違星甚作
違星北斗の父・甚作は1862(文久2)年12月15日余市郡川村(現大川町)生。アイヌ名はセネックル。中里徳太郎の父である徳三の弟で、男児のなかった違星万次郎の養子になる。養父万次郎とは年齢が10歳しか離れていない。
妻ハルとの間に男6人、女2人の子供を得たが、その多くが成人せずに亡くなっている。北斗は甚作40歳の時の子である。
甚作は漁業が生業だったが、若い頃は熊取りの名人だった、という。
大正13年6月、北斗は句誌『にいはり』の句会で「熊の話」の講演をした。北斗は「私の父は鰊をとったり、熊をとったりして居ります」といい、「余市に於ける熊とりの名人」(同)でもあったとも言うとおり、生業は漁業であったが、熊猟も副業として行っていたようである。
この時の講演で語られた「熊取り」が行われた時代は明治末期であった。この「熊取り」でさえ、「こんな時代になると、熊取りなんどといふ痛快なことも段々出来なくなる」(「熊の話」)という理由から、「若い人達に熊取りの実際を見せるために」(「同」)行ったものであった。
甚作はこの熊取りで、熊と素手の取っ組み合いをして大怪我を負うのであるが、その後も懲りずに各地の熊狩りにも出かけているが、すでに普通のアイヌが日常的に熊取りが出来るような時代ではなかった。
若い頃には甚作は「樺太に長く熊捕り生活をし」(「疑ふべきフゴッペの遺跡」)ていたという。明治の中頃までは、少なくとも樺太においては熊狩りで生活出来たということだろうが、北斗が物心ついた頃は甚作は熊の狩猟で生計を立てていたわけではなく、生業はあくまでも漁業であり、北斗も尋常小学校を出て父の漁業を手伝っている。
北斗は「熊の話」で、アイヌの熊に対する考え方を語っている。
アイヌの宗教は多神教であります。一つの木、一つの草、それが皆んな神様であります。そこには絶対平等―――無差別で、階級といったものがありません。(中略)熊をとるといふことは、アイヌ族に非常によろこばれます。熊は人間にとられ、人間に祭られてこそ真の神様になることが出来るのであります。従って、熊をとるといふことが、大変功徳になるのであります。さういふわけでありますから、アイヌは熊をそんなに恐れません。
東京に学び、開拓使の役人になったという祖父万次郎と違い、父甚作は極めて「アイヌらしい」アイヌ、アイヌの伝統を大事にするアイヌであったのだろう。勇敢で、信仰に厚く、人情に厚い「古き良き」アイヌの面影を残していた。
アイヌ文化の象徴とも言える熊取りの名人を父に持つ北斗が、父の語る勇壮な世界、おおらかなアイヌの世界観に影響を受けなかったはずがない。
私の父は熊と闘った為めに、全身に傷跡が一ぱいある。熊とりが家業だったのだ。弓もある、槍もある、タシロ(刄)もある。又鉄砲もある。まだある、熊の頭骨がヌサ(神様を祭る幣帛を立てる場所)にイナホ(木幣)と共に朽ちてゐる。それはもはや昔しをかたる記念なんだ。熊がゐなくなったから……。『人跡未踏の地なし』と迄に開拓されたので安住地と食物とに窮した熊は二三の深山幽邃」の地を名残に残したきり殆ど獲り尽くされたのである。(「熊と熊取の話」)
しかし、アイヌらしいアイヌ、父甚作の活動する世界はすでにこのアイヌモシリ・北海道にはなく、ただ甚作の身体の傷と、熊取りの道具と、熊の頭骨を飾った幣場とが、ただ「昔しをかたる記念」としてのみ、朽ちるにまかされているのであった。
北斗の家には、このような熊と闘った「記念」が残っており、北斗はそれを見ながら育ったのである。これらの記念は、北斗が大人になった大正末期にも残してあったようで、後に東京時代世話になる社会思想家の西川光二郎が余市を訪問した折り(大正13年8月19日)には、これらの宝物を見せている。(『自働道話』大正13年10月号)
北斗は父親から、アイヌであることの誇りを確かに受け取っているに違いない。
北斗の数少ない散文の原稿の中にあって、熊取りに関する作品が2編あり、そのうち「熊の話」は父親と熊とのとっくみあいの格闘の話、「熊と熊取りの話」は、余市の伝説の熊取り、鬼熊与兵衛の話である。また短歌(俳句)の中にも熊のことを詠ったものが十首(二句)ほどあるが、これも250首に満たない彼の句作からすれば、多いと云えるかも知れない。
北斗は昔のアイヌの勇敢さに憧れ、当時のアイヌの弱さを嘆いていた。その強さ、勇敢さを象徴するものこそが、「熊」であり、それと戦う古い時代のアイヌの姿であったのではないかと思う。後の「吾はただアイヌであると自覚して」という北斗の確固たるアイヌとしてのアイデンティティは、あるいは熊と素手で闘うほど勇敢な、アイヌらしいアイヌであった父甚作の影響が大きいのではないだろうか。
そういえば、彼の号の「北斗」とは、北の大地、北海道で一人斗う、という意味にも取れるし、人々に進むべき方角を教える指標であるともとれる。「違星」という珍しい、象徴的で美しい名であると思うが、その由来となった北斗七星は、西洋では「大熊座」として認識されることも多い。そしてこの北斗七星は、西洋だけでなく、アイヌの伝説においても、熊と関係が深いのは注目してもよいかもしれない。
ジョン・バチラーによると、「北極星は「Chinu-Kara-Guru(チヌ・カラ・グル)」と呼ばれ、「先覚者」、「保護者」を意味しています。しかし、その名前は、大熊座の意味にも使われるのです。熊祭りのときに、儀式の中で殺された後、直ちに子熊に与えられるのが「Chinukara Kamui(チヌカラ・カムイ)」(神なる守護者)という名前であることは、とても興味深いことであります。」(『ジョン・バチラー遺稿 わが人生の軌跡』)という。
北斗七星、大熊座、先覚者、保護者。おそらく、北斗はこのような符号をある程度知って、そして「北斗」という号を付けたのだろう。この名前が、熊をカムイとして敬い、またその熊と格闘するアイヌの考え方をも象徴していると考えるべきではないかとおもう。(北斗の号は奈良直弥がつけたとする文書もあるが、だとしても北斗はこの号に特別の愛着を持っていたことは明らかである)。
昭和三年の一月に発表された「熊と熊取の話」の「私の父は熊と闘かった為めに、全身に傷跡が一ぱいある」という文章があるから、それが書かれた時点では甚作は生きていた。
「自働道話」昭和二年八月号に掲載された、西川光二郎への手紙にも父親について書いてある。ここでは北斗の父に対する思いがわかる。
「私が一番苦しめられたことは、親不孝だったことです。私を案じてゐる父の身を考えた時金にもならないことをしてゐる自分」と民族復興の使命に動かされながらも、その活動のために親孝行が出来なかったことを嘆いている。
北斗は、父の生きた時代、アイヌがアイヌらしく生きられた最後の時代に憧憬を持っていた。そして同時に祖父が幼き日に学んだ「モシノシキ」和人の都・東京にも強いあこがれを抱いていた。アイヌと和人、その相対する二つの文化への憧れと尊敬がその後の違星北斗の生涯を決定づけたといってもそれほど間違いではないと思う。
没年は、享年82歳というから、おそらく昭和18年頃であろうと思われる。
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