●大事典 人物

2008年5月14日 (水)

違星ハル

 北斗の母。1871(明治4)年9月余市郡川村(現大川町)生。旧姓は都築。

 甚作との間に8人の子供(男児6人、女児2人)があった。梅太郎は21歳の時、竹次郎(滝次郎=北斗)は31歳の時の子である。この兄弟の構成は戸籍をもとにしたものだが、資料によって人数や名前に差異があるため、いろいろと疑問は残る)。

 ハルのことはほとんど記録が残っていない。北斗の発言および短歌などからわずかにその人柄がしのばれる程度である。

 ハルは若い頃、和人の家で働いていた経験があり、そのために学問の必要性を感じて、瀧次郎をアイヌの学校(いわゆる「土人学校」)ではなく、和人の学校に入れたという。当時、アイヌの子弟は「土人学校」と呼ばれた学校に入れられることが多く、尋常小学校が六年間であるのに対して「土人学校」は四年しかなく、教科も少なく、カリキュラムの面で差がつけられていた。
 北斗は母の強い勧めもあり、和人の尋常小学校に通うことになるのだが、そこで待っていたのは同級生による執拗ないじめであった。

 私は小学生時代同級の誰彼に、さかんに蔑視されて毎日肩身せまい学生々活をしたと云ふ理由は、簡単明瞭『アイヌなるが故に』であった。(「アイヌの姿」)

 北斗は小学生時代のことを、あまりいいようには言わない。北斗は自ら「
小学校六年生をやっと卒業した」(「淋しい元気」)という。

 
アイヌ、アイヌといつて非常に侮蔑され、時偶なぐられることなどもありました。学校にいかないうちは餓鬼大将であつて、和人の子供などをいぢめて得意になつてゐた私は、学校にいつてから急にいくぢなしになつて了ひました。この迫害に堪へかねて、幾度か学校を止めようとしましたが、母の奨励によって、六ヶ年間の苦しい学校生活に堪へることができました。もう高等科へ入る勇気などはとてもありませんでした。(「目覚めつつあるアイヌ種族」伊波普猷)

 実際のところは「高等科に入る勇気」があっても、家庭環境的に難しかったのかも知れない。万次郎と甚作、そして梅太郎という三人の稼ぎ手がいたわけだから、あるいは違星家にも北斗を高等小学校に行かせる余裕はあったのかもしれない。

 しかし、北斗に学問の必要性を説き、励まし続けた母親ハルは、大正の初めごろ、北斗が十二歳ぐらいの頃に亡くなってしまう。(ハルの没年については、早川勝美が「放浪の歌人」の中で大正元年11月11日、41歳としている)。

 母を亡くした北斗は、のちに母のことを偲んで歌を詠んでいる。

  洋服の姿になるも悲しけれ/あの世の母に見せられもせで

  親おもふ心にまさる親心/カツコウ聞いて母はいってた

(『北斗帖』)

  正直が一番偉いと教へた母がなくなって十五年になる

(『志づく』)

 確かに、母ハルの「学問大事」という信念は、北斗に学問という大きな武器を与えた。辛かった尋常小学校での六年間の勉強が、その後の自修のための基礎を付けたのは間違いない。伊波普猷は北斗が持参した同人誌『茶話誌』創刊号の北斗の宣言「アイヌとして」(正確には「アイヌとして 青年諸君に告ぐ」)を読み、「尋常小学校の教育しか受けない者が、あんな文章を書くとはたゞ驚くの外ありません」と、彼の文章力を高く評価している。残念ながら「アイヌとして」は現存しないが、彼の卓抜した文章力はその後の彼の代表的な、不朽の論文「アイヌの姿」を見てもよくわかる。
 「正直が一番偉い」という母の教えが、北斗の正直で実直な性格を育ませたのかも知れない。

 また、北斗は知里幸恵やバチラー八重子を女神のように崇拝しているように見える。このような女性観を持つに至ったのには、やはり思春期前に母を亡くしたという体験によるところが大きいのかもしれない。

 当たり前のことであるが、ハルがなければ違星竹次郎(瀧次郎)は生まれなかったばかりか、歌人としての違星北斗もまた、うまれえなかったのだと思う。

2008年4月29日 (火)

違星甚作

 違星北斗の父・甚作は1862(文久2)年12月15日余市郡川村(現大川町)生。アイヌ名はセネックル。中里徳太郎の父である徳三の弟で、男児のなかった違星万次郎の養子になる。養父万次郎とは年齢が10歳しか離れていない。

 妻ハルとの間に男6人、女2人の子供を得たが、その多くが成人せずに亡くなっている。北斗は甚作40歳の時の子である。

 甚作は漁業が生業だったが、若い頃は熊取りの名人だった、という。

 大正13年6月、北斗は句誌『にいはり』の句会で「熊の話」の講演をした。北斗は「私の父は鰊をとったり、熊をとったりして居ります」といい、「余市に於ける熊とりの名人」(同)でもあったとも言うとおり、生業は漁業であったが、熊猟も副業として行っていたようである。

 この時の講演で語られた「熊取り」が行われた時代は明治末期であった。この「熊取り」でさえ、「こんな時代になると、熊取りなんどといふ痛快なことも段々出来なくなる」(「熊の話」)という理由から、「若い人達に熊取りの実際を見せるために」(「同」)行ったものであった。

 甚作はこの熊取りで、熊と素手の取っ組み合いをして大怪我を負うのであるが、その後も懲りずに各地の熊狩りにも出かけているが、すでに普通のアイヌが日常的に熊取りが出来るような時代ではなかった。

 若い頃には甚作は「樺太に長く熊捕り生活をし」(「疑ふべきフゴッペの遺跡」)ていたという。明治の中頃までは、少なくとも樺太においては熊狩りで生活出来たということだろうが、北斗が物心ついた頃は甚作は熊の狩猟で生計を立てていたわけではなく、生業はあくまでも漁業であり、北斗も尋常小学校を出て父の漁業を手伝っている。

 北斗は「熊の話」で、アイヌの熊に対する考え方を語っている。

 アイヌの宗教は多神教であります。一つの木、一つの草、それが皆んな神様であります。そこには絶対平等―――無差別で、階級といったものがありません。(中略)熊をとるといふことは、アイヌ族に非常によろこばれます。熊は人間にとられ、人間に祭られてこそ真の神様になることが出来るのであります。従って、熊をとるといふことが、大変功徳になるのであります。さういふわけでありますから、アイヌは熊をそんなに恐れません。

 東京に学び、開拓使の役人になったという祖父万次郎と違い、父甚作は極めて「アイヌらしい」アイヌ、アイヌの伝統を大事にするアイヌであったのだろう。勇敢で、信仰に厚く、人情に厚い「古き良き」アイヌの面影を残していた。

 アイヌ文化の象徴とも言える熊取りの名人を父に持つ北斗が、父の語る勇壮な世界、おおらかなアイヌの世界観に影響を受けなかったはずがない。

 私の父は熊と闘った為めに、全身に傷跡が一ぱいある。熊とりが家業だったのだ。弓もある、槍もある、タシロ(刄)もある。又鉄砲もある。まだある、熊の頭骨がヌサ(神様を祭る幣帛を立てる場所)にイナホ(木幣)と共に朽ちてゐる。それはもはや昔しをかたる記念なんだ。熊がゐなくなったから……。『人跡未踏の地なし』と迄に開拓されたので安住地と食物とに窮した熊は二三の深山幽邃」の地を名残に残したきり殆ど獲り尽くされたのである。(「熊と熊取の話」)

 しかし、アイヌらしいアイヌ、父甚作の活動する世界はすでにこのアイヌモシリ・北海道にはなく、ただ甚作の身体の傷と、熊取りの道具と、熊の頭骨を飾った幣場とが、ただ「昔しをかたる記念」としてのみ、朽ちるにまかされているのであった。
 北斗の家には、このような熊と闘った「記念」が残っており、北斗はそれを見ながら育ったのである。これらの記念は、北斗が大人になった大正末期にも残してあったようで、後に東京時代世話になる社会思想家の西川光二郎が余市を訪問した折り(大正13年8月19日)には、これらの宝物を見せている。(『自働道話』大正13年10月号)

北斗は父親から、アイヌであることの誇りを確かに受け取っているに違いない。

北斗の数少ない散文の原稿の中にあって、熊取りに関する作品が2編あり、そのうち「熊の話」は父親と熊とのとっくみあいの格闘の話、「熊と熊取りの話」は、余市の伝説の熊取り、鬼熊与兵衛の話である。また短歌(俳句)の中にも熊のことを詠ったものが十首(二句)ほどあるが、これも250首に満たない彼の句作からすれば、多いと云えるかも知れない。

 北斗は昔のアイヌの勇敢さに憧れ、当時のアイヌの弱さを嘆いていた。その強さ、勇敢さを象徴するものこそが、「熊」であり、それと戦う古い時代のアイヌの姿であったのではないかと思う。後の「吾はただアイヌであると自覚して」という北斗の確固たるアイヌとしてのアイデンティティは、あるいは熊と素手で闘うほど勇敢な、アイヌらしいアイヌであった父甚作の影響が大きいのではないだろうか。

 そういえば、彼の号の「北斗」とは、北の大地、北海道で一人斗う、という意味にも取れるし、人々に進むべき方角を教える指標であるともとれる。「違星」という珍しい、象徴的で美しい名であると思うが、その由来となった北斗七星は、西洋では「大熊座」として認識されることも多い。そしてこの北斗七星は、西洋だけでなく、アイヌの伝説においても、熊と関係が深いのは注目してもよいかもしれない。

 ジョン・バチラーによると、「北極星は「Chinu-Kara-Guru(チヌ・カラ・グル)」と呼ばれ、「先覚者」、「保護者」を意味しています。しかし、その名前は、大熊座の意味にも使われるのです。熊祭りのときに、儀式の中で殺された後、直ちに子熊に与えられるのが「Chinukara Kamui(チヌカラ・カムイ)」(神なる守護者)という名前であることは、とても興味深いことであります。」(『ジョン・バチラー遺稿 わが人生の軌跡』)という。

 北斗七星、大熊座、先覚者、保護者。おそらく、北斗はこのような符号をある程度知って、そして「北斗」という号を付けたのだろう。この名前が、熊をカムイとして敬い、またその熊と格闘するアイヌの考え方をも象徴していると考えるべきではないかとおもう。(北斗の号は奈良直弥がつけたとする文書もあるが、だとしても北斗はこの号に特別の愛着を持っていたことは明らかである)。

 昭和三年の一月に発表された「熊と熊取の話」の「私の父は熊と闘かった為めに、全身に傷跡が一ぱいある」という文章があるから、それが書かれた時点では甚作は生きていた。

 「自働道話」昭和二年八月号に掲載された、西川光二郎への手紙にも父親について書いてある。ここでは北斗の父に対する思いがわかる。

私が一番苦しめられたことは、親不孝だったことです。私を案じてゐる父の身を考えた時金にもならないことをしてゐる自分」と民族復興の使命に動かされながらも、その活動のために親孝行が出来なかったことを嘆いている。

 北斗は、父の生きた時代、アイヌがアイヌらしく生きられた最後の時代に憧憬を持っていた。そして同時に祖父が幼き日に学んだ「モシノシキ」和人の都・東京にも強いあこがれを抱いていた。アイヌと和人、その相対する二つの文化への憧れと尊敬がその後の違星北斗の生涯を決定づけたといってもそれほど間違いではないと思う。

 没年は、享年82歳というから、おそらく昭和18年頃であろうと思われる。

2008年4月21日 (月)

違星万次郎

違星万次郎(いぼし・まんじろう)

 嘉永5(1852)年、余市郡川村番外地に生まれる。アイヌ名(幼名?)ヤリヘ。

 伊古武礼喜(イコンリキ)の子として、後志国余市郡川村番外地(のちの大川町)に生まれる。イソヲクの娘ていと結婚、イソヲクの婿養子となる。

 明治6年、万次郎は「違星」の姓を名乗る。これはアイヌとしては最も早い方であった。

 その頃に至ってからシャモ(和人)並に名字も必要となって来た。明治六年十月に苗字を許されたアイヌが万次郎外12名あった。(中略)万次郎はイソツクイカシへ養子になったのではあるが、実父伊古武礼喜の祖先伝来のエカシシロシがEkashishiroshia

であった。これにチガイに星、『違星』と宛て字を入れて現在のイボシと読み慣らされてしまったのがそも/\違星家である。(「我が家名」)

 エカシシロシ(エカシは翁、シロシは印)とは、和人における家紋のようなもので、代々男子に伝わってゆくものである。女子にはフチシロシ(フチは媼)があり、それらを辿ることにより男系だけでなく女系も辿ることが出来る。この文章によると「違星」はもともとは「チガイボシ」と読ませるつもりだったのだろうが、読みならされ「イボシ」と読まれるようになった。

 私の祖父万次郎は四年前に死亡したが、今より55年前にモシノシキへ行ったのである。今こそ東京と云ふが、アイヌはモシノシキといってゐた。(モシリは国、ノシキは真ン中)。まだ其の頃の事であるから教育も行き渡ってゐない。アイヌの最初の留学生の18名の1人であった。今だったら文化教育とか何々講習生といふものでせう。芝の増上寺清光院とかに居た。祖父は開拓使局の雇員でもあったらしい。ほろよひ機嫌の自慢に「俺は役人であった」と孫共を集めて、モシノシキの思出にふけって語ったものだった。(「我が家名」)
 

 これは1872(明治5)年、北海道開拓使の黒田清隆が東京の芝・増上寺境内に開拓使仮学校(北海道大学の前身)ととともに開設された土人教育所に、アイヌが留学させられたことをさす。その後もアイヌが連れてこられ、最終的には100人を超えたという。選抜されたのは比較的「日本化」されていた石狩、札幌、小樽、余市など日本語の話せるアイヌであった。しかし、一年足らずの間に行方不明、病気、帰郷などで残ったのはわずか5名となり、計画は失敗に終わった。

 その実態や評価がどうあれ、実際に留学をした若き日の万次郎は、その東京の思い出を自慢にしていたようだ。そのまま開拓使の雇員になった万次郎は他の同族より一足先に苗字を名乗ることを許された。

 だが、その後の万次郎の生涯は順風満帆なものであったかどうかはわからない。教育によってアイヌからエリートを輩出し、和人と同化させて皇国の臣民とする明治新政府の計画は頓挫した。

 結局、どの違星万次郎は普通のアイヌとして貧困と差別の中に生きた。それでも若い頃に学んだ文明開化の帝都の思い出話と、開拓使の役人であったということを誇りとして。

 万次郎の没年は、先の「私の祖父万次郎は四年前に死亡したが、今より55年前にモシノシキへ行った」という昭和2年の記述から逆算すると、大正12年~13年ごろのことと考えられる。72~3歳ぐらいだろう

 北斗はおそらくおじいちゃん子であったのだと思う。北斗の小学校時代の通知表が残っているが、そこには保護者として、父甚作ではなく、なぜか祖父万次郎の名前がある。

 ほろ酔いの祖父の語るモシノシキ/東京の思い出が、幼い北斗の心に響かなかったわけはないだろう。帝都・東京は北斗にとっても憧れの場所となっていたのではないかと思う。大正12年、北斗は、上京の計画を立てるが、関東大震災によって断念している。
 違星北斗が実際に上京を果たすのは祖父万次郎の「留学」より約50年後の、大正14年のことである。

2008年4月 4日 (金)

イソヲク(イソツクイカシ)

イソヲク/イソオク(伊曾於久)、イソツクイカシ

 文化7(1810)年生まれ。北斗の祖父・万次郎の養父にあたる。万次郎はイコンリキの実子であったが、イソヲクの娘ていと結婚、イソヲクの家に入る。これがのちの違星家である。

 イソツクイカシは、北斗の「我が家名」における表記だが、他の文書では「イソヲク」もしくは「イソオク」となっており、おそらくこちらが正しい。(イカシ=エカシ、翁の意)

 察するに「小樽新聞」に初出の際、「ヲ」を「ツ」と読み違えた誤植を、希望社版『コタン』が受け継いだものだろう。

 イソヲクの名は「林家文書」の「安政六年ヨイチ御場所蝦夷人名書 控」に見え、役職は「土産取」、年齢49歳、妻「かん」と、娘「てい」(万次郎の母、北斗の祖母)の名も見える。

イコンリキ

イコンリキ(伊古武礼喜)

 文化11(1814)年生。北斗の祖父・万次郎の実父。イコンリキのエカシ・シロシ(下図)が違星家の苗字の由来となった。(「我が家名」

 イコンリキの実子、万次郎はイソヲクの娘ていと結婚(婿養子)になり、イソヲクの家が違星家となった。 

Ekashishiroshia

 

 

 日本の家紋では、「×」は「直違」(すじかい、すじちがい)と呼ばれ(戦国武将の丹羽長秀の家紋がこれにあたる)、また家紋において交差することを「違い」という。同様に「●」は「星」と呼ばれる。この「チガイ」と「ホシ」から違星(チガイボシ)という家名を創り出し、それがイボシと呼び慣らされるようになった。

 イコンリキの名前は『林家文書』の「安政六年ヨイチ御場所蝦夷人名前書 控」(1859年)に見え、「脇乙名」という役職(副首長、副指導者といった立場)、45歳という年齢、家族構成(三男として北斗の祖父・万次郎の幼名「ヤリヘ」の記述あり)が書かれている。 

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