違星ハル
北斗の母。1871(明治4)年9月余市郡川村(現大川町)生。旧姓は都築。
甚作との間に8人の子供(男児6人、女児2人)があった。梅太郎は21歳の時、竹次郎(滝次郎=北斗)は31歳の時の子である。(この兄弟の構成は戸籍をもとにしたものだが、資料によって人数や名前に差異があるため、いろいろと疑問は残る)。
ハルのことはほとんど記録が残っていない。北斗の発言および短歌などからわずかにその人柄がしのばれる程度である。
ハルは若い頃、和人の家で働いていた経験があり、そのために学問の必要性を感じて、瀧次郎をアイヌの学校(いわゆる「土人学校」)ではなく、和人の学校に入れたという。当時、アイヌの子弟は「土人学校」と呼ばれた学校に入れられることが多く、尋常小学校が六年間であるのに対して「土人学校」は四年しかなく、教科も少なく、カリキュラムの面で差がつけられていた。
北斗は母の強い勧めもあり、和人の尋常小学校に通うことになるのだが、そこで待っていたのは同級生による執拗ないじめであった。
私は小学生時代同級の誰彼に、さかんに蔑視されて毎日肩身せまい学生々活をしたと云ふ理由は、簡単明瞭『アイヌなるが故に』であった。(「アイヌの姿」)
北斗は小学生時代のことを、あまりいいようには言わない。北斗は自ら「小学校六年生をやっと卒業した」(「淋しい元気」)という。
アイヌ、アイヌといつて非常に侮蔑され、時偶なぐられることなどもありました。学校にいかないうちは餓鬼大将であつて、和人の子供などをいぢめて得意になつてゐた私は、学校にいつてから急にいくぢなしになつて了ひました。この迫害に堪へかねて、幾度か学校を止めようとしましたが、母の奨励によって、六ヶ年間の苦しい学校生活に堪へることができました。もう高等科へ入る勇気などはとてもありませんでした。(「目覚めつつあるアイヌ種族」伊波普猷)
実際のところは「高等科に入る勇気」があっても、家庭環境的に難しかったのかも知れない。万次郎と甚作、そして梅太郎という三人の稼ぎ手がいたわけだから、あるいは違星家にも北斗を高等小学校に行かせる余裕はあったのかもしれない。
しかし、北斗に学問の必要性を説き、励まし続けた母親ハルは、大正の初めごろ、北斗が十二歳ぐらいの頃に亡くなってしまう。(ハルの没年については、早川勝美が「放浪の歌人」の中で大正元年11月11日、41歳としている)。
母を亡くした北斗は、のちに母のことを偲んで歌を詠んでいる。
洋服の姿になるも悲しけれ/あの世の母に見せられもせで
親おもふ心にまさる親心/カツコウ聞いて母はいってた
(『北斗帖』)
正直が一番偉いと教へた母がなくなって十五年になる
(『志づく』)
確かに、母ハルの「学問大事」という信念は、北斗に学問という大きな武器を与えた。辛かった尋常小学校での六年間の勉強が、その後の自修のための基礎を付けたのは間違いない。伊波普猷は北斗が持参した同人誌『茶話誌』創刊号の北斗の宣言「アイヌとして」(正確には「アイヌとして 青年諸君に告ぐ」)を読み、「尋常小学校の教育しか受けない者が、あんな文章を書くとはたゞ驚くの外ありません」と、彼の文章力を高く評価している。残念ながら「アイヌとして」は現存しないが、彼の卓抜した文章力はその後の彼の代表的な、不朽の論文「アイヌの姿」を見てもよくわかる。
「正直が一番偉い」という母の教えが、北斗の正直で実直な性格を育ませたのかも知れない。
また、北斗は知里幸恵やバチラー八重子を女神のように崇拝しているように見える。このような女性観を持つに至ったのには、やはり思春期前に母を亡くしたという体験によるところが大きいのかもしれない。
当たり前のことであるが、ハルがなければ違星竹次郎(瀧次郎)は生まれなかったばかりか、歌人としての違星北斗もまた、うまれえなかったのだと思う。
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