて上げますから、雑誌の口絵にでもして下さい。》

 ここに出てくるものでしょうね。
 
 掲載されている写真は小さいくてわかりにくいのですが、描かれている絵は、かつて余市の水産博物館でいただいたこの写真の絵とほぼ同じ図案です。(寄せ書きのほうは墨絵なので、すこし感じがちがいますが)。
 こちらの絵には「カムイコニモック(神占)」と書かれていますので、占いの儀式の絵でしょう。北斗がサインをするときの絵のレパートリーの一つなのかもしれません。

(09/04/25)

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2009年1月24日 (土)

新発見資料

道立図書館にて、資料調べ。

新発見あり。

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2005年5月29日 (日)

違星北斗遺稿集

5月29日(日)17時12分28秒

昭和29年に違星北斗の会が発行した「違星北斗遺稿集」の内容を書いておきます。

違星北斗遺稿集昭和29.8.10 印刷

 昭和29.8.15 発行

  発行所

 違星北斗の会

 札幌市北一条西十丁目

 門間清四郎方

北斗を憶う

 彗星の如く現われ

 彗星の如く消え去つた

 違星北斗

 アイヌの石川啄木といわれた

 違星北斗は

 その青春多感の日を

 自己民族の研究と復興のために

 魂も 血も 肉も捧げつくした。

 北斗逝いて二十五年

 その悲しいまでの志は

 永久に地下のものであつて

 よいであろうか。

 彼の中途に於て挫折した志は

 我々今日、日本人の当面する

 民族的課題でもある。

 平等を希い、平和を求むる心

 それは自主と独立よりないことを

 北斗は喝破している。

 北海道の大自然に育まれた

 明治の先覚者内村鑑三も

 我々に自主と独立との

 道を示した。

 平和は何処よりくるか。

 「吾れアイヌ也」と叫んだ

 違星北斗の

 血みどろの生涯は

 我々世代に

 その全身全霊とを以て

 強くよびかける。

 自主と独立とをこそ。

<北斗の肖像写真>

獰猛な

  つら魂を

    よそにして

 弱い

  淋しい

    アイヌの心

      違星北斗

違星北斗年譜

明治三十四年余市に生まる。祖父万次郎はアイヌ最初の留学生として東京芝の増上寺清光院に留学し、後に北海道開拓使の雇員となつた。

 姓の違星は、明治六年祖父に苗字を許され、アイヌにとつて家紋ともいうべきエカシシロシが※であつたので、これをチガイに星「違星」と宛字をしたものという。

 北斗は号で、本名は滝次郎である。一歳。

明治四十一年 尋常小学校に入学。担任の奈良直彌先生に愛せられ、終生その精神的指導と影響を受く。八歳。

大正三年 同上卒業 十四歳。

大正六年 夕張線登川附近に木材人夫として出稼ぎ 十七歳。

大正七年 網走船大誉地に出稼ぎしたが、病を得る。 十八歳。

大正八年 石狩鰊場に漁夫として出稼ぎをしたり、登村に柴刈に働きに出かける。 十九歳。

大正九年 畑を借りて茄子作りする。途中で病気再発。 二十歳。

大正十一年 徴兵検査に甲種合格 二十二歳。

大正十二年 朝里等にて落葉松伐採に従事。病気をする。

  七月 旭川輜重隊に輜重輸卒として入隊

  八月 除隊す。上京を計画するところあつたが、関東震災のため中止。二十三歳。

大正十三年 沿海州に出稼ぎす。二十四歳。

大正十四年 西川光次郎氏及び高見沢氏を頼つて上京。その世話で東京市場協会事務員に就職。

 金田一京助氏、後藤静香氏、松宮春一郎氏等の知遇を受く。 二十五歳。

大正十五年 アイヌとしての自己の地位に深く苦悩し、民族復興の使命を痛感し、十一月飄然として北海道に帰る。 二十六歳。

昭和二年 平取村に英人バチェラー氏の創立せる幼稚園を手伝い乍ら、日傭等の労働によつて生活の資を得、アイヌ研究に従事す。余市の同族青年中里篤治と共にアイヌ青年の修養会たる「茶話笑楽会」を作り、その機関誌として「コタン」創刊号を出す。 二十七歳。

昭和三年 売薬行商に従事。四月発病のため余市の実兄の許に身を寄せ、遂に病床の人となる。郷土研究家である医師山岸礼三氏の好意ある治療を最後まで受ける。

 七月 小樽新聞紙上にて、フゴッペの洞窟中に発見された奇形文字をめぐり、小樽高商教授西田彰三氏とその所見を戦わす。 二十八歳。

昭和四年 一月二十六日永眠。 二十九歳。

昭和五年 五月、余市小学校訓導古田謙二氏により蒐集整理された資料に基づき、希望社より遺稿集「コタン」出版さる。

2~3ページ

<違星青年 金田一京助>

<落葉 古田謙二>

<北斗の歌声 小田邦雄>

4~5ページ

<自撰歌集 北斗帖>

《註 彼の臨終の際、枕頭のボストンバツグの中から出て来た墨書による自撰歌集で、表紙に北斗帖と題されている》

6~7ページ

<コタン吟>

《註 札幌市雫詩社発行の文芸誌「しづく」第三巻第二号(昭和三年四月三日発行となつている)に、違星北斗歌集として掲載されたもの。編集後記には北海道の彗星的歌人として紹介されていることが注目をひく。》

7ページ

<コタン吟補遺>

《註 昭和二年北斗の手になる雑誌「コタン」のコタン吟にあつて「しづく」のコタン吟にもれているものである。》

7~8ページ

<心の日記から>

《註 彼の臨終の際枕頭におかれてあつた昭和二、三、四年にわたる三冊の「心の日記」の中に記されたもの》

8ページ

<俳句 北斗>

<淋しい元気 違星北斗>

8~10ページ

<疑ふべきフゴッペ遺跡(抜粋) 違星北斗>

  読まない文字

  Ekashi shiroshi

  Ekashi shiroshiの系統

  Paroat

 (昭和三年七月小樽新聞に投稿)

10~11ページ

<アイヌの姿 違星北斗>

 

《真の創造的革新は破壊に対する単なる反動から来るものではない―それが現象に現れるや否や、かようなものとして作用するにしても―根源的な体験から来るのである。

 「最も遠いところからのみ革新は来る」―自力を以て疾患に対抗し、或は疾患に転化する、大いなる健康から来るのだ。 ―グンドルフ―》

12ページ

違星北斗歌碑建設趣意書

 違星北斗が逝くなって二十五年になります。ウタリーの最後の光芒のように、彼の短い生の中に鬱勃として湧き上つた感慨と、その悲しいまでの民族の志を口語型のゴツゴツした短歌の中に歌いこめ、歌い上げ、民族の再生と快癒の道をさし示しました。

 彼は英雄でもなければ偉人でもありません。只おのれの生の体験をその内奥からの叫びを真率に歌に託し、歌に支えられて、短い生涯をとぢてしまつた一ウタリーとしての青年であります。

 彼の民俗学的な研究には非常に興味の多い領域を示しているようでありますが、その完成には生活も生命も許しませんでした。もちろん彼の生涯は、ひたすら爆発的な生の燃焼として終始してしまつたのであります。

 今ここに北斗を慕い、北斗を憶う有志の発願によつて、彼の歌碑を、ウタリーの故地日高国平取村二風谷に建設することになりました。どうかこの「遺稿集」を手にせられ、北斗の生涯と志について、いささかでも思知るところある方々のご協力によつて、歌碑建設を実現いたしたく存じますので、よろしくご賛同とご支援をお願いいたす次第でございます。

   昭和二十九年八月十五日

         違星北斗歌碑建設の会

 発起人  石附 忠平   小田 邦雄

      加藤 善徳   鎌塚  扶

      木呂子敏彦   河野 広道

      後藤 静香   更科 源蔵

      田上 義也   古田 謙二

              (五十音順)

   歌碑建設募金計画

1 歌碑設計  田上建築制作事務所 田上 義也

2 工事費予算  七万五千円

3 募  金  一口 二百円 一口以上

4 送金方法

   現金は、札幌市北一西十、門間清四郎方

              違星北斗の会

   振り替えは 北海道僻地教育委員会振替口座小樽四一九〇番宛に願い、通信欄に「北斗歌碑建設基金」と必ず明記して下さい。

<制作者の言葉 田上義也>

<後記 木呂子敏彦> 


6月 1日(水)20時26分10秒

遺稿集フォロー   

 昭和29年に小冊子「違星北斗遺稿集」を発行し、北斗の歌碑建設を計画した「違星北斗の会」の代表、木呂子敏彦先生は、2004年にお亡くなりになられたそうです。合掌。

 この木呂子先生は、帯広市の助役を勤められた人で、北海道賢治の会の代表でもあります。やはり、北斗が好きな人は賢治が好きな人が多いのでしょうか?

(私も好きですが)。

 小冊子「遺稿集」のあとがきによると、木呂子先生もまた、若き日に北斗の作品を読んで感銘を受けたそうで、平取小学校改築の計画に際して、違星北斗のことを思い出し、歌碑による顕彰を思いついたそうです。

たしか違星北斗の日記の中に、二風谷に於て彼の事業計画があり、「平取に浴場一つ欲しいもの金があったら建てたいものを」という歌が、私の追憶の中に切々として湧いてきたのであります。少年の日に北斗の遺稿集を手にし強い感銘を受けた私は、彼の遺志のためにもこの仕事を完成したい。このことから彼の志を顕彰するためにもと、歌碑建設の計画となつた次第です。

 遺稿集の発起人のメンバーもなんだかすごいですね。3つ下の記事にありますが。


 「代表」の「門間清四郎」というのは、実在の人物でしょうか?

 なんだか、検索していると、ドンピシャで「門間清四郎」という地名が宮城県にあるらしくて、それがやたらとひっかかるのですが。

 

 この地名も謎が多そうですが・・・。

 門間清四郎は木呂子先生のペンネームでしょうか? 出身地とか。

 関係ないのかもしれませんが。


 このあたり、木呂子先生の遺稿「鳥の眼みみずの目」を読めば書いてあったりするのかもしれませんが、自費出版本で、入手は困難そうですね。

 北斗がらみの記述があるかもしれませんし、読んでみたい気もします。

2005年5月22日 (日)

余市文教発達史

ヌサマカ? マサマカ?  投稿者: 管理人  投稿日: 5月22日(日)20時27分4秒

 「フゴッペ」に出てくる「ヌサマカ翁」ですが、『余市文教発達史』には「マサマカ」とあります。どっちが正しいのでしょう?


万次郎の東京  投稿者:管理人  投稿日: 5月22日(日)20時58分23秒

『余市文教発達史』によると、明治5年5月21日、余市アイヌ(男6人、女2人)が東京へと出発したそうです。当時万次郎は20歳。

 万次郎は「成績優良で、東京出張所に採択され、開拓史の仕事にたずさわった」とあります。

 「役人」であったというのは、本当だったのでしょうね。(それがそのような「役人」であるかは別として)。


余市文教発達史より  投稿者: 管理人  投稿日: 5月22日(日)21時20分49秒

 余市文教発達史によると、北斗の俳句の師である古田謙二(号・冬草)は

 冬草は、学究的、敬虔な基督教徒として信仰厚く「聖書研究」を常に手許から離さなかったことでも、その人柄が偲ばれる。

 (田坂要人『追憶される人々』より)とあります。

 また、北斗に思想的一大転機を与えた登小学校の校長・島田先生のフルネームが島田弥三郎だということもわかります。

 北斗の主治医、山岸礼三についても

 山岸礼三は東京の旧制第一高等学校を卒業し、明治三十四年(1901)に医師免許を取得、日露戦争での軍医としての活躍が認められ、従五位勳三等を受け、大正九年(一九三四)十二月、余市町内大川町で開院した。気さくな人柄で、困っている人には温い手を差しのべ、名医として慕われた。病院内の一室に、山岸コレクションとよばれる土器、石器を収集し、郷土研究への関心を高めた。

 とあります。漢詩などもよくしたようです。

 この山岸医院は北斗の家のすぐそば、徒歩10秒です。

2005年3月17日 (木)

北斗のラジオ番組!!  

3月17日(木)02時59分45秒

北海道立図書館に、次のような図書があるようです。

『違星北斗 光りを掲げた人々』

著者名 森本 儀一郎/著  出版地 〔東京〕出版者 〔札幌中央放送局〕

出版年 1955  ページ 34p  大きさ 26cm

一般注記 JOIK放送台本 昭和30年3月6日(日)放送 謄写刷

 こ、これは「ラジオドラマ」ではないでしょうか?

 

 それも、昭和30年3月6日(日)に放送された、ということでしょうか!?

 まさか・・・テレビ? と思ったのですが、JOIK・NHK札幌中央放送局でテレビが始まったのは31年だそうですから、やっぱりラジオでしょうね。29年の「違星北斗の会」の『違星北斗遺稿集』発行を受けてのことでしょうか。

 大変だ! 

 日記にも「ラヂオ」云々がありましたが・・・。まさか北斗のラジオドラマがあったとは・・・!

 聴きたい! 

 そして、この台本を見たい!

 この図書館には『違星北斗遺稿集』もあるし、小樽新聞も北海タイムスも、北海道人も志づくも新短歌時代もあるので、ぜひ近いうちに行きたいと思います。

 GWに長期休暇を取って、ついに北海道へ行こうかと画策中。

 北斗ゆかりの余市を歩きたいのと、この札幌の図書館に2、3日籠もりたいというのがあります。



3月26日(土)20時15分33秒

北斗のラジオ番組について、図書館で新聞のラジオ欄を調べてきました。

毎日新聞(東京版)昭和30年3月6日(日)

NHK第一

9:30

「アイヌの解放を叫んだ『違星北斗』西国成男 他」

とあり、番組紹介記事の中に「ききもの」コーナーとして、次のように紹介されています。

「◇光を掲げた人々『違星北斗』(NHK第1前9・30)アイヌの解放のためにコタン(部落)を巡礼して志を説いた若き歌人違星(いぼし)北斗の生涯をドラマ化。彼は明治三十四年生れ。幼少から和人に軽蔑されて反抗したが、大正十四年金田一京助を頼って上京し、それ以来滅びゆくアイヌの生活と文化の紹介に一生を捧げ昭和四年死亡した。郷里に歌碑建設の計画がある。」

 やはり、ラジオドラマだったんですね。

(朝日新聞(東京版)には、紹介はなく、ただし出演者に「若山弦蔵」の名もあります)。

 これはもう、北海道立図書館に行って台本を読むしかありませんね。

 ラジオといえば、

 日記の昭和3年9月3日に

 

 山野鴉八氏から葉書が来た。仙台放送局で来る七日午後七時十分からシシリムカの昔を語るさうだ。自分が広く内地に紹介される日が来ても、ラヂオも聴けぬ病人なのは残念。

とあり、私はこれも北斗が紹介されたのかもしれないと思っていますが、図書館から帰ってから、この昭和3年9月3日のラジオ欄も見てきたらよかったと、激しく後悔してしまいました。


 山野鴉八ではなくて・・・  投稿者:管理人  投稿日: 3月27日(日)23時49分21秒

 北斗が、闘病中の昭和3年9月3日の日記に「山野鴉八氏から葉書が来た。仙台放送局で来る七日午後七時十分からシシリムカの昔を語るさうだ。自分が広く内地に紹介される日が来ても、ラヂオも聴けぬ病人なのは残念。」とある件ですが、図書館で新聞を見てきました。

東京毎日新聞昭和3年9月7日朝刊「ラヂオ欄」

JOHK【仙台】午前一〇、〇〇家庭講座、長沼依山▲午後〇、一〇講談「清水次郎長の内荒神山」神田伯治▲六、〇〇(子供の時間)「公共美談六少年の力」長沼依山▲六、三〇商業講座清水正巳▲七、一〇趣味講座、山野鴉人▲八、〇〇俚謡「水戸名物磯師」外二組水戸市金太ほか▲浪花節「祐天吉松の内孝女の仇討」木村松太郎

とあります。この「七、一〇趣味講座、山野鴉人」が、その番組ですね。

北斗の日記にある「山野鴉八」は「八」ではなくて「人」だということです。

まあ、ささやかな新発見いってもいいでしょうか。

ちなみにこの東京毎日以外も朝日、讀賣を見てきました。讀賣はほとんど同じでしたが朝日は結構略されていました。

あと、忘れてはいけないのは、讀賣には次のような記載がありました。

仙臺HK389.6

 後7、10趣味講座『短歌行脚漫談』山野鴉人

 

 つまり、この山野鴉人さんは短歌関係の人、ということが言えるのではないでしょうか。(検索でも引っかかりませんでしたし、讀賣新聞のCD-ROMなどでも探してみましたがありませんでした。国会図書館にも著作はないようです)。

 ちなみにこの頃の番組は、今のように曜日ごとにバッチリ番組が決まっているわけではないようで、この山野さんも、レギュラーで番組を持っているわけではないようでした。趣味講座という枠の中で喋ったのだと思います。

 この内容というのは今となっては知る術はほとんどないのでしょうけれども、日記にある北斗への葉書の内容によれば、沙流川の昔を語る、ということで、そこで北斗のことを触れた可能性が高い、といえると思います。

 関係ないですが、黎明期のラジオ欄を見てみて、意外だったのは、東京版に全国の放送局(札幌、仙台、東京、名古屋、大阪、広島、福岡)の番組表がすべて載っていたということ。これはチューニングを頑張れば他の局も聴けたということなんでしょうか? 現在でも、例えば大阪でも普通に東京のAM放送局も入りますし。ノイズはありますが。

 あと、全国の局は全て違う番組をしている(生放送だから当然でしょうが)ということ、それに現代でもNHKはそうですが、夕方六時に子供の番組をやるということ。これはやはり六時に家に帰らせようという教育的配慮かもしれませんね。

 まったく関係ないですが。

2005年1月 9日 (日)

文献上のエカシとフチ

1月 9日(日)07時17分28秒

 『エカシとフチ』別冊『文献上のエカシとフチ』(札幌テレビ放送)によると、

 北斗とともに「アイヌ一貫同志会を結成した吉田菊太郎は明治29(1896)年7月生まれ。昭和40(1965)年1月8日没。

 幕別町白人(ちろっと)の生まれ。

 父は村長の吉田庄吉(イトペウク)、母は吉田マツ(アシマッ)

 同じく「アイヌ一貫同志会」の辺泥和郎(ペテ・ワロウ)は明治39(1906)年12月3日生まれ、昭和57(1982)5月22日没

 バチラー八重子の弟向井山雄は明治23(1890)年5月19日生まれ、昭和36(1961)年2月24日没

 能登酉雄は明治6(1873)年石狩町花畔生まれ。明治38年樺太へ、大正4年帰道、江別、浜益を経て昭和4年茨戸に帰る。祖父能登谷円吉(石狩通詞)、祖母ウナカラ、父イワウクテ、母モン。(高倉新一郎の聞き書きは「北海道社会事業」第37号・別刷「能登酉雄談話聞書」、昭和10年)

2005年1月 8日 (土)

浦川太郎吉について  

1月 8日(土)18時42分47秒

 同人誌『コタン』に「自覚への一路」を寄せた浦川太郎吉について

 「エカシとフチ」(札幌テレビ放送株式会社)に、浦川太郎吉の娘さんである

娘さんである松田ノブ子さんの聞き書きが載っています。以下要約。

 松田ノブ子さんの父、浦川太郎吉は明治27年11月10日生まれ、昭和26年7月24日没。

 若い頃から「ウタリを貧乏の中から引き上げようとして一生懸命で、それぞれの家庭を訪問して歩いていた」という。

 家業は農家だが、夏になれば浜に出て、漁師をしたり昆布をとったり、冬になれば山に狩りに行って鹿や熊をとっていた、という。そんな生活の中で、ウタリのことを忘れず、コタンをまわっていた。

 土人学校時代の親友に浦川清という人がいて、この二人がアイヌの将来について語り合ったら話がつきなかった。この清は昭和の初期に亡くなり、松田ノブ子さんもその葬儀に参加した。

 また、おそらく大正時代、浦川太郎吉は東京に行っているといい、その写真も残っていたが、紛失してしまった。東京のどこか、また何をしに行ったかはわからない。

 そのあたりから付き合いがあったのかは不明だが、違星北斗とは文通していたと聞いている。太郎吉はノブ子さんに「アイヌ、アイヌって馬鹿にするけども、かなり昔から目覚めたアイヌの歌人がいた」「たとえアイヌってさげすまれても、病気で苦しみながらでも一生懸命生きて、アイヌのためにって歌を作っている人」と言って随分ほめていたという。

 浦川太郎吉は、コタンの生活向上に努めて、さまざまな活動をしている。
 谷地の開拓や精米所や授産場の建設、さらにはアイヌ給与地問題にも奔走する。荻伏村の村会議員をつとめた。戦争中には、浦川の家には江賀寅三、向井山雄、小川佐助、知里真志保といったアイヌの指導者たちがかわるがわる家に訪れて、アイヌの将来について語り合っていた。
 動物が好きな、心優しい人であったといい、小学校で弁当を持って来れない子供達のために娘のノブ子さんに毎日牛乳を二升持って行かせたという。
 妻は伝承者として有名な浦川タレさん。

2004年12月10日 (金)

F先生

12月10日(金)10時49分39秒

 大学時代から今現在までお世話になっている、F先生に北斗情報を教えていただきました。北斗についての文献が国会図書館、国文学研究資料館にあるそうです。

 郡司正勝「違星北斗遺稿『コタン』 回想の一冊32」 国文学18巻1号 1973年 2

ペ-ジ

小田きよ子「『銀のしずく』知里幸恵著、『コタン』違星北斗著」 朝日ジャ-ナル

26巻13号 1984年

 わざわざ調べていただいて、ありがとうございました。貴重な情報、本当にありがとうございます。探してみたいと思います。


12月20日(月)01時24分19秒

大阪府立図書館に行き、北斗関係の本を何冊か見てきました。

1 大学のF先生に教えて頂いた郡司正勝が北斗について書いた記事(『国文学』1973年)

2 同じく小田きよ子の記事(アサヒジャーナル1984年)

 また後日報告しますが、特に、郡司正勝の記事は大収穫でした。

 郡司正勝は「違星北斗ファン」でした。それもリアルタイムの、北斗ファンなのです。

 昭和5年に出た初版「コタン」を手に入れて、読んで感動し、長じて早稲田の教授になり、四十数年の時をへて、それを思い出の一冊として「文学界」に紹介したのです。

 軍司さんは若いころ、夜空に北斗七星をさがしては、北斗のことを想ったのだそうです。

 とても他人とはおもえません!

 あと、もう一冊重要な文書を閲覧してきたのですが、これについては今はなんといっていいかはわかりません。もうすこし考えようと思います。
 

2004年12月 4日 (土)

藤井貞和、別冊太陽

12月 4日(土)00時49分39秒

 詩人の藤井貞和が、違星北斗について論じているそうです。

 『自由詩学』(思潮社)

 早速あたってみようと思います。

 Amazon:

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4783716102/qid=1102088931/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-8668345-3537859

それから、別冊太陽スペシャル(2004年11月)「先住民 アイヌ民族」の冒頭に、違星北斗の「アイヌの姿」が引用されているそうです。これも要チェック。


別冊太陽『先住民アイヌ民俗』  投稿者: 管理人  投稿日:12月 5日(日)15時56分42秒

 別冊太陽に違星北斗の作品が引用されている、とのことなので購入しました。

 表紙は掛川源一郎撮影・森竹竹市がカムイノミをしている写真。

 なかなかいい本です。

 別冊宝島の「アイヌの本」がありましたが、ああいう感じでしょうか。

 巻末に知里幸恵とバチラー八重子の記事があります。

 さて、肝心の違星北斗の引用ですが、たった一行です。

 「山の名、川の名、村の名を静かに朗咏するときに、そこにはアイヌの声が残った

 「アイヌの姿」の一行を引いて、地名の解説をしています。

 なかなかいい本なんですが、違星北斗度が低いので、私的にはちょっと不満です。

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